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太陽の色

 この布は、あの時殺されていた青年の持ち物かもしれなかった。

 月晶石の常夜燈に鮮やかな色の布をかざして、乞食はそれを拾った日を思い起こす。三ヶ月ほど前の冬の最中(さなか)だった。


 その夜は掠れた悲鳴で目が覚めた。塒の間近で迷惑なことだと眉をひそめ、乞食は出来るだけ街路の隅に身を寄せた。目障りと思われれば物のついでに殺されかねない。襤褸切れに深く潜り込み、一切の身動きを止めた。

 私刑も殺人も全くの日常であり、乞食は冷静だった。どうやら都は内乱と呼んでいい状態にあるらしい。王女が追放された等の噂も(かしま)しいが、乞食の身には関係がなく、興味も無かった。

 今はただ、不運な誰かの災いが済むのを待つのみだった。


 聞いたこともない濃い怨嗟の唸りが辺りに響く。乞食は思わず襤褸切れを持ち上げ、路地の奥を見遣った。

 灯火を持った人物を含む四人が俯いて立ち並ぶ中、一人が石畳に座り込んで……否、誰かの上に馬乗りになって、狂ったように剣を突き下ろしていた。


 乞食は元の体勢に戻り、しばらくその怨毒を聞いていた。


 人々が去り厄災の気配が消えると、乞食は起き上がって路地の奥に向かった。寒風が粉雪と血の臭いを吹きつける。彼はその場に立ち尽くした。なぜわざわざ死骸を見に来たのか自分でも分からなかった。

 彼にはどうしても人は殺せなかった。殺せる人間を理解することも出来なかった。今まで暖かく動いていた人間が、こんなふうに無機の沈黙に凍りついて動かなくなることが、とてつもなく恐ろしい。臆病や善性などではなく、もっと本能的なものだった。


 仕えていた貴族の元を追い出されたのも、それが原因だった。命令に従った方が良いのは承知していたが、こればかりはどうにもならなかった。背骨にでも刻まれているかのように。

 一体誰に似たものだろうか。乞食は甚だ不思議であった。

 彼が故郷の親兄弟を放り捨てて探しあてた本当の父親は、仕事を達成出来なかった庶子を一頻り罵ると屋敷から追放し、二度と心を向けなかった。


 血臭に吹かれてぼんやりしていると、足首が冷ややかな何かに撫でられた。

 乞食は悲鳴を裏返した。

 足首に絡んだのが、この布だった。滅多に見ない上等な絹布は水のように滑らかな手触りだった。一瞬で魅せられた乞食は、それを素早く懐に収めて路地を離れた。


 死骸は翌朝大通りに、見せしめのように晒されていた。


 明るい場所で改めて見ると、その布はもぎたての蜜柑の色をしていた。どちらかと言うと春なりの早熟種の色に近い、と乞食は判定した。春の瑞々しさと爽やかな酸味をそのまま染め付けたかのような色は、彼に故郷の山を思い起こさせた。遠い東方の蜜柑の段畑を。

 乞食の境遇には過ぎた、危険なほど身の丈に合わない上物だったが、彼はそれを手放さなかった。普段は卵を守る親鳥のように懐深くに秘していた。

 表に出ずとも、布は垢じみた乞食の持つ唯一の色彩だった。それで充分だった。


 小さな悲鳴と足音が聞こえてきた。またかと乞食は顔を顰め、いつも通り布を懐に隠した。

 季節は冬から初春に進んでいたが、都の混乱は未だ鎮まらない。以前は絶えなかった星見巡礼の歌声も、連夜の剣戟と苦鳴に塗り変わって久しかった。

 なぜこんな事になっているのかと、全く情報の無いままに乞食は首を傾げる。すっかり荒れてしまった神殿の屋根に野草が芽吹いているのを、信心深い彼はひそかに気にしているのだった。


 追われて駆けて来たのは乞食仲間の一人だった。仲間と言っても話したことも無い。過去に幾度か目を合わせただけだが、危害を加えてこない貴重な相手だった。なめし革のようにしなやかな、東方人の痩せ方をしている。もしかしたら同郷なのかもしれなかった。

