第二十九章 彼誰時(かはたれどき)
1
椅子に座ったまま、僕は鋭く窓の外を眺めた。
まだ早朝であったが、眠気はほとんど吹き飛んでいた。今日の夜、教授から千花を取り戻すことを考えると、どれだけ疲れていても十分に寝ることなんて出来なかった。
窓の向こうではほの暗い空の中に、かすかに明るみが生まれ始めている。海の先、海面の端に、ワイングラスのような金色の淵が見えた。
夜でも朝でもない曖昧な時間帯。闇と光が混在している刹那の間。
早朝、明け方。かつては彼誰時と呼ばれ、逢魔ヶ時 (おうまがとき)と同様、その存在があやふやな時間帯だとされていた。
夕方のほのかに明るい状態から徐々に闇へと移行していく景色も趣きがあって素晴らしいけれど、僕としてはこの彼誰時のほうが好きだった。一日の終わりを感じさせる夕焼けとは違って、この時間帯の太陽は、全ての始まりを感じさせる。同じような光景には違いないのだけれど、なんとなく、気分がすっきりするのだ。
流れ込んでくる空気を空きこみながら、僕はあの男について考えた。僕が殺し、千花が誘拐したあの男のことを。
彼は自身のことを二代目だと話した。僕が会ったのは自分ではないと。
修玄の話によると、真壁教授は複数の遺体を集め、超能力を発現させるのに適した素養をもっているパーツを組み合わせることで、“触れない男”たちを作ったそうだ。――で、あるのならば、当然回収された遺体を再利用するということも考えられる。なにせ彼らの遺体は教授が集めた中でもっとも超能力に適したパーツの塊なのだ。失敗したからといってみすみす捨てるはずがない。修玄を言いくるめて死体を回収させたのもそれが一番大きな理由だろう。
実験体は九体だけれど、教授の下に彼らの遺体が戻る限り、教授は何度でも“触れない男”たちを再構成することが出来る。つまり、完全に事件を解決するためにはどうあがいても教授本人を捕まえるしか方法がないのだ。
たとえ千花を救助できたとしても、彼をどうにかしない限り僕たちは一生狙われ続けることになる。これまでの千花やカナラのように。
そんなのはごめんだった。僕には守りたい家族がある。それに、これ以上千花たちに同じような苦労を続けさせるのは嫌だった。
法律的に教授を罪に問うことは難しいだろう。しかしかといって彼を殺すこともできない。
彼を止めるためには、強力な暗示をかけるしかない。二度と実験体を作れず、僕たちに関われないような、そういう暗示をかけるのだ。カナラを信用しきれない以上、そのためにも千花の救出は必須となる。
ここで逃げられれば、きっと彼は二度と僕の前に姿を見せないだろう。これからの人生を無事に生きていくためには、どうしてもたったこの一度のチャンスで全てを解決する必要がある。
緊張か覚悟からか。かすかに手が震える。
僕はそれを押さえ込むように、量の手を強く握り合わせた。
朝日が十分に差し込むようになったころ、僕は修玄に電話した。
カナラから聞いた話を伝えるためと、残り二体の実験体の情報を得るためだった。
町全体にかけられている暗示の話を聞いた修玄は酷く驚いた。
「本当かい? そんなのはどんな高レベルの超能力者だろうと実現できないはずだ。人の認識の範囲をゆうに凌駕している」
「でもカナラはそれをやっていると言っていましたよ。……緑也、僕の友人たちにもそういう影響を受けた気配がありました。異常な事件に無関心だったり、カナラに関する記憶を失ったり」
修玄は僅かに黙った後に、
「……それが事実なら、恐らくは彼女の現象だけではないだろう。きっと何か他のものを利用しているはずだ」
「他のものとは?」
「『場』だよ。超能力と言う現象は、場にも起きえるんだ。空間認識軸がずれた人間のことを超能力者というけれど、同じように半分ほど量子的な世界へ傾いた場所のことを超次場という。聞いたことないかい? 必ず方位磁石が狂う海とか、退かそうとすると人が立て続けに死んでしまう木とか。そういった場所は人の意識の影響を受けやすい。彼女はきっとそういう場所を利用しているに違いないよ」
「でも超能力には、粒子を任意の方向へ誘導するための“意思”が必要となるんですよね。場が超能力を起こすとはどういうことなんですか?」
「木や草木にだって意識のようなものはあるさ。といっても、ここでいう意思とは言葉や感情のことじゃない。突き止めれば人の意識だってただの電気の流れでしかないんだ。必要なのは、何かをある方向へ移動させようという強い“方向性”と、その物体がどれぐらい確率世界に影響を与えやすいかという“深度”だけさ。理論的には存在しているものならば何であれ超能力と呼ばれる現象を発生させることができるんだ。…なにか心当たりとかないかな。気分が凄く良くなった場所とか、動きやすい場所とか」
「特にそういうのは無かったと思いますけど……」
最近はずっと切羽つまっていた。たとえ少しだけリラックスできる環境があったとしても覚えてはいないだろう。僕は外の景色を眺めながらそう言った。
「まあ、何でもいいさ。とにかく彼女が町全体に現象の効果を継続させているのなら、そういう場所の力を借りて増幅させているということだろうね。……何か過去におかしな事例がある場所でも調べてみようか?」
「いや、いいですよ。それよりも教授の下に残っている二体について教えてもらえますか?」
