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浄我の形(じょうがのかた)【改稿前】  作者: 砂上 巳水
虚偽不還(きょぎふげん)
30/41

第三十章 新世界


「何を言っているんですか?」

 意味がわからなそうに千花が聞き返す。それは僕も同じ気持ちだった。

「君たちは人間の進化とはなんだと思う?」

 僕たちの様子を観察するように眺めると、真壁教授は赤子をさとすようにそう言った。両手の指をおなかの前で開いて合わせ、妙なポーズをとっている。コンテナ広場のど真ん中という場違いな場所に居るにもかかわらず、その表情には学者の威厳が満ちていた。

「歴史が証明しているとおり、どれほど時代が進もうと、人間が人間である限りその精神構造は変わらない。くだらない理由で人が、国が、利益を求めて今も人を殺し続けている。生活を複雑化、管理化させることに夢中になって、もっとも大切な“精神”を軽視しているからだ。いくら時代が進もうと人は動物のまま。唯一進化しているものは、“技術”だけ。技術のみが飛躍している。……だがそれも仕方がない。そもそも生物という存在は、単細胞の段階からお互いがお互いの何かを奪い合うように構成されている。これだけ無数のおもちゃを手に入れた人間だろうと、細胞で構成されている以上、そこから抜け出すことは不可能というものだろう」

 真壁教授は開いていた指を閉じた。

「人間自身が変わらない限り、人類の技術だけが発展し続け人はその力に耐え切れず自滅する。核兵器などがそのいい例だ。扱う者のレベルが低いのに、その武器だけが鋭さを増していく。このままでは己の牙の鋭さで滅んだサーベルタイガーのように、人類もいずれ終焉を迎えることは明白だよ。……ある意味、映画によくある機械や人工知能が支配するような世界が、人類の正当な進化形態だと思わないかね。技術的特異点。人が人という枠から抜け出す瞬間。技術こそが人の進化だというのならば、あの手の映画の世界はまさに人類の理想的な未来じゃないか」

 僕は先ほど叩き付けられたときに痛めた腰を撫でた。

一体この人は何が言いたいのだろうか。話の先がまったく見えなかった。

「だがね。それは最後の手段に過ぎない。私も人間である以上、人間としての種を残したい。例えそれが、どれほど幼い存在だとしてもね。

 ……物事には終わりがある。人間自身も、深層心理でそれをわかっている。この生活も、この社会も、この世界も、いつかは終焉を迎えると。それは生物として存在するのならば抱いて当然の感情、死への恐怖なんだ。

 今の人類は、その沸点、種として終わりである特異点に近づきつつある。

 私はね。超能力と言う手段を用いることで、人類と言う種自体を別のものに昇華させることで、その集団的自殺願望を抹消したいのさ」

 演説するように、真壁教授は声を張り上げた。

 ごろごろと、空の奥深くから腹鳴りのような音が響く。もうじき雨が降り始めそうだった。

 どうやら彼は、超能力者という存在を増やすことで、人々の種としての意識をリスタートさせることを目的としているらしい。意味は理解できるが、現実離れし過ぎた考えのせいで、とてもそれを共感することはできなかった。

 僕は真壁教授の顔を見返すと、静かに問いかけた。

「あなた一人の力でそんなことが本当に実現可能だと思っているんですか? たとえ超能力者の存在が認知されたからといって、誰もが喜んでそんな力を得ようとするはずがない。余計な争いごとが生まれるようにしか思えません」

「そのための買い取り先だよ。彼らはもともと様々な手法で人類を進化させるためにアプローチをかけてきた組織だ。人口細胞技術の発明。人工知能の発明。人の精神を連結させる研究。多くの科学者や団体が彼らに協力し、目的を持って動いている。あの“同好会”の力を持ってすれば、成し遂げられないことはない。必要なのは意識の変革なんだ。自分たちは種として人間ではなく、新たな存在になったというね。終わりへ移行しつつあった集合的無意識を、黄昏から彼誰時へ移行する。それさえ成し遂げることが叶うなら、争いや多少の死者など些細な犠牲に過ぎない」

 真壁教授は小さく息を吐くと、労わるようにこちらを向いた。

「アプローチが強引だったことは謝る。だが、誤解しないで欲しい。私は別に君たちを傷つけるつもりはない。ただ協力して欲しいだけなんだ。痛い思いをさせることはないし、家族から引き離すこともしない。定期的に実験に協力してさえすればそれでいい」

「……よくそんなことが言えますね」

 僕は拒絶の意を示すようにそう返した。

 真壁教授は顕微鏡を覗くような目でこちらを見たまま、ゆっくりと両手の指を離した。

「もし、君が私の発明品によって損害を受けた犠牲者たちのことを思っているのなら、そんな小さな同情心は捨てるべきだ。人は人の死を重いものだと認識しているが、それは自身や生活環境を維持するための防衛本能に過ぎない。人間も所詮は郡体生物だ。生体としての人間を維持するために、お互いの痛みや感情を共感しやすい作りになっている。

 そもそも、自然界にとっては動物だろうが植物だろうが、人間だろうが命に価値なんてものは存在しないんだからね。それは勝手に人間が作り出した幻想に過ぎないものだ。私はもっと大きな目線で物事を見ている。

 何年も前の話だが、ある脳神経学者が脳卒中になった。彼女は一時的に左脳の機能がほぼ停止し、右脳だけで世界を認識しなければならなくなった。左脳は自己と外界を区別する大切なモジュールだ。それが停止するということはどこからが自分でどこからが外なのか、どこからが地面でどこから足なのか、認識できなくなることを意味する。その境界を生み出しているのは自己の認識に過ぎないのだからね。

 そのとき、彼女の目に世界は全て繋がっているように見えたそうだ。これは原始仏教の『から』の理念や世界各地の様々な宗教にも通じる現象だよ。ごちゃごちゃした何かの集合体に対して、“認識”“観測”することで枠組みを作り出している。これは足、これは地面、これは人、これは空気とね。超能力は、それを自由に操作することの出来る手段だ。自然の理を超えた、人が人の枠から抜け出すことの出来る唯一の道。君たちが協力することで、その境界へ飛躍的に近づくことができる。いいかね。その研究と比べたら、この町で起きたことなど大した物事ではないのだよ。超能力こそが、滅びの道へ進む我々人間を浄化させることのできる、唯一の形なんだ」

 熱弁を振るう真壁教授。しかし彼の言葉はもはや、僕にはまったく響かなかった。

 彼の研究が起こす影響は、確かに大きいだろう。もし確実に超能力者を作れるようになって、その手法を公開すれば、確かに世界は変わるかもしれない。それは確かに凄い研究だ。革新的といってもいい。だが、そのためにどんな犠牲を払ってもいいという彼の考えにはまったく共感できなかった。

 僕にとって大事なのは、千花や今の生活を守ることだ。僕が死ねば地球が助かるなどと直接的な要因を示唆されれば、もしかしたら僕は死ぬかもしれない。でも今はそうじゃない。僕にはまだ明日がある。真壁教授の言っている話は彼の想像に過ぎないのだ。そんな妄想や推論に付き合って人生を捨てるなんて真似、絶対にいやだ。何よりも、これほどまでに多くの被害者を出して、これほど知り合いを傷つけられて、それに一切の後悔もしていない男についていくなんて真似、できるわけが無かった。

「さて、どうかな? 協力してくれるというのなら、私は穏やかに手を差し出そう。だがしてくれないとなれば、強引な手段をとらざる終えない。不本意ではあるが、人類の未来のためだ。個々の犠牲など些細な事象に過ぎない」

