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【閲覧注意】架空の皮膚病の描写があります。ぶつぶつ苦手な方は回れ右して別のお話を読んで下さいね。

 「おさとうせんべいだよ! きっとだよ!」


 あのかりかりに焦げて甘く香ばしい、皆の大好物。誰かの誕生日か収穫祭の時にしかお目にかかれない、泡のように軽やかなご馳走。しゃくしゃくと喰む事を想像しただけで体の隅まで幸せになってしまうのに、予期せぬ普段の昼下がり、仕事の褒美に内緒でそれを約束されて張り切らない子供がいるだろうか。


 しかし、それがいけなかったのだ。


 自身の腰丈ほどの笹原を踏み分けて、童は見失った村落へ通じる小道を探し回っていた。鼻水と涙でその顔は生まれたての赤ん坊のように真っ赤に濡れていた。このところ秋めいてきた風が、それを一層赤くしている。言いつけられていた木の実を入れる籠は、転んだ拍子にどこかへ失くしてしまっていた。

 恐ろしいことに、陽はとっぷりと暮れていた。


 樹々は(まば)らにしか無い為、鮮黄の斑の入った笹がこの広大な林の表情を決める。昼は陽気で明るいばかりなのに、夜になると見えない悪意に肌がそそけ立つほどの不気味な土地に化けるのだった。

 何かの爪痕のような斑がざわざわと闇に浮かび、風に騒ぐ。

 夜は間違っても踏み込むなと言い聞かされていた。この辺り一帯は特別だった。童は泣きながらくしゃみをした。この笹原のずっと奥には『神さまの大事なお池』があるのだ。近寄ってはならないのだ。しかしもう、どちらが奥なのかを知る由は無かった。


 どこかで猿が悲鳴を上げた。

 びくりと振り向いた童は、彼方に光点を一つ認めた。それはひたすら無言で、動いているのかいないのかも遠すぎて分からなかったが、暖かい色をしていた。

 童は迷わなかった。立ち止まっていると笹原に呑まれてしまう気がした。転がる勢いで駆け出した。






 警笛よりも甲高い獣の声がした。照らし出された沼は美しい虹色を込めて白濁していた。禁忌であるという事を、男はよく承知していた。

 夜の笹原に眠る白い沼を見つけても、光を当ててはならない。その眠りを妨げてはならない。おそろしい(わざわい)が降りかかるのだ。人々は口を揃えてそう噂するが、どんな禍を蒙るのかは誰も知らなかった。語る為に生還した者は一人も居ないのだ。だが、それで良かった。男は全て承知していた。


 このような白い沼がこの笹原には多数有り、みな地下でとある湖――四大神湖の一つ、西の白き湖に繋がっているのだと、人々はまことしやかに語る。地に嵌め込んだ巨大な珠玉のような水面の光沢を見れば、その噂は尤もであると言えた。

 或いは源となる湖など存在せず、この沼の群を総称して湖と呼ぶのだという者もいたが、本当のところは極一部の者しか知るまい。ただ、この辺りに西の大神殿があることは事実だった。


 白い沼水はゆらりとも動かない。名高い貴石のように美しい別称も賛美の詩句も数多あるが、忌名は一つであるという。男もまた灯火を突きつけたまま動かなかった。待ち焦がれた。何かが起こらなければならなかった。ひたむきな目を、(じっ)と据えた。


 落ち窪んだ頬に、ざんばらの髪。垢じみた緑の肩布を羽織った男は旅人か流民に見えなくはなかった。しかしその姿には逃亡者のように陰鬱な鬼気がある。窶れていると表現した方が良さそうな不自然な痩せ方をしていた。厚めの肩布が重荷に見えた。


 ふと、水面の中ほどに波紋がたった。

 ついついと拡がる小波の円が、水際まで着かぬそのうちに。


 ――忌名は一つ。『呵責の獄』というのだ。


 水を裂き、怒号のような勢いで怪が黒く湧き上がった。

 叫ぶ間も無かった。男は目を張り広げ、それを見上げた。常識の倍ほども巨大だったが人間の上半身の形をしていた。

 もうまともな皮膚が見当たらぬ程びっしりと全身に赤黒い吹出物を尖らせている。その先端という先端は全て花弁のように三つに裂けていた。顔も胸もおぼろげにしか判別出来ない。

