第四章 目撃者
1
帰りのホームルームが終わり、皆が荷物の片づけを始める。僕は日比野さんに話しかけるチャンスを伺っていたのだけれど、中々いいタイミングを掴むことはできなかった。
彼女の周囲には常に複数の女子生徒がいる。ある程度仲良くなったあとならともかく、転校してきたばかりの僕がその中へ飛び込んで、彼女一人に声をかけるなんて真似をすれば、余計な誤解を生みかねない。それはこれからの学生生活において、あまり望ましくない結果をもたらす可能性が高い。なるべく目立たず自然に情報を手に入れることが、僕の理想だった。
「あっ……」
てっきり帰りまで一緒かと思っていたのだが、日比野さんは周囲の友人たちに手を振り、あっさりと一人で教室から出て行った。僕は慌てて自分の鞄を掴み、その後を追う。廊下の中ほどまで進んだところで、彼女を呼び止めた。
「日比野さん」
振り返った彼女は一瞬驚いたようなそぶりを見せた。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「え? 何?」
きょとんとした調子で目を丸くする。
「その……日比野さんが瑞樹さんを見たって聞いたから、それについてちょっと聞きたくて」
「瑞樹のこと? 何で穿くんが?」
「……――前日に彼女と他のクラスのやつに町を案内してもらったんだよ。その直後のことだったから、気になって……」
「ふ~ん。なるへそね」
真面目に話を聞いているのかいないのか。日比野さんは品定めするように僕の上で視線を上下させた。
「いいけど、立ち話したくないし、教室の中は掃除の邪魔だから取り合えずついてきてよ。すぐそこだから」
「え、すぐそこって?」
「部室よ部室。あたしこれから部活なの」
2
この蓮上高校には二つの屋上がある。
ひとつは日頃多くの生徒たちが授業を受けている教育棟、つまり今僕が立っているこの場所。そしてもうひとつは、中庭を挟んだ向かいにある専育棟の上だ。専育棟の屋上はかなりの広さがあり、休み時間になるといつも多くの人で賑わっているらしいのだが、こちらの屋上は小さいことと古いことが相まって、訪れる人は滅多にいないらしかった。
別に古いくらい気にしなくてもいいのではと思っていた僕だけれど、実際にここに上がってきたことで、人が訪れない理由をよく理解することができた。
「何だ……これ」
まず目に入るのは、屋上の大部分を占めている教室大ほどもあるプレハブだった。柵の限界ぎりぎりまで壁が広がっているから、外を眺めるスペースもくつろぐ場もありはしない。誰が何の目的で作ったのか知らないが、これではまるでこのプレハブのためだけに屋上が存在しているかのようだった。
茶色い地面を踏みながら左へ移動し、プレハブの入口前に来る。
視線を落とすと、扉に括り付けられた汚い板が見えた。“オカルト研究会”という文字が殴り書きにされている。
オカルト研究会? あの明るい日比野さんが?
