三
カシュッ、カシュッ、カシュッ、カシュッ。
カシュッ、カシュッ、カシュッ、カシュッ。
「え……?」
いま、またあの音がした。吉村がサッシを擦ったときみたいな音。何かと何かを擦り合わせるような音が家の中から聞こえてきた。2階には3部屋あるが、使っているのはぼくだけだ。だとしたら1階の奥にある4つの空き部屋のどれか、からだろうか?
ぼくはいま、自分の部屋で明かりでを煌々と照らして受験勉強をしている。カーテンは開け放してあるから、机の真正面にある西側の窓から外の景色がよく見える。集中力が散漫になったみたいだ。気分転換に森の向こう側にある川を眺めた。
暗闇に目を凝らしていると、ライトアップの終わった暗い川面を左から右へ移動していく無数の花びらが白く浮き立ちはじめた。上流にある山桜はぜんぶ散ってしまったみたいだ。そのうち水面には蜜を求めて蝶や蜂が舞い踊り、魚を狙った水鳥たちが飛びまわる。それらを実際に目にしたとき、初めて季節を感じるにちがいない。そのころまでぼくが、生きていればの話だが。
勉強に飽きたので、風間さんの名刺を取り出して明かりにかざしてみた。風間さんは30前後のかっこいい大人の男だった。将来、あんな風になりたかった。明日は絶対に郷土史料館へ彼を訪ねよう。興味がまったく失せてしまった受験勉強はやめにして、いつもより早く就寝した。
翌日、いつもより早く寝たのにいつもの土曜日よりも遅く起きてしまったぼくは、朝食兼昼食のトースターと目玉焼きにかぶりついていた。もうすぐ死ぬのに、なんでこんなに食欲があるのだろう。母は昨日に引き続き、鼻歌まじりで上機嫌だ。
「あきら! 昨日のかっこいいライターさんのとこに行くんでしょ? わたしも一緒に途中まで付き合う! スナック行くから」
「ずいぶん張り切ってんだな? そういえば……変な音が聞こえてこなかった? 家の中から……」
「音? 音ってどんな?」
「サッシを擦るみたいな、カシュッ、カシュッってやつ」
「なにそれ? 大掃除なんかしてないよ?」
「ゆうべも外で聞こえたんだけど……あれ? タマは? 猫缶はあげた?」
「タマは夜中に大黒柱で爪とぎしたから、バツとして朝食抜きで外へおん出してやった! タマのヤツはまったく! あの柱には明ちゃんとあきらの背比べの跡が残っているから、だめだって何度も怒ってるのに!」
「そんなこと、タマにはわかんないよ。あの柱は太くて大きいから、猫の爪とぎにはちょうどいいんじゃないの?」
「なんで猫なんかの肩をもつのよ! 悪いことは悪いってバツを与えてやんないと、ケモノには通用しないんだから!」
母の小言がはじまったので皿を流しに置きっ放しにして、自室へ逃げ込み出かける準備をはじめた。デートのときに着るようなブラックシャツやパンツはやめにして、高校生らしいチェックのシャツにジーンズと地味なブルゾンを身に付けた。コロンはやめてピアスは外しアクセもしないことにした。
母は何かというと動物のことをケモノと呼ぶ。わからなくもない。父がケモノのようなものに殺されたことがトラウマになっているのだ。そのショックで、母はぼくを予定日よりもずいぶんと早くに産んでしまったのだ。最初は、タマを飼うことにも反対だったようだ。タマは父が死んだとき、川原で発見された。父の飼い猫にそっくりだったので、仔どもだろうということで、父の母親である祖母が拾ってきたのだ。
カシュッ、カシュッ、カシュッ、カシュッ。
カシュッ、カシュッ、カシュッ、カシュッ。
「え……?」
またあの音がした。家の中からのような気がしたが、外からかもしれないと思い、窓を開けて外へ頭を突き出した。強い西風が春の香りと共に頬をすべり、部屋の中へと散っていく。気持ち良いぐらいの青空がひろがっていた。川面を埋め尽くす桜吹雪はいちだんと増し初夏がもう、すぐそこまで近づいていることを物語っていた。キラキラと光輝く水面には、揺れては落ちる桜の花びら。自然の作り出した幻想的な花舞台に、ぼくはしばし酔いしれた。
