第九章 記憶
1
視界が、濁る。
”触れない男”の腕が、顔が、千花の手が、次第に消えていく。
この世界そのものと同化してしまったかのように、ごく自然な流れでゆるゆると。
時間にしてはそう長くなかったかもしれない。しかし僕には、その現象がまるで一時間くらいかけてゆっくり行われたように感じられた。
何だ、何だ? 何なんだ?
目だけじゃない。耳も鼻も手の感触も、全てがふわふわとしたまどろみに包まれ自分の意識から乖離する。
例えるならば、深い水の中にもぐっているような、豪雨の中に飛び込んだような、そんな感覚。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚……全ての感覚器官が再び揺らいだと思った途端、僕は、――見たこともない場所に立っていた。
◆
「……おい、聞いてんのか?」
突然不機嫌そうな声で肩をどつかれ、僕は痛みに顔を歪めた。
視線を上に戻すと、浜田将太がいらいらした様子でこちらを見ている。
僕は頭を振って周囲を見渡した。
薄汚れた灰色い壁。並べられたPCとデスク。そしてその椅子を使い、自分と向き合って座っている数人の若者。ここは僕が所属している大学の研究室の中だった。
「しっかりしろよ。お前が言い出したんだぞ。卒業まで指導してくれたお礼に、先生に何かプレゼントを渡そうって。なにぼーっとしてんだよ」
どうやら翔太はかなりお怒りの様子らしい。眉間にしわがより、いつも以上にまぶたの端が落ちている。
僕は片手で頭をなで、申し訳なさそうに頭を下げた。
「わりー、わりー、ちょっと寝不足が続いてて……それで、どうなった?」
「俺と三直はネクタイがいいって、言ったんだけど、香奈が納得しねえんだよ。こいつ、先生には香水をあげたいっていうんだ。笑っちまうだろ?」
「香水? またまたなんでよ」
僕は前髪を大胆に横一文字に切り払った髪型の、少し太った女性のほうを見た。
「だぁってぇ、先生っておっさんくさいじゃん。せっかくダンディーな顔つきで女子生徒からの人気も高いのに、もったいないなぁっと、思って。……いい案だと思うんだけどねぇ」
「おいおいおい、おっさん臭いって、失礼なやっちゃな」
そんな言い方はないのではないか。僕は引き気味に口元を歪めた。
「はぁぁあ。もう、面倒くせえからどっちも買っちまおうぜ」
こうなった香奈はなかなか言うことを聞こうとはしない。翔太もそれを十分に把握しているからか、全てを諦めたかのように、手に持ったメモ帳とペンをデスクに投げ捨てた。
それを見た香奈は嬉しそうに、
「一応、香水も割り勘だからね。みんなからのプレゼントなんだし」
「……はいはい。分かってますとも」
非常に煩わしそうに、翔太が口を尖らせた。
「……そろそろ十時だ。俺はもう帰るよ」
ここから家までは電車で一時間。いつもはまだ残ってみんなと談笑している時間だったが、時期的に色々とやることがある。それがわかっているからか、翔太たちもあっさりと了解した。
「おう、ごくろうな」
PCの電源を落とし、掛けていた上着を着る。扉を開け振り返ると、前を向いたまま翔太が手をひらひらと横に振った。
最近ガタがき始めている自室の扉をくぐり抜け、ベッドの上に鞄を投げ捨てる。そのまま小学校二年生のころに買ってもらった、古びた机の上にある紙に視線を下ろした。
数ある文字列の一番上に、“内定通知書”という文字が記載されている。
もう一ヵ月後には入社式。何十社も受けてやっと手に入れた、唯一の切符だった。特に大きな会社ではないけれど、東証二部にも出ているIT系の会社だ。
僕はそれを見たときの両親の安堵した顔を思い出し、一人苦笑いを浮かべる。二人とも相当心配していたようで、その手紙が届いたときはまるでお祭り騒ぎのような有様だった。普段は異常なほどにケチな母も、珍しくステーキを夕飯に出したほどである。
これから僕も社会人か。今まで世話になったぶん、今度は僕が両親に恩を返さないと……。
