第三十九章 霧
1
階下から響き渡る地響きにも似た轟音。
それは僕に纏わりついていた粘着質なまどろみを、一気にほどいてくれた。
塗りつぶされそうになっていた感情が、意識が返ってくる。
地面に置かれたものがよくわからないぐちぐちゃの“何か”から、自分の手だという認識に戻っていく。
酷い車酔いの最中でも、こうも不気味な感覚を抱くことはないだろう。初めて漫画の見方を知った子供のような気分だった。
「何だ? ポンプが停止した……?」
僅かに心の針が揺れたらしい。一業の顔に小さな偏りが浮かんだ。
真理がカナラを助けたのか?
それ以外に僕の意識が元に収束した理由は考えられない。この場に停滞している重苦しい圧迫感が無くなったわけではないけれど、心なしかその流れが止まった気がした。外に向かって広がりつつあった“何か”の奔流も霧散するように中途半端に消えていく。
……そうか。助けることができたんだ。あいつを……。
何故か胸に熱いものがこみ上げた。真理が役目を果たしたことに対する安堵。それともカナラを助けることが出来た喜びだろうか。明確な理由はわからないけれど、そう思うことで全身に巻き付いていた重りが一つ、静かにずり落ちていく。微かに背中が軽くなった気になれた。
一体どうやってあの二業を出し抜いたのかは知らないけれど、これで……――。
「うっ……」
一業の背後からうめき声が響く。とっさに目を向けると、タイミングを合わせたかのように千花の目が開いた。カナラとのリンクが切れたおかげで、一業の拘束が解けたらしい。
彼女は辛そうに頭を押さえていたが、すぐに何かを感じたように顔を上げた。一業と、そしてその奥にいる僕を見て、混乱したように驚きの表情を浮かべる。
「穿くん? ……ここは……?」
「千花……よかった」
瞳が交差した途端、彼女のあどけない表情を見た途端、僕は心の底から安堵した。もう助けられないかもしれないと、彼女の目を見ることはないかもしれないと思っていたのだ。全身の血液が沸きだつように熱くなる。
状況を何となく理解したのだろう。千花はどこか困ったような、愁いを帯びたような微笑みを浮かべ僕を見ると、ゆっくりと足を壁からおろし、地面に立った。
彼女が目覚めた今なら、一業に幻覚をかけることができる。千花の中にいるカナラは一業と繋がってはいないのだから。
痛む腹部を抑えながら、僕は責めるように一業を見上げた。
「……何をしようとしていたにしろ、これで君の目的はもう叶わない。もう終わりだよ、一業」
例え千花が再び拘束されたとしても、彼女の力だけではこの土地の力を行使するスペックが不足している。もはや一業が何かをしたところで彼の願いが叶うことはありえないのだ。
一業は一瞬不機嫌そうな表情を浮かべたあと、すぐに落ち着きを取り戻したように目つきを改めた。
「信じられないことだが、二業に不備があったのは事実みたいだな。けど、それだけだは大した打撃にはならない。ぼくの精神はカナラと繋がっているんだ。その気になればどれだけ離れようと彼女を呼び戻すことができる」
同じ遺伝子を共有したことによるリンク。僕と千花の間にあるものよりももっと深く原始的な繋がり。
一業はそれをフルに使い、彼女に干渉しようとした。その精神を支配しようとした。
まずい。今カナラに来られたら……!
千花というせっかくのアドバンテージが無駄になってしまう。僕は焦りを募らせたのだが、どういうわけが一業は眩暈を感じたように表情を曇らせた。
「――そうか……もう容量が……」
容量?
