四
カシュッ、カシュッ、カシュッ、カシュッ。
カシュッ、カシュッ、カシュッ、カシュッ。
「え……?」
またあの音を聞きつけた。体が一気に硬直する。
「どうかした?」
風間さんが不思議そうに首を傾げる。
「それが……」
「はあ~い! ああ、なんだ、あきら! あ! 風間さん……でしたわね? 息子がお世話になります。わがまま言ってませんか? 悪いとこがあったらビシバシ怒ってやってくださいね!」
スナックの裏口から母が飛び出してきた。
「こちらこそ、はじめまして。わたくし風間圭一郎という郷土史専門のライターです」
風間さんが名刺を差し出しながら、母とあいさつを交わした。
「まあまあ、ご丁寧にどうもありがとうございます。すてきなお声ですね? 歌が得意なんじゃございません?」
「いやあ……」
母が真っ赤な唇を広げて愛想を振りまいている。白いブラウスに真っ赤なエプロンを身に着け、めずらしく腕まくりをしていた。スナックの中は鍋やフライパン、肉や魚が香水の匂いと一緒にごった返していた。
「母さん、どうしたの? これじゃお客さん、呼べないじゃん」
「ママさん、だらしがなかったから全部ひっくり返して大掃除してんのよ。すべて磨き上げてピッカピカにしないとね! 土曜の夜だけど開店できそうにないから、臨時休業にしちゃったの」
「風間さんと先に家に行くから。なんか食うもんない?」
ぼくは突然、タマに朝ごはんをあげ忘れたことに気がついた。早く帰ってやらないと、おなかを空かせているにちがいない。
「さっき、江波ちゃんからお寿司のおみやげもらったから持っていきなさいよ。わたしは一緒に食べさせてもらったからおなかいっぱいなの」
「江波さん、来たんだ?」
「うん……」
江波さんというのは最近、母の元に足繁く通ってくるスナックの常連さんで、駅の向こう側にある村長が経営する病院の事務長さんだ。容姿は平凡だけど、とても真面目な人らしい。母の再婚相手には打ってつけじゃないかと、ぼくは秘かに思っている。母が面食いだってことがわかっているから、シツコク薦めたりはできないけど。でも、昼メシをアフターしたってことは、最初から寿司屋で待ち合わせができてたんだな。いやにめかし込んで、香水までつけて出掛けるからおかしいと思ったよ。
「じゃあ、寿司だけもらっていくよ。あとは何か適当に作るから」
「そうしてちょうだい。風間さん、息子をよろしくお願い致します。よかったら泊まって行ってくださいな。部屋もふとんもいっぱいありますから」
母が丁寧に風間さんに頭を下げた。こういう、親らしいところもあるんだなあと柄にもなくジーンときてしまった。
「そんな! 初対面の方の家にそこまでは申し訳ないです。話があるのでお邪魔させていただくだけです。お留守に申し訳ありません」
風間さんが恐縮し、胸の前でしきりに両手を振っている。
「いいえ、いいえ。この子ひとりっこですから、たまにはお兄さんみたいな人に一緒にいてもらったほうがいいんですよ」
「ぼくがですか? 兄にしては歳が離れ過ぎてますよ」
「お若く見えますよ。おいくつになるんですか?」
「29歳です。なったばかりなんですが……もうすぐ三十路だから嫁をもらえと周りがうるさくて」
「まあ! 風間さんなら、選り取りみどりじゃございません?」
「そんなことないですよ! ぼくはどうも、女性が苦手で……」
「だったら、うちの息子に聞いてみてくださいな! そのアザも……」
「母さん! 寿司! 日が暮れるから!」
まったく余計なことを! 風間さんのぼくに対する心象が悪くなるだろ!
