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月魄

 ――北族め、北族め。


 毒づきながら将軍は黒馬に鞭を打った。馬は口角に泡を含みながらよろよろと数歩進んだが、ついに立ち止まり哀しげな声をあげた。

 つめたい夜風が地の砂を巻き上げて、真横から人馬を叩いた。

 将軍はさらに鞭打ったが黒馬は微動だにしない。促すように将軍が重厚な身体を揺すると、馬は堪えかねて四肢を震わせ、砂漠にどうと前膝をついた。将軍は投げ出され砂に顔を突っ込んだが、彼を助け起こすべき部下は存在しなかった。

 夢中のうちに戦線を遠く離れてしまったのだ。口中の砂を噛みしだいて将軍は低く呻いた。


 将軍の周りには、もはや、生者も死者も居はしなかった。


 それどころか鳥獣の気配すらなかった。彼は顔を上げ、荒く鼻息を吹き出して砂を飛ばすと素早く辺りを見回した。暗い砂漠が浩々と続く中、尖った岩山が何かを見張るように点在している。他に現在地の手掛りになりそうなものは何も無かった。


 高みには岩山、地には砂原。満天の星が将軍を圧していた。刃物のように犀利な月が出ていた。


 将軍は首を傾げた。国境の最北に抱軍して房駱駝(らくだ)に乗る異民族を追い払う仕事を十年も続け、故に北守将軍を呼ばれている彼にも、今自分がいる場所に確信が持てなかった。

 彼は暫時茫然と座っていた。天文で方角を探るにしても今宵の星は日頃とは似ても似つかぬほど位置を異にしているようだった。中天にかかる鎌月を核に、ぐるりと寄り集まっているように見える。

 全く途方に暮れる事態だったが、風が冷たいのでよろよろと立ち上がり、取り敢えず馬が尻を向けている方に歩き出した。


 駿馬であった黒馬はとうに死んでいた。半年も乗らぬうちに死んでしまった黒馬に将軍は目もくれなかったが、歩かねばならないのは(つら)いことだった。

 将軍は矢傷をうけた左肩を布で押さえ、どうしようもない怒りを噛みしめた歯の間から吐き出した。一つ覚えのように。

 

「――北族め」






 北風が将軍の気を疲れさせた。彼は万夫不当と称されるに相応しい勇将で、それこそ万単位の異民族を前に怯んだことも無かったが、如何せん烈風が彼の勇猛な精神を内から削いでいくのには抗えなかった。

 将軍は風を避ける為に、一つの岩山に身を寄せた。辺りを見渡したが相変わらず見覚えすらない地であった。来た道を戻っているつもりだったが、足跡などはついた瞬間に消えてしまっているので確かなところは何もない。


 腰に結わえた小さな酒嚢を手探りした将軍は、それが以前より(から)であったのをすっかり失念していた。二日前に味わったのと同じ脱力はたちまち怒りに変わった。怒号を発して将軍はそれを投げ捨てた。

 ちっぽけな酒嚢は風にさらわれて、あっという間に姿を消した。突然彼は、足元の砂一粒一粒が異民族であるような妄想に囚われて跳び上がり、右足で力一杯砂を蹴った。


 肩の傷はどろどろに溶け出しそうなほど熱く、脈と共に髄から痛む。空の星が揺れた。将軍は岩肌に背をあずけて崩折れた。


 ――北守将軍、北守将軍。


 熱のかたまりと化したその身体に、もはや圧を加えるのみとなった風が、小さな声を運んできた。幻聴であろうと将軍は朦朧となった頭を振った。が、鈴音にも似た声は綿の切れ端のように彼の意識の耳元に纏わりつき、いつまでも鼓膜をくすぐり続ける。

 

 そしてふいに、額に氷の指が触れた。将軍は慌てて上方を見遣った。急に視界が開け、その時はじめて将軍は自分が目を閉じていたことに気付いた。


 傍らに一人の女がいた。


 真白な容顔を将軍に向け、薄い唇から小声で将軍を呼ぶ。結髪は風にくずれ頬や首に大量に絡んでいた。

 か弱い姿でありながら異質な強さを感じさせる瞳を持つ、不思議な女であった。将軍は彼女の黒瞳に見覚えがある気がした。大きな双眸は人の(さが)を超えて(くら)く、ひたむきに黒く、知ってはならない淵を覗いている気すら抱かせる。


 「ああ……そうか」


 あなたか。

 と将軍は唇で呟いた。

 