彼女の意外な趣味に僕は驚きを隠せなかった。てっきり陸上部かバスケ部だと予想していたのだが……。
「何してんの? 入って入って。話があるんでしょ?」
「あ、うん」
既に中に入っている日比野さんが、くだけた声で僕を呼ぶ。
軽いショックを覚えながらも、僕はその謎の建造物の中へ恐る恐る足を踏み入れた。
がたつく扉を閉め前を向く。高所にあるからかやはり風通しはいいようで、埃っぽさなどはまったく感じなかった。オカルト研究会と書かれていたからとてつもなく怪しい部屋を想像していたのだが、意外にも中は明るく清潔感に満ちている。むしろ美術室だといったほうが納得出来そうな内観だ。
無造作に並べられた長テーブルの上に荷物を放り投げると、日比野さんは暑そうに首元のシャツを扇いだ。僕は思わず目を泳がせる。
「適当な場所に座っていいよ。ここ、あたしの個人部屋みたいなもんだから」
「他に部員はいないの?」
彼女の前の椅子を引きつつ質問する。
「いるっちゃいるけど、ほぼ幽霊部員かな。この部を存続させるために無理やり引き入れた奴がほとんどだし、実際は私ひとりみたいなもん。真面目に活動してる先輩もいたんだけどね。今受験勉強中だから」
「そっか。気楽でいいね」
普通に考えれば寂しそうな状況ではあったが、日比野さんの性格からしてそういう感想は嫌がりそうだと思い、僕はあえて肯定的に返した。
「穿くん、うちに入る? 何か“触れない男”に興味を持ってるって聞いたよ」
「う~ん、どうしよっかな」
部活の性質上、ここは都市伝説やその手の情報を得るには、中々都合のいい場所だといえる。幽霊部員もOKらしいので、カナラを探す上で邪魔になることはないだろう。あくまで真面目に活動をしている部活であれば、の話だが。
最近はただ談笑をしてるだけの部活というものも陰で増えてきている。実際のところどんな感じなのかわからない以上、勢いで結論を出すべきではない。
とりあえず候補として頭の中に入れておき、僕は回答を濁すことにした。
「まあ、転校してきたばかりだから、部活動とかはまだ先でいいかな。一応、後で考えとくよ」
「ほいじゃ、気が向いたら来てね。あたし放課後は基本的にいつもここに居るから」
こちらの意図を汲んでか、彼女はいつもの笑顔を僕に向けた。
「……それで、瑞樹さんの話だったよね。穿くんが知りたいのって」
「うん。そう」
日比野さんは僕から見て右方向にある机の上に座り、足を組んだ。
「確かにあの日の夜、見たよ。勘違いじゃないかって言う人もいるけど、あれは確かに瑞樹ちゃんだった」
「どこで見たの?」
「文化センターの展望台。町の中央にひし形の変な建物があるでしょ。あれがそう。あたし昨日はちょっと調べたいことがあって、そこの二階にある図書館へ行ってたの。やっぱ文化センターってだけあって内蔵している資料の量が多くてね。オカルト関係の本も沢山あるし新作の入庫も早いから、月一くらいでたまに通ってるんだけど……。その日は帰ろうとしたところで、エレベータに乗ってるあの子の姿を見たの」
「エレベータに乗ってる姿? ガラスばりってこと?」
建物自体の外観もそうだが、妙にあそこだけ近代的な作りだなと思った。
「そうそう。それで一瞬あの子の顔が見えたから、あたし気になって追いかけたの。あんまり文化センターなんて場所に来るような子じゃなかったし深刻そうな顔をしてたから。――んで、展望台に上がってもっかい確かめてみたんだけど、やっぱり間違いなく瑞樹ちゃんだった。すぐに声をかけようとしたんだけど……」
そこで一度、日比野さんは言葉を切った。
「あの子、一人じゃなくてさ。何か同い年くらいの男の子と一緒に居たの。それもうちの学校じゃ見たことも無いかっこいい人。何だかとても話しかけれるような雰囲気じゃなくてね。別に悪いことをしてるわけじゃないのに、あたしそのまま隠れちゃって。気がついたら二人はいなくなってたの」
「……同い年くらいの男の子……」
別れ際に瑞樹さんが言っていた台詞を思い出す。誰かと約束がある。デートに行くと。