「それは構わないけど……君は、本当にまだ続けるのかい?」
「ええ。助けられる可能性があるのに、千花を見捨てるわけにはいきません」
僕ははっきりとそう言った。
「くどいようだが、ぼくは反対だ。いくらカナラの助けがあるといっても――」
「修玄さん。それで残り二体の情報は?」
強引に彼の言葉を切る。修玄はまだ何か言いたそうだったが、こちらの空気を呼んでか話を合わせてくれた。
「君を病院送りにしたのは四業だね。彼はもともと凄く真面目で礼儀正しい男だったんだけれど、どうやら代替わりしたみたいだ。でも聞く限り起こせる現象は変わっていない。恐らく一代目の肉体に適した精神構造を持つ“素体”を見つけたんだろう」
「その四業はどういう現象を起こせるんですか? 何か弱点とかあります?」
「弱点なんてないよ。彼はあらゆる現象を“強化”することができるんだ。筋肉を強化すれば人間だって持ち上げることが可能になるし、周囲の闇を強化すれば影の中にだって隠れることができる。理論上は、“触れない男”のように摩擦で火を起こしたり、高速で移動することもできる。もっとも四業の場合はただの強化、つまり効果の増幅だから、九業ほど自由には操れないけどね」
なるほど。厄介な人物のようだ。五業や和泉さんのように起こせる現象に一貫性があるなら、事前に検討し対処のしようもあるけれど、“強化”であればその応用性は数えきれない。現象の正体を知ったところで、結局そのときになってみないと何をされるかがわからないのだ。僕は無意識のうちに腕の傷を撫でていた。
「何か、彼を止める手はないんですか」
「しいてあげるなら、彼の肉体を損傷させ続けることかな。事故再生機能を高めるといっても、それを構築する材料には限界がある。争っているときに食事する暇なんてないだろうから、瀕死の傷を与え続ければいつかは再生できなくなるはずさ。もっとも、それには“殺す気”で攻撃し続けないとダメだけどね」
――殺す気。
どうやら相性も最悪らしい。僕は頭を抱えながら、部屋の中を歩き回った。
「……もう一体は? どんなやつですか」
「五業の話によると、一業は一年前に誰か――恐らくカナラを追って返り討ちにあった。そして二業、五業から九業は全てこの町で死んでいる。だから残りは三業だけのはずだ。彼は確か、トンネル効果を起こせた」
「トンネル効果?」
「すり抜けるんだよ。物体を」
こともなげに修玄はそう言った。
改めて思う。ここまで色々と見てきたけれど、彼のその単語はあまりに非現実的だった。自分に“蟲喰い”などという妙な呪いがかかっていなければ、きっとこんな話、冷笑していたことだろう。僕は今さらながらに状況の異質さを実感し直した。
「僕が遭遇したのは九業、六業、五業の三体だけです。残りは一体誰が殺したんですか」
「君じゃないとしたら、普通に考えればカナラってことになるんだろうけど、回収した遺体にはどれも君が見せたようなひび割れの跡があったからね。彼女って、君と同じようなことができるのかい?」
「わかりません。でも、可能性はあります。カナラが何かしたせいで、僕はこんな体になったんですから」
「まあ、何にしてもとりあえずはどうやって千花さんを救うかだね。何か手はあるのかい?」
「誘拐された少女を見たと通報すれば、真壁教授を現行犯で拘束することができるかもしれませんが、それではたぶん一時的な拘留にしかならないでしょう。彼なら事前にそういう場合も想定して、罪を逃れるための手を打っているような気がします。……だから千花の拘束を解いて、彼女の力で教授に暗示をかけます」
「なるほど暗示か。確かにそれは妙案だね。目には目をってやつかな。――……でも穿くん。残り二体の実験体はどうする気なんだ?」
「一体はカナラがおびき寄せてくれるらしいので、大丈夫ですよ。僕は残り一体を行動不能にすればいだけです」
「簡単に言うけどね。四業も三業も君の起こせる現象との相性は最悪だ。それに……――」
修玄がさらに何か言おうとしたところで、部屋の扉がノックされた。一瞬驚いたものの、すぐに父の声が聞こえる。
「おい。朝食できたぞ」
そうか。そういえば今日は土曜日だった。僕はため息を吐きながら、端末を耳に当てなおした。
「じゃあ、そういうことなので。もし千花を助けることが出来たらまた連絡します」
「待つんだ穿くん。まだ言いたいことが……」
彼の言葉を待たずに通話を終了させる。テレビのスイッチを切るように、音が途切れた。
席に着くと、父が不思議そうに僕を見返した。
「誰と話してたんだ? こんな朝っぱらから」
「友達だよ。今日の夜花火をする約束をしてた」
「ほう。どこで? 海沿いか?」
「そう。隣町に海水浴場があるでしょ。あそこって夜は絶好の花火スポットらしいんだ」
コーヒーを口に含みつつ、僕は説明した。
「友達だけで行くのか? あっちはガラが悪いって聞いたけど」
「近くに交番があるし、大丈夫だよ。それに移動は大通りしか通らないつもりだから」
「そうか。だったらまあ大丈夫か」
何とか納得してくれたらしい。父は安心したようにトーストに噛り付いた。
ごまかせたことに安堵し、僕が卵に箸を伸ばしたところで、
「花火は夜に行くんだよな。じゃあ昼は暇なんだろう?」
「そうだけど、何で?」
「見舞いに行ってくれないか。母さんの」