別に死ぬわけでもないのに、走馬灯のようにこれまでの記憶が蘇る。
僕は紙を撫でると、そっと引き出しの中にそれを仕舞った。
2
五月九日。
僕は無事卒業をむかえ、社会人として一ヶ月が経とうとしていた。入社前に内定式、懇談会と数多くのイベントこなす中で、それなりに会社の雰囲気や人の気質は掴んだつもりだった。先輩社員や人事の担当者は驚くほど優しく、凄くアットフォームな空気を持っている会社だという印象だった。
僕は配属される予定の職場に案内されるときも、ずっとわくわくした調子でいた。これから新しい生活が始まるぞと、意気込んですらいた。元気よく挨拶をしようと覚悟を決めて、扉を開ける。しかし僕が口を開くよりも早く、雷鳴のような怒号が耳に飛び込んできた。
「――篠崎、てめえ、馬鹿野郎! また書類の表記間違えやがったな。何度言ったら分かるんだよ、この鳥頭」
思わず足が止まる。どうやらタイミングが悪いときに入ってきてしまったらしい。
――嫌だな、ああいう人間関係に摩擦を生むような人間は苦手なんだよ。俺の研究室だいぶラフだったしなぁ。
案内してくれた人事の人が小声であそこの席だからと耳打ちし、姿を消す。「え、行っちゃうの?」と思ったものの、仕方なく僕は言葉のデンプシーロールを受けている若手の社員の横を通り抜け、自分の席へ荷物を置いた。
まずは一番この場で地位の高い人物に挨拶を行うのが筋だろう。隣に座っている先輩社員らしき三十代の男性に聞こうとしたのだが、非常に忙しそうにキーボードを打ち続け、「話しかけるな」といオーラを放出している。気押されるように他の相手を探したのだけれど、どの社員も同じような感じだった。みんな、死人のような顔で無言でPCに向き合っている。
この場で会話を生み出せそうなのは、先ほど怒鳴っていた中年の男だけだ。もう叱責も終わったらしい。僕は恐る恐ると言った調子で彼の元へ向かった。
「あの、すいません。本日よりここで働くことになった、本田克己と申します。よろしくお願いします」
「ああ? なにお前、新人?」
「はい、そうです」
できるだけ愛想のいい表情で、僕は男に向き合った。
「あの、ここの部長にご挨拶したいのですが、どちらにおられるでしょうか」
「部長? 見てわかんねえのかよ」
いや、分かるわけねえだろ。
僕は随分と上から目線のこの男の態度に、内心嫌悪感を抱き始めていた。
「俺がここを仕切ってる松原だ。しっかり顔を売っとけよ。俺に逆らったら、ここじゃお仕舞いだぜ」
でっぷりと肥え太った腹を前に突き出し、あざ笑うかのように僕の肩に手を乗せる。
僕は一瞬頬をヒクつかせつつも、愛想笑いを崩さずに答えた。
「分かりました。誠心誠意、頑張らせていただきます」
「まあ、今日は初日だ。あんまきついことは言わねえでやるよ。仕事は……隣の席のやつにでも適当に聞いとけ」
それだけ言うと、松原部長はくるりと身体の向きを変えた。
僕は彼に見られないように大きなため息を吐き、自分の席へと戻る。
「隣の席のやつに聞け」とのことだったので、意を決して話しかけてみると、酷く面倒くさそうに睨まれながら、表計算ソフトのデータを渡された。最初は業務上必要となる書類の製作が新人の仕事らしい。
わからないことも多く、何度も先輩社員に睨まれながら何とか仕事をこなしていくうちに、気がつけば午後六時を過ぎていた。
僕は慣れない環境と仕事にかなり疲れていたので、すぐにでも帰りたかったのだが、自らそれを言うわけにもいかず、ただただ誰かがそれを指示するまで仕事を続けるしかなかった。七時くらいには職場の近い翔太から食事の誘いもきたが、それを無理だと断る。結局その日僕が会社を出れたのは、深夜の十二時になる直前だった。
社内の食堂で同期たちと談笑を行っていると、周りで食事をしていた年配の男の一人がぼそりとある言葉を呟いた。
――楽しそうに笑いやがって。……へ、いつまでその笑顔が続くかな。
