第三章 少女の幻影
1
都内へ帰る御奈の見送りを済ませると、僕は父との気まずい朝食を終わらせ、家を出た。今日は転校初日。もともと気が丈夫なほうではない僕は、正直、かなり緊張していた。
昨日教えてもらったとおりに道を進み、高校を目指す。転校ということで他の生徒よりも早く登校しなければならなかったため、まだ生徒の姿はほとんど無い。大通りを抜け学校へと続いている通りに出たところで、ようやくちらほらと同じ深緑色の制服を来た者たちを見かけるようになった。荷物から察するに、部活の朝練のようだ。
緩い坂を上り、この町にしては妙に近代的な門を潜り抜ける。転校の手続きで一度ここには来ていたが、やはりたった一回では校舎の間取りを完全には覚えきれなかったようだ。五~六分ほど迷った末、適当な教師を見つけてようやく職員室に辿り着くことができた。
「おお、来たか。佳谷間……穿くんだね。こっち来なしゃい」
中へ踏み込むなり、細長い男性教師が僕を見つけ、声をかけてきた。名前は忘れてしまったが、確か担任となる人のはずだ。独特な口調と歩き方がすごく印象的だったので、顔はよく覚えている。手招きされるままに、僕はその教師の前へと向かった。
「あちしのこと覚えてるかい? 君の担任になる橋本です。いきなり教室に行かされるのはしんどいと思うから、朝のホームルームのときにみんなに紹介するね。ちょっと話すことがあるからそこに座って」
まだ教師が来ていない隣の席の椅子を引き、橋本先生は口だけへらっと笑った。
「それじゃあ、まずは……――」
話の内容は、主に授業やそれに関する教材、道具、そして一般的な校内のルールについての説明だった。
別にこれといって一生懸命記憶する必要があるものでもなかったので、適当に聞き流し、相槌を打つ。およそ十分ほどでその儀式は終了した。
「――こんなもんかな。もう少ししたらホームルームに行くから、そこの待合室で休んどいて。時間になったらあちしが声をかけるから」
「わかりました」
頷き、立ち上がる。僕はすぐに後方の待合室へ移動しようとしたのだが、思い出したように橋本先生が声をかけてきた。
「――あっ、佳谷間くん。あとでホームルームで詳しく言うけど、ちょっと悪い知らせがあるから、転校初日だけど今日はあまり騒がないで欲しのよ」
騒がないで欲しい? 悪い知らせ?
なにやら不吉な単語が列挙された。一体何だと言うのだろうか。
事態は飲み込めていないものの、僕はとりあえず了承の意を通した。頭の上で何かが炸裂したかのような橋本先生の頭部に別れを言い、待合室へと回れ右をする。ホームルームまで、あと二十分ほどだった。
2
自分の名前、出身地、趣味。簡単な自己紹介を終え、僕はあてがわれた席についた。やはり高校での転校は珍しいからか、皆の視線が痛い。動物園のパンダになったような気分だ。
隣の席の子に挨拶をし、鞄を開ける。筆箱を机に出したところで、出席の確認が始まった。
名前を呼ばれる度にだるそうな腕と声が上がる。僕はその間に緑也と瑞樹さんの姿を探したけれど、二人の姿はなかった。どうやら違うクラスのようだ。せめてどちらかと一緒だったら良かったのにと思った。
全員の名前が呼ばれ終わり、橋本先生が名簿を閉じる。すると、教室の右端に座っていたボブヘアーの女子生徒が不思議そうに声を上げた。
「先生、古瀬さんがまだ来ていませんが……」
古瀬――それは確か瑞樹さんの苗字だったはず。
よく見ると、中央に空いている席があった。列の後ろから四つ目、真ん中の少し後ろくらいの位置だ。あそこが瑞樹さんの席だというのならば、彼女は遅刻したのだろうか。
