溢れる
海面を真紅の炎が這う。音も無く燃え上がる火炎の広がりは、幾つかの箇所で朱金の旋風を巻き上げた。夜空の底が炙られ、光の神秘を失った月がただ呆然と佇んでいる。
星はほとんど見えぬ。星座も物語も夜闇の安らぎも忘れてしまった。此処はそういう場所だ。ずっと永く、ずっと遠くまで、ひたすらに炎だけがある。四大神湖の一つ、南の赤き湖と呼ばれながらも。
隙間なく波と炎の彫刻を施された船縁に繊手を置いて、彼女は海上の炎湖を見つめていた。
必ず日に一度、彼女は独りで甲板に出て神湖と向き合う。雨の日も、嵐の日も。それが信仰に依るものではない事は、仇でも見るかのように強張った眉間からして明らかであった。
動かぬ彼女と揺れる炎を、添の巫女は見つめていた。
いつから目が離せなくなったのかは覚えていない。少なくとも彼女が見習い巫女の仮面をしていた昔は、気にも留めていなかった。
見習いの仮面を卒業し、正規の巫女として勤め始めてからも、彼女には悪い噂も目立った特徴もなかった。冷たく知的に整ってはいるが、眉の間が狭く、目も唇も細い。美貌という程ではなかった。挙措は硬く、苦いほどに酸い果実のような未熟を振りまいているのを、遠目に幾度が見かけた。それだけだ。特に親しくもなかった。
それなのに。目につく頻度は日増しに高くなっていった。気がつけば、滅多に笑わぬ薄茶の瞳を見ていた。潮風と神湖の炎に年々浅黒くなる頬を見ていた。しなやかな裾捌きの上達を見ていた。祭壇に跪く芯の通った姿勢を見ていた。巫女服が形取る、すらりとした腰の線を。一度短く切られてからまた伸びた麦色の髪が、肩周りをこぼれ、控えめな胸の丘陵を艶やかに覆うさまを、見ていた。
ここでは、高位の神官と巫女の派閥が海藻のように絡み、入り乱れ、僅かでも足を取られれば溺れ死ぬ羽目になる。比喩ではなく、水難事故はよく起こった。その死に近い組織を渡り歩く内に、彼女からは少しずつ未熟さの険が削ぎ落とされ、品格ともいうべき孤高の気配が匂うようになっていた。
五年も早く正規の巫女になった自分を軽々と追い越して出世する彼女を、見ていた。添の巫女自身の地位は、低くはないが高くもない。巫女の頂きに立つ九人、一から九の巫女までの、身の周りの世話をする言わば侍女の内の一人である。
南の大神殿は、本殿である巨大船を中心とした五隻からなる船団であり、その運営は巫女に任せられていた。
神官達は、神湖の観測と研究が主な勤めである。
海上に浮かび、日毎に範囲と形を変える炎湖を測定し、その変化を予測し、風向きを読み、祈りに相応しい位置へと船を操る。船の装飾に磨きをかけ、新たな彫刻を施し、火炎の様子から神の機嫌を推し量って、どの装飾を神湖に正対させるべきか日々議論を戦わせる――神官達は神と炎と彫刻にのみ傾注しており、自然、内向きの組織運営は巫女の仕事となった。南方神官長はあくまで神官達の長であって、内の実権は持たない。
その巫女達の意思決定者である九人の巫女の第九席に、彼女は先々月すべり込んでいた。病で辞した第四席の補完で、激しい選抜であったらしく五人の溺死者が波間に浮いた。
炎湖から熱風が吹付け、九の巫女の房飾りの多い装束を煽った。肩から腕、袖口と、段違いの二重の裾に施された長い金色の房が、火花のように後ろに流れる。厳しい表情のまま、ぴんと背筋を伸ばした彼女は、揺るぎない一本の火柱に見えた。
美しい。添の巫女は目を細めてその美に酔った。彼女を貫く何らかの決意が、彼女を際立たせ、孤独にし、いっそ憐れを覚えるほどに彼女を費やして、眩く燃やしている。許されるならばその炎を抱いて、骨も残らぬほどに焼かれてしまいたかった。
さほど離れていない所から、風向きと風速を伝える声が上がる。次いで帆の調整指示。独特の祈るような口調が、甲板から帆柱の高みまで一気に斉唱され、和音となって響いた。神官達だ。