 右手をこちらに伸ばし、穏やかな笑みを浮かべる真壁教授。絵画展で見たときと同様、曇りのまったくない純粋な目だった。

 僕は彼の目を見返すと、静かに答えた。

「お断りします。あなたの考え方には賛同できません」

 僕はてっきり真壁教授が怒り出すかと思ったのだが、彼はこの返答を予期していたかのようにあっさりとそれを受け止めた。

「まあ、そう答えるとは思っていた。私が君の立場であっても、きっと同じ返答したはずだ。客観的に見て私の研究や目指すものは、普通の生活を送ってきた人間には理解できない枠組みにある。……だが、彼女はどうしても必要なのだ。私のエゴのためだけではなく、これからの人間社会のために。多少強引だが、協力してもらうよ」

 真壁教授は一歩後ろに下がると、小さく言葉を放った。

「説得は失敗だ。――二人を捕まえろ、四業」

 

 

 

 真壁教授の横に漂っていた暗闇が肥大化したと思った途端、その漆黒の塊が一気に目の前に迫った。

 僕が咄嗟に腕を前に出すと、四業の拳がちょうどそこに重なる。

 強い衝撃に押され体がのけぞる。目の前が真っ暗で何も見えない。腹部から急に熱を感じ、僕は殴られたことを知った。

 何が楽しいのか知らないが大声で高笑いする四業。完全に気が狂っていると思った。

 僕はコンテナのそばに立っている千花を一瞥し、焦燥感をつのらせた。

 ――どうする? 真壁教授に千花の現象が効かないのなら、一旦引くべきか? カナラと合流して何か他の方法を探すほうがいいんじゃ……――

「おい、どこ見てんだよ」

 左から声が聞こえ、腕に衝撃が走った。まるで大木で殴られたかのように体が吹き飛ぶ。僕は生まれて初めて、生身で宙を飛ぶという経験をした。

 暗闇の中に伸びていた足が引っ込み、そこから四業の声が響いた。

「集中しろよ。このままじゃまたこの前と同じだぜ。少しは頑張ってみろよ。なあ」

 完全に馬鹿にしている声。

 僕は必死に抑えていた怒りが溢れそうになった。

 この調子ではどうあっても逃げられそうにはない。真壁教授を拘束するにしても、今は四業を倒す必要がある。どっちみち彼さえ居なくなれば、もう教授の手駒は存在しないのだ。

 大地を踏みしめるように四業の足が目の前に落ちる。千花を背にしたことで闇の中に隠れる必要はなくなったらしい。彼はにんまりと口角を上げ、僕を睨みつけた。

 予想しなければならない。この状況で四業が強化するものは何か。彼が攻撃するその瞬間よりも早く。

 今の僕は受けに回っている。彼の性格から考えてあり得る攻撃は純粋な筋力強化による打撃。僕は四業が肘を引くのに合わせ、左手を前に伸ばした。

 逸らされた剛腕が頬すれすれを流れていく。何とか読みは当たったらしい。その動きのままに右手を四業の腹部に打ち込んだ。

 ――殺す気で。殺す気で撃たなければ、意味はない。

 修玄の助言を思い返し、必死に己に言い聞かせる。だが、放たれた〝蟲喰い”にはとても一撃で彼人の命を刈り取れるほどの力などなかった。

 腹筋の一部と皮を飛び散らせながら、なおも四業は不敵に笑う。それは僕の心境を読み取ったかのような笑みだった。

 いまここで全力の〝蟲喰い”を放っていれば、確実に彼の動きを止めることができただろう。だが、実際はその三分の一にも満たない威力。結果として、それは四業の反撃を許すことにつながってしまった。

 全身に強烈な重みがかかる。重力を強化されたのだ。後ろに飛びのこうとしていた僕は、足を杭で貫かれたようにその場に釘づけになった。

「なんだよ今の不抜けたパンチは。喧嘩する気あんのか? こうやんだよ、こう」

 身動きのできない僕に向かって蹴りを突き出す四業。倒れないように力を入れていたせいで受け身も取れずにもろにそれを受ける。反応のいいサンドバックに満足したのか、四業は続けて拳を振り上げた。

 こっちは回復することができないのだ。そう何度もダメージを受けるわけにはいかない。

 僕は和泉さんとの争いを思い出し、自分の周囲に〝蟲喰い”を放った。重力に影響を与えていた四業の意識がそれによって強制的に切断される。

 僕は伸ばされた四業の腕をとり、そのまま背負い投げの要領で彼の体を地面に投げ飛ばした。予想外の動きについてこれず、四業は強く頭を打ち付けた。

 僕は追い打ちをかけるように〝蟲喰い”を撃とうとしたが、再度トラウマに阻まれ、その機会を逃してしまった。

「てめぇっ……!」

 頭から血を流し、怒りの表情を浮かべた四業が跳ね起きる。僕は伸ばされた四業の腕に弱体化した〝蟲喰い”をぶつけたが、かまわず彼はそのまま僕の首元の服を握りしめた。弾き飛ばされた彼の腕の血が眼にかかり片目の視界を阻害する。しかしそんなことに構っている暇はない。四業は感情のままに僕を近くのコンテナに叩きつけようと大きく振りかぶったが、直前で僕が抵抗したため、二人して地面の上を転げまわる羽目になった。

 ざらざらとしたコンクリが肩やほほを削り取り、荒い傷を生む。

 転がりながら彼の胸に〝蟲喰い”を打ち込むと、同時に僕の体は強打によって大きく吹き飛ばされていた。

「穿くん……!」

 派手に体の座標を移動させた僕を見て、千花が慌てた声を出す。彼女は僕に駆け寄ろうとしていたが、教授が腕を掴んだため、それは叶わなかった。

「貴重な検証の邪魔をしないでくれないか。せっかくお互いの作品が競い合っているんだ。創造者としてどちらが優れているか確認したいだろう?」

「何を言っているんですか? 放して下さい!」

 千花は強く腕を引いたが、教授は全く手を放そうとはしない。彼女がいくら視線を合わせてみても、やはり少しも暗示にかかる気配は見えなかった。

 もともと〝カナラ”が表に出てこれる回数は少ないのだ。無効化されたからと言ってこちらの消費した体力が戻るわけではない。恐らく千花はもう、しばらくの間カナラの現象を使うことはできないだろう。

 このままでは千花が真壁教授に連れていかれてもおかしくはない。

 僕はコンテナに手をつき、立ち上がろうとしたが、思うように体が動かなかった。四業に突かれた右胸が激しく痛み、灼熱の感触を波打たせている。今にも中から骨が飛び出してきそうだった。

 それでも何とか千花のもとへ駆けだそうとしたところで、いきなり目の前に黒い影が飛び出した。滑る力を強化したのか脚力を強化したのか、〝触れない男”のように高速移動をした四業が僕の体にタックルをかますようにぶつかる。

 勢いのままに、僕たちは背後の倉庫の扉を粉砕しその中へもつれ込んだ。

 

 膨大な土煙の中、必死に眼を凝らす。痛みを押し殺し、唇を噛みしめ、最大の障害に目を向ける。

 四業は荒い息を吐きながら、楽しそう僕を見下ろした。

「ここなら、あの女の視界に入らねえ。思う存分お前をボコれるぞ。覚悟しろよ。佳谷間穿」

 手の骨を鳴らしながらゆっくりと腕を振る。

 僕は無言で立ち上がり、彼を視界に収めた。

 月明かりが入り口から差し込み、四業の体の線を強調している。こうしてみると、意外に体格は普通だった。どこにでもいそうな三十過ぎの大人の男だ。

 抵抗感があるからといって、やらなければどうしようもないんだ。

 僕は指を固く握りしめ、致命傷を与えるために意識を集中させた。

 僕の反応を見た四業は眼を細め、力の抜けた両手を左右に広げる。カナラの視線を意識する必要がなくなったことで、余裕が戻ったようだった。

 わずかに間を置き、息を吸い込む四業。しかし次の瞬間、彼は猛烈な速度でこちらに飛び出していた。

 単調な突きを右手で逸らし、膝に乗せた〝蟲喰い”を放つ。しかし四業は驚異的な反応速度で後ろに身を逸らし、それをかわした。僕は続けざまに右ひじを彼のほほへ接近させたが、それさえも簡単に避けられる。明らかに急な回避能力の上昇。すぐに反射神経や体感時間を強化しているのだと理解した。

 ――そうか。そういう使い方も……!