その言葉の意味から事態を考察する。
この文化センターという場所の力は強大だ。実際に超次場と接続し、その尋常ではない存在を認識し続けなくてはならなくなったカナラの精神的な負荷は、相当なものだったはずだ。ロビーで僕たちに幻覚を見せた時ならまだともかく、その膨大な負荷を一身で制御していた今のカナラでは、事前に組み込まれた超次場を認識し続けるという命令を実行することはできても、新たな指令を受け取るだけのキャパはもう残っていないのかもしれない。それはつまり、文化センターの近くにいる限り、カナラはもうこれ以上一業の精神干渉を受けない事を意味していた。
僕はぐっと地面に当てていた手に力を込めた。
「……仕方がない。認識力に不満はあるが、この女をカナラの代わりに下に置き、ぼく自身が現象の発散を行うしかないか」
たいして落胆している素振りもなくそう言い切る一業。彼の言葉を聞いた千花は、身をこわばらせ自分の体を守る様に抱いた。まだ体の制御が上手く効かないのか、その手が小さく震えている。
「何を言ってんだ? わかってるだろう。千花がそんな負荷に耐えられるわけないって」
「やるだけの価値はある。失敗しても最悪、また後日にカナラを捕まえればいいだけだ。ぼくの存在が露見するリスクは高まるが、仕方がない」
どうあってもここで目的を達成する気なのだろうか。一業の目には微塵も引く気配がなかった。
じっと彼の姿を見ていた千花が、心意を測るように問いかけた。
「あなたは――私とカナラさんを捕まえて、そこまでして、一体何をするつもりなの? 何の目的でこんなことをしているの?」
「別に大した目的じゃない。ありふれた、些細な願いさ。ただ、ぼくにはそれを叶える手段が他になかっただけだ」
ゆっくりと体の向きが千花のほうに向く。
「ぼくは、“この身体”を捨てるつもりだった」
「身体を捨てる……?」
千花は困惑と警戒心の籠った目で彼を見返した。
「カナラとのリンクが繋がったとき、ぼくは彼女の記憶を読み取った。走馬灯のように印象的な場面を順当に経験したんだ。そして見た。カナラがある少女の中に己の意識を埋め込ませた瞬間を」
千花のことだろう。彼女自身の記憶を先ほど追体験したばかりの僕は、すぐに一業の言葉を理解した。
「あれは素晴らしい現象だ。他者に自身の存在を埋め込め、塗り替える。肉体が滅びてもその記憶は、意識は生き続ける。まるでその人物に生まれ代わったかのように。……不思議に思っていただろう。完全に存在を抹消できていたはずのぼくが何故あえて姿を現したのか。答えは簡単だ。ぼくはカナラとこの場所を使って、明社町に住む全ての人間にぼくの意識を上書きするつもりだった」
上書き? カナラが千花にしたように? そんなことに一体何の意味が……?
一業の整った横顔を見据える。真意が全く読み取れなかった。
「町民全員が一業になれば、教授の関係者も、万が一ぼくの存在を認知した人間たちも、もはやだれ一人ぼくを捕まえることができなくなる。一万人以上の一業が相手なんだ。そのすべてを把握して捕まえることは不可能に近い。逃げ続けていても、隠れ続けていても、いずれ限界はくる。カナラがいい例だ。ぼくはぼくを量産することで“自由”になりたかった」
一万人を超える一業。それは考えるだけでも恐ろしい事態だ。彼と敵対した人間にとっては悪夢以外の何でもないだろう。
カナラと記憶を共有して、千花の事例を知って、同じ現象を起こせば永遠に生きることができる。誰にも知られずに強大な力を持つことができる。そう考えたのだろうか。……いや――。
僕は千花を見た。
もし一業がただ逃げるためだけなら、力が欲しいだけなのなら、千花やカナラをこんな使い捨てみたいな方法で利用する必要はなかったはずだ。この土地はこの場に残り続けるだろうし、カナラさえいれば何度だって利用できる。存在の塗り替え。それはまるで一業自身の現象を体現したような望み。彼が超能力を身に着けたのは、カナラと出会った直後。感情というものを身に着けた彼が抱いた、初めての願望。それが、“ただ逃げたいから”なんて陳腐な理由のわけがない。超能力は強い願いを持つものにしか発生しない。ならば彼の願いもきっとその現象に準じるもののはずだ。
嘘は言っていない。けれど、その裏にはまだ何かある気がした。一業だけにしかわからないものがひっそりとその結果の裏に姿を隠しているような。
悲しそうに千花の唇が動く。
「……随分とわがままな意見だね」
「我がまま? 何を言っている。これは誰もがしていることだ。争いは、人生はスポーツの試合と同じだ。お互いがお互い勝利の喜びを求めて競い合う。勝つことで片方が悔しさに包まれることを理解しながら、“他者”だからとそれを容認する。入学試験、就職活動、国同士の資源の奪い合い。ぼくとおまえたちの望み。何も変わらない、結局はエゴの通しあいだ。……まあ、真壁教授の言を借りれば、それは同じ皿に乗った肉を右手でとるか左手でとるかの違いでしかないのだがな」
