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エリアルマーメイド 〜人魚の夢〜

作者: 耀雪メイカ

巨大な貝殻を模した臨海スタジアム・シーフロントシェル。


その中央にある透き通った半球状巨大ラウンドプールの中を、一人の人魚が大歓声に包まれながら優雅に泳いでいた。

彼女の勇姿を会場に居る全ての観客が注目し、シーフロントシェルは満員御礼のまま熱気を増していく。


ショーライトに照らされたプールの中を曲に合わせて流麗に泳ぎ、やがて勢い付けて水中から宙へと翔ぶ。

それは夜空に浮かぶ月の輪郭を優しくなぞるかのような、美しくも繊細な軌跡。


現世代最強と称される彼女が見せるハイジャンプ。

その高度は未だかつて見た事が無い程高い。


イルカショーでジャンプするイルカ達よりずっと力強く、空に吸い込まれるかのように何処までも高く跳躍していく。

日が没した暗い空を翔けるその姿は何処か現実離れしていて、ファンタジー映画のワンシーンのよう。

けれどこの場に居る誰もが心奪われ、彼女の演技に魅入られていた。


「綺麗……」

彼女の熱演を見て、最前列の特待席に座る私は思わず涙と共に言葉を漏らす。

水飛沫を滴らせながら翔ぶそのシルエットは、神々しい程に美しい。

しかし彼女の表情には切なさだけが満ち溢れていた。


そう、私と彼女は共に大切な人を亡くしたという同じ痛みを共有している。


つい先日……雨の日に起こった不測の交通事故で、兄は私を庇って亡くなった。

兄のクラスメイトだった彼女もまた、突然の別れを強いられて深い悲しみの渦中にある。

だからこそその気持ちは痛い程に伝わってこの心を締め付け、私は視線を逸らせない。


彼女のたおやかな指先が空をなぞり、バランスを取る為に躍動する体を捻る。

すると人魚の尾が月光に照らされて、キラリと優しく光った。

そしてジャンプ頂点から水面へ、まるで月の涙のように滑り落ちていく。


指先から肢体を通して表現するは、大切な人を喪った痛み。

鎮魂歌のような音楽を背景に、彼女はその演技で遣り切れぬ思いと計り知れぬ悲しみを表現する。


喪失を顕す神憑りな演技で、熱狂に満ちていた会場内は一転。

驚きと共に水を打ったような静寂に包まれた。


注目の渦中にある人魚の名は風見早紀、彼女が纏うは最先端科学の結晶体。

装着型の水中専用パワーアシストスーツ・マーメイドウェア。


頭部以外の全て……首から指先まで超撥水素材で覆い、水中活動に特化したモデル。

加えて魚のようにひと纏りになった両足の先に尾鰭持つそのフォルムは、正しく人魚そのもの。


首のセンサーリングで装着者の運動命令を読み取り、マーメイドウェアとリンク。

全身に張り巡らされた光神経系と、強靭な人工筋繊維群が有機的に連携を行う。

それは魚類を凌駕する反射と力を生み出し、高度な遊泳・跳躍が可能。


故にマーメイドウェアの動きは微塵も機械的では無い。

高いレベルで人機一体を実現し、極めて生物的な挙動で泳げる。


魚類の遊泳メカニズムを模倣して生まれた、非常に精緻で優秀なシステム。

ほぼ人の身体サイズでありながら、イルカと同等以上のパワーを誇る歴としたマシン。

魚のように全身と両足の力で水中を自在に遊泳出来る。


更に尾ヒレを擁する両足で勢い付けてキックすれば、大きく空中へ飛び立つジャンプさえ可能。

科学力により実現したそのダイナミックな動きと演技に、人は心揺さぶられ魅了される。


ましてや人魚神話や物語は世界中に広く遍く根ざしていて、とても身近なもの。

人が空を飛びたいと願って飛行機が生まれたように、自由自在に泳ぎたい……人魚になりたいという切なる願いがマーメイドウェアを生み出した。

