第二十六章 記憶の中の咎人
1
井上梨里子は大して仲のいい友達ではなかった。
一緒に出かけることなんてないし、顔を合わせてもお互い会釈をするだけ。それだけの仲だ。
ただ、彼女には恩があった。
二年前、中学二年の春。日比野真矢は彼女に助けられた。
当時はようやく本格的にパソコンも使えるようになり、寝る間も惜しんでオカルト情報を集めていたのだが、そのせいで通学中にぼうっとしてしまうことが多かった。
信号が変わっていたことに気がつかず、あと一歩でひき殺されるというところ、梨里子に救われたのだ。
真矢は梨里子に感謝し、深く礼を述べたのだが、彼女は実にあっさりとした調子で歩き出し、そのまま学校へと向かった。
単なる友人。いや、顔見知り程度の仲。
大した友情も、親愛も何もなかった。なかったにも関わらず、その一報を聞いて真矢は愕然とした。
全身を切り刻まれた上での失血死。被害者は生きたままゆっくりと生皮をはがすように一本一本肌に線を入れられ、おぞましいほどの恐怖の中、ただ命の懇願だけを続けて死んでいく。
それは、想像もしたくないほど恐ろしい事件だった。
顔見知り。そう、顔見知りに過ぎない相手。ただ一度、“命を救ってくれた”だけの相手。
――気がつけば真矢は校内のプレハブで、事件に関する情報を集めだしていた。
朝から四時間、ひたすらパソコンの前に向かい合っていたところ、プレハブの扉が開いた。
皐月がいつもどおりの気の抜けた表情で中に足を踏み入れる。
「やっほー、真矢りん。遊びに来たよー」
手に持ったビニール袋を揺らしながら、皐月は向かいの椅子に座った。
「ちょっとー、無視しないでよ。せっかく差し入れ買ってきてあげたんだから。好きでしょ。このお菓子」
「ごめん皐月。今ちょっと忙しくて。今日は悪いけど……」
「えー、せっかく来たのに。どうしたの?」
「調べもの。どうしても気になることがあってね」
「また新しいおかるとの情報?」
「そんなとこ」
真矢は投げやりに答えた。
「そんなに面白い話なの? 聞かせてよ」
本当はたいして興味もないくせいに、ここに来ると皐月はこうしていつも会話を広げようとする。別に普段なら嫌じゃないし、こちらとしても楽しいひと時だったのだが、今はとてもそんな無駄話を続ける気にはなれなかった。
「ごめん。今回は結構えぐい話だから」
「えー、そういわれると逆に気になるんだけど」
何だかもう面倒くさくなり、真矢は事実を説明することにした。
「……隣のクラスに、井上梨里子って子がいたでしょ」
「あ、B組の子? 知ってるよ。前に話したことある」
「その子が連続殺人鬼に殺されたの」
「え?」
皐月の表情が一瞬固まった。僅かに間を空けたあと、恐る恐るといった感じでこちらを眺める。
「えと……その、じゃあ真矢りんは……犯人のこと調べているの?」
「そうだよ」
「……で、でも真矢、別にあの子と仲良いいってわけじゃないでしょ。警察官だって捜査してくれてるし。わざわざ真矢が調べなくても……」
「仲はよくなくても、恩があったの。凄くいい子だったのに、あの子は酷い殺され方をした。そんな目に遭う必要なんてなかったのに」
珍しく声に怒気が含まれていたからだろうか。皐月は僅かにしゅんとした表情を浮かべた。
「でも、危ないよ。真矢絶対現場に行ったりとかするでしょ。……あ、そうだ。お祭り行こうよ。お祭り。明日髭森神社でお祭りがあるんだよ。スタイルくんと行く予定なんだけど、真矢もどう?」
「――皐月」
短く、彼女の名前を呼ぶ。
「気持ちは嬉しいけど、こうしてないと落ち着かないの。あたしのこと心配するなら、しばらく一人にしてくれない? 心配しなくても、別に一人で犯人を捕まえようってわけじゃないんだから」
「でも……」
「いいから。あ、そうだ。お祭りいくならお守り買ってきてよ。交通安全のやつ」
「交通安全? 何で?」
「いいから」
表情を変えずに答えると、皐月は諦めたように息を吐いた。
「……わかった。じゃあ、気が向いたら連絡してね。真矢がいないとつまんないし」
「気が向いたらね」
少しだけ彼女に目を向け、会釈する。皐月は名残惜しそうにカバンを肩にかけながら、屋上へと出て行った。
彼女の背中が消えたのを確認すると、真矢はパソコンの画面に向き直った。そこには 井上梨里子に関するニュースが表示されている。連続殺人事件、それもかなり悲惨な事件だったにも関わらず、記事は小さくそれほど話題にもなっていなかった。いかにもマスコミが好きそうな話なのに、妙なものだ。
マウスをスクロールしながら真矢は呟いた。
「やっぱり。この場所……確か前に千花が誘拐されかけたところ近くだ」
真矢は机の上に広げていた地図に視線を落とした。
最初の被害者も、二人目の被害者も、三人目の被害者も、どういうわけか全員、“触れない男”の目撃情報があった場所で殺害されている。まるで彼の軌跡をなぞるかのように。
「どういうことなんだろう。これ……」
“触れない男”の模造犯かなにかなのだろうか。それにしては手口が全然違うけれど。