僕がそんなことを考えていると、橋本先生はしんみりとした妙な表情を浮かべた。
「えー……実はみなさんに残念なお知らせがあります」
何かを感じ取ったのか、雑音を奏でていた者たちの動きが止まる。みな一様に橋本先生の顔を見つめていた。
「いいですか。落ち着いて聞いて下さいね。非常に急なことで、あちしも動揺しているのですが……」
まどろっこしく彼は口を渋る。何だか妙に心臓がざわついた。
「大変残念なことですが、古瀬さんは昨の夜……――亡くなりました」
途端、まるで爆竹を放り投げたときのように、教室内が騒然となった。
唖然とする者。
大声を上げる者。
何を言われたのか理解できていない者。
橋本先生は飛び交う言葉の乱射を押しのけようと、両手を前に伸ばした。
「落ち着いて下さい。みなさん、落ち着いて――」
必死に事態を収拾させようとするが、誰もそれを聞こうとはしない。それどころか、よりいっそう騒ぎを加速させていく。
あの古瀬さんが? そんなまさか……。
状況を理解できていないのは、僕も同じだ。我が耳を疑うように橋本先生を見返した。
「どうして、何があったんですか?」
悲痛な表情を浮かべた女子生徒が、胸元を強く握り締めながら質問する。橋本先生は首を横に振ると、
「詳しいことはまだ何もわかっていません。ただ、遺体が発見されたことだけは事実です。今日は一時間目をなくし、代わりに全校朝礼が開かれるので、そこで校長先生から話があると思います。これからすぐに体育館に向かうので、皆さんも準備して下さい」
それだけで、早々に移動の用意を始める橋本先生。どうやら彼もよく事態を理解していないようだった。
生徒たちはお互いの顔を見合わせながらも、仕方がなく椅子から立ち上がる。誰の目にも困惑の色が見て取れた。
瑞樹さんが死んだ? 何で、どういうことだよ……?
まだ出会ってから二日しか経っていないけれど、その人柄の良さは肌で感じていた。
別れたときのあの楽しげな様子。嬉しそうな顔。あれから一体何があったというのだろうか。既に転校に対する不安や恐怖など完全に吹き飛び、ただただ、不安だけが僕の心を満たした。
全校朝礼が始まり、五十代ほどのずんぐりとした体形の男が台に立つ。彼は並び立つ生徒たちの顔を慎重に見渡すと、わざとらしいほどに悲しそうな声をマイクに擦り入れた。
「えー、皆さん既に聞き及んでいるとは思いますが――……」
橋本先生が話したこととほぼ同様の内容が説明される。他の学年やクラスはそれほどでもなかったのだが、僕の並んでいるこの列には、異常なほどの悲壮感が漂っていた。
「……というわけで、彼女の遺体は海沿いの道路上で発見され……――」
聞きたくないけれど、意識が勝手に耳に集中する。長ったらしい説明や回りくどい言い回しのせいで理解しづらかったが、どうやら死因は“急性心不全”とのことだった。
心不全。
つまり心臓が停止したことによる死亡。
出血死でも、ショック死でも、病死でも、最終的にはかならず心臓が停止するから、はっきりいってこれは死因が分かっていないことと同義である。
校長の話によると警察が捜査を続けているとのことだったが、なぜ“心不全”でそこまで彼らが動くのだろうか。
もやもやとした何かが胸に充満しているみたいだった。体の中心が酷く苦しくて重たい。
僕はそれを押し出そうと息を吐いたけれど、結局何も変わらず、嫌な気分だけが中に残り続けた。
3
こんな状況で転校生の歓迎などできるわけもなく、ろくにクラスメイトとの会話もないまま、気がつけば放課後になっていた。
バーベキューで見た顔も何人かおり、話しかけてきてくれたけれど、空気を読んで当たり障りない会話だけで済ませた。ショックを受けている人に気を使わせるわけにはいかない。
