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浄我の形(じょうがのかた)【改稿前】  作者: 砂上 巳水
虚偽不還(きょぎふげん)
35/41

第三十五章 死と花


1


 記憶にあるもっとも古い父の姿は、僕に向かって拳を振り下ろしているところだった。

 お茶をこぼしたとか、花瓶を倒したとか、理由が何だったのかは詳しく覚えてはいないけれど、とにかくやたらめったら殴られていたことだけは確かだ。

 小学校に上がり、物心がついたころの僕にとって、父はただ恐怖の対象でしかなかった。

 いつも彼の気分を損ねないように、いつも彼の注目を引かないように、いつもなるべく殴られないように、僕は影のようになって行動した。

 殴られている僕を見ても、母は一切助けようとはしなかった。自分に対する父の注意が逸れたことを良しとして、化粧やテレビを見ることに夢中になり、後ろで血反吐を吐いている僕のことなど構おうともしなかった。

 幼いながら、僕はよく思ったものだ。ああ、この世界はこういうものなのだと。力のあるものが上に行くのだと。力があるものが全てを支配できるのだと。どんな理由があろうと、どんな原因があろうと、どんな苦痛を強いられようと、弱ければそれで終わり。どうしようもない。

 父による暴行の痕跡を毎日のように体中に刻みながら、僕はそうこの世の真理を決定付けた。

 


「なあ、ちょっとだけでいいんだよ。ほんの二万だけ。それだけあれば、今月はもういいからさ」

 嫌いな教師の授業をさぼるために、校舎裏へタバコを吸いにいったときのことだった。僕は太った男子生徒が、一学年先輩の校章をつけた男にかつあげされているところを目撃した。

 見たことがある生徒だ。確か同じクラスにいた覚えがある。おとなしくてあまり目立たないやつだったから、名前は記憶していなかった。

「そんな! 先週だって一万円渡したじゃないですか。もうこれ以上無理ですよ。貯金だって無くなったのに」

「借りれば何とかなんだろ。頑張れよ。努力って大事だろ。やる気になれば人間なんだってできんだ。ほら、根性、根性!」

 先輩はその太った同級生の腹部を抉るように殴った。

 唾を吐き出しながらうずくまる同級生。殴られ慣れていないのか、呼吸が出来なさそうに悶絶していた。

 このまま戻ってもよかったが、せっかく面白い光景を目にできたのだ。どうせならこのチャンスを活かそうと思った。

 僕は端末を取り出すと、同級生の腹部にもう一発入れている先輩の写真を撮った。あえて音量は全開にしておいた。

「ああ? お前なに撮ってんだよ。誰だよ。てめぇ」

 僕の存在に気が付いた先輩が、憤りをあらわに近づいてきた。僕は無表情でそれを見つめながら、彼が目の前に来るのを待った。

「消せよおい。てめえ一年か。いい度胸だなこら」

 ドスを聞かせた声で上から睨みつける先輩。その瞬間、僕は溜めていた声を爆発させた。

「はぁああ? 舐めてんのはてめえだろ。粋がってんじゃねえよ。ひょろ助」

 あらんかぎりの声を張り上げ、喉を絞るように低く怒鳴った。

 この手の人間は年下、それも大人しそうな人間を見下しがちだ。自分が上だと、最初から安心しきっている。つまりある意味油断しているのだ。

 僕の豹変ぶりとあまりにドスの聞いた声に虚を突かれた先輩は、動揺したように目を揺らした。

 その隙に、僕は全力で彼のふとももを蹴り抜いた。腹部は部活などで鍛えている者も多いが、ふとももの筋肉というのはいくら鍛えたところで、慣れていなければ実のところかなり衝撃に弱い。僕の一撃を受けた先輩は、がっくりと膝から崩れ落ち、うめき声を上げた。

 それを、僕は蹴った。踏んだ。踏み抜いた。

 何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。

 父に散々殴られてきたおかげで、どこを殴れば、どこを蹴れば、一番痛みを感じるのか、心が折れるのかは熟知していた。先輩は体を丸めるように必死に痛みに耐えていたけれど、三分ほど蹴り続けたところで、泣きべそをかきながら誤ってきた。

「わ、悪いかった。俺が悪かったよ。もうやめろよぉ」

 僕は足を止め、彼の顔の横に屈みこんだ。

「五万。払えよ。お前のせいで俺の靴下が汚れたんだけど。これ、ブランドもんなんだよな」

「はぁ? ふざけんなよ。何で俺が――」

 さらに三度頭部を殴った。表側は痣になって目立つので、後頭部と側面を重点的に攻めた。

「わかった。払う! 払うから」

 そういって涙を見せる先輩。横で唖然と座りこんでいた同級生以外の生徒からも、お金を徴収していたのだろう。彼はその場で五万円を払おうとしたので、僕は財布を奪い、中から七万円を抜き取った。ひょんなことからかなりの臨時収入を得れた。

「あ、あのう……ありがとう。ぼく……」

 太った同級生が何を勘違いしたのか、お礼を言ってきたので、僕は笑顔で彼に言葉をかけた。

「ああ。そう。じゃあ、謝礼として財布の中全部な。あ、今あるだけでいいからさ」

 同級生は絶望した表情を浮かべていたが、そんなことは関係なかった。所詮、この世は強いものが優先権を手にできるのだ。それが学力だろうと、芸術だろうと、暴力だろうと、基本的な原理は何も変わらない。自分の意志を明確に相手に押し付けることができ、それを容認させる力を持つものが、〝上”に行ける。

 もうただ痛みに耐え続けていたガキの頃とは違う。

 僕は自分が権力を得るためなら何でもやっていた。

 大人しく、いつも人の顔色をうかがっているようなやつらをおとしめ、端に追いやり、歯向かってくるものは容赦なく叩き潰した。

 見下されるよりは、嘲笑されるよりは、恐れられているほうが何倍もいい。もう二度と、父の暴力に耐えていたあの頃には戻りたくなかった。負け犬にはなりたくなかった。殴り続けている父のイメージに沿うように、僕はひたすら、他者をいたぶり続けることを良しとしたのだ。

 同級生から金を受け取ると、泥まみれで倒れている先輩の写真をもう一枚撮った。倒れている彼の姿を見ると、自分が強いと実感できて最高の気分だった。

 いつになっても調子に乗っている他人が這いつくばる姿というものは甘美なものだ。

 気分が高揚した僕は、その気持ちを表現するためか、無意識のうちに口笛を吹いていた。



 ある程度歯向かう人間たちを潰していくと、誰も僕に文句を言うやつはいなくなった。

 えばり散らしていた先輩たちは、僕と目が合うのを避けるようにこそこそと横を移動し、同級生たちは恐れをなして近寄ろうとはしなかった。

 怯える彼らを見下している間だけは、まるで父になったかのような気持ちになることができた。そうして他者を見下している間だけは、自分が生きているということを強く実感できた。

 僕にとって父は最悪の象徴であるとともに、同時に強さの象徴でもあった。いつも彼のように上に立てるように、彼のように他人を見下すために、自分が踏みつけられる犠牲者にならないことだけを考えて生きてきた。それが正しいと信じていたから。暴力と罵倒の中で育った僕には、それしか自分を表現する方法を知らなかったから。

 今はまだ父の陰に怯えているけれど、このままいけば僕の体格は彼を超え、自由に言うことを聞く人間も増えてくる。いつかは必ずあの父に復讐をする。泣き叫ぶ彼に助けを焦がせる。その強い欲求が、僕の生きる目的だった。


