一
カシュッ、カシュッ、カシュッ、カシュッ。
カシュッ、カシュッ、カシュッ、カシュッ。
「え……?」
思わず、音の出た方向に顔を振り向けた。
「ごめん、ごめん。うるさかった? シャーペンの芯が引っか掛っちゃってさ」
後ろの席の吉村が、学校の窓の敷居にはまり込んだシャーペンの芯を取ろうと、必死でモノサシを動かしていた。サッシが擦れてさきほどの不快音を紡ぎ出していたのだ。でもこの音、どこかで聞いたことがある。
「やっぱり、だめだ! キラ、開けてもいい?」
吉村が坊主頭を傾げ、ぼくに確認を取ってきた。こいつは一見、ガサツな様でいて案外と周りに気を配っている。放課後の教室には、ぼくと吉村と数人の生徒しか残っていない。吉村のうしろに夕闇が迫っていた。
ぼうっとしているうちに、こんな時間になってしまったみたいだ。いったい、いままで何をしていたんだっけ。最近のぼくときたら、気がつくとこんな空白の時間を過ごすようになっていた。死期が近づいているせいだろうか。それとも、父の19回忌が近づいたから、頭の中で現実逃避をくりかえしているだけなのだろうか。
「キラ! キラってば!」
吉村がぼくのあだ名を連呼した。ぼくは大神あきらという名だが、キラという愛称で呼ばれている。ひらがなで書くこのあきらという名もキラという愛称も、ぼくはどちらも気に入っている。
「あ、ああ……窓だろ? 開けてもいいよ」
ガラッ!
吉村が3階の教室の窓を大きく開け放つと、4月のあたたかな風がカーテンを大きく膨らませた。微かに桜の花の香りがする。長い襟足を乱されながらぼくは、吉村の凡庸な横顔のうしろに拡がる大地を見つめた。
ここは東京近郊のS県K市の片田舎だ。新学期がはじまったばかりの高校のフェンスの向こう側には、幅二メートルほどの川が流れていて、両脇には満開の桜並木が続いている。無数の花びらがビッシリと水面を埋め尽くし、幻想的な雰囲気を醸し出していた。18年前のちょうどいま頃、うちの飼い猫が血まみれで浮かんでいたのがあの辺りらしい。花びらが1枚残らず消え去り新緑の季節がやってくると、水が淀みはじめる。そのときぼくは、果たしてこの世にいるのだろうか。
カシュッ、カシュッ、カシュッ、カシュッ。
カシュッ、カシュッ、カシュッ、カシュッ。
この音、やっぱり聞いたことがある。なんだっけ?
「取れた! キラ、ありがとう!」
さっきまで八の字だった眉ガシラを富士山のように高くして、吉村が快活に笑った。こんなことでこんなに幸せになれるだなんて。吉村は本当にいい奴だ。彼はきっと明日、自分が死ぬかもしれないなんてそんなこと、考えてみたこともないのだろう。
ガラッ、パシッ!