「はいはい。そうだ! 冷蔵庫の中にあった残り物も一緒に持っていきなさいよ。はい、これ!」
母が寿司と一緒にタッパーをいくつか紙袋に入れ、ぼくに寄こした。
「あきらくん、ぼくが持つよ」
気を使う風間さんを母が制した。
「風間さん、いいんですよ。この子は運動神経がすごく良いのに、まったく体を動かそうとしないんです。大きな体が役に立つのは、電球を替えるときぐらいなんですから。それだって、いまじゃLEDの普及で必要ないんです」
まったく! ベラベラと余計なことを。
「ハハハハ、ぼくだって同じようなもんですよ! うちじゃあ、いつも邪魔者あつかいだ」
「まあ、親御さんと同居されてるんですか? ご長男ですか?」
「はい。でも、家は姉夫婦が継いでいるんです。ぼくは地方に行く事が多くてあまり家に帰れないので、実家を本拠地にして活動しています」
「そうでしたか。ご家族と仲がよろしいんですね。うらやましいわ」
「じゃ、母さん、またあとで!」
話が長くなりそうなので、強引にスナックの扉を開けて外へ出てきてしまった。夕暮れどきが迫りうす暗くなりはじめ空には、山の稜線がくっきりとその姿を現しはじめていた。
「たそがれどきだ……」
吉村に教わった言葉を、知らず知らずのうちに口にしていた。
「そうだね……トワイライト、このお店の名前と同じだね」
バタンと裏口のドアを開けて、風間さんがスナックから出てきた。ぼくの隣りに並ぶと、遠くの山々に夕日が沈んでいく姿を一緒に眺めた。そういえばむかし、トワイライトゾーンという映画があったな。たそがれどきという意味だったのか。
南西の空に浮かぶ半月が、おおいぬ座のシリウスの隣りでクッキリとその姿を主張しはじめた。半月は昨日よりも少しだけ面積を増していびつになりはじめていた。この月がキレイな円を描く頃、ぼくは18歳になる。
「日が暮れる前に出発しましょう」
「そうだね。今日はよろしく」
「こちらこそ!」
風間さんを案内して家に帰ろうとした。
カシュッ、カシュッ、カシュッ、カシュッ。
カシュッ、カシュッ、カシュッ、カシュッ。
「え……?」
「どうかした?」
「いま、何かが擦れる音がしませんでしたか?」
「そう? どの辺から?」
ぼくたちはキョロキョロとあたりを見渡した。店からじゃなかったかな? ぼくは『トワイライト』の裏口に目を向けた。
「あれ?」
「どうかした?」
「いま、建物の裏の方で影が動きませんでしたか?」
「あの、ツツジの木のあたりかい?」
「はい」
スナックの向こう側にある大きなツツジの陰から、誰かがこちらを覗いていたような気がした。
「ぼくが見てくる。待っていて!」
「はい」
風間さんが、走ってツツジの裏まで見に行ってくれた。1周まわってぼくのうしろ、スナックの表玄関の側から戻ってきた。
「大丈夫、誰もいなかったよ。でも、足跡があった。小さいから女性か子供のモノだろう。心配ないと思うよ」
「ありがとうございました。ぼくの勘違いですね。申し訳ありませんでした」
「暗いからね。何かと見間違えたのかもしれないよ。そろそろ行こうか?」
「はい」
風間さんと一緒に来た道を戻りはじめた。だんだんと暗くなっていき、役所の前に差し掛かった頃にはとっぷりと日が暮れていた。
「だいぶ真っ暗になってしまった。外灯がないと恐い道だね。お母さまは毎日この道を通っているの?」
「はい。でも、母はいつも明け方近くに帰ってくるから、今より明るいと思います。あの人、肝が据わっているから平気なんです。それに、この村はとても治安がいいんですよ。この村で事件が起きたのは……」
「ごめん」
「いいんです。そのことを、これから風間さんに相談しようとしているんですから」
「蒸し返して傷つけるつもりはないよ。ただ、君の手助けにならないかとお節介を焼いているだけだから」
「ありがとうございます。そんな心配、この村の誰もしてくれないからうれしいです」
「なんの役にも立てないかもしれないけど、話だけでも聞かせて欲しい」
「聞いてくださるだけで心強いです。ああ、着きました。階段が急で申し訳ないです。暗いから、気をつけてください」
階段の下のポストから郵便物を取り出し、風間さんの先に立つと傾斜のきつい階段を上がっていった。そのときまた、森の中から視線を感じて振り返った。
「どうかした?」