 しかし、そんな願望を成就するより早く、父はある日、あっさりと姿を消してしまった。何の連絡もなく、ぱったりと家に寄り付かなくなったのだ。

 噂で聞いたところ、どうやら彼は若い女にはまり、その女と一緒に駆け落ちしたようだった。近所の主婦が、偶然駅で若い女と切符を買う父の姿を目にしたらしい。

 憎悪こそ抱きはしたが、もともと家族の愛情など何一つない男だ。直接手を下せなかったことは少し残念ではあったが、彼が消えたことは喜ばしいことだった。

 僕は毎日が天国のような気分だったのだけれど、父が消えたことで当然問題も生じた。

 父はろくでもない人間だったが、一応最低限の収入を手に入れる能力は有していたため、彼がいなくなったことは経済的な面でかなりの痛手だった。

 毎日高校に通い、青春を謳歌している僕が気に食わなかったのだろう。ある日家に帰ると、母は恨みの籠った声で僕をののしった。

「あたしの苦労も知らないで、毎日そんな風に遊んで。あんた、ほんとあの人にそっくりだね。顔も、性格も、何もかも。見ているとどうしてもあの人のことを思い出す。できれば出て行って欲しいもんだよ」

 その言葉を聞いた僕は、最初こそ母を恨んだものだったが、これであの家の全員と完全に縁を切れることに気が付き、逆に喜んだ。

 暴力の記憶しかない父にも、ろくに会話をしたことのない母にも、何の愛情も愛着もなかった。

 僕はすぐに高校を中退し、少ない荷物をまとめ、家を出た。振り返ることは一度たりともなかった。


 先に高校を卒業していた先輩のつてで、僕はあるお店で働くことになった。若い女が中年の男どもをもてはやす、よくある接待用の飲み屋だ。

 年齢的にはアウトだったが、僕のつらが整っていたことと、その店にろくな男が居なかったことが幸いし、店長はあっさりと僕のバイト参加を認めてくれた。

 そこでの生活は実に楽しかった。

 自分の力でお金を稼ぎ、自分の好きなように使い、好きなように遊んだ。

 今まで弱い奴から適当に収集したお金はあったけれど、やはり自分で稼いだお金というものは全く価値が違った。酔っぱらいを殴れたり、金をこっそりとせびれるところも魅力的だった。僕は真面目に仕事に取り組み、その生活にのめり込んでいった。

 三年間。そこでの仕事を続けた頃。僕はすでに店の中でもかなりの古株となっていた。店長とは言わないまでも、それに準ずる発言力を持ち、年上の新人どもがへいこらと僕に頭を下げていくのを見るのは、実に快感だった。

 お金も、女も、地位も、全てが上手くいっていた。はたから見れば、羨ましいほどに満たされているように見えたことだろう。

 けれど、実際は違った。

 僕は、その生活に物足りなさを感じるようになっていた。

 誰かを見下す喜び。自分が強いと思っている者を引きずり下ろす達成感。何より、平穏な生活というものが苦痛で仕方がなかったのだ。

 僕の居るそこは元々グレーな店だったけれど、最近になって知名度が向上したからか、その筋の人間とのかかわりも多くなってきていた。

 彼らの態度。考え方。その活動スタイルを見ていくうちに、僕は自分が彼らに強く惹かれていることに気が付いた。

 決心してからは恐ろしく早かった。僕はすぐに店をやめ、彼らの一員となった。

 毎日のように飛び交う怒号や罵声。

 降り注ぐ暴力。

 嫌悪していたはずなのに。

 恐れていたはずなのに。

 その空気はどこか懐かしく、僕の心を満たした。

 殴られれば痛みに耐え、いつか殴ったそいつに復讐することを考えてはどぎまぎした。そしてその思いは全員とまではいかなかったけれど、ある程度は実行に移し、僕は自分の飢えを満足させることができた。

 でもすぐに、その組織にいても空腹を感じるようになった。

 警察との取り決めや、細かい暗黙のルールなど、組織としてやっている以上、色々な制約が多く存在し、自由に行動することが出来なくなったのだ。

 僕は飢えていた。

 暴力に。自分が上だと実感できる状況に。心躍るような残虐な光景に。



2


 どこからか僕の話を聞きつけたのだろう。

 ある日、僕の下にくたびれた中年の男がやってきた。最初は何だこのホームレスはと嫌悪していたのだが、よくよく見ると、それが父であることがわかった。

 若いころの面影は全くなく、頬は痩せこけ腰も曲がり、小さな弱々しい男になっていた。

 もう関係のない人間だと最初は店から追い出したのだが、彼はそれからしつこく何度も何度も僕を訪ねるようになった。

 血縁上は一応父親だからと、僕が妙な気まぐれを起こし遠慮して強く出なかったのが影響したのかもしれない。

 ある日、自宅に戻るために海沿いの駐車場で自分の車を探していると、父が待っていた。

 彼は僕を見つけた途端素早く駆け寄り、両肩を猿のように掴んだ。

「雄介。頼むよ。金が必要なんだよ。お、女に騙されて大金が必要なんだ」

「女ぁ? 知るかよ。てめえが巻いた種だろうが。てめえで何とかしろよ。何で俺が金を貸さなきゃいけねえんだ」

 僕は冷たくあしらい、さっさと父から離れようとしたのだが、彼はしつこく食い下がってきた。

「なあ、頼むって! 親子だろ? 小さいころ、ずっと養ってやったじゃあねえか。その恩を返すと思ってよ。もうお前しかいないんだよ」

「親子?」

 その言葉に僕は強い憎しみを覚えた。

「今さら親子ずらかよ。てめえが俺に何をしたか忘れたのか? てめえはずっと俺を殴ってるだけだったじゃねえか。今さら何急に父親ずらしてんだよ」

「それは、お前のためを思ってだよ。それが教育だと思っていたんだ。俺も親父には散々殴られて育った。それしかやり方を知らなかった」

 涙ぐみ、そんな言葉をのたまう父。だが、長いこと客商売で店の女や中年たちの相手をしてきた僕には、彼の目が微塵も泣いていないことが手に取るようにわかった。

 ……やっぱり、こいつは最低の屑野郎だな。

 彼の胸を突き飛ばし、強引にその場を離れる。もう二度と顔を見たくはなかった。

 まさか散々見下してきた僕に突き飛ばされるなんて思ってもみなかったのだろう。その瞬間、父は逆上し、これまでに聞いたこともないほど大きな叫び声を出した。

「――雄介ぇえ! お前まで俺を見捨てるのか。誰が育てたと思ってるんだ。誰がお前の飯代を稼いだと思ってるんだ? 育てた恩を返せぇ!」

 狂気に飲まれたように、こちらに向かって体当たりをし、僕の体を横倒しにした。

 そのまま馬乗りになり、どこにこんな力が残っていたのかわからないほど、猛烈な勢いで拳を振り下ろしてきた。

 あまりのことに対処が間に合わず、僕はただ必死に彼の殴打を防ぐことしかできなかった。

 何度も殴られているうちに、拳を繰り出す父の顔を見ているうちに、僕はかつての記憶を思い出した。

 酒に煽られ、気分次第で僕と母に手を上げていたころの彼の姿を。あの下卑げびた醜悪な表情を。

 気が付けば、僕は彼の喉に両手を伸ばしていた。

 顔を真っ赤にし苦しむ父。

 最初こそ怒りに震えていたが、時がたつにつれそれが怯えた顔に変わっていく。

 その顔を見ていると、何だかひどく心が癒された。

 ――なんだ。あんたもこんな顔をするのか。あれほど怖くて大きかったあんたが。こんなに怯えるのか。

 手足の動きが止まり、彼の身体から一切の力が抜けても、僕は手を離さなかった。

 彼を殺してしまったことに恐怖を覚えたからではない。魅せられていたからだ。

 その怯えた表情に。

 絶望した目に。

 父のその姿は、ありとあらゆる僕の飢えを満足させる、自分が確実に彼よりも〝上”だと認識できる最高の光景だった。



 それから僕は、所属している〝会社”のつてを使い、なるべく人間の処理を担当したいと申し出た。父の死に顔。人の全てが凝縮された、あの最高の瞬間をもう一度味わいたい。もう一度目にしたい。その思いが、僕の意志と体を支配していた。