思わず見返してしまったが、目が合った瞬間、陰険な表情を浮かべ視線を逸らす。何なんだと思った。
昨日から感じていたことだが、どうやらこの会社の社員はみな一様に“病んでいる”らしい。誰もが生気の無い表情で、ただ黙々とエネルギー補給のためだけに胃に栄養源を運んでいる。
入社前に見た人事や先輩社員の様子からは、想像もつかない姿だった。
僕は同期たちとそういう先輩社員たちのことを、“社会ゾンビ”と呼ぶことにした。青白い顔と常に下を見て身体を引きずるように歩いている様子が、まさにゾンビそのものだったからだ。ああはならないぞと、お互いに誓い合った。
それから数週間、この職場で過ごしていくうちに、僕は間違った会社に入ってしまったことを確信した。
セクハラまがいなことをされ続ける女性社員。
サービス残業当たり前で、奴隷のようきこき使われる男性社員。
挨拶を返さない先輩社員に、なるべく他者の仕事に関わろうとしない職場のメンツ。
威張り散らすだけで、実際の作業はほとんど行わない古参の女性と上司たち。
これでは、社会ゾンビになるのも無理は無いと思った。
既に土曜日出勤も当たり前と化していたので、日曜日は唯一の安らぎの日だった。僕は久しぶりに会った翔太や香奈、そして香奈の親友でもあり僕の彼女の弥生と酒を飲みながら、たまりに溜まった仕事の愚痴をぶちまけた。
「――ほんと、ふざけんなよなぁ。なにが、『休憩? んなのただの労基に対する建前だから』だよ、なめてんのか」
「くっふぁ、荒れてんな克己。そんなにひでぇ会社だったのかよ」と翔太。
「ひでぇなんてもんじゃねえよ。ありや牢獄だよ、牢獄。まともな人間がいるとこっろじゃねえ」
「お前、ちょっと前まですげえ意気込んでたじゃねぇか。社会人として親を支えるって」
「そう思ってたよ。でも、あんなところじゃ無理だ。……俺もお前さんみたいに、定時帰りの会社に入りたかったよ。――お酒ちょうだい」
「飲みすぎじゃない?」
グラスに残ったビールを一気に飲み干し、僕はテーブルに叩きつけた。弥生が困ったような顔で、それに注ぎ足す。
「つっても、給料は低いからな。金は溜まらねんだわ。結局、暇つぶしのためにパチンコとかで余計にすっちまうし」
「何時間も働こうと、結局サービス残業なんだから俺も同じだよ。むしろ、自分の時間を自由に使えるお前さんが羨ましいよ」
「ふ~ん。そりゃあ、確かにそうかもな」
何故か目を逸らしながら、翔太は答えた。
「食堂の飯だって、豚の餌みたいにまずいんだぜ。経費節約のためにとんでもない安い会社に調理を依頼してるんだけど、これがまた酷いのなんの、“もやしのカラシあえ”やら、はんぺんと米と薄っすい味噌汁のみとか、意味がわからねえレベルなんだよ」
「ひでえな。もうコンビニで買ったらいいんじゃねえか」
「俺もそう思ったよ。思ったけど、コンビ二の飯って、まともに腹を膨らまそうとおもったら、馬鹿にならない金がかかるんだよ。毎日買ってたらそれだけで給料の大部分が飛んじまう」
僕は再びビールを一気飲みした。コップを前に伸ばしたが、弥生は首を横に振る。
「じゃあさぁ、弥生ちゃんが毎日作ってあげればいいじゃん。てか、もう一緒に住んじゃえば。そうすればいろいろとお金も浮くんじゃない?」
くるくるとストローで氷を回しながら、香奈が楽しそうに言った。顔が相当赤く、トマトのようだ。
「え……でも、あたしにも色々とあるしね」
てっきりに乗り気になると思ったのだが、弥生は意外にも言葉を濁した。顎を手のひらの上に乗せ、指でテーブルの上の水滴を回す。今気がついたが、少し髪を赤く染めているようだった。気分転換だろうか。前までは清楚な黒髪だったのに。
「なあ、せっかく集まったのに、暗い話はもうよそうぜ。楽しく飲もう、楽しく。な!」
自分のグラスを持ち上げ、翔太が無理に笑みを浮かべる。
僕もこれ以上オフの日に会社のことを思い出したくはなかったので、その提案に従った。
その日は十一時まで飲み、僕は明日の仕事を考え先に帰ることにした。あの三人は、三次会へと出向くらしかった。
