第四十章 虚偽不還(きょぎふげん)
1
左右から伸びる“蟲喰いの霧”を目にした一業は、自身の体を幻影に塗り替え、それを回避しようとした。
一業を突き抜け後ろの窓を破壊しひびだらけに壊す“蟲喰い”。さながらそれは害蟲の大群だった。獲物を見つけては襲い掛かる凶悪な怪物。一度でも触れれば絶対に逃げることはできない全てを食い破る悪魔。
一業は霧の中から前に飛び出すと、すぐに右手を上げ何かの動作に入ったが、僕は彼よりも早く指を動かした。
――まだ霧はそこにある。
これまでであれば一業の次の動きに備えて後ろに下がるか、防御態勢を取らざる負えなかった。だが遠距離、それも夥しい量の“蟲喰い”を展開できるようになった今なら話は別だ。
一業の現象とは違い、僕の霧は常時そこに生じている。つまり彼がいくら存在を塗り替え攻撃を無効化したところで、移動しない限りそこに攻撃が残り続けるのだ。そして移動したところで当然、霧は動きを察知し、追尾してくる。
霧の刃が腕をかすり、一業の真っ白な肌から数的の血が飛んだ。舌打ちし再び体を変化させる一業。だがどれだけ逃げたところで、どこに逃げたところで、霧は離れない。霧は消えない。いつまでもいつまでも彼にまとわり続ける。“触れない男”や五業であれば、間違いなくこの時点で詰んでいただろう。
一業が逃げた先に移動し、霧をまとった拳をその胸に打ち込む。
追ってくる霧を無効化するので精一杯だった一業は、もろにその攻撃を受けたように見えた。しかし、内側から焼き消えるように身体の輪郭が薄れ、背後に地面を蹴る音が響く。
――光の幻影……!
僕はすぐに霧を移動させ背を守った。一業は霧の隙間を突こうと先ほどと同様に毒に変化させた空気を押し出したようだったが、その全てが“蟲喰いの霧”によってかき消される。
総量が違い過ぎるのだ。短時間の間しか展開することのできない一業の毒霧では、どうあがいても僕の霧を上まれない。
渦巻きのように纏わりつく霧を拳から伸ばすと、一業は実に素早く後方へと退去する。
すでに立場は逆転していた。もはや逃げているのは一業で、それを追い詰めているのは僕だ。どれだけの時間この霧を維持できるのかはわからないけれど、霧を出している間なら十分に一業と戦える。彼と向き合える。
それは間違いようのない事実。確固たる現実。
喜んでもいい、気分を高揚させてもいい状況のはずなのに、――僕はとてもじゃないが笑みを浮かべる気分になどなれなかった。
霧の包囲から辛うじて抜け出た一業は、床に足を着くと、ただじっと僕を観察した。今までのように無感情な視線ではなく、攻略法を探すような、僕を敵と認めた目。
あれほどの現象を操る少年が、あれほど裏で暗躍していた彼が、本気で僕を敵と見なしてる。
それは、たとえ追い詰めているのがこちらだとしても、警戒心を抱くのに十分すぎる状況だった。
一業は自身の瞳のような真っ赤な腕の血を眺めると、それを丁寧に指でぬぐい、手の中で持て遊んだ。己の血が赤いことが、己の身体から血が流れていることが、とても面白いことだとでも言うように。
「……嫌な霧だな」
誰に言うともなく、そう呟く。
僕は彼が千花を攻撃することをもっとも警戒した。いくら超次場をコントロールするための道具だとはいえ、千花はもともと予備として連れ込まれただけの人間だ。カナラが生きている以上、最悪彼はあっさりと彼女を殺すかもしれない。例え一業に勝つことが出来たとしても、それは僕の負けと何も変わらない。僕は霧の一部を常に千花の近くに配置し、いつでも反応できる状態を保っていた。
一業はその霧をちらっと一瞥し、何かを考えるように自分の下唇を軽く舐めた。そして――何の迷いもなく、真っすぐ前に跳んだ。
僕はすぐに霧を飛ばしたのだが、自身の姿を同じような霧に変換し一業は姿をくらませる。
――いくら隠れたところで……。
この展望台の中であればどこだろうと僕の霧は届く。姿を見せた瞬間、そこを叩けばいいだけの話でしかない。
右、左、後ろ。あらゆる方向からの攻撃に備えていたが、一業が出現したのは、あろうことか僕の目の前だった。
たちこめる“蟲喰いの霧”を上半身を霧にすることでかわし、優しく地面に手を着く。
一体何をするつもりだと思った途端、足元に違和感を感じた。地面の感覚がない。――いや、地面が“溶岩”になっている。
「なっ――!?」
猛烈な熱気と足の痛み。溶ける靴底。僕は瞬時に後ろへ飛びのいたのだが、それが大きな間違いだった。
一業の白い手が伸び、空間を握りしめる。
――何かヤバい……!