だからこそ人々は親近感を抱き心から熱狂する、悲願の成就を堪能しながら。


人が夢見て来た憧れの結晶体。

そんなシステムを誰よりも駆使し、熱演する彼女の美貌と悲痛な演技は今やこの会場を完全に支配していた。


風見早紀のトレードマークたるマリンブルーのマーメイドウェア。

その細いボディラインを顕にしつつ、幾多もの企業ロゴが鮮やかに踊る。


中でも一際大きく目立つのは、複雑な五角型のエンブレム。

それは彼女の所属チーム……五つの企業が手を取り結成された、五社同盟のエンブレムだ。

更に五社同盟の紋章の周囲に鏤められるのは、沢山の協賛企業のロゴ。


その数の多さは試合を重ねる度に無数の企業に協賛されて来た、紛う事無き強者の証。

ましてや彼女はルサルカ杯・ウンディーネ杯・セイレーン杯と、世界にその名轟く人魚三冠を制覇した。

しかもマーメイドの頂点を決するクイーン杯をも手にする、誰もが認める名実共に現役最強の選手。


この世界にただ一人だけマーメイドクイーンの称号を誇る無敗の女王なのだから。

その名に恥じぬ強さを体現する彼女は、静かに両手を揃え高飛び込みのように揺らめく水面へと飛び込む。


マリンブルーの手が水面に触れた刹那聞こえるは、清らかな歌声に似た音色。

マーメイドウェアの爪には、高高度からの飛び込みによる衝撃を緩和する仕組みが備わっているらしい。

その爪の副産物がまるで歌のように聞こえる事から、人魚の歌と呼ばれている。


水面を割り、そのまま吸い込まれるように水中を泳ぐ彼女。

真っ直ぐ半球状のラウンドプール深部目掛けて潜行。

透き通ったプール外壁越しに見る彼女のマーメイドウェアが、淡い色合いのスポットライトを受けて神秘的な輝きを放つ。


その輝きを纏いながら、腕を振り勢いを付けてその身を旋回。

肩を抱き止めるようにしてコマのようにくるくると回り出す。


これはサクリファイスと呼ばれている技。

逆立ち状態で息を止めたまま水中で回転を続ける為、とても難度の高い技だ。


丁度銀盤で舞うフィギュアスケートのスピンと対になるように、彼女は水中で回転を更に加速。

一つに纏めた彼女の長い黒髪がその軌跡に沿って流れて美しい。


けれど切々と伝わるのは嘆きの感情。

何故ならサクリファイスは犠牲の意を持つ技なのだから。

その姿は私を庇って死んだ兄と重なり、この心を激しく揺さぶる。


深く死を悼むかのような技は、見ているだけでも深く内なる痕に沁みていく。

思わず涙腺が緩み、一つまた一つ涙が零れ視界が揺らぐ。


彼女の演技と悲しみに溺れる私の芯が共鳴。

感動による熱い気持ちが際限無く込み上げて、また涙が一筋私の頬を伝った。


サクリファイスによる回転を終えて、彼女は高速遊泳を開始。

水面に顔を出して息継ぎ、再度潜りその身を躍動させて水中を弾丸のように泳いだ。


腕両足に力が収斂されて、尾鰭が水を大胆に力強く蹴って行く。

これはスピードを最大限に稼ぐ泳法、紛れもなく勢いを付けてより高く飛ぶ予備動作に違い無い。


彼女はプールを大きく一周した後、真っ直ぐ水面を目指す。

私の家の隣に住む……憧れの人であり最も親しいあの人は、大きく水面から空へと飛んだ。


「早紀選手、ジャンプ……! ……これは高い!」

実況する女性ナレーターすら解説が覚束かず、今や彼女の演技に圧倒されて言葉も疎ら。

それもその筈、エリアルに於けるジャンプ高度記録を大きく更新していたから。


私の視線の先に躍るは、マリンブルーが眩いマーメイドクイーンの勇姿。

夜空を照らす月よりも貴い輝きを湛えながら、その身体を回転させつつ飛翔する。