僕は緑也のことを心配したのだが、既に帰ったのか、教えてもらった教室に彼の姿はなかった。彼は特に瑞樹さんと親しかったようだから、彼女の死に対するダメージも一際大きかったはずだ。心配ではあったものの、簡単に僕が踏み入っていい問題ではないので、そのまま静かに帰路についた。
校門を潜り抜け、ソメイヨシノ(桜の木) に囲まれた坂を下りる。高校の敷地から公道へ出たところで、ふと、何となく昨日の公園へ行って見たくなった。空に見える夕日が、最後に見た瑞樹さんの姿を連想させたからかもしれない。
車が無いことを確認し、一気に道路を横断する。背後を歩いていた真面目そうな少年が、責めるような視線を僕に向けたけれど、構わず渡りきった。そんなことを気にしている余裕はなかった。
立ち入った公園は、昨日のままだった。まあ、たった一日で何かが変わっているはずもないのだが。
僕は暁の空へ歯向かうように伸びる灯台を一瞥し、昨日“触れない男”の足跡を発見した場所まで歩いた。瑞樹さんによると昼間から夕方の間は多くの子供が遊んでいるとのことだったが、ほとんどその姿は見られない。偶然そういうタイミングに鉢合わせたのだろうか。
海と崖に面する木々の前に立ち、目を土の上に這わせる。しかしどういうわけか、あの足跡がついた葉を発見することはできなかった。
誰かが面白がって持ち去ったのか?
ここが子供たちの遊び場なら、そんなこともありえる。僕は落胆し息を吐いた。
別にあの足跡を見つけたからといって、どうなるものでもない。むしろ、どうするつもりだったのか、自分でもわからなかった。
日が落ちてくる。周囲の橙色が黒く染まり始めた。
……帰ろう。
瑞樹さんのことは気がかりではあったけれど、ここでこうしていても仕方がない。
僕は顔を上げ、入り口側へ体を向けようとした。しかしその瞬間、まったく予期していなかったものが目に入った。
「――え……?」
丘の上に、誰かが立っている。
長く黒い髪を靡かせた、同い年くらいの少女。
白い綺麗なワンピースを着た、儚げな顔。
思わず、息が止まった。
「か、カナラ……!?」
背丈は伸び、雰囲気も変わっていたけれど、その顔つきには面影が多く見られる。艶のある小ぶりの唇。黒真珠のような大きな目。そしてその下にある、小さな泣きほくろ。
僕は自分の手が震えるのを感じた。
本当にカナラなのか? どうして? 何故こんなところに?
頭の中は大パニックだ。言葉が出てこなかった。
三年前は、太陽の光を一心に浴びるタンポポを連想させた彼女だけど、今は妙に冷たい、悲しそうな空気を纏っている。僕の目を見つけ、彼女は静かに、それでいて寂しそうに微笑んだ。
「カナラ……君は――」
風が吹き、空気が重くなる。砂が目に入り、僕はとっさに瞼を擦った。
くそっ、こんなときに……!
痒みと痛みを押し殺し、再び丘へ目を向ける。だがそこに人の気配は無かった。
「そんな、今確かにここに……」
僕は急いで周囲を見渡し彼女の姿を探した。けれどまったく気配を捉えることができない。目に入るのは雑然とした草木だけだ。
幻影? 夢?
あまりに変なことが続くから、おかしくなったのか?
心臓が鬱陶しく脈打ち、額からは汗が漏れる。僕は泣きそうになりながらも、何とか踏みとどまった。
真方カナラ。
三年前に出会った友人。
無知で、純粋で、おてんぱな女の子。
人を寄せ付けず、人に発見されず、誰かに追われていた不思議な少女。
僕が人を殺すことになった原因で、――理由。
この事件は、瑞樹さんの死は……君と関係があるのか?
