15
ダノシー男爵一家が、フィリプトン屋敷に滞在して四日。
いよいよ、その時がやってきた。
「レディ、そろそろ正式にハロルドとの婚約を発表した方がいいと思うんだがね」
かなり遅めの朝食兼、昼食の席で、ダノシー男爵がもったいぶった口調で告げた。
それを聞いたセリーナは一気に食欲をなくしたが、ハロルドは耳に届かなかったのか、変わらず食べ続けている。
起きぬけによくあんなにも食欲があるものだと感心するほどだ。
その姿を横目に見ながら、セリーナはナイフとフォークを置いた。
「男爵、発表するも何も、わたしはハロルドと婚約しておりませんし、今後するつもりもありません。そのことは手紙で申し上げたはずです」
「しかしだね、君のお父上――先代フィリプトン伯爵と約束したんだよ。セリーナちゃんだって、お父さんの意思を尊重したいだろう?」
わざとらしく親しみを込めて名前を呼ばれ、父の意思などと嘘を持ち出す男爵に、どうしようもないほど怒りが湧いた。
目の前のテーブルをひっくり返して罵詈雑言を浴びせれば、少しはすっきりするかもしれない。
残念ながら、それはいくらなんでも出来ないが。
セリーナは落ち着くために、何度も何度も深呼吸を繰り返した。
ルーカスは男爵家の使用人に指示を出すために今はいない。情けないことに、彼が傍にいないだけでとても心細かった。
テーブルの上に置いた両手を固く握りしめ、震える体を抑える。
「確かに……父の意思ならば、わたしも喜んで従います。ですが、婚約についての話は一度も聞いたことがありません。ですから、このお話は信じられないのです」
「まあ、ずいぶん生意気なこと」
わざわざ聞こえるように、男爵夫人が呟く。
しかし、男爵はここまではっきり否定されるとは思っていなかったのか、ぽかんと口を開けていた。
この間、やはりハロルドはただひたすら食べている。
もうこれ以上は耐えられなくて、セリーナは食事の途中にもかかわらず席を立とうとした。
そこへ、気を取り直したらしい男爵が、再び話し始める。
「ふむ。誓文書も今は失くしてしまったから、レディの言い分も仕方はないが……。ところで、話は変わるのだが、家紋の印章を見せてもらえないかね?」
「……なぜですか?」
突然の話題転換に驚き、さらにその内容を不審に思ったセリーナは、男爵へ鋭い視線を向けた。
暖炉では十分な薪を焚いているせいか、室内は暖かく、男爵の額には汗が浮き出ている。
「いやあ、実は今度我が家の印章を新しいものに変えるつもりなんだが、どんなものにしようか悩んでいてね。そこで以前、先代伯爵にフィリプトン家の印章を見せてもらったことを思い出したんだよ。見事な金の指輪だったから、出来たら参考にしたくてね」
「わざわざ新しくされるんですか?」
「ああ、かなりすり減ってしまったからね」
「……わかりました。少々お待ち下さい」
男爵の説明を聞いて、そんなこともあるのかとセリーナは了承した。
印章を褒めてもらったことも、少し嬉しい。
立ち上がったセリーナは、男爵たちに背を向け、首から下げている細い銀の鎖を外した。そして、胸元から指輪を取り出す。
「そんな風に持ち歩いているのかね?」
予想外の場所から指輪が出てきたことに、男爵が驚いて目をむく。
「わたしの指には大きすぎるので、失くさないようにと」
答えながら、セリーナは鎖から指輪を抜き取った。
「どうぞ」
「あ、ああ。では、少し拝見させてもらうよ」
彼女の荒れた手のひらの上から、きらりと光る指輪を太く短い指でつまむと、男爵は鼻先まで持ち上げた。
角度をあれこれ変えて検分する姿を、セリーナはじっと見守る。
だが、男爵はその視線が気になるのかどうなのか、こほんと一つ咳払いをした。
「すまないが、窓辺の明るい場所で見てもいいかな? 年のせいか、細かな彫刻がわかりにくくてね」
「ええ、かまいませんわ」
気まずそうに頼まれて、セリーナは微笑んでうなずいた。
男爵がのしのしと窓辺へと歩み寄る。
「――レディはこの先、結婚もせずにどうなされるおつもりなのかしら?」
しばらく続いた沈黙に退屈したのか、男爵夫人が口を開いた。
その質問に、セリーナは目を丸くする。
「わたしは別に、結婚するつもりがないわけではありません。ただ、まだ……」
ルーカスの気持ちを確かめていない。
今まで甘えてばかりの自分を、彼がどう思っているのかわからない。
屋敷に残ってくれているということは、多少の好意は持ってくれているはずだけれど、彼には心に決めた相手だっているのだ。
わがままばかり言っていた気がする。貴族階級を毛嫌いしておきながら偉ぶって、ルーカスが仕えてくれるのを当たり前に思っていた。
考えれば考えるほど、後悔が募る。
しかも、重荷をたっぷり背負った自分は、彼の負担にしかならないのだから。
ずんと沈みこんだセリーナの頭の中に、耳障りな声が響く。
「まあ、おかしな話ね。お相手が決まっていないのなら、なぜこの縁談を断るのかしら? ハロルドは理想的な結婚相手でしょうに」
親バカとは恐ろしいものである。
全ての食事を平らげ、椅子の背にだらしなくもたれかかる姿のどこをどう見れば、〝理想的〟などと言えるのだろう。口のまわりには食べカスまで付いているのに。
「ふむ。やはり、とても素晴らしいものだったよ」
男爵が窓辺から離れ、にたりと笑って指輪を差し出した。
そこへ、食事の片付けを終えて出て行く男爵家のメイドと入れ替わりに、ルーカスがお茶の用意をして部屋へと入って来た。
「いかがなされたのですか?」
戻ってきた指輪を鎖へ通そうとしているセリーナに目をとめて、心配そうにルーカスが問いかける。
何があったわけでもないのに、なぜか彼を見てほっとしたセリーナは、頬を赤らめた。
「印章を男爵に見せていたの」
「……印章を?」
訝しんで眉をひそめるルーカスに対して、男爵が苛立たしげな声をあげた。
「執事ごときが口を挟むな! 立場を弁えたまえ!」
あまりにも傲岸な言い様が、セリーナには我慢できなかった。
男爵をぐっと睨みつけて前へ踏み出す。すると、勢いに押されて、男爵が一歩後ずさる。
しかし、セリーナが口を開いたところで、ルーカスが深く頭を下げて謝罪した。
「ご不快な思いをさせてしまい、大変申し訳ございませんでした」
いい加減にこの屋敷から出て行って、と言うつもりだったのに出鼻をくじかれて不完全燃焼のまま、セリーナは指輪を鎖ごとぎゅっと握りしめた。
「わ、わかればいいんだ。わしもそこまで口うるさい方じゃないからな」
尊大に言う男爵に向かって、もう一度深く頭を下げてから、彼は何事もなかったかのように、お茶をカップに注ぐ。
「お嬢様?」
自分の不甲斐なさが情けなくて落ち込むセリーナに、ルーカスが優しく微笑みかけた。
うながされるまま腰を下ろし、差し出されたお茶を飲む。
少し蒸らしすぎじゃないかしらとか、もう少し甘い物が欲しいとか言う男爵夫人やハロルドの声も聞こえないふりをして、ちらりとルーカスを見上げると、やはり彼は微笑んでいた。
訳もなく泣きたくなったセリーナは、お茶を飲むふりをしてずっとうつむいていた。