 殺す相手の多くは敵対する〝会社”やへまをした仲間だったけれど、まれに借金で首が回らなくなった女や、口車に乗せられて利用された馬鹿な女の始末をすることもあった。

 強がっている男が屈服し、涙としょんべんを垂れ流す姿もなかなかに見ごたえがあったものだが、無力な女が死にたくないと泣きわめき足掻く姿は、とても新鮮で果汁が飛び散るようなフレッシュブルな快感を僕に与えてくれた。より強く自分が〝上”だと実感できた。

 できるだけ長くその苦悶の表情を見たいから、できるだけ長くその甘美な声を聴いていたいから、僕はなるべくじっくり時間をかけて女たちを殺すことにした。

 様々な方法で。様々な道具を使って。

 殺しを続けていくうち、次第にその欲求はエスカレートしていった。

 より珍しい女を。より自分が〝上”だと実感できる相手を求めた。

 そしてついに、絶対に手を出してはいけないある女を見つけ、彼女から目が離せなくなってしまった。

 そいつは〝社長”の女だった。

 いつも高そうな服やアクセサリーで着飾り、いつも偉そうに若い〝社員”たちに命令していた。

 当然〝社員”たちの不満はかなりのものであったが、〝社長”の女であるため文句は言えず、それが余計に女の傲慢さをエスカレートさせていった。

 毎日のようにその女のことを見ているうちに、僕は次第に彼女が死ぬ瞬間の姿をよく想像するようになっていった。避けられない死が目の前に迫ったとき、彼女はどんな顔をするのだろう。どんな言葉をさえずるのだろう。

 そんな思慕にも似た強い欲求だけが日々募っていった。

 僕にとって妥協は負けだ。それはつまり自分が〝下”になることを意味している。

 許せることではなかった。認めてはならないことだった。自分が誰かの〝上”に立ち、他者をいたぶることこそが、僕の生きがいなのだから。

 例え〝社長”の女や娘だろうと、その本能を例外にするわけにはいかなかった。

 そして僕はある日衝動的に、社長”の女を誘拐した。


 

 彼女を殺したあと、事件はすぐに露呈した。

 僕は〝会社”のほぼ全ての人間から追われ、逃亡するはめになった。

 後悔なんてまったくなかった。ただ不満だったのは、怒りに震える社長の顔を見れないことだった。

 長い間〝会社”に在籍していたから、金さえ払えば何でもしてくれるつてはいくつも持っていた。金に飢えているチンピラや、弱みを手に入れている警察官、何度か死体の調達を依頼してきた怪しい大学の教授。

 僕はそれらのつてを使い、あらゆる手段を講じて逃亡し続けた。絶対に逃げ切れると思っていた。

 だが、僕の想定よりも〝社長”の怒りは凄まじいものだったらしい。

 彼は貯めこんでいた資金をふんだんに使用し、寝る間も惜しんで〝社員”たちを町に走らせた。激しい逃亡劇を繰り広げたものの、結局僕は、女を殺してから四ヶ月後にあっさりと捕まってしまった。

 密かに地下牢に幽閉された僕は、〝会社”の下で三日三晩拷問され続けた。皮をゆっくりと引きはがされ、筋肉の繊維を一本一本目の前で切断された。

 ありとあらゆる責め苦を味わされた末、僕は血まみれのまま海に沈められることとなった。

 しかし、そんな状態になっても、僕は決して生を諦めてはいなかった。夜の船の上。まさに今から死を迎えるという場面ですら、余裕を持って口笛を吹いていた。

 僕は自分が彼らよりも〝上”であると確信していたからだ。こういう場合に備えての用意もしていた。

「何か言い残す言葉でもあるか」

 あざけりの籠った表情で、同僚だった男が僕を見下した。僕は目で押すように彼を睨みつけ、紐で綱がれたままの手の中指を突き上げた。

「ハイエナ野郎。俺を見下していられるのは今のうちだけだぜ。いつか必ず殺してやるからよ」

「そうか。じゃあな、いかれた狂人め」

 重石のついた足を海に投げ捨てられ、引きずられるように上半身もそちらへ移動した。

 真黒な闇が迫ってきても、僕は決して死ぬ気はしなかった。

 なぜなら、知っていたからだ。ある未来の可能性を。さらなる殺人を楽しめるチャンスを。

 僕は晴れやかな気持ちで、闇の中に身を落としていった。




 微かだが、精神の認識が現実に立ち返ったらしい。

 左右に揺れる視界の中で、一業の白い顔が声を放った。

「哀れな男だろう。自分には価値があると信じたいがために、この男は他者を攻撃し続けた。弱者を生み出し、それを蹂躙じゅうりんすることで己の生きる意味を見出した。その行為こそが、もっとも自分自身をおとしめているというのに」

 腕を動かそうにも感覚がない。意識の半分が精神世界の中に残り、僅かな切れ端だけが現実に飛び出しているような気持だった。

 千花と二業の姿は見えない。まだ後ろに居るのか、それとも既にどこかへ移動したのか、僕には判断がつかなかった。

 一業は機械的に言葉を続けた。

「攻撃とは、相手を弱める、下に落とすために行う行為だ。暴力にしろ、言葉の刃にしろ、それを行っている時点で、行った者は自分が相手よりも優位に立ちたい、相手を自分よりも下にしたいと願っている。つまり既に相手を対等以上に見ているということになる。この男は自らの強さを証明したいようだったが、それはただ己の弱さを強く露呈ろていさせているだけだった」

 一業は四業の胸から手を放した。

「この男が実験体に選ばれたのは、たまたまその精神的な志向がこちらの要求と合致したからだ。初代四業の肉体を移植し、その現象をフルに活用するためには、この男以上の適任は存在しなかった。だから教授は精神面に難があると理解しつつも、彼と契約し蘇生した。拷問によってぼろぼろになっていた体から脳と心臓を抜き出し、保存していた初代四業の肉体へ埋め込むことで彼の現象を再現した。初代四業は実に正義感の溢れる男だったが、その体がこんな異常者に利用されるとは、皮肉なものだな」

 おぼろげな視界の中で一業の体が揺れている。

 蜃気楼のように。

 蝋燭の炎のように。

「つまらない記憶を見せてしまったが、これはお前がかつて殺した四業がこの男とは別人だということを示すために必要だった。次が三年前にお前が本当に殺した男の記憶だ。それを見た上で、ぼくを追いたければ好きにすればいい。この場所でさえなければ、どこだろうとぼくはお前を殺せる」

