第二十七章 散花
1
明社町の改札を飛び出したところで、僕は千花を呼び止めた。
「千花、ちょっと待って」
「どうしたの? 急がないと……」
不思議そうに振り返る。僕は申し訳なさそうに眉を寄せた。
「千花には一之瀬刑事と合流して欲しい。相手が本当に連続殺人鬼なら、警察の助けがいる。それに“触れない男”たちの目的はカナラか千花だ。二人で現場に行くのは自殺行為だと思う」
「……でも、それじゃあ穿くんはどうするの?」
「僕は日比野さんを助ける。どんなやつが相手なのかわからないから危険だけど、時間稼ぎくらいにはなるはずだから」
そういうと、千花は悔しそうに唇を歪めた。
「私も行くよ。“カナラ”に手伝ってもらえば、相手の意識を奪えるかもしれない。二人でなら……」
「君の中にいるカナラはすごく幼いんだ。危険な状況になればきっと上手く現象を起こせなくなる」
三年前の事件を思い出し、僕は語気を強めた。
「そんなの――」
「千花。相手は君のことを知らない。君が行けば、みすみす獲物の情報を与えてしまう。一之瀬刑事に手っ取り早く協力を要請するには、“カナラ”の現象が必要になるだろ。これが一番効率がいいんだ」
まくし立てるように僕はそう言った。半分は本気で、半分はこの犯人に千花を近づかせたくないという不安からだった。
僕の話した内容については十分に理解しているようだったが、感情が納得できないのか、千花はかなり不満そうに目を細めた。
「日比野さんは友達だから、君の気持ちもわかるけど、本当に彼女を助けたいなら一之瀬刑事に協力をお願いしてほしい。いくら“触れない男”たちの仲間だって、警察の目にはとまりたくないはずだ」
こういえば彼女は文句を言えないはずだ。予想通り、しぶしぶといった様子で千花は頷いた。
「……わかった。気をつけて。どんな人が相手なのかわからないんだからね」
「大丈夫。もう、慣れてきたよ」
冗談ぽく、僕は答えた。
既に日が落ち、周囲は暗くなりかけている。外灯の少ないこの町ではそれだけで、視界がいちじるしく悪くなった。
日比野さんは下田病院の近くにいると言っていた。あそこは大通りから右に反れた場所にある僻地で、暗い雰囲気が漂っていることから人通りも少ない。殺人鬼が獲物を襲撃するにはうってつけの場所だ。
いくつか裏路地を走りぬけ、可能性がありそうな場所を当たっていたところで、僕は妙なものを見つけた。不自然に曲がったガードレール。下に破片のようなものが落ちているから、破損してからまだ日は浅い。
これ以上闇が深まる前でよかった。夜になってしまえば、きっと気づくことができなかっただろう。
左手にある丘沿いに、真っ直ぐに暗い道を進む。何かが出てきそうな嫌な雰囲気があった。
ある程度歩いたところで、道路の先に黒い塊のようなものが見えた。不法投棄されたゴミ袋。いや、布の塊のようだ。何やら小刻みに蠢めいている。
近づくと強い血の臭いがただよってきた。思わず足が止まりかける。
それはゴミ袋などではなかった。深緑色の見慣れたシルエット。所々汚れて赤く染まっていたが、間違いなく連上高校の制服だ。
僕は手のひらに汗を握り締めた。
「日比野さん……?」
塊が僅かにうなり声をあげる。か細い女の声だった。
「日比野さん……!」
あたりに犯人らしき人の姿はない。僕はすぐに彼女に駆け寄り、その場に身を屈ませた。
紙を塗らしたときのように、彼女の白い制服はそのほとんどが真っ赤に染まっていた。恐る恐る様子を確かめると、肌にはいくつもの裂傷や青痣ができている。僕は逆方向を向いている彼女の指を見て、思わず泣き出しそうになった。
「日比野さん。しっかり……僕がわかる?」
何度も呼びかけてみるが、返事はない。衣服や地面に広がっている血の量から判断して、かなり酷い状態だと思われた。
なんでこんな真似を……!
怒りよりも、憎しみよりも、日比野さんを失ってしまうかもしれないという強い恐怖感が噴きあがる。
「日比野さん。大丈夫、今救急車を呼ぶから」
跪き、彼女の顔を覗き込む。日比野さんは頭と口から血を流し、痙攣するように震えていた。
端末を取り出し、救急車に通話しようとする。
しかしその刹那――コツンと、背後に靴音が響いた。
いつの間に近づいてきたのだろう。振り返ると、目の前に全身黒づくめの人間が立っていた。暗闇のせいで顔はよく見えないが、どうやら大人の男のようだ。
僕はそれが連続殺人鬼であると、すぐに悟った。右手を構え、“蟲喰い”を発生させようと試みる。だが腕を伸ばしきるよりも速く、急に暴風雨のような風が吹き、体が後方へと持ち上げられた。僕は日比野さんの上を飛び越え、路上の上に体を打ちつけた。右手にあった自販機の光が飛び散った僕の唾液を照らす。
な、風……!?
和泉さんのときのように体が勝手に動いてしまう感覚とは違う。男が振った手の風圧が、そのまま僕を押し飛ばしたような感じだった。
奇妙なメロディーが聞こえる。夕方、日比野さんからの通信中に耳にしたものと同じ音だ。僕は顔の見えないその男を、強く睨み付けた。
耳障りな口笛の音が近づき、男の顔が自販機の光の下にさらされる。その素顔を目にした途端、まるで雷に打たれたかのような衝撃を受けた。
「な、何で……!?」
ありえない。そんなことはありえない。
年数は経っていたけれど、見間違うはずがない。何度も何度も夢で見た。何度も何度もうなされた。その瞬間を。あの血の感触を。
見間違いであるはずがない。彼は確かに死んでいた。
男は僕の目の前に立つと、ニヒルな笑みを浮かべた。
「何だお前。俺のこと知ってるのか?」
口笛をやめ、楽しむように僕の目を見下ろす。
やはりどうみても間違いない。その男は、三年前に僕が殺した“あの男”だった。
「……何で、生きているんだよ。お前は死んだはずだ……!」
「死んだ? 俺が?」
男は一瞬キョトンとした表情を浮かべたが、すぐに笑顔を取り戻した。
「……――ああ、そうか。お前、“前”の俺に会ってるのか」
“前”の?
