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浄我の形(じょうがのかた)【改稿前】  作者: 砂上 巳水
虚偽不還(きょぎふげん)
38/41

第三十八章 可畏憧憬(かいどうけい)


1


 足元を見ると、カナラと目が合った。

 彼女は苦しそうな表情を浮かべたまま何か言いたげにこちらを見ている。

 何だ? 伝えたいことでもあるのか?

 真理が体を屈ませると、カナラは痛みに耐えるようにゆっくりと話し始めた。

「真理……もう、いいよ……」

 掴まれている足が強く締めつけられる。

「どう考えても、あんたじゃ二業には勝てない。さっきの男の最期を見たでしょ? あいつはあんたを気に入っているから、本気で現象を発生させてはいない。手加減して攻撃している。そんな舐められている状態ですらこのざまなんだから。あいつはあんたの考えなんて全てわかってる。これ以上歯向かえば本当にただじゃ済まなくなるよ」

 自動で心を読んでしまっているのだろうか。カナラは残った力を振り絞って、まくし立てるようにそう言った。

「あんたのお父さんの敵はもう死んだ。もう無理に戦う必要なんてないでしょ。いいから逃げてよ」

 初めて見るカナラの弱気な顔。これまでどんなに苦しそうでも、どんなに追いかけられていても、ずっと凛として振る舞っていた彼女だったのに、まるで年相応の少女のように怯えた目をしている。

 そんなに辛かったのだろうか。この歪曲した土地の力を認識し、捉え続けることが。一業によってもたらされた苦痛が、疲弊しきっていた彼女の精神を折ったのだろうか。

 真理は深々と彼女の目を覗き込んだ。

 その深淵に踏み込むように。必死に隠そうとしている何かを探すように。いつもなら決して彼女の心情なんて読み取れなかったけれど、この時だけは何となくそれを察することができた。

 ――そうか。こいつは怖いんだ。自分のせいで誰かが犠牲になることが。

 カナラに関わったせいで匿ってくれた夫婦と四業は死んだ。彼女と知り合ったせいで、穿と千花は人生を狂わされた。これまで逃げ続けてきた間にも、同じように彼女は何人かの人間を巻き込み、怪我をさせてしまった。

 自分がいなければそんな被害者はでなかった。自分が関わったせいで彼らは傷ついた。その強い自責の念が彼女を刺しているのだ。ざくざく、ざくざくと。恐らく一業につけこまれてしまったのもそれが原因なのだろう。

 本来なら、真理自身もここまで巻き込まれる予定ではなかったのかもしれない。出会ったあのとき、カナラは本当に弱っていた。まともに動けないほど、初めて会った男にすら助けを求めるほどに。

 きっと最初は動けるまでのアシスト役のつもりだったのだろう。だが、一業の意志がそう仕向けたのかどうかはわからないが、八業との争いの最中、真理には超能力が生まれてしまった。まるで穿の事件を再現するように。

 自分のせいで真理が超能力者になったと後悔した彼女は、それで彼を見捨てることが出来なくなってしまった。巻き込んでしまったと責任を感じてしまったのだ。

 だから危険だとわかっているにも関わらず真理を近くに置き続け、その状態を見守っていた。訳もわからず放り出された超能力者がどうなるかは、自分自身の経験と穿の例を持って、よく知っていたから。

 涙混じりの目に真っ赤な炎と強い恐れが映っている。

 死を覚悟した真理の気持ちを読み取って、その思いに気が付いて、結果的にカナラはより大きな刃を背中に突き立てられてしまったのだ。

「お願い真理。もういいから、もういいから逃げてよ。もうこれ以上、私のせいで誰かが傷つくのは、見たくないよ」

 ぎゅっと真理の焦げた足のすそを握りしめ、唇を噛みしめる。それはあまりにもカナラらしくない姿だった。

 ――冗談じゃない。そんな顔を見せられて、引き下がれるわけがないだろ……。

 焦げた両腕と片足の痛みがますます強くなっていく。もはや動かすだけでも相当な激痛が走りそうだったが、気にせずカナラの腕をそっと掴む。ただれた手を目にした彼女は怯えたように真理を見上げた。

「馬鹿だなほんと。そうやって中途半端に責任を感じるから、お前はいつになっても同じことを繰り返すんだ」

 呆れつつ彼女の指を取り、優しく外す。

「中途半端に逃げて、中途半端に距離をとって、中途半端に誰かを利用する。それじゃあ、何かが変わるわけなんてないだろ。……助けて欲しいから、今の状態が嫌だから、お前は穿に、俺に声をかけたんじゃないのか」

 真理はその手でカナラの手をそっと握りしめた。

「だったら最後まで『助けて』って言えよ。そう願えよ。一度でも頼った以上、相手を信じて任せるのが、本当の責任だろ」

 カナラは冷や水を浴びせられたような顔で真理を見返した。

 ずっと不満だった。一緒に行動していたのに、一緒に過ごしてきたのに、彼女が心の支えにしているのはいつも穿だけ。自分は行動を共にしているだの部外者。彼女にとっては所詮利用しているだけの行きずりの男。

