12
翌朝は前日ほどの冷え込みもなく、セリーナは古くなった綿の掛布団を勢いよく押しのけて、起き上がった。
憂鬱な気分も、これで消えて無くなればいいのにと思いつつ、深呼吸をする。
少しだけ楽になり、朝の日課をこなすために、動きやすい服装に着替え始めた。
鶏にエサをやって、卵を拾い、ナッツィ夫人を手伝いながら、その日の計画を立てる。
やらなければいけないことはたくさんあり、支度を終えたセリーナはむっつりした顔で隣の部屋へと足を踏み入れ、ぴたりと足を止めた。
「……何してるの?」
「朝食の用意でございます」
「それは見ればわかるわ。そうじゃなくて、なぜここにわざわざ?」
朝ご飯はいつも厨房でみんな一緒に食べるのに、ルーカスはまるでミリンガム家にいた時のように振る舞っている。
「厨房は男爵家の使用人たちに占拠されていますから。それに彼らが、いつもの日課をこなしてくれていますので、お嬢様は今日一日のんびり出来ますよ」
「彼らが屋敷のことをしてくれているの? そんなのダメよ。何もお礼が出来ないのに、申し訳ないわ!」
冗談めかした説明を聞いて、セリーナは驚き動揺した。
しかし、ルーカスは穏やかに首を振った。
「彼らはお嬢様に感謝しているのですよ。それで、何かお返しをしたいと、自ら手伝いを申し出てくれました。男爵に命じられたのではなく」
「……感謝?」
感謝されるようなことなど、まったく身に覚えがない。
セリーナは訝しげに眉を寄せた。
「はい。昨日の食事はとてもおいしかったそうです。それに、綿布団は心地良く、ぐっすり眠れたと」
そう言われてもさっぱりわからないどころか、彼女はますます困惑した。
「……食事は、いつもわたしたちが食べているような、質素なものだったはずよ? そりゃ、ジャガイモだけなんてことはなかったけど。それに、お布団は古いものだもの。心地良いなんて、おかしいわ」
「彼らの中には、未だに藁布団で床に寝ている者もいるそうですし、食事は一日に二度、硬いパンと薄いスープだけだそうです。男爵たちの残した食事が……それもめったにないそうですが、侍従たち上級使用人の報奨となっているそうです」
「まさか! だって、男爵はすごくお金持ちなのよ? 三年前の災害を切り抜けてからは、国王陛下にも負けないくらいにお金持ちじゃないかって、クロエが言ってたわ」
「はい、男爵は……。いえ、とにかく、彼らは男爵に不満を持っております。ただ、他に働き口がないので、ずっと我慢していたようですね。ですが、ここ最近は国勢もずいぶん落ち着いてきましたし、この先はどうするつもりか……」
ルーカスはそこまで言って、男爵家の使用人たちのために腹を立てているセリーナに微笑みかけた。
「どうせ男爵たちは昼過ぎまで起きてこないと、彼らはそれまでの時間をお嬢様のために役立てたいと考えているのです。お嬢様が素晴らしい領主であることは、彼らの耳にまでちゃんと届いているようですからね」
そして、それが男爵たちには不都合だった。
自分たちの行いが非情なものだと、領民たちに不満を抱かせてしまうからだ。
男爵たちがセリーナとこの領地を支配しようと、強引に結婚を迫る一番の理由がそこにある。
ルーカスは優しく目を細め、真っ赤になってもごもごと呟くセリーナを見つめた。
「わ、わたしは、別に……お父様とお母様が……」
思いがけない褒め言葉に、かなり照れているらしい。
「さあ、お嬢様」
未だ立ったままのセリーナに、ルーカスは椅子を引いて座るようにうながした。
それから、いつもと変わらない薄い紅茶を、素直に座った彼女の前へ差し出すと、彼は改まった口調で話しかけた。
「お嬢様、実は私――」
そこに窓の外から大きな物音が聞こえた。
「何、今の?」
二人窓辺へと急ぎ、外を覗いて安堵する。
男爵家の使用人の一人が、手押し車を倒してしまったらしい。ひっくり返った荷物に驚いて、鶏たちが騒いでいる。
「手伝った方が……」
「いえ、お嬢様はゆっくりと朝食を召し上がって下さい」
窓から離れ、部屋の外へと向かいかけたセリーナの腕を、ルーカスはすばやく掴んで引き止めた。
本来なら無礼な行動かもしれない。だが、二人の間に身分差が存在したことはなく、ごく自然な行動だった。
ただ、今までとは何か違う空気に、セリーナは落ち着かなくなってしまう。
「そ、そういえば、昨日の夜、寝室の廊下側のドアの外で、大きな音が聞こえた気がしたの。寝ぼけてて、気のせいだったのかもしれないんだけど、ルーカスは気付いた?」
「……いいえ、まったく」
「そう。じゃあ、やっぱり夢だったのね」
再び椅子に座ったセリーナは、気まずい沈黙を破るために一番に思い付いたことを口にした。
昨夜はあまりに疲れていた。それなのに寝付きが悪く、確認するのもおっくうでそのまま眠ってしまったけれど、やはり気のせいだったらしい。
ほっと息を吐いて紅茶をひと口飲むと、調子が戻ってきた。
「あのね、昨日寝る前にふと思ったんだけど……」
ルーカスが何か言いかけていたことはすっかり忘れ、セリーナは昨夜思い浮かんだ将来に対する危惧――寝付きを悪くしてしまった悩みを打ち明けた。
「その……夫婦って、同じベッドで寝るんでしょう?」
「……そうですね」
仲の良かった両親しか知らないセリーナは、世間では必ずしもそうではないことを知らない。