 目が合った。

 助けることなどしない。それは互いに承知していた。そんな余裕も力も無いのだ。

 乞食は静かに街路樹の陰に身を隠し、追われる男はその横を走り抜けた。追跡者達が嘲笑とともに後に続く。


 乞食の足元には、襟章が一つ残された。

 銀で鷹を形取った精巧なものだった。小さいが細工が見事で威厳すら感じさせる。乞食はそれを拾い上げ、逃げる男の背を見遣った。今まさに追いつかれたところだった。

 追跡者が振り上げたのは剣ではなく、棍棒のようなものだった。

 これは長く苦しむ事になるかもしれない。乞食は俯き溜息を吐いた。名も知らぬ男の為に、せめて一撃で気絶出来る慈悲を神に祈った。


 「何してるのよ! お止めなさい!」


 甲高い少女の声が凶行を咎めた。乞食は顔を上げた。

 不運な逃亡者は一撃での気絶は出来なかったようで、左腕を抱えて蹲っている。

 その横に馬車があった。追跡者達は明らかに腰が引けていた。何か二言三言返したようだが、乞食には聞こえなかった。


 「(わたくし)に逆らおうと言うのね!」


 少女の高らかな癇癪には大いに通力が宿るようだった。追跡者達は暴風に吹かれたように逃げ散った。


 少々小型だが、艶のある木肌の上質な馬車である。菱形の枠に蔓と百合を組み合わせた家紋が浮き彫りにされていた。

 どこの家を示すのか、乞食は知っていたような気がしたが明らかには思い出せなかった。かなりの権門であるのは確かだった。


 護衛であろう青年が二人降りてきて逃亡者を助け起こした。心底関わりたくはなかったが、頭を巡らせた逃亡者が乞食に手を差し出したので仕方なく歩み寄る。

 剣の(つか)に手をやった青年達を極力刺激しないように、乞食は静かに首を振った。


 生還を祝う間柄でもない。差し出された掌に黙って襟章を置いた。


 左腕の負傷などまるで頓着しない仕草で逃亡者は手の内に戻った物を確認し、安堵の息をついた。

 路上で寝起きし、他人の慈悲に縋り、残飯を漁り、殴られ、戯れに狩られるような身の上になろうとも、棄てられない執着はあるのだ。人とは難儀なものだと乞食は思う。


 「それは何? 大切な物なの?」


 容赦の無い好奇の声がかけられた。

 馬車の窓が開いていた。埃よけの薄紗の向こうから少女が瞳を輝かせて覗き込んでいた。十に届かぬ年齢だろうか。生きいきとした高い声にはそぐわない、大人びた(ぬめ)りのある肌をしていた。

 その肌の光沢は些か白過ぎるように乞食には見えた。化粧の気配はまるで無いのに目尻と唇が真赤に潤んでいる。小さくて人形のように可憐だが、どうにも長生きしそうにない不自然な(ひず)みがあった。

 この手の勘はよく当たる。乞食は視線を外した。


 同じ刹那に、護衛達が馬車を庇って立ち塞がった。襟章を持った男がものも言わずに再び逃げ出したのだ。隙のない秀逸な逃走だった。横道へ飛び込み、瞬きの間に遠ざかる後姿を感嘆と共に見送って、乞食は自分も去るべきではないかと考えた。貴族と関わるなど自殺行為だ。


 「まあ、なんと無礼な。退出の許しもなく……」

 「捕らえますか? まだ可能です」

 侍女らしき年嵩の女の声に、護衛の青年が冷静に返す。

 「いらないわ。もう一人居るもの」

 少女が朗らかに乞食の確保を宣告した。護衛の片方が退路に回り込んだ。


 「そこの者、お嬢様のご下問です。早く答えなさい」

 馬車に同乗した侍女が、少女と同じ窓から乞食を見下ろす。ふくよかな愛嬌のある女だった。乞食はちらりと護衛二人の様子を確認して、溜息をついた。よく訓練されている。

 「あれが何かは知らない。今日始めて見た。大事な物かも分からない」

 見るからに大事そうであったが、襟章の来歴を聞かれても答えられないので無難に逃げておくことにした。

 それに執着に確かな理由があるとは限らない。乞食は懐の布を思った。自分の身よりよほど丁重に扱っているが、何がどう大切なのかと聞かれると己も言葉に詰まるだろう。


 少女は煙のような薄紗の向こうで首を傾げた。

 「お友達ではないの?」

 「違うな」

 「親しそうだったけど」

 「話したことも無い」

 「だから助けなかったの?」

 「あんた煩いな」

 侍女が怒りの声を上げて身を乗り出した。馬車が揺れた。護衛が微動だにしないのは、いっそ見事だった。


 まずい事を言ってしまった、と侍女の罵声を聞きながら乞食は反省した。邪魔だ煩い目障りだ臭い消えろ等の言葉は、路上で何もせずにいても日常的に与えられるので、それらが不躾な単語であるという実感をすっかり失くしてしまっていたのだ。

