十三夜
それは、彼女のほんの出来心だったのだ。
館で一、二を争う剣の遣い手。男の同僚とは快活に笑い合うくせに、相手が女となると途端に表情を消す女嫌い。そのくせに、寄って来る女には勤勉なことに一人残らず手を出して、館内の女衆の仲を尖らせる、あの厄介な男前の表情を崩してみたくて。
ほんの衝動で、振り向いた瞬間の彼に、弟達をあやして鍛えた変な顔を突きつけた。
館内で彼に膝をつかせたのは、主筋の四人以外では、一介の非力な侍女たる彼女だけだろう。今思い出しても口元が綻ぶ大殊勲であった。
しかし、それがどうして男女の仲の切っ掛けになるのか。彼女は彼が分からない。彼の方から女を誘うなど、仲間内の噂では聞いたことがなかった。物珍しすぎて調子が狂ったのかもしれない。
彼女がそれに応じたのは、仕方のない事だった。彼には圧倒的な……気配というか匂いというか、女を惹きつけて止まない暴力的な色気があった。目が離せなくなり、思考と理性が霞み、腕の届く範囲に寄ると身の内がぬるむ。
彼女には抗う事が出来なかった。過去に抗えた女がもし居るのなら、心から尊敬すると思った。
彼女はずっと、恋とはやさしい植物のような物だと考えていた。どこからか種を拾い、それが芽吹く。水をやって育てていれば、いずれ花が咲き、実がなる。そういう物だと。
こんな、すこし余所見をした拍子に落とし穴に落ちるような、花も実もない闇の底から、呆然と遠い夜雲を仰ぐような、こんな恋は想像した事もなかった。
そもそもこれが恋なのか、悩む時間くらいは欲しかった。彼女は心底そう思う。あの訳の分からない色気に当てられただけではないのか。心根の冷たい、自分のものにはならない男だと知っていたのに、半年経って気づけばもう、引き返すことが出来ない所に来てしまっている。現在の状況は冷静に考えると甚だ納得がいかない。
音を立てぬよう彼女は注意深く勝手口を開けて、外へ滑り出た。初冬の寒気に軽く咳き込んで、口元を押さえる。いつ降ったものか彼女は知らなかったが、地はうっすらと今年二度目の雪に覆われていた。
冬が来たのだ。閑とした氷雪、凍てつく風が、心まで固く冷やす冬が。
だから、別れるなら今だと、彼女は思ったのだ。
石畳を一歩踏み出すと同時に、夜景が帳を払うように明るくなった。彼女は視線を上げた。満月には僅かに足りぬ太い月が、夜雲の隙間を通り過ぎている。雲の淡い縁に円く、青白い二重の暈が照射され、一面の薄雪がそれを白々と迎えた。
――ああ 白き
中天の白き月が
この身を灼くのです
不意に彼女は恋詩の冒頭を思い出した。興味はなかったが付き合いで侍女仲間から借りた、甘ったるい口語詩の詩集だったか。一時期流行った本であまり感銘は受けなかったが、確かにこの月は身を灼くようだ。
夏の月は水底の真珠のように涼しげなのに、冬の月は火傷しそうなほど強烈な白を放つ。雪や氷に長い間触れていると指先が灼けたように痛むのは、冬の産物がこの白を孕むせいか。彼女は月を見上げて、ぼんやりと考えた。
――昔 あの月に
捨てられぬ想いを
埋めたのです
恋しくても 懐かしくても
悔やんでも 焦がれても
生涯触れぬと誓い立て
ああ 白き
この腕を伸ばせども
届かない 届いてはならない
あの月が灼くのです
壊せなかった 崩せなかった
裂けなかった 消せなかった
目を瞑り 息を止め
眠れぬ夜の最奥に
遠ざける事しか出来なかった
一夜の 一夜だけの あなたの
ああ 見てはならない
「――あの白き月」
終句を、月を見ながら詠じた事が可笑しくて彼女は小声で笑った。莫迦ばかしい。見なくても、降る月光は灼けるよう。結局我が身に返るではないか。何の指針にもならない、ただの言葉遊びだ。