 そう割り切って行動していた。彼女に対する気持ちを押し殺して、親父の敵を見つけるまでの関係だとそう自分に言い聞かせてきた。――でも、もうそういうわけにはいかない。

 彼女は先ほど確かに、真理の目を見て、真理に助けを求めた。見えない穿ではなく、今ここにいる彼に救いを願ったのだ。

「お前は俺に『助けて』って頼んだんだ。だから最後まで、俺に助けさせろよ」

 にっと笑い立ち上がる。手を放すと瞳孔の大きくなったカナラの目がその後を追った。

「俺は穿にはなれないけどさ。それでもお前を守ることだけは出来るんだぜ」

 カナラは思うように言葉が出てこないのか、そのままとぎれとぎれに喉を動かす。

「何で、そこまで……」

「あれ? とっくに心を読んで気が付いていたと思ってたんだけど、意外とお前も鈍いんだな」

 呆れたように笑みを浮かべ、真理は激痛の走る足で地面を踏みしめた。

 肉全体が常にのこぎりで削られ続けているような痛みを我慢し、右手を前に伸ばし、“亀裂”の発動動作に入る。

 一部始終を静観していた二業は、何故か不機嫌そうに眉を寄せていた。

「そんな状態で挑んでくるなんて、馬鹿じゃないの。カナラの鎖を破壊するのとはわけが違うのだから。あんまりにも諦めがわるいのなら、あたしも少し手を荒げようと思うのだけれど」

「好きにしろよ。どうせお前に下ったところで、飽きたら一業に始末されるんだろ。だったら、今殺ってくれたほうが百倍ましだ」

 ぎりぎりと痛む指を折り曲げ、酷い臭いの漂う腕の照準の先を二業に合わせる。その言葉でより不機嫌そうに二業の表情が曇った。

 さっきよりも手足の痛みが強くなってる。もうこうして腕を伸ばしているだけで気が遠くなりそうだ。 

 ――しかし火傷ってやつは何でこうも後から痛みが響いてくるんだよ。随分と嫌らしい症状だよなまったく。

 痛みから意識を逃がすためにただひたすら“亀裂”の感覚に集中する。

 この足ではもはや素早い攻撃は出来ない。二業に近づけるかすらあやしいだろう。でも三業を倒したあの膨大な放出なら辛うじてその距離を埋められるかもしれない。

 動きだけで見れば“亀裂”はまさに電流そのもの。超能力とは意思や認識の力で現実を歪ませる現象だ。イメージさえ整えれば落雷のように鋭い放出を行えるかもしれない。

「あーあー。つまらない。。何それ? 何その感じ? 何も面白くないのだけれど。真理ならあたしのことを理解してくれると思っていたのに。共感してくれると思っていたのに。結局最後までそんなたちの悪い女の側に付くんだ。……――うん。じゃあもういいよ。もう要らない。自由にできても、また今さっきの光景が浮かんできそうだしね。そんなのは面白くないもの」

 二業の周囲から白い煙のようなものが上がり始め、足元に漂っていく。

「もういいよ。あなた」

 分子を操作するということは、つまり温度を操作するということ。激しく動かすのではなく、動きを停滞させていけば、自然とその状態はこうなる。

 床が凍り付いていく。じわじわと時間をかけてではない。バケツをこぼしたときの水のように我先にと冷気が床の上を支配し始めた。

 ――何だあれ? なんかやばい……!

 真理は逃げようとしたが、足の痛みに意識を邪魔されよろけてしまう。その間に二業は、空中へ炎の塊を作り出した。

「分子の振動を操作するっていうのは、こういうことだよ。もうどこにも逃げ場はない。防ごうが避けようが、急激な冷却と温度上昇に挟まれればどんな物体だろうと分子崩壊を起こす。さっきの希悦みたいにね。痛みを感じる暇もないと思うから、今のうちに言っておくね。あたし、本当は一業から最後まであなたを守るつもりだったんだよ。真理」

 冷気と炎熱。

 二つの渦が、絡み合うように立ち上りそして猛襲した。




2


 天井が燃え広がり、地面が凍り付いていく。

 真っ赤な炎熱の渦と白い極冷の渦が上下から同時に降り注いでくる。

 足はすでにまともに動かせない。回避も防御も不可能だ。

 真理はイタチの最後っぺよろしく“亀裂”を投げようとしてみたのだが、そんなものはあっさりと二つの暴風雨の前で塵と化してしまう。

 力を消す力では分子の振動を止めることはできなし、分子の振動が極端に低下した塊の振動を増やすこともできない。

 まさに在って無いがごとく素通りされ、熱気と冷気の雨が降り注いだ。

 ――あんだけかっこつけたこと言って、このざまかよ。

 先ほどの自分の言動と態度を思い出し、苦笑いする。まさかここで二業が本気になるとは思ってもみなかった。殺意を持って挑まれれば、相打ちに持っていくことすら至難の業だ。

 何もすることが出来ず、ただ二つの暴虐を前にして仁王立ちする真理。今度こそ死ぬのかと思ったのだが、そんな真理の心境をあざ笑うかのように二つの渦は真理の横を通過し、壁を深く抉り取つつ背後の棚に被弾した。

 割れるコンクリートの地面。弾ける空気。飛び散る破片。

 水蒸気爆発が起きたのだろう。瞬く間に背後からもの凄い量の灰色い煙が前方に逆走する。衝撃で地面が悲鳴を上げ天井の蛍光灯がこれでもかというくらい左右に揺れた。

 立っていられたのはひとえに姿勢のせいだろうか。

 痛みに耐えようと腰を深く下ろし、相撲取りのような格好になっていたことが幸いした。後頭部にぶつかるいくつもの破片を感じながら、心臓が止まった思いで二業に目を向ける。

 わざと外したのか? 本気で放ったように見えたが……!