僕は箸の動きを止めた。
「最近は随分と意識がはっきりしてきたんだ。まだ現状はわかっていないようだけど、お前が顔を見せれば何か進展があるかもしれない」
こちらの様子を見つつ、父は食事を続けた。変に意識させないようにしているらしい。
「特に予定はないんだろう? どうだ穿」
一瞬、断ろうという気持ちが浮かぶ。まだ母さんと真っ向から向かい合うのには抵抗があった。この前だって、御奈が居たからこそ病室に踏み込めたようなものなのだ。だが――。
まぶたの裏に千花の顔と四業の姿が浮かぶ。もし失敗したら、二度と母さんの顔は見れないかもしれない。
僕はゆっくりと答えた。
「――ああ。わかった。昼に一度顔を見に行ってみるよ」
「そうか。まあそう言うとは思ってたけど、――え?」
てっきり僕が嫌がると思っていたのだろう。父は驚いたように目を丸くした。
「そ、そうか。よかった。昼はどうする? 食べてから行くなら作るけど」
「そうだね。お願い」
パンを飲み込みながら頷く。
すると訝しげな目で父がこちらを見てきた。
「どうした穿? 何かあったのか?」
「何で? 何にもないけど」
「……いや、だったらいいんだけど」
どこかふに落ちなさそうな表情を浮かべる父。昔と比べて随分と勘が鋭くなったものだ。
僕は彼を安心させるため、冗談交じりに答えた。
「ちょっと母さんに報告したいことができたんだよ」
玄関を出ると、いつものように明るい太陽が輝いていた。
先ほど天気予報を見た限り、夜には雨が降るということだったが、とても信じられない。僕は折りたたみ傘を鞄に仕舞い、自転車に跨った。
ふと横を見ると、緑也のお母さんが洗濯物を干しているところだった。目があったので軽く会釈を浮かべる。彼女は布団たたきを左右に振り、満面の笑みを見せた。
相変わらず人のよさそうな母親だった。
……さて――。
左右を確認し、道路に出る。潮風が顔にかかり涼しかった。誰も居ないことを確認すると、僕はゆっくりと、重いサドルに足を乗せた。
2
風に揺らされた白いカーテンがオーロラのようになびき、独特な安らぎの空間を作る。
隙間から漏れた日の光が、暖かな手のよに母の顔を撫でていた。
ストレスの少ない生活を送っていたからだろうか。久しぶりに見る母の顔は、何だかあの頃よりも若返っているように見えた。
彼女の寝顔を見つめながら、僕はもっと早くここに来るべきだと後悔した。ここまで追い詰められなければ見舞いにも来れないなんて、我ながらなんて息子だと思う。
毛布から漏れている母の手には小さな傷があった。あの事故のときに出来たものだ。僕のせいで負ってしまった傷。今も彼女の心を蝕んでいる楔の延長。
僕は窓の外を見上げた。いつもと変わらない大きな青空が広がっている。
三年前のあの日。僕は彼女を裏切った。どうしてそうしたのかはわからない。きっと無意識だったのだろう。だがそれでも、あの行為は許されるべきことではなかった。
トラックが突撃してくる瞬間、母は僕を庇おうとした。必死に腕を伸ばし、タイヤから遠ざけようとした。でも僕は、怖くて仕方が無かった僕は、反射的に彼女から遠ざかろうとした。守ろうとした母の手を拒絶した。
そのときの母の表情は、絶対に忘れることができない。
僕はすぐに己の愚行に気がつき、母の手を引こうとしたのだけれど、彼女はどこか諦めたように、それでいて悲しそうに僅かに笑みを浮かべた。それは全てを諦めた目だった。自分の命も、絵の道も、これからの人生も。
僕が手を弾いてしまったせいで、彼女は全てを失ったのだ。
そして母は、僕の目の前でどこかへ吹き飛んでいった。真っ赤な血の花を咲かせて。
僅かに母が唸る。僕ははっとして、ベッドに横たわっている彼女に目を向けた。
何だか暑そうに見えたので、僕が毛布を短くかけ直すと、彼女は嬉しそうに寝言を漏らした。何て言っているのかはわからないけれど、とても幸せそうな顔だった。
彼女のその顔を見返し、僕は呟いた。
「ごめん。母さん。僕が悪かった。僕が手を離したせいで、振りほどいたせいで、母さんはこんなことになってしまった」
今ならカナラが話していた言葉の意味がわかる。彼女が無理だと言ったのは、母ではなく僕のことだった。僕は心のどこかで母の回復を拒否していた。彼女に見捨てられることを恐れていた。だから、カナラはそれを実行できなかったのだ。あの頃のカナラはまだ、他者の感情の影響を強く受けていたから。
人の気配を感じたのだろうか。もぞもぞと布団が動き、母が目を開けた。
僕は咄嗟に立ち上がりかけたのだけれど、何とか思いとどまり椅子に座りなおした。怖いほどきれいな母の瞳が、真っ直ぐに僕の目を射抜く。まったく動くことが出来なかった。
「……あら? どちら様?」
優しい声で母が聞いた。
「あ……僕は……」
「行人さんのお知り合い? お名前は?」
なんと答えればいいか迷った末、僕は素直に自分の名前を名乗ることにした。
「佳谷間、穿です」
「穿? あらあら、私の息子と同じ名前ねぇ」
あくびをしながらゆっくりと体を起こす。長い病院生活の正で、今にも折れてしまいそうなほど細い体だった。
「まだお若いみたいだけど、部活の後輩かなにか?」
「……はい。そうです」
「そうなの? じゃああなたもバスケ部なのね。どう、最近の調子は? 行人さんが現役の頃は、点で弱かったんだけれど」