吉村が窓を閉めた。いつの間にか夕暮れが近づき、教室の蛍光灯を反射した窓ガラスが巨大な姿見に変身していた。エンブレム付きのキャメル色のジャケットにグレーンチェックのズボン。グレーに紺のストライプタイを結んだアイビー風の制服姿のぼくが映し出された。長い黒髪はバンドのボーカルのようにワックスで決めて、シルバーリングの片ピアスに細身の長身は、モデルみたいとよく言われる。運動神経は抜群だが部活には入らない。汗をかくのが嫌いだから。寿命が短いのに健康になっても仕方がない。整えた眉の下には切れ長の涼しげな瞳。鼻が高いところは死んだ父親にそっくりだ。冷酷そうにゆがむ薄い唇は、あけるとなぜか大きくひろがり、女どもには堪らなくセクシーに映るらしい。色白の素肌にくっきりと浮かび上がる右頬の赤いアザ。こんなことは日常茶飯事のいわゆるモテ男。チャライ外見に反するぼくという一人称を使う理由は、女受けがいいからだ。
短い命を謳歌しろと神様がもたらした父に瓜2つのこの外見で、男としてのヨロコビはすべて甘受してきた。女遊びに関してはこの世になんの未練もない。しょせん芸能人じゃあるまいし、見栄えがよくても寿命が短くては仕方がない。
「なあ、キラ、知ってる? 怪メールのうわさ!」
吉村が瞳をキラキラと輝かせ、うれしそうにおれを見た。とっておきの情報を教えてやるよといった表情だ。
「知らねえよ、なにそれ?」
別に知りたくもないが、吉村のためにノッてやろうと相槌を打った。
「スマホに最近、たそがれどきになると怪メールが出回るんだよ! おれのとこにもきたんだぜ! ほら!」
吉村が、自分のスマホをおれに差し出す。得意げに指し示すそのメールの画面には、恐ろしい文字が浮かびあがっていた。
『殺す殺す殺す殺す……殺す殺す殺す殺す……』
「なんだよ、これ! 新手のイタメールか? それにしても……センスがねえな! 誰から回ってきたんだよ?」
「それが……誰が出してんのか謎なんだよ」
「なぞ? 差出人不明ってことか? あれ? このメールアドレス……」
「ほんとだ! キラのにそっくりじゃん!」
キラのニックネームにちなみ、ぼくのメールアドレスはKIRAKIRASTARにしている。同じ文字列が吉村のスマホに躍っていた。
「気味わりいな……いやがらせかよ? もしかして……吉村、おまえが?」
「な、わけねえだろ! おれみたいなフツメンがキラに恨みはねえよ。男どもはみんな、モテ男のおまえに一目置いてるんだぜ? キラは学年1の秀才でもあるし。あるとしたら、女どもだろ?」
「女? なんで?」
「なんでって……これだから、モテる男はイヤだね。その、右頬のアザはどうしたんだよ? 右にあるってことは……左利きだから優子か? 何したんだ?」
「ああ……吉村の推理力はすごいな。そうだ。付き合ってたんだけど、ぼくがもうすぐ死ぬから別れようって言ったら殴られたんだよ。昨日」
本当はそのあと優子は、だったらぼくの子供が欲しいと言って泣きじゃくった。両手で顔をふさぎ、真っ黒なおかっぱボブを揺らしボロボロと涙を零していた。短い襟足から覗くうなじの白さだけが、目に焼きついた。だからぼくは優子に、おまえの子供なんか欲しくないんだよと言ってやった。そしたらこのアザだ。いつものことだ。ぼくは女と別れるとき、とびきり残酷な言葉を選び出す。
ぼくは父にそっくりだ。あちこちの女に手を出してあちこちの女に恨まれて、最後はケモノに切り裂かれ、血まみれになって死んだ父。
「なあ、キラ……なんだよその、死ぬって?」
「なんでもないよ、気にすんな。それより、たそがれどきってなんだ? どういうときのことをいうんだ?」
「ああ、ちょうど今時分だよ。夜の夕闇が近づく直前の時間帯のことをそう呼ぶらしいぜ。人の判別ができなくなりはじめるころ。逢魔が時とも言うらしい」
「いまごろか?」
窓の外に目を凝らしてみた。遠い山の向こうに夕日が沈み込もうとしていた。川面に浮かんだ桜の花びらがぼうっと陽炎のように白くゆらめいている。もう少しで、あたりは真っ暗闇になるだろう。
スマホの履歴を調べてみた。何人か知った女からの着信が届いていた。中に1つ、知らないアドレスからのものがあった。いつものことだ。1年前から、知らないアドレスからメールが届くようになった。『わたしのことだけ見て欲しい。キラにとっての唯一でありたい。あなたの子供が欲しい。りんごを剝きながらあなたを思い出してしまった。わたしはイブのように禁断の実を食べてしまったの。だからこの知恵の実は食べずに取っておくことにしよう。今日、あなたが川縁を歩いていたから突き落とそうと思った。でも、猫をかわいがっていたのでやめました』。くだらないことばかりが書かれている。
