六
カシュッ、カシュッ、カシュッ、カシュッ。
カシュッ、カシュッ、カシュッ、カシュッ。
「え……?」
音を聞きつけて飛び起きた。なんだろう、またあの音がしたみたいだったけど? 東側の窓から朝日が昇るのが見えた。まだ明け方だった。母が帰って来た音を聞き間違えたのかもしれない。
風間さんはゆうべ遅く、古文書をいくつか携えビジネスホテルへ帰って行った。東京に戻ってからも大神家のことをいろいろ調べ、土曜日に迎えに来てくれるそうだ。なんとも心強い話だ。彼のお蔭で、ぼくの寿命が延びるかもしれない。風間さんとの出会いに感謝しながら再び眠りに就いた。
カシュッ、カシュッ、カシュッ、カシュッ。
カシュッ、カシュッ、カシュッ、カシュッ。
「え……?」
まただ! また音が聴こえた! 今度ははっきりと。階下から聞こえてきたような気がしたけど、なんだろう?
ぼくは再び飛び起きた。
「もう! タマ! ダメだって言ったでしょう!」
なんだ、タマか。太陽が高い位置まで移動していた。しまった! これは相当、寝過ごしてしまったんだなと確信した。いそいで着替え、階段を駆け降りた。
「若いっていいわねー! わたしぐらいの歳になると、寝ていたくても寝ていられないのよ。知ってる? 寝るのも体力いるって!」
母のいつものお小言を黙ってやり過ごし、オーブントースターにパンを放り込んで洗面所に向かった。タマの頭を撫でることは忘れずに。そういえば。
「母さん! 夕べ玄関の鍵が開いてたぞ! フランス人形も倒れてたし! 裏のサンダルだって出しっぱなしだったぜ! 誰かに会うんで、浮かれてたんじゃねえの?」
たまには言い返してやれと、いつになく畳み掛けるように母の小言に応酬した。
「なに言ってんのよ! 鍵はいつもちゃんとかけてるわよ! わたしがかけ忘れたことがある? あのフランス人形はあきらの次に大切な品物だよ! 倒しっぱなしにするわけないじゃん! 裏のサンダルが外にあった? そんなおかしな履き方するはずないでしょ? どうやって裏口から家の中に上がるのよ? タタキに裸足で上がったっての? 第一、わたし裏口なんて使ってないよ! あきらがタマを外に出すときしか開けないでしょ? なんでもかんでも母親のせいにしないでよ! あんまり生意気な口きくとシバクよ!」
母がヤンキー言葉に戻るのは怒りが頂点に達したときだ。ヤバイ、ヤバイ。これ以上沸騰させると剃刀の華子が復活するぞ。口じゃ女に叶わないことは、己の華麗な女性遍歴で実証済みだ。早々に白旗を揚げることにした。
「だって……事実だぜ? 玄関に鍵を差し込んだとき、開いてた」
「ほんとに……?」
「ああ」
「おかしいわね。人形も倒れてたって? まさか……どろぼう?」
母の顔色が変わった。ぼくも、にわかに不安になった。
「無くなったもんとか、ねえの?」
「ちょっと、待って!」
母がバタバタと家の中をチェックしはじめた。ぼくもあちこち点検してみた。特に変わった様子はなさそうだ。
「あ! いっけない!」
オーブントースターに入れっ放しだったパンを思い出した。いそいで取り出してみたが、真っ黒焦げで食べれたものではなかった。
「あんたも、タマと一緒に朝食抜きだね?」
「ごめーん!」
オーブントースターを覗き込み、パンの焦げ具合を確かめた。ん? トースターの下に、白い紙が挟んである。引っ張りだしてみた。そこには。
「母さん! ちょっとこれ見てよ? これって……」
「あ! 何よこれ! あきら、こんなイタズラやめてよね!」
「ぼくじゃないよ!」
その細長いお札のような紙には神棚が筆で描かれていて、真ん中に梵字や丸印や剣の形をした記号が無数に書き込まれていた。
「何よ! なんなのよ、これ! 誰かがうちに呪詛かけてんの? いったい、どこのどいつよ!」
「母さん……誰かが無断で、家の中に入ってきたってこと?」
「誰かって誰よ! うちにはお客さんなんて誰も来てないよ! 新聞の勧誘だって、階段をいやがって上がってこないんだから!」
「でも……」
「風間さんは? あの人ぐらいだよ、最近、うちの中まで入ってきた他人は!」
「あの人がこんなことするわけないだろ! ああ、でも……」
「なによ? あの人、大神家に恨みでもあんの? あんた、なんかした? 女? そのアザ……風間さんの女になんかしたの?」
「なわけないだろ! 風間さんは、会ったばかりの人だよ? 女とは遊んでないって言っただろ!」
「だったら、なによ?」
「風間さんは行者と暮らしていたことがあるんだよ。だから……ぼくのために、お札を置いていってくれたのかもしれない」
「行者……お札……あきらのために? これってお守りなの? でも……玄関の鍵が開いてたのって、風間さんと一緒に帰ってきたときなんでしょ?」