彼女と一緒にいるときに体験した数々の妙な現象。それはちょうど、今僕が感じている違和感と瓜二つだった。
4
瑞樹さんの葬式は、淡々とした流れで行われた。
神妙な顔で左右に座っている親族の間を、僕たちは場違いな制服姿で歩み進んだ。先頭の生徒たちが左右の親族にお辞儀をし、線香をあげては列の横を歩いてゆく。
しばらくして自分の番が来たので、前の人が行ったのと同じように礼をし、緑色の細い線香を手に取る。少し力を入れるだけで折れてしまいそうで、ちょっと怖かった。
横たわった少女の遺体。その前に置かれた台座に線香を乗せ、僕は彼女の顔を見下ろした。
柔らかい彼女の笑顔は、もう二度と目にすることができない。彼女はまるで寝ているかのように穏やかな表情で目をつぶっている。こうしてみると、それが遺体であるとは到底信じられるものではなかった。
親族ではない生徒たちがあまり長く会場にいても邪魔だということで、僕たちは流れ作業のように次から次に前に進み、そして隣にある控え室へと移動していった。
机も椅子も何もない室内に入ると、生徒たちが神妙な顔で断続的な会話を繰り返していた。目が会うと、彼らはみな重々しげな表情でこちらを見た。女子の何人かは涙をハンカチで拭い、それを慰めるように他の女子が寄り添っている。
どことなく居心地の悪さを感じ、僕はこっそりと輪を離れ廊下に出た。
外は雨が降っていた。
黒に近い空から大粒の水滴がこれでもかというぐらいに落下し、周囲の地面をより濃く染め上げていく。さながらそれはこの世界を塗りつぶそうとしているかのようだった。
「……灰色だな」
窓際。縁側の手前に置かれた小さなソファーに腰を下ろし、止む事のない雨を眺め続ける。
クラス全員が線香をあげ終わるまでは、まだしばらく時間がかかる。それまでここで時間を潰すつもりだった。
声をかけられたのは、その時だ。
「何をしてるんだい?」
優男。と表現するのが一番しっくりくるだろうか。やせ細った着物姿の男が、廊下の奥からこちらを見ていた。坊主だろうか。薄い眉に律儀に七三に分けられた頭髪はどことなく貴重面そうな印象を与える。若く見えるが、もしかしたらそれなりに年齢がいっているのかもしれない。
彼は僕のソファーの前まで来ると、眼鏡越しにその温和そうな両目を向けてきた。
「ちょっと風にあたりたかったもので」
我ながらありきたりな台詞だとは思いつつも、僕はそう答えた。
「そうか。……彼女は、残念だったね」
襖から覗いている葬儀場の景色を眺め、男は同情するように目のシワを増やした。
「ぼくも何度か知人の死を経験したけれど、そう簡単に割り切れるものじゃない。悲しみも当然あるけれど、それよりも喪失感のほうが大きい。そこにあって当然のものがない違和感。これが一番堪らないんだ」
「……ここのお坊さんなんですか」
「いや、違うよ。住職と知り合いでね。少し人生経験を増やしたいってこともあって居候しているんだ」
「そうなんですか」
それっきり黙る。こんなときに初対面の人とおしゃべりをする気分にはなれなかったので、僕は視線を中庭のほうに戻した。
それを傷心ゆえの行動だと受け取ったのか、男は並び立つように窓際に移動した。
「君は、“空”という概念を知っているかな?」
「から? 何ですか」
「三法印を元に考えられた仏教思想なんだけど――おっと、ごめんごめん。わかるわけないか」
男は申し訳なさそうに口元を緩めた。
「君はお米を食べるよね? べつにパンでもなんでもいいんだけど」
「食べますけど……」
何だこの人は。こんなときに一体何の話をしているんだ?
