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輪唱

 ――大切な気持ちは全て、この人から教わった。


 墓前に膝をつき、少年は松を思わせる香を焚いた。香皿の上の深緑の塊は、円錐形の先から細い煙を昇らせた。屋外であるので香りは放散し、意識してやっと、微かに感じ取れる程度になってしまう。

 亡くなってから一月半、殊に故人の愛したこの香を少年は連日焚いていた。香は安価な物ではない。通常、墓前に何かを手向ける時には、神殿が売る花の香りを焚き()めた藁片を撒く。

 これは甘えなのだと少年には分かっていた。頭を垂れ、神妙に目を閉じる。香りが増す気がする。


 大切な、唯一の家族であった人のため、と言い訳しても心は誤魔化せなかった。単に自分が、この香りから離れたくないだけなのだ。


 家に残った香はよい金になるのでみな同業者に売ってしまえ、と遺言されていても、これだけは手放さなかった。

 ――この頑是ない幼児のような、弱い気持ちも、この人から教わった物だ。

 少年は大切に、気持ちを胸へ仕舞い込んだ。


 「どうぞ」

 立ち上がり、墓前を背後の老人に譲る。無言で膝を折った老人から顔を逸らして、少年は漠然と墓地に目を遣った。人が祈りを捧げる姿をまじまじと見つめるのは、何だか失礼なような気がした。


 晩春の風は、ここ数日ですっかりと夏めいた匂いを運んでくるようになった。共同墓地を埋め尽くす弔い花は、もう七割がた開花している。

 西陽は知らぬ間に沈んでいた。横雲を染めて広がる淡い紫色の空の下、半ば透き通った弔い花の野原は、消え入りそうに霞んで見える。故人が好みそうな穏やかな春の宵である。


 「両親は亡くなっているんだな?」

 いつの間にか祈りを終えた老人が訊いた。

 「うん」

 「この香料屋が、育ての母親だった、と」

 「うん」

 「両親の墓は?」

 「東の地震で亡くなったんだって。ちょうど地割れのあった辺り。お墓は無いみたい」

 「そうか……」


 快い夕暮れの風が緩やかに流れて過ぎる。小壺を伏せたような形の花が一斉に揺れ、弔い花特有の柔らかな音色が鳴り渡った。


 「孤児院暮らし、って事は他に身寄りはないんだな?……儂以外」

 「うん、多分ね」


 ろろん、るろろん。

 土鈴に似た音が、(さざなみ)のように辺りを輪唱して回る。どんなに数が多くても決して賑やかには聞こえない、不思議な音色だと少年は思う。まるで故人のようだ。どんなに大笑いしても、酔って饒舌になっていても、静かに澄んだ印象の消えない女性だった。


 「孤児院は十二才までだから、あと二箇月しか居られないんだ」

 「そうか」


 ――母だと思った事はなかった。

 両親は少年が生まれてすぐに死んだらしく、赤ん坊の頃から彼女の手で育てられて来たというのに、近所の子供達が母親にするように、無遠慮に甘える事も、反発する事も出来なかった。

 物心ついた頃にはもう、彼女は慢性的な病のせいで歩行に少々難があった。そのせいか、彼女は少年にとってずっと、支え、守るべき対象であったのだ。


 少年は艶のある白木の墓標を撫でる。故人との距離は周囲の親子と比べれば少し遠かったかもしれない。けれど大好きで、髪ひとすじまで特別で、胸が痛むほどに大切な家族だった。


 「お前さん、儂の家族にならねえか」

 立ち上がりながら老人は振り向いた。

 「顔を見りゃわかる、儂の孫なのは間違いねえ。こんな顔がそうそう転がっていて堪るもんか。そう思うだろ?」

 少年は先刻出会ったばかりの老人を見上げ、大真面目に頷いた。

 「お前さんの父親には、何もしてやれなかった。その代わりという訳でもねえが……ここで会えたのも神のお導きってやつだろ。儂に引き取られて、一緒に来ねえか?」


 老人は手を差し出した。口調の割には……そして先刻市場ですれ違いざまに「おいこら、ちょっと待ちやがれ小童(こわっぱ)」と破落戸さながらに少年の後ろ襟を掴み上げた人物にしては、意外と品のある所作だった。指が長く爪の形が整っていて、皺こそあれど美しい手をしている。

