第三十六章 菱形の塔
1
目が覚めると、そこに一業たちの姿はなかった。
建物の間には胴体を潰された三業の遺体と、今にも死にそうな四業が横たわっているだけ。
いつの間にか倒れていたらしい。僕は上半身を起こし、背後を振り返った。
かすかに生い茂っていた雑草たちは見るも無残に焦げ尽き、広がっていた土の多くも色を失っていた。当然、そこに千花の姿はない。
……連れていかれてしまった、か。
僕は陰鬱な気分になった。
やっと助けることができた。教授の魔の手から救えたと思った矢先だった。最後に見た彼女の怯えた表情が頭から離れない。
千花……カナラ……。
今ならよく思い出せる。楽しそうに絵を覗いていたカナラ。隣で本を読んでいた千花。
――ああそうだ。確かにあれは、僕の体験した過去だった。揺るぎない僕の事実だった。
近いようで、遠い過去の思いで。
ずっと不思議に思っていた。
何故僕に千花の記憶がなかったのか。何故彼女にカナラの意識が埋め込まれていたのか。何故僕に“蟲食い”なんて呪いが生まれたのか。
あのとき、僕があの男を殺したと思っていた。僕が命を絶ったのだと、ずっと後悔してきた。その罪を償うことが僕の生きる目的の一つだった。
あの男は動こうと思えば動けた。生きようと思えば生きれた。しかしあえて、カナラの意志を尊重して自ら死を選んだのだ。
直接的な死因が僕の“蟲食い”であることは変わらない。原因が何にせよ、どういった理由にせよ、彼を殺したのは僕だ。それはわかっている。けれど事実を知って、ほんの少しだけ締め付けられていた心が楽になれたような気がした。
指に力を込めると、辛うじて茶色を維持していた土が崩れた。湿気のある柔らかい感触が爪の先に現れる。
僕は膝に意識を集中させ、片足を立てた。重力が倍になったかのような気分だった。
何とか立ち上がろうとしながら、僕はたった今見たカナラの記憶に思いを馳せた。
一業は、カナラがエゴの塊だといった。自分の欲望に忠実な人間だと。
確かに僕と千花は、彼女のせいで人生が狂った。悩み、苦しみ続ける道を歩んできた。それを恨んでいないと言えば嘘になる。
でも、だからといって、僕は本気で彼女を責める気にもなれなかった。
カナラは、彼女は幼かったのだ。まだ子供だった。そんな状況に適応できるほど大人ではなかった。
家族を失い、匿ってくれた夫婦も殺され、彼女に残されたものは自分の命だけだった。それが全てだった。
断片的にしか体験することは出来なかったけれど、きっとすごく怖かったはずだ。凄く心細かったはずだ。いくら特別な力を持っていようと、いくら人を操ることができようと、彼女はまだ未熟な少女でしかなかった。そんなか弱い女の子が生きたいと願って、死にたくないと叫んで、何が悪いというのだ。
手段は確かに間違っていた。けれどそれはエゴなんかじゃない。生きたいという至極当然の、純粋な思いからくる行動だった。
一業は彼女の中からでしかものごと見ていなかったはずだ。絶望していた彼女の感情からしか、それを理解していなかったはずだ。
……僕は昔、人を殺した。
それをずっと後悔してきた。ずっとその事実に苦しんできた。だからこそ、カナラの気持ちがよくわかる。どれだけ苦しかったか、どれだけ後悔していたか。
僕はまだ彼女と何も話してはいない。まだ、彼女の口から事件に関する言葉を聞いてはいない。記憶は見たけれど、それはあくまでただの記憶だ。彼女の思いじゃない。
僕は彼女と話したかった。彼女に文句を言いたかった。
真実を知ったからこそ、彼女の口からその気持ちを教えて欲しかった。
膝の上に手を乗せ、体をしっかりと支える。
――これで終わりになんてするものか。
まだ終わってはいない。負けは終わりじゃない。四業のときだって、千花を取り戻すことができたのだ。今度だって、きっとどうにかできる。諦めない限り、終わりではないのだから。
僕は自分を鼓舞するように心の中で己に檄を飛ばした。
「……っ……!」
小さなうめき声が聞こえたのでそちらを向くと、真理が歯を食いしばって立ち上がるところだった。彼は自分の揺れる足を二度拳で叩くと、物凄い形相で身動きの取れない四業に向かってにじり寄っていく。凄まじく強い意志をその背中から感じた。