“触れない男”と考えられていた男は千花を誘拐しようとして失敗し、自身のスタンガンで返り討ちにあった。そしてその輸送中に謎の事故に遭い、死亡したはずだ。
つまり、この場所以外に彼が活動した地域はない。もしこの連続殺人鬼が彼の犯罪をなぞっているだけであれば、もうこれ以上被害者は出ないかもしれないのだが……。おそらくそんなことはありえないだろう。こんなに人を殺し続けている人間が、ただそれだけの理由で狂行をやめるはずがない。模倣犯であれば、本物の業績を超えたいと思うものだ。
“触れない男”の犯罪場所をトレースしているのは、きっと何かのアピール。この犯人は“触れない男”と同じ軌跡をたどることで、自分の存在を誰かに誇示しようとしている。
普通に考えたらこの連続殺人事件をもっとも恐れているのは、前回“触れない男”を目撃した少女たちだろう。一度不審者に付け狙われたことで、彼女たちはいつまた自分が襲われるかびくびくしているはず。そしてもっとも狙われる可能性が高いのは、“触れない男”死亡の間接的原因となった千花だ。
真矢は端末を手に取ろうとしたのだが、カバーに触れる直前で指が勝手に止まった。
そういえば、彼女のときはなぜあれほど話題にならなかったのだろう。皐月が襲われたときは、全校集会を開くほど騒いだはずなのに、千花のときはホームルームにすらその話題が挙がらなかった。今思うと不自然極まりないのだが、誰もが気にせずそれを当然のように受け止めていた。
目立ちたくないからと学校側に口ぞえしたにしても、名前を伏せてこんな事件があったと説明してもいいはずだ。にもかかわらず、一切その手のイベントはなかった。まるで事実から強引に意識をそらされているかのように。
考えようとすると少しだけ頭がぼうっとし始めた。朝からずっと調べていたから疲れてしまったようだ。真矢は首を回し、時計を見上げた。
午後十五時。いつの間にかとてつもない時間が立っている。そういえばお昼もまだ食べていなかった。コンビにでも買出しに行ったほうがいいだろうか。あそこの揚げ物はかなり美味しい。
立ち上がったところで、机が揺れ何かが床に落ちた。印刷した資料の一部だ。手にとってみると、それは少し前に起きた動物大量死についてまとめたメモだった。
「ああ、これか」
最初は興味を持ったものの、途中で飽きてとりあえずとっておいた紙だ。今となってはもう必要はない。真矢はそれをゴミ箱に捨てようとしたのだが、とある一文を目に留め、歩みを止めた。
――動物の死骸にはひび割れのような模様の傷跡があり……
ひび割れ。確か、“触れない男”の事故現場にも同じような痕が残っていたはずだ。まさか、二つの事件は関係しているのだろうか。
おなかはぐーぐー鳴っていたが、気になってはどうしても手を止められない。昔っからの真矢の癖だった。
ネットで情報を探していくと、すぐにある記述を見つけた。どうやら数週間前に数駅ほど隣の町で、動物の死骸が大量に発見されたらしい。死体の損傷具合がかなり酷いそうで変質者の仕業だと考えられているようだ。
「あれ、ここって……」
よくよく読んでいくと、その場所は前にみんなで行ったプールの目の前の公園だった。何だか怖くなり、ゆっくりとページを下にスクロールする。
日付は七月十五日。
それはまさに、皆で出かけたあの日だった。
2
僕と千花は、“触れない男”らしき人物が再度付近に現れたと嘘をつき、再び一之瀬刑事と会う約束を取り繕った。
最初はあまり乗り気でなさそうな一之瀬刑事だったが、“触れない男”が現場に落し物をしていたという作り話を伝えると、仕方がなしに申し出に応じてくれた。
今回は国道沿いのファーストフード店での待ち合わせとなった。ここはバス停が近いから、すぐに警察署へ戻るためのチョイスだろう。ついでに昼食を取りたかっただけなのかもしれないが。
到着して五~六分ほど待っていると、一之瀬刑事が店内へ入ってきた。比較的若者の多い店なので、くたびれたスーツ姿の中年男性はよく目立つ。僕が軽く手を上げると、彼はぼさぼさの頭をかき乱しながらこちらに近づいた。
「よお。また二人一緒か」
どかりと椅子に腰を落ち着け、不適な笑みを浮かべる。僕は両手を机の下で組み直した。
「すいません。何度も。でも、今回は重要な話なんです」
「いいよ別に。怪しい情報を集めて町を守るのがおまわりさんの仕事だからね。もっとも役に立たない情報や妄想話が相次ぐなら流石に考えざる終えないけれど」
「お時間は取らせません。要点だけをお伝えします」
僕は“カナラ”の顔をちらりと見て、「お願い」と、声に出した。
一之瀬刑事は眠そうな表情で視線を千花に向ける。彼女はそんな一之瀬刑事の目をまっすぐに見つめると、僅かに瞳に力を入れた。
事前に教えてもらったとおり、手を繋いでいるおかげで僕にも彼女の見ている光景が頭に浮かぶ。一之瀬刑事は放心したように、力のない表情で彼女の目に捕らわれ続けた。
まず最初に飛び込んできたのは、初老の男性の姿だった。彼の手には警察手帳が握られており、幼い一之瀬刑事がそれを見上げている。
