離別
一面に降った淡紅の花弁は、落日と共にその色を失った。
さあっと風が押して、地に敷き積もった花塊をほどき散らす。五度目の春であった。鋸に似た東の山並みから、皓々と凄まじいほどの満月が出た。
少年は、花盛りの木の中ほどの枝に腰掛けていた。香のうすい花弁は少年の肩にも積もっていた。が、振り落とそうとする気配もない。
その指にやにわに力がこもり、樹皮がべりと剥ぎ落とされた。
焦茶の樹皮の内側は、花の時期だけ淡紅に染まっていた。絞れば同色の汁も出る。木そのものが紅を発するのである。
花に染まるこの山林は、小さな村落の出入口になっていた。高山に囲まれた村落の端から、唯一勾配のゆるい山の片袖を埋め尽くし、超えれば公道の方角に出る。普段は村の男達が交代で警戒しているが、花の時節は休暇になるのだった。
この花には妖力があるという。
咲くそばから散る淡紅に惑わされ、森を知り尽くした村人でさえ方角を見失う。もっとも花の無い季節でも、この樹は風向きが変わるたびに微妙に姿を変えるので、普通の旅客や商人などは近寄らないのだが。
少年は山中の樹上から、ある特殊な鉱石が採れるために富んだ、孤立した村落を眺めていた。少年はそこに丸四年住んだ。森に彷徨い込んだのは六歳の時――敢えてこの花の季節を選んだ。村人が警備を解くという情報を得たからだ。
少年は西南に隣接する国の間諜であった。
自身の出生などは知らぬ。何処からか拾われ、軍の施設で育った。教育を受けると知能が異様に高いことが発覚した。記憶力と計算力は大人を凌駕するほど優秀で、彼を拾って施設に届けた老婆には追加で報奨が下されたそうであった。
出会いを入れても四度しか会った事がない老婆は、少年の中では意外と大きな存在だった。
薄茶のしみを顔中に点じ、唇端から頬までを火傷痕で引き攣らせた醜悪な、しかもやたらと大きな婆で、彼に面会した際は決まって、儂が拾ってやった事を忘れず朝な夕なに感謝して、感謝の証もたんと寄越すよう繰り返した。
一方的にそう言うだけで会話というものが成り立ったことはなかった。婆は少年を、人間ではなく所有物であるかのように扱ったし、実際そうとしか考えていなかったのであろう。少年はこの婆の話が教官や軍関係者の口から仄めかされる度に、慄然と恐れの感情に体を震わせた。婆は少年を現状の――角々しい規律と渋茶色と無表情で出来た組織に放り込んだ、不吉な妖魔であった。
軍内部しか知らなければ婆を無視出来たのかもしれない。しかし少年は与えられた職責上、一般民衆の生活を知っていなければならなかったので、一応は自身の境遇の異常さを弁えていた。
花は降り、降り積もり、生え初めの下草ごと土の気配を包み隠す。少年の背後で西の夕空はやっと冷えた。湖上に映るに似た観で、真円の月が夜空一帯を照らした。
我知らず、少年は息をころしていた。祖国では染料となるだけの樹木だが、この辺りの民はこの花に精神の狭間を見るらしい。
枯れも萎れもしないのに連綿と死に行き続ける一ひら一ひらは、確かにこうして眺めていると正気と狂気を麻痺させる。現が散り、くるりと翻る。己の今も、過去も、等しく幻なのだと。
――では、どこからが。
山の毒虫にやられたと偽って村に入った時だろうか。この村の在り処を探り当てた時だろうか。近隣の住人はこの村の存在すら知らないか、知っていても落人の集落としてなかなか口にのぼせようとはしなかった。
それとも任務を得て国を出た時か。関所の役人一家を始末した時か。村民のみが知る鉱坑に案内された、厳かなあの夜か。
それともやはり、あの婦にあった日からだろうか。
自ら虫の毒を致死量寸前まであおって村の外れに倒れ込んだ少年を見つけたのは、一人の農婦だった。十日の内に夫と息子を立て続けに亡くして精神を錯乱させていた婦は、何の躊躇いもなく少年を家に連れて帰り、手当をし、そのまま住まわせてしまった。