夜風に乗った余韻の行方を追うように、彼女は船縁から一歩離れて風下を振り返った。添の巫女に気付いて僅かに頬を震わせる。
いつまでも彼女を見つめていたかったが、そうもいかないようだ。時間が迫っていた。添の巫女は内心の溜息を堪えて足早に彼女へ歩み寄った。
「会議のお時間です、九の巫女。第十四会議室の用意が整っております」
礼を執りながら言上する。彼女と添の巫女は派閥が違う。これは添の巫女の意思ではなく、南の大神殿に上がる際に伝手を得た神官の絡みであったが、一度組み込まれた派閥はそう変えられるものではなかった。
彼女とは対立傾向にある二の巫女の派閥に、添の巫女は属していた。
「わかったわ。ありがとう」
神湖に向けていた灼けつく気配を一呼吸で覆い隠し、彼女は静かに微笑んだ。若くして地位を上げた人物に特有の青い誇りと自負とが、彼女の笑んだ唇の端に威を刷いている。それは拒絶であった。
上位者の意を汲むべき添の巫女は、しかし彼女の拒絶を黙過した。
「ご案内致します。九の巫女」
彼女の気高い様に酩酊して、自分は少しおかしくなってしまったのだろう。添の巫女はそう考える。自分の胸中に火酒を満たした杯がある気がする。縁に盛り上がる程なみなみと注がれた酒は、九の巫女の姿を見る度、その声を聞く度に、ふるりと慄えて噎せるほどの香気を放ち、添の巫女を息苦しい陶酔に誘うのだった。
もう限界だと思う。後ほんの一滴、ほんの一押しで、自分の心は決壊する……
「そう、あなた、随分と気が利くのね」
彼女の中に仕舞い込まれた先刻の金の炎が、僅かに声音に乗った。間近に突きつけられた敵意に、添の巫女の杯は揺らぎ――こぼれた。
胸中にあふれた温い酒精が、最後の箍を押し流す。
「ありがとうございます。……閣下のお役に立ちます事が、この身の喜びなれば」
くもり無い笑みを浮かべて添の巫女は、再び深く一礼した。
――満ちたる月は 欠けゆくばかり
盛りの花は 散るばかり
杯を過ぎれば 零るるばかりの
限界は 虚しからずや
その奥こそが 真なれば
想いを闇に凝集し
華を殺して実を結び
手指はおろか心臓までも
全てを浸し 染め上げて
変容は 楽しからずや
君がため 縁を越ゆ
あふれた心は歓喜に似ていた。何処かでちらりと聞いた詩歌の続きを思い出そうとして果たせず、添の巫女は首を傾げた。波音が低い耳鳴りのように思考を揺すって止まない。甲板上にいた時よりも、船室に入った後の方が海の音は気に障る。記憶が散るのはその所為かもしれなかった。
神湖周囲の海域では、炎のせいか波のせいか、海鳴りが人の声に似る時がある。大抵は呻きのようであり、焼かれる叫びのようであり、意味を成さない囁きのようであるが、ごく稀に明瞭な言葉となった。
死者の魂が集い、炎湖から神の胃の腑に入る際の最期の一言だとも、神の胃で安らうことを拒まれた魂があげる苦鳴だとも言われているが、未だ定説は無く、神官達の議論は続いていた。過去に事故で亡くなった神官や巫女の声だという説すらあった。
もし自分が死んだら、彼女にどんな言葉をかけるだろう。
第十四会議室で卓上の資料を捲りながら添の巫女は考える。想いの丈の賛美か、激励か。あの麦色の細い眉をきゅっと苦悩に顰めさせる為に、何か酷い言葉を投げるのもいい。
想像の中の彼女の表情に、心からあふれた火酒が添の巫女の下腹を熱く締め上げた。
第十四会議室では、持ち回りで議長となった九の巫女が、初めての議長席に緊張した面持ちで議題を読み上げていた。室内には頂点たる九人の巫女以外に、補佐として同数九人の巫女が卓についていた。添の巫女もその一人である。
