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 その墓丘には怪が居る。

 髪先ほどの狂いもなく儀典通りに造られた円錐の丘の麓では、昼夜を問わず様々な物音が聞こえる。人の足音。馬の蹄が石畳を蹴る音。女達が(はた)を織る音。石材を切る音。数知れぬ扉を開け、閉める音。そして、ざわめき。太く荒くれた声。野菜売りの少女が甲高い声を空に貫く。犬を呼ぶ老爺の声。子供達の喚声。

 月の無い夜には、丘の頂きに何か途方もなく大きなものが(うずくま)っているのが見える。星よりも温かな灯火の色の光を幾つも内に(とも)して。

 その墓丘には怪が居る。

 ――理の歪みを孕んだ噂は、ひそやかに流れている。






 慌ただしく階段を鳴らして、半ば落ちるように旅人は姿を現した。

 酒亭に集っていた全員が目を向ける。全員とは言っても厨房と仕切り台、二つの卓のみの酒亭なので、せいぜい七・八人である。二階の三室を、ここは泊り客に提供している。街唯一の旅宿だった。

 「どうしたね、旦那」

 貫禄と体重共にたっぷりの亭主が、やはり目だけを向けて問うた。血色を失った若い旅人は、よろめき(つい)でのように隅の椅子に倒れ込んだ。隣席の女が自分の杯に火酒を満たし、節くれ立った指で旅人に押し遣る。旅人は息を止めて目瞬く間に干した。


 「……どうしたも、こうしたも、亭主。部屋の窓から、外、……外を見たら、東の丘の上に、途轍もない、もやあっとして、ちかちか光る、夜闇の凝ったような、恐ろしい大口のような、でっかい……何かが、とまって……」


 客が数人、無言で立ち上がり、ふらりと外へ消えた。――女以外は誰も、見ようともしなかった。亭主は目を細めた。肉にぶよぶよと包まれた姿の中で、そこだけが一筋、生命と繋がっているように見えた。

 「おや、今夜は見えますか。そうですか……そうですか」

 ゆるく俯きながら亭主は呟いた。「じゃあ、俺はこれで」と酒代を置いて片目の潰れた男が立ち上がる。残された目には、空虚な感情が滲んでいた。旅人は、ぱちくりと亭主を注視する。

 笛のような音をたてて、建物の間を風が巻いた。枯葉の憂愁を掃くべき秋の風は、しかし何故か唐突に止んだ。


 「何が見えるんだい?」

 貸した杯を取り戻しながら、大した興味もなさそうに女が訊いた。旅人は、亭主が差し出した硬い柑橘の皮の酒壺を取ると、女の杯を満たした。ちょいと慣れた仕草で掲げて、女は飲み干した。

 「そうだ。それが知りたい。その口振りじゃ知っているんだろう? 亭主、あれは何だ」

 一番端にいた客が、逆さにした酒壺の滴に指を絡めて、

 「話してやればいいじゃないか。この街に久々の泊り客だしな。見たというのも何かの縁があるのだろ。教えてやるといい」

 と、その指を舐めながら視線も向けずに出て行った。残った一人の客も後を追うようにして、――戸板に手を掛け歩を止めた。

 「俺は反対だ」

 俯いたまま苦々しく(かぶり)を振る。

 木の擦れる音と共に戸は閉ざされ、酒亭には亭主と男女のみが弱い灯火に影を引いた。何の油を使っているのか、火は末期の化粧より青白かった。空間ごと虚ろに平たく()されてゆく気がして、旅人は我知らず背側を振り返った。何も無い、と呟いて敏捷そうな身体を震わせる。人の気配もない戸の向こう側こそ、真実その状態である気がしたのだった。まるで、不穏な物語を記した本の頁の中に、取り込まれてしまったかのように。

 「まあ、見ちまったのなら隠す事もないでしょう。あの人の気持ちも分からなくはないですがね。さ、旦那も姐さんも、ひとつ景気良く()って下さいな。ゆるゆるとお話ししましょう。ああ、そんな目をしちゃいけません。夜長と言われる時分でしょうに。