霧を集め前に壁を作り出す。
次の瞬間、僕の居る場所全体の空間がノックバックした。息を呑む間もなく服の一部が弾け、肌が裂けていく。
“蟲喰いの霧”で覆っているはずの僕を、どんな攻撃だろうと通さないはずの壁を、貫通してくる攻撃。
瞬く間に太もも、手首、額、首元と、針の山でも投げられているように急速に肌が裂けていく。
――今の出血量で直撃を受ければ……――!
身体を削られつつも霧を飛ばす。一業はそれを生身で回避すると、回り込むように僕の左側へ移動した。
再びのノックバック。てっきり左側からくると思っていた攻撃は、何故か継続して右からやってくる。気になりそちらに注意を向けると、明るく輝く金色の月が目に入った。
――……月? そうか、――光か。
僕は輝く夜空の女王を見て、攻撃の内容を理解した。
“蟲喰い”だって万能ではない。霧は触れたものがどんな硬度であろうとどんな材質であろうと破壊できるけれど、触れないもの、その点同士の隙間をすり抜けていくものは消せない。そこを利用し、一業は差し込む月明かりを刃に変換しているのだ。
一瞬視界が霞みよろけそうになりつつも、展望台の中央、柱の影へ移動し闇の中に身を移す。それで体を切り刻もうとしていた無数の刃は途切れ、攻撃は止まった。
一業は窓際に下がると、手ごたえを感じたように手首をスナッピングさせた。
……まずい。この展望台は側面の大部分を窓に囲まれている。中央にさえ居れば大きなダメージは受けないけれど、彼が千花を襲えば外に出ていくしかない。そうなればあいつの思うつぼだ。いくら一部を置いているとはいえ、霧の大部分は常に僕を囲うように移動している。離れれば離れた分だけ対処が遅くなってしまう。
僕が出てくるところを狙っているのか、ゆっくりと千花に近づいてく一業。彼女は疲労のせいでまだ上手く動けないようで、怯えた目で彼を見上げている。
くそっ……!
息を大きく吸い込み止めると、僕は最短距離で一業に向かって走った。
体の周りに追従していた大量の霧を打ち出し、彼の進行を邪魔する。これほど大量の霧で猛襲すれば、一業は防戦一方になり光を変換する余裕なんてなくなる。その隙に千花を移動させることが目的だったのだが、
全身を包むノックバック。
急に背後から気配を感じる。
――しまった、前にいるのは幻影――
一業は最初からこれを目的にしていたのだ。
“蟲喰いの霧”の大半を飛ばした今、生身の部分を攻撃されればたまったものではない。既に出血死目前の状態である。いくら弱い攻撃だろうと次に攻撃を受ければ、負けるのは確実だった。
ここまで来て……!
無言の叫び声をあげつつ振り返り、僅かに残った霧を集約させる。極度に密集させられた霧は、“二重蟲喰い”となって光を変換しようとしていた一業の現象そのものを砕いた。それを見た一業はすぐに後方へと足を切って返す。
千花の前に立った僕は、口を大きく開け息を吸い込んだ。
まったくたまったものではない。まともに戦えるようになったからこそ、あの少年の恐ろしさが身に染みてわかる。その現象の特異性よりも、その力の強さよりも、なによりその冷酷なまでの精神性が怖い。例え彼の現象が摩擦の操作や液体への同調だったとしても、僕はきっと同じように苦戦を強いられていたことだろう。
荒く呼吸を繰り返していると、微かに外の暗がりが薄れてきた。
時計を見る余裕なんてないが、きっともうすぐ朝の四時ごろだろう。四業と真理、そして一業。ずっと戦い続けてきたため、すでに体力的にも肉体の損傷具合も限界すれすれだ。僕は今すぐにでも途切れてしまいそうな意識を必死に引き締め、前を見続けた。少しでも視線をそらせば、その瞬間に殺されることが目に見えていた。
これ以上外の明かりが増えれば、一業の攻撃の威力はさらに増してしまう。例え中央へ逃げたとしても、もう差し込む光から逃れることは不可能になる。
勝てると思った。倒せると思ったのに、何てとんでもない男だ。敵ながら尊敬の念すら覚える。僕がそんなことを思っていると、背後から千花の静かな声が届いた。
「穿くん……私が支えるから」
汗だくでふらつく僕を、リンクから伝わる千花の意識が包み込む。それによって微かに視界のぶれがなくなり頭痛が軽減した。触れているはずはないのに、近くにはいないのに、まるで背中に手を添えられているような気分だった。
僕がふらつく頭で必死に戦意を保たせていると、目の前の空間が大きく歪んだ。
すぐに霧を全面に展開し、防御の姿勢をとったのだが、
「ぼくは馬鹿だな。なにも、わざわざ刃に変換する必要なんてなかったのに」
自嘲するような一業の声。
「毒にすれば、もう終わりだ」
嫌な予感が走る。僕は瞬時に霧を戻し、自分と千花の体を覆った。拡散していた霧を極限まで密集させ光すら食い漁らせる。僕と千花のいる場所だけ世界が闇に包まれた。
何かが霧に当たる感触。一業が光を変換して造った毒が衝突しているのだろう。光すらも消している“蟲喰い”のせいで霧の外がどうなっているのかまったく見ることができない。
一業を相手に視界を塞ぐことは完全な愚策だった。これでは霧を解除したとき、あいつがどこにいるのか、どんな攻撃を仕掛けてくるのかがわからなくなってしまう。
――駄目だ。もう密集状態を維持できない。
拳を全力で握りしめ続けることが不可能であるように、“蟲喰いの霧”を固めていられる時間にも限界がある。僕は手のしびれを感じ、霧の壁を解除せざる負えなくなった。
光が差し込み、闇が張れる。割れたガラスと日々だらけの部屋が目に入るも、一業の姿は見当たらない。
どこに――!?