補佐は通常、発言も議決もしない。南の大神殿の長い歴史を繙くと、過去に六度だけ、海鳴りの声が議決の際に賛否の言葉を発した事があった。その声は慣例として一票に数えられる為、場合によっては票が並んで、結果が定まらなくなってしまう。補佐の巫女達はその場合にのみ議決に参加するのだ。
任期は頂点の巫女が辞退と背任以外は終身なのに対して、補佐は三年。籤引きでの抽選、とされているが実際は九人の巫女が各々の派閥から選出しているので、もし補佐の巫女達が議決に参加しても結果は変わらない。あくまで形式的な席であった。
とち狂った莫迦な女が、派閥の長を裏切るような命知らずをしない限りは。
ぎいい、と木の軋む長く苦しげな音が響き、船が大きく揺れた。神官達が舵を切ったのだろう。資料に飽いた添の巫女は、足元にぶつかって来た大きな陸亀をこっそりと撫でてやった。大嵐などで食料を載せた連絡船が途絶えた際には非常食替わりになる亀たちは、生きている間の一切の行動が制限されない。会議中だろうが祈祷中だろうが、好きにのしのし歩き回るのだった。
人馴れした大亀は、真っ黒な目を細めて添の巫女に撫でられている。
「だから私は前回の会議で派遣に反対したのです。これ以上の失敗は許されないわ! もっと慎重に……」
「今回の調査が慎重を欠いたとおっしゃいますの?」
「領軍の護衛小隊もついていたのでしょう? それで全滅だなんて」
「まだ全滅したと決まったわけではないのでは?」
「しかし誰一人」
『お母さん、どこ?』
「……誰一人帰還せず、連絡が絶えてもう十日になりますわ。食料が保たないはずです」
『うひゃぴゃ』
上座での会議と海鳴りの声を聞き流して、添の巫女はぼんやりと亀の頭を撫で続けた。すっかり気持ちよくなったのか、亀はもっと撫でろとばかりに頭を掌に押し付けてくる。
神官達の彫刻の練習台にされたらしく、甲羅にはびっしりと様々な模様が彫られていた。新人の手であろうか妙に歪んだ、洗練されていない意匠もある。練習用の木材はここでは常に不足している。仕方のない事だった。
添の巫女は、その中に小さな神瞳の意匠を発見した。不敬極まりない気もするが、極小なので他の模様に紛れていないこともない。作者が溺死しない事を祈るばかりだ。
神瞳は、迷い多き人間を導く神の眼差しを表している。装飾を凝らした目の輪郭のみで表現され、目の中は自然のままの空白であることが定められていた。床、壁、天井ばかりか、匙の先から便器の果てまで彫刻されているこの船に於いて、神瞳は多分唯一の平面だろう。
添の巫女はこの意匠が好きだった。繊細な輪郭と大らかな内側の落差が。何処へなりと行け、と背を押されている気がするのだ。
「失敗が許されないからこそ、再度の調査団の派遣が必要なのでは? 撤退は調査の失敗を認めるも同じでしょう」
九の巫女の発言に、添の巫女は亀から手を離して顔を上げた。落ち着いた低めの声音は、余裕と威厳を意識している力みが微かに透けている。その仄かな緊張が、若々しく張り詰めた強さを演出していた。資料に伏せた薄茶の瞳に理知が光る。今少し経験を積めば、年に似合わぬ風格も手に入るだろう事は明らかだった。
持ち回りとはいえ、議長の発言には一定の敬意が払われる。他の巫女達は吟味するように一時、口を閉じた。
「そうは仰っても、九の巫女、若くて失礼ながら経験の浅い貴女が逸るのは分からなくもないですけれど」
小さな子を宥めるような口調は、添の巫女の所属する派閥の長である二の巫女だった。普段から対立しているだけあって、他から攻撃されないぎりぎりの線で嫌味臭い。
「もうちょっと大人らしい分別をもって、慎重に事を運んでも良いのではなくて? 例えばその遺跡とやらの地上部が被った土を完全に除去して、露出した部分の調査を先に行うとか……」
「地上部の処理はほぼ終了しておりますわ。新しい報告書をよくご覧になって。例の石材ではあるものの、文字や文様もなく、開口部は一箇所のみであると。