更に大腿部外縁に備わったイルミネイトユニットが、柔らかな光を放つ。

そしてジャンプの軌跡を舞う水飛沫を、虹のように鮮やかに彩ってゆく。


更に彼女はジャンプ頂点で膝を抱え込み、より複雑な回転を加えて水面へと勢い良く飛び込んだ。

このアクロバティックな技の名はツイストダイヴ。

重力の鎖から開放されたかのような大胆な技に、観客席から会場が割れんばかりの大歓声が上がる。


静と動……彼女の卓越した演技力は、その全身を以って悲しみを乗り越える強さを克明に表現していた。

彼女の演技に沿うようにして、鎮魂歌のようなピアノの音色が大きく転調。

力強さと変革を予感させる旋律が大きく鳴り響く。


至高の音色と会心の演技がまるで一つの命であるかのように調和して、見る者の心を誘う。

それは悲しみの海に沈んだ私の心に、確かな一筋の光明を齎した。


兄の死……命が失われていく瞬間を、この手で体験してから止まってしまった私の心。

そして何も出来なかったという無力感が苛み続け、凍え切った感情。

それらに幾筋もの熱気が迸り、生まれて初めて感じる程の活力が漲る。


彼女の演技に励まされ、私の心に憧れという名の希望が芽生え高らかに花開いた。

私もあの人のように、誰かを衝き動かせるマーメイドになりたい。

そんな気持ちが沸々と湧き上がり、心臓の鼓動を一層加速させる。


「早紀姉ちゃん……」

涙で潤む視界、思わず口走る親愛なるあの人の名。

けれど私は彼女の演技を、この目に焼き付けるようにして見つめた。


後悔なんて残さない、私はそう誓って熱演を見届ける。

人魚の女王たる彼女が伝えようとする事を、心に深く刻み込む為に。


ツイストダイヴから着水した彼女は、優雅に水中を舞う。

その表情・指先が伝えるは、喪失からの再起を告げる強く確かな意思。

力強い仕草のままにクイックターンを幾重にも重ねて、イルカのように大胆に遊泳する。


風見早紀が見せる鋭くも優雅な泳ぎ。

その動きに呑まれるようにして、会場の熱は一段と増していく。

何故なら今まで彼女が見せて来たどの演技よりも遥かに鋭さがあり、紛れもなく最高の出来だからだ。


私も……そしてきっとこの会場に居る誰もが予感していた。

今宵人魚の女王が見せる演技は、必ずや伝説になると。


胸中に湧き上がるは、伝説の立会人になれるという確信と高揚感。

彼女の演技に一切のミスも迷いも無い。

渾身のジャンプは、これまで彼女自身が保持して来た高度記録を大幅に塗り替えている。


エリアルは競技が出来てから歴史も浅く、故に審査員十人による全満点評価……パーフェクトスコアはまだ出ていない。

けれど全身全霊を賭して高難度の技を次々に決める今の彼女ならば。


誰もが成し遂げられなかった事を、遣り遂げられるに違いない。

そんな期待感が私のみならず、会場全体に歓声を通して波紋のように広がっていく。


彼女はそんな期待に応えるべく旋律に乗り、高速遊泳後大きく水面を破って跳躍し華麗なムーンサルト。

美しい軌道に加えて、完璧なタイミング。

見ているだけでも爽快感に酔い痴れる程だ。


同時にジャンプ軌道をなぞるように、イルミネイトユニットの発光が蒼く優しく揺らめく。

その流麗な軌跡が技量の高さを無言のままにアピール。

音色に乗り宙を舞う彼女の姿は、夜空に瞬く星達に祝福されるかのように美しく輝いていた。


高高度のムーンサルトから着水し、遊泳しつつクイックターン。

彼女は水面から顔を出すと同時に夜空の月へと手を翳し、力強いピアノの旋律が終わる。

それは五分間もの演技時間終了の合図。


正しく誰も見た事のない、至高にして究極の演技。

それを見た観客達は大興奮に包まれ、会場に万雷の拍手が鳴り響いた。