「どんな感じの人?」
「んとね。髪は黒で、眉の前まで伸ばしてた。服装は私服だったから、どこの学校かはちょっとわかんない。――あっ、でもそうだ。何かすっごく肌が白かった。太陽の光なんて、もう何年も浴びてないっていうぐらい、不自然な色」
「ふ~ん。……白い肌か」
学校では特にそんな肌の白い人は見たことはない。もっともまだそれほどこの学校にいるわけではないけれど。僕は顎を手の上に乗せ、体重をかけた。
「ほんとはね。ちょっと後悔してるんだ。あのとき私が声をかけていたら、瑞樹ちゃんはあんな目に遭わなかったかもしれないって……」
「心不全なんだから仕方がないよ。声をかけたところで彼女の体調が変わるわけでもないし」
「心不全?」
何故か日々野さんは首をかしげた。
「瑞樹ちゃんの死は心不全なんかじゃないよ。あれは、病気とかそういうものが原因じゃない」
「え、でも校長は……」
彼女の葬式でも親族の人たちがそう説明していたはずだ。僕は日比野さんが何を言っているのか理解できなかった。
「あれはまだ死後解剖が済んでいないときの話だし、それにもしわかっていても、言いずらかったんだと思う。あまりに妙な話だったから」
「……というと?」
妙な話とはいったいどういうことだ。僕は半ば身を乗り出すように机の上に肘を置いた。
「最後に一緒にいた人間ってことで、確か穿くんも事情聴衆を受けてたよね? あたしも最後の目撃者ってことで、同じように一ノ瀬っていう刑事さんと話したんだけど、そのときに彼から聞いたの。本当の死因を」
「本当の死因……?」
「そ、、瑞樹ちゃんは別に心臓の病気を患っていたわけでも、頭をどこかに打ち付けたわけでもない。直接の死因は、“ショック死”らしいの」
「ショック死?」
思わず目を見開く。それはあまりに予想外な言葉だった。
「あの子の体は重度の毒物反応で死んだとしか思えないような壊れ方をしていたんだって。まるで全身の血液が、全て彼女の体に害をなすものに変質してしまったかのような、そんな死に方らしいの」
「何だそれ、どういうことなんだ」
僕はどきりとして、彼女の目を見返した。
「確証がとれないから、とりあえず心不全ってことにしたそうだけど、妙だよね。あの子の体内からは一切刺激物は検出されなかったらしいし、荷物にもそういった類のものはなかった。けれど、体だけが過剰な反応を示している」
どのように死亡したのか理解できない、再現不可能な傷。
警察も、医者にも、法律家にも正体を問うことのできない、異質な怪我。まるでどこかで聞いたことのあるような話だ。
転校初日に目撃したカナラの姿を思い出す。彼女を見たこの町でこんな事件があったことは、はたして偶然なのだろうか。何だか変な胸騒ぎがしてならなかった。
壁に備え付けられたヴィンテージ調の時計の音が、静かに刻まれる。時刻はちょうど午後四時を過ぎたころだった。正常な部活なら活動を始める時刻だ。
「……ありがとう。部活の邪魔をして悪かったね」
日々野さんに礼を言い、立ち上がろうとしたところで――突然、プレハブの扉が大きく開け放たれた。
「真矢ちゃん、真矢ちゃん! 聞いて聞いて!」
そうハイテンションで飛び込んできたのは、一人の女子生徒だった。少しカールがかった明るい髪と、高校生とは思えない研ぎ澄まされた肢体が僕の視界に写る。
彼女は机の上に腰掛けている日比野さんを見つけるなりに、とんでもないことをのたまった。
「あたし昨日”触れない男”を見ちゃった!」
3
「え、うそっ!? ほんと?」
「えへへ、本当だよ」
その女子生徒は、ほんわかした調子で自慢げに微笑んだ。話の内容が気になり、僕は膝を伸ばしかけたまま固まる。
「どこで見たのよ。この近く?」
「え~っとね。駅の北側かな。友達の家に遊びに行った帰りに、歩道橋の下を歩いてたの。でも、あたしが降りたときには居なくなっちゃった」
