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空中庭園

 何か胡散臭いな、と感じてはいた。白昼の夢のようだと。近所の料亭の裏で籠いっぱいの芋を剥いていた自分の隣に勝手に座り込み、人(なつ)こく話しかけてきた少女、――商家の娘の装いをした、商家の娘などでは有り得ない異質な風格の持ち主を見て。






 「あの頃はね、医師になんかなれないと信じてた。心の底から。病気の父さんを一人にして、どこかの医師に弟子入りするなんて、考えたことも無かった……」

 呟きながら、女医師は記憶の示す階段を昇っていた。この館に最後に足を踏み入れてから優に十年は経つ。階段の手摺から壁の燭台まで全て様変わりしているが、だからといって道のり自体が変わるわけではなかった。この階段を昇りきった先に、庭園への入り口がある筈であった。

 小さな踊り場で何気なく壁に目を遣った女医師は、そこに飾られた一枚の絵に息をのんだ。庭滝を背景に、星の如く集い咲いた白花を足元にして、五人家族が並んでいる。

 「……考えたことも無かったんだ……」






 だから気楽に口に出せたのだ。奇妙な少女に問われるままに、将来は医師になりたい、と。その職務の裏にある苦難も危険も、全く想像だにせず。

 思ってもみなかった。

 大貴族の姫君に見出された市井の娘が、姫の惜しみ無い援助のもと、遂には王族の脈を取るほどの名医に成長する、王都に知らぬ者のない美談。その中心に己の名が織り込まれようとは。


 奇妙な少女に出会った数日後、料亭の前に呆れるほど豪勢な馬車が停まった。その時には既に、病床の父の療養先も、その幸運な娘が夢を叶えるために弟子入りする医師も、全てが決定され、手配されていた。

 招き入れられた馬車の中で、九光鳥を一面に刺繍した厚い絹の肩布に(くる)まれた姫に迎えられた。過日の町娘のなりが如何に不似合いだったかが思い出され、娘は笑みを零しそうになったが、それは喉元で消えた。姫の目は、何故か明らかに不安を湛えていた。


 「あなたの夢を(わたくし)に叶えさせて欲しいの。お父様のことも何も心配いらないわ。ただ一つ、あなたが条件を呑んでくれさえすれば」

 姫は縋るような目で続けた。

 「私への恩を感じないで欲しいの。お金が絡むと、どうしてもそうなってしまうでしょう? でも私、あなたにはそうあって欲しくない。私がどんなにお金を出しても、私に対して(へりくだ)ったり、遠慮したりしないで、これからもずっと……対等なお友達でいて欲しいの。いい?」


 良いわけは無かった。娘は呆然と姫を見返した。そもそも最初から、対等だともお友達だとも思ったことはない。これからもそれは変わらないだろう。娘はさしたる理由も無く気の赴くままに拾い上げられた、路端の小石のような物に過ぎないのだから。

 「あたしは……」

 娘は乾いた喉で囁いた。馬車の中は奇妙な緊張に満たされた。向かいの姫が息をのみ、その肩が揺れ、銀青を基調に縫い描かれた九光鳥の見事な尾羽が、ぎらりと寒色の光を反射した。

 目を細め、娘は笑ってみせた。

 「――いいわ。お安い御用よ」






 この絵の中の姫は少し無表情に過ぎる。

 「笑うと朝陽のようだったのに……」

 口中で呟いて女医師は、しばらく驚きに竦んだままであった足を動かした。絵に近寄ってまじまじと見つめる。そして首を傾げた。

 この一家が死に絶えて既に十年以上。傍系が成り上がったのだという現在の当主の所蔵だとも思えないが、絵には全く傷みは無かった。その両脇には、質の良い薄紙で覆われた専用の燭台すら設けられていて、柔らかな光を辺りに放散している。