 粗暴な言動からは想像できないが、彼は十分に己の現象を使いこなしている。強化対象を予測すれば何とかなるかもしれないと思っていたのだが、案外それにも苦労しそうだった。

 吠えるように笑う四業。このいざこざが楽しくて仕方がないらしい。

 彼は大きく振りかぶった拳をなんのひねりもなく僕に向かって突き出す。僕はそれを手の小指側で打ち下ろそうとしたが、触れる直前に気が付いた。僕は既に二三度彼の第一撃を逸らしている。四業もそれを当然わかっているはずだ。

 とっさに腕を引っ込め半身になって拳を横に流す。すると四業の拳がかすった配管が大きな火花を散らし一瞬だけ大きな光を放った。摩擦の強化だ。

 〝触れない男”のように操作する現象ではないためか、自身の皮膚も燃えていたがご自慢の再生能力でそれもすぐに回復する。

 確かに僕の拳に損傷を与えることができれば、〝蟲喰い”の発動能力は半減する。僕はあのまま手を受けていたときのことを想像し、肝っ玉を冷やした。

 突き飛ばすような四業の足を大げさに避け右の突きを伸ばす。

 僕の〝蟲喰い”を重力強化で足止めし、四業がけりを飛ばす。

 猛烈な光が四業の周囲から走り眼を塞ぐ。彼の挙動と性格から動きを想像し、顔面への一撃を〝蟲喰い”を展開することで防ぐ。

 お互いがお互いの体に触れることを恐れ、実に潔癖な争いが続いている。ふつう肉弾戦というものはある程度筋力が近ければ泥仕合のようなもみ合いに陥ることが多いのだけれど、これはそれとは正反対の実に潔癖な争いだ。

 ただでさえ四業には強力な回復能力があるにも関わらず、まだほとんど大したダメージを与えてはいない。このままでは彼の回復機能を低下させるより早く、僕の体力がなくなってしまうだろう。

「やっぱお前面白れえな。こんなにまともに殴り合えたのは久しぶりだよ。実験体同士でもこうはいかなかったぜ」

 争いつつもなお余裕の四業。彼からすれば、僕はていのいい自動反撃装置に過ぎないのだろう。決して致命傷を与えられることもなく、攻撃も十分に押している。負けるはずがないという自信の表れだった。

 彼が右足を引っ込める。僕は蹴りを予期して後ろに下がろうとしたのだけれど、四業は続けざまに右手を伸ばし僕の服に拳をかすらせた。

 すると不思議なことに、彼の肌が触れた場所が異様なほど大きく裂け、僕の体が弾かれる。まるで〝蟲喰い”を受けたかのような衝撃だった。

「お前の現象を見て思いついたんだ。〝破壊”の強化だよ」

 僕は千切れとんだシャツの裾を見て、唖然とした。もう何でもあり。彼の力は予想以上にとんでもないものらしい。

 こちらの動揺を見て気を良くしたのか、四業は続けざまに僕に向かって腕を振るう。その攻撃にどう対処すればいいかわからず、僕は防戦一方になり、三手目でとうとうそれの直撃を受けてしまった。

 とっさに前に掲げた両腕の皮膚が弾け飛び、肉の細い筋を引きちぎられるような痛みが沸き起こる。悲鳴を飲み込むと歯を噛みしめたところで四業のけりが腹部に命中し、後ろに押し飛ばされた。

 僕は段ボールが積まれている荷台の手前で動きを止め、横たわったまま四業の顔を見上げた。

 〝蟲喰い”を使って真正面から打ち負けたのは初めてだった。この現象を使えばどんな相手にも、どんなときにも負けることはなかったのに、真っ向からそれを否定されてしまった。

 確かにトラウマのせいで思うように攻撃できないというハンデはある。だがそれ以上に、四業は強かった。

 ――傷事態は浅い。けれど……このままじゃ……。

 じゃりじゃりと砂を踏みながら、四業が歩み寄る。彼は血を流し倒れている僕を一瞥し、満足そうに短く口笛を吹いた。

「なぁ、佳谷間穿。知ってるか? 超能力には分類があるんだ」

 僕の血の付いた拳を見回しながら、言う。

「真壁教授がいうにはさぁ。もっとも低ランクなのは、既に実在する事象を操作するものなんだってさ。水を動かしたり、九業のように摩擦を操作したり。んで、その次に既存の何かを発生させる力が来るらしい。炎を出したり、重力を作り出したりとか言った、漫画や映画なんかでお決まりのああいうやつだな。そして、もっとも高位なのが、〝存在”や〝空間”に干渉する力なんだと。時間の流れを変えたり、想像したものを具現化したり、何かを消したり。……お前の現象は分類的には最上位に位置する代物だけど、その精度はかなり未熟だ。俺の現象はジャンル的には大したもんじゃないけど、その精度は最高レベルに達している。実験体たちの中でも、俺とまともにやりあえる奴はほとんどいなかった」

 どことなく卑屈さを込もった言い方で、四業は自画自賛した。

「どんなに進んだ技術を使って作られた最新鋭の拳銃だろうと、純粋な威力ではショットガンには叶わない。それと同じだよ。いわば規格が違うんだ」

 四業は僕の目の前で足を止めた。僕は相変わらず黙って彼を見上げる。背後の段ボールに血が染みついているのか、背中が妙に生暖かった。

「どうせ俺には勝てないんだ。素直に教授の手を取れよ。そうすれば、お前はまだ生きることができる。もっとその現象を生かすことができる。お前だってまだ死にたくないだろう? もう俺の仲間を七人も殺してんだからさぁ。今更じゃねぇか」

「……僕は誰も殺していない。勝手な勘違いをしないで下さい」

 本田克己も、五業も、和泉さんも、僕は決して殺そうとはしなかった。殺すつもりなんてなかった。彼らは殺されたのだ。別の誰かに。……たぶん、三業を引き付けた謎の少年によって。

「またまたぁー。喧嘩してみてわかったよ。お前は俺と同類だ。お前は殺したくないんじゃなくて、殺す気はあるのに、殺せる意志や覚悟はあるのに、何かが邪魔をして殺せないだけだ。それがなくなったときはいつでも簡単に人を殺せる。九業や六業のときもそうだったんだろう? 善人ぶるなよ」

 善人ぶる? 僕がこいつと同じ? 何人もの少女を無残に殺し、日比野さんを傷つけたこいつと? ふざけるな。よくもそんなことを。

 僕は傷だらけで倒れていた日比野さんの姿を思い出し、奥歯を強く噛みしめた。


 