 ……そして今夜は特に長い。あっしらには」

 最後に口から出た、素朴な田舎人にそぐわぬ冥い自嘲に、女が訝しげに眉を上げた。亭主は気付いたが、何も答えずに、ただ笑う。


 その遣り取りを若い旅人は見ていなかった。身を乗り出して話を促そうとするのを、亭主は手振りで制した。

 「一杯飲ってからというお約束ですよ、旦那。ものには、どんなにもどかしく見えても、そうあるべき順序があるのだと、誰か昔のお偉いさんが言ったそうじゃありませんか。さ、お注ぎしますから、あっしに時間を下さるという証に一献」

 苛立たしげに旅人は身を引き亭主を睨みつけたが、その態度に全く揺らぎがないのを見て取ると、溜息をついて眼前の杯を傍らに退かした。懐から自前の杯を探り出す。やたらと結晶に(むら)のある、冴えない水色混じりの深緑の石だった。

 しかし所々が灯火を含んで透き通り、俄には信じ難いほど清澄な輝きを放っている。

 「そんなものに注いで……」

 ぼそりと女が呟いた。

 「お分かりか?」

 意気込みを隠せない様子で旅人はそれを手の内で回した。最後に全体を灯火に翳す。如何にも褒めて欲しそうな子供じみた所作に女は蔑みを露わにしかけたが、ふと笑い、酒をすすって紛らせた。睫毛が微醺の艶を帯びていた。

 「確かに珍しく光る……あまり見た事もない石ですがね。値打ち物ですかい?」

 旅人の為に酒壺を構えたまま亭主が訊いた。

 「値打ち物も何もね、金銭での売買は神聖な……ああ、嫌な言葉を吐いた、口が酸くなるよ」

 顔を背けて女は床に唾を吐く真似をした。実際吐いたのかもしれない。振り向きざまに、また杯を干す。

 「とにかく、そういうものに対して畏れ多いって禁じられているような代物さ。曜石だろ。それも水曜の中の、湖曜……な訳はないから泉曜石だろうね」

 四方の壁に据えられた蒼白の炎より落ち着き払った女の口調に気圧されたのか、旅人は椅子の上で居住まいを正した。そして、はしゃいだ事を恥じるように、

 「その通りです。素晴らしい慧眼をお持ちだ」

 と低い声を出した。女は悪戯っぽく口端を上げたが、亭主はもちろん職業柄そのような反応は見せなかった。とは言え女の方も、鋭い人間ならそうと分かる程度の僅かな動きである。旅人の目には障らなかった。


 「まあ、この年齢まで生きてりゃ、いろいろと機会がね」

 女は肩を竦めて見せたが、そのくせに、まるきり年齢不詳の外見をしているのだった。男性である旅人よりもよほど髪が短く、厚い平織りの肩布を背負った身体は恐ろしいほど痩せている。浅黒い四肢は、肌に塗った油の所為もあって、節足の生き物のようだった。要するに、昆虫の年齢が分からないのと同様である。

 「……そうですか。いや、屑中のくずだが、これでも伝家の物で」

 空咳を交えながら旅人は杯に見入る振りをした。興味に溢れた視線で隣席を見つめていた所、じろりと女に一瞥返されたのであった。表情を読ませない、しかし夢にまで灼き残りそうな目で。

 亭主が上手く間隙を突いて旅人の杯に酒を注いだ。ほっとした様子で旅人はそれを飲み下し、赤茶色の上衣の衿をくつろげた。その頬がやっと、少々赤すぎるほどの本来の血色を取り戻しつつある。

 「では、そんな貴重な代物を持ち歩いていらっしゃる旦那は……もしかして神殿の方ですかね?」

 「関係者ではあるな。神官ではないが」

 店奥で小さな悲鳴がした。亭主は黙殺して、

 「こんな辺鄙な所に、何の御用で? 聞いてもよろしければ」

 「公用で、な。詳しくは言えん」

 「お役人様ですかい⁈」

 「そんなどころだ」


 つと甲高く透明な針に似た音が、旅人の言葉尻を貫いた。女の下腹辺りからだった。

 男達は完全に虚を突かれ、かなり無遠慮にそこを覗き込んだ。灯火の影になる位置なので明らかには見えないが、どうやら、ごく緩やかに反った上腕ほどの長さの小琴であるらしかった。ぼう、と暗がりに浮く白みは着色ではない。――素の骨色だ。