 四業が口から血を吹き、むせ返った。

 何かされたのだろうか。非常に顔色が悪い。

 一業は彼の体をゴミのように地面に投げ捨てた。もはや何の興味も無さそうだった。

 四業の体が地面にぶつかり、ほんの僅かに弾むと同時に、僕の意識も再び落ちていく。

 重い、重い、混沌の中に。

 白い幻影とともに遠ざかるカナラの背中が、最後に辛うじて見えた。




3


 ――行ってきます。

 そういって玄関から外に出ていく父の背は、とても大きかった。

 背が高いわけでも、太っているわけでもないのに、その背中だけは、いつも見た目以上に感じられた。

 僕にとって父は憧れの人だった。

 消防士として民間人の命を救い、そのために自分の体を危険にさらす。まさにヒーロー。正義の味方。

 決して有名人でも、大きな功績があるわけでもないけれど、僕は彼が自分の父親だということに、これ以上ないほどの誇りを持っていた。

 いつかは父のように人の役に立って誰かを守りたい。それが僕の夢だった。

 彼の背中に追いつけるように、彼の息子として恥のない人間でいるために、僕はいつも誰かのために役立ちたいと願っていた。

 

「ほら、ボールだぞ。パスしろよ」

 小学校から帰る途中、近所の公園である集団を見つけた。

 大人しそうな背の低い少年を、複数人の男子が囲んでいた。背の低い少年は涙まじりに懇願し、降参のポーズをとっていたけれど、ひときわ体の大きな男子の命令で、仲間たちは何度もボールを彼の体に当てていた。

 あの体の大きな男子。名前は確か、隣のクラスの染山だ。小学生にしては身体が異常に大きく、上級生たちも手が付けられないことから、我がもの顔で乱暴の限りを尽くしていると聞いたことがあった。授業中などお構いなしに、ふざけて後ろの生徒へ唾を吐くことから、唾液ブレス染山というあだ名が陰で流行っていた。

 囲まれているあの少年は可哀そうだったけれど、このまま僕が出て行っても、染山に勝てるとは思えなかった。

 僕はそのまま公園を素通りしようとしたのだが、ちらりと横を向いた瞬間、背の低い少年と目があった。彼は必死に助けを求める視線をこちらに向けていた。

 ――やめてくれよ。僕には……。

 そう思ったところで、ふと僕は父の言葉を思い出した。

 昔、といっても数週間前だが、火事の現場に向かう父に僕は問いかけた。怖いくないのかと。何故そんなに堂々と向かっていけるのかと。すると、父は照れくさそうにこう答えた。

「怖いから向かっていくんだよ。怖いからって、逃げたらいつまでも怖いままだろう。向かい続けていれば、いつかは怖くなくなるかもしれないじゃないか。そうやって恐怖と戦うからこそ、父さんは恐怖の中に捕らわれている人を助けることができるんだ。いいか、啓太けいた。本当の強さっていうのは、腕っぷしや相手を責める力のことじゃない。そんなのは状況さえ揃えば誰にだってできる。自分が弱いと分かっていても、どれだけ恐怖を感じていても、それでもなおその恐怖の対象に挑んでいける力。それを強さと言うんだ。よく覚えておくんだぞ」

 そう言って僕の頭をなでる父の顔は、とても力強く優しかった。幼いながらも、僕はその言葉の意味を何となく理解したつもりだった。理解したいと思った。

 だから、助けを求める彼の目を見て、ここで逃げてはいけないと思った。ここで逃げたら二度と父の背に追いつけない。彼の言葉を理解できなくなるような気がしたから。

 鞄を投げ捨て、集団の中に飛び込む。僕が「やめろ」と叫ぶと、染山たちが鬱陶うっとうしそうにこちらを振り返った。

 初めて間近で染山を見て、僕は思わずたじろいだ。こいつ本当に小学生なのかと我が目を疑った。勝手に足が震え始めてしまった。

「や、やめろよ。泣いてるじゃないか」

 僕が上ずった声でそう言うと、染山たちは下品な笑みを浮かべた。

「何だよ。俺たちはサッカーしてただけだぜ。邪魔すんなよな。お前も混じりたいのか」

 掛け声を上げ、僕にボールを蹴りつける染山。僕は恐怖で身がすくみ、抵抗することが出来ずなすがままになった。

 その日は結局、背の低い少年と一緒にぼこぼこにされ、泣きべそをかきながら家に帰った。

 僕の姿を見た母は、すごく心配そうに気を使ってきたけれど、父は別だった。

「おお。男前になったな。どうしたんだ」

 僕が理由を説明すると、彼はなんでもなさそうに豪快に笑った。

「やっぱりいつの時代もガキ大将っていうのはいるんだな。父さんも昔こっぴどくやられたよ。……なあ、啓太。今日は綺麗に負けたみたいだが、次に勝てばいいさ。もう一度負けてるんだ。これ以上何度負けたってそれはただの同じ負け。最後に勝てれば、それでいいんだ」

 そういうと、父さんは喧嘩の仕方を色々とレクチャーしてくれた。僕は父の前で弱音を見せたくなくて、目を真っ赤にしながら真剣に話を聞いた。それが面白かったのか、父はふざけ半分に仮想染山の真似まで始めた。


 次の日も、僕はぼこぼこに負けた。次の次の日も、その次の週も、僕は負け続けた。

 でも、いくら殴られようとも、いくら馬鹿にされようとも、僕は決してくじけなかった。涙を流しても、顔を真っ赤にしても、染山に挑み続けた。

 三週間ほどそれが続いたころ、僕はなぜか、染山に恐怖を感じなくなってきた。不思議なことに彼の威圧感や態度に慣れてきたのだ。逆に染山は、いくら押しつぶしても来る日も来る日も向かってくる僕に恐怖を覚え始めたようだった。次第に僕に絡まらなくなり、一緒に嫌がらせをしていたあの背の低い少年への暴行も減った。

 しかし彼は僕たち以外の人間への嫌がらせを続けていたので、僕はそれが許せず彼の行為に介入し続けた。

何度かそれを繰り返されているうちに、さすがに嫌気がさしたのだろう。染山は僕との最後の喧嘩で根負けし、折れた。

 染山は次第に孤立し、みんなの輪から離れていったが、僕は彼のクラスメイトに対する嫌がらせを止めたかっただけで、別に彼を仲間外れにしたいわけではなかった。何度か強引に輪に誘い、遊んでいるうちに、彼とも非常に仲良くなることが出来た。クラスメイトたちも一緒にゲームをしたり冗談を言い合っているうちに、彼のことをよく知るようになり、過去のわだかまりはどんどん打ち解けていった。

 僕は染山と仲良くなれたことが嬉しかった。これで父の背中に向き合えると、そう実感できた。

 だから僕は、その後も父の言葉を信じ、誰かのために生きたいと強く願ったのだ。




 高校卒業が間近になり、進路先を選択しなければならない時期が来た。

 周りは大学へ進学する者がほとんどだったが、僕は彼らと同じ道へ進む気はなかった。

 父のように直接的に誰かの役に立ちたいという思いを実現するためには、敢えて大学へ進学するメリットは少ないと考えたからだ。

 就職先としては、消防士か警察官の二択で迷っていた。

 どちらも素晴らしい職業だったけれど、父の背中の影響で、本心では消防士になりたいという気持ちが強かった。しかしそれではあまりに独自性がないので、敢えて警察官になるべきかとも考えたのだ。

 学科試験の勉強は引っ越しのアルバイトをしながら日々行っており、模擬試験でも十分な結果がでたので、あとは選択するだけだったのだが、どうしてもそのどちらかに決めきることができず、期限が迫りつつも僕はひたすら悩んでいた。

 そんなある日、いつものようにバイトを終わらせ、銀行で今月の振り込みを確認しようとしていると、偶然、妙な事件に巻き込まれた。銀行強盗だ。

 お金を下ろし、外に出ようとしたところで背後から悲鳴が響き、男がナイフを受付の女性に向けているのが見えた。

 僕は立ち止まり、女性と男の様子を恐々と確認した。その間に背後でシャッターが落ちた。銀行員の誰かがマニュアルに沿って非常用スイッチを押したようだった。

「何だよ! 何してくれてんのぉ?」

 逆上した男が受付の女性に向かってナイフを切りつけた。彼女は腕を大きく裂かれ、そこから大量の血が飛び散った。

 ――まずい!