どこか達観した声で割れた窓から覗く月を見上げる一業。僕には何故か、彼が少し寂しさを感じているように見えた。
「だが、所詮そんなものはただの理論だ。今生きている人間にとって、もっとも優先するべきことは自分の望み意外にない。欲望があるからこそ、人は目的を生み、そこに向かって突き進む。欲望が文明を、娯楽を、科学技術を作り出した。それは人がもつ最大の武器であり、最大の特徴だ。欲望がなければ生きているとはいえない。欲望がなければ人は人である必要なんてない。だからこれは、人としてもっとも正常な行為だと言える」
体のしびれが抜けてきた。
僕は神経の反射を確認するように手を何度か開閉させ、足に力を込めた。
「お前たちがぼくの行為を許せないというのなら、ぼくを止めたいというのなら、やるべきことは一つしかない。長い人類の歴史を見てきても、それが最も効率的で効果のある方法だろ」
一業は歌うように喉を震わせた。
「ぼくを殺せばいい。ただそれだけの話だ」
地面を蹴り、“蟲喰い”を発動する。完全に油断し、千花のほうを向いている一業に向かって拳を打ち付ける。僕の手はあっさりと彼の体を貫通し、そして見えない点の塊を周囲に散りばめた。
2
存在を塗り替えようが、そこに塗り替わった何かが存在しているのなら、消すことはできる。一業がいる部分を攻撃すれば、他の超能力はともかく、“蟲喰い”ならダメージを与えることはできるはずだ。
これまで蟲喰いが効かなかったのは、おそらく光を屈折させて自分の位置をずらしていたため。だが背後から攻めた今なら、僕の現象の位置を把握することも、タイミングを掴むこともできない。理論的に考えれば蟲喰いで傷がつかないものなんてありえないのだ。
この一発で倒せるとは思っていない。でも確実にダメージは入る。僕はそう信じて腕を突き出したのだが、結果は実に無残なものだった。
全てを食い破る“蟲喰い”。それをもろに受けたはずの一業は、けろりとした顔で振り返り、片手を上げた。その手に纏わりつく空間の歪みを目にし、僕の背筋を生理的な恐怖が駆け抜ける。
――これでダメージが無いのなら、とっさにそういう光の形にここの空気を塗り替えたってことだ。一業の現象は僕と同様、近距離でしか効果を発揮できない。だから本体は幻影のすぐ後ろにいるはず……!
続けざまに逆手の“蟲喰い”を一業の背後へと差し込む。しかしそれにも手ごたえはなかった。
代わりに一業の腕が僕の肩にあたり、接触部の空間がノックバックする。
「なっ――?」
避けようとしてもすでに遅い。僕の肩は瞬く間に半肌色の粘土に似た物体となり、一業の指が押すままに抉れていく。
「うわぁあぁあっ!?」
反射的に“蟲喰い”をそこに作る。一業の手にダメージは与えられなかったが、肉体を泥に変化させていた空間の歪みは破壊できた。
後方へ逃げながら足に乗せた“蟲喰い”で迎撃するも、やはり一業の身体には命中しない。それどころか、蹴りの戻し際に体を剣山にでも変えたのか、僕の足は縦に大きな裂傷を作って戻ってきた。
なっ、……ちょっと待て、これは……!
一業の足が真下に侵入し、一気にその距離が詰まる。彼の指に触れた服が瞬く間に水となって溶け千切れていく。
素肌に触れられればほぼ終わりだ。僕は決死の思いで“二重蟲喰い”を発生させ、眼前の一業に食らわせた。
一業の周囲にノックバックしていた空間の歪みが崩れ、その歩みが止まる。その隙に僕は何とか右方向へと逃げた。
喘息にも似た呼吸をしながら、平然と立っている一業に目を向ける。信じられない思いだった。
「……どうして“蟲喰い”が……」
「ぼくの現象によって塗り替わった存在は、そこに存在していない。ある意味、別の空間に移動しているようなものだ。塗り替えたものをいくら破壊しようと、それが元の存在に届くことはない」
僕の服の切れ端をつまみながら、一業はそう説明した。
そんな、それじゃあどうしようもないじゃないか……。
“二重蟲喰い”で全体的に消失させれば、一業の攻撃自体は無効化できる。だが、それはあくまで塗り替わった現象を消しているだけに過ぎない。一業の肉体にダメージを与えるためには、そもそも現象そのものを使わせるわけにはいかないのだ。そんな芸当はカナラの手でも借りなければ不可能だろう。
接近戦では時間がかかると踏んだのか、同じ場所に立ったまま、一業が軽く腕を振った。
僕は先ほどの半透明の激流を思い出し、とっさに横に転がる。だが僕が立っていた場所には何の影響も起きてはいなかった。
フェイントか? いや……!