 彼女から感じた殺意は本物だった。死んだと思った。確実に殺されると思った。けれど、今生きているという状況に矛盾を感じる。

 二業は爆心地を眺めると実に不機嫌そうに舌打ちした。表情全面に不快感が溢れている。

「まだそんな余力が……」

 視線の先は真理の背後、下側だ。それですぐに何が起きたのか理解した。

「……暗示をかけたり操ることは無理だけど、一瞬だけなら意思を誘導することはできる。舐めないでよね。万全状態だったらあんたなんか敵じゃないんだから」

 その言葉が煽りでも嘘でもないことが分かっているのだろう。二業は実に嫌そうにカナラに悪意のある目を向けた。

「あなたの認識能力の大部分は全てこの土地の力を把握することに酷使されている。そんな状態でどれだけ持つのかな? もう目を開けているだけでもやっとだと思うのだけれど」

 二業の左右に直径一メートルほどの球場のゆがみが二つ生まれ、そこから大砲のように熱気と冷気が連続して放たれる。まさに人間砲台、歩く殺戮兵器。アメコミにでも出てきそうな怪人だ。

 砕かれ大穴を刻んでいく壁。

 抉られ配管やら何やらをむき出しにする地面。

 砕かれ真横から折れた円柱の支え台。

 天井は見るも無残にひび割れ崩れ落ち、瞬く間にところどころが崩落を始めていた。

 連続して鳴り響く爆音に轟音。

 とてもじゃないが、これでは建物が持たない。あと数分もここにい続ければ間違いなく生き埋めになってしまうだろう。

「当たれ当たれ当たれ、当たれぇ!」

 悪態をつきながら最大級の破壊力を持つ現象を行使し続ける二業。しかしいくら放ったところでそれが真理の体に触れることはなく、周囲の建造物を食いちぎっていくだけだ。

 土煙と燃え移った炎のせいで視界の大部分が覆いつくされ、まるで爆弾が落ちたばかりの戦場の中にいる気分だった。

 ――いくら当たらないっていっても、これじゃあ……!

 直接殺されるか、間接的に死ぬかの違いでしかない。

 真理はカナラを庇う様にその上に覆いかぶさり、降り注ぐ石片や火の粉から守ろうとした。

「……真理、私が二業の現象を逸らせる時間は限られてる。本当に余力がないの。今のうちに何とかあいつを倒して……」

 灰で全身を白くしたカナラが息も絶え絶えに懇願する。

 こんな状態でどうやって、と言いかけたところで真理は思い直した。

 カナラは、彼女は自分を信じてくれたのだ。自分の言ったその言葉を信じて、苦しさに痛みに耐えて力を使ってくれた。その思いに答えなくてどうするというのだ。

 左手でカナラの頭を守ったまま、右手を前にかざす。

 自分の現象が穿ほど無差別なものでないことが悔しい。あいつの“蟲食い”だったら二業の炎だって破壊することができるのに。

「穿の力は確かになんでも消し去ることができるけど、あれは穴だらけだからあんたみたいに対象の全ての結合を否定することはできない。あいつの力じゃ炎がすり抜けさせてもろにダメージを食らっちゃうよ。でもあんたは認識範さえ広がれば、二業の場の全てを無効化することができる。それはあなたにしか出来ないことだから」

 もはやデフォルトでこちらの心を読んでいるらしい。カナラのかすれた声を聴き、真理は全身の神経を指先に集中させた。

 瞬間的な大破壊によって二業の肉体を破壊させる。体が動かない以上、一撃で全てを決めるしか打つ手はない。

 分子の間にある繋がろうとする力を、その分子を動かしている二業の意識を断ち切るイメージを浮かべる。

 皮膚がぐちゃぐちゃにつねられているように引きつる。

 肉が絶えず串で突き刺されているように疼く。

 血が沸騰し蒸発し続けているかのように沸き立つ。

 頭の横を二業の現象が突き抜け、耳は激しい崩壊音でごちゃまぜになった騒音しか拾わない。

 瞳の角膜は高温でかすれ、足は振動で震える。

 全くふざけた環境だ。こんな劣悪極まる状態でどうやってやったこともないほど意識を“亀裂”に集中させろというのだろうか。

 にじみ出た“亀裂”のはしくれが短い放電を飛ばし、飛んできた小石を砂に変える。

 だがそれだけだ。それ以上のことはなにもできない。

 二業どころか、こんなぶれぶれの現象では足元のゴミにすら届かないだろう。神経が痛みでやられ、“亀裂”の行使すら危うくなっているようだ。

 ――頼む、ここでやらないとダメなんだよ。ここで俺があいつを倒さないと、カナラは助けられないんだ。今だけでいい。今だけでいいんだ。俺にもう少しだけ現象を起こせる力をくれ……!

 二業の放った炎熱と冷気の塊がカナラの真横に落ち、そこを深く粉砕する。飛び散った床の破片が頭に当たり、カナラが苦痛の声を上げた。カナラの力が摩耗してきたのか、確実に二業の攻撃の落ちる場所が近づいてきている。

「大丈夫、集中して」

 あくまで冷静に、自分の役目だけに専念してと、そう諭すように声を絞り出すカナラ。

 今だけ。二業が冷静さを失い、カナラが辛うじて幻覚を使えている今だけしか、反撃の隙間は損存在しない。わかっているのに、どうやっても意識が途切れ途切れになる。

 二つの渦が三十センチほど前の天井に命中し大きな穴を作った。はきだしの鉄柱がそこから見える。

 自らの死の危険を強く実感したからか、走馬灯のようにこれまでの出来事が頭を駆け抜ける。

 家族を失った絶望。

 復讐を誓った瞬間。

 カナラに出会ったあの時。

 ずっと誰にも事情を理解されなかった。殺人者の息子だと勘違いされ、ただひたすらに耐えるだけの人生だった。

 泣きたくなったことだって何度もある。諦めようと思ったことだって何度もある。

 でもそれでも耐えてこれまでやってきたのは、何のためだ。何のために自分は“生きて”きた?