 男が机を乗り越えて女性に追撃を試みようとしたので、僕は素早く後ろから彼に体当たりを食らわせた。勢い余って、一緒に地面の上に倒れてしまった。

 男はすぐにナイフを取り、僕の腹部を刺した。

 物凄い痛みが体を駆け抜け、今にも泣き叫びそうになったが、男の顔越しに怯えている女性を見て、ここで僕が止めなければ誰が止めるのだと思い直した。

 両足を使って男の首を後ろに倒し、そのまま喉を絞めつけた。男は何度もナイフで足を刺してきたが、僕は絶叫に近い声を上げながら足に力を籠め続けた。

 しばらくして、男は意識を失った。

 唖然と事態を見ていた男の銀行員が、はっとしたように僕に駆け寄ってきた。辛うじて「救急車を」という声が聞こえた。

 腹部と足からどくどくと赤いものが溢れ出し、脳がくらくらと揺れた。もはや立ちあがるどころか、首を起こすこともできなかった。

 あれ? 僕は死ぬのか。こんな場所で……。まだ、全く父さんの背中に追いつけてないって言うのに……。

 確かに彼女の命を助けることはできた。僕は誰かの役に立つことができた。けれど、ここで自分が死んでしまうのだと理解すると、どうしようもない虚しさが溢れてきた。

 ……僕が求めていたのはこんな死に方じゃなかった。こんな死に方じゃぁ……。

 これじゃ、僕は一体これまで何のために生き……――

 周りの音が遠ざかっていく。

 強い疑問と自己矛盾を抱えたまま、僕はあっさりと、そのまま死を迎えたのだった。





 目を覚ますと、僕は真っ白なベッドに横たわっていた。

 全身をいくつものケーブルで貫かれ、得体の知れない液体を流し込まれている。

 ――ここは? 病院なのか? それにしては、雰囲気が妙だけど。

 僕が動揺していると、扉が開き、一人の少年が入ってきた。肌も髪も真っ白で、目だけは赤いかなりかわった少年だった。

「起きたの?」

 彼は実に機械的な口調でそう言った。

「じゃあ、父さんを呼んでくる」

 僕の反応や返答など気にもせずに、再びすうっと姿を消す。なんだか与えられた命令を繰り返すだけの人形みたいだと思った。

 その後すぐに入ってきた中年の男から、僕は自分の置かれている環境について聞かされた。肉体を再構成したこと。生き返ったこと。超能力の実験体であること。そして、彼のメンテナンスがなければ、数か月も生きられないことなど。

 初めのうちは半信半疑だったのだが、そこで活動している他の実験体たちを見ているうちに、彼が真実を言っているのだとわかった。

 手から炎を出す女の子に、壁を通り抜け移動する男。どちらも明らかにまともな現象ではない。

 教授の話によれば、僕にも何らかのそういった超常現象を起こせる可能性があるそうだった。

 再構成されてから三か月はまともに動くことができず、さらに一年間はかなり辛いリハビリの生活が続いた。しかし、その間に繰り返された実験と勉強によって、僕は現存するあらゆる現象を“強化”することが出来る力を発現した。強さへの猛烈な憧れが、その現象をもたらしたのだろうと教授は言った。

 最初こそ戸惑ったものの、僕はこの摩訶不思議な力を得たことを運命だと感じた。僕が死んだのはこの力でより多くの人を救うためなのだと。そのために蘇ったのだと、そう信じ込んだ。

 僕は教授の命に従って色々なことをやった。法では裁くことのできない人間が居ると言われれば、こっそりと現象を使ってその人物を懲らしめた。悪人の証拠を掴みたいといわれれば、何日もその人物に張り付いて弱みを探った。

 僕は自分の力が活かされていることが、人の役に立っていることがうれしかった。父ですら叶うことのない偉大な仕事をしているのだと思っていた。

 だがある日、教授が新たに始めた実験を見て、僕は考えを改めざる負えなくなった。

 彼は再構築した実験体の少年の体をもてあそび、化け物に変えてしまったのだ。彼が泣こうが喚こうが、怨念の籠った罵声を上げ続けようが、構わずにその体を引きちぎり、ネズミやら小鳥の体に植え付けた。自分の身体ではない体で意識を取り戻したその少年は、絶望し悲鳴を上げた。それを嬉しそうに眺め、教授たちは拍手を繰り返していた。

 あまりにおぞましい行為。異常な光景。

 必死に助けを求め泣き叫ぶその少年の顔を見て、僕は初めて教授の行動に疑問を感じるようになった。

 同じように実験に嫌気がさしていたという、修司という研究員に、僕はこれまで自分がやってきたことの本当の意味を教えてもらった。

 僕が半殺しにし、弱みを盗んできた相手は全て、教授の考えや思想に反対する人間や、彼が自分の実験を上手く進めるために利用したかった者たちだったのだ。

 その事実を知ってから、僕は教授の下から脱走することを考えるようになった。体の維持に関しては一緒に逃げる修司が何とかしてくれるらしい。問題はどうやって教授の追跡を逃れるか、ということだった。


 計画の詳細を煮詰めている間、教授からまた新たな命令が下った。何でも、僕たちの体を構築している材料となった、大本の超能力者の娘が見つかったそうだ。彼女を捕獲し、この研究室に連れてくるというのが、教授の望みだった。

 僕はベッドに繋がれている少年――五業の姿を見た。

 普通とはちょっと違った体質を持っているだけで、あのような拷問に近い実験を気が狂うほど繰り返されるのだ。そんな特殊な少女がここにくれば、どんな目に遭うかは火を見るより明らかだった。

 僕は密かに教授の指令に従うふりをして、その少女を逃がすことを考えた。

 幸いにも、今完成している四体の実験体の中で、索敵で僕に勝てる者はいない。一業には何の力もないし、二業はただ破壊するだけ。三業も情報収集能力は高いけれど、その効率はよくない。

 僕は自分の視力、聴力などを極限まで〝強化”し、彼女を探した。

 教授やその部下の事前調査によって、ある程度少女が潜んでいる町の目星はついていたから、彼女を探すのは簡単だった。

 僕は少女に接触し、彼女に自分の立場と考えを打ち明けた。かなり怪しまれるかと思っていたのだが、彼女はすぐにその提案を受け入れた。僕の心を読んだからだと、言っていた。

 生前の人間を巻き込むわけにはいかないので、僕は修司のつてで知り合ったある男に彼女を

預けた。彼は教授と同じように超能力の研究をしていたのだが、肉体面ではなく精神性に重点を置いた研究を行っている集団の一員だった。

 僕は少女を助けることが出来たことに喜び、満足した。正しいことだと思っていた。でも、それがどんなに甘い考えだったのか、すぐに思い知らされることになった。

 一年後。教授は新たに完成した五業の力を使って、少女が匿われている家を強襲した。

 五業に寄生させた犬やホームレスたちを送り込み、住民を皆殺しにしたのだ。

 僕が現場に着いたときにはすでに遅く、家の中は血の海だった。

 笑顔で少女を迎えてくれたあの夫婦は全身をばらばらに引き裂かれ、臓物をそこら中にまき散らしていた。少女と仲がいいと聞いていたペットの犬は、五業に寄生され、だらだらと口から夫婦の血を滴らせていた。

 なんて……なんてことを……!