 「(せんせい)?……どちらですか?」

 か細い声が階段の下方から女医師を呼んだ。

 「ああ、来たね。あがっておいで」

 絵を見つめたまま、女医師は小声を返した。しばらくの後、静かな足音が傍らで止まってからやっと視線を外し、笑顔を見せる。

 「誰にも見られずに来れたかい?」

 「はい、師」

 「荷は? それで二人分なの?」

 「はい。……本当に、師のお荷物は作らなくても良いんですか?」

 「構わない。心配しなくていいよ」


 自分を見上げる小さな姉弟に、女医師は一層の笑みを向けた。二年ほど前に、治療の報酬と共に贈られた二人である。姉は十五、明敏で生真面目な少女で、弟はその三つ下であるという。

 実を言うと、この弟の性質は女医師にもまだよく分かっていなかった。浅黒い肌は油を塗ったように光っていて、額は広く、目はただ大きい。はきはきした姉とは対照的に、真一文字に結ばれた唇が言葉を紡ぐことは滅多にないので、どことなく水棲の生き物のように非情に見え、理解の緒が掴めないのだった。


 身を屈め、女医師は姉弟の頭を順に撫でた。あまり似ているようにも思えないのだが、それでも何故か、二人並べると対の人形のように似合う。密かな気に入りであったのを姉弟の前の持ち主が察して、支払いに含めてくれたのだ。

 「このお姫様が、師の?」

 絵を見上げて姉が問う。

 「そう。右端の方だよ。隣は姉姫様だ」

 もう絵は見ずに女医師は答えた。後の会話を遮るように、もう一度姉弟の頭を撫でる。


 十三年前に縁者の館を訪ねて行ったきり、この一家は戻らなかった。失火があったのだ。一家が宿泊していた棟は、夜中に内部の大半の人間と共に焼け落ちた。原因はとうとう分からず終いだった。


 女医師が人の骸を見て気を失ったのは後にも先にも、――あの焼死体、一度きりだ。


 「行こう。時が惜しい」

 若白髪の目立つ頭を振って女医師は二人を急き立て、先を昇らせた。階段を踏みながら、ふと死を思う。それは神の胃の腑に還ることだと一般には言われていた。浄化され、再び生命として吐き出されるまでの間をそこで過ごすのだと。

 どのくらいの時が浄化とやらに費やされるのだろう。そこは暗いだろうか。明るいだろうか。穏やかだろうか。苛烈だろうか。賑やかだろうか。淋しいだろうか。

 一段一段、彼女は問いを募らせる。

 自分は間に合うだろうか。そこで、もう一度会えるだろうか。


 先を歩かせていた姉弟が足を止めて振り返った。

 階段は上等の敷布のように厚い、青と金の豪華な垂幕で終わっていた。女医師は無言でそれを押し分け、木戸を開け、今度は姉弟の先を歩き出す。ゆるい下り坂の内に雨除けの木戸を二つくぐり、幾枚も上品に重ねられた白い幕を掻き分けた。


 湿った初夏の風が吹き寄せて、女医師は数瞬目を閉じた。


 眼前の庭園は、記憶とほとんど変わらなかった。手入れが少々悪いのは、現在の館内の状況を鑑みれば仕方がないと言える。それでも、樹木の(うろ)や庭石などに美しく封じられた常夜燈には全て火が入れられていて、視界は夢のように明るかった。

 ここが館の屋上の一部だとは、俄には信じ難い光景である。


 背後から甲高い驚嘆が届く。

 「空中庭園は初めてかい?」

 問いかけても姉弟は頷きもせず、目の前の景色に見入っていた。歓声を発した姉はもちろん弟までもが、ぱかんと口を開けているのを見て、女医師は吹き出した。

 「……昔はかなり流行った事もあったみたいだけど、今は滅多にないからね。さ、おいで、時間が無い」

 促されるままの、まだ幾分呆然とした姉弟を連れて、庭園の小径(こみち)を歩む。


 屋上等に土を上げて庭園を営む趣向は、三百年ほど前、異国より流れて来て王宮の客となった高名な詩音手を慰める為に、当時の王が考案したのが最初であると言われている。

 その詩音手は王の支援のもと数年かけて国内を巡り、詩歌や古謡などを集めて、この国で初の詞華集を編纂し史書に名を残す事となった。


 ――露の暁 幻燈の宵

   空に映ずる緑陰の園

   虹たつ玉の小径を踏みて

   君を求む 千枝樹の影

   臆すなかれ君 散りし人

   天に非ず 地に非ず

   されば如何なる御法(みのり)の朱き(かいな)

