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雨垂れ

【縦書き表示推奨】

雨垂れっぽく見える……かもです。

かも、です。

灰白色の煙が薄闇に揺蕩う。

幾重にも緩い螺旋をった煙のすじは

宙空で、折からの隙間風にあおられ、

 ゆうるりとほどけて滲んだ。

外では安らかに春の雨が降っている。

男は葉巻を咥えたまま膝を抱えた。

男の肌は、鮮やかで不快な青色だった。

茫漠とした目で痩せ衰えた腕を眺めていると、

ぽつんと肌に白い雫が落ちた。

見る間にぽつぽつと白は増え、太古の賢者の

俗塵を流して最奥の真実を悟らせたという

翠雨で洗われたかのように、男は漂白

されていった。どんな陶器でも追いつかぬ、

輝かんばかりの眩しい白だった。


男は顔を上げた。複雑な文様を織り込んだ

柔らかな布を敷いた広大な部屋の、彼は主だった。

中央の円卓は、艶木の優美な脚を敷布の毛足に

埋めていた。卓面は玻璃だった。

まろやかな黄金造りの水差し一式が、

灯火の光を弾いていた。男が認識出来たのは

その狭い範囲だけであったが、この部屋は

都のどんな名門のそれよりも、綺羅びやかで、

美と威厳に満ちているように思われた。

幾百人もの人間を、指先一つで思うがままに

 動かせる、金と権力の匂いがした。


白い両腕を上げ、顔中の筋肉を緩めて

男はそれに見蕩れた。左の甲に愛おしげに

頬を寄せる。この国では青い肌の人間は

神罰の民。東の青き湖を失わせ、神の怒りを

蒙った人々の末裔として、世間の底でしか

生きられぬようになっているのだった。


 不意に、空間が凍りついた。


喉を圧迫する強烈な嘔吐感に男は身を

二つに折った。臓物が全て裏返り、せめぎ合う。

喉は千切れんばかりに捻れて狭まり、

呼吸も出来なかった。辛うじて口を開けた。

があ、と異様な苦鳴が漏れた。瞬間。


 全てが断ち切られ、闇に沈んだ。


 ――――

   ……小止み無く、細かな水音が続く。


男は頬を滑るひそやかな風に、

ふと意識を覚ました。心に遥かな蒼穹を

描くような、不思議な匂いがした。


床に転がったまま深く息を吸うと、喉が

ぎりぎりと痛んだ。可怪しな事に目の届く

範囲に吐瀉物は無い。吐かなかったのだと男は

考えた。男の使う幻薬くすりは最下級の安葉

なので効き目が切れるのも早く、嘔吐や

頭痛等の副作用も大きい。中毒性も

高かった。おまけに三度に一度は恐ろしい

狂夢に引き込まれる。望む幻を得られ、かつ

嘔吐も無かったとは素晴らしい僥倖だった。


 不思議な風がまた、流れた。


頭上からであった。同時に感じた

 柔らかな何かが頭上で動く気配に、

男は素早く身を起こした。

片膝をつき、腰帯から小刀を抜く。

その切っ先が躊躇で揺れた。


見た事のない少女が、獣油の薄明りの下に居た。

白い少女だった。長い白髪を左側で

一つに束ね、五色の紐で結わえている。

同じ紐が手纏たまきにもしてあった。

肌は煙るような白。つやつや光る生地の、袂の

長い衣服もまた。ただ、両膝をついた

少女の足元に麗魚の鰭のように広がる裳裾は、

湿った土でひどく汚れていた。

この廃材で出来た長屋の狭い部屋には、

床板という物は存在しない。


相手が小刀を抜いたにも拘らず、

少女の表情には警戒も恐怖もなかった。

濡れた玻璃玉のような緑の瞳は、

焦点を前方に定めたまま小揺ぎもしない。


不意にその口元が笑み、

 軽やかな言葉を幾つかこぼした。


男は困惑した。名詞と、全体の語感は辛うじて

分かるものの、まるで聞いた事がない

言葉遣いであった。語尾の響きが弦の音に似て

典雅で、男の耳に残る。気がつく、という

言葉だけ、男は理解出来た。少女の

声音には喜びと安堵があった。どうやら男が

意識を取り戻した事を、喜んでいるように見えた。


お前は誰だと小刀を下ろさずに男は誰何した。

少女は小鳥のように首を傾げた。

相手の言辞が耳慣れないものである事は

少女も同様らしい。傷一つ無い、

爪先の丸い人差し指を可愛らしく立てて

 ――もういちど

とゆっくり言った。男はその通りにし、

何故ここに居るのか、という問いも付け加えた。


素直に少女な名乗った。そして、ここに