この明社町は、駅を挟んで北と南に分かれている。僕や緑也が住み、学校があるのは海よりの南側だが、その北側には山に面した住宅街があった。そして歩道橋と聞いて真っ先に浮かぶのは、駅から出てすぐ先にあるひとつのみ。国道の上を通過するための通路だ。案内してもらった限りでは、あそこ以外に歩道橋は無かったはず……。
「そんな人通りの多いとこで見たの? それ勘違いじゃない?」
「でも、あのポスターにそっくりだったよ。真っ黒な黒いコートを着て、帽子を被ってて。――あの変な足跡だってあったもん」
「足跡って……あの焼け跡みたいな?」
「うん。階段の下に薄く残ってたよ。あれは絶対本物だって」
拳を握り締め、訴えるようにその女子生徒は言った。日比野さんはしばらく考えるような素振りを見せたあと、
「写真とか取らなかったの?」
「ごめん、忘れちゃって……」
ばつが悪そうに女子生徒は苦笑いを浮かべた。
「……じゃあ、後でもう一回行ってみよう。まだ跡が残っていればいい証拠になるし。オカルト研究会としても、提出用の資料は欲しいからね」
提出? 活動報告か何かだろうか。
運動部と違い、文科系の部は大会や賞与の存在しない部もある。何となくプレハブを出るタイミングを失ってしまった僕は、二人の会話を聞いてそんなことを考えた。
女子生徒がこちらを見る。たった今初めて僕の存在に気がついたようだ。若干表情に驚きの色が見えた。
何か言ったほうがいいのだろうか。迷ったところで、日比野さんが助け舟を出してくれた。
「あ、クラスメイトの……佳谷間くん。ちょっと用事があって……――」
「もしかして、入部希望者?」
「え、いや僕は……」
否定しようとしたけれど、その前に女子生徒が嬉しそうに飛び跳ねてきた。
「やっったあ。みんな幽霊部員だから寂しかったんだよね。真矢ちゃんいつも一人だし、これからよろしく」
僕の手を握り、ぶんぶんとそれを上下に振る。彼女の喜びように、否定することを躊躇ってしまった。
「――えと、君は部員じゃないの? 日比野さんからは真面目に活動しているのは自分だけって聞いたんだけど」
「あたし? あたしはここの部員じゃないよ。俗にいう帰宅部ってやつかな。暇なときにここへ遊びに来てるだけ。真矢ちゃんが寂しそうだから」
「ちょっと皐月、寂しそうになんかしてないでしょ。あたしはこっちのほうが落ち着くから好きなの。それに、穿くんは入部希望者じゃないよ」
ちょっとむっとした様に日比野さんが立ち上がった。
「え~、そうなの? 残念」
本気でそう思っているのかわからないような調子で、彼女は小さく笑みを浮かべた。
もう用は済んだが、せっかく“触れない男”の名が出たのだ。ついでに彼女たちの話を聞いていこうと思い、僕は質問した。
「“触れない男”についても調べてるの?」
「まあね。今この町じゃ話題になってるし、オカルト研究会として調べないわけにはいかないでしょ。一応、それなりに面白い情報は集まってるよ」
普段あまりこの手の話をする相手がいないからか、実に楽しそうに胸を張る日比野さん。それを何故か微笑ましそうに皐月と呼ばれた少女が見ていた。
「そうだ。せっかくだから、穿くんにいいこと教えてあげよっか?」
「いいこと?」
「“触れない男”が次に出現する可能性のある場所」
再び机に寄りかかり、足を組む。皐月さんも適当な椅子に座った。
「――これ、見て」
日比野さんはA三サイズほどの地図を一枚取り出し、僕の前に広げてみせた。インターネットの地図情報サイトを印刷したものらしく、駅と、それを中心にしたこの町の地形が目の前に表記される。所々に赤いバツ印があり、それが一定間隔で並んでいた。
「何これ?」
「“触れない男”が目撃された場所」
こんなに沢山……そんなに“触れない男”って目撃されてたの?」
「信憑性もないものまで含めれば、って話だけどね。でも、いくつかは合ってると思うよ。念入りに調べたから。――これを見て、何か気がつくことない?」
気がつくこと……。