 「お役人とはねえ」

 と女は目を細め、もう一度弦を弾いた。驚いてみせる代わりらしかった。女の肉声よりもよほど奔放に飛翔する。

 男達は顔を見合わせた。馴染みのない異国風の香のする楽器であった。今、女は膝に乗せて爪弾いているだけだが、本格的に弾くとなると、腕に抱えるのか床等に据え置くのかすら分からない。それに、あの反りの浅さでは二弦張れたら上出来というものだろう。

 「姐さんは詩音手さんですかい? 失礼ですが、どこか異国の方で?」

 斜から窺い見るようにして亭主が問うた。

 「そんなんじゃない。ただの流れ者さ。それより、早くお話しよ」

 「……そうですね。そうしましょうか」

 女の返答を予測していたかのように亭主は軽く受け流した。もはや外の怪より眼前の人間に気を惹かれてしまい、放っておくと不平を言い出しそうな若い旅人を、注意深く目で制する。反動で少し微笑った。


 「お二人とも、この辺りは初めてで?」

 二人は頷いた。

 「どう思います、この街を……いや、分かるでしょう?遠目に変哲がなくても、一歩足を踏み入れたなら。ここは、違う。何かが違う、って事を。幾人ここの住人をご覧になりましたか? 若い、笑い盛りの娘ですら、俯いて足早に歩くんです。この作りたての白木の建物に、脅かされているみたいに。

 ああ、全くこの街は! 最下級の濁酒ですら、この街では醸せません。みんな隣街から三日かけて運んでもらうんですよ」

 「確かに、やけに新しい、出来たてと言って良いような街だが、亭主、何がそんなに違うのだ? 酒が出来ないとはどういう事だ」

 「新しい、そう新しい……旦那、全てそれが問題なんです。現在の我々がこう在るのも、全て、あの宣告の日から」

 灯火がちらりと揺れた。亭主はそちらに顔を向けたが、音のない炎よりも、奥の東向きの小窓を気にかけている様子だった。

 「この街はねえ、元々ここにはなかったんですよ。もっと……もうちょっと東にあったんです。元はね。それが、宣告の使者さんという青衣の方が来て、その年の内に移動する事になったんです。何でも貴人の墓を造る場所を選定していたら、あそこが占いに出たとかで。

 街中、てんやわんやになりましたが、抗える相手じゃありませんでした。新しく築かれたこちらの街に移り住んで……以前の、あっし共の街は瓦礫になりました。あの墳墓がそれを埋めて呑み込んで呑み下して、出来上がったんです。あちら様も大した物入りだったでしょうが、もっと、ええ、あんなお偉い方でさえなかったら、街の上なんぞ諦めて下さったんでしょうな。こんな無茶な、途方もない事など」


 旅人は杯を口元で止め、止めた事すら忘れたように目を見開いた。女は一言たりとも口を挟もうとしない。亭主の沈鬱な細い目を、(じっ)と横目で見つめていた。

 「それは確かに途方もない……よほどの権門だな。小さいとはいえ街一つ、墓の為に退かせるとは。しかしこれで、この街の真新しさにも合点がいく。まるごと新築したばかりなのか」

 「――三十二年前の話ですよ」

 女が小琴の弦を弾かなければ、話と酒に飲まれかけていた旅人は奇声を上げただろう。風は静まりかえり、人気は他になく、辺りは夜鳥の啼声(こえ)すらせぬ。

 「三十二年間ずうっと、ここは出来た時のまんまです。古びもしなければ、こなれもしない。どんなに風雨に晒されても、懐かしい飴色に変色したり、角がつやつや丸まったりもしない。断固として。これから十年後も二十年後も変わりはしないでしょう。何と言っても、魂が無いんだから」

 「……たましい?」

 「ええ、旦那はご覧になった。あそこに、じいっとして、居たでしょう?