更に一人また一人と立ち上がり、スタンディングオベーションの輪が広がって行く。

その輪に私も包まれて、感涙と共に人魚の女王へと心から拍手を送った。


彼女は惜しみない賛辞を送る観客達へ向き直り、優しい笑顔と共に手を振り答える。

健闘讃え彼女に投射されるスポットライトや、立体投影されるホログラフィックアートの数々。


輝くそれらに祝福されながら、堂々と遊泳する女王……ふとそんな彼女と目が合う。

すると、いつも良く知る温かい眼差しで静かに微笑んでくれた。


私は安堵すると共に、彼女に涙交じりの精一杯の笑顔を見せる。

最高の演技を通して伝えたかった事。

それが確かに伝わったという事実を、言葉では無く表情で伝える為に。


私の笑顔を見た彼女もまた安堵の表情を浮かべた。

そして可動式クレーンから水面へと下ろされた、ブランコ状のリフトバーへと手を伸ばす。


そのデザインはまるで月のブランコ。

月桂樹の意匠の鎖が煌びやかに光り、その優美なフォルムが顕になった。

エリアルは人魚が主役だけに、その周りのデザインもまた徹頭徹尾ファンタジックと作りも凝っている。


彼女は手慣れた様子で片手でバーを掴むと、そのまま一気に軽快な動作でリフトバーへ飛び乗った。

マーメイドウェアは首から指先まで覆い、全身に高度なパワーアシスト機能を持つシステム。

人の数倍の握力と膂力があればこそ成せる芸当。


彼女はゆっくりと引き上げられ、プールから遠ざかる。

そんな中、惜しみない拍手を送る観客達へと笑顔と共に手を振り返礼。


そして水が滴る髪をそのままに、風を感じながら彼女は遠く海を見据えた。

演技を終えた後の彼女の何時もの癖だ。


全選手の演技が終わった今、後は採点を待つばかり。

私は審査員席へと視線を辿らせると、今正に採点中の様子が見える。


年齢も国籍もバラバラな十人の審査員達。

その表情は皆一様に、多大な満足感に溢れていた。

彼らは一切迷う事無くスコアを記していく。


私は祈るような気持ちで結果が表示される瞬間を待った。

大切なあの人の勝利を願って。

流れた涙をそのままに、両手を胸の前で重ねながら静かに瞼を閉じる。


暫くしてファンファーレと共に、立体投影で会場上空に大きくスコアが表示された。

待ち侘びていた瞬間の到来。

私は静かに両目を開くと、視線の先には見事なまでに満点が並ぶ。


十人の審査員が出した十点満点が清々しいまでの光を放ち、トータルスコアの百点が女王を祝福するかのように天上に輝く。

念願のエリアル史上初、パーフェクトスコア達成の瞬間。


前人未到の快挙とその偉業を称えるように、会場は一段と歓声が轟いて割れんばかりの大喝采が渦を巻いた。

私も無我夢中で歓喜の声を上げる、心からの盛大な拍手を送りながら。

同時に確定したのは、風見早紀の三度目のクイーン杯制覇。


二位を全く寄せ付けない堂々の完勝に、観客達からは惜しみない歓声と拍手が飛ぶ。

賞賛の渦中の最中……彼女の乗るリフトバーはスポットライトを浴びながら、大会運営責任者の元へと静かに移動。


泳ぐ事のみに特化したが故に、両足で歩く事が叶わぬマーメイドウェア。

けれどその様すら神秘的で美しい。


一位である彼女に優勝の栄誉を与えるべく、紺のスーツ姿をした壮年の男性が栄冠を手に歩み出た。

いよいよ栄冠授与式の開始。

興奮冷めやらぬ会場に再び静寂が戻り、観客の注目がスポットライト浴びる人魚の女王へと注がれる。


「実に見事だった……君が披露した渾身の演技は、エリアルの歴史にその名と共に深く刻まれる事だろう。風見早紀君、クイーン杯優勝……そして史上初のパーフェクトスコア達成おめでとう!」