「わかるよ。誰だって最初はそうさ。人殺しってやつは怖い。人は、己が人であるからこそ同じような思考パターンを持つ他人の感情や痛みが理解でき、その痛みや死に同調し恐怖する。だから人は己が殺されることを恐れて、他人が死ぬことを、その痛みを己が感じることを恐れて、人殺しを禁忌扱いにしている。

 ……でもさぁ。そんなもんはしょせん平和な枠組みの中にしか存在しないただの一時的な取り決めに過ぎないんだ。人の死が珍しいからこそ、それに恐怖を抱く。殺されることが異常な状況だからそれを否定する。

 戦争になれば誰もが敵国を憎むし、その死を願う。自分の身が危険になれば、家族や友人が殺されれば、命は大事ですとのたまったその口で相手をののしりいかに不幸に落とそうか考える。

 命の重さなんてものは、しょせんただの幻想なんだよ。人が人のためだけに作り出した妄想だ。

 命が大切とのたまう傍ら、人は常に他の生物の命を奪い、取り込み生活している。食べるためだとか、神のお恵みだとか都合のいい言い訳をしてな。やっていることはただの〝殺し”にすぎないのにさぁ。

 なぁ佳谷間穿。この世界で殺しは当たり前のことなんだ。恐れる必要なんてない。〝違い”があるから言葉が生まれ、多様性ができ、そして対立が起きる。殺しや戦争なんてものは、違ったもの同士の会話の延長線上にしか過ぎないんだよ。自分と他人が別のものである限り、それは絶対に避けられない現象だ。ただ、規模や度合が大きいか小さいかだけの違いさ」

 僕の目の前に立ったまま、四業は自慢げにそう説明した。僕の同意を得たいというよりは、まるでそうだと決めつけたいような言い方だった。

 彼の言いたいことはわかる。その言葉の意味の、理解はできる。けれど、同意できるかどうかは別だ。

 僕は指に力を込めた。

 三年前。僕は四業を殺した。九業と、五業や泉さんと争った。でもそれは、殺したかったからじゃない。僕は、彼らの意志を理解したかった。しっかりと彼らの考えと向き合ったうえで、お互いが妥協できる道を見つけたかったんだ。それは決して、ただエゴのままに相手を消したかったからじゃない。欲望のままに人を殺し続ければ、最後には自分しか残らない。

 僕は膝に手を乗せ、ゆっくりと立ち上がった。

「僕は……僕はあなたとは違う。一度も誰かを殺したいなんて思ったことはない。僕はただ、彼らの気持ちを知りたかったんだ。決して殺すつもりなんてなかった」

「は、一度この体を死に追い詰めた人間が何を言う。あの女が殺されても同じことが言えんのかよ。教えてやろうか? 真壁教授が本当は何をするつもなのか」

「千花を分解して、新しい人造人間の材料にする気なんでしょう」

「はっ、そういう案も確かにあったがなぁ。そんなもんじゃねえよ。貴重な生きた超能力製造機を簡単に殺すわきゃねえだろう。それはあくまで最終プランだ。あの女が死んだか、寿命を迎えたあとのな。あのおっさんの目的は超能力者を増やすことだ。そのためにはどんなことをしても構わないと思っている。あの千花とかいう女はなぁ。様々な人体実験、交配実験に利用され、その遺伝子をこれでもかというくらい分析、増殖されたうえで、もう使い道がないと分かったところで分解処分される予定なのさ。それこそモルモットのようにさぁ。あいつ、まだ十代だろう? さてさて、一体何人のサンプルが増やせるかなぁ」

 その言葉を聞き、僕は強烈な怒りが沸き起こった。四業は、真壁教授は、完全に千花のことを人間だとは見ていない。都合のいい超能力者の作成道具だとしか認識していない。

 ――うん。お父さんもお母さんも、私のことをきれいさっぱり忘れていた。

 ある日突然何かに巻き込まれただけの、ただの普通の少女だったはずなのに。

 ――私は逃げた。必死になって逃げ続けた。乞食のように振舞って道路で寝ることもしょっちゅうだった。

 なぜ追われているのかも、自分に何が起こったのかも、彼女は何も知らなかった。ただ必死で逃げ続けてるだけだった。

 ――でも、この町で穿くんに再会したおかげで、前に進むことができた。本当の私を知っているあなたに会うことで、大きく慰められた。

 それでも必死に生きて、生き延びて、幸せをつかみ取ろうとしている彼女の願いを、思いを、真壁教授たちはなおも踏みにじろうというのだろうか。それももっとも残酷で歪んだ方法を使って。

 抑えていた。必死に抑えていた。感情的になれば千花を助けることができないからと、どれだけ怒っていても、どれだけ憎んでいても、それを押し隠して必死に冷静さを維持していた。

 瑞樹さんが殺されても、桂場が憑依されても、和泉さんが利用されても、日比野さんが傷だらけにされても、必死に己を殺して、その思いを消していた。

 だが、だけど、もう――限界だ。

 頭の中で何かのねじが吹き飛んだような気がした。

 右手の親指で小指から人差し指の先端を撫で上げる。何かがおかしかった。妙に頭がすっきりしている。不自然なほど、周囲の空間が、世界が、身近なものに感じられる。

 僕は四業の顔を見た。

 短く立てた髪に、整えた眉。おしゃれのつもりなのか、その外側の合間は線のように剃られている。

 雰囲気も、表情も、三年前に僕が殺したあの男とは別人だ。あの男は、こんなに軽い顔つきの男ではなかった。

 倉庫の扉がなくなったせいで、風が中に吹き込み部屋のあちこちがきしむ。僕にはその音が、悲鳴のようにも聞こえた。

「なんだよ。何かいったらどうなんだ? これでも俺の意志を尊重したいとか……――」

 四業の顔面が大きく歪んで後ろにずれる。

 彼は吹き飛ばされて初めて、自分が殴られたことに気が付いたようだった。

 僕の習っていた武術は護身術。あくまで身を守るためのもの。空手のように腰試し、回転を加えて打つ拳とは違い、手の甲を地面と垂直に腰の回転だけで急所を打ち抜く、予備動作の無い不意打ちに特化した攻撃。あくまでけん制用、逃げるための初動に過ぎないものだったが、威力が低い分、その速度と命中率は恐ろしく高かった。

「このっ、てめっ……!?」

 鼻から血を流した四業が驚いたように構えを取り直す。僕は彼の腕が胸の前に戻るより早く、その足の間に足を滑り込ませた。

 ――殺す気で。

 一瞬事故の映像がフラッシュバックし、消える。まるで何事もなかったかのように、僕は腕を突き出した。

 計画通りの行動。彼の再生材料を削り取るための作業。

 躊躇なく、僕はそれを撃ち込んだ。全てを消し去る〝蟲喰い”を。

 いくつもの分厚い気泡が炸裂するような音を鳴らし、四業の内臓が吹き飛ぶ。血液やら消化液やらが宙を舞い、周囲のコンクリートを汚した。

 とてつもない痛みだろう。胴体の三分の一が一気に持っていかれたのだ。四業の表情は、これまでに僕が見たことないほどの、異様な表情を浮かべていた。

 声にならない叫び。

 四業は鬼の形相で僕を見返し、両手をまっすぐにこちらに向かって伸ばした。腹を吹き飛ばされながらなおもこちらへ向かう。

 まだ次の〝蟲喰い”は使えない。普通なら彼に触れるべきではない。四業もそれはわかっているはずだ。だから僕はあえて、その腕を掴んだ。

 手が発火し灼熱の痛みが指を襲う。しかし構わず腰を回し、修復を始めていた四業の腹部にひじ打ちを差し込んだ。

 悶絶する四業。僕がさらに追撃を行おうとすると、彼は手を横なぎに振るい、何かが僕の体中に突き刺さった。真っ黒な固い物体。とこどころグロテスクな形状をしているそれは、彼の血だ。凝固作用を強化したのだろう。まるで鋭いナイフのように鋭利な刃となっていた。

