机上の空論
「きゃぁっ、どうしたんですか、これっ!」
階段からアルと一緒に姿を現したメイシーが悲鳴を上げた。
「お茶を入れようとしたら、その失敗してしまって……」
「リリィーがお茶を?」
メイシーが額を抑えた。
「リリィー、文字が綺麗なこと以外で、女学園で何か褒められたことありましたか?」
刺繍をすれば指を刺し、レースを編めば糸が絡まり首を絞め、楽器を手にすれば端から壊し……。わ、わざとじゃないよ。
時々、小説のことを考えてボーとしちゃって、気が付いたら何かおかしなことになってるだけだもの……。
上目使いでメイシーの顔を見ると、大きなため息をつかれた。
「リリィーには私がついているでしょ?なんのためにリリィーの侍女になったと思ってるの?もし、私を追い出したくなったら、その時は自分でお茶を入れてください」
「メ、メイシー。いつもありがとう。絶対もう自分でお茶を入れない。ずっと一緒に居てね!」
思わずメイシーに抱き着く。
後ろからエディのつぶやきが聞こえて来た。
「すごい手綱さばきだな……」
アルが、ふぅっとため息をつく。
「”将を射んと欲すれば先ず馬を射よ”ってやつか……」
はい?手綱とか馬とか、何でいきなり二人で戦争の話をしだしちゃってるの?
「さぁ、3人ともあっちへ行っていてください。片づけて、新しいお茶を入れて持っていきますから!」
メイシーがシッシと言わんばかりに、私たち3人を店舗部分へと追いやった。
「手伝うよ、メイシー」
アルが、割れたカップに手を伸ばした。
「結構です”アル様”」
メイシーがギッとアルを睨んだ。
あのね、アル、ああいう時のメイシーには逆らわない方がいいよ?
後でアルに教えてあげようと思う。
メイシーがお茶を入れ終わったところで、口を開いた。
「あのね、いいことを思いついたんだけど……それについてどう思うか相談したいんだけど……」
ごくんと、紅茶を一口飲む。
「全ての子は、教会で洗礼を受けるでしょう?」
「ええ、そうですね。貴賤に関係なく受けますね」
とアル。
「教会のない村へは、年に1度国が神父を派遣してますからね」
政教分離という考え方が過去にあったことは歴史で習った。だが、現在は共存の道を歩んでいる。
教会は、人が生まれた時の洗礼と、亡くなった時の葬儀を無料で執り行ってくれる。それゆえ、どれほど貧しく寄付ができない人も教会を訪れる。
ゆえに「戸籍」管理の役割をしてくれる。洗礼時に、子供の名前を聞き、戸籍名簿に書き加えるのだ。そして、葬式で名簿の名前を消していく。
役人が、どれだけ人が生まれて亡くなったのか調査するよりも、信仰心を利用した方が正確なのだ。
教会は、洗礼式や葬式を”無料”で執り行った費用を「戸籍管理費用」として国から受け取ることができる。
「神父さんは皆、文字が書けますね……だから、洗礼式の時に、赤ちゃんの名前を札に書いて赤ちゃんに渡せないかと思って……」
エディが難しい顔をする。
「どれにどんな意味が?」
意味……。
「今日、お店にドナさんが来て、子供の名前を書いてほしいって依頼されたの。……子供に自分の名前くらい教えたいって……。それから、ドナさんは自分の名前を見て、とても嬉しそうにしてた……もっと、皆に喜んで欲しくて……私、」
皆の顔は厳しいままだ。
私の感動したことが伝わらない?
ううん、違う。まだ私の言葉を待っている。伝えないと。
意味……?
皆が喜んでくれたら私も嬉しい。
確かに、それに何の意味があるのかと言われれば……ない。私一人を幸せな気持ちにさせるだけの……私の自己満足のために教会を動かすなんて、できるわけがないのだ。いや。できるかもしれない、私の立場なら。だけど、宰相の娘の立場を利用してわがままを通してはいけない。
だからこそ”意味”が必要なのだ。
ドナさんの嬉しそうな顔……。
「文字が身近になれば……」
アルの言葉を思い出す。
「そうよ、文字を身近に感じることができれば、きっと識字率が上がる。一番身近な文字は、店のメニューでもラブレターでもない、名前なの!自分だけの名前!それはきっと誰もが大事に思える物だと思うわ!」
思いつく限りのことを口にのせる。
「これが私の名前よ、これが僕の名前だって、きっと子供たちは宝物を見せ合うようになるわ。そして、街の看板やメニューに名前と同じ文字を見つけて喜ぶようになる……。文字に興味を持ち、賢い子は目にする文字を元に読み書きができるようになるかもしれない……。アルは言ったよね?代筆屋は識字率をあげる起爆剤になる可能性があるって……。生まれてくる子供たちに名前を書いてあげる……そうすることで、識字率が上がって、国力が上がると思わない?……それって、意味のあることだよね?」
言葉を出し切った。
皆、何も言わずに黙っている。
そして、アルがゆっくりとした口調で言葉を紡いだ。
「国を動かすには弱い」
……だめ……か。
「発想は素晴らしい。学校を作って識字率をあげようとするよりも、はるかに簡単に始められる。自発的に文字に興味を持って思える子は賢い子なのだろう。優秀な人材確保の可能性もあるかもしれない。だが……、すべては机上の空論。かもしれなでは国は動かせない」
机上の空論……という言葉にズキンと心が痛んだ。
私……論じてすらいない。思い付きを口にしただけ……。
「そうだな。アルの言うことに俺も賛成だ。国は動かせないな、だから、ココ領都ガッシュで始めて実績を出せばいい」
「え?」
意味を理解することができなくて、ぼんやりと続くアルとエディの会話を聞く。
「そう言いたいんだろう?アルも」
「エディ、領都ガッシュで始めるための試算をもう頭の中でしているんでしょう?」
エディが、紙にメモを始めた。
「必要経費は名前を書くための木札を用意した場合、ざっとこんなもんだな。ガッシュの人口から毎年の出産人数の平均はこれくらいだ。紙にした場合はこんなもんだな」
メイシーが二人の話に手をあげた。
「木札も紙も必要ありませんよ」
メイシーの言葉に、アルもエディもびっくりした顔をした。