第七章 転校生
1
桂場を筆頭に、僕は先週の事件について、色々と質問をされた。
どこで襲われたのか。
どんな奴に襲われたのか。
どう襲われたのか。
正直、思い出したくもない光景だったけれど、言わなければ彼らは納得してくれない。細かい点を濁し、何とか一連の出来事を話し終えたときには、既にホームルームの始まる直前になっていた。
髪を爆発させたままの橋本先生が、内股で教室に入ってくる。僕の周囲に集まっていたクラスメイトたちも、それを見てそれぞれの席へ戻っていった。
日直の生徒の指示でお決まりの挨拶が終了すると、橋本先生は僕に向かって白い歯を見せた。
「あ~、佳谷間くん。災難だったでしね。怪我はないの? 近頃は物騒だから、あまり夜中に出歩かないように。この街は夜になると人通りが少ないんですからね」
「はい。すみません」
「ほんと、気をつけてくださいね。何かあってからでは遅いんですよ」
ダメ押しするように顔を前に押し出す。僕がしゅんとして見せたところ、満足したらようににぱっとした笑みを浮かべた。
元々警察からある程度の事情を聞いていたからか、橋本先生はこの話題をそれ以上掘り下げることはなかった。すぐに表情を改め、いつものように両手を教壇の端に添える。こちらとしてはありがたいことだったが、何だか物足りない気もした。あっさりし過ぎるとし過ぎたで、何となく不満を感じる。
橋本先生はみなの顔を見渡し、ゆっくりと口を開いた。
「え~、時間もあまりないので単刀直入にいいますが、驚かないで聞いて下さいね」
「おいおい、何だなんだあぁ?」
茶化すように桂場が野次を飛ばした。
「静かに。君、いつもうるさいですから。……急なことであれなんですが、本日よりこのクラスの仲間が一人増えます」
瞬間、教室のあちらこちらでざわめきが起こった。
「本来ならば、先週佳谷間くんが来たばかりのため、違うクラスに配属するはずだったんですが、人数の関係でこのクラスへの転校になりました。まだこちらに慣れていないので、みなさん暖かく接して下さい。佳谷間くんも同じ転校生として分かり合えることもあるでしょう。お願いしますね」
何がどうお願いなのか知らないが、「任せた」という表情で、橋本先生は僕に笑いかけた。リアクションに困り僕は微妙な表情を浮かべる。
橋本先生は気にせず扉のほうまで移動すると、そこを開け一人の生徒を中に招き入れた。
「さあ、どうぞ。入ってください」
彼女が姿を見せた途端、再びざわめきが起こる。注意されたばかりだというのに、懲りずに桂場も吼えていた。
教壇の横に立つと、彼女は深々とお辞儀をした。
「は、初めまして。父の仕事の事情で、埼玉県からやってきました。蓮見千花と申します。今日からみなさんといっしょに勉強していきたいと思いますので、これからよろしくお願いします」
そこで軽い拍手が起きる。
彼女が顔を上げると、首下より少し下まで伸ばされた髪が滑らかに肩にかかり滑り落ちた。
均衡のとれた顔の作りに、小ぶりな唇と可愛らしい、アザラシの赤ちゃんのような大きな目。思わずはっとしてしまった。正直、かなり好みのタイプだったのだ。
多くの男子生徒が黄色い声を上げる中、彼女――蓮見さんは中央の一番後ろの席へと移動していった。
隣の席になった男子生徒が挨拶する彼女を見て恥ずかしそうにうつむく。
朝礼が終わり橋本先生が出て行くと、彼女の周囲には当然のように多くの生徒が集まった。僕のときとくらべて男子生徒の数が圧倒的に多いのは、きっと気のせいではないだろう。
誰のどの質問に対しても彼女ははにかんだような笑みを浮かべ、紳士に答えを述べている。みたところ随分と大人っぽい子のようだ。これならば橋本先生のいうように、僕がでしゃばる必要もないだろう。もっとも最初からそんな気はなかったけれども。
人の集まった後ろ側とは違い、教室前、中列が一気にがらんどうになる。
そのせいで、“あの席”が目についてしまった。本来ならば、一緒に授業を受け、一緒にここで過ごすはずだった生徒の――古瀬瑞樹さんの席が。