 ここまで来る道すがら、一応は元貴族なのだと冗談めかして言っていたが、もしかしたら本当なのかもしれない。


 少年は心の中で僅かに笑い、差し出された手を取るために一歩を






 りりん、と背後で弔い花の音が澄んだ。






 次いで、りりりりりりりと甲高い音の連なりが、駆ける速さで迫って来る。 


 「やあっ!」


 裂帛の掛け声と共に、二人の間に棒らしき物が振り下ろされた。音をたてて風を裂いた棒先はすぐに跳ね上がり、突きの型に移行する。老人は黒い杖を構えてその突きを捌いた。一撃、二撃、

 「逃げるわよ!」

 三撃目で罅割(ひびわ)れた棒を老人の足元に投げつけて、覆面の襲撃者は振り返った。少年の腕を取って駆け出そうとする。声で相手が分かった少年は、両足に力を入れて連れ去られまいと腰を引いた。


 自分より背が高く、体格が良いとは言え少女である。三つ年上の幼馴染は少年の抵抗につんのめった。

 「ちょっとなにやってるの! 早く逃げて!」

 「何やってるのはこっちの台詞だよ! いきなり攻撃してくるなんて何のつもり」

 「助けに来たに決まってるでしょ! 人攫いに捕まって引き摺られて行った、って八百屋の女将さんが」

 「人攫いじゃないよ!」

 「じゃあ、山賊に間違いないわ! どう見てもこの顔は、この……あれ、よく見たら似てる?」

 「祖父だよ」

 「嘘ぉ、君、親戚いたの?」

 幼馴染は露出した目元に鮮やかな紅を昇らせた。


 「今日偶然会ったんだ。僕も祖父が生きてるなんて知らなかった。……あの、すみません。幼馴染がひどい勘違いをしたようで」

 「も、申し訳ありませんでした!」

 「その前に覆面取りなよ」

 「あ、うん、ごめんなさい。悪い人に攻撃する時は、逆恨みされないように顔を隠しておけ、って言われてて」


 髪と顔の下半分を覆う布をわたわたと外している幼馴染を手伝いながら、少年は横目で老人を観察した。自分を引き取ってくれる気が無くなってしまったのではないかと疑ったのだ。