 墓の主を畏れて、あっし等はすっかりここに移り住みました。街の名も変えなかった。でも、あれ(・・)はついて来なかった。当たり前です。あれにはうごく理由なんて無いんだ。これっぽっちもね。本当は街の人間にも無かった。あれは正しい。あれが一番正しい……」


 終いの声は囁きになっていた。亭主は小皿に、黄色い木の実の炒め物を盛って客の前に差し出した。二人は小皿を見るばかりで動こうとはしない。亭主は微笑んだ。

 「さ、どうぞ。美味いですよ、冷たいですが」

 「あ、ああ。……亭主、厨房の不具合と言ったが、温かい食べ物は一つもないのか? さすがに身体が冷えるんだが……」

 「すみませんねえ。ご覧下さい」

 亭主は灯火から小さな木片に火を移すと、その炎を撫でるように手をかざした。

 「あ、危ない!」

 「いいえ、ほら」

 肉付きの良い指先で亭主は青白い炎を揉んでみせ、そのまま木片を握って火を消す。そして手を広げた。火傷一つしていなかった。

 「あっしらもね、すぐに気づきました。この街が可怪しいってね。調理は出来るんですが、火がちっとも熱くない。火傷もしないし出来上がった料理も冷たいんです。人も可怪しくなった。夏の暑さも冬の寒さも、みな感じなくなってしまいました。

 先程申し上げましたが、酒は醸せません。家も古びたりしない。赤ん坊も生まれない。……人は年を取らない」

「何⁈」

 「移転した時のままですよ、あっしらは。三十二年間、ずっと。子供は子供の姿のままです。病気や怪我は普通にするし、老衰らしき症状で死んだりもするんですがね。理不尽な事に、食べ過ぎたら太りますし」

 口端を上げて自嘲の笑みを形作ると、亭主は左右の衣嚢から拳大の石を取り出した。表情を変えずに、ごとりと仕切り台に置く。

 「よいしょ」

 と気のない掛け声と共に、軽く跳ねた。肥満しきった身体はふわりと宙に浮き、一呼吸分そこに留まった後、羽根が落ちるようにゆらゆらと地に戻る。あまり表情を動かさぬ女ですら、これには小琴も忘れて呆然と口を開けた。旅人に至っては、言うまでもなく数段顕著に。

 「重りを持っていないとね、風に吹き飛ばされちまう。まあどういう訳か、風もあんまり吹かないんですがね。もう、半分亡霊みたいなもんです。……今となっては、あっしらがあれ(・・)を眺めに戸口に立つ事はありません。ほんの始めの頃だけでしたね。辛いだけでした。今はみな亡霊らしく、持ち場に戻って朝までじっとしています。それが一番利口な方法なんです。こんな夜は誰もまんじりともせんでしょうが」


 「……街から出ても駄目なのか?」

 眉を顰め、唸るように旅人が問うた。亭主は笑んだままだ。その柔らかすぎる肉の仮面の下にどんな感情が隠れているのかなど、外からは到底判断がつかなかった。

 「駄目ですねえ、変わりません。むしろ怪だと思われて祓われかねない……どうやら他の街では、あっしらは死んだ事になっているようですからね。酒を運んでくれる隣街の者も、この街には入りません。門の前に供えるみたいに放置していくんですよ。置いてある代金も取らないでね。

 旦那、あっしらだって足掻かなかった訳じゃない。あの片目の男が居たでしょう? あれは自分で潰したんです。取られた魂と外見が違えば、年をとれるんじゃないか、この呪縛から逃れられるんじゃないかって。あそこまでは思い切りがよくないですが、あっしが太ったのだって同じ考えだ。全くの無駄だったし、胃が大きくなったのか、元に戻れなくなっちまいましたがね。

 あの墓丘に、魂を取り戻しに行こうとした奴も居ました。近寄れなかったようですよ。何か身体がずれる感じがして、一定の距離から内にはどうしても行けなかったとか。墓丘に住めるのなら、それでも良かったんですがね。……あそこには全てがある。失ったものも、これから失う筈だったものも」


 亭主の呟きが止むと、固い布で先客の杯を磨く音だけが後に残った。旅人は唇を噛み締めて隣の、話を聞いているのか聞いていないのか、泰然と酒を飲み続ける女を窺い見たが、急に気を昂ぶらせて亭主に向き直った。

 「何故、墓の主の家に窮状を訴えなかった? 権門とはいえ、補償させる手があったはずだ!」

 無言で首を振った亭主に、旅人が素直な疑問の表情を向けた。どうもこの、役人らしからぬ巻き毛の男は、秋の夜長の相手には若すぎるようだった。目を合わせるのを避けるように亭主は微笑んだ。