「穿くん、後ろ!」
存在を認識した千花が声を上げる。慌てて振り返ったが、すでに遅かった。
歪む空間。
変質する光。
霧を集約しようにも解除したばかりの今は無理だ。僕たちは真っ向からそれを受ける格好になってしまった。
しまっ――!?
殺される。
思わず目をつぶりかけたそのとき、――一業の動きが止まった。
とっさに千花を引っ張り遠ざかる。広がっていた霧を戻し視線を向けると、何故か彼の口元から、僅かに赤いものが流れ出ていた。
2
僕は思わず目を疑った。状況がよく理解できなかった。
どういうわけか、一業が吐血している。苦しそうに胸を抑えながら。
ふらつき下を向く一業。唖然としていた僕だったけれど、すぐに我に返り、一業に向かって“蟲喰いの霧”を放った。
しかしそれは彼の体を素通りし、背後の床や壁をひびまみれにするだけだった。
一業は口元に付いた血を手で拭い、煩わしそうにこちらを振り返った。
……どうしたんだ?
彼の様子の異変に、疑問を持つ。
これまで僕の“蟲喰い”は致命傷など与えてはいない。全て無効化されていた。なのに、何故彼は血を吐いているのだろうか。
実は攻撃が当たっていた? いやまさか、そんな素振りはなかった。それにあの吐血の仕方、まるで……。
――やっと、ぼくの願いが叶う。
先ほどの一業の表情が脳裏に浮かぶ。安堵の籠ったほっとしたような声。長い間苦しんできたことにようやく終止符を打てるようなそんな表情。
――僕は、この身体を捨てるつもりだった。
明社町の住民の存在を全て塗り替える。それはあまりに異常で馬鹿げた企みだ。普通の人間ならば全く持って理解できない事柄だ。――……けれど、もしそうするしかない状態だったのだとしたら。そうしなければ未来がないのだとしたら。
一業は普通の人間ではない。人工的に細胞を組み替えて生まれた人造の人間だ。ただ体の一部を差し替えられた実験体たちですら定期的な診断と処理が必要だったのに、そんな不自然な生まれかたをした人間がまともに生きていられるわけがない。“存在を塗り替える”などという強烈な現象。いや、願い。
考えれば、最初から答えは明白だった。
「そうか。一業、君は……時間が……」
言いかけたところで、一業が口を挟んだ。
「――……当然の話だ。ぼくは、ただ超能力を発生させるためだけに作られた。それだけの生き物。はなから長期的な機能も、存命も望まれてはいない。真壁教授たちにとっては実験体の試作。プロトタイプみたいなものだった。最初からそう設計されている以上、近いうちに限界がくることはわかり切っていた」
「じゃあ君はそのために他人の体を……」
「ああ。一年ほど前、ぼくの寿命が近づいていると悟った教授は、カナラの力の把握とぼくの有効利用をかねて彼女の捕獲任務を与えた。ぼくはそれが運命だと。そこで死ぬと思っていた。だが偶発的にカナラと繋がり感情という概念を学んだことで、ぼくはそのことに強い恐怖を覚えたんだ。ぼくは、死ぬことが怖くなった」
自分の血の付いた手を見下ろす一業。相変わらず固い表情ではあったが、かすかに愁いのような感情が見える。
「命なんてただの現象だ。積み重なった化学反応の結果が命と定義されているに過ぎない。誰だろうといずれ死に、誰だろうといずれ消える。そこに意味はなく、理由も価値も存在しない。だからこそ人は、満足できる人生を、満足できる命を自ら定め、そう認識できる自由を持っていた。誰に定められたわけでもない、自分自身で決められる人生の価値。それは、とてつもなく幸せな行為だ。
だがぼくにはその機会が限られていた。それを定める時間がなかった。カナラに負けようと、運よく勝利し帰ろうと、真壁教授はぼくを解体し、新たな実験体の材料にする気だった。
それでは何も見つけられない。何の価値も見いだせない。
だから感情という指針を得て、ぼくは彼から逃げることを考えた。逃げて、自分の価値を見つけたかった」
抑揚のない声。変わらない表情。だがその言葉の長さが、ここで僕にそれを伝えるという行為が、彼の心境を大きく表している。