 真理は割れるような痛みが走る目を見開き、はっきりと二業の姿をそこに焼き付けた。

 ――俺は復讐がしたかったんじゃない。ただ居場所が欲しかった。誰にうとまれるでも誰に恐れられるでもなく、ただ普通の人間として生きたかった。それだけが本当の望みだった。

 左手を右手の手首に添え、握りしめる。感触なんてない。けれど掴んでいるという実感だけはあった。

 二業の放った炎が肩と首に当たり大きく後方に体が仰け反る。

「真理――!」

「……かすっただけだ。大丈夫」

 ほんとのところはわからないが、もうどっち道痛みしか感じないのだ。怪我の程度などどうでもよかった。

 真理はカナラを振り返り、彼女の黒真珠のような目を見返した。

「カナラ、俺を支えてくれないか」

 既に照準も定まらなくなってきている。固定しているはずなのに勝手に腕の向きが変わるのだ。

 気休めに過ぎないことはわかっている。それでも、そこに彼女が居ると、守らなければならない人間がいると認識することで、少しは意識が鋭くなれる気がした。

 真理の考えを読み取ったカナラは、痙攣してる上半身をなんとか起き上がらせ、そっと両手を彼の肩に置いた。

「ごめん。……ありがとう、真理。今度は私があなたを助けるから」

 小さな声が背中で響く。

 全身が悲鳴を上げていたけれど、ありとあらゆる感覚が痛みを訴えていたけれど、その隙間を縫うようにカナラの手の感触がダイレクトに脳に届いた。

 暖かくて柔らかい、小さな手。

 でもそれは、真理がずっと求めていた温もりだった。

 ――意識が連結する。

 手を伝ってカナラの精神が、苦しみが、感情が流れ込んでくる。同時に自分の思いや痛みが逆流するように彼女の中へ移動していった。

 不思議な気分だった。まるで自分がカナラになったかのような、カナラが自分になったかのような倒錯した感覚がする。

 精神が繋がったからだろうか。真理はここにきてはっきりと、その場に漂っている“何か”を認識することができた。

 それは排水溝に流れ込む風呂の水のごとく、カナラの体へ押し入り上へと移動していく。二業の起こしている現象とは比べ物にならないほどの圧倒的な“存在”の塊。この世界の現実とはベクトルのずれた“何か”。

 こんなとてつもないものを、お前は……!

 自分が彼女の立場だったのなら一秒も持たなかっただろう。間違いなく気が狂っていたはずだ。そんなものを身に受けたうえでここまで自我を保っていられるなんて、まさに奇跡的としか言いようがない。

 二業の現象が真理の両側の床を抉り取り粉砕した。

 顔を上げると、楽しそうに笑っている彼女の顔が見える。

 空気が震え左右の壁と天井から無数の細かい砂が落ちていく。

 二業は両手を後ろから前に交差するように動かし、とどめの一撃を放った。

 それはもはや壁といったほうが正しいだろう。

 駐車場に似たこの部屋の断面を覆いつくすほどの分子の乱気流が、ありとあらゆるものを破壊しながら迫ってくる。まるでプラズマの嵐だ。こんなもの超能力とかいう次元を超えている。明らかに一個の人間が持っていい力じゃない。

 あれほど大きな攻撃を逸らすことは不可能だ。二業はカナラの干渉対策として現象を範囲攻撃に切り替えたらしい。

 ――……っカナラの力が二業に効かないのなら、だったら――

 本能的に今するべきことを悟った。

「カナラ! 俺の意識を――」

 声に出すまでもなく、彼女は反応した。

 視界がクリアになり、全身の痛みが掻き消える。

 存在するのは自我とひとつの感覚のみ。“亀裂”を発生させるためのクオリアそれだけ。

 父の罪を、殺人者の息子というレッテルを、そんな他者との関係性を消し去りたいという願望によって生まれた世界の認識の在り方。

 これは繋がりを消すための力。

 万物をつなぎ留めている鎖をほどくための楔。

 カナラの助けによって今の真理は周囲のありとあらゆる存在を認識することができる。

 物を構成し成り立たせている者は力だ。力が無ければ物は形を成さずただの灰燼と化す。

 分子同士をつなぎ合わせる分子間力。

 触れた時に物自身が押し返す抗力。

 人々を地上に引き留めている引力。

 力が無ければ全てはただの塵に過ぎない。

 カナラとリンクしたことによって、世界を構築している力の骨組みがプログラムのようにはっきりと見て取れた。

 真理の手から半透明の亀裂が走る。

 例えカナラの力を借りたとしても、通常であればこんな芸当は出来はしなかった。今いる場所がこんな特殊な場所でさえなければ、亀裂は通常通り拡散し広がるだけだったはずだ。

 だがここは超次場。人の意識の影響を受けやすく、その認識の動きがありありとわかる場所。重厚極まる“ずれた”存在の塊が軌跡のように二業が起こしている場を、小刻みに分子を揺らしている“力”を感じさせてくれる。

 ――見えた――!

