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目の前の壇上に音もなく現れた人物を、セリーナは信じられない思いで見つめた。
椅子に座る王太子の横に立つルーカスは、屋敷で見送ってくれた時よりもかなり身なりが整っている。
髪は短く切り揃えられ、綻び一つない――というよりも、隣の王太子にも劣らないほどの上等な衣服に身を包んでいた。
その姿はまるで王子様のようだ。
「お久しぶりです、お嬢様。十日ぶりでございますね?」
穏やかな笑みは変わらない。少し低い、温かな声も変わらない。
「思いのほか捕り物に時間がかかってしまい、お嬢様にはこのような場で不安な思いをさせてしまいました。申し訳ありません」
深く頭を下げる彼を目にしてもセリーナは何も言えず、ただうなずくことしか出来なかった。
「本当に、お前が執事なんて柄にもないことをしてたんだな」
「黙りやがれでございます、兄上」
楽しげに笑う王太子に、ルーカスが冷やかな声で応じた。
そのおかしな言葉を聞いて、男爵が目をむく。
「あ、兄上?」
ルーカスは男爵には目もくれず、ゆっくりと壇上を降りると、呆然と立つセリーナの前で立ち止まった。
そして、スカートをギュッと握ったままの彼女の手をそっと取り、両手で包み込む。
「このドレス、思った通りとてもよく似合っています」
「……ルーカスがこれを?」
「ええ。またお会いできる日を心待ちにしております、と書きましたよね? 筆跡で気付きませんでしたか?」
「でも……」
どういうことか、未だに理解できない。
王太子殿下がルーカスのお兄さんならば、彼は王太子殿下の弟だ。
国王陛下はルーカスのことを身びいきすると言っていた。
だが彼は、臨時執事として働き、ずっと傍にいてくれた人。
「やっぱり、わかっていなかったんですね?」
ルーカスはくすりと笑い、すぐに真顔に戻った。
「今まで騙していて、本当に申し訳ありませんでした。私の正式な名は、ルーカス・クライブ・ノルサント。この国の第二王子です」
「そんな馬鹿な!」
驚愕の声をあげたのは、セリーナではなく、男爵だった。
セリーナは今聞いたことを理解しようと頭を必死に働かせていたが、今日はどうにも鈍いようだ。
「……どうして?」
ようやく出てきた言葉は、それだけ。
まさか本当に王子様だとは思いもしなかった。
どうして、ずっと黙っていたのか。どうして、執事として働き続けたのか。どうして、今こうして手を握ってくれているのか。
騙されたとは思わない。ただ教えて欲しいだけなのだ。
「フィリプトン領ではじめて出会った時、お嬢様は――あなたは貴族たちを嫌っていることを隠そうともしていませんでした。覚えていますか?」
セリーナは問いかけられて当時のことを思い出し、顔を赤くして小さくうなずいた。
森でウサギを捕まえようと追っていて、夢中になったあまりルーカスの乗ったトリスタンの前に飛び出してしまったのだ。
その危険な行為をルーカスは怒ることなく、怪我はないかとセリーナを心配してくれた。
そして屋敷まで送ってくれることになり、両親の弔問に訪れてくれたのだと知って、またくたびれた姿の彼を見て、貴族たちの悪口を散々言った覚えがある。
「当時、この国はまだ三年前の災害から立ち直っていませんでした。特にアスタールなどの南部地方が酷く、私たちの注意はそちらに向けられていました。フィリプトン先代伯爵は、自分たちは大丈夫だとから心配ないと、決められている以上の税を納めてくれ、迂闊にも私たちは安心しきっていたんです。領地を隣にするダノシー男爵が、甚大な被害を受けたと税の減免を求めてきていたのに」
ルーカスがちらりと視線を向けると、男爵はひっと息をのみ、数歩後ずさった。
国王や王太子、レスター侯爵は苦い顔をしている。