「今も同じようなものですよ。勝ってもせいぜい地区大会どまりです」
こういうとき、すらすらと嘘がつけるのは僕の悪い癖だ。嘘を言いたいわけでも彼女を騙したいわけでもないのに、勝手に言葉が流れ出てくる。――それが、今はたまらなく嫌だった。
「――あの」
手が震える。気がつけば、強く彼女に呼びかけていた。なぜそんなことをしたのかはわからない。不思議そうな目で母がこちらを見上げた。
「あ、あなたは、事故のことを覚えていますか?」
「事故? 事故ってなんの?」
「ここに運び込まれることになった原因です。あなたは交通事故にあって、ここにいる」
母は自分のこめかみに指を当てると、眉にしわを寄せた。
「事故……事故ね。わからない。わからないけれど、……何だかすごく怖い。凄く、いやな感じがする」
「――すいません。今のことは忘れてください」
母の顔から笑みが消えたのを見て、僕は慌てて話題を変えようとした。けれど、母はそのまま言葉を続けた。
「大きな塊が見える。近づいて、どんどん大きくなって、私のほうに、穿が……穿が危ない……!」
「落ち着いて、大丈夫ですから。落ち着いて」
僕は目頭がかすかに熱くなった。こんな恐怖を思い出させるためにここに来たわけじゃないのに。ただ僕は母さんに謝りたかっただけなのに。
「母さん。大丈夫だから、大丈夫」
頭を抱える彼女の背をさすり、必死になだめる。しかし母は、体を震わせるだけだった。
「穿は? あの子はどこ? 大きなトラックがこっちに……」
「トラックはそれたんだ。僕は……穿くんは、無事です。生きてます」
必死に声を出しながら母に呼びかける。何度か同じ台詞を吐くと、彼女の顔に安堵の色が広がった。
「生きてる? 穿は大丈夫なの?」
「生きてます。あなたが助けたんだ。あなたが彼を押したから……僕は……――」
「――そう。……よかった」
心の底から嬉しそうに目を伏せる母。どこか救われたように、宝くじにでも当たったように、その事実を胸に抱きとめる。
彼女のその表情を目にし、僕は思わず自分を殴り飛ばしたくなった。母はこんなにも自分を心配してくれていたのに、大事に思ってくれていたのに、僕はずっとそこから逃げていた。彼女から否定されることを恐れていた。こんなにも長い間。こんなにも彼女を放っておいて。
自分の小ささにあきれ返る。もっと早く向き合っていれば、母の状態は回復していたかもしれないのに。
「ごめん母さん。……本当にごめん」
うな垂れるように囀る。そんな僕を、母は不思議そうに見返した。
「あら……どうしたの? そんなにつらそうな顔をして」
まるで子供に接するような態度だ。思わず僕は自嘲した。
「すいません。ちょっと……僕のせいで大事な人が遠くにいってしまって」
「それはお友達? それともあなたの家族?」
「……どっちも、です」
寂しさに耐えながら、僕はそう答えた。
「……大事な人なら追いかけなきゃ。あなたから行かないといつまでも前に進まないよ」
何も知らないはずなのに、全てを見通しているような目を向ける。僕は思わず母を見返した。
それはかつて一度彼女に言われた台詞。そして、僕が和泉さんに放った言葉。まだ彼女は覚えていたのか。こんな状態になってまで。
「母さん……?」
「追いかけなさい。その人も、あなたのことを待ってるはずだから」
何度も見たことのある、母の強い眼差し。思わず、彼女の記憶が戻ったのかとすら思った。
ずっと看病をして、彼女を愛して、これまで見守ってきた父のおかげだろうか。母は確かに回復している。確かに、元の意識を取り戻しつつある。あんなにも悲惨な状態だったというのに。
「そうですね。それは……よくわかってます」
彼女の顔を見返し、つぶやく。
僕の言葉を聞いた母は、静かに優しい笑みを浮かべた。
母の病室から出た僕は、その足で日々野さんのところへ向かった。
入り口からこっそりと中を覗くと、今日もスタイリッシュや桂場、皐月さんが来ていた。よほど彼女のことが心配らしい。
彼らの中心に横たわっている日々野さんは、はっきりと目を覚ましているようだった。まだ体調は良くなないのか、体には様々な管がつながれたままだし、歩くこともできないようだったけれど、どことなくその表情には力があった。
桂場がなにか冗談をいったらしく、日々野さんがころころと笑う。その光景を目に焼きつけ、僕はゆっくりと入り口から離れた。
3
「……さてと」
必要な準備は整えた。カナラが言った時間まであと少し。距離を考えれば、そろそろ家を出る必要がある。
外は暗くなり、ニュースの通り雲が出始めていた。昼には想像すら出来なかったほどの、真っ黒な雲だ。今夜はかなり荒れそうだなと思った。
カーテンを閉め、電気を消す。覚悟を決めて居間にでると、父がお茶を飲みながらテレビを見ていた。
「お、もう行くのか」
「うん。天気が悪くなりそうだからね。早めに行こうと思って」
「明日に延期すればいんじゃないのか? どうせみんな夏休みなんだろ」
「そうだけど、もし雨が降ったら桂場の家でゲームをする予定なんだ。だからどっちみち帰りは遅くなるかも」
「そうか。まあ気をつけていけよ」
こちらに背を向けたまま父が言う。僕は小さく頷いた。
玄関に出て靴を履く。山奥の研究室に行ったときと同じ運動靴だ。靴紐を結び、外に出ようとすると、廊下から父が顔を出した。