「もう! いつの間に! タマってば! めーっ!」
母の金切り声に驚かされた。おおかた、タマがこっそり入ってきて、また大黒柱で爪とぎでもしたのだろう。そうだ。タマに朝ごはんを持っていってやろう。ドライフードの包みをポケットに入れ、そうっと部屋の真正面にある階段を降りていくと、もうタマも母もいなくなっていた。なんだ、残念。階段の横に立つ大黒柱を見上げた。真正面の玄関から差し込む光が、ぼくと父の背丈を刻んだ細かい傷を浮かび上がらせていた。今年の正月、ぼくは父の傷を超えた。父も背が高かったらしいが、ぼくのほうが栄養状態が良かったみたいだ。10年前まで牛乳配達をしていた母の影響で、毎日あまったミルクを飲まされていた。父の背は超えたが、父の年齢はまだ越えていない。こればっかりは、大量の牛乳をがぶ飲みしたところでどうにもならない案件なのかもしれない。
「あきら! ちょっと待ってよ! 化粧なおしてくるから!」
「はい、はい」
ぼくの部屋の真下にある自室に、母が駆け込んだいった。化粧なんか直したってそんなに変わらないよ、という言葉は飲み込んでぼくは洗面所に向かった。むかしこの言葉をつぶやき、最初に付き合ったケバイ年上女にアッパーカットくらって今みたいなアザができた。あのときは何日も腫れてたいへんだった。そのときからぼくは、これらの打撲傷を人前で隠そうとはしない。吉村あたりは名誉の負傷だからだろうと言い出しかねないが、そうではない。ぼくの頬のアザは次の女が名乗りを上げる旗印になる。だからぼくはいつだって、アザが消えぬうちに前の女の鼻先を、次の女の腕を取り闊歩している。
だけど、そんなくだらない理由だけであざを隠さないわけじゃない。頬の変色は、生きていることの証だからだ。青白く生気のないぼくの顔を頬紅を叩いたように鮮やかな赤紫のアザが彩ってくれる。それだけで人間らしく見えるから不思議だ。女が頬にチークを入れたがるのは、より若く生き生きと見えるように演出し、生命力と繁殖力をアピールするためだ。だからぼくも鏡に映るぼく自身のために、アザを隠さずによく見えるようにしておくのだ。だって死んでしまったら、頬の赤味は消えアザすら作れなくなってしまうだろうから。
いったいぼくがどんな死に方をするのかは知らないが、先祖の例からみても穏やかな最期でないことはたしかだ。自分の死は決して、水面に浮かぶオフィーリアのように、美的で優雅で感動的なものなどではあり得ないのだ。
「どうしたの? そんなに鏡を覗き込んで? はい、はい! あんたはいい男ですよ! わたしが産んだ最高傑作の芸術品だよ!」
「あれ? 母さん、香水つけてる?」
「うん……いいじゃん、たまには。あんたこそ、今日は無臭じゃん」
「いいだろ、別に。コロンは女がよろこぶからつけてるだけだよ!」
「フン! 蜜に集まる蝶と一緒だね? 女なんてそんなもんだと思ってんでしょ? 女はねえ、1人の男に愛されてこそなのよ! そんなことしてると、今に痛い目みるからね!」
「女とは、もう何もしてないって言ってるじゃん! しつこいなあ」
母は元々香水を付けるのが大好きだったのだが、スナックのママさんが嫌がるのでやめていたのだ。自分1人になった途端、これだ。女って露骨だよなあ。
自分が香りをまとうのは大好きだが、他人の強すぎる匂いはきらいなので、大股で母を追い越し先に家を出ようとした。
「待ってよ、あきら! 置いていかないでよ!」
「早く行こうよ! 荷物があるなら持つけど?」
「何もないよ。このバッグだけだから」
「めずらしい、エコバッグなんか持って。何が入ってんの?」
「ちょっとね……あ! スマホ忘れてるよ? ほれ!」
「…………」
母が人形の前から、ぼくのスマホを取ってくれた。そのとき偶然にも、母の手がフランス人形の首に当たり、碧い瞳がゆらゆらと揺れ出した。何かを暗示しているようで、背筋が一瞬凍りついた。
「何してんの? 行くよ!」