「し、業……!」
四業の目の前まで来た真理は、仰向けで苦しんでいる彼を見下ろし、殺意の充満した目を押し付けた。
「おい。あいつらは……カナラたちはどこに行ったんだ」
「はっ。……俺が知るわきゃねえだろ。見てただろ。このありさまだぜ」
「あの白いやつはお前の仲間だったんだろ。何か知ってるはずだ」
「知らねえって言ってるだろ。あいつは一年前に死んだと思ってたんだ。カナラに返り討ちにされてな。今さらあいつが何を企んでいるかなんて、俺にわかるか」
咳き込みながら、四業は馬鹿にするように真理を見上げた。
彼の言っていることは恐らく真実だろう。先ほどの様子はとても演技をしているようには見えなかった。
僕はそっと真理の肩に手を乗せた。
「たぶん、そいつは真実を話してるよ。聞いても無駄だと思う」
「じゃあ、どうすればいい。カナラの様子を見ただろ。あの白いやつはカナラを使って何かをするつもりなんだ。教授が負けたって情報がその仲間や知り合いに伝わるまで時間はないはずだ。そいつらが情報を掴んだり、俺たちに接触すれば簡単に事実がわかるんだからな。何かするなら今しかない」
真理の言葉を聞き、僕は「確かに」と思った。
カナラが欲しいだけだったのなら、わざわざ僕たちや教授と関わる必要なんてなかった。何せ一業はかなり前からカナラと繋がっていたのだから。
教授たちの追っ手を失くすためだとしても、彼の予定ではカナラだけは生き残った。このままカナラが生きて逃亡を続ければ、いずれ教授と同じような連中に目をつけられるかもしれないのに。
一業は、彼は教授のような人間の拘束から逃れたいと話していた。だがそれは、一年前に死んだと思われていたことで達成できていたはずなのだ。なのにあえて存在を知られるリスクを冒し、カナラを操って僕たちを利用した。何故なのだろうか。そこに何かしらの理由がなければ整合性がつかない。
僕は彼の心情を必死にトレースしようとしてみた。なりきって思考を読もうとした。だがどれだけ頑張ってみても、その真意は微塵もわからなかった。
四業が再び吐血する。もう長くないようだ。
真理はぶっきらぼうに彼に疑問をぶつけた。
「回復できるはずだろ。何でそんなに苦しんでんだよ」
「はっ、うる、せえぇ。材料がなきゃ回復はできねえんだよ。それに、こいつは再生の強化だけじゃあ、どうしようもねえ」
「……何をされた?」
血管が浮き出て、どんどん顔色の悪くなっていく四業を見て、僕は僅かに怖くなった。
「一業の野郎……どういう手を使ったかは知らねえが、俺の血液をすべて毒に変えやがった。毒は再生じゃ治らねえ。抗体がねえと、な」
全身の血液が毒に?
僕ははっとした。頭の中に瑞樹さんの顔が浮かんだのだ。彼女の死因は急性心不全。何らかのショック症状を起こしていたが、体内からは毒素などは検知されず、警察は原因を特定できなかった。
まさか、一業が彼女を殺したのか。
瑞樹さんは亡くなる前日に白い少年と一緒にいたところを目撃されている。彼女の死に方。それに四業のこの状態。答えは見えているようなものだった。
「……そうか。わかったよ」
真理が片腕を伸ばし、四業にとどめを刺そうとする。それを見て、僕は慌てて彼の手を掴んだ。
「やめろ。殺す必要はないだろ」
「何言ってるんだお前。こいつが勝手にくたばるのを待ったまま先に進めるか。万が一生き残れば、またカナラを狙うかもしれないし、教授の関係者に俺たちの存在が知られることになる」
「……それはわかってる。けど……――」
「お前に“殺し”への抵抗感があることはさっきの記憶干渉で知ってるよ。けど、生かしておくのは危険過ぎるんだ」
真理は僕の腕を振りほどき、現象を発生させようとしたが、四業の胸の前でその手が止まった。
歯痒そうに小さく揺れている。どうしてもそれを四業に当てることができないようだ。
恐らく千花によってカナラの暗示が解かれたせいだろう。彼の苦悶の表情を見て、四業がため息を漏らした。
「はっ。てめえがやんなくても、俺はもう限界だよ。もう助からねえ」
四肢の欠損。全身の血液の毒化。常人ならとっくに死んでいてもおかしくはない状態だ。四業は悲しそうに眼の周りを潤ませた。