どうしたのかと僕が見返すと――
「なぁ穿。お前……何か隠してることとかないか?」
「何で? 何もないけど」
内心どきりとしながらも僕は平静を装った。
「最近様子がおかしかったからな。何だか顔つきも変わったし。今日だって、お前が母さんの見舞いに行くとは思ってなかった」
「別に、ただ考え直しただけだよ。もういい年なんだし、そろそろ現実に向き合わなきゃって。僕は……ずっと逃げ続けていたから」
「本当に何もないのか? 何か悩みがあるのなら……」
「大丈夫だって。相変わらず心配性だな。父さんは」
曖昧な笑みを浮かべてドアノブに手を置く。すると父は、神妙な顔でこちらを見た。
「なぁ穿。お前が何に悩んでいるか、どんな問題を抱えているか、俺にはわからない。たとえお前が正直に話したり、訴えたりしても、俺はお前じゃないから、結局本当の意味でそれを理解することはできない。誰だって結局最後は自分の力で克服するしかないんだ。――だから、後悔だけはするなよ」
何か感ずいていたのだろうか。カナラのことも、“蟲喰い”のことも、真壁教授たちのことも知らないはずなのに、妙に意味深な台詞を言う。
似たもの夫婦というやつだろうか。父のその言葉は、母の台詞とまったく同じ意味が込められていた。
「わかってるよ。父さん」
僕は屈託なくそう言うと、扉を開け、闇夜の中に踏み出した。
自転車に跨り、道路に出る。空はだいぶ曇り始めていたけれど、まだ雨は降り始めてはいない。この分だったら、濡れずに目的地にたどり着けるだろう。そう考え一気に走り出そうとしたところで、真横から僕の名を呼ぶ声が聞こえた。
「――緑也」
まったくよくよくタイミングが合う男だ。僕は苦笑いを浮かべた。
「どこか行くのか? 雨降ってくるらしいぜ」
「ああ。知ってる。すぐ戻るから。ちょっと買い物にね。緑也は部活帰り?」
「いや、バイト帰りだよ。今日は体育館が午前使用だったからさ」
緑也は自転車から降りると、僕に近づいた。派手なアロハシャツ姿だった。
「バイトしてたんだっけ?」
「夏休みだけ限定でな。ちょっと社会勉強のつもりで」
「何のバイト?」
「スーパーのレジだよ。楽勝だと思ってたんだけど、意外と大変なんだなこれが」
緑也は面白そうに経験談を語ろうとして、
「――っと、悪い。急いでるんだよな。明日暇か? 俺も久しぶりに部活がない日だから、遊ぼうぜ」
「いいね。じゃあ桂場たちも呼ぶ?」
「そうだな。ついでにまた日々野の様子でも見てくるか。あいつも寝たきりじゃ暇だろうし」
緑也はどこか照れくさそうにそう言った。
波の音が大きくなり、ほほを撫でる風の勢いが増す。海のほうに視線を移したあと、緑也はいつものように僕を見た。
「じゃあな穿。また明日」
「ああ。また明日」
普段と変わらない声でそう返す。緑也はにっと笑みを浮かべると、そのまま自分の家に向かって歩き出した。
――また、明日。
遠ざかる緑也の背中を目で追いながら、僕は願うようにその言葉を繰り返した。
4
北区沢波を一言で言うのならば、僻地だ。
人が住んでいるような家は数えるほどしかないし、買い物をするための店もない。あるのはただ小さな畑と、あちこちに点在している企業の工場だけだった。
カナラに指定された場所はここの二丁目。どういう場所か知識は無かったけれど、近くまでくるとそこか大きなコンテナ置き場だとわかった。
何を収納しているのかは知らないが、大企業のマークが描かれたコンテナが無数に積んである。海辺でもないのにどうやってこんなものを大量に持ち込んだのか、不思議に思った。
雑木林に囲まれた神社の敷地に自転車を隠し、そこから周囲を観察する。どの工場も既に稼動は終了しているらしく、人の気配はほとんどない。
しばらくそのまま待機していると、一台のトラックが目の前の敷地に入っていった。持参してきた双眼鏡に目を通し、行き先を確認する。トラックは小さなコンテナの前で止まり、中から二人の人間が降りた。一人は、四業だった。
――来た。
カナラの言っていたことは真実らしい。
僕は無意識のうちに双眼鏡を握る手に力を込めていた。
もう一人の顔は帽子を被っているせいで良く見えないが、年配の男のようだった。恐らくは彼は真壁教授だろう。予定通り、実験体の一体はカナラが引き付けてくれたらしい。
二人はトラックの裏手に回ると、荷台を開き、そこから制服姿の少女を下ろした。その子の顔を見た瞬間、僕は今すぐにでも駆け出したくなった。
記憶操作対策なのだろう。手首を拘束されている少女――千花には目隠しがされている。彼女は四業に押されるままに近くのコンテナに向かって歩かされていた。
僕は双眼鏡をしまうと、そのままコンテナのほうに向かって走り出した。あまり早く走れば音で気づかれるので、慎重に地面との接地を意識しながら進む。
目的はあくまで千花の救出。九業も真壁教授のことも二の次だ。
僕は三人から十メートルほど離れた場所までたどり着くと、コンテナの陰から覗き込むように彼らの姿を確認した。
千花は四業に押しやられ、小さなコンテナの中へと入った。どことなくたどたどしい歩き方から察するに、怪我をしているのかもしれない。隔離しているのは精神干渉対策だろう。
僕は四業に対する怒りを必死に押し殺し、そのまま彼らが移動するのを待った。