 しかし老人が唇を吊り上げ、幼馴染が懸念した山賊のように凶悪な表情を浮かべているのを見て、ほっと安堵の息を吐く。


 「はっはっは。構わねえよ、慣れてるしな。しかしまた何と言うか、勇ましい嬢ちゃんだな。いい突きだったぜ」

 「ご両親が街の衛士なんだ。元傭兵で」

 「なるほどな」


 老人は足元の茂みに手を突っ込んだ。弔い花は墓場の花である。りりりん、と鳴る透度の高い音が、ここが騒ぐべき場所ではない事を思い出させた。


 「でも武器がこれじゃあな」

 取り出されたのは柄の折れた箒だった。

 「……何持って来てるの」

 「ち、ちょうど手元に有ったのよ。慌ててたの。だって君、顔の割には弱いんだもの」

 箒を受け取った少女は、空いている方の手でそっと少年の手を握った。覆面を外しても尚、はにかんだような表情は赤い。


 「顔は関係ないだろ」

 声を尖らせた少年は、少女を振り払おうと片手を動かしかけたが、一つ溜息を吐いてそれを止めた。女性を手荒に扱う男は屑中の屑であると故人に刷り込まれているのだった。

 「いや、護身の術くらいは、ちゃんと身に着けておいた方が良いぞ。さっきみたいに、いきなり攻撃されても納得の面構えなんだからな。お前さんも」


 争い事を厭う性質の少年は、渋々と頷いた。身を守る為とは言え他人に武器を向けるのは好かない。血が冷える心地がする。しかし、幼馴染に守られるのはもっと嫌だった。

 少年は黒光りする太い杖を見、それを持つ老人の顔を見上げた。使い込まれた杖は傷だらけで、歴戦の風格を醸し出している。今までに受けた害意を証立てるように。


 老人の顔は、紫を濃くした宵の影にあって、正に血に飢えた山賊にしか見えなかった。狂気に近い眼光を放つ双眸と、大きな荒々しい鷲鼻、残酷に引き攣る厚い唇。

 しかしよく似た顔を持つ少年には分かっていた。その恐ろしげな顔は生まれつきで特に他意はなく、今の老人はむしろ機嫌が良い方なのだと。


 「まあ、お前さんの方が随分とましな顔に見えるがな。実の母親が美人だったのか」

 「それは知らないけど。父さんはこんな感じだったらしいよ。眉一つ動かさずに人を殺せそうな顔してたって。藪蚊も殺せなかったのに」

 「そりゃあ難儀な」

 「だからお祖母さん……実の母さんの母親に嫌われて、殺されてしまったみたい」

 「えっ」

 「おい、本当か」


 少年は俯いて身体を揺らした。腿の半ばまである茂みが柔らかな音を立てて少年を包んだ。

 「そう聞いたよ」

 大人の膝丈ほどもある弔い花は、新たな亡骸を埋葬する時以外は、刈り取りが厳に禁じられている。人も、墓標も、優しい花に埋もれて沈み、

 ――ああ、大切な人はこうやって消えてゆく

心許ないような、哀しい気持ちを少年に抱かせた。


 「実の母さんは、もともと体の弱い人で、僕を産んだ時に亡くなったんだって。父さんは落人で、貴族の血を引く子が欲しくて母さんを犠牲にした、って思われてて……それで怒ったお祖母さんに殺されてしまったみたい。

 僕も殺されそうだったんだけど、地震があって、そのどさくさに紛れてこの人が……」

 「連れて逃げてくれた、ってわけか」

 「うん」


 出来る限りのさり気なさを装って少年は握られた手を外し、墓標についた羽虫を払った。柔く、わずかに湿った幼馴染の温もりが、故人の涼やかな記憶を上塗りしてしまいそうで怖かったのだ。


 しかし少年の顔に、その怯えは欠片も浮かばなかった。日頃から少年は無表情を保つよう努めている。故人の葬儀の時ですら平静な顔をしていたので、少年が金目当てで殺したのではないかと噂が立ち、事態を収拾するために衛士が調べに来たほどに。


 それでも貫いた無表情は少年の自衛の盾だった。表情を動かすと、それがどんな種類のものであれ、この血も涙もない酷薄な顔は一層酷いことになるのだ。


 少年は故人の名が彫られた墓標を見つめた。


 正直、辛い事の方が圧倒的に多い。感情を凍らせて無感動に生きた方がよほど楽だと知っている。それでも心を失わないのは、この人の所為であり、この人のお蔭だった。

 ――この人が、(すが)しい松の香りのする胸に、抱きしめてくれたから。


 「香りのおばさんって、本当のお母さんじゃなかったの? 知らなかったよ」

 幼馴染は呆然と呟いた。

 「僕もずっと知らなかったさ。去年倒れた時に聞いたんだ。もう長くないかもしれないからって。本当の両親の事も」


 実の母親ではないと告げられても、すんなりと納得するばかりだった。平然と頷いた事に珍しく戸惑った様子の彼女を見て、少年は申し訳無さで一杯になった。

 多分、血の繋がりというものは本能で分かってしまうのだろう。少年は一抹の淋しさと共に考える。先刻出会ったばかりの眼前の老人の方が、長らく育ててくれた大切な人よりも、心情的にはずっと近い。


 「それにお父さんが落人って……君は貴族様の血を引いてるの?」

 「そういえば、そうだね」

 「そうだね、って」

 「儂も落人だぞ」

 ひっ、と小さな悲鳴を上げて、少女は少年の背に隠れた。まるで収まりきってはいなかったが。


 「しがない地方貴族だったがな。でもお前さんの父親は高位の貴族として暮らしてたはずだ。母方はすげえぞ。王都の行政長官を出したこともある権門だ。……もう潰れちまったがな」