僕は地図をまじまじと見た。バツ印は町の北側に多く、南側には僅かしかない。これは、北側に集中して出現しているということなのだろうか。……僕や緑也たちが“あの足跡”を見つけたのは三日前だ。もし“触れない男”が同じ場所に立ち寄らないとすれば、いきなり北側から南側へ来ることは考えにくい。だとすれば、南側へ出没するようになったのは最近のことだと思われる。目的のものが北側で見つからなかったから、南側へ移動してきた。そんな感じだ。
僕が思ったままのことを伝えると、日比野さんはふむふむと頷いて見せた。
「そう、中々良い線いってるね。“触れない男”は南側に移動してきている。これは、ほぼ確実だと思う。南側への目撃情報が多くなるにつれて、北側での目撃が無くなったの。たぶんもう、北側へは出没しないね。きっと」
「何でそう思うの?」
僕が聞くと、日比野さんはある場所を指差した。北側にある中学校のひとつだ。
「ここは“触れない男”の噂が広まったきっかけの、家出生徒が出た学校なの。他よりもまわりにバツ印が多いでしょ。それにこっちの学校も。“触れない男”は若い人間が移動する場所によく出没している傾向があるの」
日比野さんは一呼吸置き、
「穿くん、知ってる? 家出したのも、彼の姿を目撃したのも、“女性”が大部分なんだよ。それも、十代から二十代前半の女性。これじゃあまるで、“触れない男”が特定の女の子を捜しているみたいだと思わない?」
神妙な顔で言う。僕はそれを聞き、とっさにカナラの姿を連想してしまった。どうしても三年前のあの光景が幻影となって瞳の上に浮かぶ。
僕が殺し土の上に転がった謎の男。彼がコートを着て執拗にカナラの姿を探す。そして偶然僕を見つけて嬉々として掴みかかり、僕の喉を締め付ける。あの日の復讐をするように。かつて殺された自分の仇を討つように。
――人殺し。
誰にも相談できず、誰にも信じてもらえない僕の罪。関係ないことはわかっていたけれど、どうしても僕はこの事実を思いださずにはいられなかった。
4
「何だか顔色が悪いけど、大丈夫……?」
気がつけば、日比野さんが心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。少し自分の中へ踏み込みすぎてしまったようだ。僕は慌てて手を振りながら、
「だ、大丈夫。ちょっと考えちゃって……」
「――……そう。ならいいんだけど」
幾分不思議そうに片目を見開きながら、日比野さんは話を戻した。
「――だから、次に“触れない男”が出没するとすれば、南側でもっとも北寄りな学校の付近ってことになる。小学校は対象外みたいだし、一番可能性が高いのは――この蓮上高校かな」
「……そっか。確かにそうなるかもね」
南地区には他にも学校はあるようだったが、どれも駅から遠い場所ばかりだ。北から虱潰しに“誰か”の姿を探しているのなら、次に狙われるのは駅まで徒歩十分のこの学校しかない。
“触れない男”が実在している人間で、本当に中高生くらいの女の子を探していると仮定すると、彼がその人物を見つけるためには各学校の名簿を見ることが一番の近道のはず。夜に目撃情報が多いことからも、その時間帯に校舎へ侵入している可能性が高い。学校に在籍している全生徒の名前に目を通すのはそれほど時間はかからないけれど、もし狙いの人物の詳細を知らないのならば、その名簿の住所を頼りに各家庭へ出向き調査を行う必要がある。つまりひとつの学校の調査を始めたら、数日はその周囲に出没するということになるはずだ。恐らくそれが彼の出没情報の所以なのだろう。あくまで彼が本当に存在して、予想通り誰かを探していると決めつければの話だが。
僕が指遊びをしながらそんな風に考えを巡らせていると、皐月さんが楽しそうに口を開いた。
「ねえ、だったら今日の夜この学校の周囲を探索してみない? “触れない男”を見れるかも」
「え、今夜?」
足を組み直しながら、面倒くさそうに後ろへ体を倒す日比野さん。
「だって、“触れない男”が南側へ出没するようになってもう何日か経ってるよ。うちの高校を調べるにしても、何週間もかかったりはしないでしょ。そんなに生徒が多いわけでもないし。そろそろ違う学校を調べ始めたりしちゃうんじゃない? “触れない男”っていう噂が嘘だったにしても、みんなに目撃されている“誰か”は実際にいるわけでしょ。それが何なのか知りたいじゃん」