「あ、ああ……そうだ! タマは?」
「爪とぎしてたから、追い出した! まったく……」
真っ赤な唇でブツブツと母が小言を言い出したので、早々に玄関を出た。タマは庭にもいなかった。ドライフードは庭にある猫皿にでも置いておこう。下の集合住宅のメス猫のところにでも行ったのだろう。あの猫も大神家の一員らしく、大の女好きだから。
階段の下からあたたかな空気が舞い上がってきた。ぼくは母の先頭に立ち急な階段を下りはじめた。白いショートジャケットを羽織った母が、真っ赤なミニスカートで自慢の足を強風にさらけ出し、高いヒールで一段一段起用に階段を下りてくる。道まで下ったぼくたちは村役場の方角へ向かった。気のせいかもしれないが階段を下りている最中、ずっと森の中から視線を感じた。大神家の小山を取り巻くこの森は、ほとんどが個人所有だが手入れが行き届いておらず、近々村が買い上げて管理してくれる予定だ。大昔は全部が大神家の土地だったらしいが、落ちぶれていくにつれ徐々に切り売りして、今では我が家の土地は小山1つになってしまった。これだって、平地にしたら大した面積ではない。ご先祖さまの土地選びは大失敗だ。ぼくが死んだら、母にはあの川沿いの集合住宅に住んでもらおう。元々母はあそこの出身なんだから、低地に戻るべきなんだ。高い場所も高いヒールも高すぎる望みも、疲れるだけでなんのメリットもありゃしない。
「あんたのそのほっぺたのアザ! 風間さん、ゆうべは暗くて気づかなかったんじゃないかしら? 昼間会ったらビックリするんじゃない?」
「風間さんは昨日、ぼくの左側にいたからわからなかったかもしれないな。でも、彼はそんな失礼な人じゃないから、アザに気がついても言葉や表情には出さないよ」
「あきらってば! ほんとに風間さんのことが気に入ったのね? 彼の事となるとそんなにおしゃべりになっちゃって! あ~あ、風間さんにずっといてもらいたいなあ。あんた、明ちゃんとちがってすっごい無口なんだもん! 男の子ってつまんない。女の子も欲しかったな……明ちゃんとの間にもう1人」
「だったら、新しい男との間に作れよ! ぼくの代わりに」
「へへへへ……冗談、冗談! 子供はあきら1人で充分だって! 風間さんとうちで夕飯、食べれば? 泊まらせてあげてもいいよ。『トワイライト』に来てもらってもかまわないから! そんじゃ、お先に!」
「あ! 母さん! 風が強いからヒールでこけるなよ! 気をつけて!」
母がさっさと店に向かって行ってしまった。再婚の話が出るといつもこれだ。でも、夕飯に誘うところをみると母も風間さんのことが気に入ったみたいだ。たしかに、夜目に見ても好感の持てる、親しみやすい人物だった。
「どうしたの? そのほっぺた!」
だが、風間さんは予想に反し、会ったとたんのアザのことを聴いてきた。なかなかに想定外な人だ。見た目と違い、ちょっとガサツなところがあるのかもしれない。ガッカリしたというよりも、人のテリトリーにスルッと踏み込んでくるその自然な態度に魅力を感じた。何を言っても何をしても、まったく嫌味のない人だ。響きの良いこの美しい声と同じだ。
「はあ……ちょっと……」
「大丈夫かい? 氷で冷やす?」
「いえ……古いものなので大丈夫です」
「そうなの? 美少年が台無しだね」
ここは、村役場に隣接して建てられている郷土史料館の2階の展示室だ。風間さんは資料を広げては、スマホで画像に収めたり、文章を打ち込んだりメモを取ったりしていた。郷土資料というほどすごい歴史がある村ではない。新しく村長になった人が外部から来た人間だから、何かしらの業績を残したいだけだろう。元々この村を治めていたのは大神家だ。うちにある古文書のほうが、展示されている農耕器具や生活用品、古い地図や掛け軸なんかよりも価値がありそうだ。ぼくの家には使われていない部屋がいくつもあり、その1室には古い書物や巻物が山と積んであるのだ。
