まやかし
【微エロ注意】かな〜り削っていますが、清く正しい良い子は読んではいけません。
ふくよかな白い腕が男の肩に縋り、不意にぎこちなく硬直した。夫人は悲鳴を噛み殺した。餅菓子の蒸したてにも似た瑞々しく柔らかな身体は、現在は別の男のものだった。幼くして従兄弟に嫁して八年、貞妻と讃えられこの春までは確かに夫君しか知らなかったものを、一体これはどうした事か。瞼の裏を見つめながら、ぼんやりと夫人は考える。
罪悪感に激しく責め貫かれても、胸中で救けを求める名はまた違うのだった。夫君とも触れている男とも。
貴石と貴石のような青年。
夫人の頭の中にあるのは、ただもう、そればかりであった。ふらりとある日やって来た付近の豪商の四男坊は、悩ましげな切れ長の目を伏せて、石を一つ探している、とそう言ったのだ。自分の生涯をかけて探し求めている、唯一の物があるのだと。
なんて可哀想な人なんだろう、と夫人は思った。そういう生き方は不幸だ。身を滅ぼす。
しかし、そのひたむきさに惹かれたのは事実だった。安堵させたい一心で詳細を問い、協力を申し出た。
探し物は紫色の石だった。そのただ一つの石の為に法学校を中途で退学し、家を出て彷徨っているのだと、羽毛に紛う金髪をふわりと振って青年は吐息した。
夫人が馬車から見初めたのも、その稀有な髪だった。
翌日から理由をこじつけて地味な平服で家を飛び出し、街中に金の鳥を探した。青年を見つけた瞬間からはまるで滝のように時間が流れ、実のところ当の夫人も問われれば答えようがない。その日の内に身体を重ねた。有るまじき事だった。
青年の年齢は二十二。奇しくも夫人と同い年であった。彼の泊まる宿の女衆が総じて目を潤ませる程の美貌の持ち主で、街中でもよく女性に付き纏われていた。
しかし自分は違う、と矜持を持って夫人は断言出来る。末席とはいえ己は貴族、学のない平民の女共のように相手の容色ばかりを騒ぎ立てるような、浮ついた心持ちなど微塵も無いのだ、と。
なぜ石を探すのかを問うても、青年は俯いたまま下唇を噛んで答えなかった。その彫刻のような硬質の横顔、外気に晒すのも痛ましげな思い詰めた透茶の瞳。それだけで夫人には充分だった。あの瞳が常と変わらぬ透度で晴れ渡るのなら、もう何をも惜しまない。……既に屋敷も持ち物も抵当に入っていた。夫君は何も知らぬ。
男が何か呻いた。体温が低いくせに量の多い汗は、ひどく油質でぬるぬると滑り、掴み所がない。夫人は眉をひそめた。無表情も相俟って人間離れした気味の悪さがある。
夫人を腕に囲むこの男は玉石商である。異国の生まれだという噂もあるが、貴族間でも評判は良く信頼のある男だったので、よもやこの類の行為を要求されようとは夫人は考えてもいなかった。
検分した幾つかの紫色の貴石の中から夫人が選んだ石は、抵当に入れた物だけでは足りぬほど高価だった。
しかし夫人は迷わなかった。青年の探し物はこれに違いない、と何故かひと目で確信した。古い逸話のある美姫の名が付けられている、親指の爪ほどの大きさの石であった。かの姫君は異民族の跋扈する北端の地を守る勇将、当時の北守将軍と結ばれぬ恋におち、悲嘆の内に若くして病死したのだ。姫君と離れて任地に飛んだ将軍も生涯独身を通している。
夫人はこの一途な昔話に深く同調していた。姫君は王族に連なる貴人だったので、身分差のある武将との仲は認められなかったのだ。
自分もまた同じ悲恋に陥ってしまった、と夫人は歎息した。しかも夫ある身で。このままでは自分も姫君のように、否、姫君よりも重い病を得て儚くなってしまうに違いない。そして青年は一生、夫人を想って生きるのだ。夫人が手に入れた石を大切に携えて……。
青年がこの石をどんなに喜ぶか、考えただけで夫人は身の内が疼いた。この石は本来ならまず青年の手には入らない物なのだ。平民の蓄財は制限されており、いかに裕福であろうとこの石の対価を出すことは出来ないのだから。