うっすらと感じる不快な臭い。何かはわからないが、一業がやったことだけは察知できた。彼の現象ならばあらゆる物質を一時的に構築することができる。恐らくこれは押し出した空気を毒に変えたのだ。今呼吸をすればほぼ間違いなく致命的な損傷を受けるに違いない。
僕が口を押えて距離をとると、一業は意外そうに眉を上げた。今ので仕留められると思っていたらしい。
僕は下唇を噛んだ。これでは争いにすらなっていない。これまではどの実験体が相手だろうと、その現象の効果や正体がわかれば戦うことができた。ぎりぎりの攻防ではあったけれど、勝てると思って動くことができた。だが、“存在を塗り替える”だなんて馬鹿げた現象が相手では、一体どう対処すればいいというのだろうか。頼みの“蟲喰い”すら全く意味をなさない以上、ただひたすらに逃げるしかやることがない。
片足の靴をこつこつと地面に打ち付け、一業は氷のように冷たい目をこちらに向けた。僕の心境を見透かすようなその視線に、思わず背筋がぞくりとする。
怯えるな。ビビったらその時点で負けだ……!
次の一業の攻撃、それだけに意識を集中すればいい。今はそれだけで……。
じりじりと後ろに下がる演技を行いつつ、右手に意識を集中させる。いつでも“二重蟲喰い”を発生させられるつもりだった。
一業はその場に立ったまま腕を前に伸ばすと、五指を軽く開いた。そこを中心に周囲の空間がノックバックする。
「――え?」
目の前に舞っていたパンフレットが真っ二つに割れる。
勝手に手が動き、“蟲喰い”を展開するも僅かに遅い。僕の肩はそれで深々と縦に斬られてしまった。血の線が後ろに散り壁を赤く染める。
――まさか、目の前の空間そのものを“切れた状態”に変換したのか……!
一業が塗り替えた空間は数秒後にはもとに戻る。だが、塗り替えられたことによって生じた影響はその範囲外だ。肩から漏れ出す血が止まらず、僕は眩暈を感じて立ち止まってしまった。
目の前に一業の指が現れ、デコピンのように弾かれる。僕の体は空気を塗り替えて生まれた衝撃波によって思い切り吹きとばされた。
でんぐり返しをするように後方へ転がり再び地面に寝転ぶ。圧倒的な力の差に思わず心が絶望に染まった。
3
なすすべもなく一業に蹂躙されている穿を見て、千花は思わず胸元に手を引き付けた。
穿の体はもう限界だ。とてもじゃないが、これ以上一業の攻撃を受け続けられるとは思えない。
――た、助けないと……穿くんが……!
必死に意識を集中させ、頭の中に共生している“カナラ”に願いを込める。以前は彼女が出てきている間の意識なんてなかったけれど、数時間前に穿と繋がってからは、ただこうするだけで現象を行使してもらうことが出来るようになっていた。
言葉はなかったけれど、“カナラ”の精神と自分の意識が重なるのを感じる。
「やめて!」
声を上げたことで一業の視線が一瞬こちらを向く。
千花はしっかりと彼の真っ赤な目を見据え、“止まれ”という強い思いを飛ばした。
下ろそうとしていた足が変な形で地面に当たり、態勢を崩す一業。千花は幻覚が効果を発揮したことに喜びを覚えたのだが、それはつかぬ間の安堵でしかなかった。
しっかりと立ちなおすと、一業は真っ向からこちらの目を見つめ返した。
千花はすぐに何度か精神干渉を試みたのだが、何度やっても効果はもう得られない。
「そんな、目が合っているのに、現象を使っているのに、何で……!?」
「ぼくに幻覚は効かない。視線が交差する度に干渉を受けるというのなら、その都度干渉しない状態に脳を塗り替えればいいだけだ」
塗り替える? どういうこと?