このコンテナ置き場のオーナと契約でもしたのだろうか。教授と四業は奥に立てられたプレハブへ向かうと、持っていた鍵で二階の扉を開け、中に入っていった。すぐに部屋の電気がつく。
僕は窓から見えないように身を隠しながら進み、千花が閉じ込められているコンテナの裏手に移動した。
鍵はかかっていたが、“蟲喰い”ならば壊せないこともない。
彼女の状態を確認するために耳を澄ませると、中からかすかに嗚咽がもれるような声が聞こえた。その声を聞いて僕は胸の奥に強い痛みを感じた。
「――千花――」
探るように呟いてみる。だが反応はない。
扉の割れ目に口を近づけ、今度は力を込めてその名前を呼んだ。
「千花」
中から聞こえてすすり泣くような声が止まる。そのまま待っていると、彼女の疑うような声が聞こえてきた。
「だ、誰? 穿くん……?」
「うん。僕だよ」
一瞬間が空く。
「本当に、穿くんなの?」
「そうだよ。君を助けに来たんだ」
僕が答えると、コンテナの中から足音が近づいてきた。
「どうやってここが? もう会えないと思ってたのに」
「カナラが協力してくれたんだ。待ってて、今“蟲喰い”で鍵を破壊するから」
そう言うと、僕は扉に片手をあてがった。慌てて千花が遠ざかる音が聞こえる。
鈴の音のような高音が響き、半透明の空気の輪がコンテナの側面を波打つ。そして次の瞬間、ガラスを割るように、その部位が吹き飛んだ。
土煙の中にあの日はぐれたときと同じ格好の千花が、疲れきった顔で立っている。久しぶりに見る彼女の姿に、僕は何だか胸が熱くなった。
「千花……!」
真っ直ぐに彼女に向かって腕を伸ばす。千花は一瞬驚いた表情を見せたあと、遠慮がちに僕の手を掴んだ。
外に出た千花は不安と安堵の入り混じった複雑な視線を僕に向けた。
「……ありがとう穿くん。私……」
僕は彼女の視界と手を拘束していた紐を解いた。さらけ出された千花の手首には、赤い痕がくっきりと残っており、非常に痛々しかった。
「大丈夫? 怪我とかはしていない?」
「うん。ずっと移動していただけだから。ちょっと殴られそうにはなったけど……」
恐らくは四業だろう。僕は怒りを覚えたが、彼女の話を信じるのならば、手荒な真似はされなかったようだ。多少やつれてはいたものの、その無事な姿にほっとし、胸を撫で下ろした。
「早く逃げないと。あの人たちが……」
かなり恐怖を感じているような素振りをみせ、千花が僕の袖を掴む。安心させるように僕は彼女の手をとった。
「大丈夫だよ。ここから彼らのいるプレハブまでは離れてる。それより千花。ちょっと聞いてほしいことがあるんだけど」
僕は千花の耳元に口を近づけ、作戦を伝えた。
「このまま逃げても教授が居る限り僕たちは追われ続ける。だから彼に暗示をかけるだ。二度と僕たちを追えない様に。二度とこんな研究をできないように、精神的な牢に彼を拘束する」
「でも、そんなことできるの?」
「やってみるしかない。彼がどんな方法を隠しているかわからないけれど、カナラの暗示にかかってこの町から出れたってことは、暗示にかけることは可能なんだ。隙を見て彼に接近できれば――」
ふと顔を上げた瞬間、コンテナの中に不自然なものが見えた。破壊した側面とは反対側の面に、奇妙なでっぱりが取り付けられている。
――あれは……監視カメラ?
事前に取り付けていたのだろうか。外の光が入ったおかげで、その形がなんとなく見えた。
「そんな……!」
僕の視線に気がついた千花が悲痛な表情を浮かべる。目隠しをされていたせいで、気づけなかったのだ。
――四業が来る。
僕はすばやく千花に向き直った。
「僕が四業を止める。その間に君は教授に接触して」
言い終わると同時に、プレハブの窓がはじけ飛ぶ。音につられて目を向けた途端、黒い影がそこから飛び立ち、広場の中央に着地した。
僕をぼこぼこにし、日比野さんを瀕死に追い詰めた憎むべき男。修玄を持って弱点がないとすら言わしめた、あの四業が立っていた。
就寝前だったのか、彼は黒いタンクトップ姿のまま、短く立てた髪をなびかせこちらを見た。
彼の姿を見た千花が酷く怯えた表情を見せる。僕は彼女の前に立つように四業と対峙した。
「誰かと思ったらお前かよ。わざわざご苦労さん」
僕を舐めきっているのか、あくびをしながら四業は手を口に当てた。
「追手は三業が対処したはずなんだけどな。どうやってここがわかった?」
追手? カナラのことか?
僕は何も言わず彼を睨みつけた。
「……まあいいさ。お前らが何をたくらもうが、どうでもいい。姿を見せてくれたんなら、堂々とぼこることができる。この前みたにさぁ」
四業はにんまりと醜い笑みを浮かべると、足を滑らせ一気に僕の前に滑空した。すべる力を“強化”しているのか、まるで触れない男のように高速で移動する。
「千花行って……!」
僕は迎え撃つように前に出ると、片手を腰貯めにし、左足を前に出した。
僕の眼前に到達した四業は何のひねりも無く真っ直ぐに腕を伸ばしてくる。僕は前に出した左手でそれを逸らそうとしたのだが、お互いの手が接触する直前、急に体に奇妙な違和感が生まれ、動きが大きく鈍った。以前前四業と対峙したときと同じ現象だ。
「うらぁっ!」
大きな声を出しながら四業が僕のほほを殴りつける。大きく振りかぶられたその一撃をもろに受け、僕は唇から血を飛ばしながら仰け反った。
――そうか。空気抵抗を……!
