信じる人
「彼の在室が確認されたよ。今夜はお勤めも無いし、このまま就寝まで居るだろう、って」
「隣室と向かいは?」
「時間をみて上手く誘き出すそうだよ」
「よし。短剣にこれを塗れ。長い時間空気に触れると毒性が弱まるらしい、躊躇うなよ。ほんの少し傷を負わせるだけで充分だそうだ」
「仮面を着けようか。そろそろ出動しようよ」
「そうだな。行こう」
「……ああ」
「どうした、臆したか」
昼に、前庭で子供を見た。
雲一つない夏の晴天は、北方の常として色が淡い。もっと南の地方の、目に痛いほどの熱気に満ちた濃青とぎらつく太陽を知る身としては、国の北限に近いこの地の夏は何とも物足りなく、僅かな寂しさすら感じさせた。
その薄い空色の下に複数の笑い声が響く。見習い神官は首を傾げ、甲高い声の出所を探した。権威ある北の大神殿には相応しからぬ喧騒だった。
そして見たのだ。前庭の芝生を一塊になってはしゃぎ回る子供達を。
「臆してなんていないよ」
「では」
「ただ……随分変わった、と思って。あの人は」
「……今は仕方ないよ。あの方はずっと、次の神官長になる為に血の滲むような努力を重ねて来たんだからねえ。それをいきなり横からかっ攫われたんだもの」
「あの方は今の、間違った選択をしようとしている神殿を、正そうとしているだけだ。今夜我らは正しき事を成すのだ」
子供は双子を含めて六人。子沢山で有名な地元貴族の子らしい。近くで見守っている当主に面白い程そっくりな、赤茶の巻き毛をみな持っていた。全員男の子だ。相続争いを恐れる貴族階級に、これほど子が多いのは珍しい。そして神殿権力の監視ではなく、単純に名所を子供に見せるための見学である様子も、また珍しかった。当主夫妻を接待している正神官達も笑顔であった。
見習い神官は立ち止まった。
一番小さな男の子を中心に、年子なのか大して年齢が変わらないように見える五人の子供達が、歓声をあげて芝生を転がり、泳ぐような動作で這い進み、上から飛び掛かり、年長の子が下敷きになった子を慌てて引き摺り出し……
「正しい事……」
「この期に及んでなんだ。やはり臆したのではないか。卑怯者め!」
「まあ、まあ。大事の前だからさ、怖くなるのは分かるよ」
「しかし、此処でぐずぐずする訳にはいかん。こやつは外した方が良くはないか。邪魔にならないように拘束しなくてはならないが」
「ごめん……行くよ。多分ちょっと怖くなったんだ」
「良かった。じゃあ行こうか」
「本当に大丈夫なんだろうな。全く、忠誠心が足らん」
「大丈夫。俺はちゃんとあの人が好きだよ。優しくしてくれたし、尊敬してる。あの人の益にならない事はしないよ」
「……なら、いい。では行こう。我等が真の次期様の御為に」
「次期様の御為に」
「御為に」
ぱちん、と脳裏で何かが弾けた。
夢から醒めたような、瞬きと共に世界が急に開けたような、――鮮烈な瞬間によろけた見習い神官は、窓枠に手をついて身を支えた。
きゃあきゃあと騒ぐ子供達は、大口を開けて、真っ赤な顔でみな笑っている。何か事件が起こった訳ではない。子供を見かけた。それだけの事だ。
それだけの筈なのに、半日経った今でもなお、子供達は見習い神官をよろめかせる。あの歓声と屈託なく転げ回る様を思い出すたびに、腹の底で何かが震え、おののいた。それは郷愁か、羨望か、後悔か。見習い神官には判別出来ない。傷ついたような痛みが走るのだ。
世界の色が変わり、自分の動きを阻害していた外殻が壊れた気がした。今までの悩みも鬱屈も、遠くへ笑い飛ばしたくなった。明らかになった世界で改めて見た現状は、思っていた以上に莫迦ばかしい。
周囲の情に絡め捕われ、大仰な正義に行く手を塞がれ、大真面目な顔をして、やりたくもない事をやろうとしている。
「どうした? 今度は妙ににやにやして。気持ち悪い奴だな」
「ひどい。そんな顔してないよ」
「でも、何処かすっきりしたような顔をしてるよ。何かいい事でもあった?」
「いや……ほら、今夜は風向きが良いからか、神湖の唄声が聞こえるだろう? 吉兆だと思って」
