松声
「あたしは、あんたを絶対に許さない! 一生だ! 他の誰が何を言ったって!」
薬師の服装をした中年の女は、そう叫んで地に唾を吐いた。
「大体、あたしは最初から反対だったんだ! あんたが落人だって聞いた時から、嫌な予感がしてた。娘をやるなんて冗談じゃないと思った。それをあの娘がどうしても、って言うから……。あんたら貴族は、いつだって下々のことなんて道の塵ほどにも思ってない。血が欲しいんだろう? あの娘を、あんな若いうちに死なせてでも、あんたの血を引く子が! 人殺し! 許さない! 許さない!」
女薬師は眼前の男を見つめ、――荒い呼吸を吸い込んで、なおも見つめた。これだけ気を込めた言霊が相手を無傷で生かしておく筈がない、と次の瞬間に男が血を吐いてのたうち回るのを、ひたすら待っているような目つきだった。
長い沈黙が凝った。
女薬師の背後、細葉を水に下ろす川縁の柳の一群を、男は眺めていた。罵られている間も、ずっと。幾日か前から端の枝に引っかかっている小凧の朱色が、薄暮の月にも明らかだった。折からの風が緩やかにそれを煽る。緑を散らす独特の香りを含む、初秋の風。
男の義母の批判は悉く的を外している。彼は血を残すことも、妻の産褥死も欲してはいなかった。
凧のあの鮮やかな色は、常に男の悪感を誘う。切り取られた、平たい、血液の色。故郷に置いて逃げて来た全ての記憶が、あの色に集約していくように男には感じられる。
「こっちを見て、何とか言ったらどうなんだい! 道の塵にだって心はあるんだ! あんたは、声をかけるのも莫迦ばかしい、って顔をしてるけど、あたしらにだって心はあるんだよ!」
男はゆっくりと義母に目線を移した。
「その顔だよ! その顔!」
女薬師はとうとう泣き出した。肉付きの良い小柄な体は、泣き顔を伏せると小さな手毬のようになった。男は目を逸らし、青黒い空を見上げ、元の柳に目線を戻した。
「……莫迦にしてるんだろう? 実の娘一人説得出来ない能無しの母親だって、嘲笑っているんだろう? ああそうさ! もうあたしはあの娘に対して何の力も持っていない。全部あんたが取ったんだ。……どうして落ちて来たの! あんたは貴族の顔をしてる。身分を捨てたって言っても、少しも変わらない。ふてぶてしくて、平民を人とも思わなくて、市井の塵どもなんて指一本でみんな消せると思ってる。あんたの顔は貴族の顔だよ。どうしてあたし達の所に落ちて来たんだい! あんたは、あんたの世界で大人しくしていれば良かったのに!」
濡れてふやけた顔を女薬師はぞんざいに手の甲で拭った。刃物のように細めた瞳で男を見据えると、やにわに三歩ほど駆け寄った。
「おばさん、おばさん、何してるの? 中に入って、あいつの熱を診てやってよ。下がらないんだ」
裏戸を開ける音と同時に、落ち着き払った若い女の声が届いた。女薬師は数瞬硬直し、――半端に振り上げた右腕を下ろして小さく舌打ちした。歪んだ表情を第三者から隠すためか、素早く俯く。その後頭部を男は無言で眺めていた。このように小さな薄茶の頭部の内で、自分への赫々たる憎悪が溢れんばかりに煮え滾っているのだと思うと、少々不思議な気持ちがした。
女薬師は踵を返すと、裏木戸の女と短い言葉を交わして入れ替わりに家に入った。男は呆然とそれを見送った。
「あれでも、普段は優しくて腕の良い薬師なんだけどさ。やっぱり人の親なんだねえ。子を想う親は闇夜の気狂いだとも言うからね。……可哀想に」
柔らかく微笑みながら女が言った。首の後ろで無造作に結わえた、すらりと長い後ろ髪が、風にそよいで横に流れた。
「大丈夫かい? なんか、精も根も尽き果てた、って顔をしてるよ」
そう言うと、突っ立ったままの男に歩み寄り、切れ長の澄んだ目で彼を見上げる。掌を差し伸べて、男の腕をかるく撫でた。
「ひどい事を言われたね」
女を見つめ返して、男は小さく首を振った。全ての者を憐れんでしまうのは、この女の歪な、悪い癖だと思った。
「また熱が出たのか?」
川べりに視線を逃して男は囁いた。妻の友人である女は、神妙な表情で首肯した。川に沿って広がる穂草の群落は、しゃらしゃらと硬い音をたてて風に身を揺すっている。秋が深まると、あの穂は輝くような金の綿毛を吹く。その光景がこの辺りの一番美しい見物なのだと無邪気に教えてくれたのは妻だ。
男は吐息した。妻のことを特別に愛している訳ではなかったが、妻の方は男を心から愛してくれていた。失いたくはなかった。
「ねえ、本当に大丈夫かい?」