 もう五年も前になる。ある春の夜、将軍は不可思議な体験をした。

 その夜、前触れもなく至近で揺らめいた気配に、将軍は目を覚ました。異民族の襲撃もなく、大夜鳥の声と雪解けの細流(せせらぎ)だけが聞こえる夜だった。


 足元に全裸の女が立っていた。生白い肌が幽かな月影を受けてぼんやりと夜闇に浮かぶ。その狂熱的な黒い双眸を除けば、女はまるで煙か幻のようであった。

 咄嗟に声をあげることも出来ずただそれを見つめていると、女はやにわに肢体をうねらせて四つに這い、将軍に擦り寄って来た。

 見知らぬ女だが、なぜか馴染みのある匂いがした。

 薄い唇が大きく開いて将軍のそれを覆う。獣じみた所作が驚愕と理性を奪った。一気に生々しくなった柔肌の温みと重みが将軍をぬらりと呑み込んだ時、大夜鳥が一声、天に向かって鳴いた。


 翌朝部下の呼び声に目を覚まされた将軍は、その場でしばし唖然とせねばならなかった。

 そこは館のやわらかい寝具の中ではなく、厩舎のすみに積まれた(まぐさ)の中だった。女の姿はなかった。将軍は全裸で、寝間着は当時の彼の乗馬――初陣からの相棒であった黒馬の馬房に捨てられていた。

 愛馬は消えていた。三日三晩捜索したが、毛すじ一つ見つからなかった。






 「一別以来だな……佳人」

 不可解な結末に終わり思うところはあるものの、かの夜は忘れられない記憶なのだった。女は賢い小鳥のように首を傾げていたが、

 「(わたくし)はいつでも、将軍のお傍におりました。ずっと昔から」

 と透き通った声で答えると、繊手を伸ばして将軍の手をとった。


 不思議なことに、女が触れると傷の痛みは麻痺したように消え去り、痺れに似た感覚だけが残った。繊手にひかれるまま将軍は立ち上がることさえ出来た。


 「そなたは……」

 「――こちらです、将軍」

 丁寧に彼の左手をつつみ、女は歩き出した。風は相変わらず轟々と鳴り響いていたが女の歩調は乱れなかった。肌を痛めつける砂塵も女を避けて通るようにみえる。

 「不思議なひとだ!」

 と将軍が感嘆すると、女はつと振り向いて、

 「将軍こそ本当に不思議な方ですわ」

 と言った。彼は目を(みは)った。

 「なぜだ?それは……」

 「だって、あなたさまは都にまでその勇猛がとどろく武人で、しかも男盛りの年齢でいらっしゃいますのに、未だにご結婚というものに見向きもされない。聞く人は皆不思議がっております。或いは都にいらした時分に巡り会った、どこかのやんごとない美姫の面影を偲んでいらっしゃるのだとも……これは詩人どもの言でございますが」

 「なにを莫迦な」


 女は表情を隠すように縺れた髪束を払った。微かな光に晒された(うなじ)は、相変わらず幻のような色をしている。


 「(わし)が……儂は、ただ結婚する気が無いからしないだけだ。別に無理に結婚せずとも、北方警備の任は世襲ではないし、家名(いえ)の方は故郷で家兄が立派に継いでいる。だから儂は、儂はただ…」


 手に絡む繊手を振り払い、将軍は女の腰を抱こうとした。が、女はするりと身を躱して再び将軍の手をとり、

 「さ、お急ぎにならねば」

 と先を行き始めた。

 将軍は苦しげに眉をひそめ何かを言いかけたが、やがて頷いて女の後に続いた。


 広大な夜の砂漠を、女は俯いたまま、ためらいもせずに歩いていた。

 将軍は上空を仰いだ。触れたら琴の()のしそうな糸月の、位置が変わっていないように見える。


 「一体儂はどこにいるのだ」


 独り言のように将軍は呟いた。負傷した身で砂の上を歩き続けているのに、全く疲れないのが返って不安だった。ひりつくような喉の乾きも今はすっかり消え失せている。


 「ここは……」


 聞き流したとばかり思っていた女が答えたので将軍は緊張した。期待を込めてその姿を凝視していると、かなりの時をおいてから女は語を継いだ。弱った羽虫のような声で。


 「……ここは、私なのです」

 「なんだと?」

 「ここは細月の光らぬ部分、あの形ある(おぞ)ましい闇、神様の裏側……」


 遠くの岩山に砂が当たり、散る音がした。

 女は先程から前方をのぞんだまま視線を動かさずにいたが、ふいに将軍の手を自らの胸元まで持ち上げて、(こら)えかねたように口接けた。


 「佳人……?」

 「申し訳ありません」

 視線を合わさぬまま将軍の手を撫で、女はひとつ溜息を絞った。

 「まいりましょう。時間が、あまり」


 その時、将軍の沓先に何かが触れた。砂に埋もれた柔らかいものだった。女は素知らぬ顔でその上を行き過ぎようとしたが、将軍が立ち止まったので眉をよせて振り向いた。


 「どう、なさいました?」

 「これは、あの、儂の乗っていた馬か?」

 「……ええ」

 「やはり死んでいるな」

 「ええ」

 「不思議なのだ。儂はどこかの神の機嫌を損ねるような禁を犯したのだろうか。ここ幾年か、儂の乗る馬は全て半年ともたずに死んでしまう」

 「……」

 「それに、この馬のように何頭かは、健康になんの異常もないのに突然狂い出す。儂が今日の傷を負ったのもそのせいだ。この馬は戦場で何かに怯えたように竦んだかと思うと、儂の指示とは反対の方向に走りおった。異民族の弓箭隊に突っ込むところだった。全く腑に落ちぬ。長く付き合える優秀な馬を、と馬相師がわざわざ都から贖ってきたものを」