この上、表面を調査して何になりましょうか。脅威は内部にありますのに」
二の巫女は老いて萎びた顔を顰めた。敵意にあふれた小さな黄緑の双眸が九の巫女を向く。はくはくと何度か口を開閉させる内に言葉を思いついたらしく、老女はまた喋りだした。とは言っても、同じ主張を表現を変えて繰り返すだけで、議論とは呼び難い膠着を得るばかりなのだが。しかも反論されればされるほど感情的に燃え上がる。
添の巫女は段々と声高になっていく老女の狂騒を聞き流し、亀と目を見合わせた。潤んだような円な瞳は、二の巫女よりよほど思慮深く、賢者めいた静寂に満ちていた。
議題の遺跡は、数箇月前に南の大神殿の知るところとなった古い建造物だった。鄙びた漁村の外れにあり、大人の背丈の五倍ほどもある継ぎ目の見えない透明な石材で造られていた。蓋をされた開口部が一箇所あり、中は海底に向かう長い下りの洞窟状になっている。
神官達はその透明な石材に着目した。他ではついぞ見ぬ特殊な石。極めて淡い海の色に透き通り、内部には奇妙な形の、銀色の小粒が漂う。歪な突起のある巻き貝のような。太った人型を数回捻ったような。
その珍しい石材は、神殿船に蓄えられた文献の一つに記録があった。
南の赤き湖には、炎の噴出口が存在する。それは海面から煙突のように突き出した巨大な円筒で、大抵の場合、炎湖の中心付近に位置する。だが潮や風の加減で稀に炎の端に寄ることがあった。
件の文献は二百二十四年前、嵐でほぼ炎湖から切り離される形となった噴出口に挑んだ、神官の調査隊員が残したものだ。高波が円筒に逆流し、炎の噴出が一時的に止まった為に、かなり近くまで寄ることが出来たらしい。余熱が高く標本を採る事は不可能だったようだが。
その円筒の材質の描写が、似ていたのだ。内部をゆっくりと移動する不可思議な銀粒の形までも。
再び噴出を開始した炎に巻かれ、調査隊は結局半数の焼死者を出した。残りの半数も重度の火傷を負ってその年の内に死ぬ。後に全員が殉死者として名誉ある位階に列せられ、今もなお語り継がれる事となった。
今回の調査員達も、そうなるのかもしれなかった。神官達からは次回の調査を志願する者が殺到しているらしい。
事の始めは、視察に来た貴族を陸まで送って行った神官達が、漁村住民の陳情に行き当たった事だ。古い、由来も用途も分からぬ謎めいた遺跡から、遊んでいた子供の幾人かが帰らないと言う。迎えに行ったその親も。船から降りる機会の少ない神官達は、貴族と共に付き合いよく村人に付いて行き、その遺跡の材質を知って驚倒した。
すぐに南の大神殿に使いが出され、巫女の会議によって調査が決定された。が、陸に残った神官達は使者が往復する数日が待ちきれなかった。巫女は神殿船からの下船を生涯禁じられるので、一行の中に巫女は居ない。神湖関連のことに対しては探究心の塊である神官達を掣肘できる者は、陸には存在しなかった。彼らは勝手に遺跡の中に潜り、消息を絶った。
慌てた神殿側から七人の神官が送られ、領軍から護衛にと寄越された小隊とで、急遽調査団が組まれた。物資を揃え、命綱を結び、連絡を密にとって、慎重と万全を期したはずだった。
それが、十日戻らない。
二の巫女が息切れし、会議は中弛みの様相を帯びてきた。早急に次の調査団を送るべき、という九の巫女を含む積極派が三人、二の巫女を筆頭とする慎重派が四人、どっち付かずが二人。
会議は、南の大神殿の面子と派閥の争いが主で、誰一人として調査に赴く神官達の生命など考慮していなかった。ここでは命はとても軽い。失言一つ、身の処し方一つで簡単に失ってしまう。遺跡の調査のように意味のある死であれば随分と嬉しいだろう、と添の巫女は思う。
室外から入室を求める声がかかった。
