墓前
【微エロ注意】清く正しい良い子は読んではいけません。駄目ですよ〜
その花は弔い花と呼ばれている。楚々とした花である。地方によっては、浄花とも人恋草とも、多様な通称と由来の物語を以て知られていた。
縁にゆくにつれ透明になる白い合弁花で、葉柄先の楕円の葉も同じように縁が透き通る。膝丈の細い茎が風に揺れると、硬質の葉が触れ合って、りりん、るろろん、と幽かな音を立てるのだった。
初夏から晩秋にかけて人の死骸の周囲に群れ咲く、――墓場の花である。
男が跪き黙祷を捧げる小さな墓も、その花に埋もれていた。夏の湿った風に乗って、涼し気な音が男の耳をくすぐった。
どんな罪も浄めるが故に透明なのだ……弔い花は神の祝福ともされていた。墓の主である連続殺人鬼には相応しくない、と村人や殺された者の遺族によって幾度か刈り取られていたが、後からあとから溢れんばかりに生えて、現在の有様である。
「いい加減、このまま眠らせてあげたらどうだ?」
黙祷の姿勢のまま、男は背後の気配に声をかけた。
「そうは行かないわ。これはけじめなの」
若い娘が拗ねた声で返答する。
男は振り返った。陽が落ちたばかりの未だ薄明るい宵色を背景に、三日月鎌を握った細い娘が立っていた。
「遺族達は、もう諦めたみたいじゃないか」
「あたしは認めないわ」
「俺はこの花が好きなんだが」
「共同墓地に行けば、嫌というほど咲いてるわよ」
「困ったな……」
男は肩をすくめ、実際に困った表情をした。娘の気配が揺らぎ、僅かに和らいだ。
依怙地になった女を相手にする時は、男はこのように一歩引いてみる事にしている。嵩にかかって攻めてくる女は碌な女ではない、というのが彼の持論だった。
娘の反応に満足して、男は立ち上がった。
「もう! どうして刈らせてくれないの? あたしだけ!」
鎌を納めてくれたのは重畳だった。肺病で昨年まで床を離れられなかった娘は、ひどく痩せて腕の力も無い。ふるふると動く刃先は、見ていて安心出来るものではなかった。
「俺が作った墓をお前に荒らされたくない」
「そんな奴に墓なんていらなかったのに」
「俺が決める」
少しきつめに言い切ると、娘は口を尖らせて俯いた。顔立ちは女性らしく整っているが、長患いのせいで背が低く、肉付きが薄い。男は娘の頭を撫でた。木樵や猟師くらいしか通らぬ山の杣道の脇、村人から拒まれた独りの墓の、その主の所業に娘が打ちのめされた事を、男はよく知っている。
「そう邪険にするものじゃない。……たった一人の兄上だろう?」
「兄だからよ」
娘は吐き捨てて、男の手を払った。花を刈ることを娘にだけは決して許さない男に、大分不満が溜まっているようであった。
墓の主は、ある日突然狂ったとされている。親友の死と共に行方不明となり、それから二年、近隣の街や村に出没しては住人を無差別に手斧で割った。
それが知れ渡るにつれ、娘の立場は当然悪くなった。病み上がりの身体をおして彼女は兄を追った。己の名誉を回復する為に。
「あんな事になるまでは、ずっとお前の看病をしてくれていた、優しい兄さんだったんだろう?」
「それとこれとは別よ。意地悪!」
あながち別ではないことを男は知っていたが、何も言わず娘に歩み寄った。足で掻き分けられた弔い花が、りりりりりん、と高く鳴った。
「べつに意地悪で言ってるわけじゃないさ。ほら、灯火をくれ。俺を迎えに来たんだろう?」
「他所者のあなたが、うっかり夜狩りなんてしないように見に来てあげたの」
「はいはい、禁は心得ているよ。この山は向こう十年間、夜は閉じると村長さんから聞いている」
「そうよ、山怪が出るんだから、夜待ち、明け方の狩りは禁止。兄さんみたいに狂わされてもしらないわよ。……昨日、見た人がいたんですって。言い伝え通り、腰から上と下が逆向きだったらしいわ」
途中から、娘は周りの何かに聞かれるのを恐れるように声を潜めた。
それはこの辺りの山怪伝説だった。人間の男の姿をしており、上下の半身の向きが逆にねじれている。顔を見せたまま走り去ったり、後頭部を向けて駆け寄ってきたりするらしい。麓の村に恨みを持って死んだ男の成れの果てで、捕まれば狂う、というのが定説だ。