 僕は吐き気を覚えた。いくらなんでも残酷すぎる。まだ年いかないあの子がこんな光景を目にすれば、まともでいられるわけがないと思った。

 泣き叫び、散々ベッドの上で助けを求めていたはずの五業は、今では歓喜に満ちた表情を浮かべてその血まみれの光景を眺めていた。全てが狂っていると思った。

「だ、だめだ。逃げたみたい。う、裏口に血の跡が続いていた」

 どこか楽しそうに老人姿の五業はそう言った。

「い、行くぞ。ひ、人が集まって、く、来る」

 あまり人口の多い町ではないが、ど田舎というわけではない。ずっとこの場に居れば、確かに人目についてしまうだろう。

 僕は彼女が無事に逃げおおせることを願いながら、歯を噛みしめその場を離れた。

 

 

 この前の襲撃によって目的の少女は超能力に完全に目覚めたらしい。その後の足取りを追うことは、中々に難航を極めた。

 教授は新たに六業の制作に取り掛かっており、捜索は全て五業に任せきっている。僕はこのまま彼女が見つからなければいいと思ったのだが、やはりそう上手くはいかなかった。

 三か月後。少女が都内のある場所にいるという情報が入った。病院の監視カメラにその姿が捉えられたそうだ。

 居る町さえわかれば、あとは五業の物量と寄生であっという間に情報を集めることが出来る。彼女が捕まるのは目に見えていた。

 もうこれ以上、あの子を苦しませたくはなかった。僕がもっとしっかりした隠し場所を見つけていれば、あんな光景を見せずに済んだのにという、後悔の念が溢れた。

 自分の立場や教授たちからの叱責などどうでも良かった。

 僕は五業よりも先に彼女を掴まえようとした。現象を駆使し、町に駆けつけた。すぐに接触し、別の場所へ移送するつもりだったのだが、彼女が頻繁に目撃されているという公園に向かっている途中で、何故か、二業に遭遇した。

「あれ? どこへ行くの四業。あなたは研究室で待機を命じられていたはずなのだけれど」

「それはこっちの台詞だ。何でここにいる二業。お前は別の仕事で北に行っていたんじゃなかったのか」

「それはあなたを騙すためのフェイクだよ。教授はあなたのことを怪しんでいた。ずっと前からね。五業が皆殺しにしたあの家庭、修司の知人ってことらしいじゃない。あなたが修司の紹介で色々な人と接触しているという情報は得ていたからね」

「……どいてくれ。二業。お前にだってわかっているだろ。捕まれば、どんな目に合うか」

「そうだね。骨の髄までしゃぶりつくされて、最後は新しい同胞の材料にされるだろうね。けど、それが何? 人類の発展を考えれば、必要な犠牲だと思うのだけれど」

「お前……!」

「今ここであの子に同情し、助けたとして、それが何になるの? あの子が幸せになれる? あなたが満足できる? 仮初の救いにしか過ぎないのに。人を助けることが好きって言うやつは、人を助けている自分が好きなんだよ。どうあがいてもあの子の今後にいい未来は存在しない。だったら、有効に活用するほうが生産的だと思うのだけれど。そのほうがあの子の命にも意味があったと言えるでしょ。あなたは自分の偽善を満足させるために、あの子にさらなる苦痛を与え続けるつもり?」

「ち、違う。俺は……!」

 僕は、本当に彼女を助けたいと思って。

 死に際の光景が蘇った。あの時僕は、銀行員の女性を助けられた喜びよりも、そんなくだらない事件で死んでしまうという自分の運命を呪っていた。僕は父のように人を〝救い続ける”男の姿に憧れていた。

「ち、違う。俺は……俺はそんなんじゃ……!」

「違わないよ。四業。それが人間だもの。目的がなければ、理由を生み出さなければ、生きてはいけない生き物だもの。間違いじゃない。けれど今は、あなたのその下らないヒーロー願望のせいで、私たちの目的を邪魔しないでもらえる?」

 そう言うと、二業は大量の炎を一瞬にして空中に舞い上がらせた。

 周囲の温度が一気に上がり、視界が橙色の光に包まれる。

 ――まずい! 二業の現象は……!

 ひと際高い火柱が上がり、身の回りの全てが灰燼に帰した。木も、家屋の壁も、コンクリートの地面も。何もかも。

 僕は辛うじて現象を使い、身体を強化することでそれを防いだが、それでもそれなりのダメージは受けていた。

 二業は高らかに笑うと、両手の指を鷹の爪のように伸ばし、振りぬいた。

「さあ――死んじゃえ! 四業」




 体がびりびりと痛む。

 肌からは煙が上がり、あちこちが肉まで届く火傷をわずらっていた。

 出会えばほぼ勝ち目は無いはずの二業と、あそこまで善戦したのだ。我ながら大したものだと思った。

 ――くそ、再生が追いつかない。火傷のせいで細胞が死んでるから、栄養を必要な部位に移動できないんだ。

 辛うじて外に見える部分だけは整えているものの、中は壊滅的な有様だった。こうしてただ歩いているだけでも体は悲鳴を上げ、口の中には焦げ臭さと血の味が充満している。

 何とか隙をついて逃亡することはできたが、もう一度二業に遭えば今度は確実に殺されてしまう。急がなければと思った。

 焦げた穴だらけの服では目立つので、途中にあった商店街の服屋から適当なコートを盗み、身に纏った。存在の薄さを強化したおかげで人目に付くことはなかった。

 まもなく夕方だ。きっと五業もそろそろ彼女のことを見つけるかもしれない。

 情報にあった公園近くの駐車場にたどり着くと、予想通り五業が数匹待機していた。例の少女が起こしている現象のせいでそれ以上近づけないようだ。

 良かった。間に合った……!

 僕は何気ない調子で五業に声を駆け、油断したところを一気に片づけた。本体には気がつかれるだろうが、それでもここに増援が到着するまでの間は僕だけの時間にできる。その間に彼女を移動させなければならなかった。

 歩き出そうとした次の瞬間、僕は大きく吐血した。口の中が煙の臭いと鉄の味で充満していた。まともに動ける時間はほとんど残っていないようだった。

 もって十分。いや、せいぜい五分か?