「俺は……ただ強くなりたかったんだ。それだけが望みだった。お前らには……俺の気持ちなんてわからねえだろうけどな」
それを聞いた真理は、つまらなそうに横を向いた。
「わからねえよ。俺はお前と違って何の苦労もしてないし、嫌な目にも遭ってないからな。どんな目に遭ったからといって、どんな環境で育ったからといって、自分の不満のはけ口を他人に押し付けるのはただの屑だ。そんなやつの気持なんかわかってたまるか」
「……はぁ? 何言ってんだてめえ」
憎々しげにそう呟くと、四業の眼球が真っ赤に染まった。細胞の破壊がそこまで進んだらしい。
彼はひと際苦しそうにうめき声を上げると、そのまま息を引き取った。四業らしくはない、惨めな表情だった。
2
真理は壁に背を預けると、思案するように腕を組み、自身の顎に手を置いた。カナラのことでも考えているのだろうか。かなり真剣な表情をしている。
僕は呼吸を整えながら腕時計を確認した。針は既に午前零時を超えていた。
「……文化センターだ。あそこが怪しい」
こちらを見ないまま、真理が声を出した。
「だろうね」
僕は静かに頷いた。もっともな意見だと思った。
あそこは真理の父親をはめた例の男が何度か目撃された場所であり、カナラと一業が出入りしていたところだ。前に訪れたとき、千花も妙な感じがすると言っていた。一業があえて“この町”で何かをしようと企んでいるのなら、あそこが一番その現場となる可能性が高い。
真理は壁から背を放すと、意思を確認するように聞いてきた。
「お前、まだ動けるか」
「ああ。大丈夫。少し休んだから、元気になったよ」
お互いぼろぼろなことはわかっている。僕も、おそらく彼の身体も限界のはずだ。だが彼の何かに負けたくなくて、僕はそう意地を張った。
「ここから文化センターまでは、歩いて四十分ってところか。どれだけ気を失っていたかはわからないけど、二業たちだって徒歩のはずだ。今追いかければまだ間に合うかもしれない」
「歩いて行く気なの?」
「仕方ないだろ。他にどうする気なんだよ。こんなとこタクシーだって通らないぜ」
いら立ったように真理は眉間のしわを寄せた。
僕はそんな彼のぶっちょうずらを眺めながら、
「こんな状態で歩いて行ったら、それこそもう体力が持たないだろ。ちょっと待ってて」
ここは北区の北東。位置的にはかなりお寺と近い。僕は端末を取り出し、修玄に電話をかけた。
元々心配してくれていたのだろう。繋がるまでそう時間はかからなかった。
現在の状況とカナラたちの誘拐について説明する。彼は黒幕が一業だということにかなり驚いた様子だったが、何とか了承し、迎えに来てくれることになった。
「お寺からここまで車だと五分もかからない。すぐに来てくれるってさ」
僕は花壇のふちに座りながら、そう説明した。
「修玄って、あいつ信用できんの?」
「少なくも僕はしてるよ。さっき見た初代四業の記憶でも、彼に協力的だったし」
「そうか」
それっきり、真理は黙り込んだ。
元来ひと気がない場所ではあったが、時間帯のせいでさらに周囲が静寂に包まれていた。辛うじて、遠くから鈴虫の鳴く声が聞こえるくらいだ。
雨が降ったおかげで雲が発散したのだろう。金色の満月や星々が大きく輝き周囲を照らしている。まるで星々のお茶会だ。そういえば三年前のあの日の夜にも、これと同じような大きな月が出ていた。
感傷に浸りながらそうやって空を見上げていると、真理がさりげなく声を出した。
「こんな状況じゃなきゃ、最高の景色なんだけどな」
「こんどじっくり見ればいいさ。双眼鏡でも用意して。昔カナラたちと都内で試みたんだけど、あっちじゃあんまり見えなかったな……」
僕の言葉を聞いた真理は、腕を組んだままこちらに視線を落とした。
「穿、だったっけ。お前ってカナラのことはどう思ってるんだよ」
「どう? どうって、大切な友人だけど」
「ふーん。本当にそれだけ?」
興味無さそうに聞いているが、気にしているのがもろわかりだった。きっと彼女の記憶を見たせいだろう。僕は内心おかしく思いながらも、素直に答えた。