「そうだけど……なんか取られた物とかはないの? 通帳や印鑑は?」
「貴重品や現金は無くなってないよ。権利書もあるし」
「だったら……鍵が開いていたと思ったのは、ぼくの勘違いかもしれない。オーブントースターの下にあった紙は、風間さんだったら悪いから元の位置に戻しておくね。今度会ったときに聞いてみるよ」
「そうなの? まあ……被害がないからいいか。うちに入ったってお金になるモノは何もないしね。あ! 早く行かないと! それじゃ、スナックにいるから。まだまだ磨かないと」
「なに、そんなにいそいで? まだこれから、1時じゃん。さては……江波さん?」
「今日は隣りの駅で天ぷらとケーキおごってくれるんだって! あの人、独身生活が長いからお金いっぱい持ってんだよねえ」
「バツ1だっけ? 娘さんは前の奥さんと地方で暮らしてるんだろ?」
「うん。娘さんも今年成人して、元奥さんも再婚したんだってさ」
「ちょうどいいじゃん」
「なにが?」
「ぼくは反対しないから……早くしなよ、遅れるぞ!」
「行ってきます……あきら、わたしはいつだってあんたが1番だからね。何があっても! おぼえておいてよ?」
「わかってるって。行ってらっしゃい!」
「はい、はい。それじゃ」
母は真っ赤なワンピースに白のショートブーツとたっぷりの香水を纏って出掛けていった。今日もスカートはミニだ。めずらしく巻き髪にしている。あの髪型は名古屋巻きが発祥だと、前に優子が教えてくれた。自分はいつだって、おかっぱボブのパッツン髪なのにさ。優子。昨日の夜、下の森からぼくの部屋を見上げていたのかい? いつだって明るく笑っていた彼女が、そんな未練がましいことをするだろうか。ぼくは、風間さんが優子を見たという西側の森がすごく気になった。
そのあとタマに猫缶をあげて受験勉強をしていたのだが、森が気になって仕方がない。しまいには勉強が手につかなくなってしまい、日暮れ間近に行ってみることにした。
階段の下の西側に拡がる狭い森までが、うちの敷地内だ。大きなクスノキの根元には、古い祠が据えられている。その奥に閉鎖された古い井戸があり、ここから、祖祖父と下の集合住宅に住む女性の遺体が発見された。祖祖母はこのクスノキで首を吊っていた。
「あれ?」
祠の足元の土が掘り返されていた。掘ってからまだ、数日しか経っていない様子だ。
「なんだろう? 穴熊かな?」
このあたりにはまだ、タヌキやムジナが生息している。でも、よく見ると人の手の跡がある。それも、子供か女性のように小さい手形だ。こんなところを素手で掘って、どうするのだろう?
『ニャー!』
「ああ! びっくりした! タマ! おなかが空いたのか?」
『ニャー! ゴロゴロゴロゴロ』
いつの間にかタマが足下にきていた。ぼくはタマを抱き上げ、ポケットからドライフードを取り出して与えた。頬ずりしてやると、ゴロゴロと大きくノドを鳴らした。山の上の1軒家に住むぼくの、たった1人の心の友。いつもそばにいてくれる、ぼくと同い年のタマ。もしかしたら、死ぬときも一緒かもしれない。タマはいっそう大きく喉を鳴らすと、思いきりぼくに頭を擦りつけてきた。かわいいヤツめ!
ぼくはタマを懐にしたまま川岸まで歩いていった。水面を滑る夕方の風が、足元の小さなクレソンの蕾を震わせていく。薄手のシャツ1枚では少し肌寒い季節だ。川の淵で魚が跳ねた。こちらと向こう岸との間には、水面から少しだけ顔を見せる小さな岩があり、子供の頃あそこに石をぶつけてはよくひとりで遊んだものだ。いまはそこに首の長い水鳥がいて、黄昏色に揺らめく水面をジッと見つめていた。昨日の強風で桜の花びらはすっかり流され、数をだいぶ減らしていた。このぶんじゃ、父の十九回忌の頃にはなんの変哲もない平凡な川に戻っていることだろう。セピア色の空を仰いで背を反らせると、葉桜となった老木の姿が目に飛び込んできた。もうすぐこの木も、ぼくと一緒に朽ち果てるのだろうか。もっとも自分の場合は、若木のままボキッと折られるイメージだが。
『ミャー! クッシュン!』
腕の中で、タマが特大のクシャミをした。
「ああ、タマ! ごめんよ? おなかが空いたろ? 母さんに内緒で高い缶詰を開けてやろう。そういえば、ぼくはまだ朝ごはんも食べてないや。タマと一緒に真っ黒こげのトーストでも舐めるとするか」
たそがれどきが迫っていた。独り言をいいながらタマと一緒に家に戻った。なんとなくまた、森の中から視線を感じた。優子? もしも彼女がそこにいるのなら、駆け寄って思いきり抱きしめたい! そんな衝動に駆られた。
階段を上っていると、キラキラ星のメロディーが流れてきた。ぼくは玄関に駆け込み、いそいでスマホを手にした。