確かに今の状況では、蓮見さんが二年B組に所属することで各クラスの人数は均等になる。これから行われるであろう各行事をこなしていくには、人数の均一化は重要な要素だ。だが、いくらなんでもこの判断はないのではないだろうか。まだ瑞樹さんの死をしっかりと受け止めることができていない生徒も大勢いるのに、随分あっさりとその事実を過去の出来事にしてしまっている。これではまるで、彼女が最初からこのクラスにいなかったかのようだ。
瑞樹さんの死や“触れない男”の存在には、カナラが関係している可能性がある。そのことを考えると転校生などという話題を素直に面白がるなんて真似、僕にはできなかった。
喜ぶ生徒たちと恥ずかしそうに受け答えをしている蓮見さん。そんな彼らを僕はただ、複雑な思いで見つめた。
2
「あ、穿くん。隣いい?」
体育の時間。他のチームが行っているバスケの試合を眺めているとき、僕は突然、蓮見千花にそう声をかけられた。
男女合同で授業を受けていたわけではないけれど、同じ体育館を二つに割って使用していたため、中央部分の空きスペースは自然とお互いの待機場所となる。実際に行う競技や項目は違うのだけれど、その所為であまり男女別々に授業を行っているという実感は少なかった。
それまで特に会話をしたわけでも知り合いだったわけでもないのに、いやに親しげに蓮見千花が近づいてくる。
何だ? と思ったときには既に遅く、彼女は膝を曲げ、お尻を隣の地面につけていた。
「あの、佳谷間、穿くんだよね?」
「そうだけど……どうしたの?」
「その、ちょっと聞きたいことがあって」
聞きたいこと? なんだろうか。彼女に興味をもたれる要素も、覚えもない。理由が分からず混乱していると、遠慮がちに彼女は首を傾けた。
「穿くんって、中学生時代東京に居たことある?」
「まあ、少し前まで住んでたから。それがどうかしたの?」
「もしかして、進律第一中学じゃなかった?」
「え、何で知ってるの?」
確かにそれは僕の通っていた中学校の名前だ。特に有名校というわけでもないから、関係ない人間がその名を口に出すはずはない。もしかしたら、元同級生だったのだろうか? それともクラスメイトの従兄弟か何か?
不信に思い観察するように彼女を見つめる。
蓮見さんは前髪を耳にかけながら、軽く微笑んだ。
「やっぱり! 私のこと覚えてないかな? ほら、文化祭のときに穿くんがお茶をこぼしちゃって、それで……」
「お茶?」
「中学一年の文化祭。わからない?」
「中一のころ……?」
僕は頭の奥底にある本棚をあさった。ぼろぼろに朽ちかけている記憶という名の本をとり、それをやんわりと開く。
「……ああ、確か急いでて女の子にぶつかって……え、あれ、君?」
「よかった。思い出してくれた?」
確かに中学生のとき文化祭である女の子にぶつかり、服を汚してしまったことはある。それがきっかけで友人となり、何度か一緒に遊んだこともあるのだけれど、彼女は蓮見などという名前ではなかったはず。雰囲気も大分違う。
「同じ、”せん”って響きの名前だから仲良くなったんだよね。憶えてない?」
「いや……憶えてるよ。そうか、あのときはずっと苗字で呼んでたから咄嗟にわからなかった」
「私のお母さん、再婚して、それで名前が変わったの。もう、水瀬じゃないよ」
憶えている。いや、思い出してきた。そうだ。確かに彼女と遊んでいた。中学一年の後半。あの生意気だった子供のころ。彼女は二年に上がった直後に引っ越して行ってしまったが、そうか。この子があの水瀬なのか。
思わぬ再会に僕は少し感動したのだが、同時になぜ自分が彼女のことをすぐに思い出せなかったのかも、理解できた。
水瀬……いや、蓮見さんが転校していったのは、あの事件の直後。僕がカナラと出会い、彼女を守るために“不審者”を殺した、あの直後だ。
当時は人殺しをしてしまったという罪悪感と、自分の身体に起こった変化に対する驚きとショックで学生生活どころではなかった。
気を抜けば誰かを傷つけてしまうかもしれない。殺してしまうかもしれない。
その恐怖心と、あの男の仲間がやってくるかもしれないという不安で眠れない日々を送っていたころだ。事件のショックが強すぎて、その前後のことは今となってはほとんどうろ覚えだった。確かに今思い返せば、彼女は仲のいい友人の一人だった気がする。何となく記憶が蘇がえってくる。
「穿くん、あのころいっつも絵ばかり描いてたよね。今でも続けてるの?」