 無教養な乞食が敬語を解さぬのは当たり前なので使わなくても問題ないが、この失言は致命的かもしれない。乞食は少し泣きそうになった。主人である少女が不快げに目をそらすだけで、護衛たちは自分を処分しかねない。


 だが、少女は変わらない好奇を浮かべて乞食を眺めていた。

 「お前正直ね。私にそんな事を言った人は初めて」

 嫌味のない驚きと感心の声が侍女を黙らせる。乞食は命拾いしたようだった。

 「無礼を言ってすまなかった」

 彼は素早く謝罪した。

 「いいわ。新鮮だったもの」

 「あなたは優しいな」

 「そうよ」

 世辞を真正面から肯定されて彼は吹き出しそうになった。

 「狩られる乞食を救おうなど、なかなか出来ない事だ」

 「どうして?誰だって殴られたら痛いじゃない」


 選ばれた一握りの人間にのみ許される無邪気さを、少女は当然のものと考えているようだった。

 それとも自分も子供の頃はそうだったのだろうか。懐の蜜柑色を頼りに乞食は遠い記憶を手繰った。


 「なぜお前は助けなかったの?」

 長らく思い出さずにいた故郷の色は、鮮やか過ぎて息苦しい。

 「出来ないからだ。利益も無い。俺には力も無いし、巻き込まれて死ぬのも阿呆らしい。……あなたみたいに陽の当たる場所で生きてきた人には、分からないかもしれないが」


 突然、少女が奇声を上げた。乞食は驚いて後ずさった。

 爆笑しているのだ。腹を抱えて笑っているらしく、窓の下辺に姿が沈んだ。


 「ああ、駄目、笑わせないで」


 まだ笑い止まないらしく幾度か咳き込む。侍女が乞食を睨み付けながら主人の背を(さす)っていた。


 「私はね、太陽を知らないの。陽の光を浴びてはいけない、と医師に言われているわ。そういう病なんですって。太陽があたると、肌が赤く火傷みたいになって、火脹れが出来て、ひどい時は溶けたようになるの。すごく痛いのよ」

 窓に少女の顔が戻った。笑顔ではあったが、薄紗を隔てていても分かる真赤な目尻が痛々しい。

 あれは炎症か、と乞食は納得した。

 「だから私は太陽を知らないの。私の部屋には陽は入れない。見るのも駄目だってお父様がこの間、窓を全部塞いでしまわれたわ。お散歩もこうして夜ばかり。陽の当たる場所なんて、行ったらきっと死んでしまうわ」


 乞食は再度の失言を悟った。

 謝らねば、と考えはしたが、口より先に身体が動いた。懐から布を引き出して馬車に駆け寄る。

 二方向から護衛の剣が突きつけられた。躊躇せずに布を掲げた。

 頭巾ほどの大きさの厚手の絹布には、それなりの重さがある。小ぶりの蜜柑一つ分ほどの。


 ――誰だって殴られたら痛いじゃない。


 「太陽ってのはこんな色をしている。眩しくて、ぽかぽかしてて、世の中を照らしてくれるんだ。……そして、あなたみたいに正しい」


 乞食は束の間、故郷の山を思った。日当たりの良い斜面を段に整え、果樹を一面に植えた山。収穫の空の下、完熟の色に染まる様がありありと見えた。満ちる香り。実の色艶。手にした時の愛らしい重み。――あの中に詰まっていたのは、生命と生活と幸福の全てではなかったか。


 「あなたに、これをやろう」


 乞食は少女に布を差し出した。乞食の最奥の、故郷の一番美しい箇所を、この少女に持っていてもらいたかった。二度と帰れなくても、手元でこの色を見られなくても構わない。乞食はそう考えた。

 自ら手放すのならそれは素晴らしい幸福だ。失ったのでも奪われたのでもないという事実は、乞食にとって何より貴い宝だった。


 「乞食が、私に物をくれてやるの?」

 口煩い侍女は絶句しているようで静かである。

 「そうだ。面白いだろう?」

 上機嫌に乞食は口角をあげた。久々に表情を動かしたので頬の端が引き攣れたように疼いた。

 初春の夜風に、布の裾が艶やかに靡く。

 「確かに面白いわね。ちょうだい」

 「お嬢様!」


 薄紗を分け広げ、少女は直接手を伸ばした。全ての指先が赤く充血し、右の薬指と小指は半ばで溶けたように欠けている。


 これでいい。この手にこそ相応しい。


 炎症の色濃い掌に、乞食はなめらかな陽の色の布を、そっと握らせた。






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