意味がわからず僕は男を見返した。
「俺たちの肉体は貴重だ。普通とは違う軸に位置しているからな。この体は再利用された体だから、そういうこともありえるとは思っていたが……。しかしまさか、こうも早く前のこいつを知っている人間に遭遇するとは」
「何を言ってるんだ」
「だから、俺はお前の知ってる男じゃねえんだよ」
男が目の前の小石を蹴飛ばす。拳ほどもない小さな石だったが、それが腹に命中した途端、僕はあまりの激痛に悲鳴を上げた。
男はなんでもないように僕の反応を見送ると、僅かに身をかがめた。
「死んだといってたな。じゃあお前、前の俺の死に目に遭ったってことか? ――ってことは、この女で間違いないようだな。ちょっと期待はずれだけどさ……」
男は坊主頭をなで上げながら、足元に転がっている日比野さんを蹴り飛ばす。僕は思わず殺意が溢れ出しそうになった。
「その子は無関係だよ。オカルト関係の出来事に興味があって、個人的に調べていただけなんだ。僕とはなんの関係もない」
「ふ~ん。その割には、電話されてすっ飛んできたみたいだけど? “佳谷間”、くん?」
日比野さんの端末を見たらしい。男はねぶったく僕を見下ろした。
僕は膝を立て、男を睨み付けた。何をされたのかはわからないが、物理的な攻撃であるのならば、“蟲喰い”で砕くことができる。いつでも反撃できるように感情を押し殺し、意識を集中させた。
「この女はな。おとといからずっとこの近辺を見張ってたんだ。まるで誰かを探してるみたいにさぁ。俺、ここらへんで次の獲物を狩るつもりだったから、凄く邪魔だったんだよ。でもまっ、どうやらこいつが当たりみたいでよかった」
ダメだ。状況的にいい言い訳ができない。できたとしても、先ほど彼を見たことがあると言ってしまった以上、こいつはそれを信じないだろう。彼を殺した現場にはカナラも居た。こうなったらもう、強引に意識を刈り取るしかない。
男が日比野さんのほうを見ている隙に、僕は近くにあった小石を拾い、男の背後に投げた。
動作に気がついた男は怪訝そうにこちらを向いたが、後方に落ちた小石の音を聞き、反射的に背後を向く。
その隙に、僕は全力で地面を蹴った。
2
「おっ……!?」
僕の動きに気がついた男が、驚いた表情を見せた。
相手の体勢が整っていない今なら、先にこちらの拳を当てることができる。僕は男の胸部に目がけて“蟲喰い”を放ったのだが、彼はぎりぎりのところで身をそらし、それを回避した。
余波によって弾き飛ばされた空気が甲高い音を鳴らす。それが消えるよりも速く、僕は右ひざを持ち上げ、男の腹部に打ち込んだ。現役で護身術をやっていた頃にも滅多になかった十分な手ごたえのある一発だったが――
まるで分厚いゴムの塊を押したかのように、僕の膝は押し戻される。いくら腹筋を鍛えていたとしてもこんな感触はしない。とても人間の肉とは思えなかった。
短く男が口笛を吹く。その瞬間、僕は男に肩を掴まれ、なんと片腕一本で体が宙に持ち上がった。
「二業みたいに、こんなのはどうだ?」
男がズボンからライターを取り出し、目の前で火をつける。なんのつもりだと思った途端、それが火炎放射器のように猛烈に立ち上がった。
「うわぁあっ!?」
とっさに“蟲喰い”を前面に展開し、炎の塊と男の腕をはじく。
地面に倒れるなり、僕はすぐに後ろに飛びのいた。
「痛ってぇ……! ったく」
血の滴る己の手を見て、あからさまに男の表情が不機嫌そうになる。しかし僅か数秒で、その男の傷はふさがり始めていた。
一体どういう現象なんだ……?
何が起きているのかわからず、僕は冷や汗を流した。
「はっ、なるほどねぇ。確かにすげえ威力だわ。それなら、九業たちを殺せたかもな。でも、当たらなけりゃ、大したことはねえ」
やはりこいつは“触れない男”たちの仲間で間違いないようだ。僕は倒れている日比野さんを一瞥し、つばを飲み込んだ。
時間はあまりない。時間稼ぎさえすればいいと思っていたが、このままでは日比野さんが死んでしまう。もう、なりふりかまってはいられない。
考えている暇はなかった。男は無遠慮に前に飛び出すと、真っ直ぐに僕に向かって突き進んでくる。
日比野さんの近くで争いたくないと思った僕は、それにあわせて後ろに下がった。
男の足はそれほど早くはない。動きも武道をたしなんでいるようには思えない。タイミングさえあれば、すぐにけりはつく。
呼吸を整え、相手の意識の線を探る。右拳のタイミングを合わせようとしたその直後、急に“触れない男”のような不自然な動きで男の体が加速した。
完全に狙いがずれてしまった。男の膝は僕の腹部に命中し、体が宙に舞う。息ができなかった。
「はっ」
男は笑みを浮かべながら、続けてひじを打ち下ろそうと体をよじる。しかし僕は背中から“蟲喰い”を放ち、それを防いだ。
ぎりぎりで察知したのだろう。男の腕は吹き飛びこそしなかったものの、多くの血を流し弾かれる。その隙に僕は彼の服を掴んで引っ張り、腹部すれすれに左手の“蟲喰い”を打ち込んだ。
悶絶する男。胃が傷ついたのか口から血が漏れる。
しまった。やりすぎたか……!?