水の中に潜り込むように場面が切り替わる。
高校生ぐらいの友人と歩いている一之瀬刑事。楽しそうにおしゃべりをしていたのだけれど、裏路地に入った途端、いかつい顔をした上級生たちに捕まった。一之瀬刑事は抵抗したけれど、友人はすぐにお金を渡してしまう。結局ぼこぼこに殴られた一之瀬刑事は、財布を取られてその場に倒された。立ち去っていく彼らの背中を見上げながら、一之瀬刑事は己の無力さを強く呪っていた。
さらに深く潜る。
同期が次々にやめていく中、一之瀬刑事は自分の正義感を貫くため、祖父の後を追うために、必死に警察学校の訓練をこなし続けた。そしてある日とうとう、彼の手には一丁の拳銃が渡された。誇らしく、それでいてかなり重い塊だった。
何だか自分が一之瀬刑事なのか、佳谷間穿なのかわからなくなってきた。必死に“カナラ”らしき意識の気配によりすがり、僕はどこにあるかもわからない自分の目を凝らした。
警察署内の霊安室。一之瀬は一通り稲生忠志の顔を眺めると、飽きたように視線を逸らした。それを見て取った深見が、そっと遺体を覆っている袋のチャックを閉める。彼女はこの遺体を処理するために呼ばれた業者の人間だった。
「もう、よろしいでしょうか」
「ああ。いつでも持っていってくれ」
投げやりに返したにも関わらず、彼女は実に丁寧にお辞儀をし、遺体をストレッチャーに乗せ替えた。一瞬手伝おうかとも思ったのだが、あの細い腕のどこにそんな力があるのか、軽々と手順よく遺体を横に移動させ、作業を終える。そうとうこの仕事を繰り返してきたようだった。
汗をぬぐう彼女を見て、一之瀬は何となしに呟いた。
「しかし、不憫なもんですな。これから焼却されるっていうのに、遺族が誰一人来ないなんて」
それを聞いた深見は冷静な、それでいてかなり落ち着いた声で答えた。
「政治家の方みたいですから、色々と問題があるんだと思います。ご子息が少女誘拐未遂で捕まったなんて、相当なスキャンダルものですからね」
「息子をそんな風に育てたやつが、まともに国の面倒なんて見れるとは思えないけどなぁ。ま、俺が口を出すことではないが」
一之瀬は一人、苦笑いを浮かべた。
「……葬儀には参加なさないとお聞きしましたが、 よろしいのですか?」
「そこまで面倒は見ないさ。検死して怪しいものが無いか確認する。それだけが遺体に対する俺たちの仕事だ。それ以上付き合うのは、ただの時間の無駄だ。……あんた、こういった事件の遺体を取り扱うのは初めてなのか?」
「ええまあ。私どものサービスは生前に献体契約をなされ、死を迎えた方々のご遺体を丁重に学術機関へ移送するものです。事件の犯人、それも焼却するためだけの移送なんて、やったことはありませんよ」
「ま、そりゃあそうだろうな」
相槌を打つように一之瀬は頷いた。
ストレッチャーに手をあてがい、深見に扉のほうを促す。
「霊柩車までは運ぶよ。ま、せめて」
「ありがとうございます。正直いって、最近ちょっと腰が痛くなってきてるんですよ」
「嘘だろ? まだまだ全然若いじゃないか」
書類で読んだ彼女の年齢は確か三十台後半。冗談ではないのだろうが、あまりにふさわしくない言葉だ。呆れるように、一之瀬は表情を崩す。
一之瀬のそんな顔を見ると、彼女は思わせぶりに妖艶な笑みを浮かべた。
濁流のように深見という女性の情報が流れ込んでくる。
年齢。住所。経歴。
一之瀬刑事が認識している全ての内容が、しっかりと焼き付けられる。
もう十分だ。あとは彼女に近づいて“カナラ”の力で黒幕の情報を引き出せばいい。
そう思った瞬間、リンクが切れたかのように意識が現実に立ち返った。
がやがやとした騒音が、まるで初めて音を聞いたかのように耳の中に反芻する。何度経験しても、この瞬間だけは慣れなかった。
僕は目頭を押さえながら一之瀬刑事の様子を確認した。
彼はぼうっとした表情を浮かべたまま、あらぬ方向を見ている。
「大丈夫……か」
思わず僕は呟いた。
「ちょっと記憶を操作したの。適当に“触れない男”に関する話し合いをして、一息ついたところって感じかな。あ、落し物うんぬんていう話は消しておいたよ」
耳打ちするように千花――“カナラ”が顔を寄せる。僕は照れを隠すように頷いた。
通路を歩いてきたカップルのカバンがかすり、僅かに机が振動する。その揺れで一之瀬刑事は我に返った。
「……あ――……って感じかなぁ……?」
千花の中にいる“カナラ”がどんな記憶を埋め込んだのかは知らないが、何かを話し終わったところのように、一之瀬刑事は言葉を終わらせた。自分でも違和感を感じているのか、語尾が多少疑問気味だった。
必要な情報は手に入れた。これ以上余計な会話を続けてぼろを出す前に、さっさと退散したほうがいいいだろう。
僕は立ち上がり、一之瀬刑事に礼を述べた。
「お話、ありがとうございます。一之瀬刑事の言うとおりに、気をつけますね」
「ん? ……ああ、ああ。そうしてくれ」
寝ぼけ眼でこちらを見上げる一之瀬刑事。僕たちは迷惑をかけたせめてものお詫びと、飲み物代分として千円を机の上に置き、その場を後にした。
