夜の果て
つやつやと黒虹色の鳥の尾羽を掴んで、月に昇っている最中であった。夜の上方は、暗い海に潜るように呼吸が苦しくなる。少女は息を大きく吸い込んで止め、心を整えた。
鳥が斜めに羽ばたき、黄と黄緑の星の狭間を抜けた。少女の身体は徐々に冷気に強張っていく。早く、早く、もっと遥かに、月の頂きへ。かじかんだ蒼色の星を躱して鳥は一層、力強く翼を鳴らした。
風に翻る身体を安定させる事に少女がやっと成功し、街の灯火を見下ろしたところで、妹に声をかけられた。ぐらりと夜が位相をずらす。だが少女は慣れたもので、墜ちたりはしなかった。鳥を手放して、二回、目瞬きをした。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん」
「はい、ここに居るわよ」
「どこ行ってたの?」
「ちょっとお月さまの方へ。夜を上から見てみたくて」
「もう、お姉ちゃんたら! 夢ばかり見て!」
少し拗ねたように言う妹と二人で、少女は共通の簡素な寝台の上に居た。今まで彼女の心を連れて月へと飛んでいた鳥は、膝の上で羽を休めている。角度によって虹を孕む滑らかな黒い羽を少女はそっと撫でた。
物心のついた頃からずっと、鳥は少女の傍に居た。少女にしか見えない不思議な鳥。寄り添って暮らし、架空の美しい物語をし、望む所に少女を連れて飛翔する、万能の友だ。
ただし名は無かった。名付けは鳥自身から禁止されていた。固定されると飛べなくなる……鳥はそういう存在であるらしい。
「お昼の店番の時も、ぼうっとしてお野菜を盗まれた、って聞いたわよ」
「甘蕪は南の海に浮いてみたいんですって。一度でいいから。波先の透明な泡を潰しながら転がっていくと、その奥に」
「ちゃんと店番してないと駄目! 父さんも母さんも物凄く怒ってたよ! お姉ちゃん追い出されちゃうよ。あたし、そんなの嫌!」
「……ごめんなさい」
「ほら、昼も夜も食事抜きだったんでしょう? あたしのおやつの焼菓子だけど、食べて。はい、お水も」
店番も帳簿付けも集中が続かずに、仕事を覚えることが出来ない少女を、両親は疎んでいた。鳥の話や架空の物語をすると殴られるので、最近まともな会話を交わしていない。目を合わせる事もない。鳥と妹が居なければ随分と寂しい思いをしただろう、と菓子を噛んで半ば他人事のように少女は考えた。
この街の地面の上のみが舞台の日常は、少女にとっては不自然で現実味に乏しく、枷を嵌められたように理解が進まない。
「何とか、お姉ちゃんが追い出されないように方法を考えないと……。お姉ちゃん聞いてる? 鳥ばかり触っていないで、お姉ちゃんも考えて。自分の事なのよ?」
少女の膝の上を払う仕草を妹は何度か繰り返し、遂にはそのまま膝に抱きついた。怒った鳥は嘴を開いて威嚇した格好で姿を消す。見えてはいない筈なのに、妹はひどく鳥と仲が悪かった。
「ねえ、店番の間、その妄想の鳥を黙らせておく事は出来ないの?」
「失礼ね。鳥はちゃんと居るわ。それに大人しいわよ。お客が来たら教えてくれるし。鳥は悪くないの」
「でも変な物語を話し始めるんでしょう?」
「半分くらいは私からよ。もう、変だなんて……以前はあなたも喜んで聞いてたじゃない」
「もうそんな子供じゃないの。考えなきゃいけない事がたくさん有るんだから」
少女は腰にしがみついている妹の、波打つ深茶の髪を撫でた。自分と同じ色の、自分より良質の長い髪が、自分より小さな頭を覆っている。この頭の中でどんな考えが巡っているのかは皆目見当もつかなかったが、膝に押し付けられた温かな重みは、胸が詰まるほど愛おしかった。
「お姉ちゃん、わかった!」