居るのは、連れとはぐれて道に迷っていた折に、

男の苦鳴が聞こえたからだと答えた。

少女の名は長い、銀糸の束を振るような

さらさらとした音の連なりで、男は

一度口中で呟いてみたものの、

頭を振って、後は二度と唇に乗せなかった。

自分の名も故意に噤んだ。


少女の身分を理解するには少々時間を要した。

四大神湖の一つ、西の白き湖の付近に

住んでいる事は分かったが、

 巫女として仕えている、という言い回しが

男にはどうにも理解出来なかった。

少女は幾度かの失敗を経て、神殿の子だと

言い換えた。それは成功だった。


男は息苦しげに少女を睨みつけていたが、

ふと、その傍ら視線を遣った。

白い物が置かれていた。布の塊だった。

男は素早く少女の片袖が無いのを

見て取るとその白い塊に触れ、小刀を鞘に

納めた。彼の吐瀉物を拭い寄せ、

袖の布を被せて包んであるのだった。


灯火が揺れた。黒い煤が散り飛び、

 独特の獣臭い油の匂いが鼻を打った。


この廃材と屑を積み上げたような、壁と屋根と、

ひとつの窓という名の隙間だけの部屋を

照らすのは、片手ほどの大きさの灯火であった。

裏街でも下層である男の住まいは、部屋と

言っても、丸められた毛布の他に家具らしき

物は無い。異臭の灯火に影を伸ばすのは、

汚れた毛布と、男と、夜更けの珍客のみである。


男は暫く無言で白い塊を凝視していた。

 やがて顔を起こし、その拍子に咳き込む。


すい、と少女が立ち上がった。白い煙が

昇るかのようであった。戸口に歩み寄ると、

細く戸を開いて何かしていたが、

少しして手に何かを持って戻ってきた。

男が止める間もなく、真白い衣を惜しむ

素振そぶりもせずに無造作に地に

座り込むと、少女は両手を宙に差し出した。

鼻先間近に突きつけられた物を、男は

呆然と見つめた。緩く湾曲した虹色の欠片は、

雨水をいっぱいに湛えていた。貝の

一種なのか、鉱物の粉を塗って光沢をつけた

物なのか、男にはさっぱり分からなかった。

ただ、少女の装身具の一部なのだろうと思った。

 ――どうぞ

と手振りで瀟洒な玉杯が勧められた。


少女の右袖にかるく手を掛けておずおずと

男が欠片の端に口接けると、少女は

それを傾けた。温い甘露を、男は嚥下した。

 ――具合はどうですか

邪気の無い声が尋ねた。男は震える声で

礼を言った。安心したように少女は欠片を

膝に置くと、此処は何処なのか、

という意味の事を訊いてきた。男が

 ――裏街の南の端だ

と答えると僅かに眉根を寄せたが、すぐに気を

取り直して、では大通りか中央神殿の方に

出るにはどう行けば良いのか、と続けて問うた。


男が口を開くと同時に、内側から部屋に

蓋をしている戸板が、狂気のような音を立てて

軋んだ。複数の男達のがなり声が聞こえた。


男は戸外の声に覚えがあった。近所の

破落戸どもだった。用向きは分からないが、

彼等のもとで幻葉を運んで日々の糧を

得る身としては、とにかく速やかに戸の

突っい棒を外す必要があった。

問題は少女である。破落戸どもに見つかって

良い存在だとは、男には思えなかった。

崩壊しそうな戸口を横目で見遣りながら、男は

大急ぎで唯一の生活用品を引き寄せ、

被れ、と短く囁いて少女にそれを与えた。


土まみれの毛布を抱き締めた少女の顔には

明らかに怯えがあった。無理もない事だったが

労っている暇は無い。獣油を調節して

灯火を更に暗くしながら、男は戸口から

死角になりそうな、隅の暗がりを指差した。

 少女は動かなかった。追い払うように

男は腕を振った。全く反応はなかった。

魂のある人形のように動かない。


 男はふと息を呑んだ。


応えるように少女は双手の先を

目の下に当てて首を振った。


ぎゅっと男の顔が歪んだ。口端が釣り上がり、

鼻の上に深い皺が寄る。痛々しい

ほどの自嘲に張り詰めた目が、瞼に覆われた。

しかし、男は何も言わなかった。

そんな表情をしてみせたのも、ほんの数瞬で、

男は少女の腕を取って死角に導くと

肩を押さえて座らせ、ばさりと毛布を被せた。

振り向いて戸口を見据えた時にはもう、

薬に憑かれた、活きの悪い顔に戻っていた。


戸の突っい棒が外されると、

訪問者の勢いで戸も外れた。

逞しい、猛禽のような顔の男を中心に、