此処で見つからないならもっと北へ行こうと思っている、と言って夫人を嘆かせていた青年に、もう何処にも行く必要はないと夫人は心で語りかけた。探し物は此処にある。夫人が横目を離さない、白木の脇卓の上に。
強い風の音が窓を叩き、閨は唐突に静まりかえった。よろめきながらも夫人はすぐに衣服を着ける。玉石商は横目でそれを見ていた。この男は自ら望んでおきながら、終始一向に面白くないと言わんばかりの無表情を崩さなかった。
「石を」と面布の下から夫人は短く促した。再び風が窓を鳴らす。
男は横たわったまま、腕を伸ばして品物を取った。そして、夫人の目には入らぬように低く息を吐いた。
「糞くらえ、だ……」
夫人の無知をいいことに相場の二十倍の値を吹っ掛けた男は、まじまじと石を見つめて首を振った。
どうしても撫でずにはいられない羽毛の柔さの頭髪と、女の夢にしか出て来ないような美貌は、混み合った酒亭で否が応にも人目を引いた。
「宵口から火酒か、兄さんよ」と絡んで来る破落戸に銅銭を放って追払う手並みも慣れたものだ。銭目当てで破落戸どもが次々とやって来るが、青年は心に留める様子も無い。銅銭は金だとも思っていないらしい。
青年は手酌で飲んでいた。酒亭の女達は青年が呼ばぬ限り近付かない。酒姫が色褪せてしまう、と亭主がなるべく傍に寄せないようにするし、彼女達もそのことは自覚せざるを得なかった。青年はこのような対応には慣れているらしく、別段不平を言う様子もなかった。
特に何か悩むでもなくぼんやりと酒を酌んでいるだけなのだが、傍から見ると大層憂わしげに――深い物思いに捕われているように見える。弛まぬ口元。すらりと通った眉。伏せた睫毛の、さむい程の艷。ただ茫洋と下方を向いている眼は、何か深刻な物思いを射ているような印象を周りに与えた。青年はそれを知っていたし、また意識もしていた。
青年の脳裏から離れない存在があった。それは、実は貴石などではなかった。ある男の一対の眼だった。
昨年その男に会うまでは、青年はその見目の良さと四男坊らしい無邪気さとで、両親の一番の寵を五人兄弟の中でも得ていた。もちろん下男下女に至るまで愛され、街の人々にも人気があった。
金にも女にも不自由した事はない。学問は彼にとって重要ではなかったので、これはどうでも良かった。
周囲の世界は予め彼に与えられているかのように思えた。手を伸ばさずとも手に入る。故に青年には、特に欲する物など無かった。
男は春先に一時的に募集する日雇いの中に居た。どこか変わった所があるわけではない、灰鼠色の旅装もくすんだ焦茶の髪もごくありふれた物であるはずなのに、見るからに異質で、背筋の通った立姿からは求道的な匂いすらした。
あの男の、幽鬼のように冷えた眼――。
後に百堂巡りの最中なのだと聞いた。青年の父親は、今どき奇特な事だといたく感心して日給を一割上乗せしたらしかった。青年は、奇妙な奴だ、と思った。
それなりに信心のある家庭で育ったので、神を疑ったことはない。ただ神は人を造り、人を殺す。『目は人を導き 手は人を惑わす 口より吐いて口より喰う』と謳われる存在だ。崇めてどうなるものでもあるまいと思う。そう言うと、
「聡いお子だ」と男は目を細めた。
「分かっているなら何故? 莫迦ばかしいじゃないか、堂巡りなど!」
「……探している……」
吐き捨てるように語気を荒くした青年に、男は苦しげな呟きを向けた。
以前絡まれた、やたらと美辞麗句を連ねて物乞いする旅の老人を思い出して、青年は嘲りも露わに「何を探しているの……正しく生きる道、とかいうやつ?」と笑った。
「いや、妻を……」
その思いもよらぬ内容に面食らって、青年は男の石のように動じない顔を覗き込んだ。
夕の呼笛に遮られ、その日はそれ以上の言葉を聞き出すことは出来なかったが、青年は俄然男に惹かれてしまった。しつこく付き纏い続け、酒に誘い、ついに別れの晩に男を酔わせることに成功した。