うんうん唸っていた妹が、唐突に跳ね起きた。
「わ。なあに?」
「お姉ちゃんは詩音手になれば良いのよ!」
頬に熱が集まるのを感じて少女は俯いた。得意げな顔の妹と目がかち合う。
「なりたかったんでしょ? 実は」
少女はますます顔を熱くした。一日中物語を空想し、詩句を紡ぎ、遠い情景を唄う。――憧れない訳はなかった。
「でも私、楽器なんか触った事もないわ。それに詩音手って、どうやってなればいいのかしら」
「誰かに弟子入りしたらいいんじゃない? あ、弟子入りするなら街内の人にしてね。家を出て遠くに行くとか駄目よ、危ないから。……私、師匠になってくれる良い詩音手さん探して来てあげる」
両親は絵空事ばかり口走る少女を恥じて、自由な外出を禁じていた。妹だけが頼りだった。自分の代わりに憧れを捕まえて来てくれると言う、自由な、可愛らしい、人では唯一の味方。少女は倒れ込むようにして妹に抱きついた。はずむ胸と熱い頬を擦りつける。幸せに気が遠くなりそうだった。
「ありがとう。ありがとうね。……大好きよ」
「私も大好き、お姉ちゃん。一番好きよ。ずうっと一緒に居ようね!」
妹の仇の娘は昨晩、病で死んだ。
「あの者達にはお前を打擲しないように私から厳しく言っておきますが……お前も、もう少し身を入れて働きなさい。お館様の御慈悲でここに勤めていられる事を忘れないように。お前をお気に召して何かと庇って下さったお嬢様は……これからは、もう……」
この棟の使用人頭である太った女は、涙で小言を震わせた。お仕着せの裾を持って深く頭を下げている娘は、打たれた……というか蹴られた脇腹がだんだん痛みを増すのに顔を顰める。
その時、廊下の隅に珍しく鳥が居ることに気付いた。ここ一年、声はしても滅多に姿を現さなかった友に、娘は心を弾ませた。
鳥は一つ羽ばたいて使用人頭の肩を掠め、娘の足元に降り立った。
『大丈夫?』
娘を見上げて鳥が言った。その声も娘にしか聞こえない。
「ええ、大丈夫よ」
未だ頭を下げていた娘は唇のみで囁いた。
打擲されるのには慣れていた。妹がこの館の当主の先導馬車に轢かれて死んでから、両親は娘をひどく殴るようになった。何故あんな良い子が死んでお前のような屑が生き残っているのか、代わりに死ね、と泣き叫んで。
娘はされるままに暴力を受けた。全くの同感だった。鳥だけがかつて無いほどに怒っていたが、その嘴が呪詛の言を吐こうとする度に、娘は抱き締めてそれを止めた。何か途方もない禍事が起こる気がして怖かった。
鳥を固く抱き締めたまま暫く意識が無かった日、娘はこの館に使用人として雇われた。後日聞けば死にかけていたらしい。そこに事故の賠償金を届けに来た家人が居合わせ、当主に報告したのが切っ掛けだった。
「……それにお館様とお嬢様の御慈悲を、お前はもっと真摯に受け止めなければ。他のお屋敷ならば、とっくに解雇されている態度ですよ」
「はい、申し訳ありません」
「分かったのなら部屋に戻りなさい。夕食は摂りましたか? そう。では後で湿布を届けさせましょう」
平民相手の事故に賠償金を払い、娘の境遇を憐れんで救い、身体の治療をし、雇用して居場所を作ってくれた……優しい、敬うべき方々なのだ。それは分かっている。
『あれ? 部屋に戻らないの?』
だが金銭も我が身の安全も関係無い。自分から妹を奪った罪は、妹を返す事でしか償われないのだ。娘は閂のように固く、そう信じていた。
「ええ、戻らないわ。私、仕返ししてやるの」
『仕返し? あの弱い人間にだけ特別に歪んだ顔を見せる、醜い女達の所へ? やめなよ、もっと怪我するよ』