意味はよくわからないが、どうやら彼は何らかの方法で“カナラ”の現象を無効化しているらしい。穿のほうへ振り返った一業を見て必死に幻覚を飛ばしてみたが、彼はまったっく意に介さないように歩き始める。
その冷たい瞳を見て千花は唾をのみ込んだ。今までの実験体とは違う。躊躇いも躊躇も覚悟もなにもなく、ただ邪魔だから殺す、彼の目にはそれだけの意思しかない。まるでその視線は、絶対に避けられない事柄を示しているように見えた。
――だめ……! 助けないと、穿くんを……!
幻覚はもう効果がない。一業はまだ自分を殺すことはできないはずだ。千花は落ちているガラスの切れ端を拾うと、それを持って彼に挑もうとした。
背後の動きを察知したのだろう。一業は穿のほうを向いたまま後ろ手に指を鳴らし、空間を歪曲させた。走り出そうとしていた千花は、いきなり全身が重くなり、そのまま地面に伏してしまう。
――歩けない? なにこれ? 急に体が……!?
こちらを振り返ることもなく、ただ真っすぐに穿の元へ近づいていく一業。その距離はもうほんの二メートルまでになっていた。
唇を噛みしめ、必死に体を持ち上げようとするも、上手く腕が上がらない。例えこの現象が解けたとしても、今からでは一業の攻撃を防ぐことはできない。
――何か、何か方法は……!
これまで穿はずっと自分を助けてくれた。ずっと自分を守ってきてくれた。記憶もなく見るからない怪しい存在だったはずなのに、命を懸けて戦ってくれたのだ。傷つき、血を流し、死にそうになりながらも、何度も、何ども――。
絶対に負けてしまうと思う場面でも、決して諦めず勝機を見つけ出した。
だからまだ諦めるわけにはいかない。まだ見捨てるわけにはいかない。いつだって道はある。ただそれに気づけないだけなのだ。動けないのなら、立てないのなら、他の方法で戦えばいいだけだ。
体の自由が利かないかったおかげだろうか。そのとき千花は、周囲に取り巻いている“何か”の存在に気が付いた。
カナラが認識し、自分へとその感覚を伝送していたこの土地の存在。超次場と呼ばれる特異点。カナラの送信は止まったが、送られた力は、認識の余波はまだこの場に残っている。
今の自分にそれを制御できるかどうかはわからない。けれど、やらなければ穿は死んでしまうのだ。
千花は目を見開き、精神をこの土地とリンクさせた。
自分と土地とのリンクはまだ生きている。満ち、溢れている異様な存在に己の意識を伝え、より強力な干渉効果を、幻惑効果を作り出す。超次場は人の望みに影響される効果がある。それはつまり、超能力者の現象の結果をより明確に発生させることを意味していた。
今なら視線を合わせなくても大丈夫そうだ。千花は一業の存在を感じ取り、そこに向かって全意意識を集中させた。“止まれ”と、たった一つの命令を必死に送り込む。
何かを感じたのだろう。一業は一瞬だけ眉を上げると、何事もなかったかのように歩き出した。思わず千花の顔が驚愕に包まれる。
――だめだ。いくら幻惑の効果を増幅しても、根本的に噛み合わないんだ。
どれだけ強力な水流をぶつけようが、ぶつかる対象がそこになければ意味はない。千花の幻覚を感じた瞬間、一業は自身の存在を塗り替えその効果を打ち消している。これではいくら幻覚の力を強くしたところで意味はないだろう。
さらに一歩穿へと近づく一業。もうはや一刻の猶予もなかった。
――そんな、どうしよう。どうすれば――。
焦るごとに思考がまとまらず冷静さを欠いていく。
一業が足を止め、穿の目の前に立っつ。千花は息を飲み心臓を締め付けられた気分になった。
4
トラックが迫ったまさにその刹那、僕は母の伸ばした手を拒んだ。必死に助けようとしてくれたのに、守ってくれたのに、そんな彼女の手を弾いた。
あのまま僕が押さなければ、逃げなければ、彼女はきっと助かった。少なくとも重症になることはなかった。僕が反射的に押してしまったことで、母はトラックの目の前に出てしまったのだ。
迫る鉄塊を感じて、遠ざかる僕の顔を眺めて、母は諦めたように、それでいてどこか寂しそうに小さな笑みを浮かべた。まだ小さいころ、僕の悪戯を叱っていたときと変わらない、いつものような穏やかな表情で。
母の顔に鉄の塊がぶつかり、その頬を、肉を大きく歪ませる。彼女の身体は紙切れのように視界の外に飛び出し、そして無造作に地面に落ちた。
悪魔の鳴き声のような音を鳴らし、急停止するトラック。その横で、奇妙な形に体をねじらせた母が転がっていた。彼女の身体からはスポンジの水を押し出すように赤い液体が流れ出していた。
色を失った世界の中で、その紅色だけが僕の目を捉えて離さなかった。その液体だけが唯一この世界で“生きて”いる気がした。
声の無い咆哮を上げ、彼女の下に駆け寄る僕を、周囲の大人たちが必死に押しとどようした。
僕は叫んだ。嘘だと、それが母のはずがないと。
ついさっきまで母はそこにいた。笑顔で、楽しそうに笑っていた。僕の好きな肉じゃがを用意するって話してくれていた。
それなのに、その母がそこで倒れているわけがない。そんなにズタボロの姿になっているはずがないのだと。
離せ、離せよ。僕は母さんの所へ行くんだ!