彼は優しい笑顔と共にそう述べると、彼女へ大粒のアクアマリンと無数の真珠が鏤められたプラチナのティアラを授与した。

それはマーメイドのみならず、誰もがきっと惹かれるであろう極めて上品で豪華な作り。


月光で輝き、人魚石とも呼ばれる宝石・アクアマリン。

海の色合いを湛えた大粒がティアラ中央に鎮座し、その色を引き立てるように真珠達が静かな光を放つ。

正に人魚の夢を体現した、マーメイドクイーンに相応しい逸品だ。


見惚れる程に美しいティアラが放つ栄光の輝きは、私の心にも優しく染み入るように浸透して来る。

彼女の渾身の演技が、悲しみに凍える私の心を溶かして希望を芽生えさせた。

確かな希望が生み出す活力が情熱を蘇らせ、憧れという確かな道標となって徐々に形となっていく。


「本当に有り難うございます、私一人の力では決してここまで辿り着く事は出来なかったでしょう……これも全ては応援し支えて下さる皆様のお陰です。心より深く感謝致します」

彼女は頭にティアラを戴き、アスリートらしくないおっとりとした何時もの口調でそう答えた。

その表情は優しい笑顔……けれど頬には一筋の涙が流れる。

きっと全身全霊を賭した演技を無事成し遂げられて、感無量なのだろう。


彼女はその言葉と共に大会運営責任者と固く握手を交わした。

すると彼女取り巻く記者達が持つカメラのフラッシュが一斉に焚かれ、観客達から祝福と賞賛の声が飛ぶ。


彼女が披露したこの演技は、『奇跡の五分間』としてエリアルの歴史に燦然とその名を残す。

……同時にこれは彼女が見せる現役最後の演技となった。





―2年後―





奇跡の五分間を演じた女王・風見早紀の電撃引退から早二年、季節は巡る。

彼女は表向きは後進育成を理由に引退。

しかし絶頂期に敢えて現役を退くその真意は未だ謎に包まれ、多くのファンの関心を引き続けていた。


輝かしい伝説を築き、エリアルに於いて絶対的エースであったマーメイドクイーンの突然の引退。

けれど同時に始まったのは、次なる女王を擁立せんとする群雄割拠の時代の到来。

各企業チームは激しく鎬を削り、エリアルはその熱気を滾らせたまま今に至る。


現役を引退した彼女は、引く手数多の誘いを断り続け古巣である五社同盟に所属。

そしてマーメイドを目指す私を、技術と知識両面で支えるコーチとして導いてくれた。


中学校の学生生活と日々の練習。

その両立は大変だったけれど、お陰で目標のスタートラインに遂に辿り着く。


私はマーメイド候補生から正式に選手として昇格。

同時に中小規模の企業による五社同盟が運営する、企業付属高校へと進学出来た。


そして今日は遂に念願の初エリアル、私がマーメイドになれる瞬間の到来。


今着替え室に居る私の眼前にあるのは、夕日のように鮮やかなサンセットオレンジのマーメイドウェア。

私のパーソナルカラーに染め上げられて、専用に調整された五社同盟会心の一作。


「私だけのマーメイドウェア……」

溢れる気持ちと緊張を落ち着かせるようにそう呟くと、意を決して手を伸ばした。

大きな夢へと至る第一歩、共にエリアルという路を歩む掛け替えのない相棒へと。


その肌触りと形状は概ねダイビング用のスーツに似ている。

超撥水性を持ち、水中で極めて加速し易い造り。

けれど、一般的なダイビングスーツと大きく違うのはやはり足の部分。


両足が一つとなり、その先に尾鰭があるシルエットは正しく人魚そのもの。

人がお伽噺や伝承の中に夢見た存在が、科学の力で遂に現実となった。

