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最後の恋人

 ぱきぱきかきん――と炭の爆ぜる澄んだ音階の輪唱も、青年の心に触れることは出来ないようだった。館の女主人は唇端で微笑した。修行中の詩音手を自称するこの夢見がちな青年ならば、何か一句あって然るべきであった。常ならば。


 「痛みますか? 医師を呼びましょうか?」


 震える問いに女主人は否定を与える。潤んだ青年の双眸は迷子のように不安と恐怖に揺らめき、それが彼を八弦琵琶を奏している時よりも数段幼く見せていた。

 青年の正確な年齢を思い出そうとして女主人は暫し宙を見据えたが、吐息と共に諦めた。大量の血を失ったせいか思考が重い。十六・七であったように微かに思った。それとも、もう少し上か。


 「薬水を、貰える?」


 意外とまともな発声が出来ることに安堵して女主人は青年に目を向けた。やっぱり痛いんじゃないですか、と彼は拗ねてみせる。女主人は苦笑することで返答を避けた。

 傷は左の脇腹。実を言えば、痛みも熱も今は無かった。ただ氷のような欠落感がその部位にあり、全身がひどく寒い。


 虹色の貝を切絵状に嵌め込んだ影晶石の水差しを卓から取り、真剣な表情で青年は中身を揃いの小杯に注ぐ。終えると息をついて鼻頭と額の汗を拭った。

 寝台の周囲には陶器の火壺が幾つも林立し、炭火で湯が沸かされている。だから室内はかなり暑いのだ、と女主人はやっと悟った。飲ませてもらった薬湯も冷たいのか温かいのか、温度はさっぱり分からなかった。


 門外で刺客にしてやられたのは昨夜だった。

 致命傷であることを女主人は知っていた。医師達は、大丈夫だの何とか致しますだの言うが、彼等の顔は可哀想なほどその台詞を裏切っていた。

 哀れなものだ、と彼女は思う。相手が貴族である限り彼等はそうとしか言い様が無い。不吉な診断は彼等の死をも意味するので、素人目にも分かる嘘をつかざるを得ないのだ。莫迦ばかしい慣例だった。


 刺客は恐ろしく怜悧で、刃物そのもののような手練(てだれ)だった。女主人が即死を免れたのは彼女の護衛達の驚くべき手柄と言わねばならなかった。家人が総出で狩っているが手掛かりも未だらしい。

 しかし女主人はもう刺客には興味がなかった。怨恨にせよ営利にせよ、心当たりが有り過ぎた。


 窓の玻璃の外側では、ここ数日の小止み無い吹雪が威を叫んでいる。女主人は窓と、現在の情人である青年の瀟洒な――今は些か赤らんだ横顔を見比べた。貧者にとっては死に等しい寒波も、この館には決して触れられない。


 自分があまり長生きをしないだろうという自覚が女主人には以前からあった。昔は女怪、今は女傑と呼ばれ、王都において強大な権力を保ち続けるのは、並大抵のことではなかった。殊に二十年前のあの長い政変……女主人は細く息をついて、父親の死とそれに続く五年間を思い出す。彼女は充分に疲れていた。

 この青年にさえ出会わなければ、死は安堵と……いっそ喜びであっただろう。ようやく会いに行けるのだから。女主人は目を閉じる。囀るだけの無力な小鳥のような青年が、彼女の内奥を苦くしていた。


 顔も声も身体も、何一つ似通ったところが無いというのに、この青年は女主人に、記憶の果てで失った一人の男を思い出させる。

 彼女は笑顔を作ろうとした。形になったかどうかは分からなかった。青年が静かに額を撫ででくれているのを感じていた。


 かの長い政変の中、女主人の父親は獄中で死に、彼女は家名とそれに付随する全てのものを引き継ぐ事になった。十六の時だった。母親はとうに亡く、兄弟はいなかった。

 相続後の丸二年ほどは危険過ぎて館に住むことすら出来なかった。悪党として有名な薬商人に気に入られて結託した。薬商人の郊外の別邸に身分を偽って住み込み、信頼出来る家人とのみ連絡を取った。館に置いていた彼女の替玉が三人死ぬ間に、薬商人を師として裏切りを学び、殺人を学び、裏の世界の急所を学んだ。

 人殺しなど僅かな金銭を出せば揉み消すことが出来る時世であった。幾人も手にかけた。家人に命じて間接的に、というなら優に三桁に届くだろう。殺した子供の首に脅文を添えてその家族に送りつけた事もある。彼女が血の臭いを嗅がない日はほとんど一日も無かった。

 生き残るためにはどんな事でもした。自分が当り前の小娘のように男に好かれる事があろうとは、彼女自身想像すらしていなかった。


 しかし、彼に出会った。当時で六歳上の、政変からは洟もかからぬ小貴族だった。いつも明るい春蜜柑色の布を頭に巻いて、口数が多く軽薄で、――でも彼女には底抜けに優しかった。二十年前の今日、寒い粉雪の朝に、見せしめのように大通りに投げ捨てられていた。あのような死に様を晒さなければならない理由など彼には無かった。彼自身には何一つ。