「そりゃあそうかもしれないけどさ……」
「そっちのほうが足跡を探すより見つけられる可能性は高いからさぁ。やろうよ真矢ちゃん」
鼻息荒く、皐月さんは机の上に両手を乗り付けた。そのままじっと見つめられ、拒否することは難しいと判断したのか、日比野さんはため息混じりに頷いた。
「今日は予定があったんだけどな。ま、いっか。わかったよ。んで、どうするの?」
「やったー。じゃあ、十時くらいに駅前に集合でいい? あそこなら人も多いし、心配ないと思う」
本当に探すつもりなのか。正直やめた方がいいと思うけど。
帰宅部と言っていたわりには、随分と乗り気なんだなと、僕は皐月さんの態度を見て意外に思った。
「ってことだから、穿くんもちゃんと来てよ」
「え、僕も行くの?」
弱い電流を浴びたかのように一瞬体が震える。いつの間にそんな話になったのだ。
日比野さんは意地悪な表情を浮かべながら、
「いやあ、だって怖いじゃん。暗いし、人居ないし。乗りかかった船だと思ってさ。ね、いいでしょ」
確かに女の子二人だけで夜道を歩かせるのはあれだが、僕が行ったところで大した力になれるとは思えない。もっと筋肉ムキムキの柔道部員でも連れてきたほうが百倍はマシなのではないだろうか。
「こんなことに付き合ってくれる奴なんてそういないからさ。ね、お願い穿くん」
僕の心情を読んでか、日比野さんは申し訳なさそうに両手を合わせた。そこまで言われると流石に断りづらい。つい最近、瑞樹という友人がこの世を去ったばかりなのだ。ここで僕が行かないことで明日二人の姿が教室から消えてしまっては、後味が悪すぎる。自分で言うのも何だが僕は結構引きずる人間だ。間違いなく、行動を共にしなかったことを後悔するだろう。
あまり乗り気ではなかったけれど、仕方なく僕は了承した。
「……わかったよ。十時だね」
5
学校から帰路につき、海沿いの自分の家が見えてきたところで、僕は緑也の姿を見つけた。ぱんぱんに膨らんだ大きな白い袋を両手に抱えた彼は、ゴミ置き場の前でちょうど足を止める。暗がりの中でその袋のシルエットだけがはっきりと認識できた。
「――やあ」
暗くも明るくも無い声と表情で僕は片手を上げた。緑也は一瞬目を細めた後、はっとしたように妙な瞬きをした。
「よう。……遅かったな。部活見学とかしてたのか」
「みたいなもんかな。捕まっちゃってね。中々帰れなくて」
「何の部活だよ。空手部とか? 前の学校ではその種のとこに入ってたんだろ?」
町を案内してくれたときの昼食時、そこで話したことを覚えていてくれたらしい。緑也は興味深そうに耳を傾けた。
「全然本格的にはやってなかったけどね。……どちらかというと今日見てきたのはバリバリの文科系だよ。日比野さんに誘われて……」
瑞樹さんの目撃情報を調べていたとはいえず、僕は“触れない男”の話を聞くために、彼女に近づいたと説明した。その流れで、部活の勧誘を受けたのだと。
あまり人を疑うことがないのか、緑也はあっさりと僕の言葉を信じた。手に持っていたゴミを網の下に置きながら、短く笑う。
「オカルト研究会って、お前も随分特殊な趣味があるんだな。まあ、俺もそういうの嫌いじゃないけどさ」
「別に入るつもりはないよ。ただ例の“触れない男”っていう話が気になったから。何だか妙に浸透しているみたいだし」
「小さな町だからな。ちょっと面白そうな話題があれば、みんな食いついちゃうんだよ。基本的に娯楽を求めているんだ。退屈な日常から乖離できるような何かを」
どこか年季の入った表情で、緑也はそう言った。
このままたわいのない会話に興じてもよかったのだが、それはかえって彼女のことを彼に意識させてしまうことになる。僕は覚悟を決め、緑也の目を見つめた。
「瑞樹さんのことは……残念だったね」
「ああ。……そうだな」