 症状の進行と共に膨らんで棘壁蝨(だに)のような姿になる、最悪の皮膚病だった。


 男はよく知っていた。誰なのかと問うまでも無かった。目をきつく閉じ、数瞬、息を止めた。

 「神よ……神よ、感謝します……」

 呟いて開けた目はすでに凪いでいた。怪は頭髪の少ない側を男に向け動かない。

 「お前なんだな……?」

 それは確認だった。


 怪は悍ましい腕を振り上げ、水面に叩きつけた。月虹の飛沫が無言で散った。幾度も腕を振り下ろすが、男には笹の葉音しか聞こえない。

 咆哮のかたちに口を開けて仰け反った。やはり声一つしなかった。

 男はその場に崩れ落ちた。届かぬ距離と分かっていても、身を乗り出し、手を伸ばした。

 「苦しいのか?」

 大声で呼びかける。

 「痒いか? 痛いか? ……俺はお前を殺してやれば良かったのか?」

 しかし、それは出来ない事だと、言葉とは裏腹に男には分かっていた。昔も今も彼女を殺すことなど出来るはずもない。

 怪は何も示さず、ひたすら音もなく荒れ狂い続けている。


 ひと目みて惚れたのは、父の若き後妻だった。

 我が父がこの人を選ぶのか、と驚いたほど亡き前妻――つまり男の実母とは皆目似つかぬ、華奢で可憐な女性(ひと)だった。父も狂恋であっただろう。息子より年若い女性を得るために形振りなど構っていられなかったに違いない。傍目で見ている方が気恥ずかしくていたたまれなかった。必死であればあるほど愚かしく、無様で。

 だからかの女性が周りの反対を押し切って嫁いで来た時は、男も正直何かの冗談かと疑った。全く理解出来なかった。思い切って直接問うても、年下の義母は幸福そうに微笑むだけで、一言もその秘密を明かしてはくれなかった。


 分からないからなお惹かれたのかもしれない。一度だけ捕らえて口接けしたことがある。その時ばかりは流石に眉根を翳らせた。


 自分の方が彼女に相応しいと、そう考えるのは当然のように思えた。けれど、彼女の笑みを作って支えているのは父で、それ以外の人間ではあり得なかった。

 灼けつくような苦しみの夜を幾度も身悶えた。

 同じ家の中で父が彼女を抱き、彼女が父に抱かれているのだと考えると、自分がおそろしく惨めな生き物に感じられた。父も彼女も計り知れぬほど憎かった。夜に耐えている間は特に。二人の剥き出しにしているであろう両肩を掴んで、首の付根から縦にめりめりと引き裂いてやりたかった。


 それでも男は家を捨てなかった。義母のあまりの年若さは男を留める一縷の糸であり続けた。

 ただ、その細い糸は強く(つら)く、藻掻けばもがくほど身の内に食い込んで男の呼吸を締め上げる。助けてくれと叫ぶあてもなかった。苦しさに煮詰まった冬のある日、身体がとうとう病に逃げた。


 あの時、幼馴染の女が救ってくれなかったら自分はどうしていただろう。

 男は眼前の怪に穏やかに微笑みかけた。

 見当もつかない問いだった。この女が傍らに居なかったら、などというのは。事情を察していた友人達が危惧したように血生臭い罪でも犯したかもしれない。

 絶対に出来はしない、とこの幼馴染は笑ったが。


 「まったく呆れるね、あんたには」

 農閑期だというのに連日濃い粥を持って、幼馴染は枕辺にやって来た。

 「ずっとそうやって一人で悩んでいたんでしょう? 自分ばっかり追い詰めて、元凶の人たちは幸福なままにしておいて。気付いてる? 昔から、人を傷つけることが絶対に出来ない人なんだよねえ。莫迦みたいに優しいんだから」


 違う、と男は即座に考えた。何も手段を講じなかったのは優しさからではなかった。例え父親を捩じ殺しても、あの女性が自分のものになる事は絶対にない――それを知っていただけだ。病むほどに望んでも報われないという事を。ずるずると諦めきれなかっただけで。


 だが男はその胸中を幼馴染には教えなかった。明らかな誤解に目をつむり、全身で味わった。自分のような意気地なしが幼馴染の目には優しく愛おしく映るのかと戸惑うのは心地良かった。