その実感を噛み締めながら、私はエリアルになくてはならない相棒のフォルムを堪能する。


極限まで人魚の形でありながら似て非なるのは、やはりグロスホワイトのプロテクターやイルミネイトユニットの存在。

なだらかな肩のプロテクターにはコンデンサが内蔵され、胸のプロテクターには企業ロゴが刻まれてとても華やか。


大腿部外縁には、お洒落な貝殻状のイルミネイトユニットが存在感を放つ。

ここから放たれる柔らかな光により、ジャンプ軌道を綺麗に彩る仕組みだ。

これらの装備が、マーメイドウェアは最先端科学技術の結晶であるという事実を静かに主張していた。


「よし、行こうっ!」

私は意を決して黒いワイルドロングヘアを掻き上げた、いよいよ装着の時。


衣擦れ防止効果を持つグレーのベーススーツ纏う私の身体。

それをマーメイドウェアに巧みに滑り込ませ、フィッティングを開始。


すると全自動でマーメイドウェアがサイズ調整しつつ伸縮。

一瞬でこの身体に同調を済ませて、馴染む感覚が沸き上がって来る。


「わ、不思議……」

余りの自然さに思わず声を出してしまった。

両足の感覚が少し希薄になり、逆に両足の先の尾鰭に感覚が芽生えたかのよう。


人から人魚に変わったというのに、まるで違和感が無い。

進化した技術の素晴らしさを実感しつつ、私は移動用のオートチェアに腰掛けて練習用プールを目指す。


軽快なモーター音と共に流れる通路の風景。

ワクワク感で鼓動が高鳴り、頬が紅潮していく感覚が手に取るように判る。


マーメイドウェアの試運転、同時に私が初めて体感するエリアルの世界。

待ち焦がれたその扉を開ける瞬間が、遂に訪れたのだから。


「ハルカ、こっちよ!」

「コーチ!」

通路を抜けた先……眩い青空と共に出迎えてくれたのは、私の専属コーチである風見早紀その人だ。


純白のワンピースに麦藁帽子。

言動と共にアスリートらしくない何時もの格好の彼女は、弾けるような笑顔を浮かべていた。

微風に纏めた黒髪が上品に揺れて、水瓶座のアストロロジカルシンボル入りの髪留めが揺れる。


色白の肌に優しい顔立ち。

慈愛に満ちた女神のような卓越した美貌に加え、日溜りのように温和な性格の者だけが成し得る甘い雰囲気。


大きくアスリート離れしたそれは、老若男女誰をも強く惹き付ける。

実力のみならず、こうした人柄と美しさである事も彼女の人気の一翼を担っていた。


私がマーメイドになると決意を告げた日から、温かい心で応援して支えてくれた彼女。

そのお陰で私は無事こうして夢の第一歩に辿り着けた。


私をここまで支え続けてくれた早紀姉ちゃんには、感謝してもし切れない程の恩がある。

その恩は夢の実現で応えなくてはならないと、私は改めて気を引き締めた。


「とても良い色合い、似合っているわ。さぁ、早速始めましょう」

「はいコーチ、宜しくお願いしますっ!」

笑顔の彼女に、私は気合と共にそう言って早速レクチャーを受ける。


「いい、ハルカ? 私の言葉をよく覚えておいて」

そう言っていつものように彼女は語り出す、言葉の節々にエリアルへの情熱の残滓を滲ませながら。

彼女曰く即ちエリアルとはモータースポーツ。

人機一体でなければ、速く泳ぐ事も高く飛ぶ事も叶わない。


マーメイドウェアの特製を把握した上で、水を知り風を掴み流れを読む事。

決して流れに逆らわずただ単純な力任せで泳がず、飛びたいという有りの侭の気持ちをマーメイドウェアを通して体現する。

それがエリアルに於いて大事な事だと。


