19
夕暮れの道を急ぐこともなく、セリーナは肩を落としてとぼとぼ歩いていた。
これからのことを考えると気が重い。
先ほど、こわごわ抱いた赤ん坊は本当に可愛かった。
それに、仕事に出ていた夫が家に戻ってからは、夫婦揃って赤ん坊をあやす姿があまりにも愛情に満ち溢れていて、羨ましさに思わず目を逸らしてしまったほどだった。
貧しくても、幸せに暮らす家族はたくさんいる。
セリーナ自身も、それでいいんだと一時夢を見た。でもそれは愛があってこそ。
食堂で目にした光景は、セリーナの愛が一方通行だと告げていた。
外からのぞく店内は薄暗かったが、店主はにこにこしており、微笑んだルーカスと手を握り合っていたサラは、眩いばかりに顔を輝かせているのが見えた。
(まるで……将来を約束し合ったような……)
ルーカスが心に決めた相手とはサラだったのだ。
そう思い当たって、屋敷へと戻ろうとしていた重い足取りがついに止まった。
本当に本当に、本当に少しだけ、ひょっとしたら自分のことではないかと希望を持っていたのに。
(ダメ……もう、無理……)
どんなに苦しくても、今まで頑張ってきたけれど、――これからも頑張らなければいけないけれど、もう限界だった。
心にぽっかり穴が開いたようで、どうやってそれを埋めればいいのかわからない。
セリーナはその場に座り込んで、膝を抱えた。
これがきっと失恋というものなのだ。
うじうじと考えているうちにそう気付き、ようやく落ち着いてきた。
屋敷の図書室には、何冊かの恋愛小説があるからそれを読めば、この心の穴の埋め方がわかるかもしれない。
少しだけ元気を取り戻し、立ち上がったセリーナは、最近整理したばかりの蔵書の中から、それらしきタイトルを思い浮かべて再び歩き始めた。
価値ある蔵書をいくつか手放した時にあとで読もうとより分けていたものがある。
結局、毎日が忙しく、ミリンガム家に滞在中に一冊読めただけだったのだが。
(あ、そうだわ……)
その一冊は確か、ヒロインの失恋から始まる物語だった。
失恋を機に旅立ったヒロインが事件に巻き込まれ、助けてくれたヒーローと一緒に数々の危険をくぐり抜け、最後に結ばれるという内容だったために、冒頭をすっかり忘れていた。
あわて者で失敗ばかりのヒロインだったが、最後まで前向きに頑張っていた彼女の旅立ちを決めた時のセリフ。
〝失恋の傷を癒してくれるのは、新しい恋よ!〟
その言葉が真実ならば、セリーナが取るべき道は一つ。
ぐっとこぶしを握り締め、力強くうなずいたところに、後ろから蹄の音が聞こえてきた。
振り向けば、トリスタンが嬉しそうに鼻をぶるると鳴らす。
「お嬢様!」
かすかな驚きを含んだ声で、トリスタンに跨るルーカスが声をかけた。
「まさか村まで歩いていらっしゃったのですか? しかもお一人で?」
すぐにセリーナに追いつき並び、トリスタンの背から降りた彼は、顔をしかめて責めるように厳しく問い詰めた。
すると、どきどきしていたはずのセリーナの心に、むくむくと反抗心が湧いてくる。
「そうだけど、何か問題でも?」
つんと顎を上げて答えると、ルーカスがおやっといった顔をした。
しかし、すぐにいつもの笑みを浮かべてうなずく。
「問題点はたくさんございます。ここは長閑な地域とはいえ、危険がないとは言い切れません。この季節、この時間はもう畑に人もおりませんし、日が暮れるのも早いですから。お嬢様に何かあってからでは遅いのです」
遠くに見える山々の向こうに今にも消えかけている太陽を、手のひらで示して言うルーカスにつられて、セリーナは視線を西へと向けた。
半分以上姿を隠した太陽から放たれる光が、晩秋の空を茜色に染めている。
その光景に、急に涙が込み上げてきたセリーナは、慌てて目を伏せ顔をそむけた。
「ひ、光が目にしみて……」
白々しい言い訳をして顔を隠そうとした彼女の右手を見て、ルーカスが珍しく動揺した声をあげた。
「お嬢様! その手はどうなされたのです!?」
「え?」
訳がわからずぽかんとして見上げると、ルーカスがセリーナの右腕をそっとつかんで持ち上げた。
そこではじめて、彼女は右手首がひどく腫れていることに気付いた。
「……あら?」
「あら、ではありませんよ。こんなに腫れていて、よく気付かずにいられましたね」
腕に下げていたカゴを取り上げられ、厳しい口調ながら呆れたように言われて、セリーナはむっとして弁解した。
「別に、見た目ほど大したことはないのよ。ちっとも痛くないんだから」
「へえ? そうですか?」