「まあ、何かしら。会議中だというのに」
「私が呼んだのですわ」
不満げな二の巫女に構わずに、九の巫女は入室を許した。
「あら香茶ですの」
「これはこれは久しぶりな」
「午後の連絡船で取り寄せましたの」
補佐の巫女を含めた全員に茶杯が行き渡り、最後に卓の中央にささやかな花籠が飾られた。淡紅の百合と色とりどりの姫撫子を、茶葉の香りつけに使われる白い小花が航路の泡のように囲んでいる。海上では生花を見る機会など滅多にない。九の巫女の発案だとしたら、洒落た心遣いと讃えられるべきであった。
「良い香りね。お茶もお花も」
「本当。心がほっとします」
「重要な会議だというのに、こんな気が抜けてしまうような物を。崇高なお勤めを何だと……」
茶杯を手の中で意味もなく回しながら、二の巫女は下唇を引き攣らせていた。賛同者は居なかった。多かれ少なかれ皆、会議を空転させるだけの二の巫女の長舌には辟易していたらしい。そんな雰囲気があった。
「お勤めが大事なものであるからこそ、集中を切らさぬための適度な休息が必要なのでは」
「会議中に集中を切らすなど、弛んでいる証拠よ。終会の時間も遅くなってしまうし、本当に迷惑な采配だわ」
「問題ありません。予定の時間にはきちんと終わらせますので。……さ、皆さま遠慮なくお召し上がりになって。会議は冷めませんわ」
「はは。九のは面白い事を言うね。いただくよ」
笑って軽く茶杯を掲げたのは七の巫女だった。室内は音もなくざわめいた。声を上げたりする未熟者はさすがにいないが、空気が明らかに一変する。
どっち付かずであった七の巫女が、二の巫女と九の巫女が言い合っていたこの場面で、明確に九の巫女を支持した……会議の内容に触れない一言ではあるが、今の発言は暗に議決への賛同を意味している。
票にはならないが神官達は一様に、次回の調査を切望していた。態度を明確にしていないもう一人である四の巫女は、神官長の派閥に買収されているので再調査に流れるだろう。積極派が勝利するはずだ。
心を動かさぬように細心の注意を払いながら、添の巫女は甘い香茶を飲み込んだ。
神官達は神湖の研究という己の命より尊い仕事がある事を誇りに思うあまり、雑事の全てを司る巫女を低く見ている節がある。以前ならば添の巫女は、その心情を理解出来なかっただろう。莫迦ばかしい、と感じたに違いない。しかし今は。
――変容は 楽しからずや
楽しいとも。楽しいに決まっている。
添の巫女は笑みを作ろうと舞い上がる口元を力ずくでねじ伏せて、七の巫女と半瞬、目を見交わした。会議直前、七の巫女に今回の賛同を依頼したのは添の巫女である。二の巫女に知られれば確実に命はないが、それはもうどうでも良い事であった。そんな事よりも、初の議長席に着いたこの会議で九の巫女の意見が通らないなど、彼女の輝かしい歩みの途上にあってはならないのだ。その方が遥かに重要な、尊ぶべき案件であった。
会議の再開を宣言する九の巫女の薄い唇を、添の巫女はうっとりと眺めた。紅をつけないにしても色が淡く、年端もゆかぬ処女のような潔癖がある。純粋なだけでは着けるはずもない高位に着いているために、それが逆に艶めかしい。見れば見るほど酒精のように心に染み入って胸を熱くする。
幼少の頃から、添えの巫女には執着心というものがなかった。懐いていた子猫が居なくなった時も、生まれたばかりの妹が冷たくなっていた時も、何とも思わなかった。両親が段々と不仲になり、激しい口論と暴力の末に母親が家を出ていった日も、別段心が動く事はなかった。周囲の子供達のように異性を好きになる事などあり得なかった。いつか自分が街の男とでも結婚して子を産み育てるなど、完全に想像の埒外だった。
神殿へ拾い上げてくれた街の神官には感謝している。あのまま街で暮らしていたとしても、碌な人生にはならなかっただろうから。