 「……愛してる。私にしておきなよ」


 その囁きに押されて眦からこぼれた涙は、決して偽りではなかった。

 恋や愛ではない。喜びや感謝とも異なる、安心に似た温かな感情が男を満たし、涙はただただ溢れ続けた。


 翌春に、幼馴染を妻に迎えた。


 正直に言うと、義母への想いが消えたわけではなかった。彼女の為に一生を台無しにしてもいいと、確かにそう心を決めていたのだ。妻への罪悪感と遠慮は勿論あった。

 だが、――男は自分の心を怪しんだ。寄せられる愛情に、人はこんなにも脆いのだと初めて知った。まるで快楽に膝が崩れるように、もう妻に縋らずには生きていくことも出来なくなるのだ。あの温もりと肯定を込めて開かれた従順な肌に溺れてからは。


 その年は暖かく、作物は順調だった。

 空き家を手に入れて独立し、妻と畑を耕し、穀物を植え、菜を植え、家禽を飼い……こんなにも穏やかな幸福の内に毎日は流れて行くのかと、男は新たな生活を呆然と見送った。

 今までとは一変した月日は支柱(ささえ)も無くぐらぐらと揺れる不安な夢に似ていて、いつかは壊れる、いつかは壊れる、という警鐘のようなざわめきが、晴れやかな朝空や夕彩や満目の星々を仰ぐにつけ、男の中で微かに響いた。


 或いは予感の類だったのかもしれない。それはある朝、唐突に現れた。やはり壊れてしまったのだ、と妻の脇腹の発疹帯を見て男は直感した。

 男の住む地方では五日狂いと呼ばれる病だった。病人も家族も、必ず五日の内に気が狂うとされる凶病。


 妻と呼んで半年にも満たない、やっとその身体を覚えてきた頃だった。夜ごと手法を替えて熱心に男を喜ばせてくれた身体は、翌日にはびっしりと赤い吹出物に覆われていた。

 殺してくれ、と狂乱する妻の足元に身を投げて、男は負けぬ勢いで叫んだ。置いて行かないでくれ、見捨てないでくれ、お前が居なければ生きていけないのだ、と。


 妻は諦めたようだった。三日目になると何も言わなくなった。

 身体中が吹出物を乗せてもこもこと腫れてきた。床で身じろぎする度に妻は奇声を上げた。痒みが酷くなってきたらしく、男がどの様に止めても毟るように掻いて血塗れになった。手を押さえれば歯を使うので止める術がなかった。

 昼頃には吹出物の頂きが全て規則正しく三つに裂け、妻は肉色の小花のかたまりのようになっていた。妻も男も、これには共に絶叫した。

 しばらくすると妻は腕を振り上げ、出て行けと声高に喚き始めた。言われるままに男は家を出ようとした。喉を裏返す嘔吐感と、妻の悪夢と血の臭いは耐え難かった。


 妻の姿を極力見ないように壁伝いに戸口を求めている間も、喚声の命令は頻りに背を殴った。それが妻の声で人の言語の形をしている事に男は号泣した。理性がまだ残っているのだ。

 多分妻の目は腫れた瞼に塗り込められて眼裏(まなうら)の闇をしか見ないのだろう。男はそう信じた。あの身体を間近に見て、長く正気を保てる筈はなかった。


 戸板を掴み、引き剥がすような勢いで揺さぶった。両手が力を入れそこねて外れ、爪が欠けた。男はよろめき尻もちをついた。汗と涙と口端から垂れる涎とで、手指は生温く濡れている。戸板が開かないのはその為だと思った。

 衣に両手をなすり付け、男は改めて挑んだ。戸板は僅かも動かなかった。

 二度、拳で打った。耳に馴染みのない固く鈍い音が返った。倍ほども厚い木板を思わせる音だった。


 男は身を翻して窓に飛びついた。水甕の上の小窓には妻に請われて内から布の覆いが被せてある。それを夢中で引き裂くと、その向こうは板だった。男は悲鳴を上げた。

 閉じ込められた。咄嗟には意味が飲み込めないほど思いがけぬ仕打ちだった。


 叫びを聞きつけたらしい妻が苛立った声を上げるのを、意識の隅で男は微かに聞いた。こうして出口を封じておいて妻もろとも焼き払うつもりかも知れない、という着想に一層恐慌した男は、何も考えずに振り向いた。