「……あのころの僕にとって、カナラは救いだったんだ。母さんの病気で参っていた僕の前に、彼女はいきなり現れて、何の躊躇もなく心の奥底に飛び込んできた。その奥に火を灯してくれた。彼女がいなければ、僕はきっと心が押しつぶされていたかもしれない。当時の僕は彼女の笑顔を見ることが一日の楽しみだった」
真理は黙っている。僕は気にせず言葉を続けた。
「でも今思えば、あれはきっと依存に近い感情だったんだと思う。お互いにお互いのことを依代にして、必死に自分たちの居場所を作ろうとしていた。それは凄く心地よかったし、楽だった」
当時の気持ちを思い出すように、僕はゆっくりと語った。
「でもある日、僕は千花に出会った。ひょんなことから知り合って、僕たちはよく一緒に遊ぶようになった。そしてかなり親しくなったころ、僕は話の流れで母の状態を説明した。たぶん、慰めを求めていたんだと思う。
けれど僕の事情を知った彼女は、決して同情心なんて見せなかった。ただ理解して、それを受け止めてくれた。彼女は傷の舐め合いなんかじゃなく、その原因に立ち向かわせようとしてくれたんだ。
あの公園に来たのもきっと、僕やカナラのことを心配してくれていたんだろうね」
僕は濡れた花壇の花に目を留めた。黄色の受け皿が幾重にも重なったような花弁。八重咲草の王という花だ。土手などによく咲いているやつである。
「千花がいたおかげで、あのころの僕は前を向くことができた。生きようと思えた。……記憶を覗いたことで、やっとあのときの気持ちを思い出せたよ。三年前も今も、いつも僕を振りい立たせてくれるのは彼女だった。
……カナラのことは今でも大切な友達だと思っている。けど、僕にとってもっとも大切な人間はやっぱり千花なんだ。
――だから、君が心配しているようなことは、何もないよ」
僕がそう言うと、真理はわずかに顔を下げた。何を考えているのかはわからなかった。
遠くから車のエンジン音が近づいてくる。修玄が来てくれたのだろう。僕は花壇から腰を上げ、立ち上がった。
水気や泥を払う僕を見て、真理は真剣な声を出した。
「助けられると思うか」
「正直、わからないな。相手の戦力はこっちを圧倒してるからね。でも、諦めるわけにはいかない」
“触れない男”のときも、教授のときも、いつだってピンチをチャンスに変えてきたのだ。どれだけ力の差があろうと、分が悪かろうと、相手が生き物である以上、隙はある。僕は、その一瞬にかけるつもりだった。
「精神干渉だって万能じゃない。千花は教授に完全に体を支配されていたけど、僕との繋がりからそれを解除することが出来た。きっとカナラだって、同じような方法がとれるはず。一業は僕が何とかするよ。僕が彼の注意を引いているその間に、君はカナラを助けるんだ。彼女さえこちら側に戻れば、まだ勝てる見込みはある」
「わかった。俺だって、諦めるつもりなんか微塵もないからな」
右手の裏で軽く壁を叩き、そこから背を放す真理。彼の目は相変わらず力強い色をしていた。
入り口のほうで車が止まり、修玄の声が響く。距離のせいか、彼が怯えているからか、非常に小さな音だった。けれど僕の耳にははっきりとそれを聞き取ることが出来た。
「行こうか」
僕がそういうと、真理は小さく頷いた。
これまでずっと一人で戦ってきた。傷つき、足掻いてきた。
仲間がいるという事実は素直に嬉しい。真理の存在に、僕は確かな心強さを感じた。
3
「しかし酷い姿だねぇ。君たち……」
バックミラー越しにこちらを眺めながら、修玄がまずい飯でも食ったような表情を浮かべた。
真理は腕を組み、全く気にしていないようだったが、窓に反射する自分の姿を目にし、僕は確かにと思った。皮膚や服のあちこちにこびりついている血や泥。腕や頭にはいくつもの裂傷や青痣、火傷などがある。事情を知らない人間が目にすれば、暴行され誘拐されている途中の子供に見えるかもしれない。
もっとも修玄の不安そうな顔や何故か自信満々な真理の顔を見れば、考えを改めるかもしれないけれど。
「車がほとんどないから、十分くらいあれば着けると思う。その間に手当てとかしたほうがいいね。後ろのスペースに救急箱が入っているから、使いなよ」
「ありがとうございます」
正直一旦落ち着いたことで、四業にやられた火傷の痛みがぶり返してきていた。気休めにしかならないだろうが、治療していると思える何かをすることは無駄ではない。僕は救急箱を取り出し、消毒液を体のあちこちにぶちまけ、絆創膏などで裂傷部を塞いだ。