   此処には届かざるべし

   還り来たれ 罪に非ず

   一目 一声 残り香なりと


 生者の世に留まる亡霊は、神に容れられぬ者、神に疎まれ見捨てられた者であるとされる。故に生者が死者に還れと望むのは、この上ない冒涜であった。

 しかし、それでも、自分も大切な人をも穢すことになっても、願わずにいられない時は確かにある。女医師はそう思う。だから、詩句が残る。


   虹たつ玉の小径を踏みて――


 有名な詩の古雅な言い回しそのままに玉石の敷かれた散策路を、しゃりしゃりと三人は進んで行った。玉石は圧倒的に白色が多い。それは草木の花々にしても同様で、この庭園が『白の庭』と呼ばれる所以となっていた。

 かの姫は、本当にこの庭を愛していた。何度ここを共に散策しただろう。女医師は微笑んだ。姫の自室にいる時よりも、この庭園にいる記憶の方が遥かに多い。


 知り尽くした小径の脇には見覚えのある草木が揺れていた。糸のような細葉を持つ羊歯(しだ)の群落。枝に張り付いて咲く杯状の小花。香り高い黄緑の葉が繁る大木……もちろん知らぬ草木も多々有るが、旧い友に囲まれている心地がして、つい歩調が緩む。

 「ああ……」

 女医師は思わず声をもらした。

 殊更に姫の愛した夏の花が、瑞々しく波打つ花弁を誇らかに広げていた。白い一重の花に覆われた草株は記憶よりも随分と大きく、ほとんど低木めいていて壮観であった。






 「ね、これ差し上げるわ」

 何気ない台詞と共に姫が差し出したのは、この花を象った燦晶石の帯飾りだった。

 受け取れるわけはなかった。香り立つような素晴らしい細工の逸品である。これ一つで庶民ならば一年楽に暮らせるだろう事は、容易に想像がついた。それに、

 「これは、お誕生日に父君からいただいた物ではないの?」

 「いいのよ。貰ってちょうだい」

 「すごく気に入ってたじゃない。……それにこんな高価な物を付けていい帯なんて持ってないわ」

 「じゃあ、帯も何本か差し上げるわ」

 「ちょっと待って!」

 「駄目よ。受け取ってちょうだい。ね?」

 「どうして?」

 「お友達なんだもの、いいでしょう? きっと似合うわ」

 「……どうして?」






 結局は、掌に握らされるままに貰ってしまった。ただもう姫の肌から蒼ざめた憂いを拭い去りたいが為に。

 ひやりとした花弁を指先ですくい上げて女医師は苦笑した。二人きりになると時折見せたあの表情。自分はあれに弱かった。「対等なお友達」などと無茶を言われた時もそうだ。自分はただ、あの不安に強張った顔が笑みほぐれるのが見たかっただけなのだ。

 件の帯飾りは姫の死去と共に館に返納していた。自分が持つべき物ではないと本能が喚いていた。手放した時は心底ほっとしたものだ。姫には謝らなければならないが。


「わあっ」

 不意に前方で少女の声が響く。追憶に捕われるままに少し距離が開いてしまったようであった。時間が限られている事を思い出して女医師は白花と別れ、小走りで子供達を追った。

 彼等は池の畔で呆然としていた。

 「綺麗だろ」

 女医師は二人の頭に手を置く。汗ばんだ髪を指で梳いて風を入れてやりながら、変わらずに輝く懐かしい池を眺めた。


 姫君一家の肖像画に描かれた庭滝から流れる小川は、どのような仕掛けかは知らないが、この池に注ぎ込んで終わる。浅い池の水面(みなも)は常に新鮮な流水で波立っていた。底に撒かれた色とりどりの玉製の貝が放つ鮮やかな光の彩が、歪められ、たわめられて、夢のように視界を駆ける。