 妻は足を広げて寝床に座っていた。見るなと一声絶叫した。そして背を丸めて寝間着を捲り、一心不乱に奥を掻きほじり始めた。

 もとより崩れかけていた其処はすぐに血を吹き、体毛と共に十指から溢れた。


 ……ふと我に返ると、男は川沿いの細い道を走っていた。どこをどうして家から逃れたかは全く覚えていなかった。

 足取りが怖いほど軽快で、宙を飛ぶように駆けられる。あまりに軽くて止めることが出来なかった。男は怯えるままに走り続けた。日暮れまでに四つの村を抜けた。

 戻ろうなどという考えは一瞬も起きなかった。さしたる理由もなく旅路を西へ向けた。置き去りにしたものを想いながら。

 そして、此処で、再び会った。

 男には自明のことだった。当たり前だ。病の妻を置いて逃げたのだから。ここまで背負ってきたも同然なのだ。


 怪は依然として激しく両腕をばたつかせている。沼べりの笹を膝下に踏んで、男は静かに見つめていた。

 風が強い。時折の突風が、ざむ、と辺りを(たわ)ませる。


 「苦しいか?許してくれとは言わない。酷いことを、お前にはしたな。俺は最後まで逃げてばかりだ。過去に囚われて、お前に優しい言葉をかけた記憶もない。病からも逃げた。逃げて、逃げて、こんな所まで」


 溜息と共に沼へ身を乗り出し、男は怪を仰いだ。凄まじい勢いで水面を叩いた腕は、振り上げられ、また振り下ろされ、――そして何の音も無い。


 「後悔してる。後悔しているんだ。どうしたらいい。もうどこにも行かない。他の誰も見ない。お前の傍にいる。約束する」


 男は目を瞠り、口を噤んだ。一瞬、沼が明滅したのだ。灯火のせいなどではなかった。荒らされ、際まで波に乱れた水面全体が、不吉な速度で瞬いた。

 しかし、異変はそれきりであった。男は一つ頷き、手を伸ばした。


 「お前には言ったことが無かったな。本当に甘えてばかりだ」

 全く内部(なか)を見せぬ白艶の水面に顔を寄せ、

 「愛してる。……俺を連れて行け」


 男はそっと、波に口接けた。






 芯材の爆ぜる音と共に灯火が消える――。






 童は短い悲鳴を上げた。一瞬灯火の輝きを目にしてしまった分、以前より濃い闇が周囲を塗り潰した。童はその場にへたりこんだ。

 甲虫を思わせる笹の葉擦れの音が身を取り囲む。身動き一つ童は出来なかった。

 灯火の瞬きが見せた光景は童の理解を超えていた。現実であったのかどうかを確かめる気力はなかった。ただ呆然としていた。


 灯火を受けて波打つ沼水は白く、不思議な美しい光沢をうねらせていた。

 誰かが一人、身を乗り出すようにして水際に居た。男だろうと体つきと服装のみで童は推し量った。


 その誰かには頭部が無かった。


 童が息をのむ間もなく、次には腕が、肩が、そして胴から足が、――白水と化して沼になだれ込んだ。大きな波が()り立った。


 童は凍ったように動かず、上天の星明かりを浴びていた。闇に慣れていく目に、やはり白い色が最も早く戻って来る。青白く浮き上がる沼を見つめて、童は自分もあれに喰われてしまうのだと震えた。今にもそれは立ち上がり、白蛇の頭をもたげて童を呑みに跳んで来そうだった。

 童は心中で狂おしく母を呼び、父を呼んだ。笹が鳴る。葉形も斑も見分けられる程に、視界だけは回復していた。


 足音など童には聞こえなかった。童のすぐ左横の笹を分けて、白い衣が通り過ぎた。

 童が叫び声を上げなかったのは喉が乾ききっていたからにすぎない。長く流れる裾が肩をかするほど近かった。


 白き人は細い杖を突きながら、ゆっくりと沼辺を巡った。貝と薄い石板を連ねて作られた杖は、地に下ろされる度にしゃりしゃりと掠れた音をたてる。それは途中で男の荷袋にあたって音色を変えた。