僕は慌てて腕を引こうとしたのだが、それを男が掴んだ。
「げっとぉ……!」
男は片腕一本で僕の体を頭上に持ち上げると、そのまま一気にコンクリートの上に叩きつけようとする。
この勢いで頭を打ち付ければ間違いなく深刻なダメージを受ける。慌てた僕は反射的に手を伸ばし、地面に“蟲喰い”を放った。
崩壊する大地。蜘蛛の巣のように広がるひび割れ。叩きつけられる勢いは殺したものの、その余波は二人の足場を吹き飛ばし、お互いの体を左右に投げ飛ばした。
僕は凄い勢いで転がり、電柱に背中をぶつける。対して男の体は、自販機の中に半分ほど背中からめり込んでいた。
酸素が足りない。
痛みよりも恐怖よりも、ただ必死に空気を求める。呼吸が自分のものではないようだった。
気を失ったのか……?
半分ほど願いを込めて自販機の奥を覗く。だがその思いはあっさりと否定された。
「やべえ。まじ楽しいな……!」
頭から血を流しつつ、そんなものなど何とでもないというように、男は路上に立ちなおした。体中についたガラスの破片やら、ジュースやらを埃を払うかのように手で落とす。ところどころに怪我をしていたが、見る見るうちにそれは修復されていった。
相手にまったくこたえた様子が見えないので、僕の口からは自然と落胆の息が漏れた。これでは、何度やっても意味がない。
立ち上がろうとすると、頭部から一滴の血液が流れ落ちた。どこかで皮膚を裂いてしまったらしい。
「すげーよ。お前、本当にただの高校生か? 例の女が巻き込んだだけの道具にしちゃあ、でき過ぎてるぜ」
まるでスポーツ観戦でもするように明るい声を出す男。
僕は彼を睨み付けたまま、目にかかった血を拭った。
こんなことを繰り返していても、時間と体力を浪費するだけだ。早く病院につれていかないと日々野さんの命が危ない。
僕は右手に“蟲喰い”を発動させ、同時に左手でもその用意を行った。男の現象が何であるにしろ、これが急所に当たれば勝ちなのだ。まともに命中さえすれば、それだけで決着がつく。二回連続で現象を起こすのは体にかなりの負荷がかかるだろうが、やるしかない。
僕の様子を見て、男はやれやれといった動作を見せる。構わず、僕は走り出した。
急接近する僕を見て、男は僅かに後ろに下がった。ひるんだのかと思ったが、違った。まるで飲み込まれたかのように男の姿が闇に消えたのだ。
――影の中に気をつけろ。
確か、修玄はそんなことを言っていた。
少ない電灯のせいで男がどこにいるのかさっぱりわからない。ただ、妙な口笛だけが周囲にこだまする。
くそっ……!
焦りがつのり、今すぐにでもめちゃくちゃに腕を振り回したかった。だがそんなことをすれば相手の思い通りだ。冷静さを失った人間ほど、扱いやすいものはない。何とか意識を耳に集中させ、音の出所を探した。
「いいのか? どんどん時間は過ぎてくぜ~」
笑いを含んだ声で男が茶化す。僕は足元に転がっていたジュースの缶をいくつか蹴り飛ばした。怒りを覚えたからではない。それに亀裂が入っているのがわかったからだ。
缶から漏れた液体が周囲を取り巻き、無数の小さな池を形成した。これで、本人の姿が見えなくとも近づけば音と水の揺れで居場所がわかる。
ぴしゃっと、小さな音が左から響く。その刹那、僕は“蟲喰い”を横なぎに払っていた。
だが、腕は空を切った。音を出したのはただの小石だった。
「おかえし」
真後ろからそんな声が聞こえる。
息をするよりも早く、僕はとっさに手のひらだけを背後に突き出した。“蟲喰い” のインターバルを無視し強引に現象を撃ち出す。頭部に激痛が走り鼻からは血が漏れ出したが、同時に男の肉がはじけ飛ぶ感触を受け取った。
真っ赤な花火。
散ちゆく花のような血の奔流。
間違いなく深く刺した。いくら再生するといっても、この手ごたえならば深刻なダメージを受けたはずだ。
内臓のいくつかは確実に吹き飛んでいただろう。――しかし構わず、男は血だらけの腕を僕の顔の前に伸ばした。
「こんなのどうよ?」
ぱんっ――と、両の手のひらを打ち合わせる。ただのスナッピングのはずだったのに、その瞬間、耳を劈くような大きな音が周囲に響いた。
視界がぐらつき、頭の中から何かが抜けていくような錯覚を覚える。
そんな……! だめだ、だめだ……!
日々野さんのことを思い、必死に力を込める。ここで自分が捕まれば、彼女の命だけでなく千花にも大きなリスクを背負わせてしまう。
寝るな。起きろ、起きろ、起きろ……!
