第六章 蟲食(むしく)い
1
冷たい両目をこちらに見据え、“触れない男”は皐月さんの体を下ろした。
先ほどまでとは打って変わって、僕に意識を集中させている。
どうやら、“カナラ”という言葉が彼の興味を引いたらしい。このチャンスを逃す手はないだろう。僕はそのまま意を決して言葉を投げかけた。
「お前が探してるのは、真方カナラだろ。その子はただの女子高生だ。何の関係も無い」
あてずっぽうな考えだったけれど、そのとき彼の眉がぴくりと動いたのを、僕は見逃さなかった。
じりっ、と“触れない男”の足が動く。
何だか嫌な予感がし、僕は一歩後ろに下がった。
何だ? どうする気なんだ?
もはや、“触れない男”は皐月さんへの興味をなくしたようだった。まったく振り返ることすらなく、僕に狙いを定めている。
再び彼の足元の砂が音を鳴らした瞬間、僕は全速力で逆方向に走り出した。草をかき分け、柵を飛び越え、道路へと躍り出る。
地に足を着けながら駐車場のほうを確認すると同時に、“触れない男”が驚くべき速度でそこから飛び出してきた。
僕は素っ頓狂な悲鳴をあげ、慌てて駆け出す。
直線では勝ち目が無い。彼のあの変な移動法は、カーブでは活かしきれないはず。必死に小道を探し、わざとぐねぐね迂回しながら移動した。
その成果があったのかはわからないが、捕まりそうになるぎりぎりのところで、僕は何とか、彼の手を交わし続けることができた。
息が荒く、肺が辛い。
今は奇跡的に上手くいってるが、このままではすぐに体力がつきる。
都市伝説扱いにもなっていることから、彼はきっと人目につくことを避けているはずだ。だったら――
僕は大通りのほうを目指した。この先に、国道へと続いている大きな道路があったはず。そこまで出れば走行している車が沢山ある。夜な夜な人様の家を覗いているような奴が、まさかそんなところで堂々と僕を襲ったりはしないだろう。
置いてきた緑也と皐月さんのことは心配だったが、彼の興味は完全に僕に移っている。今更狙われるようなことはないはずだ。
あとは、僕が逃げ切れれば全て上手くいく。
多少急な短い坂を息も絶え絶えに上りきったところで、目的の道路が少し先に見えた。もう少し、あそこまで行けば助かる。
膝の上に手を乗せ、ほっと息をつく。
荒い摩擦音のようなものが響いたので、振り返ると、ちょうど“触れない男”が曲がり角から出てきたところだった。
彼は、あの滑るような謎の動きをする直前と直後に、今のような音を鳴らし、例の足跡を作る。僕はその音を頼りに方向転換を行い、彼の直線状から退くという方法をとっていた。
ここまで来て捕まるわけにはいかない。意を決し、最後の力を振り絞って走り出す。
もう曲がり角も、横道もない。完全に、走力のみの勝負だった。
あと十五メートル……十メートル……
目と鼻の先、二~三秒もあれば走りきれる距離。少し多めに設置された街灯の光が、どんどん周囲を満たしていく。
――やった、勝った!
そう思った刹那、僕の頭は、激しく地面に押し付けられていた。
2
まず最初に感じたのは、衝撃による頬の骨と皮膚の痛み。そして、遅れてやってきたのは、強い恐怖の感情だった。
あと十メートル。大通りまでもう目と鼻の先でのことだった。
“触れない男”は屈み込み僕に顔を近づけると、品定めするようにその双眼を向けた。
冷たい息。そして、尋常ではないくらい青白い顔が僕の視界を覆い尽くす。
震えが止まらない。一体何をされるのだろうか。自分の死という結果をイメージし、一気に全身が冷たくなる。
どうすることもできずじっとしていると、“触れない男”の口が、何かの形を作った。
カ・ナ・ラ・は?
