夜嵐
轟音と共に窓の夜が白く爆ぜた。窓枠がびりりと軋んだ一瞬の後、牙を剝く凶暴な雨。
真昼のように灯火を盛られた室内に、小さな悲鳴が合唱した。
女は手元を凝視したまま、顔も上げずに雷避けの唱言を呟く。多くの声がそれに続いた。唱和した者達もみな同様に手元を見たままで、籠もった声は容易く雨音にかき消された。
深夜にも関わらず、部屋には二十人ほどの女達が詰めていた。その全てがただならぬ形相で俯き、作業卓の上で手を動かしている。白と寒色を中心に、とりどりの色糸が卓上に踊っていた。
一人離れた大卓で作業していた女は、きりの良い部分で手を止め、目頭を揉んだ。先刻店長より差し入れられた二本の手拭いのうち、温かい方を目に当てて吐息する。続いて冷たい方を。支給されてから少し時が経っているので両方とも微温くなってしまってはいるが、それでも目の奥の鋭い痛みが和らぐ心地がした。
「主任。図案六番、十七枚終わりました」
細身の女が大卓に来て申告した。周りから歓呼の声があがる。口笛を吹く者までいた。
「ありがとう。お疲れ様」
主任と呼ばれた大卓の女は、壁に貼られた進行表に顔を向けた。
「じゃあ、あなたの班は階下でお茶を一杯もらって休憩してちょうだい。戻ったら図案四番を手伝ってね」
「了解しました」
頷いて細身の女は大卓の上を見つめた。そこには繊細な柄の糸花網が固定されている。
「もう少しで完成ですね。……素敵」
「ありがとう。私が寝落ちしなければ間に合いそうよ」
うっとりと賛辞を囁いた目前の部下に、主任は肩を竦めた。
「寝たら叩き起こしてあげますよ」
「出来れば優しくお願いね」
笑って去っていく部下に手を振って、主任は再度目を閉じる。夜を徹しての作業も二夜目。髪ほどの細さの糸を編む緻密な手技を支え続けてきた両目は、開けても閉じても痛みを訴えていた。確かに眠気もあるが、少なくともこの痛みのお陰で、眠ってしまう事はないだろう。
再び二本の手拭いを目に押し付けてから、主任は作業に戻った。
彼女の割当ては棺覆いの中心となる図案であった。上腕ほどの幅とその倍ほどの長さ。死者である貴族の家紋と弔い花を組み合わせたそれは、九割方の完成をみていた。
今は家紋部分の白百合をふっくらと見せる為に立体的に編み重ねている最中だ。その後、家紋枠の菱形と図案全体の縁に、玉編みの飾りを施して終わりである。
糸花網は、細い絹糸を針で絡め編む透かし編みの一種で、主に貴族や神殿に納められる高級品であった。衣服の襟や袖口の装飾に使用される事が多く、今回のような大物の注文は滅多にない。その納期の異常な短さも。
礫のごとき雨を聞きながら主任は溜息をついた。
軽く薄く華やかで、繊細であればあるほど良いとされる糸花網は、一朝一夕で出来上がる物ではない。輿に乗せられた棺から床まで垂れる大きさの棺覆いと、死装束の様々な飾り……早くても十日、貴族の威信をかけて豪奢に作り込むなら一月は欲しい仕事であった。
しかし、今回の注文が来たのは一昨日の昼、納期は今日の未明である。正味一日半と少し。正気の沙汰ではなかった。
死者は年端も行かぬ少女で、病で亡くなったそうだ。日差しにすら火傷を負ってしまう皮膚の病だったと聞いた。通常は死者の旅装を整える間に神殿で長い葬送の前儀式を行うものだが、病のせいか雨気のせいか、神殿で然るべき儀式と処置を施しても腐敗が早く、崩壊が止まらないらしい。
納期も本当は今日の昼だったが、途中で先方に泣き付かれて夜明け前に短縮されてしまった。
棺覆いには故人の似姿や生涯を図案化したものを用いる場合が多いのだが、今回は図案を練る時間も無い。少女が一般的に好みそうな花を数種、人海戦術で編み繋いで埋め尽くす事になった。間違っても簡素には見えぬよう、故人が好んだ寒色系を中心に数十の色を散りばめて。
ほとんどの部分が単純作業になったが、大仕事に変わりはなかった。由緒は浅いが権勢の有る家柄。手を抜く事など出来ない。ありったけの職人が動員され、工房は大わらわであった。