「一応暇なときには描いてるけど、すごいね。よくそんなことまで憶えてるな」
「だって穿くんの絵って、かなり特徴的だったから。みんなが漫画っぽい絵を描いてる中、一人だけ妙にリアルな絵を描いてて、それが印象に残ってたんだ」
「……母さんが、画家だったからさ。家にそういうものが多くて、僕も小さい頃からよく真似してた。だからその影響かな」
「へぇー、そうだったんだ。だからあんなに上手いんだね。もしかして、お母さんってかなり有名な人なのかな?」
「全然、全然。ただのマイナーな絵描きだよ。特定のファンはいくらかいたけど、大した数じゃないし、ほとんど趣味みたいなものだったと思う」
家に散らばる鉛筆。白いキャンパス。そして、独特な絵の具の匂い。あのころの光景を思い出しながら、僕は言葉を綴った。今となってはもう目にすることのできない光景を――。
「そっか。じゃあ、穿くんの絵の上手さはお母さんの遺伝かな」
「そうかもね。僕の絵なんて、母さんに比べたら全然大したことはないけれど」
「そんなことないよ。ほら、いつだったかな。穿くんが見せてくれた“コンクリートに囲まれた場所から見える空の絵”。あれ、すっごく印象的だったもの。なんでもないただの街中の風景だったけど、妙に抽象的で何かを訴えているような絵だった。私、あれを見てから穿くんの絵がすごく好きになったんだよ」
「コンクリートに囲まれた……空の絵?」
僕は首を傾げた。
今まで描いてきた絵はいくつもあるけれど、そんな特徴的な絵といえば一つしか思い浮かばなかった。僕が初めてカナラと出会ったときに見せた、あのときの絵だ。
僕は授業で提出するものを省けば、あまり人に自分の絵を見せたことはない。唯一そんな真似をしたのはカナラに対してぐらいだろう。中学一年当時の友人たちとは、大抵がカラオケやゲームなどの大衆娯楽で遊ぶことが多かった。ふざけた落書きを作ることはあっても、僕が全力で描いた絵を見せるなんてことは、ほとんど無かったはず。
記憶違いだとは思えない。彼女はなぜその絵のことを知っているのか、疑問に思った。
「あの公園、まだあそこにあるのかな。私たちがいたときでも、もういつ潰されてもおかしくないような廃頽具合だったものね」
「ちょっとまって、公園って? どこの公園のこと?」
「どこって、穿くんがあの絵を描いてた公園だよ? たまにあそこで一緒に時間を潰してたじゃない」
一体この子は何を言っているんだ?
僕は、思わず唾を飲み込んだ。
僕があの公園で遊んでいた相手は、真方カナラだ。
僕が絵を描いていたときに会った相手も、僕が絵を見せた相手も、真方カナラだ。
それなのに、この少女はまるでその出来事を自分が経験してきたかのように説明している。
ふざけているのか? それとも別の誰かと勘違いしているのか?
僕は何だか奇妙なざわめきを背中に感じた。
きゅっ、きゅっ、という靴の音が遠くのほうから響いてくる。そろそろ試合が終わり、僕の出番がきそうだった。
なんと答えればいいのだろう。僕が返答に迷っていると、彼女はごく普通に会話を続けた。
「私……ずっと穿くんに謝ろうと思っていたんだ。あんなことがあって、そのままあんまり話せなくて引越ししちゃったから……。あのとき、私とても動揺してて……」
流れから考えれば、この言葉は、僕が“あの男”を殺してしまった事件のことを言っているのだと思う。カナラを守るために飛び出して、カナラと別れたあの日の事件。
だが、それはありえるはずがない。
蓮見千花はあの場に存在してなかったし、僕がその場にいたことも、生徒たちには広まってはいなかったはずだ。彼女がその事件をまるで当事者のように言っている意味が、僕には理解不可能だった。
試合が終了し、体育教師の真柴が笛を吹く。
もう少し事実を確認したかったが、あのヤクザのような男の機嫌を損ねるわけにはいかない。僕は心の中でため息を吐き、そっと立ち上がった。
「ごめん、蓮見さん。僕の番だ。またあとで話そう」
「……千花でいいよ。蓮見さんって、何か距離を置かれてるみたいでいやかな」
距離も何も、もともとそれくらいの親しさだったではないか。
確かに中学生時代の僅かな期間、僕は君と遊んだこともあるが、その当時も水瀬という苗字で呼んでいたはずだ。僕は女子を下の名で呼んでいるのは、カナラと、転校前に良くつるんでいた阿久津という男勝りなやつだけだ。