 ――そこで、気が付いた。

 今の僕の状態では彼女と一緒に逃亡し続けることは厳しい。

 この場所の情報は教授たちも当然得ている。すぐに二業がやってくるはずだ。

 体が動かしずらく、胸が苦しい。彼女に仕掛けられたもう一つのダメージが尾を引いているようだった。僕の心臓は半分ほど凍らされ、強化を解けばすぐに停止してしまいそうな状態だった。回復させようにも〝傷”ではないためどうしようもない。熱を強化すれば溶かすことはできるだろうが、その間は鼓動の強化が停止してしまうことになるため、結局は死を迎えるのと変わらなかった。

 二業に勝つことは不可能だ。あの女は強すぎる。だがかといって、彼女と一緒に逃亡する時間も残されてない。

 僕は考えた。何か最善手か。何が、もっとも少女のためになるのか。

 恐らく僕はもう助からない。このまま僕が死ねば、彼女はあっさりと捕まり、狂気に溢れる拷問じみた実験体の被験者になってしまうことだろう。

 あの小さな女の子に、自分の運命を呪っている女の子に、必死に恐怖と戦って逃げている子に、そんな苦しみは味合わせたくはなかった。

 助けられないのならば、救出できないのならば、もう残っている手段は一つしかない。

 ……ヒーロー願望か。確かにそうだったのかもな。

 二業の言葉を思い出し、自嘲した。

 父さん。僕はやっぱり、あなたみたいな誰かを救う男にはなれなかったよ。

 胸を押さえながら、僕は静かに公園の中へと足を進めた。



 

 

 

5


 五業から追われ続け、たまたま身を隠した町で、私は穿に出会った。

 ずっと人の思念や意識に当てられ疲れていた私は、なるべくひと気の少ない場所を探していた。

 住宅地から逃げるように、なるべく思考密度の低い場所へ移動し続けた結果、ひっそりと絵を描いていた彼を見つけた。

 最初は先客が居ることに不満を感じたのだが、彼の心が流れ込んでくると、それが実に酷い有様であることが分かった。

 今にも決壊してしまいそうなダム。ひびの入ったガラス。

 彼の精神からはそんな危うさを感じたのだ。

 穿のことが気になった私は、少し意識を集中させ、彼の記憶を読んでみた。

 飛び込んでくるトラックに、血まみれの女性。中途半端に伸ばされた小さな手。

 私は彼が何故絶望しているのかを理解し、同時に強い興味を持った。不謹慎なことだと自分でも思うけれど、私はそのとき見た彼の絶望や苦しさに、親近感を抱いてしまったのかもしれない。

 気が付けば、彼に向かって声をかけていた。

「何を描いているの?」

 穿はお化けでも見たかのように肩を跳ね上がらせ、素早くこちらを振り返った。

「ねえ、何を描いているの?」

 特に強要したわけではないのだけれど、私の存在に気圧されたかのように、彼は言葉を返した。

「コンクリートに囲まれた場所から見える空の絵だよ。真下から見上げているように描きたいんだ」

「空の絵? へぇー、すごいね。鉛筆だけなのに、すごくリアルに見える」

 絵なんて小学校の教科書でしか見たことがなかったけれど、その絵を見た私は、妙に感動してしまった。見えない何かに手を伸ばそうとしているかのような、高い場所にある何かに懇願しているかのようなその絵は、彼と私の心情を非常によく表している気がしたからだ。

 私の感想を聞いて照れたのか、彼は顔をわずかに赤くして固まってしまった。なんだかとても恥ずかしそうだった。


 怪しい男たちと化け物に追われていた私は、なるべく人目につかないように路上で寝ることが多かった。

 食事やお風呂は力を使って姿をごまかすことで何とかしていたけれど、住処だけはどうしようもなかった。

 ホテルに泊まれば監視カメラに映る危険性が高く、そういった場所では私の幼い姿は非常に目立つ。暗示を誰かにかけて家にお邪魔することも考えたのだが、もしその家に追っ手の化け物が来れば、お世話になったあの夫婦の二の舞になってしまう。そんな迷惑は絶対にかけたくなかった。

 とくに行き場もなく、ただこの町に潜んでいただけの私にとって、唯一の楽しみは穿と会話をすることだった。

 あの時間、あの場所に行けば、彼はいつも一人で絵を描いていた。

 だから私は毎日あの公園を訪れ、彼の描いた絵を見て感想を述べた。素人の何のひねりもない感想だったけれど、それを聞いた穿はいつも難しそうに自分の絵を見直し、私がおかしいと指摘した部分を直しにかかった。

 何だかそんな穿を見ているのが面白くて、彼が私の言葉を真剣に受け止めてくれることが嬉しくて、私はその時間がたまらなく好きだった。

 雨の日や曇りの日などは穿も公園に来ることはなかったため、非常に寂しくて退屈でつまらなかったのだけれど、そういうときは他人の記憶を見たり、通行人に幻をみせたりして遊んだ。そうして現象を使っているうちに、自分に何ができて、どこまで影響を与えられるのか、段々と理解していった。

 私は穿との時間を邪魔されたくなくて、現象を使って公園の周囲に影響を与え続けた。

 この場所に気づけないように。近づけないように暗示をかけた。この公園は私と穿だけの秘密の場所のつもりだったのだ。

 けれど、二か月余りが経ったある日、穿が突然妙な女の子を連れてきた。千花という可愛らしい子だ。暗示の対象外である穿が自ら連れてきたことで、彼女には私の現象が無効化されてしまったらしかった。

 千花は何ともないように公園の中に入ってきた。

 心を読んでわかったことだが、どうやら穿は私の友人を増やそうと思って、彼女を連れてきたようだった。名前の響きが同じということで、仲良くなったらしい。

 気持ちはありがたかったけれど、私はあまり喜べなかった。穿が彼女に向ける笑顔が、声が、何だか私に向けられている時よりも楽しそうな気がして面白くなかった。

 それからよく遊びに来るようになった千花を、私はそっけなく扱った。一時期は記憶を操作して追い出そうかとも思ったが、知人には絶対に現象をかけないと誓っていたため、仕方がなく受け入れた。それが私の唯一のポリシーだった。

  何度か一緒に時を過ごし、会話をしていくうちに、千花がとてもいい子であることがわかった。

 私自身、彼女と一緒にいると楽しかったし、退屈もしなかった。知ることのなかった同年代の女の子たちの生活を垣間見ることができ、新鮮な気持ちになれた。時には穿が居ないときに、二人で話し込んだりもした。