 一歩下がった四業が一瞬呼吸し体制を立て直す。腹部の傷はまだ完治していない。

 僕はさらに踏み込み、腕を伸ばした。自分が傷つくことなどどうでもよかった。ただ目の前のこの男の存在が許せなかった。

 〝蟲喰い”を撃つふりをして相手の服を引き、混信の膝蹴りをわき腹に撃ち込む。再び四業の肉片が見えない波に乗って飛ばされると同時に、僕は猛烈な呼吸困難を感じた。

 ――さっきの手を……!

 僕がやった方法のお返しだ。四業は腹に突き刺さった僕の膝から影響を与え、こちらの呼吸を乱したようだった。

 がっしりと両肩を掴まれる。一瞬にして、万力のような力がそこに加わった。

 このままでは肩を砕かれる。僕はすぐに〝蟲喰い”を肩から放ったのだけれど、どうやらそれが四業の狙いのようだった。

 〝蟲喰い”が炸裂する直前、四業は腕を放した。空気が歪む甲高い音が響き、僕が空振りされたことに気付いたときには既に遅く、四業は嫌な笑みを浮かべて手刀を突き出そうとする。

 あれは確実に体を貫く一撃だ。

 受ければ間違いなく死ぬ。

 脳が鷲掴みにされたような衝撃を覚える。しかしやらないわけにはいかなかった。

 僕は発動感覚を力ずくで早め〝蟲喰い”を放出した。

 吹き飛ぶ四業の手首。あふれる血。同時に、僕の鼻からも大量の血が流れだした。

 大きな叫び声をあげて四業がもう片方の手を振りかぶる。もう〝蟲喰い”は連発できない。僕はとっさに彼に抱き着き、肩の肉を思いっきり噛んだ。口の中に鉄の味が広がり、とてつもなく気持ち悪い。四業は悲鳴を上げそのまま僕を解き飛ばす。

 わずかにそれで距離が開いた。

 ――ここを逃すわけにはいかない……!

 僕は両手に〝蟲喰い”を発生させる用意をして一気に拳を振りかぶる。

 四業は先ほどと同様破壊の効果を強化して反撃したが、拳が触れた部分の損傷を増加する現象と、何も存在しない点を作り出すという現象とでは、圧倒的に後者のほうに分があった。

 僕は右手の〝蟲喰い”で四郷の左腕を吹き飛ばし、さらに続けて連続で左手の〝蟲喰い”を彼の胸に打ち込んだ。手加減なしの全力の〝蟲喰い”だ。

 血の輪を残像のようにその場に残し、紙切れのように吹き飛ぶ四業。腕を伸ばしたまま僕はその場に倒れた。

 頭が猛烈に痛い。鼻血が止まらず、脳が耳の横でどくどくと唸っているような気がした。

 ――十分な傷は与えれたはずだ。すでに三回は死んでいてもおかしくはない。あれだけの傷なら、もう再生するための材料なんてないはず……!

 半ば願いを込めて向かいの土煙を見上げる。灰色の風の中に、動きはなかった。

 どうやら行動不能に追い込めたらしい。僕はほっと胸をなでおろし、息を吐いたのだが――

 じゃりっと、砂を踏みしめる音が前から響いた。

「痛ってぇ……とんでもねえな。今の……」

 取れた両手をわきに抱え、そのまま腕の傷口に押し当てる四業。見る見るうちに骨がつながり、血管がそれを覆い尽くした。

 ――まだ、これでもダメなのか。

 あれだけやったにも関わらず、四業の傷は瞬く間に回復していく。否応なしに無力感が襲いかかってきた。

「あー、畜生。結構持ってかれたわ。初めてだぜ。こんなの」

 言葉とは裏腹に余裕の表情を浮かべる四業。僕は膝を立て、右手の親指で他の指を撫で上げた。

 中途半端な攻撃じゃすぐに再生される。もっと一撃で体をバラバラに粉砕するほどの威力がなければダメだ。……でもすでに全力の〝蟲喰い”は使った。これ以上どうすればいいんだ。

 三年前とは違い、彼の心臓の傷はみるみるうちの治っていった。あの時は一撃で彼を殺せたはずなのに。

「おいおい、へばってんなよ。もっと楽しもうぜ。痛みって気持ちいいだろう? 生きてる実感がしてさぁ」

 四業は二度両手をたたき合わせ、愉悦の表情で僕を見下ろした。

 あの時はどうやったんだ? どうやって四業を倒した? どうやって殺したんだ?

 必死に記憶を探る。時間はほとんど残されてなかった。

 四業はわずかに身を屈ませると、ためた力を解き放つように前に薄く跳躍する。くっついたばかりの右手をかぎづめのように尖らせ、腰の勢いを乗せたそれを僕の顔面に向かって叩きつけようとした。〝蟲喰い”を使わせるためのブラフ。それはわかっている。だが使わなければ強化されたあの指を防ぐことはできない。そして使えば確実に第二撃目で僕は死ぬ。

 鋭い四業の爪先が僕の皮を先肉に突き刺さる。何とか素の筋力だけでそれを押しとどめようと試みたが、無駄だった。

 僕の体は突き刺さった腕に押されるまま後方へ流れる。

 強烈な電流。また痛みを強化したのだろう。僕は思考すら叶わないほどの激痛を全身に感じた。血管の中を、骨の中を、棘だらけの蛇が這いずり回っているようなおぞましい感覚。

 これではまともに〝蟲喰い”を発生させることもできない。四業の狙いは最初からこれのようだった。

 楽しそうに、嬉しそうに、絶頂したように、高らかな声を上げる四業。

 痛みの暴風雨の中、僕は彼の瞳に移る自分の顔を見た。

 諦めにも似た絶望の表情。どこかでみたことがある。これは、あのとき、三年前の初代四業が見せていたのと同じものだ。僕の〝蟲喰い”が心臓を吹き飛ばし、自分の死を悟った、全てを理解したときの彼の目。あの虚ろな顔。

 あのときの彼もこんな気持ちだったのだろうか。生きるために必死にカナラを追いかけて、そして見つけたと思ったところで得体のしれない少年に殺される。こんなはずではなかったのにと悔やみながら。

 やめてくれ。そんな目で見ないでくれと、僕は思った。

 僕は殺したくなかった。決して殺したくはなかった。ただ必死だったんだ。僕は〝生きたかった”。だから、感覚で何かが起きると分かっていたそれを全力で彼に押し付けた。放ち続けた。それが止まるまで、彼の意識が断ち切れるまで。

 ――お前は俺と同類だ。お前は殺したくないんじゃなくて、殺す気はあるのに、殺せる意志や覚悟はあるのに、何かが邪魔をして殺せないだけだ。

 四業の言葉がこだまする。僕は必死にそれを頭の中から掻き消そうとした。

「おらどうしたぁ? 死んじまうぞぉー?」

 四業がさらに腕に力を籠める。

 薄れかけた意識の中、僕に存在していた感情は、ただ〝死にたくない”だった。

 ここで終わりたくない。まだ生きていたい。

 それはもはや生物としての本能からくるものだろう。

 僕は感覚がないはずの右手を上げ、そっと四業の胸にあてがった。

 