妻を探しているのだと、さすがに詳細までは話さなかったが眦を赤くして男は白状した。出産した子を売り払って、妻は消えたらしい。子も探していたが、名付けてもいない赤ん坊だったので、人買いの老婆を取り逃がしてからは全く手掛かりが無いのだと言う。
「それで、奥さんは神殿に居るの?」
「知らない」
「え、でも……」
「居るかもしれないと思って私が勝手に探しているだけだ」
「思い込みだけで何年も無駄にするの? もし百堂巡っても見つからなかったらどうするの?」
男は青年よりかなり年上だったが、話してみると成熟には程遠く、青年の目から見ても多分に脆いところがあった。同時に、その脆さを貫いて繋ぎ止める、張り詰めた天蚕糸のように過敏な意志も。
「それはその時に考える。……巡り会わない方が良いのかもしれない。言い訳など聞きたくない。首吊り死体というのは汚らしいものだ。彼女の目に触れる前に、引き摺り下ろして棄ててしまえばよかったと、夢で見る度にそう思う。でも愛していたのに……何を裏切っても構わなかったのに、あんな物に負けるなんて……。会わない方がきっとお互いの為だ。殺してしまうかもしれない」
青年は驚き呆けた顔をまともに男に向けた。
「何だか矛盾していてよく分からないよ。何があったの? とても物騒に聞こえるけれど……。ねえ、何故探すの? 奥さんは一欠片もあなたの為にはならないじゃないの。探す必要なんて無いじゃないの」
男は例の迫力ある目で青年を見た。狂気があった。荒れた感情ではなく、冷たい、むしろ凪に似た深い泥水のような鬼気が。――引き込まれて沈みたい。この身を与えてもいい。青年はそれまで男色を意識したことなど無かったが、激しく劣情を焦がした。あの目が欲しかった。
詩歌に於いてよく濃霧に例えられる、四弦の大提琴の低音が、その夜を埋めていた。抱えるような格好でぶぅんぶぅんと弾き語る太り肉の女が、その街一番の高級酒亭の名物だった。品の良い調度に囲まれ、玉のようにまろやかに磨かれた艶木の椅子に掛けていると、どこに居てもそうなのだが一層、男は異質に見えた。
典雅な神殿の外壁に、無造作に立てかけられた大鉈を、青年は幼い頃に見て忘れられずにいる。物静かに錆びたそれは、目の前の男に似ていた。
「聡い子よ」
酔いに掠れた低い声。
「聡い子よ。貴方は正しい。……でも、正しいだけだ」
そして男は僅かに破顔した。思いがけない無邪気さだった。
「坊っちゃま、坊っちゃま」
横合いから杯を奪われて、やっと青年は回想から醒めた。
――きっと貴方は、何かを欲したことも、そのために動いたことも無いのだろうな。
「こんな時刻からこんなに過ごされては、お体に毒ですよ」
護衛の男がいつの間にか傍らに立っていた。
そうだ、自分で動いたことなど無かった。唯一欲した男の面影に青年は胸中で答える。この護衛のような人間が常に周りにいて、率先して世話を焼いてくれるのだから。
青年が反射的な笑みを見せて座るよう促すと、精悍な護衛は嬉しそうに隣に腰掛けた。その顔のまま、青年が一人で酒亭に来たことを咎める。「まったく。護衛を撒くのは昔から長けていらっしゃる」と微笑んで。
適当に青年が詫びていると、また銭目当ての破落戸が寄って来た。眼差しだけで一蹴して、護衛の男はふと真顔になった。
「いつまで放浪など続けるお心算なんです? お家の四方の街はもう回りましたでしょう。あまり遠くに行かれると、……旦那様も奥様も心配なさっていますよ」
口では色々言ってはみるが、実家からこれ以上離れる気は青年には無いのだった。渋々、といった態で頷いた。
「それと坊っちゃま。月並みな小言を言わせていただければ……」
「貴族はやめておけ、って言うんでしょ」
あの女は熟れた果実のように簡単に堕ちた。青年にはさしたる感慨も無い。