任務が成功をみたのは、自分が年少だからでも有能だからでもなく、ひとえにあの婦が自分を愛したからではないだろうか。少年は思う。寡婦不憫さに村人も少年を引き離せなかったのだ。
婦は実の息子にするかのように甲斐甲斐しく少年の世話をした。あそこまで愚直な感情は知らなかった。その肌温い闇に時折目を閉じてまどろんだ。任務も使命も、そんな時は見えなくなった。
実の息子を亡くしたばかりだというのに、他人だという事を承知の上でなお自分をこれほど愛せるなど、この婦は本当に気が違ってしまっているのだと少年は本気で信じていた。それ以外に状況の説明はつけられなかった。
いくら正気に見えても惑わされてはならない。胸の鼓動を守るような気持ちで少年はそう己に言い聞かせた。そうしないと自分の中で今まで基盤になっていたものが尽く崩れて戻らぬ気がした。
それでなくても夜毎の頬ずりと耳慣れぬ緩い旋律は、少年のどこかを突き崩している。
――ねんころ ねんころ ねんころり
山のなぞえに 夜鳥吊せ
三つ二つ 七つ 九つ 一つ五つ二つ
坊の眠りを 守らばや
子守唄など必要な年でもないはずなのに。
まだ鉱床の存在を村の人間に秘されていた頃。少年は婦の家の屋根から、つくづくと村を眺めたことがあった。四十四ヶ月に一度の大きな祭儀のせいで村民全てが出払う日であった。
祭儀の場は例の鉱床かその付近であるらしく、前夜少年に与えられた菓子には強い眠り薬が混ぜられていた。いつも手作り菓子をくれる二件向こうの老夫婦の差入れだった。婦が……全く途方に暮れた表情で少年にそれを与えたので、事情を察した上で少年はそれを口に入れてしまった。
職務は?と一瞬だけ思った。
もし婦が笑顔を取り繕おうとしたならば、僅かにでもしたならば、少年もまた違った対処をしたのかもしれなかった。
薬品の類には充分に体を慣らしてあったので、常人ならば一昼夜とらわれていたであろう眠りから覚めたのは、白金の陽もまだ高い頃であった。底抜けに晴れてはいたがどこか淡い初夏の空色。影の薄い夏虫の翅のきらめきが、そこここに見えた。屋根上から見回しても人一人おらず、足跡も掃き清めてあるので祭場の方向の見当もつかない。
全く、あの婦も含めたこの『村』という組織は、隠し事に関しては天才的であった。表向きは完全な農村だった。それは何も少年という異物を抱え込んだからではなく、普段からそう取り繕うことが生活になっているのだ。そう悟った時少年は何故か激しく感動した。
真昼に静まり返る村は、一幅の絵のようでもあり、水底の奇跡のようでもあった。
家畜もいるはずだが鳴声も物音もしなかった。村人が連れて行ったのかもしれないと思ったが、敢えて調べる気もなく、少年はただ眼下の景色に魅入っていた。親しい人の寝顔をみるようで面映ゆかった。彼も手伝って作った案山子が青麦にうもれて揺れていた。
少年は我知らず微笑んだ。美しい組織だと思った。彼は人の集まりをその類の単語でしか認識出来ない。だから、美しい組織だと思った。
そしてふと、ここには毎朝の忠誠の儀も密告褒章も落第者の処刑も無いのだな、とそんな事を考えた。なのにこの団結。少年の知らない硬さの。もし自分が成功を手に帰ったら軍はこの組織を壊してしまうのだろうか。
少年は初めて、知りたいと思った。それは任務の外だった。
自分の思考に気付いて、冷水を浴びせられたかのように硬直した少年は、――しかし次の瞬間にはもう屋根から姿を消していた。南の小道から人影が駆けて来たのだ。
婦だ!叫びたくなるような興奮に土間で五回旋舞して、少年は寝床に飛び込んだ。様子を見に来たのだ。もしも一人で目覚めていては寂しかろうから。
寝床の中で懐にためておいた薬草を噛み合わせた。昨夜盛られたものよりよほど強力な眠り薬となる。すぐに脳髄が冷たくなり興奮が散らされた。自分は今なにを喜んだのだ。遠のく意識の中で踠くように少年は考えた。愕然とした。