 

 


 力が入らないはずなのに、意識が消えかけているはずなのに、僕は本能のみで“蟲喰い”を発生させていた。

 四業が口から血を吐き、ひび割れのようにその表皮と肉が裂ける。しかし彼は、笑みを浮かべたまま己の現象である〝強化”によって、なおも僕の痛みを増幅しつつけた。

 頭が重い。

 ここで反撃しなきゃ死ぬ。

 僕はそれだけを思い、穴だらけの意識の中、何とかして〝蟲喰い”を発生させようとした。

 それは結果として、既に発生している〝蟲喰い”の上に、連続で発動したときと同様に別の〝蟲喰い”が重なり、二重に〝蟲喰い”現象が起きることとなった。

 破壊したものにまるで蟲喰いのような跡を残すことからそうつけた現象ではあったが、二重に発生されたそれはもはやまったくの別物になっていた。

 隙間が存在しなければ穴は生まれない。僕が二重に〝蟲喰い”を発生させた瞬間、四業の心臓はまるごとその場から消失したのだ。

「……はっ?」

 体の中心にぽっかりと穴が開き、そこから滝のように血が溢れ出る。

 彼はまじまじと己の胸を眺めたあと、何だこの穴は? といった表情を浮かべたまま滑るように崩れ落ちた。

 重い喘息のような呼吸を繰り返しながら、横たわったままぴくぴくと体を痙攣させる。跳ねた手足が何度も地面にぶつかり激しい物音をたてた。

 痛みの激流が引いていく。

 頭は金づちで殴られたように激しい衝撃を感じていたが、意識だけはわずかに戻ってきた。

 僕は倒れ苦しんでいる四業をぼうっと見つめ、何が起こったのか冷静に考えた。まともに頭が働かないからこそ、感情を置いてけぼりにして事実だけを求めようとした。

 ――そうか。蟲喰いの点同士が異常に密集すれば、こうなるのか。点外の空間を押し出しているのかそれとも丸ごと消しているのか、それがどういった原理で生み出されているのかは未だにわからないけれど、二重に重ねられたことで消失の範囲が異常なほど大きくなり、結果として対象を消し去るという現象を起こしたのだろう。

 体の中心に大穴があいたのだ。今までのように裂けたりしただけではなく、臓器が丸ごと消え去った。さすがに四業の回復能力を持ってしても、これは尋常ならざるダメージらしい。

 彼の細胞は必死に傷口を修復しようと蠢いていたが、傷を塞ぐための材料が欠乏しているため、それはむなしく細い繊維を伸ばすだけだった。

 僕はぼうっとした頭のまま、ゆらりと立ち上がった。

 今ならこの男を殺せる。今なら確実にとどめを刺せる。

 頭に一撃〝蟲喰い”を打ち込めば、もう回復は不可能だろう。日比野さんを半殺しにし、何人もの少女を無残な死に追いやったこの男も、これでお終いだ。

 頭痛が波のように消えては押し寄せる。

 僕は血だらけの手をそっと四業の頭に伸ばした。

 殺す。これで彼は死ぬ。

 理論的にそう実感したところで、急に疑問がわいた。

 殺す? 本当に殺していいのか? この男を?

 四業の現象の効果がなくなり、頭に血が戻ってきたおかげで、意識がはっきりしてくる。

 僕は痙攣している彼の頭部に手を乗せたまま、立ち尽くした。

 ――やれ、やるんだ。こいつを生かしておけばまた犠牲者が出る。こいつさえいなければ、教授を守る者はもういない。もうすでにさんざん殺意の籠った攻撃を繰り返したのだ。今更一体何を恐れる必要がある。

 指に力を入れ現象を起こそうとする。

 ――しかし、いくらそう考えても、そう思っても、〝蟲喰い”は発生しなかった。

 四業の頭に乗せた手が震える。意識したはずなのにどうしても無の点が作り出せない。

 こうしている間にも四業の肉体はゆっくりと回復していく。彼の頬がげっそりと削れていくにつれて胸の傷口が塞がり始めていた。

 僕は必死に殺意をたぎらせてみたが、何度やっても無駄だった。殺そうと思った瞬間、誰かが後ろから糸を抜くように力が抜ける。

 四業は力のない目で不思議そうに僕を見上げた。

 そのまま力のない腕を掲げていると、四業の胸の傷がうっすらと塞がり穴がなくなった。

 僕は身構えようとしたのだけれど、四業の姿を見てそれが杞憂きゆうだとわかった。やせ細った体に青白い顔。全身のあらゆるところから細胞をかき集め、何とか心臓もどきを作り出した彼は、もうとても動けるような状態ではなかった。

 溜息を吐く。なぜか胸が楽になる。

。どうやら僕は、彼を殺せないことに安堵しているようだった。

 血がぽたぽたとコンクリートの上に落ちてゆく。

 雲が多くなっているのか、どこと無く肌寒かった。

 ……結局、僕は……。

 気が抜けたおかげで、僕はふと千花のことを思い出した。

 争いを開始してからすでに十分は経っている。教授がその気なら連れ去られていてもおかしくはない。

 手を四業の頭からどかし、痛む体を押さえて立ち上がる。

 そんな僕を見て、四業は憎々しげに口を開いた。

「待て、よ。逃げんなよ。殺したかったん、だろ? 俺を」

 四業がかすれた声で叫ぶように見上げる。僕は黙って彼を見返した。

「いい子ぶるなよ。怖いだけなんだろ。人殺しがさぁ。人ってやつは、自然と他人の痛みを共感しちまう。種として他者との垣根が薄いんだ。何せ野生動物と違って人の中だけでしか生きていなんだからな。俺が死ぬことでお前は得体の知れない喪失感を抱いてしまう。結局、本質的にはそれが嫌なだけなんだよ」

 喪失感……そう。確かにそうだ。三年前の僕は、彼を殺したあと、ずっとそれに悩まされていた。まるで自分の体の一部がなくなってしまったかのような、苦しみに。

 彼の言う通りだ。人は他人の痛みを理解できるからこそ、その苦しみを知ることができる。その感情を読み取ることができる。殺されるその瞬間の感情さえも。僕は四業を殺した瞬間、同時に僕自身をも殺していたのだ。

 常識や倫理観の問題じゃない。そんな誰かに決められた決まりごとのせいじゃない。結局トラウマだとか呪いだとかいろいろと言いつつも、僕は単に、純粋なる気持ちの問題として、僕自身が人殺しをしたくなかっただけだった。

 ひゅうひゅうと息を吐きながら四業が憎憎しげにこちらを見上げる。その姿が何故か僕には、底なし沼の上でとてつもなくもがき苦しんでいる哀れな小動物のように見えた。

「おい待てって。待てよ……! 佳谷間穿!」

 血の溜まった声で四業が叫ぶ。だが僕は構わず倉庫を後にした。もう先ほどまでのような殺意は、影を潜めたように僕の中から消えていた。

 