 落雷のような“亀裂”が疾走し、押し寄せる二業の壁と接触した。空気を切り裂くような大きな音が弾け、二業の発生させていた壁が円形にくぼむ。

 落雷とは、雲に溜まったマイナスの電荷と、地上に溜まったマイナスの電荷がお互いに引き合い中和しようとして起こる現象だ。物質間に働いている力をプラス電荷とするのなら、真理の力はまさにマイナス電荷。そこに十分なプラスがある限り、マイナスが消え去ることはない。

 亀裂が触れた個所に収束するように、二業の壁に大きな穴が開いた。分子の振動力と結束力を奪われ霧散したのだ。




3


 全ては一瞬の出来事だった。

 分子振動の壁を突き抜けた真理の“亀裂”はそのまま経路をたどる様に振動の発生源である二業の体を貫いた。

 彼女の背後の壁が深々とひび割れ砂となる。

「はっ……?」

 何が起こったのか理解できていないのだろう。

 二業はぽかんとした表情でこちらを眺め、そして吐血した。

 制御を失ったためか、ぎりぎりまで迫ってきていた分子の嵐がそれで消失し、余波の衝撃波で周囲の者が吹き飛んだ。天井が落盤し、部屋の四分の一が土砂で埋まった。

 降り注ぐ瓦礫を全て“亀裂”で砂に変え、何とか横に逃げ伸びる真理。力を使い果たしたのか、カナラはぐったりとした様子で真理に引っ張られた。

 与えることができたダメージは一撃のみ。だが、間違いなく致命傷だったはずだ。元々“亀裂”は防御不可能な現象なのだ。当たりさえすれば確実にそれは“通る”。

 必死に肩にしがみつき、カナラが顔を上げる。真理も同様に目を凝らした。

 膨大な土煙と火の手が上がる中、一つの影が目の前で動く。それは周囲の空気を吹き飛ばすと、ぎろりとした目で真理たちを睨みつけた。

「よくも、こんな……」

 二業の腹部は赤く染まり、血がそこを押さえている手を伝って下に流れ落ちていく。突き抜けたせいで破壊自体の範囲は小さかったが、確実に大きな損傷は与えられたようだった。

 カナラとのリンクが解除されたことで、全身の感覚が戻ってくる。

 手足が常に爆発しているような強烈な痛みが神経に走り、体中のあちらこちらに不快な重さを感じる。肉や骨が自分の体じゃないようだった。

 二業は再び吐血すると、地面に落ちた己の血液を見て、ツチノコでも目にしたかのような珍妙な笑みを浮かべた。自分の現状が予想外過ぎておかしさを感じているようだ。

 ふらふらと数歩前に進みながら手で己の頭を触る。血が頬に移り形相の痛々しさをより一層引き立てた。

「あははっ。参ったなこれ。致命傷じゃない。これは流石にまずいのだけれど」

 真理はもはやまともに動くことができない。

 カナラの補助も効かない以上、先ほどのように極限まで認識力を集中させた“亀裂の稲妻”を放つことも不可能だろう。二業がその気になれば、殺そうと思えばいつでも真理を仕留められる。

 ――もう何もできないぞ……!

 カナラを背に寄りかからせたまま、静かに二業の裁定を待つ。あとはもう、運に任せるしかなかった。

 室内のあちらこちらでは炎が立ち上り備品や壁、天井を燃やしていく。既に蛍光灯は全て割れていたが、広がった炎のおかげで明かりに困ることはなかった。この分ではすぐに上階にも火の手が上がってしまうだろう。

 熱によって何かが割れるパキッという音があちらこちらから響く。

 立ち尽くす二業を見て、背中に寄り添っていたカナラが声を絞り出した。

「今救急車を呼べば、まだ助かる。あんただって死にたくはないでしょ。今なら……」

 二業は顔を上げ、酷く不快そうな表情を作った。

「何を言っているの? 病院に出向いたら最後。教授の仲間にあたしの生存がばれてしまう。裏切者なんだよ。そうなればどっち道あたしは終わりでしょ」

「お前、自分の傷の具合がわからないのか? そのまま放って置けば間違いなく死ぬぞ」

 予想外な返答に驚き、真理は責めるようにそう言った。

「死に対する恐怖なんてない。あたしは他の実験体とは違って一度も自分の疑似的な死を経験してはいないけれど、それがどういうものかは理解している。死というのはただの“その現象”の収束に過ぎない。流れが止まって、命という名の渦が無くなるだけ。大したことでもそれほど悲観に思うことでもないでしょ。海に渦は無数に存在するし、消えようとどうしようと、自然の流れでまた何度でも生まれるのだから」

 真壁教授といい、二業といい、こいつらは虚無主義にでも取りつかれているのだろうか。どうしてそんなに簡単に己の死を受け入れて、平然と認めることが出来るのだろう。自分が終わる。自分の意識が消失する。死とはある意味世界の終わりにも等しい状態であるはずなのに。

「……お前は一業と一緒に実現したい目的があったんだろ。死んだらそれを叶えることもできないじゃないか」

 幸福と不幸のバトンタッチ。確か二業は先ほどそんな話を説明していた。その目的はまだ達成されてはいない。

 霞んだ目で血に染まった橙色の服を見上げる。

 まがりなりにもこの半年近くいっしょに過ごしてきた相手なのだ。敵だと分かっても、殺されかけても、傷つき生きることを諦めようとしている彼女のそんな姿を目にして、見過ごすことなどできはしない。

 自分を監視するために近づいてきたことはわかっている。でも彼女と一緒に笑いあった時間は、交わした言葉は本物だったはずだ。

 彼女が“十業”と名乗っていたときの笑顔を思いだし、真理は必死にそう呼びかけた。

 二業はじっとこちらを見つめると、いつものようにくすくすと笑った。何ひとつ屈託もなく、皮肉もなく、純粋に楽しそうに。

「あたしを心配してくれてるの? ほんと、あなたって優しいよね真理。そういうところが好きだったのだけれど」

 立っているのが辛いのか、壁に背を預け寄りかかる。ちょうどそこはカナラが鎖で捕らわれていた場所だった。

「さっきあたしが説明したのは、ただの案の一つに過ぎない。ただ、社会が面白くなればそれでよかった。何でもよかったの。……あたしの現象は分子の振動を操作する場を作ること。停滞しているものを動かし、動いているものを停滞させる破壊の現象。あたしはね真理。現実を、今生きているこの世界の常識や価値観をめちゃくちゃにしたかった。それが望みだったんだよ」

