8
「――どうかされましたか?」
問われて、セリーナは慌てて顔を上げた。
夫人の言葉通りルーカスを誘って居間でお茶にしたものの、先ほど言われたことが気になって考え込んでしまっていたのだ。
しかし、なぜかルーカスには相談する気にはなれず、セリーナは首を振った。
「ううん、なんでもないの」
その返事に納得した様子のない彼を見て、慌てて付け足す。
「こ、これからのことを考えていたの。大出費にはなるけれど、やっぱり王都まで出掛けてみようかと思って。この……茶器のセットを売れば、どうにか費用は捻出できると思うし……」
そこまで口にして、彼女はうつむいた。
セリーナという名は祖母からもらったものだ。祖母のように美しく、優しい女性に育つようにと。
そして、愛する人と結婚して、幸せになれるようにと両親が願いを込めてくれたのだ。
セリーナの胸がどきりと鳴る。
(愛する人……)
その言葉で思い浮かぶのは――。
「って、ルーカス!?」
気が付けば、膝をついた彼が心配そうにセリーナの顔をのぞきこんでいた。
驚いて立ち上がりかけた彼女の手を、ルーカスが押し止めるように握る。
今度は破裂してしまいそうなほど、胸がどくどくと脈打ち始めた。
この場から逃げ出してしまいたい。でも、傍にいて欲しい。
混乱する想いの正体を知りたくなくて、彼女は真っ直ぐに見つめてくる碧色の瞳から目を逸らした。
しかし、まるで抗議するかのように、握られた手に力が込められる。
痛くはない。ただ、熱い。
セリーナが恐る恐る視線を戻すと、よく出来ましたとばかりに、ルーカスは柔らかく微笑んだ。
「お嬢様に、大切な話がございます」
「……大切な、話?」
「はい」
ルーカスはそこで一度、ためらっているかのように深く息を吸った。
そのらしからぬ仕草に、いったい何だろうと怖くなる。
「お嬢様、実は私のことなのですが――」
続くはずだった言葉は、ノックの音に遮られてしまった。
セリーナはなぜかほっとして、ドアの向こうで声をかけるリチャードに応えた。
「おくつろぎのところ、お邪魔してしまい申し訳ありません。たった今、この手紙がダノシー男爵より届けられました。なんでも、急いでお返事を頂きたいとかで、使いの者はそのままホールで待っております」
居間へと入って来たリチャードが、憂鬱そうに告げる。
「ダノシー男爵から?」
「はい」
セリーナはいやな物でも見るように、トレイに載せられた封書を睨みつけた。
だが、それで消えてなくなるわけもない。
仕方なく手に取ると、少々乱暴に封を開けた。
「お嬢様!」
ルーカスとリチャード、二人から叱責が飛ぶ。が、セリーナは気にしない。
「はいはい、これからは気を付けます」
おざなりに返事をして手紙を取り出し、さっと目を通す。そして盛大に顔をしかめた。
「今度は何をおっしゃっているのです?」
顔を曇らせるリチャードとは違い、ルーカスは表情を変えることなく冷静に問いかけた。
「いえ、別に大したことは……」
言いかけて、もう何も隠さないと約束したことを思い出し、セリーナは軽く咳払いをして言い直す。
「――男爵がバカ息子と……いえ、ハロルドと一緒にこちらへ訪問したいと言っているの。どうやら、わたしのここ最近の行動――婚活がばれたみたいね。強引にハロルドとの結婚を迫るつもりじゃないかしら?」
「なんと勝手なことを……。お嬢様がお返事を書かれるまでもありません。私が使いの者に断って参ります」
怒りに顔を赤くして、リチャードが出て行きかけた。それをセリーナがすぐに止める。
「待って、それはダメよ」
「なぜです?」
ルーカスの鋭い声にたじろぎながら、それでも明るく答えた。
「このままだと国王陛下に訴えるそうよ。婚約不履行で」
「ばかな!」
今や真っ青になったリチャードが声を張りあげた。ここまで彼が取り乱すのも珍しい。
一方のルーカスは険しい表情で黙りこんでいる。
セリーナは諦めのため息をついて続けた。
「問題は男爵たちの滞在費よね。当然、夫人も一緒だから……侍女にメイド、侍従、馬丁に他にも大勢。ああ、頭が痛い……」
「問題はそんなことではありません、お嬢様……」
もはや気力を失くしたリチャードが小さく嘆く。しかし、セリーナは聞いていなかった。
みんなを守るために、バカ息子と結婚しなければならないなら、受け入れようと覚悟を決める。
もちろん、最後の最後の手段だが。
とすれば、考えなければならないことは、どうやって男爵から領地を守るかだ。
――が、その前に滞在費。
セリーナはテーブルの上に置かれた茶器セットをじっと見つめた。
ダノシー男爵のために、これを手放すつもりは一切ない。
家族用の居間を見回しても、もはや換金できそうなものもほとんどなかった。
色あせた壁に二か所、絵画を掛けていたあとが残っている。他の部屋も似たようなもので、どうやってもこの家の窮状は隠せないだろう。
ほんの十日前には期待に胸をふくらませ、屋敷を美しく見せようと頑張ったのだが、残念な結果になってしまった。
(みんなが協力してくれた大掃除も、ダノシー男爵のためじゃなくて、夫となる人が気持ち良く過ごせるようにって、頑張ったのに……)
そこでふと閃いた。
「そうよ! そうだわ!」
「お嬢様?」
問いかけるような二人の視線には気付かず、勢いよく立ち上がったセリーナはそのまま部屋から出て行ってしまった。
一瞬、呆気に取られたリチャードが、慌ててあとを追う。
しかし、ルーカスは何事もなかったかのように茶器セットを片付けると、自室へと向かった。
結局リチャードは、セリーナが手紙の返事を書いている間、玄関ホールに待たせていた使者を暖かい厨房に招き、もてなす役目を引き受けたのだった。