色々なことを叫んでいたようだったけれど、ふと気が付いたとき、僕はただ道路沿いに一人座り込んでいた。
ちかちかと揺れる救急車の車体の中に運ばれていく母を、絵でも眺めるように乾いた目で見つめていた。
これは嘘だと思った。こんなのは現実じゃないと。
あの救急車を、あのトラックを、集まっているやじ馬たちを、この目に映っているありとあらゆるもののに消えて欲しかった。失敗した絵を消しゴムで塗りつぶすように、何もかも無くしたかった。全てが目障りだった。
でも本当は、何よりも消えて欲しかったのは、こんな状況を作り出した僕自身だった。僕は、僕を消したくて仕方がなかったのだ。
腹部の痛みで目が覚める。どうやら一瞬気を失っていたらしい。
微妙にぐらぐらと揺れる視界の中、震える手で触ってみると、まだ腸は飛び出していなかった。じわじわと血と消化液が漏れ出してはいたものの、しっかりと皮の奥に引っ込んでくれている。肩の傷も見た目ほど深くはない。ぎりぎりのところで放った“蟲喰い”がいくらか一業の現象を無効化してくれたのだろう。
僕は腰を上げようとしたが、どうしてか思うように体が動かなかった。気合で我慢していたものの、四業や真理との争いで受けた傷は決して癒えたわけではない。既に限界近い血液を外部に漏らしてしまっていた。
夕焼けのように赤い目がこちらを見据え、ゆっくりと歩み寄ってくる。
いつ死んでもいいと思っていた。カナラを見つけられるのなら、千花を救えるのなら、自分の命なんてどうでもいいと思っていた。それが母を壊した、初代四業を殺した僕の罪の償いになれるような気がしていたから。
けれど、いざ目の前に“死”が迫っているのを実感すると、終わりを強く実感すると、どうしようもない恐怖が体の底から溢れだしてくる。
死にたくないと思った。
柄にもなく、実に情けなく。
僕はまだ、死にたくないと。
月明かりと柱の影の狭間に立つように、足を止め僕に向かって腕を伸ばす一業。ゆっくりとその腕の周囲の空間が歪み、波のようにノックバックしていく。
私じゃ助けられないと、千花は実感していた。自分とカナラの幻覚では、一業を止めることなんてできない。
感じる穿の心が、意識が、一業に押しつぶされるように弱弱しくなっていく。
こんなはずじゃなかった。こんなつもりじゃなかった。
千花がこの町にきたのは、頭の中でカナラに呼ばれたからだ。実際に呼びかけられたわけでも、命令されたわけでもないけれど、何となくこの町に引き付けられ、やってきた。最初はただ、その原因を調べたいだけだった。何故この町に来てしまったのか、何が自分を呼んでいるのか、それを見つけ出したいだけだった。
でも穿に会って、彼から“触れない男”たちの話を聞いて、千花は自分が狙われていると錯覚した。いや、カナラによってそうさせられた。
それで、甘えてしまった。守ると言ってくれた穿に。こんな不思議な力を持つ自分を、追われ続けていた自分を助けると言ってくれた少年に、頼ってしまったのだ。
超能力を持とうと、幼いときに仲が良かったからだろうと、彼は本来、こんな殺し合いにも、真壁教授たちにもまったく縁のない存在だった。わかっていたのに、引き込むべきではないと知っていたのに、嬉しくて、寂しくて、その手を掴み巻き込んだ。
もしここで穿が死んでしまえば、それは自分のせいだ。自分が穿を殺すようなものだ。自分が穿を殺す。
ぐっと喉が狭まる。今まさに穿が死のうとしているのに何もできない悔しさが、心底憎たらしい。
――ああ、こういう気持ちなんだ。こういう気持ちだったんだ。
穿の母親に対する感情をようやく理解する。
確かに忘れられるわけがない。忘れるわけにはいかない。こんな絶望を追い出すことなんてまともな人間には不可能だ。
お願い、逃げて! お願いだから……!