 「つ、潰れた?」

 「ああ、やばい勢力と敵対したらしくてな、一家皆殺しよ。万が一のとばっちりを嫌った兄貴に、儂も実家を追い出されちまった。もしかしたら末子が儂の子かもしれんとは思っていたんで、生き残ってねえか王都で探してみたんだが、見つからなくてなあ。死んだもんだと思ってたぜ」

 「……結婚していたんじゃないの?」


 りりん、とやにわに老人はしゃがみ込み、灯火を点し始めた。火打金の音は周囲にかき消されて聞こえない。


 「家格が違いすぎる、結婚は出来ねえよ。平たく言うと不倫だな。ばれた日には抜剣した兄貴に追いかけ回されたもんだ。すぐに地元に返されちまった。

 今思えばこっ恥ずかしいが、一世一代の恋でなあ。庭師のふりして館に潜り込んで口説いたんだ。言っておくが、神に誓って和姦だぞ」


 地を向いて火口を扱う老人の顔は、下から仄かに照らされて付いた陰影が凄まじい。その奥方様はもしかしたら怖くて動けなかっただけではないか、と少年はちらりと考えたが、そんな事を口に出すほど愚かでも自虐的でもなかった。

 身じろいだ背後の幼馴染が何故かまだ赤面しているのを肩越しに見上げ、首を傾げる。

 宵空の紫は微かに夜の色を滲ませ、弔い花の白を景色から浮き上がらせているものの、未だ足元に困るほど暗くはない。唐突に老人がしゃがんだのは、もしや照れ隠しではあるまいか。


 それは楽しい思いつきだった。少年は親しみを込めて微笑みかけるような視線で、灯火を手に立ち上がった老人と目を合わせた。


 「そうだ。さっきは途中になっちまったが……お前さん、儂と来るだろ?」

 少年はしっかりと頷いた。

 「え、何処かに行っちゃうの?」

 「儂が住んでる街にな。引き取って、家族として一緒に暮らす。嬢ちゃんが突っ込んでくるまでは、その話をしてたんだ。ここから四つ南の街になるな。もう海が近いぜ」

 「海! 海があるの?」

 跳ねるように少年は声をあげた。珍しい事だった。幼馴染が目を瞠る。

 「街にはねえが、歩けばすぐだ。なんだ、海が好きなのか?」

 「うん、見たことないけど。僕は船が好きなんだ! 船乗りになりたい。色んな場所に行ってみたい」

 「船乗りか。いいじゃねえか」


 「ちょっと待って! 初めて聞いたんだけど!」

 耳元で甲高く叫ばれる。その勢いに少年の心はたじろいだ。

 「いや、ほら、ええと、こないだ川にさ、孤児院のお勤めで荷降ろしの手伝いに行った時、ご褒美で船に乗せてもらえたんだ。

 凄いんだよ! 周りの子はみんな怖がったり吐いたりしてたのに、僕だけ平気なの。地震の日に生まれた子は揺れに強いって言われてるんだって。船乗り向きだって。川に落ちそうになった子を、助けたりもしたんだよ」