僕は少し不機嫌そうにそう返した。
「うん。じゃあ、お米を食べるとする。そのお米は、一体いつから君の一部になると思う? 口に入れたとき? 胃に入ったとき? 消化されたとき?」
「消化されたとき、ですか?」
「消化されたお米は、タンパク質として血液の中に運ばれるけれど、それは既に君の一部だと言えるのかな。消化され血液に運ばれたそれに明確な区切りはあるかい? どこまで運ばれれば、それは君になる? どこからそれは君じゃなくなる?」
なかなか難解な質問だ。僕は返答に困った。
「そうだな。レゴブロックを想像してみてくれ。地球全てが小さなレゴブロックで構成されていると考えれば、それで作られるものはどんな形だろうとレゴブロックの塊に過ぎないだろう? 犬の形を作ったところで、それはレゴブロックの集合にしか過ぎず、ここからここは犬だなんていう区切りはない。それを決めるのはあくまで人間の価値観だ。“空”という思想はね、そういったものとものの堺がどこにも存在しないっていう考え方なんだよ。全てのものはひとつの塊。一は全。全は一。つまりこの世界はそういうレゴブロックのような小さな存在が複雑に絡まり合い、動き回ってできている。そこに境界なんて存在しないし、断絶もない」
僕の表情を見て、彼は苦笑いにも似た顔を作った。
「うん。まあ、何が言いたいかというとね。……彼女は亡くなったわけじゃない。仏教的な考え方で言えば、大きな流れの中に帰っただけだ。だから――」
ようは、慰めようとしてくれているのだろうか。長々と説明が始まったから何だと思ったが、そういうことらしい。
何だか拍子抜けしてしまった。僕は肩の力を抜いた。
「大丈夫ですよ。お気持ちは伝わりました」
「う? うん。ごめんね。何を言ってるのかわかりずらかったでしょ。何やら君が救いを求めているような顔をしていたもんで……」
すまなそうに男は自分の頭を掻いた。
――救いを求めているか。確かにそうかもしれない。
瑞樹さんの笑顔がとある中年女性の横顔と重なる。
僕は彼の名前が気になったので、率直に聞いてみた。
「あの、あなたのお名前は?」
「ぼく? あ、そうか。まだ言ってなかったね。そうだな。ここにいる間与えられている名前でよければ教えるよ。修玄っていうんだ。よろしくね」
「修玄さん……。気を使っていただき、ありがとうございます」
僕が頭を下げると、修玄は慌てて手を左右に振った。
「別にちょっとお坊さんの真似事をしてみただけだよ。そんな気にしないで。ぼく自身はそれほど褒められた人間じゃないし。ぼくもここの住職に“救われた”ひとりだから……」
「そうなんですか」
「うん。あの人は凄くできた方だよ。絵に描いたような理想的な修験者だ。厳しいことは厳しんだけど、変に偉ぶることもなくて、物事の本質を的確に捉えている。ぼくももっとはやくあの人に出会っていたら……――」
半開きになっていた襖が開き、クラスメイトの少年が首だけを廊下に出す。彼の気配を感じた修玄は、それで言葉を打止めた。
「ええと、佳谷間くん。もう行くって」
「ああ。ありがとう」
彼の背後ではぞろぞろと制服姿の生徒たちが、出口に向かって移動を始めている。僕はソファーから立ち上がり、修玄に声をかけた。
「それじゃあ、僕はもう行きます」
「うん。じゃあ、またね。何か悩み事でもあったら、いつでも来なさい。相談に乗るから」
「はい。ありがとうございます」
もう一度お辞儀をして戻っていく少年の後を追う。修玄はシワの入った笑みで、優しく僕を見送った。
傘の外から流れ落ちる灰色の雨。まるで、あのときのようだ。母が事故に遭った僕の罪の始まりの日。