「上手くいったでしょ?」
住宅街の中を進む僕を、早歩きで追いかける“カナラ”。彼女の声は酷く軽かった。
今更ながら、とてつもない現象だ。彼女が本気になれば、湧き水のようにお金を作り出せるし、どんな相手に対しても強制的に親密な人間関係を形成することもできる。そして、人を殺させることも。
もし悪意を持ってこの現象を利用すれば、彼女一人だけでとてつもない人間を不幸に導くことが可能となるだろう。本当に、規格外の現象だと思った。
「ねえ、穿ってばぁー」
甘えるようにシャツの袖を引く“カナラ”。
僕は腹に抱えている不安を飲み込み、感謝の言葉を述べた。
「ああ、ありがとう。助かったよ」
そういうと、“カナラ”は花が咲いたように無邪気に笑った。
「こんなの朝飯前だよ。私は絶えず周囲に意識を張って動いているんだもん。呼吸と同じくらい、簡単に人の記憶を覗くことができるよ」
「それって常に周りの精神に干渉しているってこと?」
「うん。この子の体に入ってからは制限があるけど、純粋な私の体だったら、ね」
彼女にとって周囲の人間の精神は、魚にとっての水のようなものなのだろう。僕は愕然としつつつも、平静を保った。
「もう一回だけ手を貸して欲しいんだ。いいかな」
「それって、さっき見た深見て女の人のこと?」
「そう。献体契約サービス業者の、それも本田克己の遺体を回収している彼女なら、“触れない男”たちの黒幕について何か知っているはずなんだ。そのためには君の力がいる」
「……いいけど、その代わりお願いを聞いてくれる?」
「お願い?」
僕は聞き返した。ちょうど十字路に差し掛かったところなので、足を止める。
何だか物凄い無理難題を押し付けられるような気がしたのだが――
「絵を描いて欲しいの」
「絵?」
思わぬ答えに、僕は拍子抜けした。
「……別にいいけど、何の絵?」
「私の似顔絵」
「それって、“カナラ”のってこと? 今の君の顔をまともに見たことなんてほとんどないし、無理だよ」
「別に今の私じゃなくてもいいんだ。この私は、“あれ”とはもうほとんど別ものだもん。穿の記憶にある、あの頃の私を書いて欲しい」
「何でそんなものを?」
純粋に疑問に思ったので、そう率直に聞いた。
“カナラ”は後ろに腕を組むと、草むらを歩くような調子で足を遊ばせた。
「あの頃の私には、それが楽しみだったから。穿はあの避暑地みたいな公園で、いつも色んな絵を描いたけど、私はその様子をずっと眺めているだけだった。穿の絵ができていく様子は物語を見ているみたいですっごく楽しかったけど、ただ一人でその様子をみているだけなのは、少し寂しかった。だから、私は自分の顔を描いてほしいってお願いしたんだ。モデルになるのなら、共同作業として時間をつぶせるから。……覚えてる? 穿」
どこか不安げにこちらを見上げる“カナラ”。肉体は千花だったが、僕の目には確かに、陽光でかすんだ彼女の幼い顔が見えた。遠い夏の日の、あのコンクリートに囲まれた公園の香り。狭いようで妙に広い大地。詰め込まれたかのような、大きな太陽。
「ああ。覚えてるよ」
深く息を吸い込みながら僕がそう言うと、“カナラ”は静かに微笑んだ。千花とはまた別の哀愁の篭った笑みだった。
あのときの約束を果たして欲しい。そういうことなのだろうか。僕たちの関係がこんな奇妙なものになる前の、純粋な友人としてのつながり。
“カナラ”はきっと寂しいのかもしれない。何年も千花の中に閉じ込められ、心を打ち解けて話せる機会も相手もなく、ようやく再開できた僕には疑惑に満ちた目を向けられる。そう考えると何だか急に、彼女が可哀相になった。
にこにことこちらを見ている“カナラ”に視線を合わせ、僕は帆を張るように言った。
「わかった。描くよ。この事件が解決したら」
「えー、すぐに描いてくれないの?」
「今は“触れない男”たちの黒幕をどうにかするのが先だろ。それが終わったら描くよ。必ず」
「今度こそ、本当だよ?」
「もちろん」
しっかりと頷くと、それで“カナラ”は満足したようだった。
真っ白な雲が風に押されて漂っていく。かなり低い位置にあるのか、動きは早かった。
“カナラ”は体の後ろで組んでいた手を下ろし、名残惜しそうに自分の影を見下ろす。
「……そろそろこの子に体を返すね。もう限界みたい。穿が呼べば、いつでもまた出てきてあげるから」
「ああ。ありがとう」
僕は感謝を込めてそう言った。
「うん。……――じゃあね」
風に揺らされた花びらのように、ゆっくりと手を左右に振る。そして彼女の意識は、千花の表側から静かに離れた。
3
「やっぱりこれって、もしかして……」
三日ほど学校のプレハブでネットの情報を集め続けた結果、日比野真矢は妙な事件を発見した。数駅ほど南に下ったところにある国立公園で、不審な設備破損が起きたそうだ。
現場の地下に埋め込まれていた配水ポンプは小型爆弾でも使われたかのように破裂し、それらの中心に位置していた噴水も、側面の一部が完膚なきまでに粉砕されていた。第一発見者の職員によると、現場は水浸しで付近の植物の多くに異様な切れ目のようなものがあったらしい。