ぼくはもうすぐ死ぬ身だから、このように危険な文面にはまったく興味がない。すべてをあきらめて生きている人間は、生死の境がはっきりしない。ちょうどこの、たそがれどきのように。そういえば、父が殺されたのもこんな時分だったはずだ。
カシュッ、カシュッ、カシュッ、カシュッ。
カシュッ、カシュッ、カシュッ、カシュッ。
「吉村もう、やめてくれよ」
再び音を発しはじめた吉村に、ぼくは抗議した。
「え? なにが?」
見ると吉村は、机に座ってスマホをいじっているだけだった。
「すまない……カン違いだ。気のせいか……」
「もう帰ろうぜ。担任が見回りに来る時間だ」
吉村が立ち上がって帰り支度をはじめた。ぼくもそれにならい、かばんに教科書を詰めはじめた。そうだ、さっきまで受験勉強をしていたんだ。死ぬのに大学を目指しているだなんて、笑える。
「部活は今日、休みなのか? 野球部ってこれから県大会で大事な時期なんだろ?」
「おれ、背が低いからいくらがんばってもスタメン無理なんだわ。おまえぐらいタッパがあったらなあ。もう3年生だし、めんどくせえから受験勉強があるって言ってさぼってんだ。来年の春には卒業か……1年なんてあっという間だよなあ」
「そうだな……」
吉村は教室を見渡しながら、ちょっと寂しそうな顔をした。案外と要領のいいこのクラスメートを、ぼくはとても気に入っている。仲良くなってまだ間もないのに、もうすぐぼくは死ぬ。もうお別れなんて悲しいな。これ以上、親しくならない方がいいのかもしれない。
吉村とは校門の前で別れた。山の狭間に日が落ちて、あたりが暗くなりはじめた。手を振る吉村の顔がぼんやりと霞み誰だかわからなくなっていた。ぼくたちは相当遅くまで居残っていたようだ。こんなに暗くては、星明りを頼りに行くしかない。吉村は右に曲がり川沿いを下流へ、ぼくは左へ折れて花冷えする川沿いを上流へと歩きはじめた。
半月の横に1番星が出たのと同時に、夜桜の下からLEDライトが光りはじめた。たくさんの桜の花びらがぼんやりと幻想的に浮かび上がる。それらが、水鏡に変化した川面に写真のように色鮮やかに映し出されていく。こんな時間でも案外と明るいものなんだなと、ぼくはひとりごちた。
ここから自宅へ通じる階段までは、川沿いに十五分ほどゆるやかな上り坂が続く。左側には集合住宅が密集していて、ここは昭和のはじめまでたくさんの長屋が並んでいた場所だ。母の実家のアパートもこの界隈にあったが、高校が建つときに立ち退き対象になってしまった。その先の森の向こう側、この道の終着点にある小高い山の上にぼくの家がある。そこから道は左へ折れ曲がり、村役場へと通じている。その先に最寄り駅や繁華街があり、この小さな村の中心地となっている。
ヒタヒタ、ヒタヒタ。
うしろから、誰かの足音が聞こえてきた。ぼくは早足になりながら、例のメールを寄こしてくるストーカーが、いよいよぼくを殺しに来たのかと訝った。ミレーの描いたオフィーリアのように花びらの中に浮かぶ自分の姿が一瞬、脳裏をよぎった。しばらく歩いても、うしろを付いてくる人物の気配はやまなかった。少し遠回りになるけれど、左の道を入って集合住宅の間を抜けようか。それとも、思い切って振り返ろうか。でも、うしろにいるのが疚しい人間でなければ、反対にぼくが相手に怪しまれてしまうだろう。そのとき、足音が突然に左の集合住宅へ向かって消えていった。よかった。なんでもなかったんだ。
命なんか惜しくないと思っている人間が、神頼みをしそうになった瞬間だった。
カシュッ、カシュッ、カシュッ、カシュッ。
カシュッ、カシュッ、カシュッ、カシュッ。
「え……?」
そのとき、例のあの音が聞こえてきた。どうして? どこから? 音の出所を探り、あたりをキョロキョロと見渡した。そのとき初めて、いつの間にか自宅に通じる階段の真下まで来ていたことに気がついた。焦って、だいぶ早足で来たようだ。校門を出てからまだ十分も経っていなかった。いつもの半分ほどの時間で自宅に着いたのだ。月が隠れて周囲の森は真っ暗だが、階段の下には珍しく外灯がついていた。母が在宅している証拠だ。こんな時間に家に居るなんて、どうしたことだろう?