「違うわ。あの妹の仕返しよ。あの痛くする人達のことは、どうでもいいの」
娘は辺りを見回しながら慎重に使用人の居住区画を離れた。
『当主の居る棟は警備が厳しくて、君には到底潜り込めないと思うよ。第一……』
肩に停まった鳥の反駁を、娘は頬擦りして止めた。久々の鳥は相変わらず、ひやりと滑らかで心地よい。
「分かってるわ。当主様じゃないの」
『じゃあ、奥様?』
「お嬢様よ」
『もう死んじゃったよ。遺体も神殿に運ばれた』
「だから私でも忍び込めるわ。護衛の人も居ないだろうしね。遺品を盗んでやるの。当主様きっとすごく悲しむわ」
『……それはとても嫌なことだね』
鳥は硬い声で同意した。
「怒らないで。……だって私、気付いたの。ここに来てから、あのこの為に何もしていない、って。五年もよ。ふわふわ生きてるだけで五年も経ってしまって」
『君は生きるのに精一杯だった。何も悪い事じゃないよ』
「仇の館のご飯を五年も食べて」
『莫迦な復讐をしなかったのは、君の本質が優しいからだ。それに復讐は、焼け焦げて、ばきんと爆ぜた紅い棘の色をしている。君には似合わないし、絶対に手を切るよ』
「切るくらい良いの。棘くらい。あのこは、もっと痛い思いをしたんだから。……ちょっと静かにしていてね」
死者が暮らしていた棟に着き、娘は足を止めた。廊下に灯りは入っていたが、主も護衛も使用人も、――誰の気配もしない寒々しい空白は透き通った氷のようで、娘の身を竦ませた。
『帰ろうよ』
少しも黙らない鳥が、翼で娘の頬を押す。
「いいえ」
首を振って覚悟を決めると、娘は氷の最中へ歩き出した。昔、妹が気に入った、雪の国に墜ちた冷たい三日月の物語を思い出しそうになって、慌てて振り払う。ここで物語の中に没入ってしまえば朝まで戻って来られない。機会を逃すどころの騒ぎではなかった。時の過ぎゆく速さというものが、娘の一番の大敵であった。
妹が居なくなってから、時は一層速くなった。自分が何処に生きているのか、両の足はきちんと地を踏んでいるのか、娘は時折見失う。あの湿った力強い温もりで妹が抱き締めてくれなければ、他人と同じ時間の内に住むことすら難しい。
それは欠陥なのだ、と近ごろ娘は思うようになっていた。鳥は文句を言うけれど。
『暗いねえ、ここは』
「控室に灯火があるはず」
死者の部屋は、文目も分かぬ闇の中だ。娘は隣の使用人控室で灯火を準備すると、辺りの無人を確認し、真闇の部屋へ潜り込んだ。
中央に大きな寝台が据え付けられた、病人の為の部屋であった。家具はさほど多くはない。装飾は寝台、天井、窓帷に集中していた。娘の肩から、鳥がふわりと飛び立った。
様々な動物と小鳥が遊ぶ森を模した寝台。青い陶板を所々に嵌め込んだ寄木模様の天井。中でも素晴らしいのは、天井から床に垂れた幅広い四枚の窓帷だった。内側から執拗なまでに木板で塞がれた窓を覆い隠し、外が全く見られない病人の慰めにと、外界の空色を封じた織布である。紫立つ暁、筋雲が浮かぶ晴天、郷愁の夕焼け、金の月と満天の星。
その四枚を鑑賞するようにゆっくりと飛んで、鳥が戻ってくる。織り込まれた空に見入っていた娘は我に返り、慌てて寝台の足側の壁に向かった。心を飛ばしている暇はないのだった。
壁には幾段もの収納棚が並んでいる。棚板には信じられないくらい雑多な、――下級の使用人である娘にとってさえ、がらくたにしか見えない小物が鎮座していた。部屋の主人は体調が良いとよく夜の散歩に出かけ、その際には出先で必ず一つ拾い物をする習慣があった。それは例え小石一つでも、宝物として此処に飾られた。
