21
「――婚約誓文書が、見つかった?」
信じられない思いで今聞いた言葉を繰り返し、セリーナは目の前の使者を見た。
座っていて良かった。でなければ、怪我をした膝では力を入れることも出来ず、倒れていたかもしれない。
同席していたルーカスもリチャードも、顔をしかめて不穏な空気を発している。
書斎の執務机を挟んで立つ使者は、三人の視線に耐えられないかのように目を伏せ、ぼそぼそと続けた。
「詳しくは、この……書簡を、お読みになって下さい」
机の上に置かれた手紙を、みんながしばらく黙って見つめた。
「お嬢様、お怪我をされていては封を切るのも大変でしょう。私が代わりましょうか?」
重い沈黙を破って口を開いたルーカスの声は、気遣いに溢れている。
セリーナは彼に目を向け、すぐに白い包帯を巻かれた自分の右手首に視線を落とし、小さく首を横に振った。
先ほど、怪我の手当てにナッツィ夫人を部屋に寄こしてくれたのもルーカスだ。
そんな優しい彼にはもう頼らないと決めたのだからと、その思いを支えに、彼女は顔を上げて笑みを浮かべた。
「大丈夫よ。封を切るくらいは出来るわ」
そう言って、机の引き出しからペーパーナイフを取り出す。
「寒い中、ここまで手紙を届けてくれてありがとう。あなたも疲れているでしょうから、部屋を用意するわ。それまで、また厨房で待っていてくれる? あそこが一番暖かいから」
男爵の使者に労いの言葉をかけると、彼は情けない顔で深々と頭を下げた。
自分の主人がまた何か良からぬ事を企んでいるのはわかっているのだが、どうしようも出来ないのだ。
リチャードの案内で使者が出て行くと、セリーナはひとつ息を吐き、えいやっと勢いに任せ、左手で不器用に封を切った。
そして、手紙を開き、目を落とす。
再び沈黙に包まれた書斎には、紙擦れの音がかすかに響くだけ。
しかし突然、セリーナは立ち上がった。
そこに、リチャードが急ぎ戻ったが、彼女は目もくれず、青ざめた表情で手紙を投げ捨てるように机へ放ると、壁際に並ぶ本棚へと駆け寄った。
「お嬢様!?」
リチャードの動揺する呼びかけにも応えず、一心不乱に何かを探し始める。
ルーカスが歩み寄ろうと一歩踏み出したその時、目的のものを見つけた彼女はぴたりと動きを止めた。
小刻みに震える右手をその一冊の本に伸ばす。
怪我の痛みも忘れ、ナッツィ夫人に巻いてもらった包帯も視界には入っていない。
「お嬢様?」
今度はルーカスが心配を多分に含んで声をかけたが、セリーナは黙ったままそっと本を開いた。
その拍子に、本に挟まれていた何かがひらりと落ちる。
すっと空を切りルーカスの足元に落ちたのは、一通の封書。
まだ開けられていないその封書には、ダノシー男爵家の家紋が封蝋に押されている。
「……婚約誓文書だそうよ」
ルーカスが拾い上げた封書を、セリーナは苦々しげに見つめながら、かすれた声で告げた。
リチャードがはっと息をのむ。
「この系譜本は、お父様が亡くなってから図書室を整理した時に、この書斎に移したのに……」
もちろん、その際に中は確認している。
力なく呟いたセリーナは、踏み台代わりに使っている椅子にどさっと腰を下ろした。
手紙には回りくどく長々とした文章が書かれていたが、要約すれば大切なことは三点のみ。
まず、ダノシー男爵が失くしてしまったと言い張っていた婚約誓文書が見つかったこと。
次に、フィリプトン家に保管されているはずの誓文書は、先代伯爵が金庫ではなく、系譜本に隠しておくと言っていたことを思い出したので、そこを探してみてはどうかとの助言。
そして最後に、このたび都合よく見つかった誓文書を証拠に、両家の代表として近々国王陛下に結婚の許可を頂く、と。
「ダノシー男爵一家の突然の訪問は、こんな子供騙しの詐欺を働くためだったんですね」
許可を得て手紙を読んだルーカスの一言に、セリーナは身をすくませた。
穏やかな表情ではあるが、彼の声は背筋が凍るほど冷たく、自分に向けられたものではないとわかっていても心に突き刺さる。