長い竹箸で青年は肴をつついた。香菜の葉と花の辛味漬けは、緑と淡紅の色美しいものだったが、手を付けていなかったので薄く埃がかかっている。そこに小さな蚊が彷徨い降りた。箸先で甚振ると花の上を踠き回り、やがて動かなくなる。食欲が湧いた。花を摘んで口にすると、美味かった。
こんな時、青年は自分で自分を絞め殺したくなる。少し笑った。
「わかった。あれは捨てるよ。別にどうでも良いから」
護衛の男は複雑な視線を隣席に向けた。青年はしばらくの間、似合わぬ凄惨な笑みで口端を翳らせていた。
空一面の夜雲が急な流れを彼方に向けている。地上にも時折突風が来た。高い露台から森のざわめきを見下ろして、青年は溜息をついた。
丘の上に建つ宿の、小者の果てまで寝静まる深更。盛りを過ぎた夏の風が露台の細い手摺を冷やしている。眼下の暗闇に水音が一筋沈んでいるのは、勾配の奥に川があるせいか。
あの男は何処に居るのだろう。青年は当て所もなく考えた。
男のように探すものが、命がけで執着するものが有れば良いのだと思った。手に入れたいあの目に、少しでも近づけると。
では何を求めると自分に問うた時にふと、母の所持している指輪の貴石を思い出した。彼の目に似通う深刻な美しさを持っていたような気がした。
「……どう、なさったの……?」
それだけの事だ。
自分は間違っているのかも知れない、と石を見るたびに青年はそう思う。その石が逸品であればある程、掴み所の無い感情に身底から狂わされる。
「ねえ、何かおっしゃって。……どうなさったの……?」
貴族の夫人から与えられた親指の爪ほどの大きさの貴石は、正に母親の指輪の石に違いなかった。霧に籠もれるかのような柔らかな紫に、淋しい青色が匂い立つ。人を遣る瀬無い気持ちにさせてしまうその色合いを、幼い頃は飽かずに眺めて女児のようだと笑われた。
流石に、夫人の持ってきた石の方が、母の物より随分と大粒だが。
夜雲の速さを見つめたまま、青年は呟いた。
「……違う、こんなのじゃない」
掠れた叫びを片手で抑えて、夫人は露台に駆け込んだ。未婚の娘を装って下ろした黒髪が風にあられもなく散り乱れた。
取り縋って泣きじゃくる夫人を、青年はただ見ていた。女が取り乱した分だけ心が冷淡になっていくのは不思議なことだった。身を悶えるようにして夫人は、この石を手に入れるべく辿った苦労を語った。
青年は快さすら感じながら、その語り口を遮った。
「所詮、あなたが探す物じゃない。僕が探す物なんだ。頼んだわけでもないのに……」
今度こそ、夫人はまともに叫び声をあげた。隣室の護衛が起きてしまうのではないかと青年は息を呑んだ。
思いがけない力で胸を叩かれて後退り、手摺に腰をぶつけた。呆然として夫人の、貴族にしては品のない子供じみた顔を見下ろす。異常なほどの取り乱しようだった。何か大変な事になったのではないかと青年は身を竦めた。気味の悪さに突き放そうとして、逆に体勢を崩した。夫人の小さな拳がそれを叩く。
ぴゅうと強風に叩かれて露台が一斉に啼いた。声一つ上げずに青年は墜ちた。
双眼を玻璃玉のように見開いて、――夫人もまた声を忘れたようだった。髪が藻のように翻った。
夫人は唇を噛んだ。手の内の石を抱き締めて、夜闇の方に歩を進める。空いている片腕を恐るおそる宙に伸ばした。手摺に、指が届いた。
灼けた鉄に弾かれたかのように、その腕は引き戻された。
見開かれて乾いた目で、夫人は手摺を凝視した。唇を噛み締めたままで、しばらく思案する。今度は石を持つ方の腕を大きく振りかぶった。
止まった。
吹きすさぶ毛髪の中で、その顔がわなわなと震える。それは力無く腕を下ろした一瞬、叩き潰された粘土の像のように酷く歪んだ。
夫人は踵を返し、再び石を抱き締めて扉まで駆けた。途中で、覆いをかけて出来るだけ暗くしてあった明かりに気づき、吹き消した。扉を細く開けて滑り出る。
そして、部屋は空虚な夜闇に戻った。