「ほどほどにしろよ」
「分かってるって。じゃ、また今度」
僕が心配していうと、弥生はあっさりとした調子で手を振った。
3
翔太や香奈と飲みにいってから三ヶ月が経ったころ、同期の一人が会社を辞めた。理由は、田舎で暮らしている両親が病気になり、是非とも帰ってきて欲しいと連絡を受けたから、とのことだった。
彼が辞表を提出した当日。僕は偶然その場に居合わせたのだが、書類を受理された直後の彼の表情は、とても病に伏す親を心配しているようなものではなかった。明らかに、喜んでいる。
僕はすぐに彼の“事情”が嘘だと悟った。この会社から逃げ出したくて、必死に考え抜いた策だったのだろう。普通に転職したいからといってもなかなか受理されないが、死にかけている親のためという理由ならば、上司も納得せざる終えない。
会社前の道路を歩く彼の後姿は、まるでスキップでもしているかのようだった。
それからさらに二ヶ月の間で、新人として入社した同期がさらに三人退職した。
一人は何度辞表を出しても拒否され、半ば自然消滅といった感じで姿を消し、もう一人はこの会社と取引関係にある上の会社からの引き抜きだった。
毎年毎年、この時期に新人が抜けていくのは恒例行事らしい。これは隣の席の先輩から聞いた話だが、去年入社し、今年まで生き延びた“新人”は、全体の三分の一にも満たなかったとのことだった。
酷い職務待遇。次々と消えていく同僚。こんな状況では僕も当然、この会社をやめようかと悩んだ。実際、辞表を途中まで書きかけたこともある。
だが、両親のことを考えればとてもじゃないがそれを実行に移すことはできなかった。今の社会情勢では、まともな転職を行うためには最低三年間は同じ会社で働く必要があると言われている。もし三年経たずに転職しようとすれば、ガテン系の職場に行くか、フリーターになるしかないというのが、この国の現状だそうだ。あくまで先輩社員の話だけれども。
結局僕は辞めるという判断を決めることができず、ずるずるとこの会社に残ってしまった。毎日のように意味も無く怒鳴られ、どつかれ、媚を売り、僕は仕事の内容よりも、人間関係に力を注ぐことが多かった。
立場が上というだけで威張り散らす上司たち。いつしか僕は、そんな上司の怒鳴り声を聞くたびに、他人の悪口が耳に侵入してくるたびに、後頭部に痛みを感じるようになっていた。
このままではまずい。そう思った僕は、すぐに行動に移った。
ちょうど人手が足りないという話が出ていたので、是非一度経験しておきたいという耳障りの良い言い訳を述べ、営業へと移った。もう、あの部屋から出れるならばどこでも良かった。
これで心機一転、頑張ろうと思った矢先、僕は再び、追い詰められることになった。
営業とは通常、お客との顔の売り合いによって関係が成り立つものなのだが、この会社の顧客は一定ではなかった。なにせ、商品のジャンル自体が毎回毎回そのときのブームに合わせて適当に繕ったものなので、客先もそのたびに探して、売りつけなければならなかったからだ。
土曜も、日によっては日曜も、もはや休みなど存在しないかのように働かされ、資金不足という理由で給料は生活費ぎりぎり。もはや彼女とまともに連絡を取ることすらできない。
頭痛も酷くなる一方で、僕は正直、だいぶ限界を感じていた。
4
気がつけば、数年が経っていた。一緒に入社した新人はもうほとんど残ってはおらず、まだ三十前だというのに、僕はかなりの古株として扱われていた。
何とか定期的に会ってはいるものの、彼女との距離も開く一方だ。ちょうど仕事に一区切りついたこともあり、肉体の限界を感じていた僕は、ある日、高熱が出たと偽り会社を休んだ。
あれだけ頑張ったのだ。少しくらい自分にご褒美をあげてもいいだろうという気持ちだった。
随分と久しぶりな休日だった所為もあり、どのように時間を使えばいいのかわからない。