割れた袖釦、透明な玻璃の欠片、干涸びた魚の尻尾、もはや訳の分からない針金の塊……こんな物の何が部屋の主たる貴人の琴線に触れたのかと娘は首を傾げる。頭の病ではなかった筈だが。
亡くなった部屋の主は、当主の一女であった。陽光に火傷を負う珍しい病に罹患していて、一生のほとんどをこの部屋で過ごした。
――太陽に呪われた病。
使用人の内にはそう言って世話を嫌がる者も多かった。無論、誰も顔には出さないが。娘もその一員で、平民を踏み躙って贅沢三昧をする貴族だから、こんな恐ろしい報いを受けたのだと信じていた。
子供好きな館の当主は病人を憐れんで溺愛していたが、その妻は自ら産んだ呪いの子を居ない者として完全に無視していた。夫婦はその件で口争いが絶えず、熱烈な恋愛結婚であったという仲はすっかり冷え込んでしまっていた。しかし、その支えも今は消えている。二人とも後継である弟君は可愛がっているので、これで夫婦仲が戻るのではないかと、館の使用人の多くが期待を抱いていた。
『何だか思ったより……面白い品揃えだね』
「ふふ、随分と奥ゆかしい表現ね」
『からかわないでよ。死者の悪口は良くない。それだけさ』
「それは分かってるわ。お嬢様を貶すつもりはないのよ」
肩の鳥を横目で見遣って、娘は見えづらい感情を黒い羽毛の内に探す。在命中の病人を、鳥はとても好いているように見えた。どんな贅沢も許される身の上のくせに鳥の好意まで得るのかと、娘は暗い妬みを抱いていた。
終始ぼんやりとして独り言が多いのが面白い、と病人が言い出したため専属として傍に置かれた時期がある。その間、鳥は頻りに物語をして病人を慰めることを娘に勧めた。たくさん物語を聞かせてやれば、もっと気に入られるかもしれない、と珍しく俗な事を言って。
だが娘はその勧めには従わなかった。自分の物語を一番最初に聞くのは、妹の特権だった。そう約束したのだ。
「あ、この小さい髪留め可愛い」
『……赤蛙の意匠はなかなか無いね』
「あのこが好きそうじゃない?」
『そうかなあ』
「この布も良いわね。似合いそう」
それは柑橘の色も鮮やかな絹布だった。娘は布を広げた。膝掛けには足りないが、襟巻や頭巾には充分の大きさだ。手触りも素晴らしい。
「きれいね」
『それは結構良い物だよ。お嬢様は火傷の病のせいか、ひんやりした色ばかり好んでいたのに。珍しいね』
「これも道で拾ったのかしら?」
『さあ』
「ちょっとお嬢様を思い出す色ね。あの悩みのなさそうな甲高い声とか」
『せめて朗らかと言っておきなよ。死人だよ。もう神様のものだ』
「はあい」
鳥の機嫌が悪くなってきたので、娘は会話を打ち切った。適当な返事をして、手にした布に妹への贈り物数点を包む。思いのほか目立つ色に眉をひそめ、棚にあった斑の強い紺色の手巾で表面を覆った。懐に収める。
その他のよく分からない小物の数々は、詰められるだけ衣嚢に詰めた。これは特に内容を吟味した物ではない。当主を嘆かせる為だけの物である。
『隠れて! 誰かくる!』
鳥が鋭く警告した。娘は夜の窓帷の裏に入ろうと走ったが、来訪者の方が早かった。
「何をしている?」
入って来たのは、護衛の一人であった。当主付きだが病人の警護をする事も多かった、この館有数の剣の遣い手だ。娘は頬を赤らめた。窮地であるのと、彼に声をかけられた緊張とで、全身が鼓動のように震えている。自分を抱き締めるようにして俯いた。
娘は極力、彼に近づかない事を心懸けていた。精悍な整った顔つき、禁欲的な苔色の目と、剣の腕前を思わせる鋭い挙措を持つ彼は、館の使用人の中では女性に一番人気があった。愛想が良いわけでなく、むしろ冷ややかな態度を取るのが常であったが、妙な色気があり周囲に女が絶えない。
