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(ぶよぶよしてる……)
ハロルドの太い腕に視線を落として、ぼんやり考えていたセリーナは、たぷたぷ揺れる顎に目をやった。
(あ、砂糖がついてる)
よく見れば、口のまわりには他にも食べカスが付いている。そして、血色の悪いぼてっとした唇。
(あれと、キス……できるかな……)
はっきり言って、自信がない。それでも結婚するなら覚悟しなければ。
「僕、寒いの苦手なんだよね」
「……え?」
今まで沈黙を通していたハロルドが突然話し始め、セリーナは驚いた。
そんな彼女にはかまわず、息を切らしながら彼は一方的に続ける。
「でも暑いのはもっと苦手だから、ここは母様の言う通り、夏の避暑に利用しようかな。夏は涼しいんでしょ? じゃないと、何の価値もないよね」
「……比較的過ごしやすいとは思いますけど、暑い日もあります」
やっぱりハロルドとの会話は苛々するだけだった。それでも見方を変えて良い点を探そうと努力する。
(とりあえず、将来的には父親の財産を受け継いで、お金持ちよね。それから……、それから……?)
どうしても思い浮かばない。
うむむと眉を寄せて考え込んでいたセリーナは、いきなり立ち止まったハロルドにぶつかってしまった。かと思えば、抱き寄せられている。
悲鳴をあげても顔がぜい肉の中に埋まって声にならない。
「――っ!!」
このままでは窒息してしまう。
そんな彼女の頭をぐっと押さえて強引に上向かせると、ハロルドは大きな顔を近付けてきた。
ようやく酸素を取り込むことが出来て呼吸を再開したセリーナは、何が起こっているのかわからず、呆然とそれを見ていた。……鼻から伸びている毛を。
そこでようやく我に返る。
「ハロルド! 何するの!?」
「キスだよ。僕たちは婚約してるんだから。それくらい、いいだろう?」
「婚約なんてしてないわよ! やめて!」
「なんだよ、そっちから誘ったんだろ? もったいぶるなよ」
どうにか逃れようと必死に抵抗しても、セリーナの細腕では敵わない。生温かく荒い息が頬にかかる。
もうダメだと、セリーナが目をぎゅっとつぶったその時――。
「ハロルド様、男爵夫人がお部屋にお戻りになるようにと。お風邪を召してしまわれるのではないかと、心配なされております」
鋭く冷やかな声が聞こえ、ハロルドがぴたりと動きを止めた。
「……なんだよ、気が利かない執事だな」
ハロルドはぶつぶつ文句を言いながらも、セリーナを乱暴に解放した。
よろめいた彼女を、ルーカスの力強い腕が支える。
セリーナはほっとしたものの、すぐに悲惨な自分の状況に気付いた。
「お嬢様――」
「わ、わたし……厨房の様子を見て来なきゃ!」
恥ずかしくて、情けなくて、ルーカスと顔を合わせることが出来ない。
走り出したセリーナは、とっさに口から出た言い訳そのままに厨房へと向かい、ナッツィ夫人に抱き付いた。居合わせた男爵家の使用人たちが驚く。
その中で、夫人はいつも通りだった。
「あらあら、どうなさいました? そんなに我慢できないほど、お腹がすいてるんですか?」
冗談めかして言いながら、使用人たちに出て行くようにと目でうながす。
そして気が付けば、静まり返った厨房の中央にある樫材で出来た古い大きなテーブルを前に、セリーナは馴染んだ椅子に座らされていた。
「さあさあ、これをお飲みになって下さいな」
目の前に差し出されたのは、蜂蜜入りの温かいミルク。
ナッツィ夫人は、セリーナが幼い頃からこうして泣き付くと、特別に甘やかしてくれる。
「それで、あたしはどちらに毒入りスープを出せばいいんですか?」
セリーナが落ち着いた頃合いを見て、夫人が楽しそうに問いかけた。
しかし、訳がわからない。
「……どういうこと?」
「我がままなお坊ちゃんに報復するべきなのか、秘密ばかりの臨時執事に逆襲するべきなのか、それともどちらも?」
わざとらしく包丁を振り回す夫人を見て、セリーナは思わず吹き出した。
いつだって、ナッツィ夫人は彼女の味方だ。
いたずらをして両親に怒られた時も、誰にも援助を請わず一人で領地を管理すると決めた時も。
久しぶりに声を出して笑うと、沈んでいた心も軽くなっていく。
セリーナは笑い涙をぬぐって立ち上がり、夫人を改めて抱きしめた。
「ありがとう」
「お嬢様は、お嬢様の思うようになさればいいんですよ」
ナッツィ夫人が、ぽんぽんと背中を軽く叩いた。
どんな時でもこうして励まされると、勇気が湧いてくる。
「でも……今回ばかりはダメだわ」
「あら、どうしてですか? 挑戦もせずに諦めるなんて、お嬢様らしくないですよ」
「だって、わたし一人の問題じゃないもの。みんなの今後も決まってしまうのよ。もし、何かあって領地を失うようなことになったら……」
「そうなれば、そうなった時ですよ」
「それはダメよ!」
大胆な言葉に驚き、セリーナは夫人を見下ろした。
「いいえ。お嬢様が愛のない結婚をなされることの方が〝ダメ〟ですよ。しかも、あんなバカ……あら、失礼。……あのように心ない方とは絶対にダメです。旦那様と奥様は、お嬢様が望む方とご結婚なされるようにと願っておいででした。ご領地のためになんて、とんでもないですよ。それは、ご先祖様も同じだと思います。フィリプトン家は代々、愛ある結婚をしてきたのだと、旦那様はよく自慢なされていましたからね」
「でも……」
ルーカスには、もう心に決めた人がいるのだ。
そう思い、ためらうセリーナの愛らしい顔を、夫人は温かな手で挟み、笑いながらたしなめる。
「〝でも〟なんて子供の言うことですよ。お嬢様はもう立派なレディなんですから。ご自分のお気持ちがおわかりになったのなら、今度は相手の気持ちを確かめるんです。行動あるのみですよ」
そう元気づけられて、セリーナはくすりと笑った。
「わたし……まだ、何も悩みを打ち明けていなかったのに……」
「あら、あたしはお嬢様のことは、何でも知っているって言いませんでしたか?」
豊満な胸を張って言う夫人がおかしくて、セリーナはこらえ切れず声を出して笑った。
「……言ってたわね」
「まあ、何がおかしいんですかね!」
わざと怒って見せる夫人に、ますます笑いが止まらなくなる。
ようやく笑いが治まると、セリーナは卵をかき混ぜている夫人の後ろから抱き付いた。
「大好き」
「ええ、ええ、わかっていますとも。ですからその言葉は、こんなおばあさんじゃなくて、ルーカスさんにちゃんとお伝え下さいな」
ずばりと言われて、セリーナは声を詰まらせた。
静かな厨房に、カシャカシャと卵をかき混ぜる音だけが響く。
「……怖いわ」
ようやく出せたのは、震える小さな声。
それなのに、夫人は鼻を鳴らして挑戦するように問いかける。
「何がですか?」
「い、色々なこと……」
「そうですね。ですが、何度も言いますが、その時はその時。あたしが、ちゃあんとお嬢様を支えてあげますから。頼りないリチャードさんと一緒にね」
その自信に満ちた言葉を聞くと、色々なことがバカらしく思えてきた。
「頼もしいわね」
「もちろんですとも!」
どんっと夫人が胸を叩くと、セリーナにまで振動が伝わってきた。
それから今度は二人で声をあげて笑った。