とりあえず適当にテレビを観たり、雑誌を読んだり、ネットサーフィンなどをしてみたのだけれど、こんなことをしていていいのか、何かやらないといけないのでは? という謎の焦燥感が押し寄せてきたため、全て断念してしまった。我ながらそうとう病んでいると思う。
考え抜いた末に、僕は彼女の家を訪ねることにした。当然平日なので、彼女には仕事があるはずだったけれど、前にしたメールの返事には定時で帰っていると書いてあったので、余裕をもって七時ぐらいにおじゃますることにした。
驚かせたかったので、アポは取らなかった。
時間はたくさんある。僕は職場で鍛えた情報収集力と行動力を活かし、セレブ御用達の高級ケーキを新宿まで出向いて購入し、ついでに一時間ほどかけて一緒に盛り上がれるDVDを選んだ。正直に言えばプレゼントのひとつくらい買っていきたかったのだが、残念なことに自分の給料ではそんな余裕はない。今日は気持ちだけ受け取ってもらおうと、うきうき気分で彼女の家に出向いた。
こじゃれた洋風のアパートの前に立つと、電気がついているのが見えた。
僕は久しぶりに彼女に会える喜びと、驚いた顔を想像し、初恋のように胸をどきどきさせながら階段を上がった。
合鍵は持っていたけれど、あんまり訪れていなかったこともあり、流石に勝手に開けて入るのは失礼だと思ったので、インターフォンを鳴らし、扉の横に隠れた。不信に思い出てきた彼女を、驚かそうと思ったのだ。
しかし、扉から顔を覗かせたのは、予想外の人物だった。
「――っち、誰だよ?」
うざったそうに独り言を言いながら、明るい茶色の短髪が飛び出る。上半身裸のその男は、壁際に立っていた僕を見つけると、仰天したように表情を固めた。
あれ? 部屋を間違えたかと思ったところで、男の顔に見覚えがあることに気がついた。浅黒い肌に少し垂れがちな目。こいつは――
僕ははっとし、脳天に一撃食らったような衝撃を受けた。
「翔太? ……お前翔太か? 何でここに……」
彼がここに存在している理由を必死に模索していると、部屋の奥のほうから彼女の声が聞こえた。
「どうしたの? 誰? 香奈?」
タオルを一枚巻いただけの格好で、最愛の彼女が顔を覗かせる。
彼女も翔太と同様に、僕の姿を見た瞬間、液体窒素で固められたように動きを停止した。
ああ……。
ああ……。
……ああぁぁぁあああ!
僕は激しく扉を蹴飛ばし、階段を走り降りた。翔太が盛大に壁に激突したが、どうでもよかった。
無意識のうちに叫んでいたのか、道行く人がみな僕を見つめる。
予感はしていた。
どんどんメールの返信が遅くなっていく彼女。
電話にでない日も多かった。
いったいいつからだろう。
いったいいつからあの二人は……。
どれだけ走ったのかはわからない。
どうやって走ったのかもわからない。
気がつけば、僕はすたびれた公園のベンチに座り込んでいた。海の見える、風当たりのいい公園だった。
ザア、ザアと、波の音が聞こえる。
手に落ちた雫を見て初めて、自分が泣いているのだとわかった。
月曜日。
僕は目覚ましの音で目を覚まし、顔を洗い、歯を磨いて、九十円代のパンを一袋かじり、家を出た。
電子マネーを使い改札を通り抜け、ゆらゆらと何も考えずに金属の箱に揺らされ、八つほど先の駅で下車する。
太陽が酷く眩しかったので、いつものように地面とにらめっこしながら、黙々と歩く。たまに道を確認するために前を向くと、同じようにうつむいているサラリーマンが何人も見えた。
僕は無感情に視線を逸らし、ただただ足を進めた。
職場につき、無言で己の席に座る。適当にメールや報告事項に目を通していると、業務時間が来たので、いつものように作業に取り掛かる。
隣のお局が何か騒いでいたけれど、まったく意識の中には入らなかった。ただ、後頭部は痛かった。
深夜十二時になり、上司が帰るように言った。僕は無言で立ち上がり、駅に向かって歩き出した。当然、誰もお互いに挨拶なんかはしない。
家に着きコンビニで買った夕食を胃の中に注ぎ込む。風呂に入り、布団へ飛び込む。すぐに、意識が遠くなった。