「はは、驚いたなぁ。四業に勝ったのか。君は」

 倉庫から出てきた僕を見るなりに、真壁教授は実に愉快そうな笑みを浮かべた。卑下も恐怖も何もない、心の底からの笑みのようだった。

 僕の顔を目にし、千花がほっとしたように息を吐いた。

 僕は血の垂れる腕を押さえながら、真壁教授の目を見つめた。

「千花を開放してください。あなたの負けです。真壁教授」

「負け? 一体何をもってそう言っている? この状況のどこに私の敗北があるというんだ」

「……あなたを守る実験体は一人もいないんですよ。確かにあなたを罪に問うことは難しいかもしれませんが、僕がその気になればいつでもあなたを殺せる。千花を放してください」

「殺意があるのならこんな押し問答はせずとっくに襲い掛かってきているはずだろう。君に私を殺すことはできないよ。人としての常識の中で生きている君にはね。――……そんなことよりも、話をしようじゃないか。少年」

 真壁教授は千花の腕を引き付けた。痛そうに彼女の顔が歪む。

「話? 今更何を……」

「君の今後についての話だ」

 もったいぶるように真壁教授は頷いた。

「君の存在を私は認知した。君が私を殺さないならば、この情報は私の知人にも広がることになる。この子のように、もう君がまともな生活を送ることは不可能になるだろう。そうなれば当然、君の家族も無事では済まない」

 それは恐れていた最悪の結末の一つだ。僕は睨みつけるように真壁教授を見た。

「だが、それを回避する方法もある。……穿くんだったかな? 私と取引をしないかね?」

「取引?」

 僕は繰り返した。ゴロゴロと雷鳴が天空で鳴り始めていた。

「そうだ。今回の騒動に関して、私には腑に落ちない点がいくつかあってね。その解明に協力して欲しい。もしこの案を了承してくれるのであれば、〝この子”の身柄は保証しよう」

 真壁教授は意味深な言い方をした。

「あなたの言葉を信じられるわけがないじゃない。何を言ってるんですか?」

 目をきっと細め、千花が真壁教授を見る。

「簡単な話だ。私にはどうにも、君があの男の娘だとは思えないんだ。この二日間で観察してみたが、どうにも現象の効果レベルが低すぎる。……それに、四業一人にここまで苦戦する彼が残り七体を殺害できたとも思えない。一時間ほど前のトラック襲撃。最初は三業をおびき出した君たちが、二対一で彼を下したのだと思ったが、先ほど当の三業から連絡が入った」

 真壁教授は小首を傾けた。

「彼は現在、北区の古い浄水場に襲撃者を追い詰めたらしい。そしてそこで、私たちの目的と思わしき、〝少女”の姿も確認したそうだ。私が最初に発見した超能力者、彼の子は一人だけだ。つまり、その少女とここにいる君のどちらかは偽物ということになる」

 再び視線を僕のほうに向ける。

「思えば今回の騒動は最初から違和感があった。私はカナラと呼ばれる少女がこの町に潜伏していると知り、すぐに実験体の中でもっとも性能の高かった〝二業”を派遣した。本来ならば、それであっさりけりがつくはずだったのだ。……だがどういうわけか二業は音信不通となり、続けて送り込んだ実験体たちもことごとく破壊された。どの個体も同じような傷痕を残してだ。

 彼らの報告をまとめると、不思議なことに七、八業は北区にカナラがいると述べ、九、六業は南区に対象がいると述べていた。そして肝心の五業はそのどちらの報告にも裏付けが取れるような言い方をしていた。このことから私はある結論を出した。目的の対象は、二組いるとね」

 二組……。

 すぐに僕は、国立公園で見たカナラともう一人の人影の姿を連想した。

「わかるだろう。欲しいのは純正品の超能力者なんだ。血統書付きの彼女が一人いれば、偽物のような副産物はいくらでも量産することができる。そして君たちが後者であるのならば、私にとって君たちの価値はほとんどないということになる。もちろん、本物が見つからなかった場合は参考資料として拘束させてもらうが」

「……実験体たちの死体を回収して再利用している人間が、僕たちを放っておくとは考えられません。たとえ何を言っても、僕はあなたを信じませんよ」

「彼らを回収していたのは、材料がなかったからだ。だがカナラと呼ばれる少女がいれば、そこらへんの誰からでも超能力者を生み出すことができる。君にならわかるだろう? 穿くん」

 カナラの影響で超能力者になったことを示しているのか、真壁教授は舐めるように僕を下から見上げた。

「あなたの記憶さえ奪えれば、全てうまくいくんだ。カナラの父親の細胞があなたを守っているのなら、それを排除すればいいだけです。殺せなくても、拘束して閉じ込めることはできる。カナラの力がれば医者を操ることだって――」

「私の記憶を消せば全てが丸く収まる? それは大きな誤解だ。……超能力者のメカニズムはある程度解明した。既にそれを作るためのシステムは完成している。カナラは起爆剤になりえる存在だが、彼女が居ないからと言って、私の研究成果が無くなることはない。研究成果はすでにある同好会に預けてある。私に何かあれば、自動的に彼らがそれを引き継ぐ手筈になっているのさ」

 真壁教授はつまらなそうに僕を見た。

「……既に、私個人の記憶や命に大した価値などない。私の目的は人類の昇華だ。人は他者の思考を理解、想像できる。つまり、個人同士は人類という存在の端子に過ぎないものだ。その研究が続けられるのならば、私個人という枠組みに敢えてこだわる必要もないだろう」

 この男は何を言っているのだろうか。僕には教授の感覚がまったく理解できなかった。

「……とにかく、あなたを拘束します。千花を放してください」

「いいだろう。仕方がない」

 真壁教授はそう言うと、あっさりと千花の手を放した。

 彼女は掴まれていた手首を痛そうに摩りながら、真壁教授を見上げた。

「カナラがどんな方法を使ったにしろ、あなたに暗示をかけれたことは確かです。彼女と合流できれば、またあなたの記憶を弄れる可能性はあるはずです」

「そうだな。それだけが、私にとって現在存在する唯一の懸念事項だよ。一体彼女はいつ、どうやって私に暗示をかけたのか。私の前では記憶の操作どころか、幻を見せることすら叶わないはずなのに……」

 余裕たっぷりの表情でぶつぶつと一人ごとを続ける真壁教授。

 確かさっきの倉庫にはロープのようなものがあったはずだ。とりあえずそれを使って腕を拘束して、修玄さんに相談するべきだろう。

 僕が近づくとつられて千花がこちらを見た。その瞬間――

 真壁教授がにやりと笑みを浮かべた。

 彼の目を視界に入れた途端、いや、“千花”の目を見た途端、僕は急に足が動かなくなった。まるで金縛りにあったかのように、体を乗っ取られたかのように。

「千花……?」

 意味が分からず彼女を見返す。しかし、千花は答えなかった。虚ろな表情で僕の居場所にただ目を向けている。

 この顔つきには覚えがある。僕は五業に憑依された彼女の姿を思い出した。

 真壁教授は千花の肩に手を乗せながら、

「残念だったね。――君にはまだ伝えていなかったかな。私は確かにカナラの父親の細胞を取り入れているが、それだけでは彼女をコントロールするには不十分だとも、当然理解していた。これはそのために講じた本命の策だ」

 真壁教授の首元の筋肉がうねりだし、何やら触手のような赤黒いひもを立ち昇らせる。それは、五業の腫瘍から伸びていたものと酷似した何かだった。

「私には超能力の素養などない。だが、素養のあるものを利用することはできる。九体の実験体の中で、五業だけは特殊なのだ。彼は純粋な超能力を発揮しているというよりは、人工細胞によって生まれ変わった別種の力を使っていたというほうが正しい。生体機能に近いものであるのならば、超能力者の素養がなくとも、移植さえすればそれを利用することはできる。彼ほどとは言えないが、私も自分の肉体の一部を変化させることに成功してね。……幻覚をあやつる少女が相手なんだ。私個人が操られなくとも、実験達が操作され反旗を翻す可能性はあり得た。だから、その対策としてこれを用意していたのさ」