三つの人影が、不機嫌に並んでいた。

猛禽が一方的に捲し立てた。数回の問答の末、

男は猛禽にぐったりと首を振った。すると

右側の、肥満した人影が男の頭を鷲掴みにして

家の中に向けて投げ飛ばす。男は濁った

悲鳴と共に、ごろんと転がって床に伸びた。

 それで終いだった。


破落戸たちは見向きもせずに

 春の雨をいて走り去って行った。


濡れた足音が遠ざかり、雨音が戻ってくる。

裏手で犬が鳴いた。娼婦の嬌声が雨脚を追った。


むく、と無言で起き上がり、男は戸を嵌め直す。

少女はまだ部屋の隅で毛布の塊と化していた。

一瞥しても男はそちらには行かずに、

灯火を弄り始めた。厳しい表情で獣油を注ぐ。

じじっ、と不純物が爆ぜて黒い煙を吹いた。

足元に影があらわに映るほど炎を太くしてから、

男はやっと手を止めた。少女を顧みる。

 ――もう、出てもいい

と出来るだけ抑えた声音で、基本的な形の単語を

並べる。少女に分かりやすいよう、充分に気は

遣われていたが、先刻より幾分か固い口調だった。

少女は、それを緊張の名残と取った。


 ――あの人達、私を探していた?

毛布を除け、丁寧に畳みながら少女が尋ねた。

気配が分かるのか、緑の目は真直ぐに

男を向いている。盲目だとは、申告されなければ

とてもではないが信じられない事実であった。

 ――白い髪の女、と言っていました。

 ――私を探していた。そうですか?

少女はゆっくりと一言ずつ区切って話した。

男の為に、男の理解出来そうな言葉を選んで。


ぽとり、と華奢な肩に水滴が落ちた。

男は少女に近寄り、恐るおそるその袖を引いて

雨漏りの場所から離し、そっと座らせた。

男の表情はまだ固いままだった。

 ――ありがとう。匿って下さって。

少女が言っても、男の表情は和らがなかった。

 ――あの人たち、悪い業の人たちです。

 ――私はとても怖かった。

そしてもう一度礼を言った。男はなお唇を

引き結び無言だった。その顔に安堵の

色は無かった。実際、かなり危ういところ

だったのだ。少女に、他人の家の戸口に

いちいち突っ支い棒をかる律儀さが

なかったら、今頃どうなっていた事か。


男はふと表情を動かし、

 ――どうやって、ここに入ったんだ?

と訊いた。盗る物とて何も無い、最低限の

家具すら無い部屋だ。盗難を警戒している訳では

ないが、薬酔を邪魔されるのは御免なので、

薬を吸う時は常に棒をきちんと嵌めているはず

だった。男の分際に似合わず、戸板と

突っ支い棒はしっかりと頑丈に出来ていた。

男が生きている唯一の実感を守る為の、

たった一つの盾として。

 ――戸が開いていました。

事も無げに少女は答えた。男は口を開き

かけたが、思い直したように噤んで、

そうか、とだけ言った。苦痛に転げ回っている

時に、何かに激突したような記憶が、

 微かに有るような気がしたのだった。

その拍子に開いたのだろう。


会話が途切れ、さあ、としめやかな雨音が家内を

満たした。黙って聞き入っていると、過去の、

好んで忘れていた類の記憶を、体内のどこかから

揺り起こしてしまいそうな気がする。

 ――あおい……青い人間をどう思う?

沈黙を振り払うように男が喋り出した。それは

聞くまでもない事であった。白い人間は

清浄で尊く、青い人間は不浄で許されざる

罪を犯した、唾棄すべき存在である。

襁褓むつきの中の子が必ず語られる神話だった。

青い人がこの世で生きていられるのは

白い人々に慈愛と忍耐があるからだ、と。


少女の怪訝そうな顔から目を逸らし、男は

捲し立てた。空気を求めて喘ぐような

声は、二つの異なる恐怖に締め付けられている。

 ――そりゃあ、青い人間は罪人だ。

 ――悪い事をして東の青き湖を枯れさせて

 ――神さまに憎まれた村人の子や孫だ。

 ――でも、でもな、今の青い人が

 ――神さまを莫迦にした訳じゃねえ。

 ――ちゃんと大事に思ってるんだ。

にべも無く拒絶される事に対する恐怖と、

自ら作り上げた都合の良い期待に対する恐怖。

青い男は自分が何かに期待を持つ事を

禁じていた。少女に口を開く暇も与えず、

溺れるように言葉を続けた。

 ――なあ、どう思う。やっぱり

 ――同じ場所に居たりするのは嫌か?