 「あの絵にある庭滝が水景の一だって言われてるみたいだけど、あたしはこっちの方が好きだね」

 女医師は池を覗き込んだ。昔はここに素晴らしく尾の長い銀の魚がいたのだが、どうやら現在は何もいないらしい。

 「さ、少し急ごうか。あの常夜燈のある岩の所だよ」

 子供達の肩を急かして、女医師は歩き出した。人の胸底をざわめかせる、重くてぬるい夏の風が吹いた。

 「ねえ、師」

 少女が思い切ったように顔を上げる。

 「何だい? 忘れ物?」

 「師もお荷物を!」

 女医師の前方に回り込み、少女は袖に取り縋った。

 「お叱りがあっても構わないと思って、二人で作っておいたんです。取りに行くだけです! 師も、逃げましょう!」

 「……駄目だよ。他の医師が死ぬことになる」

 「だって、だって師のせいではないじゃありませんか! ここのご当主が助からないのは。以前おっしゃっていたじゃないですか!」

 「そうだね。最初に診た医師が強い薬を飲ませ過ぎたのは確かだ。もう何処もかしこも、ぼろぼろで……手の施しようがない」


 呟いて女医師はもと来た道を振り返った。人為の限りに整えられた眩しすぎる庭園。その同じ館の元で、紫色に膨れ上がった当主が生きながら腐りかけているのだと考えるのは、何やら空恐ろしい心地がした。


 「じゃあ、やっぱり師のせいじゃない! 師より先に招かれていた他の医師様がしたことでしょう? 師が責任を負われる事はありません!……逃げましょう? 王都さえ出ればまず見つかりませんし、ここの館の方々も熱心に探したりしません。ご当主は皆にすごく嫌われているんです。先代様が亡くなった後、次代様も目上の方々もひどいやり方で押し退けて、ご家名を継がれたんですって。悪い人なんです。師の事だって、すごく陰口を言ってて……」


 それは女医師も承知していた。お前はこの家に恩があるのに俺を救えない無能だ、生きている価値はない、必ず道連れにしてやる、と……面と向かって罵倒されたのを、陰口とは呼ぶまいが。それはこの子供達の(あずか)り知らぬことだ。

 人の恨みを買い過ぎているのも知っていた。最初に診た医師の投薬に、その意志はどろりと練り込まれていた。巧みに被せられた過誤の殻の内側を見抜いたのは、多分女医師ただ一人だろう。だが、指摘する気は起きなかった。彼には王都に家族がいる。


 全く取り合うそぶりも見せない女医師に業を煮やしたのか、少女は縋った袖を勢い良く振り回した。

 「お迎え、来てくれたじゃないですか! 王族の、あの赤茶の髪の旦那様。助けて下さるって!」

 「聞いてたのかい?」

 女医師はわずかに顔を赤らめた。熱を誤魔化すために俯くと、少女の濡れた瞳と視線が合った。いつの間にかその弟が傍らに並んで、これもやはり女医師を見上げている。相変わらず感情を映さない、けれど(じっ)と動かぬ一途な瞳に、女医師は何故か泣きたくなった。


 「……いいんだ。もう」

 子供達がびくりと身を揺らす。迎えに来てくれた彼の人とよく似た反応に、女医師は目を細めた。

 大貴族が死ぬ度に繰り返される医師の殉死……今は滅多に無いが、病人が望めば稀に起こる悪弊を是とせぬ彼の人は、自分を特に贔屓にしてくれていた。優しい許嫁と一緒に、何度も窮地を救ってくれた。若い、若すぎる、直情的な、愛すべき男性(ひと)

 でも、もういい。

 「逃げることも考えなかった訳じゃないんだ。でもね、どうしても実行する気になれない。姫君の所縁だと思うと恨む気も起きないし」

 「ひ、姫様がお嘆きになります!」

 少女は悲鳴のような声を上げた。

 「そんな事をおっしゃっては! 師がお姫様の一族のせいで、お、お命を落とされる事になるなんて! お嘆きになります、姫様は!」

 実際、それは悲鳴であっただろう。嗚咽を漏らさぬために呼吸を呑み込んだ少女を、女医師はそっと撫でた。自分が今にも押し潰そうとしている、正論の、最期の悲鳴。


 「そうだね。……だからさっき、一応謝っておいたんだ。あの絵の姫君に」

 子供達は目を見開いた。弟すらも。見てはいけないものを見てしまったかのような、怯えの感情がその双眸に映っていた。

 女医師は微笑んだ。もう隠す必要も無いと思う。今まで誰一人気付かなかった。想像だにしなかったであろう。名医と呼ばれ、人の生命を救うことに自らを費やしてきたこの身の、肺腑の暗い奥底に、こんな死にも似た虚無が巣食っていようとは。