どこか他人事のように緑也は答えた。まだ彼女の死を正しく認識できていないのかもしれない。それは、僕にも共通したことではあるが。
黙って見つめていると、はっとしたように彼はこちらを見返した。
「……一応言っておくけど、別に俺は瑞樹のことが好きとか、そういうんじゃないからな」
「いきなりどうしたんだよ?」
「いや、何かお前が勘違いしてそうだったからさ」
頭を掻きつつ、探るような目を向けてくる。 どう返そうか僕が迷っていると、緑也は家のほうに向かって歩き出した。つられてその斜め後ろについていく。
「――俺と瑞樹は、家が近かったからさ。昔っからよく遊んでたんだよ。いつからかはわからない。気がついたら、家族みたいにいつも一緒に行動してた」
「幼馴染ってこと?」
「そういうと何か変な感じがするけど……まあそうだな」
その言い方がしっくりこないらしい。安い酒を飲んでいるときの父のような表情を緑也は浮かべた。
「俺にとって瑞樹は妹や姉みたいなもんなんだよ。同級生の女の子っていうよりは、同い年のオカンと接している感じかな」
「オカンって……わかり易い例えだけどさ」
「ほとんど家族みたいなものだった。俺だけじゃない。俺の親父も、母さんも、あいつの両親に負けないくらい心配してたんだ。だから……」
一瞬言葉を詰まらせる。やはり相当心配だったのだろう。僅かに目の下に光るものが見えた。
「少し、休んだほうがいいよ。無理して学校にいかなくても――」
「いや、学校には行くよ。一人で家にいるほうが気がめいっちまう。俺、そんなキャラでもないから、みんな余計に心配しそうだしな」
明らかに強がりと分かる笑みを、緑也はこちらに向けた。痛々しいほどに磨耗しているのが見て取れる。緑也にとって、瑞樹さんはそれほど大切な存在だったのだ。それほど日常の大部分を占めていた相手だったのだ。口ではああいっているけど、きっと緑也は……。
家の前に着いたので、僕は扉を開け振り返った。お別れの言葉を言おうとしたのだが、それよりも早く緑也が声を出した。
「なあ、このあと暇か? ゲームでもしようぜ」
「あ、ごめん。今日はちょっと用事があって……」
正直、こんな緑也を放っておくことはいやだったけれど、日比野さんたちとの約束をすっ飛ばすわけにもいかなかった。僕が向かわなければ、あの二人は自分たちだけで夜の街を闊歩してしまうはずだ。“触れない男”なんて怪しい噂がある中、そんな真似をさせるわけにはいかなかった。
「どっか行くのか?」
「いや、実は――」
別に隠す必要もないので、正直に夜のことを話す。最初は面白そうに聞いていた緑也だったけれど、“触れない男”を捜すためだと聞いた瞬間、顔色を変えた。
「穿、それ大丈夫なのか?」
「何が?」
開けたままの扉から手を離し、僕は真っ直ぐに彼へ向き直った。
「最近妙な事件ばっかりじゃないか。別に”触れない男”の存在を本気で信じてるわけじゃないけどさ、夜中にうろうろするのは危険じゃないのか」
「大丈夫だって。一人で行動するわけじゃないし、それに学校の周囲ぐらいしか歩かないはずだよ」
「大勢で行動していても、変な奴に遭うときは遭うだろ」
あの“人体自然発火事件”のことを言っているのだろう。緑也の語気が少し強まった。
僕が微妙な表情を作っていると、彼は大きなため息をついた。
「はぁ……。まあ、お前の性格じゃあ断れないだろうな。……わかったよ。じゃあ、俺も行くよ」
「え、緑也も来るの?」
「お前一人じゃ頼りないからな。それに気分転換にはちょうどいい。最近あんまり家から出なかったし。いいだろ?」
「僕は別に構わないけれど」
「じゃあ、決まりだな。十時だっけ? その少し前にお前の家に寄ってくから、一緒に行こうぜ」
ほぼそれが決定事項のように言う緑也。瑞樹さんがあんな風に亡くなったばかりで、少々過敏になっているのだろうか。心配してくれることは素直に嬉しいし、彼が来てくれるのは心強いが、そんなに気を張らなくてもいいのにと思った。
「……わかった。待ってるよ」
僕が答えると、緑也は片手を挙げ、ほっとしたように頷いた。