それだけでも十分オカルトちっくにとれる題材ではあったが、真矢が注目したのは次の一文だった。
――噴水や配水ポンプの周囲には、ひび割れのような模様があり、犯人は何らかの振動器機で……――
ひび割れ。“触れない男”の死亡現場や、動物大量死の現場にも見られた謎の損傷痕。明らかに無関係とは思えない。
そこでこんどはひび割れの痕という一点に注目して近場の事件を探したところ、あるニュースがヒットした。それは、身元不明少女が丘の上で自殺したというものだった。死因は大量出血によるショック死と判断されたが、その肝心の傷痕がひび割れのようだったらしい。少女は自分の首を何らかの方法で炸裂させ、死んでいた。
その少女の名前や具体的な現場の地名などは書いていなかったが、調べていくとすぐにそれがどこかわかった。そして、少女が誰かも――。
確かに、彼女の姿ははもうずっと見ていない。メールをしても返信はないし、電話も繋がらない。一度家に訪ねてみたりもしたのだが、なぜか出てきたのは見たこともない太った別の少女だった。
一体、自分たちが一緒に遊んでいた少女はどこの誰だったのだろう。何故、彼女は不登校の生徒の名を語り、そして死んでしまったのだろうか。真矢は激しく混乱したけれど、ここで動揺してはダメだと強く思い直し、作業を続けた。
ここ二ヶ月あまりの妙な事件が、何だか全て繋がっているような気がした。
具他的にどんな理由でと問われれば、答えに困るのだけれども、自分と長年付き添ってきた勘がそう確信を持って述べている。
このひび割れが“触れない男”に関係するものであるのならば、これがある場所にあの連続殺人犯が訪れる可能性は十分にある。他にもひび割れや人体自然発火などの珍妙な事件はいくつがあったが、連続殺人鬼が姿を見せたのは、全てこの明社町の中。だとすれば、南の中心街よりも彼女の死に場所に姿を見せる確立のほうが高いだろう。
「ここに行けば、犯人の顔を撮れるかも……」
真矢は井上梨里子を、そしてゲーセンで出会ったあの子の顔をまぶたの裏に浮かべた。
この連続殺人鬼は、絶対に許すわけにはいかない。どんな手口を使っているのかは知らないけれど、絶対にその手がかりを掴まなければ。そうでなければ、彼女たちが浮かばれない。
危険なことをしているという高揚感は確かにあったが、それ以上に、真矢は犯人が許せなかった。
他人が自分の家に無理やり踏み込み、手当たり次第に荒らしまわっているような気がして我慢がならなかった。
確か、現場の丘の近辺には飲食店がいくつかあったはず。
真矢は床の上に置いていたカバンを引っつかむと、颯爽とした足取りで、プレハブの扉を開けた。
家に帰ると、珍しく父が先に帰宅していた。
気分がいいのか、口笛を吹きながらフライパンで何かを炒めている。
僕は荷物を部屋に置き手を洗うと、すぐにリビングに戻り彼に話しかけた。
「今日は早いね」
「ん? ああ。ちょっとな」
「何かあったの?」
椅子を引きながら探りを入れる。右側のテレビには、世界のハプニング映像を特集している番組が放送していた。
父はちろりと確認するようにこちらを覗いたあと、
「病院から連絡があったんだよ」
「病院?」
病院と聞いてまず頭に浮かぶのは母の顔。僕は思わず体を緊張させた。
「ああ、心配するな。母さんに何かあったわけじゃない。むしろ逆だ」
「まさか、意識が戻ったの?」
「戻ってはいない。けど、いい兆候が見られたそうなんだ。少しずつ、記憶が回復しているらしい」
「え、本当に?」
「ああ。まだしっかりとしたことは思い出せないそうだが、今の自分の状況に対しては理解し始めているそうだ。俺が佳谷間行人だってことも、認めてくれそうな気配があった」
それは、父にとってこれ以上ないほどの朗報だろう。なぜ彼がご機嫌なのかわかり、僕はほっかりとした気持ちになった。
「そう。よかった。でも、何で突然?」
「う~ん。それがな。医者にもよくわからないらしい。確かにこの町に来てから愛子の体調はよさそうだったけれど……うん。やっぱり環境っていうのは大事なんだろうな」
柄にもなく明るい声を出す父。気のせいか、いつもよりも饒舌である。よほど母の回復が嬉しいのだろう。
僕は過去に自分がしてしまったことで、彼女に強い負い目がある。母の記憶が戻ることに対しては少し恐怖心もあったが、やはりそれは嬉しい事実だった。
父のことだから当然姉の御奈には既に連絡しているのだろうが、それでも事実を伝えたくなり、僕は彼女にメールを送った。しばらくして、すぐに返信があった。父にも負けない、テンションの高い文章だった。
端末をテーブルの上に置き、鼻歌を歌っている父を見上げる。
「料理、手伝おうか」
「いいよ。それより、ポストを見てきてくれないか。まだ確認してないんだ」
「わかった」
僕は立ち上がり、廊下に出た。
扉に備え付けられているポストを内側から開け、中のものを取り出す。料金徴収の連絡に、美容室のパンフレット。その中に混じって見慣れないカラフルなチラシが入っていた。
何だこれ?