「ああ、確かにね。提琴の音色に似てるよねえ。近くで聞くと、とんでもない音なんだけど」
「へえ、そうなの?」
「神湖へ行った事があるのか? どうだった」
「去年、星影の病がすごく流行った時があったでしょ。儀式の下準備の手が足りないからって駆り出されてね。さすがに神湖を直接見た訳じゃないけど、あの音は、何というか……とんでもなかったな。慣れてないと吐くよ、あれは」
「そんなに気持ち悪い音なのか?」
「気持ち悪いというか、耳が拒むというか……ううん」
一人が首を傾げて唸る間に、一行は広い通路を半ばまで進んでいた。そこには露台状に外へ張り出し、窓が大きく採られている空間がある。岩窟神殿である北の大神殿は一つの岩山そのものであり、露台の窓を見下ろせば、麓近くの街から遥か砂漠までもが一望出来た。
北方の夜気は、夏とはいえど少々肌寒い。
一行は何とは無しに歩調を緩めた。暫し誰も、何も言わなかった。神湖から流れ来る微かな響きを風が揺らす。荘重な、幾十もの擦弦楽器に似た音色が縺れ、たわむ様は、弦を奏でる弓毛のしなりを見るようであった。
街の明かりは既に疎らで、遠い砂漠はなだらかな丘陵を夜暗に晒して横たわっている。冷えた空に無数の星屑が浮いていた。ちりちりと瞬く夜空に一条の星河が立ち昇り、細い月の行く手を遮っていた。
北だろうが南だろうが、月の色には差異が無い。見習い神官は、ずれた仮面を押し上げながら薄く微笑んだ。
「……とにかく、とんでもないんだよ。此処からなら緩やかで雅にも聞こえるんだけど。さすがに神秘の湖なんだねえ」
「これが終われば正神官への昇進が約束されている。この世の神秘の最たるものに、もっと側近くお仕え出来るぞ。そのとんでもない音とやらも私はぜひ聞いてみたい」
「僕はこの、見習い神官の仮面が外せるようになるのが嬉しいね」
「うん、それは確かに。顔の上半分を覆っているだけだから息苦しくはないけど、視野が狭まるよね。慣れてもたまに躓くし、歩く度にずれて鬱陶しいし」
「ずれるのは、君が小さいからじゃないかな」
「ちょっと! ひとが気にしてる事を。同い年だろ!」
「でも小さいのは事実だよねえ」
「喧しい!……でも、だからかな、会うたびに飴くれるんだ」
「誰が?」
「……彼が」
「おい!」
思えば自分は、ひたすら自由で居たかった。自儘である事を愛してすらいた。見習い神官は己の内を振り返る。行く道を指図されたり、誰かに腕をとられて歩調を乱されたりする事を、自分は昔から一番に嫌っていた。
家業の行商を継ぐ事を当然と考えていた両親の下を飛び出し、一緒に付いて来ようとした弟を振り払った。日雇い仕事を転々とし、気の赴くままに各地を流れた。南の街で酒亭の厨房にいた時、そこの娘に惚れられて求婚された。しかし、結局それも振り払った。豊かな黒髪と身体、薄茶色の瞳を持つ明朗な娘で大いに惹かれていたが、それでも結婚という名の束縛は耐え難かった。
そこはかとない罪悪感から逃げるように、その後はひたすらに北上した。
思い起こせば、彼女も、弟も、泣き顔ばかりが浮かんでくる。母親もだ。父親は背を向けて動かなかった。出会ってきた友人達も多かれ少なかれ皆、最後は淋しげな顔をしていたように思う。
それを深く考えもせずに北端の大神殿にまで流れ着き、厨房の下働きとして潜り込んだ。あの人に会ったのはその年の夏のことだ。やはり南方より淡い空色の昼下がりだった。
「お前、やはり……」
「違うよ。飴玉貰っただけで裏切ったりしないって。そんなに浅い恩じゃないよ」
「君はあの方に引き上げられたんだよね。見習い神官に」
「そう。大恩ある人だよ。敬愛してる」
「ならば何故、さっきから臆したような事ばかり言うのだ!」
「そんな事言ってないよ」
「言っているではないか!」
「まあまあまあ、声をおとして。こんな所で言い争いしてたら不審に思われちゃうよ。神湖の唄声でも聞いて落ち着いて。……君もね。この期に及んで何か迷ってるの?」