しかし、それを訂正する気にもなれず、ルーカスは静かにうなずいた。
「じゃあ、わたしがもし……」
「――もし?」
「ハ、ハロルドと、結婚したら……もし、ハロルドの寝相がすごく悪かったら、あの大きな体に潰されちゃうんじゃないかしら?」
最後まで一気に吐き出すと少しだけ心が軽くなり、セリーナはまた紅茶をひと口飲んだ。
「…………確かに、ハロルド様は非常に寝相が悪いようですね」
「本当に?」
「はい。放っておけば間違いなく、お嬢様を傷付けてしまうほどに」
「そんな……」
なぜルーカスがそんなことを知っているのかなど疑問にも思わず、彼女は今聞いた事実に愕然として青ざめた。
「ご心配には及びません。私が必ずお嬢様をお守りいたしますから」
真っ直ぐなルーカスの言葉に、セリーナははっとして彼を見上げた。すると、言葉と同じ、真っ直ぐな碧色の瞳とぶつかる。
「あ、ありがとう……」
慌てて目を逸らし、どうにかお礼を口にしてテーブルの上の朝食に視線を落としたが、食べられそうにない。
頬は熱く、胸がどきどきして苦しい。
なぜこんな気持ちになるのかわからず、とにかく落ち着こうと、もう一度紅茶を飲んだ。
ルーカスの言葉に深い意味はなく、それほどにハロルドの寝相は悪いのだろう。
そこで、あることに気付き、はっとした。
「お嬢様、朝食を睨みつけるのではなく、ちゃんと召し上がって下さい。このままでは冷めて――」
「大変だわ!」
「どうされました?」
いきなり立ち上がったセリーナの顔には焦りが見える。
「もしわたしの寝相がすごく悪かったらどうしよう!? 自分では気付いていないだけかもしれないもの!」
自分のことばかり考えていたが、セリーナこそ相手を傷つけてしまうかもしれないのだ。
そのことに思い至らなかった自分の迂闊さに苛立ってしまう。
しかし、ルーカスから何の反応もなく、セリーナが伏し目がちにちらりとうかがうと、彼は必死に笑いをこらえているようだった。
「ルーカス! 笑いごとじゃないわ!」
真っ赤になって抗議するセリーナに、ルーカスは首を振る。
「お嬢様、それは気にすることではございません」
「どうして? 大変な問題よ。ルーカスだって、もしお嫁さんの寝相が悪かったらいやでしょう?」
「いいえ、まったく」
ルーカスはあっさり答え、柔らかな声音で続けた。
「私がずっと抱きしめていますから、ベッドから落ちることもありませんよ」
「そ、そんなの……な、殴られるかもしれないわよ?」
思いがけない言葉を聞いて、急に恥ずかしくなったセリーナは意地悪く返した。
しかし、ルーカスは満足そうに微笑む。
「では、その可愛い手に口づけをしてお返し致します」
「くっ、くちっ……」
この甘い警告は、自分とは別の誰かに対するものなのだ。だから、もうこれ以上は聞きたくない。
そう思うのに、セリーナの口からは勝手に言葉が飛び出す。
「ま、まるで……それじゃ、まるでもう決まった相手がいるような言い方ね?」
「はい」
どくん、と胸が一回大きく打った。それから、ぎゅっと何かに締めつけられているように苦しくなって、息ができない。
「……婚約者がいるの?」
ようやく絞り出した声は弱々しくかすれている。
「いいえ。ですが、心に決めた方がおりますので」
「そ、そう……」
応えて、セリーナはルーカスに背を向けた。
本当に、彼のことを何も知らなかったのだ。
今までただただ甘えてばかりいて、このままずっと傍にいてくれると疑いもしなかった。
「やっぱり、働いてくるわ!」
「お嬢様!」
込み上げてきた涙を隠すように、ルーカスから顔をそむけたまま、セリーナはドアへと向かった。
呼びとめる声がしたが、聞こえないふりをして部屋から飛び出す。
朝食を食べ損ねてしまったが、どうせ何も喉を通りそうにない。
お行儀悪く廊下を走り抜け、階段を降り、物置部屋へとかけ込み、ばたんとドアを閉めた。
その勢いにあおられ舞い上がった埃が、明かり取り用の小さな窓から射し込む朝日に照らされて、一本の白い道を作る。
セリーナはドアにもたれ、浅い呼吸を繰り返しながら、自分の両手を見下ろした。
それは傷だらけで酷く荒れ、ちっとも可愛くない。
その手のひらに、ぽつりと一粒のしずくが落ちた。それから何粒も何粒も。
もうずっと泣いていなかったのに。
母と父が相次いで亡くなってからの半年間は、歯を食いしばって頑張っていた。
そこへルーカスが現れ、両親のお墓の前で膝をついて祈りを捧げてくれた時、なぜか急に涙がこぼれた。
抱き寄せ、慰めてくれたルーカスの胸の中で声をあげて泣いたことは、思い出せば恥ずかしくて顔が熱くなる。
あれからは一度も泣いていない。
苦しいことはたくさんあったけれど、不思議と涙は出なかった。
なぜなら、それは――。
(わたしって、本当にバカだわ……)
ようやく気付いたこの気持ちは、どうにもならない。
荒れた手で濡れた顔をぬぐうと、セリーナはふうっと大きく息を吐き、しっかりと両足で立った。
部屋の外へと耳を澄ませば、久しぶりに大勢の人の気配が伝わる。
その活気に溢れた音は、とても気持ちが良い。
いつまでも、めそめそしてはいられない。やらなければならないことはたくさんあるのだ。
(大丈夫、わたしには出来る)
新たな決意を胸に、セリーナは一歩前へと足を踏み出した。