横に座っている真理に渡すと、彼は無言で自身の治療を開始する。かなり慣れた手つきだった。
窓の外は真っ暗であまり景色は見えない。時間帯のせいもあるだろうが、そもそも明かりを放つ建物自体が少ないのだ。遠くのほうに見える北区の住宅街と文化センターの明かりが、浮島のように輝いて見えた。
ハンドルを切りながら修玄が呟いた。
「しかしあの一業くんが黒幕だなんて、とても信じられないよ。あんなに従順で素直な子だったのに……」
「彼をよく知っているんですか」
すかさず僕はバックミラーを見上げた。
「まあ、仮にもぼくは真壁教授と一緒に研究していたからね。彼は最初の実験体だし、付き合いは長いと思うよ」
「どんな人物だったんですか」
性格やこだわりがわかれば、それから一業の現象を考察することができる。僕は期待を込めて聞いたのだが、修玄の返答は望ましいものではなかった。
「正直いって、わからないんだ。彼は真壁教授の命令なら何でもやったし、なんでも受け入れた。そこで待てと言われたら、一時間だって二時間だって、微動だにせず立ち尽くす姿を見たこともある。まるで機械やロボットみたいな存在だったよ。自分というものが、感情というものが欠落した人形。何を考えているかまったくわからず、そこには意志や願望なんて存在しなかった。怖いほどにね」
「……感情がない人間なんて存在しないと思います。どれだけ物事に対する興味が希薄だとしても、動いて何かを行って、生きている以上、そこには必ず本人の意志がある。命令されたまま行動していたとしても、命令を守らなくてはならないといった認識は存在しているはずなんですから」
「そうだね。君の考えはわかる。でも当時のぼくにはそうとしか思えなかったんだ。それほどまでに彼は空虚な存在だった」
「彼はカナラと意識がリンクしたことで、感情が生まれたって言っていました。それで超能力が発現できるようになったと」
「カナラの感覚から学習したってことかい? 確かに、それなら一定の思考パターンは身に付くだろうけれど、聞いた限り、一業の現象はカナラの力とは似て否なるものだったんだよね。本当に彼女の精神構造をまるまる受け継いだのなら、現象もそれに近いものになっているはずなんだけど。発生した現象が違うってことは、やっぱりそれは一業の意志によるものだってことになるね。僕にはあまり信じられないことだけど」
一業の意思。彼の望み。彼が願っていたこと。
一体何なのだろうか。何があんな得体の知れない現象を生み出したのだろう。
ずっと道具として生きてきた人間が、カナラの強い意識に触発されて欲望を持った。初めて自分の望みを理解した。
そんな人間が望むこととなんて、全く想像することができない。彼の存在や立場は僕の常識とはかけ離れすぎている。
いくら考えても答えは見えそうになかったので、僕は一業の現象を推測することを諦めた。
窓から光が入り、自販機の側面が一瞬目に付く。住宅街に入ったようだ。もう文化センターは間近だった。
信号を確認しながら修玄が言った。
「彼の現象がわからないなら、やっぱり打つ手は一つしかないね。先にカナラと千花を開放して彼女たちの現象で一業を支配するんだ。精神干渉さえ成功したのなら、どんな現象を持っていようと関係がない。それを使わせずに事態を収拾させることができる」
やはり、そうするのがベストだろう。むしろそれしか勝機はない。だからこそ、一業たちもその方法には当然気がついているはずだ。
ならば問題は、カナラと千花を救うまでの過程ということになる。そこの動き方次第で勝敗が決定する。
僕は真理のほうに顔を向けた。
「さっき言ったとおり、僕が一業を何とかする。その隙に君はカナラを……――」
「わかってる。けど、逆じゃなくていいのか。あいつはたぶん俺よりもお前の助けを求めてると思うけど」
「僕は今の彼女のことをほとんど知らない。僕が知っているカナラは、あくまで三年前の幼い少女なんだ。君はずっとカナラと行動を共にして一緒に戦ってきた。彼女の精神に語りかけて呼び戻すのなら、君のほうが適任だよ」