言葉にするとこんなにも簡単だけれど、それを実現するには間違い無く途方も無い努力が要る。

けれどそれを苦も無くこなしたからこそ、彼女は前人未踏の領域へと辿り着けたのだろう。


コーチが伝えてくれたこのアドバイスを心に刻み、私はいよいよ実践に入る。

プール傍のリフトバーに手を掛けて飛び乗り、プール上空へと移動。

私はコーチへと声を掛けた。


「コーチ、アドバイス通りやってみます!」

「試運転だから気負わずにね、ハルカ」

緊張する私を地上から見上げながら、彼女は優しくそう告げる。


「はいっ!」

その言葉に勇気を貰い、私は彼女に元気にそう答えると同時に水面へと飛び込む。

コーチである彼女の期待に応え、夢の第一歩を踏み出す為に。


普段意識する事の無い大気の壁を、揃えた両手で切り裂く。

同時に高速で迫り来る水面を注視。


ゆらめく水面の煌めきを見据えて、頬を掠める風に意識を取られぬように集中状態を維持。

心音が徐々に高鳴る中、遂に着水の瞬間を迎える。


同時に爪の先端から、着水衝撃緩和の副産物である人魚の歌が高らかに鳴り響いた。

直後私の視界一杯に、透き通った水中の景色が広がる。


涼風爽やかな空中から一転、肌を通して水の心地良い冷たさが沁み入って来た。

私は躊躇わずに両足を強く動かしキック。


するとその意思に応えるように、両足とその先にある尾鰭が躍動。

思わず驚く程の勢いで水を蹴って大きく前進。

まるでイルカになったような気分……決して人間では出せない水中での加速感に、私は思わず酔い痴れた。


マーメイドウェアのパワーアシストで、僅かな力だけでも生身の時よりも優に泳ぐ事が出来る。

正に人魚そのものになった気分。

余りの心地良さに、ただただ未曾有の感動だけが私の心を支配していた。


けれど本命はこれから、エリアルの醍醐味は水中からのジャンプ。

私は水中で加速し、大きく勢いを付ける。

半球状のプール外縁をなぞるようにして高速遊泳し、反動を付け一気に水面を目指した。


両足を力強く躍動させ、全身の力を振り絞るようにして靭やかに。

今の私は例えるならば空を目指す弾丸、一直線の軌道がハイジャンプを予感させる。

そして遂に水面を破り、加速感のままに空高く飛んだ。


「……ぷはっ!」

空中に出た私は、止めていた呼吸を再開し大きく息継ぎ。

肺の中に清涼な空気が入るのを満喫しながら、私の身体は未曾有の無重力感と果てしない空の青に包まれていた。


常に身体を縛る重力の鎖から開放されて、純粋な自由に手が届いた瞬間。

このハイジャンプの感覚は、私を魅了し虜にするには十二分に過ぎた。


「最高!」

思わず私は叫んだ、心に満ちる爽快感のままに。

翼は無くとも人機一体で辿り着けた領域。

未知なる扉を開けた感覚にも似たこの気持ちを、包み隠さず発露したかった。


しかし暫くするとジャンプ頂点を迎えて、落下軌道に入ってしまう。

再び私の全身に重力の鎖が巻き付くような感覚が襲い、私は慌てて再度着水に備え水面を見る。

エリアルを始めたばかりでは、やはり思ったよりも飛べない。


私が憧れる早紀姉ちゃんならば、もっとずっと高く飛べていた。

あの人のエリアルを、私は欠かさず見続けていたから断言出来る。


全盛期の彼女が飛ぶであろう軌跡を、鮮明に脳裏に描く。

そして改めて女王と称された彼女との距離を痛感した。


その距離は想像を絶する程に遠く、辿り着けるかどうかさえ解らない。

今の私じゃ肩を並べる所か、影を掴めるかさえ覚束ないだろう。