風間さんがぼくと一緒にうしろを振り向き、暗い森の中を階段上から見渡した。真っ暗闇でよく見えないが、こんなところに人がいるわけがない。気のせいだったのかもしれない。
「いえ、なんでもないです……」
『ミャーン!』
「あっ! タマ!」
タマが玄関の前でぼくの帰りを待っていた。
「かわいい猫ちゃんだね?」
「うちの飼い猫なんです。風間さんは、猫は大丈夫ですか?」
「ぜんぜん、だいじょぶだよ。ぼくのうちでも猫を飼っているからね。この子と反対で黒猫だけど」
「そうなんですか? よかった」
風間さんが目を細めながら、タマの頭を撫で回した。タマも猫好きの人だとわかったらしく、喉をゴロゴロと鳴らしながらよろこんでいる。ずっとポケットに入れっぱなしだったドライフードを与えた。タマが特大のゴロゴロを言いながらボリボリとむさぼり食っている。かわいそうに。朝から何も食べていないから、タマはかなりおなかを空かしていた。緑色のかわいい目が、もっとくれと訴えてきた。
「風間さん、暗いですね。早くうちの中へ入りましょう」
「ああ、そうだね。どうもありがとう」
タマを抱き上げ、玄関の鍵穴にポケットから出した鍵を差し込んだ。
「あれ? おかしいな。鍵がかかってないや。母さん、また閉め忘れたんだな」
イラつきながらスライド式の戸を開けて明かりをつけた。あれ? フランス人形がピエロの上に倒れている。どうしたんだろう? 地震でもあったかな? フランス人形を元に戻しながら、その手前にいつものようにスマホを置いた。
「お邪魔します。おや? ステキな人形がたくさんあるね。アンティークかな?」
「ピエロとフランス人形以外はアンティークらしいですよ。母の趣味です」
「そうなの? でも、ピエロと真っ赤なドレスの人形はことさら大事にされていそうだね。伝わってくるよ」
「ピエロは父との思い出の品だそうです。フランス人形はたしかに、母の1番のお気に入りです。そういうことも……霊感でわかるんですか?」
「いやいや、そこまではわからないよ! なんとなく、雰囲気でさ。このお人形、男のぼくから見てもかわいらしいから」
「そうですね。思いが込められているんでしょう。さあ、どうぞ遠慮なくあがってください。晩飯にしましょう!」
「ありがとう。失礼します」
家中の明かりをつけると風間さんと手を洗い、仏壇に線香をあげてからタマに猫缶を食べさせた。台所に行くと湯を沸かし、母に持たされたタッパーの中身を皿に取り分けていった。中身はもつ煮や肉ジャガなどの飲み屋メニューだが、いつもと違い冷凍食品ではなかった。病気療養中のママさんは、母と違い手料理が得意だった。母はママさんがいないことをいい事に、それらを全部処分してしまうつもりなのだろう。女の心理とは恐ろしいモノだ。
風間さんは、ぼくが夕飯の用意をする間、台所のテーブルで資料に目を通していた。
「お仕事たいへんそうですね」
インスタントのお吸い物をお椀に入れて差し出しながら、風間さんに声を掛けた。
「いやあ。明日、村長さんの病院に伺って最終的な確認だけしたら、東京に帰るんだ」
「ええ! せっかく会えたのに、もう行っちゃうんですか?」
「ハハハハ、ごめんね。でも、来週末にまた村長さんのところに見本を持ってくるから、そのときにまた、こちらに寄らせてもらうよ」
「ほんとですか? よかった! 誕生日の前にもう1度会えて!」
「あきらくん……ごめん。そうだったね。ぼくはどうも、人の気持ちを考えずに思ったとおりの事を口に出してしまうんだよ。すまない」
「いいえ、いいんです。気にしないでください。ぼくは風間さんのそういうところも気に入っているんですよ。18歳で死ぬという話は、ぼくが勝手に思い込んでいるだけですから」
「でも……ぼくがあきらくんの立場だったとしても、同じように考えると思うよ」
「はい。ありがとうございます。とりあえず、ご飯にしましょうか」
「ああ、ありがとう。では、いただきます」
「いただきます」
ぼくは江波さんの買ってくれた寿司をタマと分け合いながら、飲み屋メニューに箸を伸ばした。枝豆も冷凍ではなく、きちんと茹でた物だった。ブリ大根もよく煮込まれている。たいしたものだ。母にも見習ってもらいたい。
ぼくは来週、18歳になる。果たして母は、1人で生きていけるのだろうか。