墓の主は山小屋でこの山怪に遭い、親友を殺され、発狂して殺人鬼になったと言われていた。普段は大人しく気弱なところの目立つ人物だったので、そうとでも思わなければ周囲も納得出来なかったのだろう。娘が村から追放されなかったのは、そのおかげでもある。
矢筒に入った赤い矢を、男はちらりと見た。
一本だけ赤く塗られ、鏃と矢筈をわずかな銀で装飾されたそれは、破魔の矢である。山怪が出たら使うようにと娘に持たされた時、男は本気で表情の選択に悩んだ。これは己の雇主に効くのだろうか……そう考えると妙に可笑しくなって、結局は笑顔で受け取ったが。
男の雇主は山怪ではないが、娘の兄を狂わせた直接の原因である。近年急激に勢力を伸ばして一家を成した悪党で、表向きは裕福な薬商人だ。強烈に増毛剤臭いのが玉に瑕だが、陰湿なところがなく気風が良い、仕えるには楽しい主であった。
しかし、裏社会を幾年か渡り歩いた男から見ても背筋が凍るほど、悪党としては切れる。
「山怪はまれに昼でも出るんだから、油断しちゃ駄目なのよ。あなたにもしもがあったら……今度こそ、あたしが仕留めてやるんだから」
娘が乏しい胸を張るのを、男は微笑ましく眺めた。
雇主は娘の兄には特別な思い入れがあるらしい。悪党としての最大の武器、――他人を破滅させることに特化した才能を、自覚させてくれた恩人だそうだ。
親友と妹の生命を天秤にかけさせられ、結局親友を殺して狂った当人には微塵も嬉しくないだろうが、それ故に雇主は残された病の妹に薬を与え、連続殺人鬼の後始末を手配した。後の数々の悪事を顧みても、その心遣いは唯一のものであった。
後始末を依頼された男は、被害の跡を辿った。標的は普段は周りに溶け込んで穏やかに暮らし、突如狂って惨劇を起こし、また別の場所に穏やかな顔で現れていた。普段の顔と狂気の顔があまりにも違うので、近隣住人は両者を結びつけるのにかなりの時間を要したらしい。
服装や背格好で分かりそうなものだ、と男は訝しんだが、実際に犯行現場に居合わせて理解した。全くの別人だった。悍ましいほどに形相が違っていた。
少し驚いた所為もあって、ついその場で標的を始末してしまったのは、男の痛恨の失敗だった。もっと人目につかない場所で、雇主の恩人たる敬意を込めて静かに殺すつもりだったのに……と後悔に暮れている間に、男は住人によって英雄に祭り上げられてしまっていた。
娘と出会ったのはその頃である。「あたしの獲物を取ったわね!」と掴みかかってきたのだ。
「第一、月の太り頃とは言え、帰ってくるのが遅いのよ」
「……旨そうな藪雉がいたんだ。すまん」
「仕留めたんでしょうね!」
「むろん」
「ならいいわ。腕を奮ってあげる」
好物に舌舐めずりする娘は、男の好物に近い。昔から気の強い女が好みだった。いちいち歯向かってくるなら最高だ。周りには趣味が悪いと散々揶揄されていたが、好きなものは仕方がなかった。
だが、ひたすら闇雲に歯向かうだけなのはいけない。その中に女らしさと、小動物的な愛嬌が不可欠なのだ。酒席などで持論を展開してもほとんど賛同者がいないのを、男はいつも残念に思う。
英雄として祭り上げられた後は、金銭と酒食と共に女が与えられた。敬慕と恋情に濃緑の瞳を潤ませた肉感的な女は、従順でちっとも食指が動かなかった。付近の有力者の姪らしく、抱き捨てると面倒な事になると判断した男は、適当な理由をつけて早々にその場を逃げ出した。
「宿無しなら泊まっていきなさいよ。まだまだ文句が言い足りないわ」
そんな誘いを受けて嬉々として娘の宿に転がり込んだ。が、その晩は泊まっただけであった。今までの苦難と恨みつらみを捲し立て、本当に閨事の気配もなく就寝してしまった娘を、男は肩をすくめて眺めることになった。起きている間とは別人のように深い眉間の皺を刻み、涙を怺えるように唇を引き結んで眠る姿を。
取り繕った強気な見かけよりずっと、この娘は傷ついて弱っているのだ。そう思うと堪らなかった。次の晩には抱いた。娘は驚いていたが特に抵抗はしてこなかった。「こんな貧相な小娘に欲情する変態がいるとは思わなくて、びっくりしたのよ」とは後の娘の言である。
そのまま娘の村について行き、同居して現在に至る。