 ――嫌だろうな。やだろ。うん。

 ――それが当たり前なんだ。あんたが

 ――どんなに優しい人だって、やっぱり

 ――穢れた人は嫌いだろうからな。


少女の頬に、微かな震えが走った。男は

それを見逃さなかった。他人の顔色を

正しく読む術に、残念ながら男は長けていた。


 ――あなたは……!


少女は声をあげたが、急に、壁に打ち当たった

ように息を呑んだ。雨音が相応の質量を以て

家にのし掛かる。長い沈黙が、何もかもを雄弁に

知らしめた。男の両足はがくがくと震え出し、

やがて膝が地についた。怯えたように顔を覆う。


少女は微動だにしなかった。その瞳は、やはり

感情を映さない。ひたすら無機質に灯火の

揺らめきを宿すのみでいる。男の中で張り詰めた

沈黙の密度が、狂気の決壊にまで高まった。


不可視の、強い衝撃に似た一瞬であった。

この瞬間を男は後々まで忘れる事はなかった。

男が短刀を鞘走らせるのと、少女が口を

開くのとが、奇跡のように同時だった。

 ――私に会ったことは?

喉の奥から絞った掠れ声を少女は出した。

その喉の手前で短刀を止めたまま、唐突な

問いに男は返事を失った。

 ――会った事はありませんか?

 ――よくよく思い出してみて下さい。

 ――昨年の春、都小路の川で。

覚えなどない、と男は叫ぶように言った。

男の頭はすっかりと混乱してしまっていた。

が、少女は水のように静かに、

 ――そうですか。

と吐息した。承知の上であったらしい。

落ち着いた浅い溜息だった。

 ――声が……声がとてもよく

 ――似ていたものですから。

極めてゆっくりと、一語ずつ確かめるように

少女は語りだした。男は僅かに刃を引き、少女の

水滴のように張り詰めた透明な表情を見つめた。


 ――昨年も、この定例の護条のお勤めに

 ――お伴した、その時のことでした。

 ――お使いの帰り道で、私、百舌鳥の声に

 ――驚かされて、母の形見の腕飾りを

 ――小川へ落としてしまいました。


 ――その時、何も言わずに川の中へ

 ――入って、腕飾りを掬い上げてくれた

 ――方がいらっしゃいました。

 ――お急ぎの用でもお有りだったのか、

 ――謝礼を申し上げてもそこそこに

 ――遮っておしまいになり、お名前も仰らぬ

 ――ままに去って行かれましたが……


少女は物を思うように少し間を置いて、

 ――あのお方が、壊れずにいて良かった

 ――と仰って下さった、あのお声は、

 ――私、夢にも忘れません。


初めてここで口にした言葉遣いより

程度は落としてあるのだろうが、それでも

充分に男の理解を妨げる丁寧な語り口で

少女は言を閉じた。話の粗筋を呑み込む為に

男は三息ほど間を開けた。


 ――そいつの声が、俺に似ているのか?

小さく頷いてから、少女は、

 ――はい。

と口に出した。開き直ったような響きだった。

 ――そりゃあ、人違いだ。

少女は同じ動作を繰り返した。家内の静けさに

雨は止んだのかと男は窓の方を向いたが、

まだ雨音は薄く続いていた。

 ――人違いもいい所だ。知らん人間に

 ――そんな事をして、金も物も取らずに

 ――済ます奴は、青の中には居ねえ。

 ――そんな莫迦をするのは、白いのだけだ。

 ――そうだ、第一足音が違っただろ?

 ――こんな、べたべた汚い素足の音

 ――じゃなくて、かつかつ固い、

 ――きちんとした靴の音だっただろ?


完全に刃を引いて立ち上がり、男は少女の

向かい側に腰を下ろした。はずみで地に置いた

葉巻の箱を蹴飛ばしたが、気に留めなかった。

少女は小鳥のように首を傾げて、

幻めいた穏やかな微笑みを男に向けたまま、

ついに返事を口にしなかった。


これが、優しいという事なのかも知れない、

と男は胸部むねを失うような心細い気持ちで考えた。


先刻の物音に反応したらしく、少女はささくれの

目立つ木箱を探し当てて手に取った。

男から見れば、少女の柔肌など触れただけで

怪我をしそうに思えたが、当の本人は

全く意に介さずに首を傾げた。

 ――何か入っていますね……

 ――開けてみても良いですか?