何より真理には、僕にはないカナラに対する強い感情があるのだから。
真理は手のひらに頬を乗せると、つんと澄ました表情で頷いた。
「わかったよ」
電灯の消えた歩行者の存在しない通りをまっすぐに抜けると、あの塔が、ひし形の壁が視界に入った。何度も見ているはずなのだが、今はその異様な景観が奇妙なほど恐ろしいもののように見えた。
「もう着くよ。準備して」
背筋を伸ばす修玄。彼を見て真理が頬をぴくりと震わせた。
「あんたはどうするんだ。中に入るのか」
「ぼく? そのつもりだけど、ダメなのかい?」
「あんたに超能力はないだろうし、運動神経がいいようにも見えない。中に入ってもたぶんすぐに殺される。……俺たちがカナラとあの子を助けれたとして、もし二業たちへの暗示が失敗すれば、逃げるための足が必要になる。できれば、外で待機していて欲しいんだ」
「確かにそうですね。万が一僕たちに何かがあって、千花やカナラだけが逃亡するようなことになったときも、修玄さんが外に居れば助かります。今後のためにも修玄さんは外にいたほうがいいかもしれません」
僕が真理の言葉に合わせると、彼は残念そうに肩を落とした。
「ま、確かにぼくに二業をどうにかしろって言われても、無理だね。説得できそうな相手でもないし、行くだけ無駄か。せめてカナラたちを助ける役に立てたらって思ったんだけど、君たちの意見に従ったほうが無難かもね。了解したよ」
急に呼び出してわざわざ来てもらった分申し訳ないが、現実的に彼を連れていくのは避けたほうがいい。寂しそうな表情を浮かべる修玄に、僕は少し引け目を感じた。
車から降り、ストーンヘンジーのような広場に立つ。
前に千花と来た時には何も感じなかったが、今は肌に突き刺さるような嫌な威圧を感じる。この場のあちらこちらに一業の意識が伝播しているかのようだった。
「嫌な空気だな」
文化センターを見上げながら、真理が呟く。僕と同じように何かを感じ取っているようだった。
「じゃあぼくはここで待っているよ。何かあったり、助言が必要な場合はすぐに連絡してくれ。できる限り協力するから」
「ありがとうございます。すぐに千花たちを連れて戻ってきます」
僕は修玄の目を見てそう言った。
彼は無言で頷くと、酷く心配そうな表情でこちらを見返す。僕は彼に一礼し、文化センターに向き直った。
この異様な空気……絶対に千花はここにいるはずだ。
もう僕は全てを知った。
カナラが何をしたのか。千花に何があったのか。僕たちを取り巻いている状況をようやく理解することが出来た。今なら素直に彼女と向き合うことができる。本当の彼女を知っている。
もう一度あの丘に行くために。
僕たちの空白を、歪んだ時間を取り戻すために。
僕は、死気溢れる塔へと足を踏み出した。
4
ホールの自動扉にロックはかかっていなかった。
中は暗く、従業員も全て帰宅しているようだったのに、あっさりと僕たちの侵入を許す。
入り口横にある警備室を見ると、青い制服を着た中年の男性がうつ伏せに寝ていた。微かに上下している背中を見るに、死んではいないようだ。一業に何かされたのだろう。
僕と真理は正面にあるエスカレータへと向かった。
電気が通っているとはいえ、逃げ場のないエレベータに乗るわけにはいかない。高所まで上がったところでワイヤーを切断されれば、こちらは打つ手もなく死を迎えるしかないのだ。非常階段では吹き抜けとなっている中の様子がわからないし、消去法で考えてこのルートがもっとも危険が少なかった。
暗闇の中を無言で歩き、いつぞやのカフェの横を通り抜け、エスカレータの前へと到達する。そこで僕たちは足を止めた。
「――よくここがわかったな。何の情報も与えていなかったはずだが」
黒いドレスを着たカナラが、二階のテラスに立っていた。口調から察するに、一業が話しているようだ。
真理が上階へ駆け上がりそうになったところで、カナラが小さく笑みを浮かべた。
「ぼくは幻影だよ。本当の彼女は今地下にいる。二業と一緒にね」
「地下?」
真理が聞き返した。
「カナラにはポンプの役割をしてもらっているんだ。方向性のない無垢な空間のずれに干渉するために」
カナラの姿をした一業は、前と同じように両手の指をお腹の前で合わせた。