 「では将軍がその矢傷を負われましたのは、この馬が狂うて走った時なのですね? 狂うたとはいえ、将軍を乗せて危険な方向に走るとは、まあ、なんと憎い馬でしょう。武人を乗せて戦場を駆ける資格も無い……なんという身の程知らず! お前など田舎の畑で鍬でも引いているのが似合いなのに、このような勇者の(にわ)にのこのこと出て来て、あまつさえ将軍にお怪我を負わせるとは……何と愚かな駄馬、ゆるさない!」


 蹴られた砂は風に流れて四散した。死馬の黒い毛並みが砂の衣の合せ目からのぞく。女は狂ったように死んだ馬を蹴り続ける。爪先に異様な執念がこもっており、死せる馬は幾度か鈍く跳ねた。


 こう   こう   ――こう


 夜を渡る大鳥が鳴いた。風にでも乗ったのか、ひどく遠くから、それでいて清明に響く。星々がよろめいた。憎悪に凄まじく歪む女の顔に呆然と見入っていた将軍は、はっと我に返り、馬体を蹴り続けている女の両肩を掴んだ。

 血走った黒瞳を見開いて女は振り返った。


 「わかっています、わかっております。――いえ、嫌! いや! 嘘です! あなたが別の黒馬に跨り、そやつの名があなたの馬として人々の口の端にのぼるのかと思いますと、もう、私は、悔しくて、恐ろしくて、居ても立ってもいられません!」


 将軍は女の唐突な叫びに狼狽して、その細い肩を揺さぶった。女はがくんと俯いた。


 こう――


 「此度のように……例え将軍が傷を負われましても、万が一にも御生命を落とされるような事がありましても、私は……そうです、いかなありがたい御名でもこの愚行を止めることはかないません。元はといえば神様のせいなのですもの。将軍と私をこのように定めた、神様のせいなのですもの」

 「そなた、やはり……」


 胸に倒れ込んできた身体を見つめて将軍は思案に暮れた。女の言は、手の届かぬ月の色を嘆くようなものだ。

 将軍は女をこれ以上荒らさぬ為に無難な言葉を探した。彼は武人であった。戦場での数多の経験から、理不尽や慨嘆には慣れきっていたし、諦めや切替えが早くないと生き残れないことも知っていた。


 「……何にせよ、もはやどうにもならぬ事だ。天上のものをそのように悪く言うのは良くない、佳人。罰が下るぞ」


 すぐ頭上で鳥の声がした。反射的に将軍は空を仰いだが――そこに生き物の姿は無い。


 「知っております」


 低く、女が呟いた。そして喉を鳴らした。笑っているのだった。

 吹き付ける風がその笑声を砂に流した。


 「将軍……」

 うたうような口調で女は言った。

 「なんだ?」

 「――そは()けらい

    そは流るる

    疾風より 光輝(ひかり)より

    瑞夢の閃きに似たり」

 「それは儂の馬の詩だ。五年前に消えた」


 即答すると、女は将軍を見上げて破顔した。童女のような笑みだった。


 「あちらに」

 なめらかな女の指が彼方を示した。

 「お見えになりましょうか? あの小さな幾つもの灯火。将軍の兵が将軍を探しているのでございます。見た目に遠けれど、将軍の歩みに合わせて近くなります。迷わずあれらの方角へお帰りあそばせ」

 「……そなたはどうなるのだ。このような場所にずっと残るのか? どうにかして、共に戻ることは……」

 「その答えは先程申し上げました。私はわたくしであるが故に、ここを離れることは叶いません。星が歪んでまいりました。さあ、もう振り向いてはいけません。哀れんではいけません。将軍までをここに沈めたくはないのです。あなたは戦場を駆けるひと、さあ」


 強く背を押され、将軍は灯火の方へ向いた。早く早くと呟きながら、女は意外なほどの力で渋る将軍を急き立てる。

 

 一歩踏み出すと、灯火は倍になった。

 もう一歩進むと、兵達の喧騒と、けたたましい銅鑼の音が聞こえてきた。

 三歩目で兵の幾人かが将軍に気付き、歓声をあげて駆け寄って来た。


 背後にはもう誰の声も気配もなかった。


 瞑目し立ち尽くす将軍を、大夜鳥が高らかに呼ばわった。将軍は夜天を仰ぐ。

 獅子の星座を縫って羽ばたく鳥影と、細月と抱き合わせの丸い闇が、はっきりと見えた。






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