と慎重に尋ねる。男が許すと、少し手間取って

蓋を外した。そっと繊細な指を伸ばして、

数本の葉巻を撫でる。少女はその指先を鼻の

前にかざし、少しの間考え込んだ。

どのように躾けられてきたのか、嗅いだ事も

無いであろう刺激臭にも眉一つ動かさない。

 ――これは何ですか?


 ――葉巻さ、知らねえかい?

 ――先っちょ、いや、先の方に火を点けて

 ――反対の方を吸うんだ。不思議な煙が出る。

 ――見える筈のねえ夢が見えて

 ――嫌な事を何もかも忘れられるんだ。

 ――痛いのもつらいのも忘れる。

 ――すげえいい気持ちになる。

 ――この為に生きてるんだ。

 ――これが無くちゃ、おれは酷い

 ――生き物になっちまうのさ。

 ――死ぬよりひどいのさ。


少女は僅かに盲いた瞳を見開いた。

 ――ここに火を点けて、こちらの方を

 ――吸い込むのですか?聞いた事の

 ――あるような気が致します。

 ――痛みを忘れられるのは、素晴らしい事

 ――ですね。お薬の一種でしょうか。

 ――痛みを、忘れる……

安物の葉巻の輪郭を、少女は丁寧に

まさぐった。興味を惹かれたらしかった。

男はそれを見てとり、身を乗り出した。

 ――やってみるかい?

少女は初めて年相応の表情を見せた。

 ――良いのですか?

細い指で一本摘み上げて、掌に乗せる。


俄に強まった雨音に気を取られたように

ぼんやりと男はその行為を見守っていたが、

不意に、ぎこちなく笑って、

白い掌の上の葉巻を取り上げた。

 ――いや、嘘だ、うそだ!

取り返した葉巻を懐に捩じ込む。

 ――痛みもつらいのも都合よく消えて

 ――無くなったりしねえ。

 ――それに、白い人には必要ないもんだ。

 ――そうじゃないか。痛さもつらさも

 ――大して知らないだろ?

 ――あんたみたいな、優しくて、綺麗で、

 ――幸せに生まれついた人はさ。


花弁を思わせる五指を、その瞬間、

少女は強く握りしめた。拳は目に見えるほど

震えていたが、男は同じ事を繰り返し

喋り続けていて、それを見ていなかった。

少女は物言いたげな顔で男の方を

向いていたが、やがて身体の力を抜き、表に

見える全ての感情を内に仕舞い込んだ。


 ――聞いて下さい。私は……

唐突に凪いだ、低い声音に驚いた男は、

口を噤んで少女に注目した。

 ――私は、目が見えないのです。

 ――あなたも、私も、見えないのです。


 ――おう、そりゃ、もう知ってるさ。

 ――どうしたって言うんだ?

 ――まだ何かあるのかい?


深く俯いていた少女は、かなりの沈黙を

置いてから、首を横に振った。男が

どんなに先を促しても、発言自体を打ち消す

かのように少女は頭を振り続けた。

五色の絹紐が白い髪に絡んで映える様が、

男には夢を見るように感じられた。

 促すことも終には忘れた。


戸の外を、水を踏んで行く荒々しい足音が

過ぎる。男はびくりと立ち上がった。

完全に通り過ぎ、雨音一色に塗り替わるのを

待ってから、ふうと安堵の息をつく。

 ――まあ、いいや。俺にはよく

 ――分からねえ。それより、あんたは

 ――もうあんたの場所へ帰った方がいいな。

 ――裏の川沿いの柳を行くか、

 ――雨に紛れて通りを突っ走るか……

 ――その前に、あんた走れるのか?

 ――背負ってやろうか?

男は未だぎこちなく、作り笑いを少女にむけた。

少女は俯いたまま、丁寧なお辞儀をした。

 ――よし分かった。背負って行こう。

 ――青くて汚い人間だけど我慢してな。

 ――俺はちょっと辺りを見てくる。

 ――川沿いの方が見つかりにくいはずだけど

 ――今夜はどこに人が居るか分からない

 ――からな。すぐに帰って来る。

 ――戸の突っ支い棒は掛けておいてくれ。

 ――すぐだからな。

少女から目を離し、男は煤けた天井を

見上げた。雨音に負けたかのように、獣油の

炎が火の粉を吹いて瞬き、一段と暗くなる。

 ――うん、雨が降ってる内に出て

 ――行った方がいい。……そうだろ?


 ――――――

   ――――――

     ……………………

     ………………………………






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