意識を完全に手放す前、婦が息せき切らして駆け込み少年に縋り付いた。ぬるい息の匂いがあの子守唄を想起させる。自身に対する不安がその一瞬、少年の身を埋め尽くした。
……そして、その不安は今でもある。薬草のせいで過敏になっていたあの時ほどではないにせよ。
故国のために消費されるべき少年の全ては端からさくさくと喰い荒らされ、侵され、必死の修復も間に合わない。
逃げなければならない、と少年は決心した。鉱坑の位置を知ってから三ヶ月が経っていた。
心を決めたのは山の斜面に花が、日に日に悪夢のように広がっていくからだった。この樹木は本当に人を狂わせる。分別も一緒に散らしてしまう。
村への侵入もこの花の時期、いろいろ思い惑った末に一等危険な方法を選んでしまった。毒の危険もさることながら、あのような無防備な状態で転がって発見を待つとは。もし発見したのがあの婦でなければ、問答無用でとどめを刺されていた可能性もあったのだ。充分わかっていながら、いざ花を目の当たりにすると意識を操ることが出来なくなり、四肢が、命じてもいないのに行動した。
今もまた。家を出るまでは計画通りだったのだが、少年はすぐに通り抜けるべき山林から動くことが出来ない。まだ明るいからと婦を言い包めて夕食用の野草を採りに外に出たのだ。早く行かねばならないと焦ってはいたが、意志は身体に伝わらず、少年はぼんやりと灯火溢れる村落を眺めている。
辺りに満ちるのは、閑と花弁の降る空回りの沈黙。――否。
少年は視線を近くに引き戻した。風が止んでいるせいで幻聴が聞こえやすくなっているのかと疑った。
名を呼ぶ叫び声が、した。
少年は改めて辺りを見回した。花弁が地を覆っており、視野の内に人影はなかった。地に落ちた淡紅は月の光に色褪せ、たちの悪い黴が蔓延したかのように見える。少年にとってすら恐ろしげに見えるものを、幼い頃からこの花の伝承を語られている村の人間にはどれ程の恐怖だろう。
もう声は間違えようもない。
伝承としては有りがちだが一番生臭い類のそれが、この村と近隣に受け継がれていた。
曰く、この花は血を狩るのだと。花期に動物や時には人を啜るので毎年妖しい色を保って咲く、地中は屍で満ちる、近寄ってはならない、と。
現にこの時期には生き物の声がすっぱりと絶える。あの大食らいの蜜鳥ですら、この花には寄り付かないのだ。
婦の拾った少年は他所者であったが故に禁を軽んじて、花に喰われた。それが婦のために少年が用意した失踪の脚本であった。後処理をする軍部のためなどでは微塵もなかった。ひとえに婦だけのための……唐突な失踪や、まして裏切りなどよりは受け入れやすいだろうという、少年なりの思いやりだった。
しんしんと花は降る。
蹴散らす勢いで人影が現れた。悲鳴のように名が呼ばれた。髪は乱れ散り、目は恐怖に虚ろで、どこかで千切ってしまったらしい片袖を握りしめて走る様子が月下に冴えざえと映った。
少年はじっと見つめていた。太めの身体が転ぶと辺りに黒い斑が飛んだ。下草が土か、よく分からなかった。
もう諦めてもよいのではないか、と少年は吐息した。多分、身体が先に分かっていたのだ。もう村から出ることは不可能だと。自分は本当に、この花に喰われたらしい。
少年の心はすんなりと納得した。
少しだけ祖国を思った。それは緑色の毒だった。罪人や裏切者の処刑に使われる、眼球が飛び出して舌が緑黒く染まるあの毒。きっとあれを、いつか、誰かが持って来るのだろう。
この花に似た味がするに違いない。
真っ直ぐに少年は婦を見つめた。その表情は自棄でも慈愛でもなかった。ただ静かで真摯なだけだった。
少年は夜気を吸う。花の香りが微かに混じる。
軽率な少年は、間一髪のところで婦に救出されるのだ。
「ここだよ。――たすけて。母さん」