修玄の助力で彼の起こせる現象は理解している。ある程度その応用法も模索した。あとは想像力の問題だ。
反撃しようとした途端、またもや強烈な負荷が僕の体にかかる。しかし僕は足の裏に“蟲喰い”を発生させ、その勢いで強引に前方へ体を押し飛ばした。動きを止めようとしたはずの四業は、逆に加速した僕を見て、表情を一変させる。
四業はこちらの攻撃を防ごうと腕を前に出したが、超能力のない争いでは僕のほうが上手だ。その手を手の平でなぞるように逸らし、渾身の拳を彼のほほに差し込んだ。
激しい手ごたえ。四業のほほが大きくたわみ、彼の顔がゴムのように崩れた。
「てっめ……!」
怒りの表情を見せた四業は激しく地面を蹴った。途端、散弾銃のような強烈な砂つぶてが僕の前面に殺到し、いくつもの小さな傷を皮膚に刻む。僕は目を守るため腕を上げ、痛みに悲鳴を漏らした。
近づいてくる気配を感じて咄嗟に“蟲喰い”を前面に展開する。しかし四業は肉を裂かれつつも構わず前進し、僕の首を握り締めると、そのまま横のコンテナに体をたたき付けた。
「このまま首を折ってやるよ」
血走った目でこちらを見据えながら憎憎しげにそう言う。僕は必死に彼の手を解こうとしたが、筋力を強化しているのかびくともしなかった。
“蟲喰い”で四業の腕を弾き飛ばそうかと思ったそのとき、彼の視線が遠ざかっていく千花を捕らえた。僕が何かをするよりも早く、四業は強く地面を蹴り、プレハブの前まで移動すると、千花の前に立ち塞がった。
「どこ行くんだよ。姉ちゃん」
短く口笛を吹きながら千花をねめつける。彼女が見返そうとした瞬間、彼の体闇に溶け込むように姿を消した。周囲の影を強化したのだ。
「触れるか、直接視線を合わせなきゃ暗示をかけられないんだろ。俺にはお前の現象なんて意味無いぜ」
挑発するようにそんな声がどこからか響き、千花の体が吹き飛ばされる。彼女は激しく地面の上を転がり、ゴミ箱の前で止まった。
「千花……!」
僕は慌てて彼女の元に駆け寄った。千花は頭から血を流し、涙交じりの表情で悔しそうに四業を睨んだ。
――くそ、今なら真壁教授は一人なんだ。三業はカナラが、四業は僕が相手をしている。今なら誰にも邪魔されず暗示をかけることができるんだ。近づけさえすれば……。
。四業が僕たちを抑え切れないとわかれば、彼はすぐにでもここから移動してしまうだろう。そうなればふりだした。
「視線を合わされると面倒だし、ちょっとそのめん玉つぶそうか? なに、安全なところについてから新しいものを入れてやるよ」
ぶっそうな台詞を吐きながら、真っ黒な闇の塊となった四業が蠢く。僕が走り出そうとしたそのとき、――ふいにどこからか足音が響いた。
5
こつこつと、静寂に包まれた敷地に革靴の音がなる。
その音は周囲のコンテナに反響し、小さな音のはずなのに奇妙な威圧感を持っていた。
「――やめろ。四業」
足を止め、プレハブの前に立った男がそう言った。
彼は深く被っていた帽子を丁寧に脱ぐと、酷く深みのある目で四業を見据えた。
その顔を見て、一昨日の記憶を思い出す。
俳優のように渋い顔。白髪の混じった短い黒髪。彼は、あのときに絵画展で会ったあの男性だった。
「貴重な肉体を傷つけるな。彼女の体は髪の毛一本だって価値がある」
その指示に、四業はしぶしぶといった様子で千花から離れた。僅かに見えていた黒い腕の輪郭がかき消えるように闇に溶け込む。
どういうことだ? なぜあの人が……彼が真壁教授なのか?
唖然とした目で僕が見返していると、彼は穏やかな表情でこちらを見た。
「やあ。また会ったね少年」
実に何気ない親しみのこもった声だった。
「何であなたが……あなたは……」
「まさか、こんなところで君と会うなんてね。町を訪れるアリバイ作りに行った絵画展だったが、意外と意味はあったらしい」
「じゃあ……あなたが真壁教授なんですか? “触れない男”たちを作って千花を誘拐した」
「そうだよ。状況的に考察して、私がここにいる理由はそれ以外に存在しないだろう」
こともなげに真壁教授はそう言った。
彼の姿を見た千花は、すぐに目を向けカナラに意識をバトンタッチしようとする。だが、その挙動を察知した教授は、左手を横に伸ばし、千花を制した。
「君の幻覚は私には効かない。君の父親、”献体ゼロ”の細胞を頭蓋周囲の肉に埋め込み調整しているからね。彼の細胞が精神防護壁を形成し、君の精神干渉を弾いてくれる。この二日間、君の知らないところでそれは十分に実証した」
千花は何度か眉間に力を込めて彼に干渉しようとしているみたいだが、教授の表情にはまったく変化が見られなかった。真壁教授は楽しむように、哀れむように千花を見ている。
「無駄だと言っているだろう。超能力者が発生する現象は、自身を傷つけないように己の肉体へは影響しにくいんだ。肉親となれば多少効果も出るだろうが、以前手に入れていた君の血液サンプルを組み込むことでそれも克服した。今の私に君の暗示は効かない」
「暗示が効かない? そんなわけない。だったらあなたは何でこの街から出られないんですか。効かないなら、逃げ惑う必要はなかったでしょ」
千花――いや、“カナラ”だろか。彼女が疑問をぶつけると、真壁教授は両手の指を体の前ですり合わせた。
「そう。そうなんだ。三日前、君に遭遇したあのときも、確かに君の暗示は私には届いていなかった。私には効かなかったんだ。だから私をこの町に留めているのは、恐らく別の要因だよ」
別の要因?