 女主人は無意識の内に乾いた唇を動かした。亡き男が冗談に織り交ぜては悪癖のように口にしていた神の名を、そっと呟く。

 そして(まばた)きをしてふと我に返り、己の行為に呆然とした。他人に数瞬身体を乗っ取られていたかのような虚脱感があった。神を信じたことなど断じて無い。昔も、そして今もだ。しかし、人は歳をとるにつれ神が『必要』になる……記憶に留めたつもりもなかった古い書物の文面は、もしかしたら真実であるのかもしれない。

 信じるわけでも縋るわけでもない。奇跡も救済も期待しない。ただ年月を経て両腕で持ちきれなくなったものを、黙って預かっていて欲しいのだ。


 横目を遣ると、青年は彼女の右手の甲に突っ伏すように眠っていた。そうしていると、更に幼く見えて来る。

 綿のような茶色の癖毛に、つるつるの白い肌、若草色の大きな双眸。全く正反対と言っても良いほど似ていないのに、なぜ手元に置こうなどという気になったものか。重い瞼を合わせぬ為に、女主人は外の風雪に耳をこらした。


 何もかも捧げ尽くすような若い口接けに、すこし、心が動いた。最初はそれだけであった筈なのに。


 政変が落ち着いた後から、数え切れない程の男を囲ったが、どれも遊びだった。かの男に何処か一箇所でも似ている所があれば、それで良かった。彼に向けたのと同じ強さで他の男を愛することなど絶対に有り得ない。女主人は今日まで固く信じていた。


 ――今までに君が殺した人間を半分くれよ。これからも。全部、半分に分けよう。少しは苦しくなくなるだろう?


 そう言って常と変わらぬ明るい笑顔を見せた……彼さえ傍に居てくれるのなら、この身の重荷を全て捨てても生きて行けるのではないかと、そう思った。


 「起きたんですか」

 いつの間に起きたのか、青年が気遣わしげに覗き込んでいる。女主人は出来るだけ笑った。

 「それは、私の台詞」

 「僕は寝ていません」

 「本当に?」

 「寝てませんったら。この状況でどうして眠れるんですか!」


 生真面目に言いつのる青年を女主人は目を細めて眺める。これほどに性格までも似ていないのに、なぜ少しも愛しいという気持ちが減らないのか、心底不思議だった。


 「私は少し寝ていたよ。夢を見ていた。……昔の」

 「昔?」

 「そうだよ。紫衣神官の乱。偽王女の追放。第四政変……この都が一番血生臭かった頃の。……知らないだろうね。あんたは。まだ生まれても、いなかっただろう?」


 青年は女主人の右手を握ったまま無言でいる。


 「何人も殺した。味方も、死なせてしまった。……私が死んだら、詫びを入れなければ……山ほど待ってる。……泣かなくていいよ、私はこんなふうにしか……しかしあんたも、物好きな……どうして、こんな悪党が良いのかね。……もう、泣くのはおやめ」


 女主人は一条の光を見る満ち足りた心地で、青年の涙を眺め続けた。僅かな濁りも知らない新葉の色の瞳から、拭い去られることもなく溢れ落ち、真直に頬を下りていく。

 物語のように生涯他の人を見ずに、亡くした唯一人だけを愛して生き続ける事は、多分不可能なのだろう。もはや悪寒をも認識出来なくなった思考の下で彼女は考えた。人はもっと弱く、もっと広い。


 「貴女は悪党などではありませんよ。自分のしたことを許したことなど無いのでしょう?」


 その語尾が涙で揺れる。女主人は穏やかに微笑んだ。哀れみや慰めは彼女の何より厭うものであったが、不思議と心は波立たなかった。

 青年は身を傾けて女主人を覗き込み、不意に咳き込んだ。


 「――っねがいです。お願いです! 官位も称号も財産も要りません。僕の寿命を半分差し上げますから、生きていて下さい! どんな姿でも、許せなくても、苦しくても!」


 充血した新緑の瞳を女主人は静かに見上げた。この手で生命を断ったり不幸に突き落とした人々には悪いが、おそろしく幸せな一生だと思った。

 本当に人の世は不公平に出来ている。この自分が、こんなに満たされたまま逝こうとしているのだ。やはり自分は最後まで、神などというものを『信じる』ことは出来そうにもない。


 青年の胸に抱かれた右手は、もうぴくりとも動かせなかった。女主人が口接け欲しさに朧気な目線を流すと、それを受けて青年は深く身を屈める。言葉をかけてやりたかったが、彼女の身体に最早そんな余力は無かった。

 足元で炭が爆ぜる、――玻璃を(はじ)くような硬質の響きが舞い散った。


 幸せだった、と、そう思った。






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