 「見てごらん。綺麗だね」

 庭を見渡して、女医師はうっとりと囁いた。

 「夢なんだ、と思うよ。姫君に会ってから、あたしはずっと綺麗な夢を見続けている……いつかは覚めるんだ、って。覚めたら元の下町で、あたしはただの小娘で、あたしの名など誰も知らなくて」

 「師……?」

 「あたしはね、自分の一生が未だに信じられない。何か、ああ、何か踏み違えたような、来てはいけない所に来てしまったような、自分が自分でないものにすり替わってしまったような、あの日から……何かがずれたまま正されていないような、そんな気がして。背中がね、不安なんだ。ひやりとして思わず振り向く。何もないけれど、何かが狂ってる。何かが。

 運命なわけないんだ。なぜあたしを拾い上げたのか、何度聞いても姫君は教えてくれなかった。理由など無い、宿命(さだめ)だったんだ、とそう言うばかりで。そんな訳ない。あたしが一番よく知ってる。それは違うんだ」

 女医師は裾を翻して勢いよく歩き出した。突然の敏捷な動きに、子供達は縺れるようにして後を追う。


 「姫君は、ちゃんと理由を持ってた。そうでなけりゃ、あんな目でひとを見るもんか。偶然でも気まぐれでもない、何かがあったんだ。あんな無茶な条件まで付けて。まあ、呑んだのは自分だけど。……後悔、した、正直言って。戻して欲しかった。元のあたしの世界に。この綺麗で不自然な御伽噺の囲いから放して欲しかった。

 一言で良かったんだ。あたしが納得出来るような、それらしい理由をくれさえすれば。どんなに短くても、例え真実ではなくても」

 喉の奥で、女医師は自嘲した。

 「嘘をついてくれても良かった。曖昧で不安なだけの真実の欠片よりは……。あの目で言ってくれたら、あたしはどんな嘘だって信じてみせたのに」

 しかし、それこそが最大の嘘である事を、女医師は承知していた。矛盾の重みに疲労した身体が軋む。一度見ただけで病巣の在り処をぴたりと言い当ててしまう、この忌々しくも鋭敏な本能は、どんな虚構をも見抜き、その受け入れを拒むはずであった。


 俯いて笑みを歪ませている女医師を、子供達は迷子のように見上げている。女医師が歩を止めたのにも気付かず行き過ぎようとするのを、彼女は慌てて制した。


 そこは大きな岩の傍らの、優しげな白い樹々の一画であった。艶々した灰色の幹が、細長い葉を繁らせた枝をしなやかに地に向けて垂らしている。葉の全ては羽毛のような白い和毛(にこげ)に覆われていた。

 この美しい樹の名称を、昔何度も姫に教えてもらったにも関わらず忘れている自分を、女医師は再び嘲笑した。薬剤になる植物以外はどうにも記憶に留めることが出来なかった。結局、医師という職業に向いているのだと思う。成るべくしてなったのだと……そう思えたら良かった。姫の言う通り、宿命なのだと。


 女医師は首を振り、溜息をついた。取り敢えず今はまだ、如何なる答えも失われている。


 庭師等が周囲に居ないことを確認して大岩に歩み寄り、女医師はその端に手を掛けた。ごつごつとした岩の出っ張りを掴み、体重をかけて引き倒す。僅かな低い音と共に人程の大きさの岩板が表面から外れてきたのを見て、子供達が駆け寄って来た。

 岩板の厚みは然程ではなかった。女一人でも十分に扱える事を、女医師は姫から教えられていた。元通りに立て掛けさえすれば、再び大岩の一部として溶け込んでしまうことも。

 見事な工夫の施されたそれを、静かに地面に横たえる。岩の奥の硬く冷えた空気を顔面に感じ、女医師は目を細めた。岩と苔と暗闇の匂いが、非常事態を思わせた。

 当主の直系のみが知るべきこの抜け道を、姫は早くから女医師に教えていた。当時はその軽率を窘めたりもしたものだが、今となっては感謝するべきだろう。まさか、この事あるを見越しての行為ではあるまいが。