男の視線の先に回り込んだ女が小首を傾げて聞いてくる。ぎこちなく男は微笑んでみせた。この女の底知れず澄んだ双眸は、清水のように人を鎮めてしまう。落ち着いたその優しい姿も。男にはそれが有難くもあり、困った事でもあった。男のように心に傷を持ち、その痛みを頼りに立っているような人間にとって、この女は少し危うい存在だった。
「大丈夫なら家に戻ろう? 暖かいし、夕餉の支度がもうすぐ出来るよ」
そう言って体の向きを変えた女の腕を。男は思わず捕まえた。男は傷つくことには慣れていた。少なくとも自身ではそう思っていた。後で泣けばいい。どうにも絶えられなくなったら、死んでしまえば良いのだ、と。
だから自分の行動には男も驚いた。二人は顔を見合わせた。何か考えるより先に、男は自分の口から出た言葉を聞いていた。
「――私は、貴族の顔をしているか?」
女が目を見開く。男は内心で今の問いを後悔した。憐れまれたくはなかった。視線を背けようとした男の頭を、応えの代わりのしなやかな女の腕が包み込んで引き寄せた。
「大丈夫だよ。莫迦だねえ。大丈夫」
そうして小さな子供にするように髪を撫でる。女の左肩に額を埋めて、男は堪らずに目を閉じた。風が急に強まった。何処からか松葉が、水波の音のようにさざめくのが聞こえた。
故郷の何もかもに背を向けて逃げてきた筈なのに、風が、――ただ風だけが懐かしい針葉樹の声を連れて来る。
男は瞼を震わせた。この女も、この地面も、この川音も、故郷のそれではない。時折男は、自分が全くの異邦人になったかのような気さえする。見れば見るほど身の周りの全てのものは、無言の力で男を押し戻す。
しかしそれは、例え故郷に帰ったとしても同じ事だ。男には分かっていた。
昔、形良く整えられた松は避暑地の別邸の庭を飾っていた。男は生粋の貴族だった。松の葉擦れと、氷の器に注いだ酒とで涼をとるのが、男の父の気に入りだった。
代々高位の文官を輩出する血筋で、男の父もかなりの地位に就いていた。もちろん対抗勢力も幾つかあったが、父と兄達の手腕は彼等を圧倒していた。全ては順調で安泰だった。家族の団欒には誇りに満ちた笑い声が絶えず響き、男はいつも遠くからそれを眺めて、自身も誇らしくなったのだった。
男は三人兄弟の、一人だけ年の離れた末子だった。男の母親は彼を産んでからひどく病がちになり、館から出ることも稀だった。
父は男を母親に会わせようとはしなかった。父に言わせると男は「兄達の残り滓」なのであって、そんな存在が傍をうろついていると「母上のためにも良くない」のだった。学問は贔屓目にみても中の下。外見もまるで似ていない男を、父は疎んでいた。男が九才になり母親が死ぬと、ついに一家の避暑にも伴わなくなってしまった。
髪を撫でられる感触に、男はふと我に返った。反射的に女から身を離す。全ては昔のことだった。今はもう誰一人残ってはいない。あくる夏の避暑旅行の帰りに、吊橋の崩落で馬車ごと谷へ落ちたのだ。数台分の馬車の重み如きで切れるには不自然極まりない立派な吊索だったが、王都の役人によってそれは事故と判断された。
男は館を逃げ出した。落人として、名も特権も全て捨てて。十六の時だった。
当主の座も、莫大な財産も、男には毒針の冠のように恐ろしく感じられた。手を触れる気はさらさら無かった。父と兄達のように血塗れの人肉と馬肉と木片の塊になって、死後にまで謂れのない収賄の屍衣を着せられるのは御免だと思った。
「大丈夫かい?」
囁くように女が問うてくる。男はたじろいだ。
「熱は……どうなんだ」
やっとの事でそう言った。
「高いよ」
「……危ないのか」
「もう臨月に近いからね」
「そうか……」
風が乱した前髪を掻き上げて、男は唇端でかすかに笑った。こうも望まぬ事ばかりだと、いっそ我が身が可笑しく思える。妻が助かる見込みはほとんど無い。それは素人目にも明らかだった。出産まで保つかどうかも怪しい。
「もしも……もしもだよ」
「なんだ?」
「万が一のことがあって、赤ん坊が一人残されたら……その子はどうなるの?」
「どうなる、って……」
「おばさんはきっと育てない。あの人は赤ん坊も憎んでる。あんたが育てるの?」
男は頭上の何かを振り払うような勢いで首を振った。親子という言葉は、男にとっては傷口の名称でしかない。
「じゃあ、何で産ませるの!」
珍しく女は声を荒立てた。男は困ったように呟いた。
「だって……だって、あいつが産みたいと望んだんだ」
「それであんたは……」
言葉は深い溜息と共に宙に消えた。女は俯いた。
「そう。そうなの」
「きっと私は一生、この事を後悔するだろうな」
他人事のように男は笑った。どうしてこうなってしまうのか分からなかった。もしかしたら、どうしてもこうなってしまう物なのかも知れない。自分はただ藻掻きながら流されていって、寄る心算もなかった中洲の上で呆然とするだけだ。