唇をかみ締め神経を刺激する。しかしいくらがんばってみたところで、僕の体はその衝撃に耐えきれるほど強くはなかった。
目の前に巨大な壁が迫った。どこまでも続く無限の壁。最初は何かわからなかったが、そこにへばりついている空き缶や日々野さんの姿を見て、自分が倒れたのだと理解した。
冗談じゃない、こんなところで……――
僕は必死に体を持ち直そうとしたが、上手く体が動かなかった。立ち上がろうとしたはずなのに体は勝手に右に移動し、腕は奇妙な場所を押し付けている。天地がぐるぐると動き回っていた。どうやら三半規管をやられてしまったらしい。
酷く吐き気がする。すぐにでも昼に食べたそうめんをその場に撒き散らしてしまいそうだった。
「ははっ、何だよ。まだ頑張るのかよ。じゃあ、もうちょっと邪魔してやる」
前後左右から迫ってくる男の腕が僕の肩に触れる。すると、世界の回転がいっぺんに加速した。
気持ち悪いなんてもんじゃない。凄まじく恐ろしかった。
男や日々野さんがどこにいるのかもうさっぱり判別がつかなかった。自分の体が自分じゃないようだ。
僕は嘔吐し、そのまま動きを止めた。何もしていないにも関わらず、それでもなお世界は周り続けている。
「はっ、ひでえ姿だなぁ」
男は馬鹿にするような声を投げつけ、屈みこんだ。そのまま苦しむ僕の横顔をじっくりと眺め始める。
「俺さ。苦しんでるやつの顔を眺めるのが大好きなんだよ。なんていうの? 征服感ってやつ? それをひしひしと感じれるからさぁ。どう? 悔しい? ムカつく? ――……はは、それそれ、そういういう顔」
男は僕の首に指を当てると、肉をえぐるようにぐりぐりと爪を押し当てた。
「なあお前。人が自分をもっとも満足させられる方法って何だと思う? それはさ。“見下す”ことなんだよ。“あいつは俺より頭が悪い”。“運動神経がない”。“会話が下手”。“友達がいない”。理由はなんでもいい。たった一つでも相手を見下せる根拠を持っているおかげで、人は自分の尊厳を守れる。たとえ自覚がないにしても、人間ってやつぁ、誰かを見下している。そうじゃないと生きてなんてられないからな。自分が特別だと、“上”だと思いこみたいんだ」
ぴしぴしと、僕のほほを叩く男。
「なぁ、すごく空虚なプライドだろ? でも、そのおかげで社会は成り立っている。そのおかげで、ブランド品や序列なんてものが存在できる。俺はさ。人を見下すのが大好きなんだよ。それこそが人類の本質だ。それこそが、捕食者のいなくなった世界で人類が持ちえる、唯一の“生きる原動力”なんだ」
僕は“蟲喰い”を発生させようとした。しかし、吐き気のせいで上手く意識が集中できず、それはコンクリートに小さな穴々を作るだけで終わった。
「お前にもとことん思い知らせてやるよ。人間としての尊厳を失うまで、誰が上なのか、徹底的にさぁ」
男がほほにデコピンをする。それで、まるで殴られたように僕の首は押し飛ばされた。
――怪力? いや、そうじゃない。一体何なんだこれは……?
頭と鼻から流れた血で顔が熱くなる。もはや正常に頭を働かせない。
男は落ちていた葉っぱを手に取ると、それをひとつずつ僕の体に向けて“刺し”始めた。
腕。足。肩。背中。胴体。
まるで豆腐のように、いくつもの葉っぱが僕の皮膚と肉を切断していく。動くことができない僕は、ただ激痛に悲鳴をあげることしかできなかった。
「なんだ? もうギブアップ? そこの彼女はもっと頑張ってたぜ?」
荒く興奮した声で男が耳打ちする。全身から流れ落ちた血を見て、僕は背筋が寒くなった。
「筋を切っちまうと反応がつまらなくなるからな。こうして痛みと血を押し出すように工夫して……」
ずぶり、ずぶりと、男は悪戯を繰り返す。狙った場所に棒を通すゲームでもやっているかのようだった。
景色が遠くなってくる。先ほどとは違い、貧血によるものだ。
や、めろ……!
日々野さんのことを、そして千花のことを思い、僕は悔しさでいっぱいになった。
男が嬉しそうに口笛を吹きながら、僕の首元に葉っぱを押し当てる。頚動脈だ。ゆっくりと、死の恐怖を感じる僕の顔を眺めたいらしい。
押し当てられたその手が横に動こうと持ち上がる。しかしその直前、――急に場違いなメロディーが流れ出した。聖歌のような仰々しい曲長のメロディーだった。
男は舌打ちすると、背後のポケットから端末を取り出した。そのまま面倒くさそうにそれを耳に当てる。
「何だよ。急用か? え――?」
どうやら、何か重大な連絡が届いたらしい。男は大きく目を見開いたあと、愉快そうに笑みをこぼした。
「なるほど、深見の娘か。へぇ……。じゃあ、もう? ああ、了解。はいはい」
端末をしまいこちらを見下ろす。これまでで一番嫌な笑みだった。
「気が変わったよ。お前らはこのまま誘拐する。貴重なサンプルだからな。面白いものも見れそうだし」
急にどうしたというのだろうか。僕はうつろな眼で男を見上げた。
どこかに車でも止めているのだろう。男はそのまま僕の体を持ち上げようとしたが、手を伸ばしかけたところでどこかからサイレンの音が近づいてきた。パトカーだ。
一之瀬刑事たちか? よかった。
千花が呼んでくれたのだろう。僕はほっとし、体の力を抜いた。
音は真っ直ぐにこちらに向かっている。
男は不機嫌そうな表情を浮かべたが、すぐにもとの軽薄な笑みを取り戻した。目的を達成しそこねたはずなのに、なぜか少し満足げでもある。それが、どこか得体の知れない不安を僕に抱かせた。
「まぁいいか。これはこれで面白そうだ」
男が僕の頭を蹴り飛ばす。ごつんという強い音とともに、僕の頭はコンクリートと衝突した。
薄くなっていく視界の中には、男の笑みだけが強く残っていた。
3
目的の名札のひとつを見つけたので、足を止める。病室に飛び込むと、既に皐月とスタイリッシュ、桂場が中で待機していた。
緑也の顔を見た彼らは、無言で頷きまたもとの位置へ視線を戻す。普段の彼らとは違って、酷くいたたまれない空気が満ちていた。
緑也はゆっくりと彼らに歩み寄り、ベットの中心で寝ている人物を見つめた。
呼吸器をつけ、あちこちに点滴の管を通している彼女は、まるで別人のようだった。かろうじて生きてはいる。まさに、そんな感じだ。
「何でこんなことに……真矢ちゃん……」
目を潤ませる皐月。それを見たスタイリッシュは彼女の肩をゆっくりと抱きしめた。桂場は歯をかみ締めるように下を向いている。