「何でそんな……」

 真理はぼそりと声に出した。

「カナラさん。あなたならたぶんわかると思うのだけれど」

 二業は血の付いた下唇を舐め上げ、真理の背後に視線を移した。

「普通とは違う生活。特殊な人生。逃げられず、決められた環境。父親に子と思われず、父親を父と思うことも出来ず、ただひたすらに実験体としての業務をこなすだけの毎日。まるで機械のように“ただ生きている”だけ。一業が肉体的に人間じゃないのと同様に、あたしも精神的に人間じゃなかった」

 カナラは何かを考えるような目で二業を見つめた。同情でも共感でもなく、推し量るように。

「でもね。……外に出てみてわかったの。程度こそあれ、そんなものは誰しもが抱えている問題だった。誰しもが不本意な鎖に捕らわれて固定された人生を送っている。親の目。世間体。お金や家庭環境。本来は自由であるはずの人生が、見えない概念だけの鎖に捕らわれてしまっている。指示されたわけでも命令されたわけでもないのにね。

 こんな馬鹿らしいことはないと思った。それじゃあ研究室に拘束されていたあたしと何も変わらないじゃない。違いはただその居場所が狭いか広いかだけ。定型の道を進まされる蟻同然、機械と変わらない存在だよ」




4


 自分の体を抱くように腕を寄せながら、二業は穴の開いた天井を見上げた。

「社会と離れていたからこそ、あたしにはより色濃くその異様さが見て取れた。それを不自然だと認識することができた。あなたたちはあなたたちだけの常識や世界を、集団的無自覚に勝手に構成してしまっている。それが世界の全てだと思い込んでしまっている。いや、敢えてそれ以外のものを見ようとしていない。

 だからあたしは、そんな常識や価値観を破壊したかった。鎖を解いて、部屋を破壊して、一人一人が自分の世界を持つ世の中を作りだす。この不気味な“社会”という枠組みを消し去りたかった。同じように世界の外にいる一巳くんとなら、それが叶うと思った」

 これまでとは打って変わって感情の籠った声。

 彼女が感じているという違和感がどういうものか、本当の意味で共感することはできないけれど、推測することはできた。

 きっとそれは彼女にとっては受け入れがたい絶望だったのだろう。研究室から出れば、外の世界に足を踏み出せば、何一つ己を縛るものはないと、彼女はそう願っていたんだ。

 だから許せなかった。しがらみだらけのこの世界が、勝手にそれを作り出している人間たちが。許せなくて、認めたくなくて、それを破壊したいと願った。そうすることでしか己を救う方法が見つからなかったから。生きる希望を抱けなかったから。

 だがと、真理は思った。話を聞いているうちになんとなく察してしまった。

 二業の彼女の願いは確かに狂気的で壮大だが、根っこにあるものはごく普遍的な感情なんじゃないかと。誰もが抱きうる、人間として当然の思い。それは当たり前の恐怖。

 背中に寄りかかっていたカナラが僅かに前のりになる。まるで真理の気持ちを代弁するかのように静かに呟いた。

「――寂しかったんだね。あんたは」

 ただ一つの言葉。だがそれは鋭い矢のように、二業の心を貫いたようだった。

「寂しい? あたしが?」

「あんたはただ一人が嫌だったんでしょ。誰からも理解されない自分が、存在を否定された自分が。常識だとか違和感だとか言っていたけどさ。あんたがやろうとしていたことって、世界を破壊することで皆を同じ目線に引きずり降ろそうとしただけじゃない。それを寂しいって言わないでなんて言うの」

 二業は何か言い返そうとしたが、喉から上げる言葉が見つからないようだった。口を半開きにしたまま悔しそうな表情でカナラを見ている。

「大層な理由を並べ立てても、そんなものは自分の不幸の腹いせとして通行人に危害を加える通り魔と変わらない。ただの独善意識の押し付けだよ。子供の八つ当たりと同レベルでしかない」

 姿に似合わない力の籠った声。

 二業は不機嫌そうに眼を細めたが、しばらくして、自嘲気味に肩の力を抜いた。小さな笑い声が崩壊した倉庫の中に木霊こだまする。

「……寂しいか。そういう考え方はしたことがなかったかなぁ。言われてみるまでまったく気が付かなかったのだけれど、確かにその通りかもしれない。――……表現を整えてみるだけで、随分とまあ人間らしい感情に聞こえること……」

 ゆっくりと血にまみれた手で己の前髪を掻き上げる。

「あなたの言うとおり、確かにただの八つ当たりかもね。でも、それの何が悪いの? 人は誰だって自分の利益のためにしか行動していない。他人を思っているようでも、遠慮しているように見えても、何かしらの帳尻を己の中で合わせている。善悪だなんて概念は結局人々が集団真理の中で生み出したただの抑止力に過ぎないものでしょ。いつだってどこだって、最終的には意志を通せたものが勝ちなんだもの。あなたがあたしの望みを寂しさだと表現するのなら、あたしはその寂しさを排除するために喜んで毒を飛ばすことにするよ」

 そんなことないと、そんな理由ではないと否定されるのなら、まだ可愛気はあった。だがこうも真っ向から事実を受け止めなおかつそれを正しいと信じられては、もはやどうしようもない。二業はいつだって優先するのは“自分”の目的だ。誰かが何を言おうとどんなに正当性がある命令だろうと、本人がやりたくないと思えば絶対にそれを拒否する。その揺るぎなさはある意味尊敬の念すら覚えるが、彼女の意志に沿わない立場の者からすればたまったものではない。