娘も彼に初めての恋をしていた。空想の中ではもう何度も、妹の仇を討った娘と逃避行の果てに夫婦になってくれていた。娘を強い腕で抱き締め、甘やかな声で名前を呼んで唇を……
「答えろ、何をしている」
硬い声が優しい恋人を砕いて蹴散らした。元より下級貴族の出である彼と結ばれるはずはない。舞い上がっていた鼓動が、さっと冷えた。だから娘は、彼を避けていたのだった。
空想が空想であることに己を切り裂く刃が宿るのを、娘は彼のせいで知った。
「まさか、お前……」
不自然に途切れた声に、娘は顔を上げる。彼の目は、はっきりと猜疑を映していた。娘は我が身を見下ろした。懐の贈り物の包みは薄いが、他のがらくたは衣嚢を歪に膨らませている。間抜けな事にその内の一つから、赤い発条がはみ出していた。
「遺品を盗む気か」
この上ない嫌悪と軽蔑。違う、と娘は言い訳したかったが、傍目には何も違わない。それはすぐに自覚した。鳥の足指が肩にくい込む。最近は声だけで姿を見せることも稀だった友が、今夜はずっと傍に居てくれるのが娘には心強かった。
『何か固い物を選んで。目潰しに投げつけるんだ』
鳥が囁く。
『走って!』
咄嗟に握ったのは、はみ出していた発条だった。これが固い物に該当するのかを吟味する時間は無い。娘に歩み寄りかけていた彼の、大好きな苔緑に投げつけた。
「――つっ」
「ご、ごめんなさい」
流石に彼は反応したが、距離が近すぎたせいで避けきれなかったようだ。眉の端を掠めた発条は、何で出来ていたものか、彼の肌を切った。ぱっ、と血の赤が半顔に散った。
娘は奇跡的に彼を避け、廊下に逃れた。人影は他に無い。息をつく余裕もなく駆け出した。
彼は何故お嬢様の部屋に来たのだろう。走りながらも娘は気になった。死者を偲ぶ為だろうか。こんな静寂の夜に、たった一人で。もしかしたら愛していたのだろうか。夜の散歩によく従っていたのも、少しでも傍に居たいが為に当主様に願い出て……
『こら! 考え事は後にして、走って!』
空想に足を縺れさせた娘を、鳥が叱りつける。肩を飛び立って、階段を先に降下した。
『追ってくるよ! 急いで!』
娘は鳥を追って階段を必死に駆け下った。彼の足音は鋭く、怖いほどに速い。すぐに追い着かれてしまうだろう。娘は泣きたい気持ちで確信した。
がらくたを入れた衣嚢が痛い。お仕着せの衣嚢は左脇に一つ、下衣の両腿に一つずつ。詰め込んだ荷が一足ごとに重く跳ねて、娘の身を打った。
そうだ。苦しい呼吸の中で娘は思い出す。恨みは重いものなのだ。屋敷に来たばかりの頃、よく鳥が苦情を言っていた。そんなに重いものを抱えていては飛びにくいと。確かに、重い。
『追い着かれるよ! 荷を捨てて!』
娘は首を振った。急に走ったせいで忘れていた脇腹の痛みがぶり返し、息が掠れた。勝手口の閂に縋った手が、ぶるぶると震える。発条で切ったらしい指の血が滑る。彼はもう、すぐそこだ。
『捨てるんだ!』
「だって、私……あのこに、貰ってばかり、だったから……」
『莫迦!』
閂を引き抜いて、娘は外に転び出た。石畳に倒れ込む。
顔を上げれば闇夜であった。月も星も、真っ黒に黙していた。冷たい雨が降っている。
『立って! 来た!』
「連れて飛んで」
『駄目、諦めないで! 僕は君の肉まで連れては行けないよ。分かってるんだろう? 僕は、君の』
「飛んで!」
娘は鳥の尾羽を掴んだ。舌打ちに似た音を残して鳥が羽ばたき、舞い上がった。
果ての見えない上天から、針のような雨が刺す。幼いあの日のように軽やかには飛べなかった。伸ばした腕は凍えるばかり。夜空は遠く、とおく、――重い身体が、ぐらりと傾いで。冷たい。 雨が。