「あのう……すいません……」
「うわぁぁぁぁーっ!」
「わあっ! ご、ごめんなさい! 脅かすつもりはなかったんです! 本当にごめんなさい……」
ぼくは驚いて声の主に向きなおった。左側の道から男が出てきた。頭をかきながら、しきりに謝っている。暗闇にいるのでよくわからなかったが、背がとても高くスマートなタイプの男性だ。ぼくの背が百八十センチ弱だから、彼はたぶん百九十センチ近くはあるのだろう。その男は段々とぼくに近づいてきて外灯の下までやってきた。LEDライトの下で見たその人はすごくさわやかで感じのよい男性だった。清潔そうな短髪は前髪が少し長めで横に流し、眉も目も鼻もすっとしていて涼やかだ。口角の上がった唇が人柄の良さをあらわしていた。尖った顎がそこだけ男らしく、将来こうなりたいと誰もが憧れる大人の姿を体現していた。チェックのシャツにおしゃれなグレーのブルゾンを羽織り、ジーンズにショルダータイプのメンズトートを肩から提げたラフなスタイルをしていた。晴天の霹靂のように現れたその男は、しばしぼくを唖然とさせた。
「あの……よろしいですか? 大丈夫ですか?」
男が申し訳なさそうに話しかけてきた。すばらしい美声の持ち主だった。
「はい、大丈夫です。ぼくの方こそびっくりしてしまって、すみませんでした。暗闇だったものですから……」
「こちらこそ、驚かせてしまったみたいで申し訳ありません。実は道に迷ってしまって……ぼくはこういう者なのですが……」
「はい?」
見知らぬ男性が高校生のぼくに名刺を差し出した。なんだろう? 予備校の勧誘かな? ぼく、塾には行かない主義なんだけど。どうやって断ろうかと名刺を外灯にかざしてみると、そこにはこうあった。
『郷土史専門フリーライター 風間圭 東京都……区……町……番』
「すごい! プロのライターさんなんですか? ぼく憧れてるんです!」
「そうなの? でも、君が想像しているよりもずっと地味な仕事だよ。僕の場合は郷土史専門だし。学芸員の資格はもっているけど。そこの村役場に頼まれて、この辺一帯の歴史を調べて編纂しているんだ。今日、来たばかりで道に迷ってしまってね。駅前のビジネスホテルに行こうとしたのに、反対に山沿いに来てしまったみたいだな」
「だったら1度、役場に戻った方がいいですよ。駅はこちらと反対方向ですから」
「そうだったのか、どうもありがとう。これ以上歩かずにすんでよかったよ。ところで……いま、とても気になることが……」
「え? なんですか? 何かあるなら言ってください!」
僕はどうしても、風間さんが気になったことを知りたかった。初対面にも関わらず彼にとても好感が持てたし、来週の土曜日に18歳のバースデーを迎えなくてはいけないぼくには、もうあまり時間がないのだ。
「それが……」
「あら? やっぱりあきら! お帰り! 遅かったわね? 何かあったの? お友達も一緒なの?」
そのとき、ぼくの話し声を聞きつけた母が階段の上から声をかけてきた。玄関の明かりに照らされた真っ黒なシルエットが、暗闇に不気味に浮かび上がる。いつものように真っ赤なショート丈のスカートではなく、丈の長い地味な巻きスカートと、袖が大きくゆったりと垂れ下がったスプリングセーターを身に着けていた。一瞬、今日の母は柄にもなく着物を着ているのかと見誤ってしまった。母が着物を着た姿なんて、いままで1度だって見たことがないのに。
「ただいま! 受験勉強で遅くなっただけだよ! 友達じゃないよ! 道に迷った人がいたんだ!」
「すみません! 怪しい者ではありません! 村役場から郷土史の編纂作業を依頼されて、東京から来たライターの風間と申します。息子さんに道を訪ねていました!」