 「なぜ諦めている、亭主? この、近隣諸国を圧倒して立つ我が祖国に……整い栄えし 真秀ろばの 神の唯一の居座所(いましどころ)……そうだろう? いかな権門と言えども律法で、そうだ、高次天裁を起こせば!」

 確かに律法に謳われてはいるが、史上一度も起こされた事のない裁判の名を持ち出し、旅人は詰め寄った。

 「何なら私が中央に取り次いでもいい。亭主。このままでは……このままでは、あんまり不条理に過ぎるではないか」

 「……全くねえ」

 亭主は慈しむように目を細めて旅人を見遣った。そうするとその目は、尾を引いて濃い皺影の一つに化ける。

 「失ってしまった物とて永久に取り上げられる訳ではない、それは、時折目の前を(よぎ)る。と、そんな意味の詩句がなかったですかね、姐さん」

 女は答えなかった。

 「亭主?」

 「いえね、旦那。お気持ちは有り難いですが、訴え事はいけませんや、ね。三十年以上も経っちまいましたし……何せあの墓の主は、先代の東方神官長様なんですから。楯突こうったって、どうこう出来る相手じゃありません」

 流石にこれには旅人も口を噤んでしまった。四大神湖を司る大神殿は絶大な権力を有しており、その長ともなれば王侯ですら礼を執る相手だ。そして東青湖は四大神湖の筆頭である。

 「……しかし、東の大神殿がこんな災厄を引き起こして黙っているとは思えないが……いや、亭主の話を疑う訳ではないぞ」

 「それはどうも。でもねえ、あちら様にも何かあったのかもしれません。宣告の使者様は間違いなく来て、その時の書類も有るってのに、あの墓が先の神官長様のものだとは何処にも明示が無いんですよ。葬送や追悼の儀式もなかったし、頌徳の碑もない。弔い花も咲かないし、正面口は槍で封じられています。異常なんです、全てが」


 亭主の静かな口調に気圧されたかのように、旅人は軽く咳払いをした。

 「確かにそれは可怪しいな。だが槍は見間違いだろう。いくらなんでも、それは……」

 「まるで大昔の、罪人の生き埋めの刑みたいだもんねえ」

 唐突に女が口を挟む。

 「そうなんですか? 姐さん」

 「いやいやいや、不敬だ、不敬に過ぎるぞ二人とも。そんな訳はないし、憶測でも冗談でも口に出すべきではない。しかし、槍云々は間違いとしても隠し事はありそうだな。東が何か隠しているのなら、中央か……最も神威が高いという北の大神殿に縋ってみてはどうだ」

 「それは流石に止めておいた方がいいんじゃない?」

 「何故だ。北はあの有名な、隻腕の北守将軍に取り憑いて災いを為していた女を、見事祓ったというではないか」

 「あたしは、しくじったって聞いてるけどねえ」

 「それは詩人どもの作り話だろう! 失敬な!」

 「まあ、昔の事だからね。真偽はどうあれ……北が出張って来るわけにはいかないさ。雲の上の神官様方にも縄張りと仁義がある。多分ね。そんなのに巻き込まれたんじゃ、お役人様だってただじゃ済まないだろ? それにもし北や中央がなんとかしちまったら、東の面目丸潰れじゃないか。唯でさえ東青湖の水位が下がってきて、誤魔化すのに躍起になってるって聞くのに……そうなんだろ?」

 問いかけの形を取ってはいるが、不自然なほど確証ありげな口調であった。亭主の話中に独酌で開けた酒壺が傍らに四つ放ってあったが、瞳の理知は失われてはいなかった。

 「お役人様は、それを調べに来た査察官じゃないのかい? そんな杯が手に入るんなら、身内から神官が出たんじゃないの?」

 「そ、そんな大任の、官ではないぞ。神湖の査察など、畏れ多いことだ。まあ……将来そういう事が全くないとは言い切れないかもしれないが」

 旅人は一時の激昂を失って、分かり易く狼狽した。

 もとより追求する気はないらしく、女は「そうかい」と等閑(なおざり)に話を打ち切って横を向いた。旅人は茶の巻き毛を指先で引っ張りながら動揺を隠そうとしている。自慢の泉曜石の杯の所々が、その五指の内で水面(みなも)そのもののように凝っていた。