忙しそうな風間さんを気づかい、まったく興味のない近辺の地形を模したジオラマを覗き込んだ。ご丁寧に我が家の小山まで再現されている。意外と精巧に出来ていて、小さな窓からたいくつそうなぼくの横顔が、いまにもひょっこりと飛び出してきそうだった。
そのときまた、視線を感じた。すぐに振り向いたが、誰もいなかった。
「おまたせして済まなかったね。終わったから、下でお茶にしようか」
「はい」
風間さんが顔を上げて、ぼくにニッコリと微笑みかけてきた。つられてぼくも笑顔になった。彼の声も笑顔も、本当に心地が良い。
ぼくたちは下の階にある事務所へ行き、急須に茶葉と湯を淹れてお茶を汲んだ。この応接室は誰でも好きなときに利用できるようにいつも開放されている。さっきまで誰か居たみたいで、水滴のついた湯呑みが1客だけ洗いカゴに置かれていた。ぼくと風間さんは茶の入った湯呑みを各々手に持ち、奥のソファに座ってリラックスした。
「風間さん、お昼は?」
「朝が遅かったから大丈夫だ。ああ、なんか菓子でも持ってくればよかったな」
「普段から間食は取らないので、結構です」
「そうかい? それでそんなにスタイルがいいのかな?」
「そんな……スタイルがいいのは風間さんの方でしょ? モデルみたいだ」
「はは……ありがとう。ただのうどの大木だよ! こう見えて運動神経がすごく悪いんだ」
「ええ! そんな風にみえない!」
風間さんとのおしゃべりはひどく楽しかった。孤独に耐えながら大人びた時間を過ごしてきたぼくを、童心に返らせてくれた。ぼくらは時間を忘れ、さまざまな話題に花を咲かせた。
気がつくと、明かりをつけなくてはいけない時刻になっていた。
「ところであの……昨日、ぼくのことで気になった事というのは……」
昨日、風間さんが言いかけたことを尋ねてみた。迫りくる死の恐怖からの突破口になるのではないかと、わずかばかりの期待を込めて。
「ああ……こんなことを言っておかしな奴だと思わないでもらいたいんだが……実はぼくはこう見えて、小さい頃から少し霊感があってね」
「霊感……ですか?」
「ああ。大真面目な話、この不思議な力でいままでに何度も事件を解決に導いたことがあるんだよ」
「事件? 事件って……殺人……ですか?」
「ああ、10代の君に話すような内容ではないのだが……」
「それで、ぼくに何か?」
「実はね。きみの家の階段を何か黒いモノが上がって行ったんだよ。黒い影と言った方がいいかもしれない」
「黒い……影が?」
「ああ、それで気になってね」
「それは……うちに入って行ったんですか?」
「そのようだった。何か心当たりは?」
「実は……ぼくの家は男が生まれると18歳の誕生日に変死するんです。ぼくの18歳の誕生日は来週の土曜日です」
「それが本当なら、たいへんなことじゃないか!」
「はい、そうです。その日は父の十九回忌でもあります」
「もっと詳しく教えてもらえるかな? ここじゃなんだから……ぼくの泊まっているビジネスホテルに来るかい?」
「もしよろしければ、うちにいらしてください。母から風間さんに夕飯をごちそうして、泊まってもらってもかまわないと言われていますので」
「そうかい? では、そうさせてもらおう。お母さまにもきちんとあいさつがしたいな。いま、家にいらっしゃるかな?」
「いえ、勤め先のスナックで開店準備をしています。店に寄ってもらってもかまわないと言われています」
「そうなの? それでは、お店に寄らしてもらうよ。黙って人様の家にお邪魔するのは気が引けるからね。今からスナックを訪ねても、かまわないかな?」
「はい」
「電話は? 入れなくてもいいの?」
「大丈夫です。すぐそこですから。歩いて5分ぐらいです」
「では、行こう」
ぼくたちは郷土史料館を出ると駅の方角へ歩き出した。遠くの山際を目指し、鳥の編隊が夕焼空を進んでいく。あんなに吹いていた風はすっかり止み、夕暮れ間近の駅前には人っ子一人いなかった。
トントン。
ぼくは駅前にある小さなスナック『トワイライト』の裏口をノックした。