 子供達は、出現した真っ暗な穴の淵に取り付いていた。恐るおそる覗き込んでいる姉に対し、弟には怯えた様子はなかった。大きな目を一杯に開いて、濃闇の中の何かを一心に見つめている。

 女医師は手近な常夜燈から火を小型の灯火に移すと、子供達の頭上から穴を照らした。穴の中は意外に広い。闇に呑まれていく下り階段を確認し、冷静な弟の方に灯火を渡した。


 「燃料は……まだ保つね。二人でこの階段を下りるんだ。いいかい? 気をつけて、そっとだよ。途中で明るくなるけど、それはお屋敷の中を通っている時だ。部屋と部屋の間や、廊下の壁の中をね。その時は決して喋ってはいけないよ。灯火は隠して……でも消してしまってもいけない。また暗くなる所があるからね」

 姉弟は無言で女医師を見上げている。姉は泣き出しそうに。弟は闇を見ていた時と変わらぬ瞳で。

 「ずうっと行くと、最後に扉がある。そこはもうお屋敷の敷地の外だけど、一応用心しないといけないよ。誰も居ないのを確かめてから開けるんだ。物置みたいな小屋に出る。そこから出たら、賑やかな方に歩きなさい。大きな街道に行き当たったら、左に真っ直ぐ。途中で何度か分かれ道があるけれど、大きな道の方をずっと行くんだよ。いいね。

 そうしたら……覚えているだろう? 春に訪ねた、庭中に桃の花が咲いていた綺麗なお屋敷、あそこに着く。脇門の辺りで緑色の服を着た人に声をかけられるから、その人についていくんだ。後は、あそこの女家司様が手配してくれるよ。お前達と同じく、南の島から来た方だ。あの方が、お前達を元の島に戻れるようにしてくれるからね」


 元の島に戻れる、と聞いても子供達は微動だにしない。女医師は苦笑した。

 「あたしが、可怪しいのかねえ」

 呟いて軽く首を傾げる。

 「違和感を感じたことは無いかい? 此処は自分の居場所じゃないんだって。足元の地面に弾劾された事は? 不意に迷子の気分に陥った事は?

 この庭園の草木もそうだ。知っているんだろうか。あるべき場所から離されて、こんなお屋敷の上に……本来居るはずのない所に植えられている事を。不安も違和感も無いんだろうか。こんな、天でも地でもない場所に居るのに、どうして花を咲かせる事が出来るんだろう。戻りたくはないんだろうか。それとも……」


 ――天に非ず 地に非ず

   されば如何なる御法の朱き腕も

   此処には届かざるべし


 「それとも此処も……」

 神の手の内か。今までの己の思考を揺るがす問いを呑み込んで、女医師は目を閉じる。こみ上げてきた涙の気配を体の奥に押し戻すために、数瞬息を止めた。何もかも、もういいのだ。

 「おっしゃる意味がよく分かりません。師……」

 呆然と少女が呟く。

 「そうだね。ごめん」

 吐息と共に瞼を開き、女医師は二人を見つめた。

 「……お前達も同じだ。本来あるべき場所へお戻り」

 告げるのと同時に弟が身を翻した。穴の中へ消えて行こうとするのを急いで呼び止め、女医師はとうとう泣き出してしまった姉を弟に託す。口早に幸運の唱言を投げかけて、岩板の蓋を被せた。

 しばらく耳を傾け、泣き声が聞こえないことに安堵して岩を撫でる。


 女医師は空を仰いだ。暗い夜の深みに、半端な月が沈んでいる。視界を遮る木の葉を腕を伸ばして毟り取り、手触りの良い柔毛に包まれたそれに、そっと頬を寄せた。

 「これの名前も、姫君にもう一度聞いてみようか……」

 独りごちて葉を握ったまま歩き出す。吹き付ける風に常夜燈の火群が一斉に歪んだ。女医師は、玉石の小径に幽かな虹を見た。






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