本気の言葉はもっと痛い事を、彼女は知っている。数日前の初雪の降った日だ。散々迷い、躊躇い、刃の切っ先を呑むような覚悟の息を何度も吸って、彼に渡した言葉。「もう会わない」と。あの短い一言だけで全身の血が砕けるようだった。詩の作者はあの痛みを知っているのだろうか。
……知っていても、他人にはなかなか伝わらない物なのかもしれない。彼女は月に自嘲を向けた。彼女の痛みは、言葉を渡した彼本人にすら伝わらなかったのだから。
宵の騒ぎを思い出し、それを振り払うように彼女はその場でくるくると三度回った。お仕着せの裾がひらりと舞う。こんな所で時間を潰そうなどと考えついたのは、火照った身体を冷ます為でもあるが、侍女溜まりに戻りたくないが為でもあった。あのとんでもない男は無表情に、夕食後の侍女達が寛ぐ大部屋に突入して来て、物も言わずに彼女を掴んで連れ出したのだ。あの女に冷たい、まるで執着を見せない男が。
数呼吸の沈黙の後、大部屋は甲高い悲鳴に満たされた。
彼女の寝室に戻るには、その大部屋の前を通過しなくてはならない。もういい加減夜も遅いので皆眠っていると信じたいが、夜行の獣のように目を光らせて獲物を待ち構えている姿しか思い浮かばなかった。
初雪の日の決意は今夜、無に帰した。手を引かれて彼の部屋に連れ込まれ、求められるままに抱かれてしまったのだ。彼は、彼女の告げた別れには一切言及しなかった。無い物として振る舞っていた。
あの身を切るような決意を、また一から繰り返せというのだろうか。否、一からどころではない。常に無い執着めいた態度をとられた所為で、その数値はもっと暗い領域に落ちてしまっている。ようやくの思いで三つ上がった急階段を十段転げ落ちたような徒労感が、彼女を苛んでいた。
この恋は手放すと決めたのだ。なのに、何故。
「急に居なくならないでくれ。何をしているんだ?」
ますます冴えた月光が、上着を持った男を照らす。闇夜であれば良かったのに、と彼女は歯噛みした。
「月を見ているだけよ」
「もっと温かい格好をしろ。風をひくぞ」
彼女の肩に上着を着せ掛けようとした男から、彼女は数歩逃げた。身体の熱を冷ます為にここに来たのだ。温められてしまっては何の意味もない。
「さっき来た女は追い返した」
彼女は言を返さなかった。息を吸い込み体内に寒気を取り込んだ。心を決めるには、少し時間がかかる。彼に関する熱を冷やさなければ、彼を遠ざける為の言葉は吐けなかった。あの初雪の日も、凍るほどに自分を冷やしてから挑んだのだ。
「――他の女を抱かなければいいか?」
かっ、と頬が熱を持った。彼女は自分を冷ますのを諦めた。これ以上、彼らしくない発言を聞いてはいけない。身体は未だに燻りを残し、肌からは彼の匂いと気配が立つほどだが、ここで彼を突き放して逃げるべきなのだ。
彼女は不利な状況に少し泣きそうになりながらも、目に力を込めて彼を睨んだ。
唇が薄く鼻筋の通った、情の硬そうな顔立ちをしている。体つきは重厚でこそないが、しなやかな肉食獣の筋肉に鎧われているのを多くの女が知っているだろう。その肌が、触れるだけで女を溶かす、独特の熱と匂いを持つことも。
そして彼を彼たらしめる最大の要素は、その茶緑の瞳だった。禁欲的で女になど興味はないと言わんばかりの眼光は、彼の肌から立ち昇る人心を誑かす熱気への唯一の蓋であり……その均衡の危うさが余計に女の目を引き、鼓動をくすぐるのだ。
「答えてくれ。他の女を抱かなければいいのか」
「そんな事も分からないの! 当たり前じゃない!」
反射的に叫んで、彼女は後悔した。これでは突き放した事にならない。それどころか。
「分かった。……すまない。俺はこういう機微が、どうも、よく分からなくて」
彼は僅かに目を伏せた。唇を強く噛んで、彼女は負けまいと努めた。