領主である地方貴族から謝礼が出るので、それまで居所を明らかにするよう要請……という体裁の移動制限をされてしまったので、猟師の真似事などして過ごしていた。周囲の反対を押し切って、娘の兄の墓も作った。晒し者にはしたくなかった。
夜の匂いの風が吹く。ろろん、ろろん、と墓は穏やかな響きを重ねた。
男はこの花の音を好いていた。どんな生き方をし、どんな死に方をしても、この音は何も知らぬげに涼しい。それは救いだと思うのだ。生者にとっても、死者にとっても。
「どうしたの? 帰りましょう?」
「ああ……」
男は生返事を唸った。帰る、と言われて何の違和感も無いことに、今日は僅かに緊張した。
英雄になってしまったので暫く身動きが取れなくなった、と先日報告しに行くと、雇主は可笑しそうに笑った。殺しの仕事の時には必ず付く見届人から、先に報告は受けていたらしい。娘の元にいる事を散々からかわれ、男は禿げ上がった調子者の見届人を内心で猛烈に罵倒した。
笑い事ではない。娘が好みに合い過ぎて足を洗って定住したくなっている。仕事の士気に関わるので困っているのだ。――ついそう口を滑らせると、雇主は腹を抱えて一頻り爆笑した後で、未だ肺が弱い娘のための薬と、男の裏社会からの足抜けを保証してくれた。笑い涙を拭いながら。
今回の仕事の報酬全額と引換えだ、とにやにやしながら要求された。父親の浮気相手に報復されて壊滅した実家のせいで、汚れ仕事に身を堕して七年、初めての只働きだった。だが、嵌められてこの世界に入り、抜ける機会が得られなかっただけで借金等は無い。安いものだ。望外の幸運に男は飛びついた。
廃業後の生計は、猟師で何とかなりそうだった。筋が良いと村の猟師達は褒めてくれる。標的を見定め、その行動を読み、息を潜めて近づき、仕留める一瞬に全力の集中を乗せる……それは男の得意とするところであった。
生命の遣り取りに鋭敏な分、山の獣の方が人を狩るより難しいが、それもその内に慣れるだろう。成果を喜ぶ者が可愛らしいのも、やり甲斐があって今までよりは余程いい。
男は娘に目を向けた。何とはなしに墓を眺めながら考え事をしていたので、娘も墓を見ていたらしい。灯火を受けた瞳はゆらゆらと風を表すばかりで、恨みも嫌悪も今は映していなかった。
「お兄ちゃんも、もう少し正気でいてくれたら、……親切な人が薬を分けてくれて、あたしが元気になる所が見られたのに」
狂わせた側であった男には何とも反応に困る感想を、娘はぽつりと呟いた。男だけが知るこの気詰まりな時間はこの先何度も訪れるのだろう。娘が知ることは生涯無い。それが雇主との最後の契約だ。
男は唇だけで娘にそっと謝罪した。夜の匂いが濃くなった。群青の空に星粒が増え始める。
灯火を地に置いた男を見て、娘が首を傾げた。すらりと細い肢体には、水鳥か牝鹿を思わせる滑らかな色気がある。男は腕を伸ばした。
「――っ」
口接けは、ほんの入り口だった。男は深みを求めて角度を探した。己はこの奥に用がある。この奥に潜む娘の芯。弱って泣いているくせに強気で、虚勢を盾に傷を隠して逃げ回る、――あの偏屈な、恋しいものに触れたいのだ。舌を伸ばして探る。まるで届かない。
苛立ちに似た感情に体熱を煽られた。娘の顎を甘噛みし、首筋をしゃぶる。衿を広げて鎖骨と胸元を啄んだ。まだ奥だ。この薄っぺらな身体の何処に、そんなに逃げ場があるのか。どうしても狩れない獲物を追うようでもどかしい。四肢の全てで封じ込め、逃げぬように楔を打って、溶かして頬張って隅まで味わい尽くさなければ気が済まない。
「ちょ、ちょっと待、……こら、どこ、触っ」
「結婚しよう」
「はあ⁈」
男は今一度、念入りに娘の口を舐め塞いだ。今夜の内にここから承諾の返事を吐かせようと決意する。
興奮のままに横目で墓を見据えた。愛しい娘の哀しい兄に何か一言ことわるべきかと夕方から悩んでいたのだが、自分は彼に不条理を強いた側で、更に仕事としてその喉笛に短刀を突き立てた人間である。上手い言葉は見つからなかった。欲に沸いた今の脳では、なおさら思い付きそうにない。
りりんと鳴った花に、ただ、頭を下げた。
灯火を拾う。足が覚束無くなって文句を言い始めた娘を脇に抱え、男は宵の家路を急いだ。