「この場所は特別なんだ。お前たちは超能力がどうやって発生するか知っているか? この世界は観測者が認知するまで、それを構成する物質は存在しない。観測することで初めてそれに形を与え、役割を生み出している。意識の力でその観測の仕方に影響を与え、観測者の任意の状態に形作ること、それが超能力の現象だ。……だが別にこの世界は人間の自我の中にしか存在しないわけじゃない。あくまで存在している“何か”を形として認識しているのが人間であるというだけの話だ。認識され、形作られなくともその“何か”はそこら中に充満し、混濁している」
「は? 何が言いたい?」
胡散臭そうなで一業を見上げる真理。僕にも彼の気持ちはよくわかった。
「“何か”の構成を再編するために必要な“認識”とはつまるところ意識の軸、空間に対する影響力の“深度”が違うということ。それは人の精神だけではなく、物体であれば何であろうとありうる現象だ。
パワースポットなんて単語を聞いたことがあるだろう。あれらは全て、そうやって存在としての軸が、空間に対する干渉力の深さが周囲よりもずれた場所のことだ。その場に寄ってたがる人々の願望や意識という“方向性”に影響され、その方向性にそった“認識”の影響を観測者に与える。いわば、疑似的に超能力を発生させる場所といったところか。真壁教授はこれを超次場と呼んでいた」
話を聞いていた僕は、一業の述べようとしていることが何か分かった。
「この文化センターがその超次場だっていいたいのか」
「ああ。ここはかなり広大な、そして深度の大きい超次場だ。普通に過ごしていれば些細な幸運に恵まれることがあるだけだが、使い方次第では強力な道具になる。人間の“認識”能力は有限だ。人は自分が見えると思っているものしか見ない。見えないものを見ようとはしない。だから認識できる領域も狭く、その影響も少ない。……しかし、あらゆる他者に干渉し、自分だけではなく周囲の全ての存在を認知し、かつそれを把握できるほどの認識能力を持つ人間ならば、この場所を十二分に活用することが出来る」
まさか、カナラのことか……!
僕はすかさず彼に叫んだ。
「君は、カナラを使って何をする気なんだよ。この場所で彼女に何をさせたい?」
「ぼくは真壁教授のように“終末願望”の克服にも、人類の自己意識の更新にも興味はない。ぼくはただ、ぼくのエゴのために行動している」
答えになってない……! わざと話を濁らせているのか?
僕はさらに一業を問い詰めようとしたのだが、真理が先に声を放った。
「おい、あいつは地下に居るんだな」
たった今一業が説明した言葉など、どうでも良さそうに威嚇の表情を浮かべる。
彼の顔を見て、一業はどこか面白そうにカナラ姿の首を傾けた。
「ああ。そうだ。お前たちの正面の非常階段から下に降りれる。その先だ」
「千花は? 彼女も一緒なの?」
僕が聞くと、一業は軽く首を振った。
「あの模造品は上だよ。発生させた現象を広く周囲に伝えるには、そのほうが効率がいいからな。カナラがこの場所を認識し、取りまとめる役目なら、彼女はそれを方向づける役目だ。本来はぼくがそれを行うはずだったが、せっかく手にはいた道具を利用しない手はない。何せあの役目はリスクが高いからな」
「リスク……?」
「模造品にはぼくの認識にそった現象を発生させ続けてもらう。カナラがポンプで、彼女が蛇口のイメージと言えばわかるか。当然、水の勢いに耐えられないほど蛇口がもろければ、それは崩壊する」
冗談じゃない。そんなことさせてたまるか。
僕はすぐにでも上に向かおうと思った。
「明日には真壁教授の信徒も事態に気が付くだろう。その前にぼくはぼくの目的を達成する。彼女たちを助けたかったら急ぐんだな。準備が整うのは、もう間もなくだ」
そういうと、カナラの姿をした一業の姿は塵のように搔き消えた。底の見えない暗闇の沼だけが、彼の居た場所に滞在している。
二階を恨めし気に睨みつけながら、真理が地面を軽く蹴った。
「あいつ、俺たちを確実にここで殺す気だな。だからわざと情報を教えやがった」
僕は奥歯をきりっと歪ませた。