 けれど、心のどこかで、私は彼女の存在をうとんじていた。彼女が来るまでのこの公園は、ある意味完成されていた。

 気を遣う必要もない相手。余計な他者の思念の無い空間。海と風の音の心地よさ。

 私はそれが好きだった。あの空気が好きだった。けれど、千花がいることでその空気が崩れてしまった。遠慮や気の使い合い。余計な雑念が生まれてしまった。

 いい人間であることはわかっている。けれど、私にとって彼女は異質な存在でしかなかった。



 その日は突然訪れた。

 穿と私と千花で、いつものように公園で時間を潰していたとき、彼がやってきた。

 前に一度私を保護し、親切な夫婦のところに預けてくれた男だ。

 私はてっきりまた私を保護するために来たのかと考えたのだけれど、彼から漂ってくる思念は全く異なったものだった。

 深い悲しみと諦め。そして義務感にも似た優しさ。

 彼はどうしてか、本気で私を殺そうと考えていた。

 その感情を理解したとき、私は嫌だと思った。死にたくないと思った。

 訳も分からず父親が殺人鬼になり、訳もわからず母親が死に、訳も分からず妙な男たちに追われ、そして匿ってくれた夫婦は化け物に殺された。

 ずっと一人で逃げてきた。ずっと恐怖と戦ってきた。ずっと救いを求めてきた。

 この公園で穿に出会って、私は少しだけ楽になれた気がした。彼らと一緒に遊ぶことがとても楽しかったし、普通の人間になれた気がした。

 強い足取りでこちらに向かってくる男を見て、穿が危険を察知し、彼に掴みかかっていった。が、すぐに吹き飛ばされ、壁に背をぶつけた。

 やめて……やめてよ。やっと安息を感じることが出来たのに、喜びを思い出すことが出来たのに、どうして邪魔をするの? まだ穿と一緒に居たい。私はまだ、生きていたい。

 男がかなりの覚悟を持って挑んできていることはわかっていた。けれど、どうしても、私は自分の死を受け入れることが出来なかった。

 男の姿に恐怖したのか、千花が涙を流し悲鳴を上げた。

 私は現象を使って男を止めようとしたのだけれど、感情が高ぶっているせいで上手く制御が効かなかった。迫りくる男の姿を茫然と見つめることしか出来なかった。

 泣き叫ぶ千花を見て、意を決したように再び穿が男に突撃した。体格の差を埋めるためか、爪や歯を食い込ませ、必死に男の動きを止めようと足掻いている。

 男は邪魔そうに穿の体を引きはがそうとして、彼の顔を殴りつけた。勢いで穿の口から血が飛び、目の前の地面に落ちた。

 男は崩れ落ちた穿には目もくれず、私に向かって歩いてきた。明確な殺意をその目に抱いて。

 思わずあの夫婦の死に際がフラッシュバックした。

 私は死にたくないと思った。まだ生きていたいと思った。

 全身の血が煮え立つような強い恐怖を感じた。せっかく救われたと思ったのに。せっかく居場所を見つけたのに、何故それを奪うのかと、いきどおった。

 声は出さなかったけれど、私は現象を使って叫んでいた。悲鳴を上げていた。

 やめて! 私は違う。あなたたちの追っている人間じゃない!

 視界の隅に、泣いている千花の姿が映る。

 穿の笑顔を向けられていた彼女。自分とは違い、両親や友人に恵まれている彼女。

 何でいつも、私が……私だけ……!

 恐怖で頭がいっぱいになり、自分でも何が起きているのかよくわからなかった。一つの感情に意志が集約し、そこにすべての力が向かった。ただ、純粋に彼女が私だったのなら、立場が逆だったのならと、懇願するように願った。

 私じゃない。私じゃない。あの子を追ってよ。私は悪くない。

 制御の効かない現象の奔流ほんりゅうが勢いよく千花に向かっていった。彼女の精神を強く感じ、私はそこに私がいるように錯覚させようとしていた。

 もし私がまともな状態なら、冷静であれば、決してそんな真似はしなかっただろう。けれど、そのときの私はとにかく助かりたい一心で、恐怖から逃げたい一心で、自分の存在を半ば無意識のうちに千花へ被せようとしていた。

 溢れ出た精神波が周囲に吹き荒れる。

 私の首を切り裂こうとしていた男の腕が、その瞬間、停止した。

 彼は私と千花を見て不思議そうに首を傾げた。非常に混乱しているように見えた。

 私は涙を流し、男の行動を見守った。

 何も考えることが出来ず、思考を放棄していた。

 男は頭を振ると、苦々しい表情でこちらに向かってきた。どうやら私の現象の影響は上手く働かなかったようだった。

「やめろ……!」

 壁に手をつき立ち上がった穿が、男へ声を上げた。彼の姿を見て、私は強く願った。

 助けて! 助けて! あいつを殺して、殺してよ!

 先ほどと同様溢れ出る力の波が穿に向かって駆け抜けていく。私の精神は彼と連結し、一体化した。

 殺して! 殺して! 殺して!

 現象が、私の意識が穿の体に命令した。濁流に飲み込まれた流木のように、穿の意識もそれに続いた。

 五業によって殺された夫婦は、前にこんなことを言っていた。

 あなたのような特別な子は、認識が人とは異なっている。普通の人には捉えられない軸を認識することができるのだと。

 恐らく、もともと肉体的な素養はあったのだろう。その瞬間、私の意識に引きずられるように、穿の中で何かが変わった。彼の意識の場所が〝ずれた”。

 男に掴みかかった穿の手から、半透明の波のような輪が飛び出し、耳鳴りに似た奇妙な音が響いた。

 それに合わせるように男の胸が裂け、流星のごとく血と肉が周囲に飛び散った。

 男は信じられないという目を穿に向け、そしてすぐに私を視界に捉えると、背中から倒れ込んだ。

 

 流れ込んでくる思念の断片から彼の意識を盗み取った。

 彼はまだ動くことができた。彼の心臓は何等かの原因によって機能を制限されていたが、穿がそれを吹き飛ばしたことで、回復することが可能になったようだった。

 立ち上がろうとする彼を、私は制した。

 やめて、立たないで。私は生きたい。まだ死にたくないの!

 何度も何度も心の中でその言葉を繰り返した。制御の効かない現象は、私の気持ちを十二分に彼に伝達した。

 彼は悔しそうに。

 残念そうに。

 そして悲しそうに私を見ると、がっくりと体の力を抜いた。回復しかかっていた細胞の動きがそれで止まった。

 蛇のように流れ出ていく赤い道筋が、着実に彼の命を削っていく。

 最後に放心状態の穿に深い同情の目を向けると、彼はゆっくりとまぶたを閉じ、そのまま息を引き取った。



 血の池の中で、穿は自分の震える手を見つめていた。

 わけがわからなそうに、何かを思い出すように、激しい恐怖と動揺を感じた。

 地面に座り込んだまま、千花はキャンパスを見下ろしていた。穿が途中まで描きかけていた私と彼女の絵が、徐々に赤い色に染まっていく。

 笑顔も、あの明るい表情も、全てが綺麗さっぱりに消えてしまっていた。私がそれを壊した。

 いつもと同じ公園のはずなのに、あれほど私が大切に思っていた場所だったのに、今ではもう別世界のようにしか感じられなかった。

「……カナラ……」

 虚ろな目で穿がこちらを向いた。

 私は彼の顔を直視することができず、視線を逸らした。

 恐怖による感情の高まりが落ち着き、現象の拡散が緩やかになってくると、自分のしてしまったことの恐ろしさに胸がつぶれそうになった。

 私は、千花を自分の身代わりにしようとした。

 私は、自分のために穿を殺人者にしようとした。

 何も考えず、躊躇もなく、ただ自らの命を守りたいがために。

 なんという自己中。なんて酷い人間なのだ。

 こんな女のために彼らは時間を使っていたのか。かばって、守ろうとしてくれたのか。

 ゆらゆらと立ち上がった。これ以上、私のせいで傷つき苦しんでいる彼らの姿を見ていたくはなかった。

「ごめん。ごめんね。穿。……千花」

 私なんかと出会ってしまったばっかりに、あなたたちをこんな目に遭わせてしまった。味わう必要のない恐怖を、危険を与えてしまった。

 私は自分に関する記憶を彼らから消そうと試みた。しかし現象がうまくコントロールできず、彼らの精神に十分な影響を与えられなかった。

 私という存在をいくら消しても、何故か千花が私に成り代わったり、穿が千花の存在を忘れたりした。

 何とか彼らの記憶に整合性をつけようと足掻いていると、突然千花が立ち上がり、私たちとは逆方向に向かって走り出した。まるで何かから逃げるように必死な形相をしていた。

「カナラ……!」

 恐怖で混乱しているのか、彼女に向かって私の名を叫ぶ穿。しかし千花は止まらず、そのまま遠くへ走り去っていく。あっという間に彼女の姿は暗闇の中にかき消えてしまった。

 茫然とした穿は、今度は私に目を向けた。何も見ていないような真っ暗な目だった。

 血まみれの足に力を込め、立ち上がろうとする穿。

 私は彼に何かを言われることが怖かった。彼に敵意を向けられることが怖かった。

 だから私は、自分の姿を彼の目から隠した。幻覚を見せ、居ないように見せた。

 金色の月が、穿と木陰にいる私の間を照らす。

 パトロール中の警官が穿の姿を見つけるまで、私はただずっと、彼の空虚な目を眺めていることしかできなかった。






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