「迷っている、というか……あの人が罰を受けたりしないかと思って……」
「露見した時は、我等の一存で、という事にするんだ。問題は無い。どこかの誰かが裏切って口を割らん限りはな!」
「正神官は還俗出来ない。逃げたとしても、追手が見つけた時には必ず死んでる、って言われてる。神罰が下るんだって」
「それが今と何の関係がある! 正神官になるのが怖いのか」
「……もし、彼の奇跡が偽りなら、とっくに神罰が下っているんじゃない? 逃げた神官ですらすぐに罰せられるんだもの、俺達の出る幕じゃない……勝手に罰を与えたりしたら俺達どころか、あの人まで神の怒りに触れるんじゃないかと、そう思って」
見習い神官にはつい最近の事のように感じられるが、あの人との出会いは五年前になる。色の薄い夏空を眺めながら食材を運んでいると、神殿から異様な男が飛び出して来た。
当時は知る由もなかったが、半地下の牢に通じる通用口だった。男は窶れてはいたが血色は良いように見えた。伸び放題の髪と髭に埋もれて顔の造作はよく分からない。壊れたように腕を振り回して走るその男を追って、数人の正神官が駆けて来た。
状況を見た瞬間、食材を放って咄嗟に怪しい男の行く手を塞いでいた。揉み合いになった。男の金茶の毛髪から覗く、圧力を感じるほど強烈な眼光に怯んだ隙に、腕の肉を食いちぎられた。
怪しい男は結局、正神官達に取り押さえられた。獣のように踠く様は、明らかに正気ではない。血に塗れた顎はがくがくと震え、涎と共に意味の無い遠吠えのような声を発し続けていた。
遅れて来た正神官の一人が、地に押さえ付けられた狂人に乗り上がるような格好で抱きついた。縋り付いたと言っていい必死の態だった。高い位階を示す装いは、肩を噛まれたらしく半身が血に染まっている。踠き暴れた狂人が、我が身の拘束を振り払おうと他の神官達も巻き込んで地を転がり回った時も、しがみついたまま共に転がって離さなかった。
頼むから行くなと取り縋り、狂人のものと思われる名を何度も呼んで、身も世もなく泣いていた。それが、あの人だった。
見習い神官は今でも、当時の衝撃を鮮やかに覚えている。
あの人はほぼ最高位の正神官で、次期神官長の呼び声も高い、雲の上の人物だった。そんな立派な身分を持った壮年の男性が、血と土埃にまみれて子供のように身を投げ出して泣きじゃくる。その醜態は驚きと共に、何故か不思議と見習い神官の胸を打った。
何故かは分からない。ただ見習い神官は唐突に、自分が過去に置いて来たものが惜しくなった。自由を妨げるからと振り払ってきた涙が。引き止める手が。惜別の情が。
なにか貴重な、棄ててはならないものを棄てて来たのではないかと、――突き上げるような焦燥と、腕からの出血に、見習い神官は気が遠くなった。
「何を莫迦な事を言っている! 神が正しき者を罰するものか!」
「でも彼には神意が下ってる。神湖付きの巫女様達も賛成してるって聞くよ。俺達は神様よりも正しいの?」
「巫女も神官長も彼奴に騙されているのだ! もともと他の大神殿で何かやらかして、罰として此処に飛ばされた奴だぞ。大悪党なんだ。奇跡だって、何かの手妻に違いない!」
「だからそれが……ああ、もう。何が正しいのかはどうでも良い。俺はただ心配なんだ、あの人が。おかしくなったって噂もある。彼が奇跡を発現してからもう半年近く……滅多に人前に出なくなってしまったし。面会も拒否されるし。誰か最近あの人と話せた? 俺は遠目に一度見ただけ。今日の事を決めた集会の時に」
「僕もだよ。窶れただけとか、別人みたいになったとか、狂ったみたいだとか、人によって言う事が違うよね。でも僕はあの方を信じてる。ずっと努力を重ねて来た方だもの。報われないなんて、おかしいよ。そんな事があっていい筈がない。威厳があって、下々にもお優しくて公平で……あの方こそが相応しいよ。
今は気分が沈んでしまって、少し普段言わないような事を言ったりするみたいだけど、きっと、すぐ元通りに戻るさ。弟君が神湖に呼ばれた時だって、ちゃんと立ち直ったじゃないか」