 焦る口調で少年は些か的外れな言を並べ立てたが、少女の反応もまたずれていた。

 「知ってる、それ孤児院の黒髪の小娘でしょう。最近君にべたべた付き纏ってる、ほんの、ほんのちょっとだけ可愛い感じの」

 「ええ?」

 背後から至近距離で覗き込まれる、その瞳に少年は息を呑んだ。宵色を映して翳る瞳は、知らない人のような凄みを帯びている。


 「はっは、流石に女誑しの血筋だな」

 なんとも言えぬ雰囲気で膠着した二人を、老人の笑い声が和らげた。顔は怒り狂っているようにしかみえなかったが。

 「こんな面だが、不思議と女には不自由しない一族なんだぜ、儂らは。もし船乗りになったら、港ごとに女が居たりしてな」

 「ちょっ、何言ってるの。止めてよ!」

 「駄目よ、そんなの!」

 りりと茂みを踏み分けて少女は前に回り込み、

 「浮気しちゃ駄目なんだからね。私、ついて行く!」

 少年の両手をきつく握りしめた。


 今度こそ反射的に、腕を上げて振り解く。刹那の反発とその後の罪悪感で心を満杯にした少年は、幼馴染に何を宣言されたのかを理解してはいなかった。

 左手の先に、少女の指先だけが残っている。緩く絡んだ繋がりをもう一度振り払う事はさすがに躊躇われた。普段勝ち気な幼馴染の顔は俯いていてよく見えないが、もしかしたら泣かせてしまったのかもしれない。


 「ああ、すまん、ちょっと揶揄(からか)い過ぎたな」

 老人が顔を顰めた。

 「そうだなあ、じゃあ一つ、年寄りらしく偉そうな事を言ってやろうか。……あのな、世の中は正しい物なんかじゃねえ。誤解と偏見と思い込みで回ってる。そのご面相だ、今まで散々味わってきただろうが、これからもだ。変わらねえ。不条理は大抵、不条理のままで終わる。そんなもんだ。

 ――その手にあるのは、お前さんが思っているよりずっと貴重だぞ」


 そろり、そろりと幼馴染の温かな指が掌を這い登ってくる。少年にはもうそれを振り払う事は出来なかった。

 弱い風が辺りをかき鳴らし、弔い花の輪唱を撫でて反対側の出入口に抜けて行った。墓守りであろうか、そちらから人の気配がする。


 「誰か来るな。儂はもう帰らにゃならん。街まで送るか?」

 「大丈夫、自分で帰れるよ」

 「そうか。儂の仕事は明日中には終わるはずだ。明後日には孤児院へ行くからな。用意しとけ」


 そう言って老人は人を殺した直後のような笑顔を見せて背を向けた。左手をきつく握られたまま、少年はその後ろ姿を見送った。


 幼馴染の握力は痛いほどだった。汗の湿りが感じられる。

 少年は溜息を吐こうとした。


 「私も、行くからね」

 「えっ?」

 「私もその南の街へ行くわ。父さんと母さんを説得しないと。まあ、すごく喜んで送り出してくれそうだけど。……君と一緒に住まわせてもらうのは難しいかな。住み込みの働き口を探して……」

 「待って、それは」

 「止めたって無駄よ。離れるのは嫌なんだもの。私は君の傍にいるの。君が困ったり、泣いたりしても分かるのは私だけ。すごく傷つきやすくて、すごく優しいのも、知ってるのは私だけなんだから!」


 貴重だとは老人に諭されるまでもなく分かっている心算だった。こんな、他人に好かれない要素ばかりを詰め込んだ顔を厭わずに、近付き、触れて、温めてくれる柔らかな存在。幼馴染も孤児院の少女も、少年の心を締めつける。

 結局は駄々っ子のように、むずかっているだけなのだ。自分をその胸に抱いて、様々な感情を与えてくれた無二の人を失っても、まだ他に温もりをくれる人がいるのが淋しくて。


 しかし故人はこんな自分を望みはしないだろう。少年は墓標に手を置いて、ひやりと滑らかな諦念を呑み込んだ。今までに教わった沢山の気持ちと同じ様に。

 松の香はもう燃え尽きてしまっていた。


 「ねえ、おばさんばかり見ていないで。こっちを見て」

 上げた視線のすぐ先に幼馴染の顔があった。思いがけない近さに少年は目を見開き、僅かに仰け反った。声をかける距離は無い。少女越しの紫色の空が、すぐにその顔で塗り潰される。


 触れ合った唇は、二人とも震えていた。


 るろろん、ろろん、と優しい音色が身を囲む。

 少年は目を閉じて力を抜き、口接けを受け入れた。温もりに心が潤むような気持ちも共に、ゆっくりと受け入れる。


 こんなふうに今後は南の街で、故人とは似ても似つかない家族と、家族になるかもしれない人に教わっていくのだろう。こみ上げる予感に少年は息を詰めた。


 ――大切な気持ちを、全て。






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