感じる彼の意識に訴えかけるように必死に願う。
だが無情にも、一業の手はじつにあっさりと、彼の頭めがけて振り下ろされてしまった。
死ぬと、突きつけられた現実。変えようのない未来。
あれほど自分の罪を消したかったのに、自分を憎んでいたのに、何故、僕はこうも恐怖を感じているのだろう。何故こんなに嫌だと思うのだろう。
まるで時間がとまったようにゆっくりと一業の白い手が降りてくる。
千花を救えそうにないから。目的を達成できなかったから。そういう理由も確かにある。けれど、根源にあるのはもっと別の感情だ。
自分の明確な死を前にして、絶対的な運命を悟って、僕は初めて自分の本心に気が付いた。
自分が許せなかったのなら、自分を消したかったのなら、さっさとそうすればよかった。そんなことはわかりきっていたのに、僕は生き続けた。自分をごまかして歩み続けた。僕は罪を認めて欲しかった。やってしまったことを責めて欲しかった。けれどそれは、償いをしたかったからじゃない。
かつて救えなかったカナラを探すことで、同じような力を持っている千花を助け命を懸けることで、僕はそれが罪滅ぼしになっていると思えた。ようやく己のしたことを償えると、そう希望を抱けた。
それがただの自己満足に過ぎないとわかっていたのに。情けなくも彼女たちに恩きせがましく己の業を押し付けた。助けたいと口にして、彼女たちのためだと意気込んで。
僕は罪を償うことで、その責任を追及されることで、自分が許されることを求めていた。許されることで、先へ進みたかったんだ。
カナラの力によって出来た繋がりから千花の感情が流れ込んでくる。
後悔。悲しみ。怒り。
まるで母を壊したときの僕のように、彼女は嘆き絶望している。
その気持ちを受け取って、今の状況が酷くあのときと似ていることに気が付いた。今度は僕が母の役割を演じている。
……――千花……。
僕の力では一業には勝てない。自分の死を回避することはできない。でもせめて彼女だけには逃げてほしかった。無事でいて欲しかった。せめて彼女が生きていてくれれば、こんな死人のような人生にも意味があったと思えるから。
最初はただの罪滅ぼしだった。カナラに、超能力に関係する彼女と接することで、僕は自分の罪の償い方を、生き方を見つけられると思った。それだけのつもりだったのに気がつけば、僕の中で彼女の存在はどんどん大きくなっていった。
カナラよりも、自分の罪を償うことよりも。他の何よりも。
……どうせ死ぬのなら、腕の一本ぐらい――。
最後の力を振り絞り、“蟲喰い”を前に放つ。特別な場所を狙ったわけでも、限界まで力を込めたわけでもない。ただ、無造作に伸ばしただけの弱弱しい一撃だった。
5
音の無い、感覚だけでしか認知することのできない轟音。弾きあう“蟲喰い”と一業の現象。
死ぬと、終わってしまうと思った。そう実感していたのに、驚愕の声を漏らしたのは、一業のほうだった。
「な、に――?」
目を見開き、後ろに下がる。その手には一滴の血が流れていた。
これで終わりだと。自分たちの負けだと、そう理解していたのだ。けれど、どういうわけか、僕は死んでいない。僕は生きている。
しゃがむに伸ばした手。その周囲を奇妙な霧が取り巻いていた。
いや、手の周囲だけではない。まるで僕の全身を守る様に、大量の色のない霧が溢れかえり、蠢いている。
「これは……――?」
手を動かすと、霧が移動し壁に当たった。するとすぐに、接触面が大きくひび割れ崩れ落ちる。どこかで見た現象。見間違うはずのない光景。
立ち上がり、意識を集中させる。すると僕の感情に反応して、周囲の霧が蠢いた。
――まさか、この霧は全部……?