 どうすれば収まりがつくのか、どうすればこの場を抜け出すことができるのか、真理にはまったく予想がつかなかった。

「あんたみたいな人間に共感を求めでも無駄か。だって最初から他人を理解する気なんてないんだもんね。何かを変えたいのなら、自分自身を変えるしかないっていうのに」

 カナラの肩を掴む手が強くなった。

「だったら理論的な説明をしてあげる。今あんたの話を聞いて気が付いたんだけど……あんた、一業に自分の願いを託したんでしょ? ……私はあいつと頭の中でつながっていたから知っているけど、あいつ、そんな願いを叶えるつもりなんてこれっぽっちもないよ」

「何を言っているの? これほど膨大な力を手に入れたのだから。あたしの有益性を考えれば、一巳くんがあたしの願いを叶える余地や必要性は十分にあると思うのだけれど」

「だって矛盾してるんだもん。あいつの願いとあんたの願い」

 カナラは頭痛を我慢するように頬を引きつらせ、そう言った。

「矛盾?」

「あんたの願いは人間の既存の価値観や常識の破壊。でも、一業の、あいつの願いはそれを認め、そこに居座ること。どう考えても共存は出来ないじゃん」

 まだわずかにでもカナラと意識が繋がっていたのだろうか。真理はそのとき、カナラの頭から二業に向かって何かが流れていくのを感じた。

 それはあるイメージ。一業という少年の願いをまとめたもの。

 カナラが共感していた記憶を、一業の本当の願いを強引に知らされた二業は、信じられないと言った表情で目を見開いた。

「……な、なにこれ? こんなことが一巳くんの願いなの? こんなありふれた願いが……」

「あんたがあいつをどう思っていたのか知らないけれど、これは真実だよ。私の頭の中にいるあいつは、ずっとこのことしか考えていなかった」

 二業は「嘘だ」と言おうとして、その言葉を押しとどめた。願いこそ純粋なものであったが、その叶え方の異質さは間違いなく一業のものだと、わかっていたからだろう。

 歯ぎしりしながら腹部を抑える力を強める。

「あいつ、最初からあたしを利用するだけのつもりで……こんなことのために……!」

「わかったでしょ。あんたが私たちをここに留めようと、逃がそうと、どちらにせよあんたの願いは叶わない。目的を達成した一業は間違いなくあんたを殺す。簡単にね。手負いのあんたにあいつを倒せる余力なんてないんだから」

 大きな音が響き、焦がされた瓦礫がゆっくりと落下した。燃えていた棚が押し倒され組み合わさっていた板が外れる。振動であちらこちらのひびが広がり、灰が舞った。

 あまりこの場に長くいてはまずいことになりそうだ。

「カナラ、立てるか……!」

 膝を立てようとしてそのまま足を滑らせる。数分ぶりに動かそうとした瞬間、ありとあらゆる場所に激痛が走った。

「あんたのほうがダメじゃない。私に捕まって。歩くことぐらいはできるから」

 息も絶え絶えのカナラに引き起こされ、そのまま肩に手をかける。二人そろって死人のような姿だ。

 炎に囲まれた台座の上に陣取ったまま、じっと同じ場所に寄りかかっている二業。そんな彼女に向かってカナラは声をかけた。

「……それで、どうするの? あんたの好きな損得で言えば、もう私たちと関わるメリットはないはずなんだけど」

 それは確認の言葉。彼女の意思を全て否定したうえでの問いかけだった。

 二業は張りの無い目で割れた天井を見上げ、

「随分と悪趣味なものを見せてくれたね。……でもまあ、思い返せば確かに納得できる面もある。そういえば一巳くんは超能力を得る前から、ずっとそのことに憧れていたような気がするから」

 呆れるように、それでいて懐かしむような声で、二業はそう言った。まるでどこか姉が馬鹿な弟について愚痴を言うときのような雰囲気だった。

 降ってきた砂を払いながら、真理はうっすらと見える二業の顔に向かって呼びかけた。

「……二業。お前も一緒に行こう。今ならまだ助かる」

「話を聞いていなかったの? あたしは外には出れないと言ったのだけれど」

 困ったように溜め息を吐く。真理の顔をじっと見つめた二業は、くすくすと可愛らしい笑い声を響かせた。

「そうか。自分のせいであたしが死んでしまうことが不本意だって感じているんだね。あなたらしいといえばらしいけれど。……まったく本当に馬鹿だな真理は。あたしはあんたを殺そうとしたんだよ? そう思ってくれるのは素直に嬉しいけどさぁ」

 悩むように手を顎に当てる。腹に風穴が開いているとは考えられないほどの冷静な仕草だった。

 三十秒。いや一分ほどだろうか。

 長い時間を空けたあとに、二業は明るい声で笑みを見せた。

「……うん。そうだね。あなたたちを逃がしても留めても、あたし自身が逃げてももう未来はない。このまま一巳くんの道具として死んでいくのなら、そうやってあなたの心に残ったほうが面白いかもしれない。そのほうが何となく気分がいいもの」

 鎖に寄りかかった二業の左右に、大きな炎の塊が上がった。

 その二つは円を描くように絡まりあい、二業を中心に下からとぐろを描いていく。

 ――え? ちょっとまて嘘だろ……?

「やめろ、二業!」

「――今わかった。初めからこうすればよかったんだ。そうすれば余計な手間も苦痛も背負い込む必要なんてなかった。水甕みずがめに乗せた油はどうあがいても弾かれる。水甕の中を綺麗にするには、一つしか方法がないもの」

 ふざけるなよ。何でそんな簡単に、何でそんなにあっさりと決断できるんだ! どんな人生を送ろうと、どんなに異質な存在だろうと、お前だって俺と何も変わらない同じ人間じゃないか……!