僕は黙って耳を傾け続けた。
「この身体は限界だ。もってあと三か月がいいところだろう。だが新たな身体さえ手に入れば、人口体である“一業”という枠組みから抜け出すことさえできれば、ぼくはまだ生きることができる。ぼくとして存在することができる。……ぼくは超能力の発展や人間の昇華なんて無意味な思想に興味はない。そんな嘘びた救いの供物になるつもりなんてない。ぼくは、ただ本物の人生が欲しかった」
話を聞いていた千花が僕の背後から声を出した。
「だからって、こんな……町のみんなを巻き込むような方法を選ぶ必要なんてなかったのに……」
「他にどんな道がある? すぐに教授へ情報が伝わる病院に駆け込むことか? それとも修玄のような世捨て人に世話をしてもらうことか? 遺伝子に破綻をきたしている肉体は、例えどんな名医だろうと直すことはできない。どちらにせよ、そんな行動に意味はないだろう。……先ほども言ったが、所詮生きることは戦いだ。自分の体を構築する材料と場所の奪い合いに過ぎない。だからぼくは、この明社町という代価を経て新たな人生を手に入れる。度合いはあれ、誰もがやっているのと同様にな。それが“生きる”ということだろう」
他者の苦しみを理解したうえでの犠牲。自分は他人とは違うのだという明確な認識。
その目を見て、僕はどうあがいても彼の意見を変えることが不可能だと悟った。
もし世界中が飢饉になって、食料に限りがあるのだとしたら、“どんないい人”だって、生きるためにそれを求め奪い合う。子供のためだとか、家族のためだとか言い訳をして。
彼はただ、そう判断したのだ。自分の命が他者よりも大切であると。それを犠牲にしたうえでも生きていたいと。
“それは悪いことだ”なんて綺麗ごとを言うことのは簡単だ。だって僕はあくまで他人なんだから。彼がどれだけ追い詰められているのかも、どれだけの努力をしたのかも知らないし、どれほどそのことに恐怖を感じているのかもわからない。
どれだけ知ったつもりになっても、それだけ想像しても本当の意味での他者の感情なんて、理解することはできないのだ。
だから、これは彼の言う通りエゴなのだろう。僕は千花を奪われたくはないし、この町のみんなが一業になるのもごめんだ。その思いがある以上、結局、最後は争うしかない。見えない硬質な虚偽の壁が、僕たちの対立を生み出している。
「一業。僕は……君の好きにさせるわけにはいかない」
静かに口から滑り出た言葉。
それを聞いた一業はどこか満足そうに、小さな笑みを浮かべた。
3
美麗な赤い線が窓の外、遠くのほうに見え始めている。真夏の朝は早いから、もう間もなく日の出だろう。僕は千花の寄り添う意識に支えられ、何とか体の感覚を掴み続けた。
普通に攻撃するだけでは、一業を傷つけることはできない。彼が攻撃に現象を使用しているときであれば、霧も届くだろうけれど、向こうも当然それはわかっている。必ず警戒して、対策を練っているはずだ。
腹部と肩から流れた血が流れ落ち、床を濡らす。
四業にやられた腕の痛みが激しくその存在を主張し、僕の神経を虐めてくる。
“蟲喰い”の霧も崩壊が始まっていた。出血量からみてそろそろ身体も限界近い。
僕は鈍っている頭を必死に回転させ、策を探した。今までは何とか相手の隙を、弱点を見つけることができた。何とか打ち勝つことができた。だが一業は、いくら考えてもその隙を見出すことができない。
やっぱり、相打ち覚悟であいつの攻撃と同時に飛び込むか。十中八苦予想されているだろうけれど、運が良ければ当たるかもしれない。こっちの霧は攻撃範囲が非常に大きいんだ。下手に無駄を討って体力と霧を消費するぐらいだったら……――
「穿くん」
僕の名を呼ぶ千花の声。
一業を警戒しつつ、僕は横目で彼女を振り返った。
千花は酷くやつれていたけれど、相変わらず綺麗な表情をしていた。まっすぐに僕を見つめ、囁くように口を近づける。
「私が幻覚で隙を作るよ」