やはり、彼女の記憶と僕の記憶には、すれ違いが起きている。
いくぶんこの状況に気味の悪さを感じつつも、今気分を害するのは控えておくべきだと判断し、僕は素直に彼女の要望に答えた。
「――わかった、千花。じゃあ、また後で」
3
その後、何度か千花に事実を確認しようと試みたのだが、転校初日ということもあって、なかなか二人っきりで話す機会を作ることはできなかった。
結局、気がつけば放課後になり、いつのまにか彼女の姿は教室から消えていた。僕は落胆したものの、同時にどこかほっとしてもいた。
彼女の言っていることが本当だとは考えられないけれど、特に嘘をついてるようにも思えない。話を聞くにしても、もう少し色々と探ってからのほうがいいかもしれないと、自分で自分をごまかした。
適当に桂場やスタイリッシュと時間を潰したあとに、屋上のテラスへ行き日比野さんに新しい“触れない男”の情報がないか確認する。多くの時間を浪費した割にはみのる情報もほとんどなく、下らない雑談をした後、僕は帰路についた。
時間はまだ六時半。今の時期ならば、まだ外は明るく、大通りならば人の通りも少しはある。
僕は“触れない男”の襲撃に気を使いながら、自宅を目指した。
もしこのまま僕が警戒し続ければ、あの男は諦めたりしてくれるのだろうか。それとも、ひたすらチャンスが生まれるのを物陰から見計っているのだろうか。いや、通学途中では拉致が不可能だと思い、夜中に家に侵入してくるかもしれない。
どちらにせよ、何かしらの手をこちらから打たなければ、僕自身の立場を追い詰めるだけだ。僕はどうすればいいのかしきりに考えていたが、妙案は浮かばなかった。
片手をポケットに突っ込み、今後のことを考えながら歩いていると、目の前を白と黒の塊が通り過ぎた。遅れて視線を移動させると、サッカーボールのようなものが路地のほうに転がっていく。
どうやら道路の反対側の敷地で遊んでいた子供たちのものようだ。あそこからこちらへ来るには、一度大きく迂回して信号を渡らなければならない。
僕は幼いJリーガーのために、手を貸してあげることにした。
路地に入り少し進んだところで、風に煽られてボールが転がっていく。あまり遠くて移動されても面倒だ。僕は小走りになり、それを追った。
運がいいことにボールは電柱に当たり止る。
すぐにそれを拾い、大通りのほうへ戻ろうときびずを返した。遠くのほうで手を振っている子供たちの姿が見える。礼のつもりなのだろう。僕も軽くサッカーボールを持ち上げ、それに答えたところで、急に誰かに肩を叩かれた。というより、掴まれた。
振り返ろうとしたところで、視界の中の子供たちの表情が凍りついたのがわかった。
僕は咄嗟に走り出そうとしたのだが、抑える力が強く思うように体が動けない。ヤバイと思ったところで背後からクラクションがなり、その力が消えた。
壁に逃げながら振り返るとそこには誰の姿もなかった。通り過ぎる車の運転手が怪訝そうな目を僕とその周囲に向ける。
すぐに、僕は地面を確認した。すると予想通り、そこには薄っすらと“あの足跡”が残っている。
どっと、冷たい汗が流れた。
これっぽっちの、たったこれっぽちの油断も許されないのだ。“触れない男”は、本気で僕をどうにかしようとしている。
このままではいつか隙を突かれ、僕は彼に捕まってしまうだろう。蓮上高校の失踪者が二人になるのも、遠くない未来かもしれない。
改めて実感する。今、僕はとてつもなく危険な状況にいるのだ。
ボールが動いているように感じたので目を向けると、それは僕の手が小刻みに震えていたからだった。
4
真っ暗な狭い部屋の中、“あいつ”がぽつんと立っている。向こうもこちらに気がついたようで、いつものように、空虚な視線を送ってくる。
僕はポケットの中にしまっていた折り畳みナイフを取り出し、迷うことなくそれを“あいつ”に向かって突き刺した。
憎しみを込めて。
怒りを込めて。
悲しみを込めて。
虚しさを込めて。
あいつは何一つ抵抗することなく、それを心臓に受け止め、ただただ自嘲気味な笑みを浮かべる。
お前さえいなければ、お前があんなことをしなければ、僕は、“あの人”は……!