「何があったんだよ。誰がこんなことを?」
「警察は通り魔だとか言ってたけど、どうだかな。正直なところ、よくわからんよ」
緑也の質問に答えたスタイリッシュは、小さくうな垂れた。
「穿は? 確かあいつもここに運び込まれたって聞いたんだけど」
「まだ寝てるよ。強いショックを受けて気絶状態にあるらしい。怪我自体はそれほど重いもんじゃないってさ」
こちらを向くことなく、スタイリッシュが答えた。
彼が話し終わったのに合わせて桂場が口を開く。
「なあ緑也。千花を知らないか? 何度電話しても繋がらないんだが」
「いや、知らないけど。メールとかした?」
「二通ほど送ったけど、ダメだな。電源を切ってるのかもしれん。早く知っておくべきだと思ったんだが」
「何か用事があるんだろ。すぐに気づくさ。……それで、穿はどこに?」
「三○四号室。気をつけろ、隣のおっさん、かなり神経質みたいだったから」
「おう」
緑也は眉を上げ、そのアドバイスに答えると、すぐに穿のいる病室へと向かった。重体の日比野も心配だが、姿だけ確認しておきたかったのだ。
ナースステーションを挟んだ反対側のフロアーに移動する。穿の病室はそこから三室分隣の位置だった。
室内にベッドは四つあったが、皆どこかへ出ているのかひと気はない。一番奥の壁際に穿のものらしき後頭部だけが見えた。
緑也は彼のベッドまで近づくと、備え付けられていたパイプ椅子に腰を下ろした。そのまま何気ない調子で声を漏らす。
「よかった。意外と元気そうだな」
不審者に襲われ運び込まれたという割には、穿の顔色はよかった。ただ、全身に包帯が巻かれておりところどころ茶色っぽい血が滲んでいるせいで、傍目には凄く痛々しく見える。日々野の姿を見ていなければ、きっと面食らっていただろう。
人の気配を感じたのか、苦しそうに寝返りを打つ穿。彼の顔を見て、緑也は複雑な心境になった。
彼がこの町に来たのはほんの二ヶ月前だ。それなのに、一度誘拐されかけ、クラスメイトは死に、今度はこんな目に遭ってしまっている。
穿は、今の日々野の状態を知っているのだろうか。もし知らなかったら、起きたときどんな顔をするだろう。そう考えると気が重くなった。
点滴の雫が袋から落ち、チューブの中を伝っていく。
ぼうっとしていると、視界の隅に妙な違和感がした。窓際に青い花が挿してあある。小さな花弁が無数に集まった、縦長のめん棒のような花だ。
「……家族か?」
首をかしげながら、緑也はそう呟いた。
◆
鳥の囀りを耳にし、僕は目を覚ました。
太陽の光が差し込んでいるためか、左方向が苦しいほど眩しい。
「ここは……」
見慣れない天井。見慣れないベッド。見慣れない部屋。僕はなぜこんな場所で寝ていたのだろう。頭がぼうっとして上手く働かない。
毛布の中で体の向きを変え周囲を見渡す。水色の服を着た顔色の悪い男たち。それを見て、ここが病院であるとわかった。
体を起こそうとすると、背中に鋭い痛みが走った。内側にたいまつを突っ込まれたよな、燃えるような野生的な痛み。思わず小さな声が漏れる。
そうか……僕は……――。
暗い夜道。死んだはずの男。ぼろぼろになっていた日々野さん。
全てを思い出し、僕は飛び起きた。衝撃で背中に痛みの電流が走り、体が硬直する。不審なものを眺めるように、隣の男性がこちらに目を向けた。
彼女はどうなった? 生きているのか? もし運び込まれているなら、ここにいるはず……!
痛みに耐えつつ足を下ろす。毛布から出ると、全身に包帯が巻かれていた。
僕は壁に寄り添うように移動し、部屋から出た。
受付に行くと、忙しそうに事務作業をこなしている看護師の女性がいた。彼女は近づいてくる僕の姿を見て、はっとしたような表情を見せた。
「目が覚めたんですか。だめじゃないですか、いきなり動いて。あなたには血が足りないんですよ」
「すいません。ちょっと確認したら、すぐに戻ります。日々野真矢という女子高生の部屋を知りたいんですが」
「日々野さん? ああ、あなたと一緒に運び込まれた子ね」
「お願いです。教えて下さい。大丈夫なんですか」
僕が懇願すると、看護師の女性は穏やかな笑みを見せた。
「大丈夫です。命に別状はありませんよ。……わかりました。ついて来て下さい」
一人で行かせては面倒だと思ったのだろう。看護師は席から立ち上がると、僕の手を引くように先導をしてくれた。
ナースセンターを挟んだ反対側にある廊下に移動し、数歩ほど進んだ場所で歩みを止める。扉の横に書かれた日々野という文字を見て、僕は緊張感を高めた。
「どうぞ。右の真ん中のベッドです」
看護師が促すと同時に僕は部屋の中に足を踏み入れた。全身の痛みと貧血のせいでまだ足取りは覚束なかったが、日々野さんの状態を確認したい一身で歯を食いしばり前に進む。近づくと、彼女の寝息が僅かに聞こえた。
日々野さん……。よかった。助かったんだ。そう思い彼女の顔を覗き込む。しかしその瞬間、僕は思わず言葉を失った。
毛布から飛び出している彼女の姿は、あまりに悲惨な状態だった。
血がしみ込んだ包帯。取り付けられたギブス。ところどころから伸びている怪しげな管。
――とても、それがよく知っている同級生の姿だとは思えなかった。
何か言うべきだろうが、声が出ない。その場で僕が立ち尽くしていると、看護師が静かに横に立った。
「発見が早かったおかげで助かりました。幸いにも脳に影響を与えるほどの出血には至っていないそうです。今日か明日には意識を取り戻せますよ」
慰めのつもりで言っているのだろう。だがそんな言葉など、僕には何の意味もなかった。
「傷は深いんですか?」
「深いものもあるそうですが、変にひねくれた傷ではないので、比較的治療しやすいものでした。当院の救急医師は優秀ですから、傷跡がはっきりと残るようなこともありませんよ」
「そうですか。ありがとうございます」
機械的に僕はそう答えた。横たわっている日々野さんの姿を見ていると、胸が張り裂けそうになった。
「……――佳谷間さん。先生から説明がありますので、これから……――」
どうして、こんなことになった。日々野さんは、彼女は無関係だった。何の罪もない普通の高校生だったのに、何で……。
まぶたの裏に、連続殺人鬼の姿が浮かぶ。僕が殺し、蘇ったあの男。あいつのせいで、あいつが彼女をこんな目に合わせた。あいつが……。
醜い笑い顔と、口笛の音が蘇る。