「……無理だ。君の幻覚は触れるか視界を合わせないとかけられない。一業は当然それを予想しているだろうし、幻覚を強化しようにもその分に認識の容量を割けば僕の霧が展開できなくなる」
原理から考えれば、超次場が影響を受けるのは常に一つの認識だけだ。僕と千花の現象を同時に強化しつつ、それを維持することは実現できるはずもない。
だが千花はその解答を予想していたかのように、すぐに唇を動かした。
「穿くんへの認識の偏りを消さなきゃいいんだよね。大丈夫。……“触れない男”のときみたいにきっと上手くできる」
「“触れない男”のとき?」
彼女が“触れない男”を目にしたのは、誘拐されかけた時だけのはずだ。あの時は確か、僕が囮となって彼女がスタンガンで留めを刺した。
「あの時だって、絶望的な状況だったけど、二人だから勝てた。二人だから乗り越えることができた。だから、私を信じて身を任せてくれないかな」
何か考えがあるのだろうか。悔しそうな、それでいて力の籠った優しい目。
そうだ。彼女だって、ただ守られるだけの女子じゃない。これまでずっと教授たちから逃げてきた、戦ってきた人間なんだ。
僕一人の思考では一業に読まれてしまう。だがそこに千花の意識が介在するのなら、一業のプロファイリングにずれが生じるかもしれない。
思えばこの事件は最初から二人で戦ってきたのだ。僕にとって千花が、千花にとっては僕が、唯一の理解者であり、救いだった。その彼女が任せろというのだ。断る理由なんて、何もない。
僕は千花を見つめると、小さく頷いた。
“蟲喰いの霧”を暴れさせたせいで、展望台の中はぐちゃぐちゃだ。
窓ガラスはどこも割れ地面にその残骸をさらし、壁や床はあちらこちらがひび割れ大地震の直後のような姿を見せている。
その中を、赤い瞳の少年が浮くように近づいてきた。
一業は非常に頭の回転が速い男だ。安易な策を練っても、奇を狙った攻撃をしても、すぐに対応し反撃される。だから彼を倒すには、“存在を塗り替え”ようとどうしようと、絶対に避けられない状況を作り出す必要がある。そしてその状況にもっともふさわしいのは、僕が死ぬ瞬間以外にはありえない。
一業が変換した光が僕を殺すためには、ある程度の近さが必要になる。距離が離れれば“塗り替え”の効果が薄れるし、攻撃の出所を僕が察知しやすくなるからだ。
それを踏まえたうえで、僕は真っ向から一業に向かって踏み出した。
怪訝な表情を浮かべたものの、一業は構わず進んでくる。僕たちはお互いに距離を潰し、その拳の届く距離を目指した。
もはや交わす言葉はない。あるのはただ、己の願望、意思を乗せた現象だけ。
自分が生きたい。死にたくないという純粋な願いの押し付け合い。
もう少しで一業の間合いに入ると言ったところで、僕は周囲に滞在していた霧を打ち込んだ。それは上下左右から幾重もの塊となって一業の体を食いつぶそうと猛威を振るう。
一業は体を陽炎のような何かに変換し、それを避けては実体化し、避けては実体化し続ける。僕は何とかタイミングを合わせ、彼の本体に霧を命中させようと足掻いたのだが、攻撃の道筋を全て読まれているのか、一業は難なく間合いを潰し、僕の眼前まで一気に移動した。
空間が歪み光が変質する。確実に向こうの攻撃が当たる距離だ。
僕は反射的に目の前の霧を集約し、“二重蟲喰い”を展開した。
霧によって作られた“無の塊”に飲み込まれ、消えていく一業の攻撃。すぐに残りの霧で彼の実態を攻撃したのだが、あろうことか一業は空間を塗り替え距離を変化させ、一瞬にして僕の真横へ移動した。
この位置ではもはや霧は間に合わない。霧でしか一業の攻撃を止めることはできない以上、彼が変質させた光が僕の体を貫くことは確実だ。
――だから僕は敢えてそこで腕を伸ばした。
「なに?」
一業の口から声が漏れる。空間を歪ませ今にも留めを刺そうとしていた一業の腕を、僕は強く握りしめた。
霧はまだ僕のもとまで戻り切ってはいない。一業は僕の手をただの悪あがきと判断したらしく、構わずに現象を行使しようとする。それが過ちだった。
――超能力だけが全てじゃないんだ……!