「そうだ、次期様の本質は何も変わってなどいない!」
「……でも、他人の死を望む言葉を口にする人じゃなかった」
食いちぎられた右腕の傷は今も残っている。
狂人は、あの人の実弟だった。稀に自ら北の黒き湖への身投げを敢行する人間がいる。神殿ではそれを『神湖に呼ばれる』と表現するが、実際は言葉ほど生易しいものではなかった。突如として発狂し、完全に分別を失い、手負いの獣のように自他を傷つけ暴れまわる。そして命尽きるまで、周囲がどんなに拘束しても、ただひたすらに神湖を目指すのだ。
かの狂人も後に神殿から逃走し、神湖で命を落としたらしい。
腕の負傷を気遣って、あの人は何度も見舞いに来てくれた。極めて高位の神官が一介の下働きに頭を下げて謝罪し、利き腕に僅かな後遺症が残った事を理由に、その身分を見習い神官にまで引き上げた。それはもう贔屓ではないのかと、当時は陰ながら姦しく騒がれたものだ。
優しい人だと分かってはいるが、あの人は少しそれが過ぎるのだ。見習い神官は、脆い生き物を抱え込むように暖かな、哀しい気持ちでそう思う。自身の評判や名誉より自分以外の人間を気遣う性質は、人の上に立つには危ういのではないかと心配になる程だった。
見習い神官にとって、あの人は過去の誤ちに気づかせてくれた恩人であり、神官としての教えを仰ぐ大先輩であり、仕えるべき高位の上司だった。今まで何より大事にしてきた自由を捧げて余りある存在。
その人が、殺人を使嗾した。
頭の中が真っ白に飛ぶほどに見習い神官は驚き、今日の昼に我に返ったあの瞬間までずっと、呆然と驚き続けていたように思う。あの人は、北方神官長の地位に目が眩んでしまったのだろうか。王すら跪く四大神官長の地位に。
――高いもの、尊いもの、正しいものに近付く時は一層の注意を払いなさい。人は闇に迷うと同様に、光に目が眩む。どちらにも偏り過ぎぬよう、均衡を心掛けなけねばならないのだ。
そう言って、あの人に傾倒しがちな自分を諭したのは、他ならぬあの人自身だったのに。見習い神官は唇を噛んだ。
「はい待って。殴ったら駄目だってば! 目立たないようにって言われてるでしょ!」
「こ、この不忠者! 次期様はな、正しい事を成す為に止むを得ず辛い立場に身を置いているのだ! それを!」
「抑えて、おさえて。……君もどうして今更そんな事を言うかな。あの方を信じられない? あの方の御慈悲で今の身分になれたのに?」
「全くだ、恩知らずめ! 次期様は何も変わってなどいない。お嘆きの元を断ち、誤ちを正せば、もとの聡明な優しいお方にお戻りになる。これは次期様の為なのだ!」
「そうだよ。今までのあの方を信じようよ。散々お世話になってきただろう?」
「……うん、分かってる。今は追い詰められて余裕が無くなってしまっているけど、本当は優しい人だって知ってる。ちゃんと」
「そうそう。その調子。一緒にあの方に忠義を尽くそうよ」
「信用出来ん! 本当に大丈夫なのか?」
「うん、うん……もう大丈夫。ねえ、これ以上迷わないように、少しだけ礼拝しても良いかな」
「莫迦! 今から礼拝堂まで戻る時間がある訳がないだろう! お前、やはり次期様の計画を狂わせて、何か良からぬ事を企む心算ではないだろうな?」
「違うよ、心を鎮めたいだけ」
「でもねえ、礼拝したい気持ちもわかるけど、戻るには遠すぎるよ。時間が……あれ、こんな所に礼拝堂があったの?」
上階へ続く階段の両脇に垂れた壁掛けのうち、向かって左の、奉献歌第四十一番が金糸で織り込まれた布を、見習い神官は丁寧に捲った。神湖近くに居住する資格を持った巫女しか歌唱を許されない神聖な歌の奥に、教えられた通りの扉があるのを確認して小さく吐息する。
扉の中の礼拝堂は装飾こそ少ないものの、隠し部屋とは思えぬほどに掃除が行き届き、小ぶりながらも正式に整えられていた。正面に祭壇が置かれ、両側の壁は神湖の加護を表す黒の糸花網に幾重にも覆われている。奥の壁には大きな神の目の彫刻。祭壇の左右の燭台には既に火が灯され、膝をつく為の鮮やかな、毛足の長い敷物が置かれていた。