僕には彼が何を言っているのか、さっぱりわからなかった。
「あの日、君を捉えた日。何かが私の脳に干渉し、君に対する抵抗力を奪った。そのせいで私は君の暗示を受けてしまったんだ。君単体の力では私の脳に接触できないことはこの二日間で確認した。だからそれは別の要因としか考えられない」
千花にもまったく心当たりがないのだろう。不思議そうに真壁教授を見返している。
僕はおそらくカナラの力だとあたりを踏んだ。彼女の力が強すぎて教授の防壁を凌駕したのだと。
「私としてはここへくる道中に私を襲った第三者の影響だと考えているよ。三業が追っていった“あの少年”は、君たちの協力者なんだろう?」
「あの少年?」
千花が怪訝そうに僕を見る。しかし、僕にもまったく心当たりはなかった。
一瞬カナラが幻覚で変装していたのかとも考えたのだが、彼女の現象が効かないのならば、正真正銘の第三者が彼らを攻撃したことになる。一体誰だというのか。
「カナラと呼ばれる少女が自身の力で協力者を生み出したことは知っていた。五業から報告を受けていたからね。だが、それが二人だとは思っても見なかった。君は自由に超能力者を作り出すことができるのかな? カナラさん」
千花のほうに顔を向け、わけのわからない質問をする真壁教授。
しかし千花は当然のように、まったく心当たりがなさそうだった。不思議そうに教授の顔を見返す。
「とぼけなくてもいい。先ほどトラックを襲撃された際に彼の顔は見た。あれは間違いなくその少年じゃない。発生している現象は似たような破壊痕が出ていたけれどね。他にも仲間がいるのかな?」
思い浮かぶのは、和泉さんと争った噴水の中で見た、カナラの隣に居た謎の人影。僕と同じくらいの背丈の誰か。似たような破壊痕ということは、その人物が“ひび割れ”の原因?
まさか僕のようにカナラが別の誰かに何かして、超能力者を作ったというのだろうか。自分の身を守るために。
その可能性を僕が思い浮かべたところで、真壁教授が言葉を続けた。
「面白いね。それが本当なら、君は僕なんかよりも何倍も優れた創造者だ。ぜひ、そのメカニズムを解明したい。君の作品は私の作品よりも数倍性能が上だ。死体を集めなくても、君がいればいくらでも優れた実験体を作ることが出来る」
「わ、私はあなたたちが追っている子じゃありません。勘違いです」
相手を睨みつけながら声を上げる千花。
しかし真壁教授はそれが聞こえていないかのように、彼女の言葉を無視した。
「まあ、どちらでも構わないさ。調べていけば、この世にわからないことはない。今大事なことは君たちに抵抗をやめて欲しいということだ。このまま争っていても、何も利益は生まないのだから」
真壁教授は指を合わせたまま歩き出した。
「おそらく私に暗示をかけることが、君たちの狙いだったのだろう。警察に私を止めることはできない。証拠は全て隠滅してあるし、協力者もいる。事実を知っている第三者が訴えでもすれば多少面倒なことにはなるだろうが、それも時間が解決する。暗示をかけられない時点で、君たちにはどうしようもないんだ。おとなしくついてきて欲しい」
「それで、死体になって好き放題体を弄られろって言うんですか」
僕が睨みつけると、彼は心外だとでもいうように目を大きくした。
「君がどこで誰に何を吹き込まれたのかは知らないが、誤解しないで欲しい。私に君たちを傷つけるつもりはないよ。ただ、協力して欲しいんだ。人類の発展のために」
「今まで散々多くの死人や負傷者を出してきて、よくそんなことが言えますね。あなたの作った実験体のせいで、平和だったこの町で多くの死人が出たんですよ」
「やり方が手荒だったのは謝るさ。だが、死人が出たのは私のせいではない。そもそも、君たちがおとなしく拘束されていればここまで被害がでることもなかった」
大した開き直りだ。僕は言葉もなかった。この男の中では、完全に自分の価値観を中心にして世界が回っている。
「……真壁教授。あなたは超能力者を作り出して、どうする気なんですか? こんなことをして、本当に国に認められるとでも思っているんですか?」
「国に認められるなんて思ってもいないさ。この国はもうだめだ。中身が空っぽの演劇のような国家だよ。たとえ私が超能力者の存在を完全に証明してみせたとしても、どうせ手に余して海外へ責任を丸投げする」
真壁教授はうんざりだと言う様にため息を吐いた。
「別に国家に認められなくとも構わない。その技術が、概念が、私の意志が、存在し引き継がれるシステムが維持できればそれでいい。そのための買い手ももう見つけてある。国家とはまったく異なった、ある種の思念共同体。彼らなら快く私の研究を受け入れてくれるはずだ。もともと、実験体たちに使っている細胞は彼らの息がかかった組織が発端だしね。今回の騒動は、実験体のいいサンプルデータとなることだろう」
「それはテロリストってことですか?」
「そんな陳腐な連中のことじゃない。彼らと私はもっと大きな目的のために動いている。……そうだね。協力してもうらうんだ。君たちには私の目的を話しておこう」
真壁教授は歩みを止め、僕たちを観察するように見下した。
「人類の終末願望。集合的無意識下で望んでいる“終わり”への――黄昏への渇望。私はね。それを食い止めたいんだ」
【改稿】2016/1/04
本章の4節と5節を改稿しました。
ご了承下さい。