不穏な気配を感じて目を向けると、ルーカスが優しげに微笑んでいた。
こんな表情の時のルーカスは要注意だ。が、時すでに遅し。
彼は慈愛に満ちた笑みを浮かべて、腫れたセリーナの右手首をぐっと押さえた。
「いたっ!」
「おや、痛かったですか? それは申し訳ありませんでした。ですが、おっしゃる通り、大したことはないですね。骨折はしていないようですから、ただの捻挫でしょう」
良かったですね、と呟くルーカスがなんだか憎らしくて睨みつけると、彼はふっと表情を崩し、今度こそ本当の笑みを浮かべた。
「そもそも、手袋はどうしたのです? こんなに冷たくなっているじゃないですか」
先ほどとはまったく違う、まるで壊れ物に触れるように、彼はセリーナの両手をそっと包み込んだ。
ルーカスの手袋越しに伝わる熱が、冷え切った彼女の手から体まで温めてくれる。
すると、彼を想う気持ちまでもが熱を帯びてきて、セリーナはどうしようもなくまた泣きたくなった。
この温かな手は自分のためではない、別の人の――サラのためにあるのだ。
今ではすっかりズキズキとした痛みを感じる右手首の腫れを無視して、彼女はルーカスの手から逃れようとした。
「お嬢様?」
どうしたのかと問いかけるルーカスの背を、待ちくたびれたトリスタンが鼻先で突く。
「ああ、すまなかったね」
彼はセリーナの手を放し、トリスタンを優しく撫でた。
セリーナがほっとしたのもつかの間、いきなり抱え上げられトリスタンの背に乗せられて、彼女は小さく喘いだ。
「ルーカス!」
「もう日が沈みます。みんな心配しているでしょうから、早く戻りましょう」
彼はひらりとトリスタンの背に跨り、横座りになった彼女を抱き寄せた。
「お嬢様、私が支えていますから、両手は外套の中へ入れて下さい」
耳元で囁くように言った彼は、さらに甘い声で付け加える。
「よろしければ、私の外套の中に腕を入れて抱きついて下さってもかまいませんよ。きっとその方が温かいですから」
「な、何を……」
からかわないでと抗議しかけて、碧色の瞳が真剣な光を宿していることに気付き、急いで顔を伏せる。
「こ、これで、大丈夫よ」
耳まで赤くなってうつむいたまま、セリーナは自身の外套に手を入れてもごもご呟いた。
ルーカスはそんな彼女を見下ろし、何か言いたげに、だが何も言わずに、ことさら強く抱き寄せてトリスタンを走らせ始めた。
少し速い、ルーカスの鼓動が直接耳に届く。
彼も自分と同じように、どきどきしているのかもしれない。
そう考えて、セリーナはふっと笑った。
本当は、彼女を支えながら片手でトリスタンを走らせるのは大変だろうから、そのせいなのだ。
「お嬢様?」
セリーナが笑ったことに気付いたのか、ルーカスが問いかける。
「ううん、何でもないの」
答えて彼女は目を閉じた。
頬に当たる風は冷たいはずなのに、寒さを感じない。
このまま屋敷に着かなければいいのに。領主としての責任や、資金繰りに悩む日々から解放してくれる、素敵な場所へと連れて行って欲しい。
そこまで考えて、セリーナは目を開けた。
現実は厳しい。叶わない夢を見ている場合じゃない。
「……ルーカス」
「はい、如何なされました? 少し速すぎましたか? 寒いですか?」
「ううん、違うわ。大丈夫」
頼りなげなかすかな声に、心配する言葉がすぐに返ってくる。
ルーカスの優しさを感じて温かくなる心を抑えるように、セリーナは胸を押さえて続けた。
「あのね、やっぱりわたし、王都へ行くことにしたわ」
「……かしこまりました。いつ頃のご予定でしょうか?」
一瞬の間をおいて、ルーカスがうなずく。
反対して欲しかったわけではないが、あまりにも簡単に受け入れられたことに、チクリと胸が痛んだ。
そんな思いを振り払い、セリーナは明るく答える。
「ミリンガム一家は今週末に出発するって言っていたから、明後日ね。屋敷に帰ったら、大急ぎで準備しなくちゃ。その前に、クロエに手紙を書かないと」
「では、私が代筆させて頂きます。そのように腫れていては、ペンを持つのも大変でしょうから。荷造りについてはナッツィ夫人に手伝ってもらって下さいね」
「……ええ、お願いするわ。手紙にはわたし一人で行くと書いてね。屋敷からの付き添いはいないと」
「かしこまりました」
引き止められるどころか、旅立ちの準備を手伝うとまで言われ、意地になったセリーナは一人で行くと言ってしまった。
それなのに、ルーカスの返答はあっさりしたものである。
もはや声を出す事も出来なくて、セリーナは震える唇を噛みしめ、彼の腕の中で小さくなっていた。