見習い神官にこの隠し部屋を教えたのは、頭髪にかなり白の混じった年配の正神官だった。現神官長の親戚で信頼が厚く、奇跡を発現した彼の守護に就いているらしい。数日前にこの計画を知っている事を仄めかされた時は、心臓が止まる気がしたものだ。もちろんその時は否定したが、確信があったのか白髪の正神官は退かなかった。この部屋を教え、決行時には報せて欲しいと頼んできた。未遂なら首謀者を含め皆、悪いようにはしないから、と誓紙まで持ち出して。
あの人に大恩があり、子飼いと言っていい立場にいる自分を捕まえて一体何をほざいているのかと、見習い神官は怒るより先に呆れてしまったが……今となっては、あの白髪の正神官には見る目があったというべきなのだろう。
所々を黒檀と湖曜石とで装飾された石造りの祭壇には、供物と聖鈴と聖句集が置かれ、燭台の明かりに影を揺らしていた。初見では分かりにくいが祭壇の中央、三巻積まれた聖句集の後ろにもう一つ燭台があり、それには火が入っていない。
「こんな所よく知ってたね。僕は全然知らなかったよ」
「ほう、祭壇にきちんと湖曜石が使われているとは。小さいが立派なものではないか。……この生きているように波打つ輝きは、何度見ても不思議なものだな。心が鎮まる。四大神湖が色を分かつ前の、原初の湖水の結晶だという説は本当なんだろうか」
「どうだろうねえ。吸い込まれて呑まれてしまいそうで、正直言うと僕は少し怖いよ」
「この後は正神官になれるんだ。そんな臆病な事を言っている場合じゃないぞ。
それにしても、落ち着ける、良い場所だな。居住区にあるのが良い。なぜ今まで教えてくれなかった?」
「俺もつい最近知ったんだ。正神官様が入っていくのを偶然見かけて。もしかしたら正神官専用なのかもしれないけど、注意書きも無いし、別にいいよね」
「問題ないだろう。駄目なら普通、どこかに掲示があるはずだ。
おい、ぐだぐだするのはこれが最後だぞ。決心しろ。真摯に礼拝して、もう迷わずに神殿内の誤りを正し、次期様に忠義を尽くすと誓うんだ。……私も頭を冷やす事にする」
「うん、ありがとう、そうするよ。ちゃんと心を決める。あの人の為にならない事はもう、しないよ」
どういう仕掛けかは知らないが、祭壇中央の燭台に火を入れると、あの白髪の正神官に報せが行くようになっているらしい。それが決行の合図だと言われた。多分彼の警護が厚くなるか、避難させるかするのだろう。この部屋にも人が来るのかもしれない。襲撃は失敗する。
見習い神官は膝をつき、祭壇の前に進み出た。
祭壇の奥の壁には、気圧されるほど大きな神の目の象徴が彫られていた。それは神瞳と称され、目の輪郭の意匠で表される。瞳と呼ぶ割には虹彩も瞳孔も無く、精緻な装飾の刻まれた輪郭の中は全くの空白であった。『目は人を導く』と聖句にはあるが、これでは何処に導かれるか知れたものではない。見習い神官は以前から疑念を抱いていた。あまりにも無責任に過ぎるのではないかと。
だが、今は……見習い神官は、状況にはそぐわぬ落ち着いた心持ちで考える。神瞳は能動的に何処かに導く物ではないのかもしれない。それはずっと変わらずに在って、人々を見下ろすだけだ。極星のように。そして人々は、時に目的を持って仰ぎ、時に振り返り、それを見上げて己の位置を知る。神瞳の意味はそれに尽きるのではないか。
何千年経とうとも揺るがない、善悪とはまた別の根源的な道標。その存在がある限り、人は本当の意味での迷子にはならないのだろう。
見習い神官は神瞳を見上げ、過去の自分を打ちのめした涙を思い返した。狂った弟に取り縋り、大の大人が恥も外聞もなく、子供のように泣きじゃくっていた。あの涙が、自分には湖曜石などよりよほど尊くて。大切で、温かくて。
――優しい人だと知っている。
神瞳から視線を下ろし、見習い神官は数瞬瞑目した。そして中央の燭台に火を灯すと、身を屈めて深く、神前に額づいた。