非常の事態に浮ついた雰囲気のまま一夜目を迎えた。だが、わいわいと賑やかな空気も夜明けまで。その後はみな作業に没頭して滅多に口をきかなくなり、工房は水に沈んだかのように、耳鳴りを伴う静寂に満たされた。
そして二夜目。細かな作業に目や手が悲鳴をあげ、同じ姿勢を取り続けた体が凝り固まって軋む頃。やっと工程の終りが見えて来たからか、気付けの嗅ぎ薬の多用に酔ったからなのか、工房は一種異様な高揚感に包まれていた。
病人が出そうな納期は歓迎するべきではないが、主任はこの雰囲気を好いていた。地位や昇給の争い、女の職場特有と言われる陰湿極まる軋轢等はもちろん有る。だがこの雰囲気の中では、みな仲が良く、追い落としも落とされもせずに、一丸となって勤めに邁進しているように見えるのだ。
主任は上機嫌で編み針を持ち直す。瞬きと共に目の痛みが頭痛となって染み渡ったが、彼女はそれを黙殺した。
また、外が白く光った。雨音は変わらぬ激しさで続いている。重苦しい雷鳴は先刻よりずっと、鈍く遅れてやって来た。
台となる固い布に図案を描き、絵柄の枠に沿って芯糸を打つ。右手に針、それに通した細い絹糸を左手に。芯糸を右手の針で掬いつつ、左の人差指で糸をくるりと針に廻らせ、針を引く。糸の廻らせ方、針の動かし方によって様々な編み模様が出来上がるのだった。細かな模様なら親指の腹ほどの面積を埋めるのに百回は針を動かす事になる。
主任にとって、それは全く苦にならなかった。華やかな編み上がりを思い浮かべながら色糸を操り、ひと針ひと針ごく小さな編み目を揃えて進んで行くのは、むしろ楽しみであった。
編み終わって芯糸を台布から切り離し、糸花網側に残った芯糸の切れ端を取り除いていけば……台布に磔された糸花網は拘束から解き放たれ、煩わしい屑を脱ぎ捨てて生まれ変わる。
その軽やかな自由の瞬間は、快感ですらあった。
人に勧められて何も考えずに始めた仕事ではあるが、幸運にも適性があったのだ。白百合の部分を終わらせた主任は青みがかった翡翠色の糸を用意した。縁の飾り編みに取り掛かる。
長い間根を詰めて編み続け、忘我の境地に差しかかると、自分が蜘蛛にでもなったかのように思えてくる時がある。繊細な糸を編み、瀟洒な網を広げ、その中心に悪意と毒を抱いて座す、悍ましい蟲――。
主任は貧しい軽業師の娘だった。母親は見たことがない。しかし大層な美人であったらしく、野猿のような父親に似ずに幼少の頃から美しかった。父親は宝玉のように娘を可愛がり、娘もまた父親をよく助けて、貧しいながらも親子は幸せに暮らしていた。
十三の時だった。娘は洗濯場からの帰り道で貴族の男に攫われた。見た事もない大きな館の一室の連れ込まれ、処女を奪われ、長い鎖で寝台の脚に繋がれた。泣くと犯され、帰宅を願っても犯された。外から父親の声が聞こえた気がして窓から飛び降りようと半狂乱になった時は、片膝を潰され、以降は杖無しでは歩けなくなった。
窓枠には鉄格子が嵌められた。
自分の意思など欠片も無い、獣のように飼われる生活だった。子を孕んだ事があったような気もするが、よく思い出せないし、正直思い出したくもない。当時の記憶は暗く朧げで、鎖の鳴る音だけが満ちている。
その生活は四年弱続いた……らしい。
はっきりとした記憶の再開は、日暮れの朱が眩しく満ちる室内の光景だった。そうっと扉を開けて侵入しかけた青年は、全裸の娘に目を瞠り、次いで夕焼けの色に赤面して天井を仰いだ。
薄緑の瞳の色以外に似ている所はまるで無いが、娘を攫った貴族当主の嫡男であった。怯えて逃げ惑う娘を根気強く訪問し、宥め、説得して、当主不在の夜に館から連れ出してくれた。
月経時の下着以外の衣服の着用を長らく禁じられていた為、久しぶりに与えられた服に涙が溢れたのを覚えている。獣から人に戻った心地がした。肌を隠すことの暖かくも圧倒的な安心感は、鎖の生活の中に娘が封じていた様々な感情を解き放ち、心の内で暴れるそれらが相応しい場所に収まるまで、彼女は一月ほど口をきく事も出来なかった。