にわかには信じられなかった。だが意識が、感覚がそれを認識、理解している。間違いない。僕の周りを漂っているこの奇妙な霧は――
「全部、“蟲喰い”なのか」
思わず声に出す。それほど衝撃的な光景だった。
混乱する僕目に千花の姿が映る。彼女も僕と同様に驚いた表情を浮かべていたけれど、すぐに何が起きたのか悟ったようだった。いや、お互いに理解した。
今の僕たちは精神の一部が繋がっている。離さずとも千花がその気になれば感情を伝え合うことはできる。
千花は無意識のうちに、この土地の力を僕に流し込んだのだ。カナラによって認識され、意識によって誘導されるのを待っていた力。それが二人の間にあるリンクを伝って僕の意識の影響を受けた。
超次場とは世界の軸がずれた場所の総称。それは人の意識の影響を受けまるで超能力のように世界に干渉する。カナラや千花が利用すれば、それは幻覚の精度、範囲を拡大することにつながった。人々の干渉し、操るという彼女の現象が強化された結果だ。だが全てを消したいと願っていた僕がその影響を受けどうなるかと言えば……。
それは目に見える場所を、手の届くものを喰いつくす死の霧。かつて己の罪を、目の前の事実を消し去りたいと願った少年の歪みの形。僕の願いそのものの具現。
先ほどと同様に一業が存在を塗り替える。床や天井が真っ二つに割れそれは僕の脳髄へと届きかけたのだけれど、周囲に溢れている霧によって、何もせずとも勝手に消滅した。
死ぬと、思っていた。負けると感じていた。
これが僕の運命だと。
罪の責任を人に押し付けた末路だと、そう思っていた。
――でも、でもまだ戦えるのなら。まだ武器があるのなら。
膝に手を乗せ立ち上がり、そっと千花の方に目を向ける。
彼女と、彼女の横に小さなカナラの姿が一瞬だけ見えた。
――僕は、生きたい。
息を吐きながら、右手の親指で他の指を撫で上げる。
それは手に付いた絵の具を落とすために母がしていた動作。
いつの間にか僕の癖にもなっていた動き。
周囲の霧が滑らかに旋回し、まるで防壁のように僕の身を警護する。
一業は倒れている千花に目を向けると、面倒くさそうに目を細めた。この状態が彼女によるものだとすぐに気が付いたのだろう。間をおかず、千花に向かって腕を上げる。
「――千花!」
手を伸ばし、彼女の名を叫ぶ。すると呼応するように、周囲の霧が前に飛び出した。
何かをしようとしていた一業は、背後から迫った“蟲喰い”の塊を察知し、横へ回避する。一部避けきれず体に当たったが、存在を塗り替えることでそれを無効化したようだった。
避けた? 攻撃が効かないはずなのに?
先ほどの彼が自分で説明した理論通りなら、攻撃を回避する必要なんてない。避けるということは、それがダメージになると思っているということだ。
彼の手についていた血を眺める。
――そうか。いくら存在を塗り替えようと、いくら実態を失くそうと、存在を塗り替えるなんて現象の特性上、同じ場所で二つの現象を行使することはできない。攻撃に現象を使用しているのなら、その間は彼の肉体は現実に存在している。
真夏の夜だというのに、おかしなほど涼しい。神経が、世界がよりクリアに感じられた。
普通に戦えば僕が一業に勝つことは不可能だ。どんな方法をとろうと、どんなタイミングで攻撃しようと、全て彼の現象で無効化されてしまう。だが――
僕の意識に呼応するように、大量の“蟲喰いの霧”が左右を走り回る。
今だけは、この場所でだけなら、僕は彼と戦える。千花とカナラが超次場の影響力を伝えてくれている今なら。この尋常でない“蟲喰い”の量ならば、存在を塗り替えている一業の現象そのものを囲って捉えることが出来る。
恐らく千花が僕に力を伝えていられる時間はそう長くはないだろう。無理に現象を酷使され、限界近い状態だったのだ。持って数分がいいところかもしれない。
これで、本当に最後。これが唯一の勝機。
――っ……!
両手を交差させるように前に伸ばす。同時に左右に漂っていた霧が一気に一業に向かって飛び出した。地面を、壁を、天井を、あらゆる障害物を破壊し突き進むそれは、まさに“蟲喰いの暴風雨”。
迫りくる死の塊を目にし、一業の目に初めて感情が見えた。
う~ん。今回なんか話がへたくそかも。
誰かアドバイスあったら下さい~。