彼女の後ろ姿だけしか見えない現状、でも絶対に挫ける訳には行かない。

あの人が私に掛けてくれる暖かく優しい感情と、強い期待感に必ず応えたいから。


そして決して譲れない私の夢がこの先にある。

実現する為には徹底的に練習を重ね、マーメイドウェアとの同調をより高めていく必要があるだろう。


水面を割って再び水中に戻った私は、水中性能をより確かめるべく遊泳に入る。

全身を使って巧みに遊泳方向を変えるクイックターンに始まり背面遊泳。

更に全身のバネを使ってのキックで猛加速、水中でどれ程の速度が出せるかを試みた。


2度3度とターンを重ね、実感するのはやはり鋭さの欠如。

ジャンプのみならず、水中でも彼女のキレには到底敵わない。


同じエリアルをやった者だけが解る、越えようとするには余りにも遠く険しい壁。

それでも挑み続けると意を新たにしながら、私は黙々と泳いだ。


その決意を祝福するかのように、水面から差し込む柔らかな光が私の視界を彩る。

張り詰めた気持ちを癒やすかのような大自然の贈り物。


その美しさに心奪われる前に、息継ぎの為水面から顔を出す。

するとそこには、私を覗き込むようにしてコーチが待っていた。


「お疲れ様、ハルカ。初めてのエリアルどうだった?」

「とても楽しくて気持ち良かった、ずっとずっとジャンプしていたい感じ……けれど高く飛ぶ為にはもっと練習しなきゃ」

コーチの言葉に、私はつい何時ものように素で答えてしまった。

彼女はそんな私の言葉に顔を綻ばせて、優しく微笑む。

そんな彼女につられて私も自然と笑顔になる。


彼女が情熱を注ぎ愛して止まなかったエリアルの魅力。

私自身も惹かれて夢となり、こうしてやってみて改めて理解し好きになった。


ただ見ているだけだった二年前とは違う。

憧れの人に少し近付けた気がして、私は少し嬉しさを覚えた。


「その強い向上心とエリアルを好きな気持ち、どうか忘れないでね。それはきっと貴女を夢と栄光に導くものだから」

彼女は何時ものようにおっとりとした口調で優しく語り掛ける。

その言葉に、私は無言のままに頷く。


偉大な先達の的確なアドバイス。

技術だけではなく、マーメイドとしての心の有り様を伝える言葉を私は胸に深く刻む。


コーチは何時もこうしたすっと頭に染み入るアドバイスが上手い。

彼女の言葉で、私の内なるやる気が沸々と漲って来る。


「コーチ、ひと泳ぎ行って来ますっ!」

私は彼女に笑顔でそう告げると、再度遊泳を開始。


まだまだ泳ぎ始めたばかりの私。

今舞台でスポットライトを浴びるマーメイド達に比べれば、きっとまだまだ稚魚のようなもの。

だけど今この瞬間にも、あの日コーチが見せてくれた奇跡の五分間の感動は息衝いている。


辿り着けるかどうかはわからない目標。

けれどゴールがあるから人はどんなに長い距離だって走り抜ける。

そう、全てはこれからの私の頑張り次第。


私は胸中に秘める目標を果たす為、泳ぎ出す。

ただ直向きに、人魚の夢へと向かって。


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― 新着の感想 ―
[良い点] はじめまして。 語彙が豊富だから、ひとつひとつの文章に煌めきがあります。メイカさんの才能を感じます。私も物語の序文にこのようなかっこいい文章を書きたいのですけど、なかなか上手くいかず、とて…
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