一番前に持ってきてざっと流し読みをする。どうやらそれは、絵画展の紹介のようだった。地域活性化の一環としてどこぞのお偉いさんが一般公募の展覧会を開催しているらしい。場所は国立公園のある中心街、赤崎のほうだった。
僕は自分の部屋のほうを振り返った。少し前に書いた海と空の絵。できれば応募してみたかったが、あれではとても投稿できるような段階に達していない。もう少し早く知っていればなと、残念に感じた。
手に取った書類をまとめ、リビングに戻る。
今日はもう“カナラ”が疲労しているから行動はできないが、明日ならすぐにでも例のサービス業者の女性とコンタクトを取れるはずだ。母の吉報で気分がよくなっていた僕は、物事が順調に進んでいることに満足感を覚えていた。
この後、あんな悲惨な事態になるなんて、夢にも思わずに――。
4
一之瀬刑事の記憶から僕たちは“触れない男”の遺体を回収した女性の個人情報を手に入れた。
深見明菜、三十七歳。例の献体サービス業者の一員で、明社町地区の担当者。彼女はどうやら赤崎に住んでいるらしく、そこから研究所に通っているようだった。
電話を入れて会う約束を取り付けることは難しいだろうから、僕と千花は直接彼女の家を訪れることにした。“カナラ”の現象さえあれば、証拠の隠滅なんて簡単だ。記憶を消せばいいだけだから、彼女自身や“触れない男”たちに知られることなく、情報を引き抜くことができる。
だが、勿論油断はできない。もし彼女が“触れない男”たちと深く関わっているのであれば、“カナラ”の現象についてもある程度の知識は手に入れているはず。のこのこと会いに行って、少しでも疑われれば、いきなり背後から頭をかち割られるという可能性も十分にありうる。疑いをもたれるよりはやく、なるべく短期に行動を起こし情報を盗み取るのが、今回の作戦の肝だった。
千花とは赤崎駅で合流する予定だったが、改札を出てしばらくまっても姿が見られなかった。端末を確認したところ、どうやら寝坊したらしい。次の電車でこっちに来るとあった。
前々から思っていたが、彼女は少し時間にルーズなようだ。てっきりカナラの影響かと考えていたのだが、この分ではそれが事実かどうかは疑わしい。
僕はため息を吐きながら周囲を見渡した。本屋などで適当に時間をつぶそうと思ったのだけれど――ふと、見覚えのあるものを発見した。
そうか。そういえば展示会やってるんだっけ。
駅の壁に昨日家で見たポスターとまったく同じものが貼ってあった。会場はここの四階のようだ。
少し興味を持っていたこともあり、僕は迷わずにエスカレータへと足を乗せた。一般公募なので有名人の作品が見られるわけではないけれど、この手のイベントは芸術大学志望の学生や趣味で絵を描いている老人などが、あっと驚くような興味深い作品を投稿することが多々ある。僕は勉強の意味もこめて、それらの作品にぜひ目を通してみたいと思った。
駅ビルの四階は本屋やカフェなどが設置された、比較的静かな場所だった。だからこそ、展示会の会場にも選ばれたのかもしれない。
扉のないそのスペースは、通路からどうどうと中の様子を確認することができた。
お客は予想通りほとんど姿が見えず、二人の先客だけが面白そうに飾られた絵を眺めている。
真っ白な壁や台座におかれた絵の数々は、ここからでも非常に面白そうで、僕はわくわくした気持ちで中に足を踏み入れた。
しばらく夢中になってそれらの作品を見て回っていると、ある絵が目に留まった。
紫と青、そして白色の小さな花が、天に向かって立ち上っているような絵だった。鮮やかな色合いを魅せる花弁とは違い、茎や葉には何の着色もなされていない。まるで全ての存在はその花弁のためだけに存在しているとでもいいたいようだった。
なんという花なのだろうか。
趣味の関係上、それなりに種類は知っていたけれど、この作品に書かれた花の名前は知らなかった。なんとなく見覚えはあるのだが。
そんなことを考えていると、ついと背後から声が聞こえた。
「――それはヒソップという花なんだ」
渋い、熟練の俳優を連想させるような声。振り返ると、小奇麗な茶色のジャケットを着た男が立っていた。白髪まじりの短い髪をオールバックにした、かっこいい老人だった。先ほど確認した客の一人だ。
いきなり話しかけられて戸惑ったものの、何も言わないのは失礼だと思い、僕は言葉を返した。
「どういう花なんですか?」
老年の男は嬉しそうに頬を緩めながら、
「ハッカのような香りがする常緑樹でね。古代ギリシャやローマでは聖なる植物とされ、日本でも寺院などを清めるために利用されているものなんだ」
「聖なる植物?」
「そう。キリストが磔にされたときに下に生えていたとか、色々な逸話はあるんだけれど、私はこいつの花言葉が気にいっていてね。この花は“浄化”を象徴しているんだよ」
「……へえ、詳しいんですね」
何だか妙に説明じみた口調に、僕は違和感を感じた。僕の考えに思い至ったのか、男は微かに笑いながら自己紹介を始める。
「おっと、失礼。私は折壁誠司と言うものだ。この展示会の主催者だよ」
「え、あなたが?」
「なに。直接皆さんの反応や意見を聞いてみたいと思ってね。最近はパソコンが普及したせいで、絵の具や鉛筆をつかった絵の文化が衰退しつつある。ぜひ昔ながらの絵の良さを再認識して欲しいと思って企画したんだけれど、……これほど人通りが少ないとは思ってもみなかったよ。一応、住民は多いはずなんだが」
自嘲するように、折壁は乾いた笑みを浮かべた。
「このあたりは工業の町ですからね。昼間は街を歩く人もほとんどいないし、休日はそれなりに人が出歩くみたいですけど、みんな映画館やショッピングモールのほうに行ってしまいますから」