右手の周囲の空気が僅かに震え、気泡が始めるような音が鳴る。気を抜けば、今にも何かを破壊してしまいそうだった。
「佳谷間さん? 聞いていますか?」
少しむっとした表情の看護師が、身を屈ませてこちらを見上げる。僕は何とか怒りを押さえ込み、頭の中からあの異常者を追い払った。
「すいません。まだぼうっとしていて」
「……一時間後に先生が回診に来ますので、それまで部屋でおとなしくしていてください。いいですね」
「はい。わかりました」
その返事に満足したらしく、彼女は軽く僕に状況と傷の状態を説明し、ナースステーションのほうへと戻っていった。
僕は振り返り、横たわっている日々野さんに視線を向けた。
彼女は先ほどと変わらず、静かなリズムで呼吸を繰り返している。看護師の言うとおり、確かに命に別状はなさそうだった。
息を大きく吸い込み、吐き出す。意識的に、いつもの指遊びを行った。母からうつった精神を落ち着かせるための癖。何度か繰り返していると、少しだけ頭が冷静になってきた。
三年前に僕が殺したあの男。あいつがなぜ生きているのかはわからない。しかし生きているのであれば、きっとまた僕の前に姿を見せるはずだ。あの殺人鬼は日々野さんのことをカナラだと勘違いしているような素振りがあった。彼女が無事でいる限り、また遭遇できるチャンスはある。
僕の顔と名前が露見したのは痛手だったが、肝心の千花の存在をあいつは知らない。それは、こちらに残った唯一のアドバンテージだった。
――そうだ。彼女にも状況を説明しないと。
日々野さんのことで頭がいっぱいだったが、よくよく考えれば命が助かったのは千花のおかげだ。彼女が警察を呼んでくれたから、あの殺人鬼はとどめをさせず、逃げていったのだから。
僕は左側のポケットから端末を取り出そうとしたのだが、つるりとした妙な感触を受けて、自分が病衣姿であることを思い出した。確か衣服のようなものがベッドの横に置いてあったから、端末もその付近に収納されているかもしれない。僕は慌てて自分の部屋に戻り、父が持ってきたであろうカバンや備品の中を漁り端末を取り出した。殺人鬼に襲われたときにできたのか、少し傷ついていたが、機能的には問題なさそうだ。
すぐに千花に連絡を入れたかったのだが、あいにくと病院内には通話禁止というルールがある。ここから一階に下りるのも億劫だったので、一階分上に移動し、屋上に出ることにした。
屋上に出ると、海のように青い空が広がっていた。
昨日も普通に外出していたはずなのに、久しぶりに外の景色を見たかのような妙な爽快感を抱く。
暖かい光と透き通るような風が、寝起きの体にはとても気持ちがよかった。
設置されたいくつもの物干し竿には、患者用の大きなシーツが干してある。まるで白い畑のようなその中を、僕はすいすいと通り抜けた。
落下防止用なのだろう。三メートルほどの高さの柵が目の前に飛び出た。その向こうには広大な海が広がっている。
僕は手すりに寄りかかると、端末を耳にあて千花に通信した。彼女のことだからすぐに出てくれると思っていたのだが、どれだけ待っても反応はない。
まだ電源を入れていないのだろうか。確かに昨日はずっと切っていたけれど。
なんとなく彼女の声を聞きたかった僕は、少し寂しい気持ちで端末をしまった。まさかずっと電源を切っているなんてことはないだろうから、待っていればそのうち向こうからかかってくるかもしれない。どうせ先生の回診にはまだ一時間ほどある。それまでしばらくここで日向ごっこでもしていようと、そう考えた。
珍しくやさしげな太陽の光に見守られ、少しうとうとと仕掛けたころ、静寂を割るように、屋上の扉が開いた。
顔を上げると、はためく白い布の間から、見慣れた顔がひょっこりと飛び出した。緑也だ。
「よう。おはよう」
彼は普段どおりの明るい声で片手を挙げ、こちらに近づいた。僕は何も発せず、その姿をじっと見つめる。
「もういいのか?」
目の前まできたところで、彼は気さくにそう聞いた。
「だいぶよくなったよ。目覚めたばかりのときは少し頭がくらくらしてたけど、今はもう普通に動ける」
「そうか。よかったじゃん。大事にならなくて」
緑也は隣に移動すると、手すりにひじをついた。なぜか彼の姿はこの屋上に妙にマッチしている気がした。水色のシャツを着ているからだろうか。
僕たちは何を言うとも無く、そのまま外を眺め続けた。相変わらず、昼間だというのに歩行者は数えるほどしか見えず、車の音だけが定期的に聞こえている。最初は寂しいと感じていたけれど、今ではもう、この静けさが少し好きになってきていた。
僕は前を向いたまま、口を開けた。
「日々野さんの病室を見てきたよ。無事でよかった」
「結構やばかったらしいけどな。早めに輸血できたおかげで難を逃れたらしい。後遺症の不安はあるけど、とりあえず、問題はないそうだ」
「そう……」
僕は短く答えた。
「……何があったんだよ。誰にやられた?」
「わからない。暗かったから。三十台後半くらいの男だったと思うけど」
「警察が話を聞きたがってたぞ。目が覚めたらすぐに連絡してくれってさ」
「一之瀬刑事?」
「名前は知らないよ。そんな話さなかったし」
どうでもよさそうに緑也は体を反転させた。
警察が来たということは、千花はやはり無事に一之瀬刑事と合流できたのだろう。早く今後の対策と、修玄への聞き込みについて話をしたかったが、まだ彼女からの連絡はなかった。
「あいつらもただ通報を受けてかけつけただけだからな。詳しく事情をわかってないんだよ。だからさっさとお前から話を聞いて、書類でもなんでもまとめたいんだろう」
「通報? 千花が呼んだんじゃないの?」
「いや、騒ぎを聞いた付近の住民だって話だぜ? 千花がどうかしたの?」
キョトンとした顔で緑也がこちらを見た。どうやら嘘ではないらしい。
なんだか胸騒ぎがして、僕は手すりから腕を離した。
「日々野さんから電話があったとき、千花と一緒にいたんだ。彼女に警察を呼ぶようにお願いしたんだけど」
「え、そうなの? そんなこと一言も言ってなかったけどな。千花なんていなかったぜ」
「……千花がいない?」
「ああ。もう昨日からずっと連絡してるんだけど、何の返事もないんだよ。家族旅行にいってるんじゃないかって話だけど、ちょっと不安だよな」
ちょっと待て。千花が通報したんじゃないなら、彼女は一之瀬刑事に会っていないってことか?