風間さんが、あわてて母に説明をした。
「まあ、そうですか。夜道は暗いのでお気をつけください。何か不便なことがありましたら、なんなりとお申し付けください。息子をお手伝いに行かせますから」
「それはご親切に、どうもありがとうございます」
風間さんがうれしそうにお辞儀をしている。母さんのヤツ、いい男を見るとすぐにこれだ! ぼくをダシに使わないで欲しいな。
「では、ぼくはこれで、失礼いたします」
「あの、さっきの気になることってなんですか?」
「ああ……また今度、会えたら話すよ。気のせいかもしれないし……ごめんね、気にしないでくれたまえ」
「でも、電話! メールでもいいので! ぼくに何か気になるところがあったら教えてください! ぼくはこのうちの息子で大神あきらといいます」
「そうかい? じゃあ……」
ぼくと風間さんはスマホを取り出し、電話番号とメールアドレスの交換をした。
「明日は土曜日だから学校は休みかい? ぼくは郷土資料館に1日中いるから、もしよかったら遊びにおいでよ? そこで話そう」
「ほんとですか! では、明日の昼過ぎに行きます!」
「じゃあ、待ってるよ。ぼくは行くね。道を教えてくれてどうもありがとう!」
「いいえ、気をつけて」
オペラ歌手のような美声が森に響き渡る。風間さんは軽く頭を下げると、暗闇の中へと消えていった。ぼくもそれに、会釈で応えた。爽やかで気持ちの良い人だった。
『ニャーン』
「あ! タマ!」
飼い猫のタマが足元にきていた。この白猫は18歳のオスで、ぼくが産まれたときからこの家に居る。彼の親は父のかわいがっていた飼い猫だった。あの日――父が八つ裂きにされこの家で亡くなっていた父の誕生日。第一発見者の母はその場で破水し病院でぼくを産んだ。警察と救急車が駆けつけたとき、うちから川まで父の血が点々と続いていた。殺人鬼の痕跡にちがいないと追いかけた警察官たちは、川辺で途切れてしまった血の雫と共に、生まれたばかりの白猫の仔を発見した。それがタマだ。その後、川の下流、高校の近くの川で猫の死体が発見された。父の飼い猫で、切り刻まれて血だらけだった。父を殺した犯人はいまだに捕まっていない。父はケモノの牙にでもかかったかのように切り刻まれ、発見されたときは人間としての形を成していなかったそうだ。父はそんなにも、誰かに恨まれていたのだろうか。
ならば、ぼくは? ぼくも女どもに、殺したいほど憎まれて殺されるのか? 優子だろうか? だが、優子はそんな女ではない。あいつは絶対に違うはずだ。ぼくがつい昨日まで付き合っていた優子という女は、野良猫にこっそりえさをやったり、学校の花壇に黙って水を与えたりする心根のやさしい女だ。1年も付き合ったから、よくわかっている。1年。同じ女と1年も続いた。浮気1つせずに。
「あきら! 早く上がってきなさい! タマも抱いてきてね! ご飯が冷めちゃうわよ!」
「はい、はい」
しびれを切らし、母が大声でぼくを呼んだ。ぼくは鞄を小脇に挟み、ゴロゴロと懐くタマを抱き上げると、家へと続く階段を駆け上った。北向きに建つわが家は、大きいだけの古びた幽霊屋敷だ。引越したいと子供の頃から何度も強請るぼくに、川のそばなんて住むもんじゃない、川が氾濫したらどうするの? わたしはあそこのアパートに住んでいたからよくわかる。金持ちは常に高い場所に住み、上から下を見下ろすものだと、母はいつも自論をぶつけてきた。けれどあの川は、いままで1度も氾濫したことがない。平らな川沿いの低地は開発が進んでどんどん発展していくのに、高台に建つぼくのうちだけが取り残されてどんどん落ちぶれていく。こんな、車も入れないような小山の1軒屋じゃ、キツネやタヌキだって上ってこれないよ。