「ふぅむ。まあ、予想はしていたんだがね。やっぱり寂しいものだよ。ここまで興味を持たれないと。文化の終焉が近づいていることを思い知らされる。まあ、作品を投稿してくれた方々は、結構見に来てくれてはいるんだがね」
折壁は自嘲するようにため息を吐いた。
「さて、せっかく来てくれたんだ。君の意見を聞かせてもらえないか。――……この絵、実はこれは私が描いたものなんだが、どう思う? 別に深くこだわった感想なんて考えなくていいから、思ったまま聞かせて欲しい」
その言葉に再度驚く。この老人は本当に絵が好きなようだった。
「そうですね……」
一生懸命に小難しい単語を考えてみたが、それを文章にしようとするとどうしてもちんぷんかんぷんな言葉となってしまう。素人が下手な表現をしても意味はない。結局、僕は思った通りに答えることにした。
「何だか花を咲かせるためだけに、それ以外の全てのものが存在しているように見えますね。水も、土も、草も、茎も、もぬけの殻みたいに見える」
「ほう。なるほどなるほど」
何が嬉しかったのか、折壁は白い歯を覗かせ、軽く頷いた。
「絵の評価なんてものは人それぞれだ。描いた人間、見た人間、それぞれが独自の解釈をすればいい。誰かに固定されたり、強制されたりするようなものじゃない。だって、“見ている”のは自分なのだからね。……まあただ、今の君の感想はとても私の狙いに沿ったものだった。伝えたいように伝わってくれることほど、喜ばしいことはない。君、結構絵をよく見るのかい?」
「いえ、あくまで人より少し多い程度ですけど。母が画家だったもので」
「ほう。お母さんが。なんていう名前かな」
「そんなに有名な人じゃないですよ。ほとんどアマチュアのようなものです。売れ行きも良くなかったし」
「そうか。もしかしたらどこかで会っていたかもしれないなぁ」
折壁は感慨深げに自分のあごひげを撫でた。その仕草が妙に様になっていて、やぱり俳優みたいだなと思った。
ズボンの後ろポケットに入れた端末が、ブルブルと震える。取り出して画面を見ると、千花からだった。
「あの、すいません。ちょっと電話が……」
「ああ、いいよ。こんな冴えないじじいの話に突き合わせてしまって悪かったね。また気が向いたら見に来てくれ。展示会は今週いっぱいはやっているから」
「はい。是非」
僕は気のいい笑顔を浮かべている折壁にお辞儀をし、展示部屋から出た。すぐに通話ボタンを押し、それを耳に当てる。
「あ、やっと出た。穿くん今どこにいるの?」
「駅の四階だけど、千花は?」
「今改札を出たところ。そっちに行こうか?」
「いや、いいよ。そこで待ってて僕が下に行くから」
中年の夫婦が、珍しいものを見るように展示会場の中に入っていく。すぐに、折壁がニコニコとした表情でそれを迎え入れた。
僕は端末をしまうと、エスカレータに向かって、小走りに歩き出した。
5
「この家だね」
緊張した表情で千花がこちらを見る。僕は頷き、古びた一軒家の扉に目を向けた。
「じゃあ、千花いいかな」
「うん。お願い」
集中するように目を閉じる千花。一呼吸置いたあと、僕は彼女に呼びかけた。
「“カナラ”手を貸して」
事前に“カナラ”から指示された通り、“蟲喰い”を発生させるときの要領で手に意識を集中させる。すると不思議なことに、手を伝わって千花の存在をより強く感じることができた。
自分が千花の、周囲の空間の一部になったかのような。周囲の全てとの境がなくなったかのような、そんな妙な気分になる。
自分の意識と千花の意識が近づいていく。自分の体の輪郭があいまいになり、どこからどこまでが僕で、どこからどこまでが千花なのか、地面なのか、外なのか、理解できなくなり始めたところで――
千花がキョトンとした声をもらした。
「――あー……おはよう。穿」
「おはよう。“カナラ”」
僕は頭のもやを振り切るように、そう言葉を返した。
「どうしたの? あー」
僕の記憶を読んでいるのだろうか。何かを答える前に、“カナラ”は勝手に納得し、頷いた。
「お願いできる? “カナラ”」
「……約束だからね。わかった」
彼女は自分の服装を気に食わないとでもいうように見回すと、腰に手を当て、僕の動きを待った。
「どなた?」
僕がインターフォンを押すと、すぐにスピーカーから声が聞こえた。一之瀬刑事の記憶にあったのと同じ声だ。
「あの、すいません。娘さんの友人ですが……」
彼女に中学生の娘がいることは知っている。僕はなるべく親しげのある雰囲気をがんばって作った。
「あら、萌香の友達? ごめんなさいね。今日は友達と遊びに行ってて」
「あ、そうなんですか。じゃあ、これ、お渡ししていただけますか? ノートを借りていたんですが」
「ノート? ちょっと待っていてね」
こうして会話をしていると、ごく普通の主婦のように思える。彼女が“触れない男”たちの協力者だとはとても信じられなかった。
金属音が響き、ドアノブが曲がる。隙間から、髪を後ろにまとめた深見が姿を見せた。こうしてみると、確かに年を感じさせない容姿をしている。エプロンをしているところを見ると、夕食でも作っていたようだ。
「ごめんねぇ。こんな格好で、お茶を出すから上がって下さい」
「いえ、そんな悪いです。大した用事ではないので」
「遠慮しないで。萌香もたぶんちょっとしたら帰ってくるから」
「いえ、本当に気にしないで下さい」
そういうと同時に、“カナラ”が彼女の目を見つめた。深見は一瞬目を見開いたが、すぐにとろんとしたような表情を浮かべる。
僕は“カナラ”の手を取り、記憶の透視に入った。