そう言っているように見える。
答えなければ、殺されるかもしれない。でも、僕には答えようがない。だって、そんなの知らないのだから。適当に口から出たごまかせなのだから。
黙っていると、“触れない男”は指を僕の首に当てた。何をするのかと思ったが、すぐにその意味を理解した。
熱い。
尋常じゃないくらい、触れられた箇所が熱いのだ。
突然目の前で燃えたあの男。
ゴミのように灰になった草木。
それと同じことが今、僕の首にも起きている。
情けないと分かっていても、勝手に悲鳴が漏れる。反射的に涙も流れた。
“触れない男”は指をなぞるように動かしつつ、僕の目を覗き込み続ける。たぶん、その気になれば僕の全身を焼き尽くすのも、簡単なはずだ。そうしないのは、答えを待っているからなのだろう。
痛い。
熱い。
苦しい。
何を考えようとしても負の感情に打ち消される。
ただただ、怖かった。
この程度は吐かない。そう、とらえられてしまったようだ。“触れない男”は首から指を離し、今度は僕の眼球に向けてゆっくりと伸ばし始めた。
徐々に近づいてくる青白い指。細い、冷たそうな、小さな棒。信じられないけれど、それが触れた箇所は何故か発火する。僕はプライドをかなぐり捨ててそこから遠ざかろうともがいた。けれど、“触れない男”は絶対に頭の拘束を解こうとはしない。
迫る、指。
ゆび。
ユビ。
このままでは僕は確実に失明してしまう。
腕は自由なのだ。頭を押さえつけられているからといって、全てが動かないわけではない。地面に手を押し付け、身体を起こそうとしたがびくともしない。見かけによらず、彼の力はそうとう強かった。
瞳と数センチの距離まで指が迫る。
中途半端に伸びた爪と、紫色の血管がよく見えた。
あがいてもどうにもならない。
真実を述べても信じないだろうし、許しをこいても無駄だろう。
もはや僕は完全に、視力を失うしか道がなかった。
カナラを救うためにあの男を殺してから、僕は人殺しという恐怖に耐えなければならなくなってしまった。
誰と話していても、誰と笑っていても、誰と遊んでいても、常に頭の隅にその事実が付きまとい、離れない。
この手で、他人の心臓を穿った記憶。
あの肉の感触。
吹き出る血の熱さ。
鉄のような不快な臭い。
あの男は、一瞬で死んでしまった。
何もできず、何もせず。
やられるがままに僕の拳を受けて息絶えた。
瞳だけを動かし、彼の姿を見る。
“触れない男”。どれほど殴っても、どれほど触れようとしても、全て逸れてしまう、謎の人物。
普通の人間なら、恐らくあのときの僕の拳を受ければ、即死する。だが、”触れることのできない”この男ならどうだろうか――
突然、驚いたように”触れない男”は僕から腕を離した。
先ほどまでの冷たい目つきを緩め、信じられないものを見るように自分の腕を見つめている。一筋の血が、そこから滴っていた。
僕はその隙を突き、彼の下からゴキブリのような素早さで抜け出した。
振り返ることもせず、一目散に明かりを目指す。
”触れない男”は僅かに遅れたものの、すぐに焦ったように僕へ腕を伸ばし、髪を掴んだ。ずんっという痛みが頭皮に走る。
僕は歯を噛み締めながら振り返り、彼のわき腹へ手を当てた。
3
あのときカナラが残した“異常”は、彼女がいなくなってからも消えることはなかった。
最初はわけがわからなかった。
何故そうなるのかも。
一体それが何なのかも。
分かっていることは、僕の中で、“感覚”が増えたということだけだった。腕を動かす。足を前に進める。指を折り曲げる。声を出す。ものを見る。
それとよく似た感覚が、ひとつ、あの日から僕に付け足されていたのだ。
それを使うと物が壊れた。
木でも、コンクリートでも、ゴムでも、金属でも。
手を触れその感覚を動かすだけで、僕は何でも“壊す”ことができた。何でも“殺す”ことができた。
腕のように、自由に“異常”を起こせる感覚。それは、もし人殺しという罪を犯していなければ、中学生だった僕にとってたいそう興味深いものだったに違いない。
だが、あの男を殺したという事実がある以上、実際それは恐怖の対象でしかなかった。感覚に類する分、その“異常”は使用が安易すぎたのだ。
食事をするとき。
運動をするとき。
友達とふざけ合うとき。
僕は常にその感覚を意識し続けなければならなかった。
少しでも気を緩めれば、誰かを傷つけてしまう。下手をすればあの男のように殺してしまうかもしれなかったから。
わけのわからないものと付き合い続けるのは危険すぎるという理由で、僕はその“異常”について、独自の調査を行った。
どこまで壊せるのか。
何故壊れるのか。
どう壊れるのか。
ものを壊し、断面を見て、いろいろと研究をしてみた。