修玄はお坊さんの真似事をしてみたと言った。自分もここの住職に救われたからと。つまるところそれは、僕がよほど救われない姿をしているように見えていたということになる。そんな自覚はないのだが。
僕の罪は認知されることのない、償う方法の存在しない呪い。誰も責めることができないし、罰を与えることもない。だから、この罪は僕がずっと一人で抱えていくしかない。これから先もずっと“最後”まで。それだけが唯一、母と、あのとき殺した男に行える懺悔の方法だから。
雨は水となり、足元の石階段を流れ落ちてゆく。
一段一段足を踏み下ろしながら、僕はその流れを見下ろし続けた。
5
「桂場」と、前に座っていた生徒の名が呼ばれる。
僕が前に通っていた学校ではこの時期、蝉の鳴き声が窓から飛び込み、教師も生徒も多少声を張り上げなければならないことが普通だった。だがここでは、その種の蟲が一匹もいないため、教室の端から端まで透き通るように音が届く。先ほどから小刻みに頭を揺らしていた桂場だったけれど、教師の蛙のように滲んだ声を聞き、のんびりと体を起こした。
「この四つの気体を重い順に並べると、どうなるかな~?」
白衣を着た、白髪の理科教師が意地悪げに黒板を指す。僕はこの教師の姿を見た瞬間、ある古い映画の登場人物を思い出した。主人公が強盗に襲われ、逃げるために車に乗ったのだけれど、実はその車はタイムマシーンで、過去に飛んでしまうというお話だ。彼はそのタイムマシーンを開発した博士に瓜二つだった。ちょうどあの俳優を日本人で再現したのならば、こうなるだろうという、妄想を実現してくれたような容姿だと思う。
しばらく並べられた化学式を見つめたあと、桂場はきめ声で答えた。
「水素、メタン、アンモニア、二酸化炭素」
「ほぉー、寝てたのにやるね」
教師は小さく笑みをこぼしながら、ウインクを飛ばす。僕の位置からは見えなかったが、桂場はそれにウインクをし返したらしい。教室にクスクスと笑いが漏れた。
何気ない授業のひとコマ。ありふれた日常の一ページ。そんなほのぼのとした時間だったのだけれど、僕の心は周囲ほど穏やかではなかった。視線を落とし、教科書を読むふりを続けながら、思考の続きに入る。
浮かぶのは、先日見た光景。あの海沿いの丘に立つ、よく知った少女の姿。
幻覚か真実かはわからない。でも“触れない男”という都市伝説の目撃地点で彼女の姿を垣間見たことは、何か意味がある気がしてならなかった。
何故ならば、僕は誰よりも知っているから。
彼女の不思議さ。
彼女の怪しさ。
そして今直僕を蝕むその“異常”を。
確信があったわけじゃない。根拠があったわけでもない。でも僕は、何となく“触れない男”について調べることが、彼女について、瑞樹さんの事件について知る手がかりになる。そんな気がしてならなかった。
昼休みになり、教室内が一気に騒音に包まれた。友人たちと話題に花を咲かせる者。売店へ駆け出す者。弁当を広げる者。
忙しい父に弁当を作る暇などあるわけもなく、僕も僕で朝早く起きるのが面倒だったため、昼食は自然と食堂へ出向く必要があった。まだ場所は覚えてはいなかったが、適当に人の多い場所へ出向けば辿り着けるだろうと高をくくる。
椅子から尻を離し、腰を伸ばしたところで、ちょうど振り返った桂場と目が合った。アリゲーターのような彼の褐色の顔が僕の姿を捉え、ニマっと歪む。
「お、食堂いくの?」
「――ああ。そうだよ」
「じゃ、いっしょに行こうぜ」
ぽんっと肩を叩かれる。いきなり随分親しげに接してきたから驚いたものの、断る理由もない。僕が了解の意を示すと、桂場はそのまま数人のクラスメイトに声をかけた。
「お前ら、飯行くぞ飯」
両手を叩き、再びあの笑みを浮かべる。どうやら仲のいい友人に声をかけているようだ。すぐに多くの男子生徒が集合し、教室の後ろは大渋滞となった。