 白き人は身を屈めてそれを拾い上げた。


 そうして慎重に沼を一巡りした後、おもむろに足を止め、口を開いた。

 「そこの者、神の御前に身を隠そう等とは思わぬことです。速やかに参りて、生地を名とを述べなさい」

 童の方に正確に顔を向ける。怯えた童は少し()せた。

 「子供……?」

 白き人は訝しげに呟くと、杖を鳴らして歩み寄った。冷ややかな音色に縫い留められたかのように童は動けない。白き人もそれを当然としているようだった。ゆるやかな歩調だった。


 衣ばかりか髪までもが白い。目を閉じた若い女だった。

 異様なまでの純白の髪は、西白湖に属する巫女の象徴であった。四大神湖の巫女達は他の神殿とは比べ物にならぬほど苛酷な荒行に耐えるのだと、巷説ではひとえに畏怖されている。

 この白髪もその内の一つで、巫女達は伝統の劇薬で定期的に髪の色を抜くのだと言われていた。そしてその痛苦で、ほとんど全ての者が視力を失うのだとも。


 しかし、それは童の知るところではなかった。星々があの恐るべき沼と同じ色で照らし出す姿は、童の目には冷たく、不気味な、――別の世から流れてきた氷の亡霊のように見えた。


 しなやかに泳ぐ仕草で笹を分け、巫女は童の前に膝をついた。童が今まで嗅いだこともない不思議な香りが漂った。此処ではない、どこか遠くを思わせる香であった。

 「なぜ、こんな場所に居るのですか?」

 問う声は柔らかく、小さな肩に置かれた右手は温かかったが、それでも童はびくりと身を震わせた。

 巫女は首を傾げ、唐突に口調を変えた。


 「どうしたね、お前。おっかさんは?」

 童は目を丸くして白い巫女を見つめる。恐れと怯えに強張った体が僅かに緩んだ。巫女は微笑みを向けた。

 「言ってごらん。どうしたね」

 「……おさとうせんべい……」

 「え?」

 すっかり童の声は枯れてしまっている。巫女は腰の水筒に手をやったが、それを外すより早く、

 「おさとうせんべい、つくってくれるって……ないしょだって、だから……」

 堰を切ったように童は泣き出してしまった。巫女は頬に寄りかかってきた笹を払って首を傾げる。

 「……つまり、道に迷ったのかい?」

 しばらくの黙考の末にそう訊いた。童が泣きながら頷く。その頭をそっと撫でで巫女は風下へ顔をそらした。

 数瞬の躊躇――。


 「それで、……何か見た?ここで」

 硬い声が巫女の喉を軋ませた。

 「……何か、怖いものを?」

 顔はそむけられたまま一向に戻らない。しかし、涙で視界を滲ませた童には、それを怪訝に思う余裕もなかった。


 「うん……みたよう」

 巫女は傷を(こら)えるように目を閉じ、口端を噛み締めた。

 「あのね、あのしろいぬまにたべられちゃっているひとがいたよ。どうして? わるいことをしたの? わるいこだとたべられちゃうの?」


 「――いいえ。あれは、望む者にしか哀れみを示さない。……怖がらなくていいからね。さあ、立って。涙をぬぐってあげようね。歩けるかい? ――可哀想に!」

 苦く吐き捨てられた最後の一言に驚いて、童は顔を上げた。ひやりと白い手が、その言通りに涙に濡れた頬を拭いて、童の手を握る。杖を持ったままのもう片方の手で、巫女は男の荷袋をも負った。

 

 「行こう。坊は見たのだから……」

 「うちにかえれるの?」

 巫女は乱暴に背を揺すり、荷紐に絡んだ笹を引き千切った。

 「辛いことがあっても、俯いてはいけない。男の子なんだから気を強く持つんだよ」

 「おうちこっちなの?」

 童の無邪気な問いに巫女はもう応えなかった。小さな手を引き歩き始める。

 「着いたら……何か甘いものを分けてあげようね」

 「はい!」


 杖が鳴る。秋風が吹き抜け、笹葉のざわめきがその後を追った。身動きもせぬ星達が一面に、後先の隔てなく光を敷き広げる。

 沼の横を過ぎながら、巫女は短く呟いた。行く道に神の祝福を求める、巷では旅人に贈られる唱言(となえごと)だった。






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