一業たちの側に立って考えれば、姿を見せてカナラが下に居るという台詞を吐く必要はない。あれは明らかに真理を下に移動させようとしての言葉だ。一業にとって、僕らが一人だろうと二人だろうと、大した脅威には感じていないはずだ。なのにそんな真似をした理由は、カナラと千花に“もっとも親しい人間”が死ぬ姿を見せて、その精神を完全に砕くためだろう。徹底した男である。
「仕方がない。別れよう。どっち道、両方助ける必要があるんだ」
真理と二人で上か下のどちらかに攻め入っても、戦力的には大差がない。ならば、分散してカナラと千花の意識に訴えかけるほうがまだ能率はいい。もしかしたらどちらか一人は助けられるかもしれない。一業たちの考えに乗っかる形にはなるが、それ以外に選択肢はなかった。
僕がそう言うと、真理は心配そうな目でこちらを見た。
「……大丈夫か。まともにやりあおうとするなよ。あいつは――」
三業と四業を瞬殺した。
「わかってる。僕にだって考えはあるさ。そっちこそ、無理はするなよ」
正直言って、考えなんてほぼ無いようなものだ。でも真理に臆していると思われたくなくて、僕はそう普段通りの表情を作った。
真理は短く息を吐くと、半開きにした手を軽く前に上げる。そして、そのまま奥に向かって走り出した。ワインレッドのシャツの背中が、灯のように遠ざかっていった。
僕はエスカレータを見上げると、一呼吸置き、声を出した。
「さて、――……行こうか」
重い振動とともに足元の黒い台座が揺れる。
電源が入っているのは一部だけらしく、見渡せる店の多くは沈黙を貫いていた。
当たり前か。変に明かりが灯っていれば、外から丸わかりになってしまう。一業としても、ひと目にはあまりつきたくないのだろう。
明かりがないためか、自分が上昇しているのではなく、僕を囲んでいるフロアが勝手に下に落ちていっているような変な錯覚を抱いた。実に不気味な感覚である。
落ち着くんだ。落ち着け。
一業だって生物なんだ。四業たちを降したあれが超能力だって言うのなら、必ず発生源や法則が存在するんだ。見た限り、遠距離タイプの現象じゃないはずだ。三業のときも四業のときも、彼は自らの手で攻撃をしていた。
つまり距離さえ維持していれば、致命傷を受ける可能性は低い。僕も攻撃することはできないけれど、千花にさえ接触できれば十分なのだから、問題はないだろう。
呼吸を整えるように目をつぶる。
数刻前。真壁教授の意識に介入したときから、僕はずっと、頭の中に千花の存在を感じていた。ほんのわずかな感触だけれど、確かにそこに彼女のぬくもりが存在している。
例え無理やり意識を奪われていても、近づいてそのぬくもりに呼びかければ、彼女が答えてくれるような気がした。根拠も理論もへったくれもないけれど、僕はなぜか、それを強く実感していた。
もう彼女に対する疑念も不安も何もない。今なら本心で、素直な気持ちで千花と接することが出来る。
助けたい。一業の下から彼女を救いたい。何より、僕はまた千花の顔を見たかった。
エスカレータの最端に着き、足を床に移す。
一業は“上”としか口に出さなかったが、僕は迷うことなくある場所を目指していた。
靴以外の音が家出した廊下を真っすぐに進む。一歩足を下ろすごとに、自分の存在を強く実感した。
看板など見る必要はなかった。訪れたことはないが、あの場所の目の前までは来たことがある。
そこ専用のエスカレータに乗り、再び体が運ばれる。
電灯は切れていたけれど、窓から差し込む月明かりのおかげで室内の様子はよく見えた。
展望台。この文化センターの花形。瑞樹さんが最後に目撃された場所。明社町全体にカナラの現象を伝えるのなら、ここ以上に適任の場所はないだろう。
金属が擦れる音とともに、体がフロアに上がり切る。
手すりから手を放し、顔を上げると、真正面の窓辺の縁に、綺麗に整えられた千花が寝かされていた。
あの長いまつ毛。艶やかで美しい黒髪。幻覚ではない。今の僕にはわかる。正真正銘の彼女だ。
すぐに駆け寄ろうとしたのだが、それに合わせたかのように、目の前の空間が斑に歪み、真っ白な肌を持った少年が姿を現した。漆黒の髪の下から覗く真っ赤な瞳が、僕を無感情に見つめる。
「一業……!」
僕が喉を唸らせると、彼は静かに、ズボンのポケットから手を抜いた。