「いつもこんな大人数で飯食ってんの?」
「ああ。行くときはな。席の空き具合によって結局バラけるから、食うときは少数になる。何となく習慣として声かけてるだけな」
「ふーん」
別にグループの人間を呼んでいるわけではないらしい。挨拶のようなものなのだろう。僕は納得し、頷いた。
彼らと会話をしながら中庭へ出る。正面から見て左側に体育館があり、食堂はその下にあった。
入り口の右側にある売店は既に戦場と化しており、多くの生徒が群がっている。押し合いへし合い、挫折、勝利、友情、そして無言の連携……僕は数々の人間ドラマを横目に、ガラス張りの扉を潜り抜けた。
6
箸でつまんだ肉を口の中へ放り込む。絶妙な塩気とこってりとした脂身の感触が一気に存在を主張し舌の上に広がる。二口目を飲み込んだところで、正面に居た桂場が口を開いた。
「しかし……瑞樹は一体どうしたんだろな。あんなに元気そうだったのに」
心配と不安、そしてどこか寂しさを感じているような声。それに応じるように、僕の右に座っていたクラスメイトがコップを口元から離した。
「おい、辞めろよ食事のときに。佳谷間もいるんだし。お前は昔からちょっと空気が読めないところがあるぞ」
「ああ悪い。でも、気になってな。何だか落ち着かないんだよ」
若干表情を暗くし、桂場は頭を掻いた。蟲にでも刺されているのか、彼はこうして頻繁に頭部を弄っていることが多かった。
注意されたばかりにも関わらず、彼は同じ話題を続けた。
「穿、お前は何か知らんの? 前の日一緒に居たんだろ?」
「知らないよ。夕方に別れてそれっきり。何か約束があるって言ってた」
「ふ~ん。先生の言った通りか」
そっけなく言うと、桂場はラーメンを啜った。大きなずずずという音が周囲に響く。
しばらく皆が無言でいると、斜め前にいたクラスメイトが思い出したように顔を上げた。それを見た桂場がすかさず声をかける。
「どうした、スタイリッシュ?」
「スタイリッシュ?」
僕は反射的に聞き返した。
「あ、こいつのこと。筆箱とか、シャーペンとか、私服がすげーおしゃれなんだよ。そっから何となく皆そう呼んでる」
なるほど、あだ名みたいなものか。しかし“スタイリッシュ”とはまた随分変わった呼び方だな。
彼のほうに目を向けると、首元からピンク色のTシャツが覗いていた。よく見れば髪にも若干のワックスがかかってる。ビジュアル系のメイクをすれば凄く似合いそうだ。
「あのな。今日一限目の終わりに偶然立ち聞きしたんだけどな。日比野さんが、あの日の夜誰かと一緒に歩いている古瀬さんを見たらしいんよ 」
「瑞樹を?」
桂場は片目を大きく見開き、スタイリッシュへ向けた。僕も気になり、意識を耳に集中させる。
「詳しい話は知らんけど、何か誰かと一緒だったとか言ってた」
「ホントかよ」
オーバーに仰け反る桂場を見て、“スタイリッシュ”は言葉を続けた。
「俺も聞いた話だから真実かは知らんよ。ただ、日比野さんの話だと、そうとう切羽詰まった表情をしてたみたいなんだと。……疑うんだったら、あの子に直接聞いてみなよ」
「その日比野さんってうちのクラスの人?」
僕は確かめるように聞いた。
「そうそう。ほら、女子の中でいっつも中心になって騒いでる子が居るだろ? あのボブヘアーの子」
「ああ――……」
何となく彼女の姿を思い出し、僕は頷いた。確かにそんな感じのクラスメイトが居た気がする。何かやたらよくしゃべってる子だ。
彼女が瑞樹さんの死因について詳しく知っているのなら、ちゃんと聞いてみる価値はありそうだ。
瞳の裏に灯台下で目にしたカナラの姿が浮かび上がる。
授業の合間ではあまり長く話せない。僕は放課後すぐに、その日比野というクラスメイトに声をかけようと決めた。