結果、わかったことは、破壊されたすべてのものが蟲食いにでもあったかのように、ぼろぼろになっていたことだけだった。それも、目に見える大きさではない。顕微鏡を使ってやっと認識できるような小さな穿孔。中に無数の極小の孔が生じることで、亀裂が生まれ破壊される。それは、そういう現象だった。
何と捉えればいいのだろう。
何と表現すればいいのだろう。
悩んだ末、僕はその忌むべき異常を、嫌悪を込めてこう呼ぶことにした。
“蟲食い”と――。
4
血が飛び出る。
真っ赤な流動状の液体がバラのように空間に広がる。
僕の手が触れた瞬間、“触れない男”のわき腹は、突然勝手に破れ出したかのように、火花のような血液を飛ばした。
どれだけ殴っても、石を投げても全て逸らされていたはずなのに、今やその服と肌は真っ赤に染まり、酷くグロテスクな光景を生み出している。
薄っすらと周囲の空気に波のような跡をなびかせている手を下ろし、僕は今度こそ大通りに向かって駆け出した。
急所は外していたし、それほど深くまで刺したわけではないが、得体の知れない攻撃を受けたことと、痛みで気力が削がれたようだ。一応追ってきてはいるものの、“触れない男”の足取りは重かった。
何とか振り切り、道路に出る。するとこれまでの暗がりが嘘のように消え去り、目の前を無数の光が通り抜けていった。
ガソリンの臭いとエンジン音が、鼻と耳へ押し寄せる。急に世界に色が戻ったような気がした。
いくら何でもここで襲ってくることはないだろう。
僕は呼吸することも忘れ、域も絶え絶えに背後を振り返った。急に明るい場所に出た所為で、視界がおぼつかない。
恐怖と戦いながらも闇に埋もれた来た道を凝視する。今にも“触れない男”が飛び出してくるのではないかと、どきまきした。
大粒の汗が頬を伝り、一部が口に入る。塩の味がしてしょっぱかった。
やはり既に姿を消したようだ。先ほど彼に襲われた場所には、誰の姿もない。僕はとてつもなく大きな息を吐きだした。
一体、あの男は何だったのだろうか。
何故あんな移動ができて、何故物を燃やせるのだろうか。
正体は不明なままだけれど、ひとつだけ確かなことがあった。
彼は、僕の“蟲食い”で傷を受けた。受けたということは、生きている人間だということ。都市伝説などではない、実在する存在。それだけは、確かな事実だった。
あの傷で皐月さんを抱えて移動することは、不可能だろう。無理に持ち上げて移動しようとすれば、相当な痛みと苦痛が強いられるはずだ。流石に、そんな真似はできまい。
せっかく人の多い場所にでたのに、今戻っては意味がない。どうしようか考えた結果、僕はごそごそと血のついた手でポケットから端末を取り出すことにした。
横に備え付けられたスイッチを押すとすぐに、先ほど操作したときのまま止まっていた通話アイコンが浮き上がる。
いくら“触れない男”でも、流石にパトカー相手に突っ込んでくるような真似はしないだろう。
僕はそれを静かにクリックした。
5
その日の出来事は、結局、不審者による暴行ということで片がついた。
“触れない男”などという存在を警察が信じるわけもないし、かといって誰かに襲われた事実をないがしろにするわけにもいかない。考えた末に、一番事態を穏便にまとめることのできる理由がそれだった。
僕たちは長い事情聴衆とその他の手続きによって拘束され、結局、学校へ顔を出せたのは、次の週になってしまった。
緑也は能天気に「これはいい話題になるな」と喜んでいたが、皐月さんのほうはかなりショックを受けていたらしく、もう二、三日は家で療養するとのことだった。
まあ、いきなりあんな怪しい男に気絶させられどこかへ運ばれかけたのだ。普通の女の子なら、トラウマになってもおかしくはないと思う。あまり気が強くなさそうな皐月さんならなお更のこと。
僕は人ごとのように同情しながらも、内心ではいつ彼が背後から現れて僕を殺そうとするのかと、びくびくしていた。
あのときのやりとりで、間違いなく顔は覚えられた。
“触れない男”がどこまで生徒の素性を洗ったのかはわからないが、次に彼が狙う対象、それは確実に僕になるはずだ。
人通りの多いところを歩けば襲われる可能性は低いけれど、それも限界がある。
何でこんなことになったのだろうか。ただ母の治療のために引っ越してきただけなのに。大人しく静かに生活を送れればそれでよかったのに。
自分の席につき、鞄を横に置く。既に情報は伝わっていたようで、何人かの生徒がこちらを見つめていた。
まったく、転校初日とは違い、今日はずっと注目の的になりそうだ。
目立つことがそれほど好きじゃなかった僕は、今の現状を顧みて、小さく苦笑いを浮かべた。