粗末な長屋や物置のような小屋、嫡男の知り合いらしき他人の家などを転々として、半年ほど逃げ回った。捜索を躱していたのだろう。その間、不定期に様子を見に来る嫡男から、館に押し入った父親が処刑された事、母親がまだ生きている事を教えられた。
娘は父親のために暫く泣いた。そして、鎖の闇に阻まれて子供時代の記憶も鮮明とはほど遠く、父親の顔も曖昧である事に気付いて愕然とした。
母親は、娘同様に貴族に拐かされ、妾にされているらしい。相手が嫡男の家とは比較にならない程の大貴族のため会う事も救う事も出来ない、と沈痛な面持ちで言われたが、もとより見たこともない母親である。気の毒だとは思ったが実感はなかった。
指示されるままに移動し、息を潜め……やがて何かの決着がついたようだった。詳しくは言えないがもう心配はない、とある朝早くに嫡男から告げられ、逃亡生活は終わりを迎えた。
嫡男は当主と折り合いが悪く、ほとんど館には居ついていなかったらしい。娘の存在に気付かずに当主の横暴を許し、長い間辛い思いをさせてしまって申し訳なかった、と布を巻いた頭を深く下げられたが、娘は身を固くするばかりだった。
自分を救い出してくれた嫡男の、固く強張った表情と、泣き出しそうに潤んだ瞳に胸が痛んだ。彼の恩に報いるために無理にでも許すべきだと焦ったが、結局、娘は一言も発せずただ唇を噛んだ。
逃してくれた恩には心底感謝していたが、あの薄緑色に許しの言葉を吐くことは如何しても、どうしても出来なかったのだ。
その事を、今は後悔している。深い翡翠色の糸を操りながら主任は目を細めた。
手に職をつけた方が良いだろうとこの工房に預けられてから、嫡男と会う機会は無くなってしまった。年に一度工房に資金の寄付に来ていたようだが、自分にそれが知らされる事はなかった。
あの時、謝罪を受け入れて許しの言葉を口にしていたら、彼との繋がりは切れなかったのだろうか。あの後も優しい、遠慮がちな微笑みを見ていられたのだろうか。詮の無い事と分かってはいながらも、喉元を掻き毟るような気持ちで主任は悔やむ。許すことの出来なかった、大恩ある人。暖かな春の太陽のように好ましい人。会いたい人。恋しい人。あの、殺しても足らない屑の息子。
糸花網は彼女の天職であった。大嫌いな貴族達からの発注だというのに彼女の腕はみるみる上達し、すぐに工房でも有数の職人になった。目を瞠るほどに緻密で、ある種の迫力と存在感を持つ彼女の作品は、貴族連中に飛ぶように売れた。
よもや、娘時代を無残に踏みにじられた女の恨みが込められているとは思うまい。糸花網が売れるたびに彼女は可笑しくてならなかった。自身を蜘蛛のようだと考えるようになったのは、この頃からだ。
貴族間の権力抗争に巻き込まれて嫡男が死んだ、と店長から聞かされて一度卒倒してからは、作品に鬼気が宿るようになった。殺気にも似た鋭利なそれを彼女は少し恐ろしく感じたが、周囲や顧客の評判は上々だった。彼女は店の糸花網部門を束ねる主任に選ばれ、専用の作業卓を与えられる売れっ子職人となった。
「図案四番、全部完成です!」
拍手と歓声が部屋を舞う。
「二番も終わったよ!」
「主任、もう繋げる図案は繋いじゃいますよー」
「全体図どこ?」
「芯糸切るの手伝うわ」
「やばい手が震えます」
「色糸を切ったら殺すわよ! 気付けの薬嗅いできて!」
「いっそ飲んでしまえば?」
「死にます。死にますって!」
皆が浮かれて爆笑する。騒がしい事この上ないが、主任にその狂騒を咎める気はなかった。もう皆限界なのだ。有り得ない納期を駆け抜けた。後は致命的な失敗さえしなければそれで良い。
「残りは図案十二番だけ?」
「縁編みの途中よ。すぐ終わる!」
「わあ主任もだ。さすが早い」
「綺麗な編み目よねえ」
「見てよ、この模様でここからここまで埋めるとか、考えただけで気絶しそう」
「うわこの濃淡のつけ方すごい」