もう、いくら後悔したところでどうしようもないことはわかっている。
でも、憎まずには居られなかった。
そうしなければ己を保てなかったから。
どこかへこの内に篭ったやり場のない苦しみを押し付けなければ、身体の中で膨れ上がった痛みに殺されてしまいそうだったから。
だから、僕は、“あいつ”に向かって何度も何度もナイフを刺し続けた。
胸の苦しみを感じ目が覚める。またあの夢を見てしまったようだ。全身に薄っすらと玉のような汗が浮かんでいた。これは決して熱さだけによるものではないだろう。
朝から気分が最悪だ。僕は大きなため息を吐き、身体を起こした。
このところまともに寝られていない。
数日前に“触れない男”と接触してからは、ずっとその影に怯えた生活を送っている。今のところ何故か家の中には侵入してこないから、無事に学校へ通うことはできているが、それもいつまで持つかはわからない。
そろそろ限界かもしれない。あの夢のことを考え、そう思った。
漫画を片手にトイレに篭っている父のために朝食を作り、お湯を沸かす。最近はコンビにのパンを並べるだけということが多かったが、たまにはまともなものを作ってあげようと思った。とはいっても、時間もあまりないため、結局はお手軽な料理しかできない。
卵に砂糖を混ぜ、それをぶっ掛けた食パンをフライパンで炒めるというだけの、簡単な料理。
父の分と自分の分で計四枚をざっと作ったあと、僕はさっさとそれを口に含み、食事を終わらせた。別に親子中が険悪というわけではなかったが、何分これまであまり会話をしてこなかったため、二人っきりで食事を行うのは気まずい。父も同様に感じているからか、たいていは自然と生活の時間がずれるようになっていた。
もう七時五十分。大通りを通る人がもっとも多い時間帯だ。
僕は自分の分の皿を流しに置き、そっと水につけると、トイレの妖精と化している父に一声かけ、学校へと向かった。
5
「どうしたん? 凄い顔だな」
教室に入るなりに、僕の顔を見たスタイリッシュが驚きの声をあげた。どうやら目の下のくまが凄かったらしい。
僕はまあ、ちょっとゲームをやり過ぎちゃってと話を濁し、自分の席についた。
今から授業の開始まで十数分。少しくらいは寝れるだろう。昼休みというものは友人たちとの親交を深めるための貴重な時間ではあったが、今の僕にそれを有効活用している余裕はなかった。とにかく脳を休めたいと垂れかけたとき、背後から声をかけられた。
「穿くん、おはよう」
少し遠慮がちにはにかんでみせたのは、予想通り、蓮見千花だった。
「ああ、千花さん。おはよう」
僕は寝ぼけた声で応じた。
「千花でいいって」
少しむっとしたように彼女は腰に手を当てる。歯向かう元気もなかった僕は、素直にごめんと謝罪し、だらけきった格好で彼女の言葉を待った。
「どうしたの? 最近元気がなかったけど、今日はかなり疲れてそうだよ」
「いや、何か睡眠障害みたいでね。なかなか寝付けないんだよ」
「そうなの? ……あんまり寝る前にテレビとかモニターの画面を見続けちゃだめだよ。神経を刺激して脳を興奮させるらしいから」
「そうなんだ。確かによく見てたかも。今日から気をつけるよ」
本気で心配してくれているような彼女の様子に少し癒されながら、僕は話を合わせた。
あれから数度千花と話す機会はあったが、“触れない男”のことが気になって絵のことや中学生のころの話を聞くどころではなかった。だから結局、何故彼女がカナラとの思い出を知っていたのかは不明のままだ。本来ならば用心して接するべきだったけれど、“触れない男”のストーキングに疲れ果てていたせいで、実に投げやりな対応をしてしまった。まあ、それには千花が非常に話しやすい性格をしていたからという理由も大きいのだが。
「……穿くんに話があるんだけど、あとでいいかな?」
「話? 何の?」
「う~ん、それも、ここじゃ話しづらいんだよね。……だめ?」
「わかった。じゃあ、昼休みに、ここの屋上のプレハブで」
あそこなら、人は滅多にいない。室内には入れないだろうが、立ち話をするくらいならば問題はないだろう。僕がそういうと、千花は申し訳なさそうに礼を述べた。
「ごめんね。疲れているのに。――じゃあ、また後で」
片手を軽く上げ、自分の席へと戻る。周囲の女子が面白そうにひそひそ話をし、彼女の隣に座っていた男子生徒が羨ましげに視線を飛ばしてきたけれど、僕はかまわずに自ら意識をシャットダウンした。