男爵一家を招き入れ、屋敷で自由にさせていた愚かさが悔やまれる。大切な書類を保管している書斎に鍵さえ掛けていなかったのだから。その上――。
「印章を……」
「ええ。おそらくお嬢様が目を離されたわずかな隙に、用意していた粘土か何かで型取りをしたのでしょうね」
セリーナの疑いを、ルーカスがあっさりと肯定した。
印章を見せて欲しいと乞われたあの時、男爵夫人に話しかけられて気を逸らした瞬間を男爵は狙っていたのだろう。
後悔と自責の念にとらわれて呆然としていると、ルーカスは手に持ったままだった婚約誓文書の封を開け始めた。
紙を切り裂くその音に、今まで蒼白な顔で言葉を失っていたリチャードがようやく我に返ったようだ。
「ルーカス!」
リチャードの叱責にもかまわず、ルーカスは封の中から誓文書を取り出し、目を通した。
「――確かに、先代伯爵の手跡のようですが……」
「しかし、旦那様がこんなものにサインなさるわけがない!」
「筆跡を真似るのに長けた者がいますからね。王都には、それを生業にしている者もいましたよ」
あくまでも冷静なルーカスと、今度は火を噴きそうなほどに怒っているリチャードとのやり取りを聞いて、セリーナも誓文書を見なければと立ち上がった。
「見せてちょうだい」
平然とした態度を装ったが、声の震えは隠せなかった。もちろん、二人にも通じていない。
しかし、二人は何も言わず、執務机の前に座り直した彼女に誓文書をそっと差し出した。
内容は予想通り最悪のもの。
セリーナは机に肘をつくと、左手で額を押さえてうつむき、唇を噛みしめた。
この誓文書に記された通りに婚姻が成立すれば、フィリプトン領も屋敷もいずれ男爵のものになってしまう。
それがどんなに理不尽なことでも、先代伯爵のサインが記された同様の誓文書が、フィリプトン伯爵家の印章で封をされて男爵の手元にある限り、異議を申し立てても通らないだろう。
「お嬢様、どうかお顔を上げて下さい。そのように心配なさる必要はございません」
「ルーカス、気休めは……」
「いいえ、リチャードさん。気休めなどではありませんよ」
「……どういうこと?」
かなり楽観的なルーカスの言葉に、セリーナもリチャードも半信半疑で彼を見た。
ここまで用意周到な男爵の企みを、どうやって覆すことが出来るのかわからない。
ルーカスは二人の疑うような、それでいて、すがるような視線にも怯まず、穏やかな表情のまま。
「先代フィリプトン伯爵は、陛下にとって誰よりも信頼できる臣下であり、親しいご友人でもありました。ですから陛下は、先代伯爵がお嬢様をとても愛していらしたことも、この領地を大切に思っていらしたこともよくご存じです。また、男爵がどのような方かもご存じでいらっしゃいますから、このような馬鹿げた誓文書を信じられるわけがないのです」
そこまで告げて、ルーカスは深い感情を湛えた碧色の瞳でセリーナを真っ直ぐに見つめた。
「お嬢様は、ご予定通り、王都へいらっしゃって下さい。そして、王宮へ赴き、国王陛下に直接お会いになって、ご説明なさるのです」
「そ、そんな、無理よ……」
「いいえ、お嬢様になら必ず出来ます。私は、事の次第をレスター侯爵に伝えておきますから、お嬢様が王都にお着きになれば、侯爵が全てを調えて下さるでしょう」
「そう……そうですよ! そうなさるべきです、お嬢様!」
まるで光明を見出したかのように、リチャードが顔を安堵に輝かせて同意する。
またルーカスに頼ってしまうと思いながらも、セリーナはうなずくしかなかった。
それ以外に良い方法が思い浮かばない。
「ありがとう、ルーカス。それじゃあ、予定通り、一人で、王都に向かうわ。そのためにも、さっそく準備しなくちゃね。今はナッツィも忙しいだろうから、無理をしないように一人でやるわ」
包帯の巻かれた右手を持ち上げて見せ、にっこり笑う。
今までよりも、心はずっと不安に満ちている。それでも、フィリプトン領主として、女伯爵として、一人で王都へ、王宮へ行き、為すべき事を為そう。
そう強く決意したセリーナを励ますように、ルーカスは優しく微笑んだ。