「正直間に合わないかと思いました」
「貴族院が遅いのよ! 訃報はとっくに出てたでしょうに」
「まあまあ、いつもよりは早いんじゃない?」
平民が工芸品などで貴族の家紋や個人名を扱う時には貴族院の許可が要る。確実に許可が出る今回のような事情でも、先走って手掛けると重い罰が課せられるのだった。
そして貴族院の仕事は押しなべて、のったりと動作が遅いことで有名である。
じりじりと許可を待つ間に発注側が納期短縮の談判に来た時は、店長が危うく使者に鋏を投げつける所であった。
常ならば、平民側の都合や苦労を全く考慮しない貴族どもの身勝手に恨みを募らせつつ糸を繰るのだが、今回は年端もいかずに亡くなった病の少女が原因である。恨むのは難しかった。
そのせいか毒気の無い仕上がりの糸花網はいつもより迫力を欠くように思えたが、今更どうにも仕様がない。棺覆いなのだから多少弱々しく見えても良いだろう、と主任は無理矢理そう考える事にした。
最後の編み目を結び、ざっと全体を検品して不備を探す。部下達の激励に押されながら、彼女は編み止めの糸端を、作品への気がかりごと断ち切った。
日の出が近いのか遠いのかも全く覚束ない夜嵐である。雷は既に遠ざかり、唯一の光源を失った天はひたすらに暗い。街並みも闇に沈んでいたが、葬儀を控えた故人の館だけは煌々と灯火に溢れ返っていた。
夜半からの攻撃的な暴雨は、ここ数日の雨量と相まって石畳の上を浅い小川と化し、一散に夜闇の奥へ駆けていく。主任は呆然とその流れを見送りながら佇んでいた。館の裏手の使用人出入口の脇には、厚い帆布を紐で結んだ簡素な天幕が建てられていた。今日の物資を運び込む人員の為の、急拵えの雨避けであった。
屋根と三方の壁があるのは有難いが、風向きによっては容赦なく雨が入り込む。髪から靴までこれ以上なくずぶ濡れなので、もはや大して障りはないが。
「店長、遅いですね……」
隣に佇んだ大柄な女が呟いた。天幕には主任とその女の二人だけが立ち尽くしていた。納品した糸花網に直しが発生した際の修正要員である。
「そうね、遅いわねえ……」
二人とも館の使用人出入口に向けて開かれた天幕の縁に立ち、寒さに震えながら冷たい雨を眺めていた。館の侍女が店長を迎えに来た時に見かねて起毛の手拭いをくれたが、身体を拭う気にはなれなかった。
「何かあったんでしょうか」
隣の女とは、糸花網部門の主任の座を巡って激しく対立していた事もあり、普段は必要最低限の会話しかしない間柄だ。
それでも今ぽつりぽつりと呂律の怪しい言葉を交わし続けているのは、そうしていないと眠ってしまいそうだからである。
「こんなにびしょ濡れの酷い有様だから館に入らずに済むだろう、って喜んでいたのにねえ……」
天幕の中に用意された火壺と長椅子に寄り付かないのも、同様の理由であった。温まったり寛いだりしたら、その途端に限界を超えた眠気に呑み込まれかねない。
「……もし今、手直ししろとか言われたら、私きっと暴れるんですけど」
長椅子の端には、大きな道具箱が一つ鎮座していた。針と色糸、卓無しで作業する為の編み枕が詰め込まれたそれは、職人達よりよほど厳重に油紙を巻かれて、火壺の透かし穴から漏れる炭火の熱色を反射している。
「体力があって結構ね……」
主任はふらりと傾いだ。作業中の頭痛混じりの眠気は通り過ぎ、今は痺れを伴うばかりだ。身体が宙に浮いているような心地がする。ねむい。とにかく眠い。平衡を失い、人としての手足の形を忘れてしまいそうな感覚……。
「ほら、倒れますよ主任」
人を忘れたら蜘蛛になるのだ……そんな莫迦なことを考えた瞬間、隣の女に肩をつつかれた。主任は逆側に傾ぎ、どうにか杖を突いて転倒を免れた。
先程から二人は交互にゆらゆらと倒れかけ、互いに正気付かせる行為を繰り返している。次第に息が合ってきて、長年の相棒であるかのような連帯感さえ芽生えつつある。
「ありがとう。……ちょっと頭を冷やして来るわ」