自分の心が動くのは唯一、彼女を想う時だけだ。こんなにも熱く、陶酔し、波打つ。
十日ほど前、添の巫女は一人の神官を手酷く振っていた。己が女性に好かれて止まないと何故か堅固に思い込んでいる男で、ほとんどの巫女を情事に誘った事があるのではないかと噂されていた。過去に二度声をかけられていたが、添の巫女は完全に無視していた。理解出来なかったし関心もなかった。
しかし先日、過去の対応を忘れたのか五年ぶりくらいに再び馴れなれしく誘われ、肩を抱かれた時、添の巫女の心には自分でも戸惑うほどの怒りが沸いた。肩に感じる男の体温が悍ましく、以前のように無心を貫くことは出来なかった。
その神官に何を言ったかは覚えていない。ただ心の儘に拒絶した。二度とこの不快を感じなくて済むように。
だって彼女だけなのだ。自分が触れたいと願うのは。その浅黒い肌を撫で、胸の温みに口接けて、中の心を揺るがしたいと願うのは。他の人間など、ましてあの無節操な、ごみより価値の軽い男の屑など、冗談ではなかった。
力なく逃げる神官を、添の巫女は清々しく見送った。添の巫女にとっては纏わりついたごみを払っただけだったが、この出来事は思いもよらない幸運を引き寄せた。ごみは不躾にも七の巫女にしつこく執心していたらしい。だが添の巫女の拒絶に衝撃を受けた……とされている件の神官は、酷い気鬱を発症して陸の神殿に移される事となった。
七の巫女は大喜びで礼を言ってきた。そんなに衝撃的な発言をした記憶のない添の巫女は内心で首を傾げたが、原因が自分であろうがなかろうがこの状況は利用すべきだと考えた。お礼に何を望むか聞かれて即座に、九の巫女への賛同を依頼した。
七の巫女は鮮やかな緑の瞳を好奇心いっぱいに瞠って、それを了承した。真新しい銅の色に光る、活発な少年を思わせる短髪の持ち主は、しかしやはり思慮深き頂点の巫女の一人だった。七の巫女は依頼を了承はしたものの、二の巫女を侮るなという警告と共に、会議当日までの決断の猶予を添の巫女に与えた。
二の巫女を軽く見ている心算はなかった。怒りっぽく単純そうに見えるが、この伏魔殿で長年生き抜き、出世しているのだ。老女は己の敵を見抜き、それを排斥する手腕にかけては天才的であった。
生命の使い所は、そこで良いのかい?
と、面白そうに七の巫女に聞かれた過日は、迷いがまるで無かったと言えば嘘になる。大きく膨らんだ眼前の死の可能性に、本能的に怯んだ。
しかし、今、自分は変容した。溢れたのだ。この先はもう迷わない。笑うも泣くも歓喜も破滅も、九の巫女の所為。何と心躍る世界だろう。自分の全ては、彼女の所為なのだ。
ばしん、と何かを叩きつける音で添の巫女は我に返った。二の巫女が資料で卓を殴ったのだ。
老女を慇懃にねじ伏せて、採決はすでに終わっていた。再調査が五、反対が四。予想通りだ。添の巫女は、二の巫女に表情を読まれないように神妙に俯いた。
「決定に神のご加護のあらんことを。黙祷」
九の巫女の声と共に全員が目を閉じる。暫し海鳴りを聞くのである。もし海鳴りの声の所為で票が並んでも、今回は九の巫女の意見が通る。万が一の場合は自分の票を翻してでも彼女の勝利の糧となる心算でいたが、どうやら今少し、彼女の為に生きる事が出来そうだ。
『るぅあおうああああああああ』
海鳴りは低く唸るばかり。そっと瞼を開け、添の巫女は議長席を視界に収めた。
九の巫女も薄目を開けていた。七の巫女を訝しげに観察している。会議寸前まで賛同の兆候が無かったからだろう。添の巫女など見てもいない。
――貴女のために 縁を越えた。
次はどうやって彼女に生命を賭けようか。俄然面白くなってきた己の人生に、添の巫女は微かに口端を上げ、炎のように揺らぐ胸中の酩酊に身を委ねた。