 真壁教授の肩が口のようにぱっくりと開き、そこから巨大な目玉がこちらを覗いた。

「見たまえ。今の彼女は私の体の一部だ」

 千花の腕には真壁教授の肩と同様の肉片がとりついている。それがうねうねと蠢くたびに、千花の体が苦しそうに震えた。

 僕はすぐに我に返って、

「“カナラ”千花を助けるんだ……!」

 彼女の中にいるもう一人に声をかけてみたが、まったく効果はない。どうやらそのために姿を見せ、彼女の力を弱めたようだった。

「先ほどの提案はそれなりに本気だったんだがね。こうなっては仕方がない。この子の現象を使えば、私にかけられた暗示を解除することも可能なはずだ。八体の実験体は失ったが、なかなか興味深いデータは得られた。それを参考に、また新しい駒を作ればいい」

「また死体をもてあそぶ気ですか」

 僕は憎々しげにそう尋ねた。

「死体? ああそうか。彼らの記憶を見たのか。……君は誤解している。私は死体を生き返らせたわけじゃない。彼らは――死んでなかったんだよ」

 死んでない? 何を言っている?

 僕は大きく混乱した。

「死体を生き返らせられる技術はまだ未発達だ。できたとしても、生前のようなまともな思考を維持することは難しい。超能力の発現には、過去の記憶が必要不可欠だからね。そんなでくの坊はてこの役にもたたない」

 馬鹿な。彼らは確かに死を迎えていた。記憶の中で、苦しんで、確実に“自己の死を認識”していた。“自分の死を理解していた”。

 そこまで考えて、僕ははっと気が付いた。

 ――まさか……。

「そうだ。彼らは死んでいなかったのだよ。瀕死の怪我を負った彼らを誘拐し、その死を偽造した。そして、集めていた超能力者としての素養の高い部位を彼らに埋め込み、肉体を再構築したんだ。つまり私が行ったことは、ただの形成と臓器移植に過ぎない」

 “触れない男”も、五業も、和泉さんも、みんな生きていた? 僕が見た記憶のままの命をもって、その世界の延長線上で? そんな馬鹿な、深身さんの記憶では……――いや、あれはあくまで実験体たちがこの町に来てからの処理方法に過ぎない。もしあれが僕やカナラを釣るためにわざとわかりやすい手段をとっていたのだとしたら……。

 彼らは、化け物でも怪物なんでもない。

 思わず手が震える。僕はこの男のあまりの所業に吐き気をもよおしていた。

「あなたは……あんたは、まだ生きている人間を実験に使ったんですか。彼らにはまだ人生があったのに、まだ、生きていたのに」

「人の未来に必要な犠牲だったんだ。不運とは判断して欲しくはないね。彼らはそのおかげで、人を超えた力を手に入れることができた。人類の次なる存在のひな形として、役立つことができたのだから」

 修玄さんの言ったとおりだ。この男は、確かに完全に狂っていた。それも、完膚なきまでに。

 冗談ではない。このままこの男のもとに連れ去られたら、四業が話していたことすら生ぬるい目に合うかもしれない。

 僕はすぐに千花の腕にとりついている赤黒い肉片を吹き飛ばしたかったが、それに操られた千花による暗示のせいで、ピクリとも動くことができなかった。

 もう彼女の中にいる“カナラ”の助けも期待できない。僕が何とかしなければ、全て終わるのだ。

 ――そうだ。“蟲喰い”は彼らが起こしていた現象にも効果があった。前に展開して僕と千花の間にできている意識のリンクを断ち切れば、動けるようになるかもしれない。

 手のひらだけを前に向けて、無の領域を拡散させる。“蟲喰い”は確かに発動したが、僕の体は一向に動くことができなかった。

「君の起こせる現象は実に刹那的だ。花があって嫌いではないが、彼女の前では無力に等しい。視線さえ合わせていれば、効果は持続させることができるのだからね。君がいくらリンクを打ち消したところで、消えた直後にそれはまた蘇る。穴の開いた船の水をくむような行為だ」

 たばこでも吸っているように、実に落ち着いた声で真壁教授はそう言った。

「さて、少々手順は狂ってしまったが、結果的には十分だろう。君も、私やこの子と一つになろうじゃないか」

 その言葉を言い終えた直後、真壁教授の肩にあった赤黒い触手が二つに分かれ、一つが腕のほうに移動し始めた。

 そうだ。いくら千花の体をのっとっているといっても、彼女の現象を強化しているわけじゃない。すでに限界近い力を行使していた彼女を無理に動かしているのだ。暗示をかけ続けられる時間も限られているはず。そのためにあの五業もどきを植え付ける気なんだ。

 僕は続けて何度か“蟲喰い”を起こしてみたけれど、全て無為に終わってしまった。指を一本動かす暇もなく、再び千花の暗示にかかってしまう。

「心配するな。別に君の人格を損ねるわけじゃない。自動制御の車に私というハンドルが加わるだけだ。必要がないときは、君の思うように動けるさ。……まあ、まれにだが」

 触手の乗った手でコンテナの壁を撫でるように触り、真壁教授がこちらを見る。僕は全身から冷や汗を流しながら、身を震わせた。

 まずい。どうする? 手を吹き飛ばすか? そうだ、動けなくてもそれはできる……!

 強烈な痛みで意識が断ち切らられば、千花の拘束も解けるかもしれない。僕は最後の期待を込めて“蟲喰い”の用意をしていたのだけれど、

「怖い怖い。まるで追い詰められた小鹿のような表情だね」

 あることか、真壁教授は触手を千花の腕に乗せ換えた。これでは僕にはどうしようもない。

 ふらふらとした足取りで、ゆっくりと近づいてくる千花。妙に上気した表情で楽しそうに僕を見上げる。

「千花、しっかりするんだ」

 僕は必死に声をかけてみたが、やはり反応はない。そうこうしているうちに、彼女の手が僕の肩に触れた。

「さぁ。今日から君は、“十業”だ」

 真壁教授の嬉しそうな声が響き、千花の白く細い腕が、逃がさないように強く僕の肩を絞めつける。そしてその上をなぞる様に触手が移動し始めた。

 歯を食いしばり、全力で逃げようとするも、どうすることもできない。

 赤黒い触手の一腕が僕の肌に突き刺さり、侵入を開始した。注射器のような洗練されたものとは違う、鈍く嫌な痛み。四業のせいで感覚がマヒしかけてはいたのだが、そのおぞましさははっきりと認識することができた。

 鳥肌を立たせ、自分でもわからない何かに懇願しながら身を固くする。首に感じる感触は徐々に大きくなり、同時に意識が波を引き始める。

 ダメだ……まずい、まずい……!

 彼女と、彼女の中にいるはずのもう一人に向かって懇願する。しかしいくら願ってみても、状況は変わらない。

 次第に視界がかすみ、景色がゆがんで行く。

 絶望に打ちひしがれた僕の目に、別人のように歪んだ彼女の口元が移りこむ。

 次第に消えていく意識の中、鐘のような頭痛だけが僕の中に木霊し続けた。



[2016/3/09]

本章の6節を消去、5節の終盤を変更しました。

ご了承下さい。

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