この素で女を魅了する女嫌いの剣士に関して、館内では様々な憶測が飛び交っていた。女を抱いても女に抱きつかれる事は好まず、決して閨で女を上にせず、上から覗き込まれる事すら嫌がる。彼の母親の死後、彼が十二の時に父親が迎えた妾が語り草になるほど淫乱で、後に父親に手討ちにされているが、その妾に何かされたのではないかという推測が、最も力を持って伝播していた。
「部屋に……戻らないか?」
差し伸べられた腕から彼女はやはり距離を取る。地面の雪がさくりと足元を冷やしてくれるのが有り難い。
彼の瞳の茶緑は、踏み荒らされた苔地の色だ。真実はわからない。何の根拠もない。だが過去に、彼をずたずたに引き裂いて踏み躙り、今なお傷つけたままの女が存在するのは確かだと、彼女は思う。
それを思う時、彼女の胸に宿る感情は憐憫でも義憤でもなかった。この剣士を拘束し、消えない傷で己が名を刻むなど、現在はどんな女でも不可能だ。その貴重な機会を得た過去の女への、――彼女の胸に湧き起こるのは、身を捩らんばかりの嫉妬と羨望だった。
自分の感情を自覚した日、彼女は恋を捨てる決意をした。自分自身に怖気を震った。今年十二才になる末弟の顔を思い出し、一度吐いた。
家族に顔向け出来ない人間には、なりたくなかった。
「私、自分の部屋に戻るわ。放っておいてちょうだい」
「俺の部屋に行こう。まだ何か……言いたい事があるなら教えてくれ」
「そんなもの無いわ」
「なら……」
「ねえ、私もう眠いの。明日に障るし、戻って眠らないと」
「明日は休みだろう?」
彼女は心中で舌打ちした。同じ当主付きの侍女と護衛、互いの勤務予定を知るのは容易かった。
昨年当主の娘が病死してから、彼女は娘付きから当主付きへ異動になった。女同士の諍いはまっぴらだと、彼の周囲には極力近寄らないように気を配っていたのが、侍女頭に高く評価されたらしい。全く余計な事を、と彼女は脳裏で気苦労が多そうな痩身の侍女頭に八つ当たりした。
「休みだから、帰ってゆっくり眠るんじゃない」
「俺も明日は休みだ。俺の所で眠ればいい。今夜は、もう抱かないから」
「そうじゃ、なくて!」
月がふと翳り、すぐにその前より明るくなった。困り顔の彼が、霜が降りたように白く照らされる。女に拒まれた事など無いのだろう。茶緑の瞳が困惑に揺れていた。
彼を揺るがした事に対する冥い喜悦を、彼女は首を振って払った。三人の弟と一人の妹の名にかけて、自分はそんな人間であってはならない。
そもそも何故自分なのか。彼女は苛立ちを隠せなかった。愛嬌があるとはよく言われるが美人と評された事はついぞ無い。他に幾らでも、彼に身も心も投げ出す美女は居るはずなのだ。
「好き、だ……何故、いや……」
彼は自分の発言に驚いたかのように、陰影が深くついた白い顔を傾げた。表情が常より分かり易いのは月の光の所為だ。冷酷さは鳴りを潜め、戸惑いに満ちた視線を中空に揺らす様は、知らぬ道を彷徨う小さな子供を思わせた。
彼女は怒りを込めて振り返り、見たくないものを暴く白い光源を睨み上げた。あんな表情をした彼を突き放せる訳がない。ましてやあんな、思わず零れ落ちたような純粋な情を聞かされては。
満月手前の大きな月は、やはり鮮烈に白い。次の厚い夜雲に隠れるまでには、未だ時が要りそうだった。彼女は息を詰めた。背後に彼の熱が近付いた。抱き締める形に回された両腕が、怯えたように宙に浮く。
彼女は胸中で弟妹の名を唱えた。動かぬ足を叱咤した。ここで逃げなければ、今までの努力は雪のように溶けて消えてしまうと思った。
だが、意気地の無い足は少しも動かず、唇からは白い吐息が漏れるばかりで、拒む言葉は出て来ない。それどころか、身の内はだんだん火照ってゆく。身体を形作る要素の一つ一つが、みな熱を帯びて彼に向かい、その手を飢えて啼きそうだ。
中天には、灼けるような月――。