緑也の話を聞き、僕は血相を変えた。
もし、彼女が一之瀬刑事と合流して、あの夜は安全のために保護されていたとしても、連絡がつかないはずがない。僕と日々野さんが搬送されたとあれば、彼女なら真っ先に駆けつけるだろう。
「どうした穿?」
急に黙りこんだ僕を心配そうに見る緑也。僕は顔を上げると、彼に頼み込んだ。
「ごめん。何か適当に言い訳しといて」
「は? 言い訳って何の?」
「ちょっと出てくる」
僕は驚いた顔をしている緑也を振り返らず、走り出した。真っ直ぐに自分の病室に駆け込み、父が持ってきてくれたであろう衣服をゴミ箱の袋につめる。ここで着替えたら怪しまれるので、それを持って一階まで移動し、トイレで着替えてから病院を出た。
中庭を歩きながら、再び千花に電話する。祈る思いで待っていたけれど、彼女がそれに答えることはなかった。
4
千花の部屋は、確かアパートの二階、奥から二つ目の扉だったはず。
僕は急いで階段を駆け上がり、通路に降り立ったのだけれど、そこで意外な人物と遭遇した。
「一之瀬刑事……!」
僕が不信感の募った視線を向けると、彼は気まずそうに頭をかいた。ぐちゃぐちゃの髪が、さらに混沌具合を増す。
「何でここに……」
よく見れば、千花の部屋から出てきた直後のようだ。彼は送れて出てきた若い警官に先に行くように促すと、真剣な目でこちらを見返した。
「通報があったんだ。昨日の夜に蓮見さんらしき少女が車に押し込められるのを見たってな。通報したのは隣の主婦で、たまたま買い物帰りに目撃したらしい」
「それって、誘拐されたってことですか」
わかっていても、僕はそう聞かざる負えなかった。
「まだわからんよ。端末に電話を入れても繋がらなかったから、確認の意味もあって大家から鍵を借りたんだ。冷蔵庫の中身を見るに、昨日の昼から帰宅していないようだった。ちょうど、お前さんや学友に話を聞こうと思っていたところなんだが……」
一之瀬刑事はちろりとこちらを見た。病院のことを気にしているらしい。
誘拐された? 千花が?
僕は目の前が真っ暗になったような気がした。
何で、どうして居場所がわかった? 殺人鬼は僕が相手をしていたはずだ。千花が怪しまれる理由なんてなもないはず。
どこかでミスをおかしたのだろうか。気絶している間に、端末の履歴を見られた? いや、あのときに番号をメモしてる時間なんてなかった。情報を盗めるわけがない。
呆然としている僕を眺め、一之瀬は心配そうに表情を崩した。
「大丈夫か。何か飲むか?」
「……いいえ、平気です」
僕は何とかうそぶいた。
「犯人の手がかりは、何もないんですか?」
「車種や色なんかはわかっているが、ナンバーは時間が無さ過ぎて覚え切れなかったらしい。一応全国の交通課に情報は回したが、今のところ連絡はないな」
「そうですか」
僕は絶望し、目を伏せた。
「……ところで君、酷い顔色だぞ。まだ体調はよくなってないんだろう。もしかして勝手に病室を抜け出してきたのか?」
僕は黙っている。
「君の事件もまだ解決していないんだ。もしかしたら同一犯かもしれん。すぐに病院に戻りなさい。詳しく話を聞こう」
そう言うと、一之瀬は僕の背中に手を回し、階段を下りるように促した。僕はせめて自分の目で千花の部屋の中を確認したかったのだが、そんな余裕もなくどんどん先に進まされる。呆然としたまま、気がつけば、裏に留めてあったパトカーの中に押し込まれていた。
その日は一之瀬刑事への事情説明と、父からの叱責で一日が終わった。
僕はただなすがままに説明し、そしてその後は何もせずにベッドに座り続けた。体は疲れていたし、頭もはっきりしなかったけれど、どういうわけか一向に眠くなれなかった。事情を知った緑也たちが心配して尋ねてきてくれたが、僕の様子を見て、今はそっとしたほうがいいとでも判断したのかあまり長居はしなかった。僕としては別にどっちでもよかったのだけれど。
窓の外を蝶がひらひらと舞い、雲が過ぎ去っていく。気がつけば、いつの間にか夜の十時を超えていた。
僕はいつもの癖でつい端末を握り締めた。しかし当然、いくら待っても千花からの連絡はない。
十一時になっても、十二時になっても。
鈍い光だけが暗い室内に灯り、見回りの看護婦が部屋の前を通過した。
朝から使い続けていたせいで、端末のバッテリーが切れ画面がつかなくなる。
真っ黒に染まった画面を見て、そこでようやく、僕は本当に千花がいなくなってしまったのだと悟った。認識することができた。
絶望が、一気に体の奥に溢れてくる。
――ああ。終わってしまった。
僕の努力も。千花のこれまでの逃亡も。“触れない男”や和泉さんたちとの争いも。全て何の意味もなかった。
僕は包帯の巻かれた手を握り締めた。
結局、僕には誰も守れなかった。
無関係だった日々野さんを巻き込み、半殺しの目に遭わせ、一番大切だった千花は、あっさりと誘拐されてしまった。しかもその理由すら掴めていない。
あの頃と何も変わっていない。母を事故に遭わせたときと、カナラに見捨てられたときから、何ひとつ僕は進歩していない。ただ体だけが大きくなって、無意味な時間と資材を浪費し続けている。
きっと今頃千花は、酷い目に遭っていることだろう。全身をチューブでつながれ、電気を流され、痛みを与えられ、様々な苦痛の海に沈められた上で、現象の脳波を記録される。そんな地獄を味わっているかもしれない。僕がミスをしたせいで。僕が失敗したせいで。