火曜日。
僕はいつものように朝の行事を終わらせ、職場へ出向いた。営業はもう辞めていたので、いつもと同じ自分の席に座る。気がつけば昼になっていたので、コンビニのおにぎりを二つほど摂取し、他の社員と同様、休み時間の終わりまで机に伏した。
夜になったので鞄を取り家に帰った。今日は洗濯物を取り込まなければならなかったので、寝る時間が多少遅れた。
水曜日。
朝の行事を終わらせ、仕事に行った。頭痛が酷く吐きそうになったが、仕事が遅れてはことなので、そのまま我慢し、耐え切った。周囲が暗くなり日付が変わったので、帰って寝た。
木曜日。
頭が割れそうに痛かったけれど、我慢して一日を終えた。食欲がなかったので夜は抜いた。これで食費が一食分浮き、少しついてるなと思った。
金曜日。
会社で受けた健康診断の結果が返ってきた。なにやら特別な症状が出ているらしく、妙な研究機関へ出向くように書かれていた。数駅隣の町にあるらしい。
土曜日。
仕事が終わらなかったので、会社にいって、夜に帰って寝た。
日曜日。
昼間で寝て、夕方までパチンコで時間を潰し、夜になったので適当に外食し、明日の朝に備えて早めに寝た。
そして、また月曜日が来た。
たまには気分を変えてゆっくり昼食をとろう。
そう思って食堂に出向くと、小切れないスーツを身にまとった若者の姿がちらほらと見えた。全員かなり若いようで、目がきらきらと輝いている。
ああ、新人か。僕は納得し、適当にメニューを選択して近場の席に座った。ちょうど、数人の新人が座っている場所の後ろだった。
まだお互いのことをあまり知らないからか、楽しそうに自己紹介を行っている彼らを見て、ふと思う。
そういえば自分にもそんな時期があったな。あのころはまだ“こうなる”とは思いもしなかった。
僕は機械のように箸を口に運びつつ、何となくつぶやいた。
「……その笑顔が、いつまでもつかな」
5
ただ食べ物を得るために、好きでもない仕事を淡々とこなす。朝から深夜まで、毎日、毎日。
せっかくの休日も、身体を休めることと買い物などに追われ、ろくなことはできない。
長年付き合った彼女と結婚し、子供を作り、成長を眺めながら穏やかに死を迎える。それが僕の目的だった。生きる意義だった。でも今は――
趣味もない。
恋人もいない。
やりたいこともない。
僕は一体何のために、働いているのだろう。
何のために、日々を過ごしているのだろう。
何のために、“生きて”いるのだろう。
夜、布団に入ったとき、いつも頭に浮かぶのは、そのことだけだ。
このまま四十を過ぎ、五十を過ぎ、そして気がつけば、何もできなくなりひっそりと死を迎える。
人生というのは、一体なんなのだろうか。
みんななぜ同じように、社会の流れに従って生きているのだろう。
センチメンタルになって考えを巡らしてみても、答えはでない。
いや、もしかしたらそれに意味なんてないのかもしれない。
発生し燃えている火に木をくべると、あるのかどうかは知らないが、火の意思に関わらずその木を取り込み、自身の糧にする。生きるなんて、命なんて、そんなものなのだろう。
まどろみに押しつぶされそうになっていると、強い頭痛が襲い掛かってきた。いつも以上に激しい痛みだ。
僕は頭を押さえ身体を丸めたものの、一向に痛みが治まる気配はない。手首に冷たいものを感じ、窓から注ぐ電灯の光を頼りに視線を這わせれば、赤い雫のようなものがついていた。鼻血だ。
痛い。
痛い。
痛い。
痛い……!
頭が割れそうに痛い。
金槌で定期的に殴られているかのように。
何かが圧し掛かっているかのように。
神経がしっちゃかめっちゃかに暴れている。
ああ、何なんだよ、ほんと――
かすむ視界の中、僕はふと彼女の笑顔を思い出し、声を漏らした。
「……ほんと、何なんだよ」
そして、僕は死んだ。
死因は脳内の血管が圧迫に耐え切れず、破裂したとのことだった。
享年三十五歳。
蒸し暑い、夏の日の出来事だった。