主任は雨の中に足を踏み入れた。頭巾をせずに痛いほどの水の礫に顔を晒して歩く。
今日の糸花網の工房は全休で、この場の二人は明日の午前まで休めることが既に確定している。多少体調を崩すよりも、今は眠らない方が肝要だった。
「あまり長く雨にあたってると風邪ひきますよ、今更だけど」
少しの間ぼんやりと意識を飛ばしてしまったらしい。我に返ると同時に主任は濡れそぼった身体を自覚して震え上がった。天幕に戻ろうと杖を中心に振り返る。
「何かしら、あれ……」
館の出入口から少し離れた地面。覗き窓から漏れる明かりの縁に、小さな暗色の塊があった。家鼠の死骸だと思った主任は、不吉なそれを杖に掬って放り捨てようとした。
しかし、杖先で触れた感触が可怪しい。
「主任? どうしたんです?」
ふらふらと近寄って、主任は塊を覗き込んだ。死骸ではない。布のような物に見えた。ある程度の重みがあるらしく、小川と化した雨水の中に踏み留まっている。
もっとよく見ようと主任は杖で小塊を明かりの方に寄せた。
「――ええっ⁈」
その拍子に表面の暗色が剥がれ、別の色が鮮やかに顔を見せた。主任は悲鳴を上げてよろめいた。そのまま水に尻をつく。
しかし主任は塊から目を離さず、自身には全く頓着していなかった。両腕のみで体を引き摺ってそれに躄り寄った。
「ちょっと主任大丈夫?」
天幕から大柄な女が駆けて来るのも、見てはいなかった。
ひたすらに見つめる塊の、ほとんど剥がれた表面の暗色は、手巾のような小布であるらしい。その中に、明るい蜜柑色の絹布が包まれていたのだ。
伸ばした指が寒さと高揚に震える。
「……まさか……」
小塊に触れ、表面の手巾をはね退けて手に取った。
乾かせばきっと、微かに緑がかった酸い蜜柑の色になる。間違いない。水浸しで少々もとの姿には遠いが、この布の質感と色を自分が間違う訳はない。
嫡男が愛用していた頭巾と、全く同じ生地であった。
「膝が痛むんですか? 立てます? ほら、私の肩に腕を回して……いや、腕に掴まってもらった方がいいですね。背が違いすぎるか」
「あ、ありがとう」
「あら、それ何ですか?」
「落ちていたの」
「へえ、いい色ですね。――っしょ、と。よし、抱えますよ」
大柄な女は主任を抱き込むように抱え上げると、天幕の中、火壺の傍の長椅子に運んだ。すぐにまた外へ出て行く。
「はい、これ」
程なくして杖を持って戻って来た。拾ってきてくれたのだ。
もしかしたらこの女は、意外と優しいのかもしれない。男性のように体格がよく、眉の険しい不美人を、主任は驚きと共に見上げた。
――美貌に物を言わせて店長を誑かし、主任の地位を寝取ったのだ。と常々周囲に放言している女ではあるが。
「……何かへばり付いてますね。手巾?」
年少の頃から工房で修行をしてきたこの女は、数年糸花網を編んだだけの後輩が瞬く間に先達を追い抜いて主任の地位に着いたのが我慢ならなかったのだろう。
つり上がった太い眉に主任は優しく微笑みかけた。
「本当にありがとう。優しいのね」
「はい?」
「感謝しているわ」
「はあ」
炭火の温もりが身に染み入ってくる。主任は気が遠くなってきた。
「ええと、そんな事よりその布包み、何か入っているみたいですよ」
言われてみれば中にしっかりとした固い感触があった。主任は思うように動かない指でどうにか包みを解いた。
現れたのは、罅の入った向日葵柄の陶片。海松色の筆軸。留め金の無い腕飾りらしき短鎖。粗末な赤い髪飾り……。
「何これ、ごみですか?」
「ごみに見えるわねえ」
「この髪留め……やだこれ蛙の意匠?」
「子供向けなのかしら。大抵の女の子は泣きそうだけど」
「まあ、良く言って玩具ですよね。でも包んでる布だけは一級品なのが、何か凄く怪しげな感じ。使用人の子か……ううん、この絹の布なら死んだお嬢様の物かも」
「そんな物がここにある訳ないじゃない。それに貴族様の持ち物には見えないわ。中身が」