 その光明は、何か手の届かない悲しみを思い起こさせた。心の琴線を濡らして一瞬で去っていく雨のような。亭主は僅かに蹌踉めいた。石の反射だと思い込むにしては、それには深味があり過ぎた。


 「娘がね、娘が出来たんです、最近」

 譫言(うわごと)のように亭主は話し出す。

 「娘と言っても、もちろん女房が産んだんじゃありません。春先に街の少し手前で行き倒れていた……どうやら物乞いの娘らしいんですがね。故郷に帰る途中だったようなんですが、蜜柑がある所、としか言わなくてねえ。ご存知でしょうが、この辺りは産地なんで蜜柑農家など数え切れないほど有りまして。とても特定出来ないんで、ここで面倒を見ていたんですが……これから冬になります。この街の人間でなければ凍えちまうかもしれないし、もしかしたら、あの娘まで成長しなくなるかもしれない。まだ五つか六つなんですよ」

 仕切り台に両手をつき、亭主は深々と身を折って頭を下げた。

 「どうか、どうか旦那、いやもちろん姐さんでもいい、あの娘をこの街から連れ出してやってくれませんか。どこか別の街の孤児院のような所があれば、そこまででもいいんです。この通り、お願い致します」

 言葉を切ると、辺りは無音となった。亭主は置物のように動かない。女は静かに見つめていたが、旅人は目を潤ませ頬を紅潮させた。ばん、と平手で仕切り台を殴る。大きな音に亭主と女は一瞬身を引いた。

 「承った、亭主。立派に育ててみせよう!」

 「い、いや旦那、孤児院までで良いんですよ」

 大声を宙で宥めるように亭主は両の掌を揺らす。女が笑いだした。

 「大丈夫かねえ」

 「大丈夫に決まっている。引き受けたからには責任を持つぞ。いざとなったら、家には隠し子だとでも言えばいい」

 「旦那……ありがたいですが……」

 途方に暮れた様子の亭主と意気込む旅人を見比べながら一頻り笑った女は、酒壺に指を伸ばし、その柑橘の色の胴を、こつ、と弾いた。

 亭主は頷き、手を二度打ち鳴らした。少したってからもう二度。どこからも応えは返らない。

 「ああ、そうか。やれやれ、すみません、ちょっと酒の在庫を取りに下がらせていただきます。女房はどうも……神殿の方を怖がるもんで。すみませんね。もしそうでなけりゃ、娘時代に野菜売りで鍛えた自慢の喉で、古謡なんぞ歌わせるととても良いんですがねえ」

 かるく頭を下げて、亭主が奥へ通じる暖簾に手を掛けた。

 「あんたは大丈夫なのかい?」

 「……あっしですか?」

 「そうだよ。ちゃんと手放せるのかい? その子を。この街の、少なくとも三十二年ぶりの子供だったんだろ?」

 亭主はゆっくりと暖簾から手を引いた。木の玉を連ねた暖簾は、幾つか軽やかな音をたてた。

 「ええ確かに、本当に可愛い盛りでしてね……だからこそ手放さなけりゃいけない。あの子はね、あれ(・・)を正面から見られるんですよ。あれは何だ、って指差して聞くんです。子供という奴は……まったく子供というやつは、錐のように容赦なく突き刺さってくるんですが、憎めないもんですな。あれはこの街の魂で、怪などではないんだと教えてやったんですよ。それさえ覚えていてくれれば、あの子の中で怪でなければ、あっしらはそれでいい……」


 どこか焦点の遠い瞳で、亭主は客を振り返りながら呟いた。暖簾は揺れ終わり、暫し誰もが口を噤む。青白い灯火が音も無く明滅した。人々の(しじま)が夜に満ちる。


 同情に目を潤ませた旅人を口端で笑い、女は自らの膝に指先を下ろした。一颯の風に似たしなやかに撓む音が、片手だけの気まぐれな高音から程なく、左手も加わって故郷を偲ぶ古謡に移り変わる。亭主は再び頭を下げた。

 憂いを帯びた緩い吐息のような旋律に、やがて店の奥から、ささやかな歌声が重なった。






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