一業の腕を引っ張り、自分の掌をまわすように一業の腕を後方へ流す。そのまま逆の肘で彼の腹部を強打した。
三年前。初代四業の襲撃に遭い、僕はカナラを守れなかったことを後悔した。彼を殺してしまったことに絶望した。もっと自分が強ければ、もっと争う方法を知っていればと、嘆いた。だから護身術を習い、その時に備えていたのだ。
口から唾液を吐き出し、僅かに苦悶の表情を浮かべる一業。その間に霧が追いつき、僕の腕に纏わりつく。
僕はそのまま彼の胸を殴り飛ばそうとしたのだが、一業は拳が触れそうなところだけを陽炎に変化させ、攻撃を回避した。
一部分だけ!? ――まずい防御が――!
視線が交差した瞬間、変質した“猛毒の光”がこれでもかと生身の僕に降り注ぐ。一瞬にして肌が変色し、血管が浮き出て、その眼球が真っ赤に染まった。ぶちぶちぶちぶちと血管が切れ、弾け飛ぶ。
とても助からない。確実な死の宣告。
崩れ落ちていく僕の遺体を、僕は目の前で見送った。
”今だよ、穿くん”
頭の中で千花の声が響く。
一業は勝利を確信したように力を抜こうとしたが、何かを感じ取ったように目を見開いた。
僕の死を見ても千花に何の反応もなかったことで察したのだろう。すぐに自身の脳を塗り替え下精神干渉の効果を白紙に戻す。そして戻した直後、消えた幻影と僕の姿を見て自分の失態に気が付いたようだった。
千花の幻覚はまだ無力になったわけじゃない。脳を塗り替えて幻覚を無効化するということは、その間現象を利用しているということだ。だから千花の幻覚を打ち消す間は、こちらの攻撃を回避することが不可能になる。
一業――……!
刹那、僕は背中に隠していた霧を右拳にまとわせ、一業の腹部を殴りつけた。一業は体をくの字に折り曲げ、ぎりぎりのところで直撃を避けたものの、霧によって削られた皮膚と肉からは粘液質な液体が漏れ出す。
その隙に周囲に追いついた霧の全てを彼の体に向かって打ち込んだ。
滝のように霧が上から降り注ぎ、一業の赤い目を、白い肌を覆いつくす。
床が割れ大量の粉塵が宙に舞い、天井が崩れ落ちてきた瓦礫が霧によって粉々になった。
小さな台風がそこに出現したかのように渦を巻く“蟲喰いの霧”。
幾多ものひび割れが落下地点から広がり、展望台のあちらこちらを切り刻んでいく。
霧を集約させ続ける限界になり、僕が力を抜くと、“蟲喰いの台風”が落下した位置には、ひび割れの爆心地のごとく、大きな穴が開いていた。
激しく息を吐き、頭を抑えながら穴の底を覗く。だが真っ暗で何も見えない。ただ無数の“蟲喰いの霧”だけがあらゆる場所に漂っている。
必死に目を凝らし、彼の姿を探していると、千花の声が聞こえた。
「穿くん、前に……!」
顔を上げ、激しい頭痛に耐えながら、月明かりに照らされた彼の姿を見つける。
霧が当たる直前、“塗り替え”で回避を試みたようだが、それでも全てを防ぎきることは叶わなかったようだ。
一業は全身のあちらこちらを血に染め、ぼろぼろの状態で立っていた。服は破け、皮膚のあちらこちらからは流血し、ひび割れにも似た裂傷がいくつも刻まれている。
だが、それでもその表情に苦しみはない。その目に怒りはない。
薄っすらと明かりがさし始めた夜空を背景に立つ彼の姿は、なおも冷たい眼をこちらに向けていた。
4
一業は差し込む月明かりに照らされた自分の損傷具合を確認すると、すこぶる冷静な口調で質問した。
「……幻覚には注意していた。どうやった? 千花の目を見た覚えはないんだが」
「君がカナラにやっていた方法の逆だよ。僕と千花には繋がりが出来ている。僕の目を通して君に幻覚をかけた」
「なるほど。彼女はお前に超次場の力を送信することに精いっぱいで、もう脅威にはならないと思っていた。ぼくの落ち度か」
こちらの返答を聞いた一業は、納得したように息を吐いた。
きっと彼にとってここまでの損傷を受けることは、ここまでの反撃に遭うことは、完全に予想外だったはずだ。簡単に殺せる。簡単に目的を達成できる。そのつもりだった。なのに、何故こうも冷静でいられるのだろう。僕にはその精神がまったく理解できなかった。
一業は僕と背後の千花を見比べつつ、ゆっくりと手の甲で口元の血を拭った。
「もうすぐ日の出か。まさかこの時間になってまだ文化センターに残っているとは思いもしなかった。……簡単に殺せる連中のはずだったんだが」
連中と言うのは、僕と千花だけのことではなく、真理やカナラのことも含めて言っているのだろう。
背後の夜空を見上げる一業の瞳には、称賛の色すら覗いているように見えた。
彼は視線を前に戻すと、先ほど千花の幻覚を受けたばかりにも関わらず、真っすぐに僕の眼を見つめた。
「お前の霧は確かに脅威だ。薄く広げられれば、何処にいても存在を感知され、ぼくの現象を破壊することができる。ただ纏っているだけでおおざっぱな攻撃なら何であろうと防ぐことができる。真っ向から挑めばどんな超能力者だって歯が立たないだろう。さらにそこへ千花の補助が加われば、どんな超能力を持とうと正攻法では勝ち目がない」