――また今後、ちゃんと時間があるときに来たいね。
千花の控えめな笑顔。
――絵を描いて欲しいの。
カナラの楽しそうな微笑。
それが何度も脳裏に浮かび上がる。
あの日。お祭り中の岡の上で、僕は確かに誓った。彼女を助けると、一緒にカナラを見つけると、また、今度はゆっくりあの場所を訪れると、そう誓ったはずなのに……。
“蟲喰い”が勝手に発動し、目の前の空間を食い千切る。物音に隣の患者がうなり声を上げたが皆睡眠に夢中で気づいた様子はなかった。
もう、この感情を抱くのは何度目だろう。僕は自分を殺したくて仕方がなくなった。情けなくて、悔しくて、今にも己の頭を吹き飛ばしたかった。その思いを、記憶を、過去を、事実を、蟲が食すように消せたらどんなにいいだろう。どんなに楽だろう。いっそ母のように全てを失えれば――
そう思いかけたところで、僕は下唇を噛んだ。
わかっている。わかっている。それはただの逃げでしかない。いくら消そうとしたところで、現実は何もかわらない。歴史や記憶は改ざんできるけれど、それがあったという“事実”だけは消えないのだ。 せっかく母が元気を取り戻しかけているのに、ここで僕が正気を失えば、一人で苦労してきた父に多大な迷惑をかけることになる。そんなこと、できるわけが無い。
発散のしようがない強烈な怒りと自責の念だけが、吹雪のように内側に積もっていく。それは溶けることなく、永遠に体積を増し続けた。
5
父が退院の手続きを行っている間に、僕は日々野さんの病室を訪れた。
看護師の話によれば、昨日一度意識を取り戻したらしい。障害が心配されていたけれど、反応も良好で順当に行けば来月には退院できるそうだった。
僕が室内に入ると、彼女の母親が会釈をした。この人はもう、面会可能時間の大部分を日々野さんの横で過ごしている。娘に似てえくぼの可愛い人で、他人であるはずの僕の部屋にも、何度か足を運んできてくれていた。
今日退院することを伝え、一言二言話すと、彼女は気を利かせたのか、部屋から出て行った。僕は日々野さんの前に近寄り、彼女の包帯だらけの顔を見つめた。
「ごめん。日々野さん。僕がもっと早く気がついていたら……」
予兆はあった。緑也にも、皐月さんからも、彼女が連続殺人鬼について調べているという話は聞いていた。聞いていたけれど、僕は自分の事情を優先し、それを放っておいたのだ。僕があのときに動いていれば、彼女がこんな目に遭うことはなかった。
表情にはおくびにも出さなかったけれど、僕の腹の中では今にも内臓を突き破り、怒りが外に飛び出してしまいそうだった。
千花はもう誘拐された。彼女が蹂躙されるのを防ぐことができないことはわかっている。だけど、友達を殺されかけて、大切な人間を奪われて、このまま、このまま済ませられるわけにはいかない。
僕は拳を握り締めた。
他人に憎しみを感じるのはいつ以来だろう。怒りこそ覚えても、僕はこれまで誰に対してもそんな感情をなかなか持たなかった。それは酷くかっこ悪く、見苦しいものに思えたから。でも、今の僕にはもう抑えが利かなかった。
見舞いに来たのか、スタイリッショや緑也たちが部屋に入ってくる。僕は彼らに会釈し、外に向かった。みんなは普通に僕を見ていたけれど、緑也だけは僕の顔を見てぞっとしたような表情を浮かべた。
僕は構わず、廊下に足を踏み出した。
ロビーに向かって階段を下りているとき、僕は三階と書かれた看板の前で足を止めた。
ここには、母さんがいる。
御奈と一緒に訪れたあのときから、僕は一度もここに来てはいなかった。何度か足を運ぼうとはしたのだが、直前になってどうしても踏みとどまってしまう。
もし、母さんがあのときのことを思い出せば。僕がしたことを思い出せば。彼女の今の笑顔を再び消してしまいそうで、それが怖くて恐ろしくて動けなくなってしまうのだ。
これから僕がすることを考えれば、一目でも顔を見ておくべきだ。そうわかってはいるのだけれど、どうしても足は動かない。行こうとすると、勝手に震えだしてしまう。
「どうかしましたか?」
立ち尽くしている僕を不審に思ったのか、通りがかりの看護師が不思議そうに声をかけてくる。
「あ、いえ、ちょっと迷ってしまって。大丈夫です」
咄嗟にそう答え、僕は下に向かって歩き出した。もう、上を向くことは出来なかった。
「何だ? 乗らないのか?」
病院の駐車場で、父がこちらを振り返る。僕は一歩離れた位置から答えた。
「ごめん。ちょっと友達に用事があって」
「そうか。まあ、何度も見舞いに来てくれてたもんな。でも、あんまり遅くなるなよ」
「わかってる。ちょっとだけだから」
僕が答えると、父は中に乗り込み扉を閉めた。窓越しに皺の刻まれた深い目が見える。
彼はゆっくりと車を前に出すと、一瞬片手を挙げ、そのまま道路に出て行った。
――ごめん。父さん。
振り返り、三階の窓を見上げる。そこは母の病室だった。窓は開いていてカーテンが揺れている。彼女はまた、空でも眺めているのだろう。今日は彼女好みの、青空だから。
僕は前に向き直ると、目つきを改めた。まだ、最後の手がかりは残っている。――“修玄”だ。
稼動を確かめるように指遊びをし、僕はゆっくりと、寺に向かって歩き出した。