「にっ――」

「じゃあね真理。あなたにあえて良かった。この半年間、それなりに面白かったよ。正直言って、もう少しだけ一緒に遊んでみたかったけれどね」

 炎の渦が収束し、二業の体を包み込む。

 二業の現象は場であって炎自体ではない。つまり彼女自身は炎によって傷を負うのだ。瞬く間にその皮膚が焼け焦げ、髪が燃え上がっていく。

「なるほど、こういう感覚なのか。新鮮な感じ」

 全身を討焼かれつつもなを冷静にそんな台詞を吐く二業。

 真理は彼女に向かって腕を伸ばそうとしたが、感覚がなくなったかのようにそれは動かない。

 最後にもう一度だけ真理の顔を見て、小さな笑みを浮かべると、二業の全身は視界を遮るほどの強烈な炎に包まれた。


 ――ふ~ん。真理って言うんだ。変わった名前なのね。


 とっさに初めてあったときの、あのときの笑顔が浮かぶ。

「二業――!」

 巻き上がった炎によって天井のひびがさらに大きくなり落盤した。二業が立っていた位置に大量の土砂がなだれ落ちる。

「駄目だよ真理、もう行かなきゃ……!」

 腕の下にいるカナラが青白い顔で叫ぶ。彼女一人でさえ歩くのがやっとのようだ。このままではカナラまでまき沿いにしてしまう。仕方がなく真理は歯を食い占め歩き出した。

 黒の混じった煙と灰の間を抜け、通路へ抜け出る。

「どっち!?」

「――っ真っすぐだ。まっすぐ……」

 二人三脚のように足の動きを合わせ、実に遅い速度で階段に向かって進む。走っているつもりなのに、思うように前に進まない。実際のところ這っているのと変わらない速度だった。

 さらに天井が崩れ、先ほどまでいた倉庫の入り口が押しつぶされる。

  ――……くそ……!

 これではもう二業の救助は絶望的だ。真理はひそかに目を伏せた。

 やっとのことで階段を上り切り、一階の広間に戻ると、綺麗に整備されていたはずの床はところどころが抜け落ち、無数のひび割れが出来ていた。大きな地震が発生した直後のようだ。

「大丈夫か?」

 今にもこと切れそうなカナラの顔を見て、声をかける。彼女は真理の体を支えたまま上を向いた。

「せ、穿を助けないと……一業は――……」

 そうだ。あいつはまだ上で戦っているんだった。自分のことで精いっぱいですっかりそのことを忘れていた。

「お前がここに残れば一業の計画は継続される。今は外にでたほうがいい。あいつは、俺が

助けにいくから」

 言いつつよろける。もはや少しでも気を抜けば全身の痛みに押しやられ、意識を手放してしまいそうだった。

「そんな体で馬鹿言わないでしょ。病院に行かないと……!」

「修玄さんが外で待ってる。あの人と一緒に遠くへ……」

 辛うじてそれだけを口にする。ふらりと体がよろけ、足の力が抜けかけた。カナラは唇を強く結び、真理の腕を担ぎ直す。

 体を通過していく超次場の負担がきついのか、歩きながら何度も倒れそうになるカナラ。お互いがお互いの体を支え合うように足を踏ん張り、出入り口のガラス扉を目指した。

「うっ……」

 カナラの口からは何度か短い嗚咽が漏れ、汗も滝のように首筋を流れていく。

 ようやく出入り口に辿り着き、そこから外に足を踏み出すと、耐えきれなくなったのか真理を抱えたままその場に倒れ込んでしまった。

「カナラ……!」

 目の前で必死に苦しみに耐えている彼女。その姿を目にして、真理は消えかけていた熱を心に取り戻した。

 火事場の馬鹿力というやつだろうか。

 痛くて仕方がない足を踏ん張らせ、彼女の身体を背負い込む。

 ――もう少しなんだ。もう少しで……!

 一歩進むごとに背後から感じる土地の気配は軽くなっていく。このまま歩き続ければ道路に出るまでもなく土地とのリンクは切れるかもしれない。

 穿との争いで忙しいのか、それとも二業を信じ切っているのか、一業によるカナラへの精神干渉は超次場の制御以外ないらしい。

 真理は血反吐を吐きながらゆっくりと前に歩を進め続けた。

 軽く火にあぶられ、霞んでいる視界の中に金色の月の光が指針のように道を照らす。もはや自分がどこに向かっているかもわからずただ足を動かし続けた。

 ――助ける。必ず助けるぞ。カナラ……!

 壁に、当たったのだろうか。

 何かが視界を塞ぎ、進行を妨げる。

 首だけを動かして道を確認しようとすると、線香の香りが鼻についた。

 それは人だったらしい。真理はがしっと、自分の体が抱き留められたことを知った。

「真理くん。これは……大丈夫かい!?」

 低いのか高いのかわかりづらい声。つい一時間ほど前に聞いたはずなのに、どこか懐かしく感じる。

 真理は修玄のやせた顔を見上げた。

「カナラを、遠くに……」

「ああよくやった。よく彼女を救い出した! 信じられないよ。穿くんは? 彼はどうしたんだい?」

「い、いいから早く」

 真理が物凄い形相でそういうと、修玄は慌てて表情を変えた。

「わ、わかった。こっちに手当てをしよう。カナラさんも車まで離れればもう影響はほとんどないはずだ」

 安堵したからだろうか。段々と声が遠くなっていく。

 まだ戦いは終わってはいない。穿は今も上で一業と対峙しているのだ。

 わかっていたけれど、どうしても体が思うように動かない。ただ、ただ背中の重さと息遣いだけが感覚を通り越して強く感じられる。

 ――助けた。助けたぞ、カナラ……。

 どっと全身の力が抜ける。

 張り詰めた糸のように、真理の意識はそこで途切れた。






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