まいったという風に、息を吐く。
「……だが――一つ思いついたことがある。……無気力に過ぎしていた教授の研究室生活にも、意外と意味はあったらしい」
一業は右手を上げ、左手でその手首を掴んだ。
「邪魔ならば、その現象を消せばいいだけだ」
「現象を消す?」
一業の現象はあくまで“存在の塗り替え”。それは現存するものであれば、どんなものでも違う何かに変化させることができる力だろうけれど、“何も存在しない点”の集合体である“蟲喰い”だけは塗り替えることができないはずだ。だから僕はこれまで彼と戦うことができた。彼の力を防ぐことができた。一体何をするつもりなのかと、疑問に思う。
「お前の現象は“何も存在しない点”を作り出すという、実に空虚なものだが、全てを失くしてなおそこに存在しているものが一つだけある。要は、形相と質料の関係だ。物体が現実的なものとして存在するためには可能的なものとしての種子が必要になる。その種子がなくなれば、現象は存在しえない」
どういう意味だ……?
話を聞きている途中で視界が途切れ倒れそうになったものの、千花の意識がそれを支え、僕は何とか踏みとどまった。もはや彼女の助けがなければ目を開けていることすらできそうにはない。
「超能力者の現象は全て認識の継続による空間干渉だ。その認識そのものを塗り替えれば、現象は発生せず歪みは霧散する。もちろん、お前の現象も例外はない」
鈍っている頭で何となく理解する。要は超能力を発生させている僕の意思自体を塗り替えると、そういうことだろうか。確かにそれなら理論上は“蟲喰い”を止めることができるけれど、物理現象でない“認識”を塗り替えるだなんて真似が可能なのか。そんなことが本当にできるのであれば、超能力者は誰一人一業に勝てないことになってしまう。
周りに漂っている霧を見て、僕は半信半疑に一業を見返した。
彼の掲げた手の周囲の空間がゆっくりとノックバックをはじめ、舞っていた紙切れが砂のように崩れ去っていく。
どうやら紙がそこに存在するための存在因子を塗り替えることで、それが“紙”であるという状態そのものを崩壊させているようだ。確かにあれなら、“蟲喰い”すらも破壊できるかもしれない。
――なんて出鱈目な……!
目の前の少年のとんでもなさに思わず眩暈がする。
超能力の現象は、本人の真相心理に焼き付いた強い願望。
それほどに一業の生きたいという気持ちは強い。それほどに、彼は死にたくないのだ。十年。いや、生まれたから今までの間、一業はきっとずっとそれだけを願ってきた。人間になることを、自分の人生を手に入れることを、偽物ではなく、本当の人間として生きることを。彼は作られた人間だけれど、他の誰よりもその純粋な願いと向き合っていた。生物として存在するうえで、もっとも強い感情と。
無意識のうちに指を動かす。
でも、僕の千花を守りたいという思いだって、生きたいという気持ちだって、嘘じゃない。
こちらの“認識”を塗り替えるというのなら、それよりも強固に意識し続ければいいだけだ。僕はまたあの日常に、千花たちと過ごした日々に戻りたい。
コンマ数秒視界が暗くなり、意識が体を手放しかける。だが、再び千花がそれを繋ぎ留めてくれた。
僕の横に立った千花が無言のまま僕の腕に手を乗せる。
僕は彼女の横顔を静かに見返した。
一業は掲げていた腕を水平にし、拳を握りしめた。すると彼の手を中心に、球状の幕のような波がいくつもノックバックし周囲に拡散していく。その膜に触れたものは、床も瓦礫も、空気さえも、全て“元々その場に存在していなかった”かのように、陽炎のごとく掻き消えていった。
あれはもはや“存在の塗り替え”などという現象ではない。“蟲喰い”のように“消す”のではなく、ありとあらゆる存在そのものを“否定”する空間――場そのものだ。
砲丸投げ選手のようにその拳を後ろに掲げ、足を開く一業。
僕と千花は、その一撃に備えて息を止めた。
僕たちの姿をしかと見つめた一業は、そのまま無言で後ろ脚に床を蹴り、真っすぐに前に飛び込んだ。
彼の掲げた拳から広がる空間のノックバックにより、それが通過した付近の床や柱は何もかもが幻のように掻き消え、存在そのものが消失していく。実に単純な正面からの特攻。あの一撃で本当にケリをつけるつもりのようだ。
急接近する一業に向かって幻覚を飛ばす千花。しかしその瞬間、一業の拳の陽炎からノックバックし広がっている膜がひと際大きくなり、あっさりと千花の認識を打ち消した。もはや幻覚すらも効果がない。どこを攻撃しようともあの連続発生している膜がある限り、こちらの攻撃は無効化されてしまうらしい。
――あいつは今生身なんだ……! 近づかれる前に現象を起こしている手以外を破壊すれば……!