「分かりませんよ。さっきまで居た雨具屋が噂してたじゃないですか。病で頭がゆるくなってたらしい、って。普段から言動が可怪しかったみたいだから、窓から放り捨てたりしたのかもしれませんよ」
「確かに割れたり歪んだりしているけど……」
「ねえ主任、これはお館に届けた方が良いんじゃないですか」
足元がぐらりと揺らぎ、主任は絹布を握りしめた。懐かしい、想いの色に取り縋る。それは嫌だ。それだけは嫌だ。今度こそ絶対に手放さない。
主任は叫び出したい気持ちを抑え、朦朧とした脳をなんとか働かせようと努めた。
「こんな、がらくたみたいな物、届ける方が失礼よ」
「まあ、中身はそうですけど。でも死んだ人の家の物を、勝手に捨てるのも、放っておくのも気持ち悪くないですか」
「そうかしら」
「この絹布が上質すぎて胸騒ぎがするんですよね」
主任は濡れてなお、爽やかに香るような彼の名残りを見つめる。この色を嫡男はいつも頭に巻いていた。自分の前では常に申し訳なさそうに眉を下げ、指一本触れないように過剰な気を使っていた人。どこかの姫君に接する丁寧さで大切に扱ってくれてはいたが、女としての自分には見向きもしなかった彼が少し、憎かった。
彼には恋人がいたのだ。
「私、これが欲しい」
「主任?」
囚われていた館を抜け出す数日前。いつものように犯された後、寝台でその話を聞いた事があった。最悪な女に引っ掛かった、と悪態をつき口を極めて罵っていた。あの糞豚があんな風に評するのだから、さぞかし善良な、素晴らしい娘さんに違いない。その時はまだ無自覚だった胸の痛みと共に、そう思った。
「欲しい、って……」
「私の物にしたい。欲しいの」
「何言ってるんですか、貴族の家の物を盗るなんて!」
「でも地面に落ちていた、いいえ、捨ててあった物よ?」
「それでも駄目ですって。止めましょうよ。今回の騒ぎに乗じて盗みを働いた使用人が、何日か前に捕まってお手討になった、って雨具屋が言ってたじゃないですか。万が一お嬢様の物だったら、本当に洒落になりませんよ」
「お嬢様の物じゃないわ!」
主任は声を張り上げた。再び地面が回った。今度こそ誰にも渡さないのだ。恋人にも死にも貴族のお嬢様にも。疲れきった心身の指先にまで、その決意が渦を巻く。目眩と吐き気に魘されるように主任は言を重ねた。
「これの持ち主を知っているの、私。知ってるのよ。大事な人なの。だからこの頭巾は私からその人に返しに行くわ。その黒い手巾と中の品物だけお館に届けましょう。私、わたしね……」
合間の呼吸はひどく慄えた。
「私、実はお店を辞めて故郷に帰る予定なのよ。店長にはまだ言っていないんだけれど。あなたを次の主任に推すわ。どんな事をしても店長を説得してみせる。――だから、この頭巾は見逃して」
それは全くの嘘であった。今の今まで仕事を辞める気などなかったし、生まれ故郷はこの王都だ。もし主任の地位を託すとしたら、一の部下である別の優秀な女を考えていた。
「それ、本当ですか?」
「本当よ」
断言した途端に、豪雨のような後悔が主任に襲いかかった。意識が流れて行きそうで、座っていても上体が斜めに傾ぐ。折角の天職と地位を、薄緑の、とうに亡くなった、情を交わす事もなかった男の頭巾の為に放り出すのか、と心の奥の僅かな部分が叫んだが、それはすぐに目眩の渦に呑み込まれた。
「なら、いいです。私は頭巾なんて見てません」
「あなた、汚い人間ね」
「あんたもでしょ」
同感であった。二人は顔を見合わせて低く笑った。実力以外のもので地位を得るのを恥とも思わない女の、卑しい笑顔が主任に向けられている。自分も同じ顔をしているのだろう、という忌まわしい確信があった。
それでも、初めて自分の意思で一歩を踏み出した人生の選択に、彼女は歓喜していた。奪われ、強要され、救われ、与えられた事しか無かったのだ。
勢い止まない嵐雨の彼方に、再び遠雷の唸りが混じり始める。
強い目眩と、自分を後退りさせようとする見えない力に抗って、主任は美しい顔を上げ、凛と胸を張った。
豪雨を敢えて浴びるかのように。