「フィリプトン伯爵が亡くなったと聞いたのは、南部地方から戻る途中でした。兄上はまだアスタール地方に滞在中で、父上も侯爵もここから動ける状況ではなかった。そこでひとまず私一人、ジャックと少数の護衛を連れてフィリプトン領に駆け付けたものの、領地の様子には驚かされました」
そこで気持ちを切り替えるように、一度ゆっくり息を吐くと、ルーカスは懐かしそうに微笑んだ。
「あなたが王都にいた頃は何度も遊んだのに、すっかり忘れられていることにショックを受けましたよ。それでも、とりあえず身分は明かさない方がいいと判断したんです。待機させていた護衛たちもそのままでいるように指示を出し、ジャックと二人だけでしばらく屋敷に滞在させてもらおうと。落ち着いた頃を見計らって全てを話そうとしましたが……時が経てば経つほど、言えなくなってしまった」
ルーカスは、荒れたセリーナの手に視線を落とし、愛おしそうに撫でた。
「あ、あの……」
ルーカスの大きな手に包まれているのは心地良い。でも、荒れた手に触れられるのは恥ずかしい。
何よりも、国王陛下をはじめとしたみんなに見られていては、どうにも落ち着かない。
うろたえるセリーナに気付いていながらも、ルーカスは彼女の手を放すつもりはないようだ。
「ジャックが仕掛けた罠で初めてウサギを捕らえた時、ナッツィ夫人に教わって、泣きながらウサギを捌き、その後、泣きながらそのシチューを食べている姿を目にして、傍から離れることなど出来なくなってしまいました」
「で、でも、今はもう大丈夫よ」
料理を覚え始めた頃のことを持ち出され、セリーナは頬を染めて弱々しく反論した。
「ええ、今は確かに、〝良い獲物が捕れた〟と喜んで、笑いながら捌けるようになりましたよね。ちょっと怖いです」
「そ、それは――」
ますます顔を赤くしたセリーナがちらりと周囲に目をやると、みんな心なしか引いていた。剣を腰に下げた騎士までも。
もちろん、食事の前の感謝の祈りは心から捧げている。
「私はあなたを、あなたの愛する土地を守りたいと思った。だから身分を隠したまま、屋敷で暮らし始めたんです。何せ、あなただけでなく、リチャードさんもナッツィ夫人も、あまりに不用心すぎましたからね。身元も確かでない若い男二人を屋敷にほいほい招き入れるなんて……。ですが、正直に言えば、それだけではないんです」
そう言って、ようやくセリーナの真っ赤に染まった顔から視線を外すと、部屋の隅でぶるぶる震えて立つ男爵に、険しく細めた目を向けた。
「フィリプトン領に着いて、報告とは違う被害の痕に愕然としましたが、それとは別に、道中に通った土地もまた報告とは違っていたことに驚かされました。それできちんと調査することにしたんです。ダノシー男爵領をね。そして、色々と面白いことがわかりました」
低く厳しい口調で淡々と述べると、ルーカスはセリーナの手を放し、国王に向けて深く頭を下げた。
「では父上、その調査については、別の者から報告を受けて下さい」
「ルーカス、お前はどうするんだ?」
「私はこれから、彼女の愛を乞いますので」
「なんだ、それならここですればいいではないか。私はそれが楽しみでここにいるのに」
驚くセリーナの左手を再び握ると、ルーカスはにやにや笑う王太子に鋭い一瞥をくれた。
「知るか、クソ兄貴。でございます」
とんでもないことを言い捨て、セリーナを連れて部屋を出て行きかけ、ふと立ち止まる。
「ああ、そうだ。金貨三枚と引き換えに、先代フィリプトン伯爵のサインを模倣したという男を捕らえております。当然のことながら、その誓文書は偽物ですから、男爵には、陛下を謀ろうとした罪も加えておいて下さい」
ひいいっと声にならない悲鳴をあげて逃げ出そうとした男爵を、騎士たちが取り押さえる。
しかし、ルーカスは振り返りもせず、前だけを見てすたすた歩き始めた。