僕は考える間もなく、前に拳を伸ばした。
ノックバックし広がる一業の現象に対し霧を打ち込み、それを食い止めようと足掻く。
しかしその瞬間、一業の姿が歪み目の前から消えた。塗り替えによって距離を変更したのだ。
――しまっ……――
目の前に姿を現す一業。一瞬にして先ほどの陽炎を拳に展開させる。
僕は反射的に周囲の霧を集約させ”二重蟲喰い”を作り出すも、それさえも瞬く間に幻影のように空間へ溶けてしまった。
―ふざけ……――、こんなのどうしようも――
視界が陽炎一色に染まりかけた刹那、勝手に残りの霧が集約し消え去ろうとしている“蟲喰い”を再構築し始めた。
「諦めないで……!」
どうやら千花が僕の意識に干渉し操作したらしい。真横から声が聞こえる。
彼女の目を見て僕ははっと我に返った。
無意識のうちに叫び声をあげ意識の全てを“蟲喰い”へ集中させる。四方に旋回していた霧は僕の認識に合わせ凝縮し、何重もの“蟲喰い”の球を作り出した。
ぶつかり続ける二つの現象。
掻き消える“蟲喰い”と消失する陽炎。
お互いがお互いの存在を否定し、せめぎ合う。
一業の陽炎が“蟲喰い”を作り出す意識を消し去るのと同様に、僕と千花の“蟲喰い”もその一業の現象そのものを消失させていく。
心が、精神が焼き切れそうだ。普段一瞬しか発生させていない現象を強引に作り出し続けているのだ。脳にかかる負担が尋常でないことは理解に難くない。
目を血走らせ無言で拳を押し出し続ける一業。彼も相当な無理をしているらしく、その腕が徐々に“蟲喰い”同様に空間に溶けだしていく。
――僕は生きるんだ……! 僕はまだ――
病気の母。
やっと笑みを見せるようになった父。
見守ってくれる姉。
そして緑也や日比野さんたち。
僕はまだ、やることがある。
僕にはまだ生きる理由がある。
ここで死ぬわけにはいかない。
幼いころの千花とカナラの姿が浮かび、今の彼女たちに置き換わる。
雄たけびのような声を上げて意識を“蟲喰い”に集中させる。極限まで“無の点”を密集させ、まるでブラックホールのような光すら存在しない“場”を作り出した。
「無駄だ」
短く呟く一業。それだけで密集させていた“蟲喰い”が半分ほど空間に溶けて掻き消える。
僕は突き出しているのと逆の腕で添えられた千花の手を握りしめると、思考もなにもかもかなぐり捨ててただ現象を発生させ続けた。しかしその努力もむなしく実にあっさりと“蟲喰い”は陽炎によって霧散していく。
――まだだ! まだ!
それでもなお足掻き続ける僕と千花。頭は割れそうに響き、口と鼻からは血が垂れ始める。
足掻き続ける僕たちにしびれを切らしたのか、一業はさらに力を込めようと前に踏み出そうとしたが、――態勢を前のりにしたところで、息を詰まらせたように吐血した。現象を酷使し過ぎたせいで不完全な身体に悪影響が出たらしい。
その瞬間だけ陽炎の精度ががくりと落ち、同時に“蟲喰い”の塊も掻き消える。
「あっ――!」
急に抵抗を失い尻もちをつく千花。
一瞬の時の中で、一業と視線が交差する。
僕は何も考えず左半身を前に滑らせ、腰を回転させる勢いで、僅かに霧の残った右拳を前に突き出した。
一業はすぐに防御の構えを作ろうとしたが、体が思うように動かないのか手が上がらず、もろに僕の拳を胸に受け押し飛ばされた。
そのまま転がる様に割れたガラス片の中へ倒れ込む。
ひと際強い頭痛が走り、感じていた千花の温もりが遠ざかっていく。
僕の周囲に停滞していた霧は、溝を埋められるようにその点を失くしていった。
割れた窓の外から小さな光が差し込む。
その光は染み込むように、最初からそこにいたかのように、ごく自然に僕たちの姿を朱色に染め上げた。