男は川を見遣った。灯り始めた星々と、夜雲から脱した大きな月に照らされて、水面にはちらちらと白い光が躍っていた。街の西を流れる大河の支流で、合流点が近いせいかこの辺りで蛇行を止め、駆けるように速くなる。鋭い水音を蹴立ててまっしぐらに終着へ。
思わず男は目を伏せた。川でも獣道でも雲間からの日差しでも、自然の真っ直ぐな物の先には、何か特別なものが待ち構えているような予感がする。男にはそれが少し恐ろしい。
「何なら、あたしが育ててもいいよ」
短い沈黙の末に女が囁いた。
「……私に未練があるのか?」
「とち狂ってるんじゃないよ、莫迦」
女は呆れた態で手を振った。妻と結婚する前の幾年かは、男はこの女と暮らしていた。……というか、この街に流れ着いたところを拾われて、三羽の夜鳥と共に飼われていたのだ。男は長い間、女の家から外に出ることすら出来なかった。
「手、いい匂いだな」
病の妻と変わらぬほど細い手首を捕まえて、男は鼻を近づけた。今更言うまでもなく出会った昔から、この女の手や髪にはいつも様々な香りが染み付いていた。女は香料売りなのだ。
「ああ、あいつの部屋に香を焚いて来たんだよ。落ち着いた深緑の香で、気分が良くなる。この辺りの松と似るように、あたしが調合せたんだよ。売れ筋さ」
「よく出来ている。本当に葉風みたいだ。何か、そんな詩があったな……哀れ松風 待ち人は誰そ……」
その人は既に死んでいるのだ。救いのない寂しい古謡だった。
「止めなって、陰気な真似は。もう、怒るよ!」
既に十分怒った顔で女が睨めつけてくる。男はもう一度笑うと、捕らえたままの手首を引き寄せて、無造作に唇を奪った。こうすれば、この女の澄んだ双眸も、優しい姿も見ずにすむ。
――もしかしたら自分はこの女を愛しているのかもしれない。
最初に男がそう考えたのは、女の元を離れ、妻と暮らし始めてからだった。女に養われている間はそんな事を考える心の暇はなかった。その間の男は、あの血のこびりついた冷たい肉と、亡者までも辱める人怪どもだけが人間の全てではないという事実を、ただ闇雲に貪っていなくてはならなかった。正気を保つために。
何故女がそれを受け入れたのか、男は未だに分からない。何故年若い妻を勧めて身を引いたのかも。所詮、心まで抱けるわけではない。
ゆっくりと身を離すと、女は風に押されたかのように数歩よろめいた。男の予想に反して、その顔にもう怒りはなかった。困ったように見上げてくる。女の背後で、朱色の切れ端が戒めのように揺れた。わけもなく男は小さな凧に頷きかけた。低く女が何か囁いたが、風と重なって男の耳には入らなかった。
妻が死ねば、此処には居られなくなるだろう。何の痛みもなく男は考える。我が子を気にかける事はどうしても出来なかった。ただこの街を離れるとこの女とはもう会えなくなってしまう……それが一番の未練だった。それとも、ついて来てくれるのだろうか。
問いかける度胸は身の中には無かった。その関係を家族と呼ぶのだという自覚も生じなかったが、望みが叶う可能性を男は本能的に恐れていた。
ずっと昔から、立ち止まる場所も持たず此処まで来てしまったように男には感じられる。小さく吐息した。
男の眉は太く、鼻は鷲鼻で、ひどく口端が下がっている所為で、常に尊大で、冷たく不機嫌であるように周囲には見られた。父と長兄は特にこの顔を嫌っていて、屋敷内で男を見かけると露骨に表情を顰めて背を向けた。男はそれを見たくがない為に、常に四方に気を配り、彼等の声を聞く度にうろうろと逃げ隠れした。
面と向かって罵ったり叩いたりしてくる分、次兄の方が接点が多く、男には嬉しい存在だった。
――哀れ松風……
男は胸中で囁き、何故か泣きたいような気分で女を見つめた。再び強い秋風の一群が来て、男と女を掻き乱し、柳と穂草と家々の隙を鳴らしていく。耳に懐かしい松の音ももちろん混じっていて、男の目が涙で温もった。
「松が……」
「え? どうしたの?」
「松の音がする……」
しかし不思議な事に、この辺りのどこに松があるのか男は一向に知らないのだった。
ぼんやりと立ち尽くす男に向かって、女が手を伸ばす。幼児をあやすように軽く頬を叩いて微笑んだ。手に染みた緑香が匂い立つ。
この女を失った時が自分の終わる時だろうと、男は唐突に確信した。抱き寄せるために腕を回した。その時。
何の前兆もなく地が揺れた。二人は弾かれたように身を離した。五つ数える間もないほどの小さな地震だったが、この地方には珍しい。辺りが俄に騒がしくなった。
二人は驚きの残る顔を見合わせて、どちらからともなく家に向かって駆け出した。