「一気に行くよ」
全てが見えているような、全てが見えていないような視界の中で、彼女の声が聞こえる。僕が何かを言う前に、雪崩のように映像が飛び込んできた。
「本当に、よろしいのですか? 稲生さん」
「ええ。構いません。本人が招いたことです。そりゃあ、家族としての情はありますが、今の立場というものもある。この男の馬鹿な行為のせいで、それを棒に振るわけにはいきません。私の肩には多くの協力者の生活がかかっているのですから」
「わかりました。では、そのように手続きを進めます」
あっさりとした稲生の態度に拍子抜けしつつも、自分が首を突っ込むことではないと思い直し、素直にそう返事をする。深見の顔を見て、テーブル越しの稲生は満足そうに頷いた。
必要な書類を受け取り、手早くそれを確認する。あまり経験のない事例なので、少し戸惑ったものの、親とは思えないほど淡白な稲生のおかげで問題なく処理を終わらせることができた。
深見は書類を封筒にしまうと、仕事顔を上げた。
「それでは、以上で手続きは終了です。もし何かございましたら、お渡しした資料の番号におかけください。よろしいでしょうか」
「ああ。問題ない。警察にはその書類の通りの説明をお願いします。ただ、深見さん。ひとつだけ注文をしてもよろしいでしょうか?」
「と、申されますと?」
「忠志の遺体は、内密に指定の場所へ移送して欲しいのです」
「え? どういうことでしょうか?」
稲生は口元のちょび髭を愛しむようにさすった。
「あくまで私の立場としては、犯罪を犯した息子の死を公にすることはできません。警察の方々にも、行方不明ということにしていただいてますからね。ですが、それが公にならないのであれば、話は別です。支援者たちの目がない場所であれば、彼を弔ってあげることもできる」
「つまり、ご家族だけで葬儀を行いたいと言うことでしょうか」
「そういうことです。直接私の家に運び込めば家政婦などに怪しまれてしまいますので、一時的にダミーの家に収納します。そこからはこちらで運び出しますので」
「ちょ、ちょっと待ってください。そんなこと、私の一存では……」
深見はあくまでパートとして遺体搬送を行っているだけの人間である。こんな重大なことを警察を騙してまで実行できる権限や度胸などなかった。
「勿論、お礼は弾みますよ。献体サービス業者にではなく、あなた個人にね。これくらいでどうでしょうか」
稲生はテーブルの上に端末を置くと、手馴れた様子で指を動かした。そして、そのまま画面をこちらに向ける。
その額を目にし、深見は驚愕した。
「こ、こんなに……!?」
「母親一人で娘を育てるのは大変でしょう。昼は研究室に篭って事務作業。夜は寝る間も惜しんで死人とデート。これだけあれば、かなりあなたの生活の励みになると思うのですが」
自然と、つばが喉に流れ込む。
こんなお金は入らないと断るべきなのはわかっていた。もっともらしい理由を述べてはいるが、このお金には立場や建前だけではなく、得体の知れない危険な気配がある。何年か前の自分だったら、迷わず断っていたはずだ。リスクよりも、恒常的な幸せのほうが価値は高い。
だが、深見は考え込んでしまった。
ちやほやされていた若い頃ならともかく、最近は見る見るしわの数も増えている。同期で仕事をしていた同僚の女性たちも、日に日に数を減らし、今では数えるほどもいない。別に年齢制限があるわけではないけれど、このままではいずれ昼の仕事を失うことは明白だった。夜の献体運送だけでは娘を養っていくことはできない。今後は予備校、大学受験と、尋常ではないほど資金が必要になる。ただでさえ、睡眠不足のせいで最近は体にがたがき始めているのだ。手に入るのであれば、お金は多いに越したことはない。
まるでこちらの葛藤を見通すかのように、稲生は言葉を差し込んだ。
「狭い県です。有力者ともなれば、お互いがクラスメイトのように顔見知りとなる。あなたが私の提案を呑んでくださるのなら、生活保障や大学推薦の件で多大な協力を行うことも可能でしょう。ただし、協力していただけないのであれば、私の評価は著しく下がってしまいますが。例えばあなたが勤めている研究所の所長は旧知の仲でしてね。よく愚痴を言い合うんですよ。使えない職員の話なども、頻繁に耳にします」
これではまるっきり脅しではないか。穏やかそうな顔をしてとんでもないことをのたまう稲生に、深見は愕然とした。
今職を失えば、年齢的に新しい仕事にありつける可能性はほとんどない。せいぜいスーパーのレジか、ビルの掃除くらいなものだろう。どちらも、娘を養っていくほどのお金は稼げない。
こんなつまらないことで生活を失うわけにはいかない。相手は政府の人間なのだ。言うとおりにしてリスクを負うか、言うとおりにしないで余計な嫌がらせを受けるかでは前者のほうが圧倒的にいい。
ただ、彼の息子の遺体を別の場所に移送するだけ。それだけで全てが丸く収まる。
まるで誘導されているかのように、気がつけば、深見はこっくりと頷いていた。
一度決まれば、あとはとんとん拍子だった。
警察署で稲生忠志の遺体を受け取った深見は、その足で指定された駐車場へと移動した。どうやって見つけたのかは知らないが、不自然なほど人の気配がない場所だった。
深見がつくなりに、目の前のバンがライトを点滅させ、二人の男が姿を見せた。暗くてよく見えなかったが、どちらも肩に大きななできものがあり、異様な雰囲気を漂わせていた。
彼らは深見から遺体を受け取ると、別の遺体袋を運んできた。顔を覗くと、驚いたことに稲生忠志そっくりに整形が施されていた。
たどたどしい口調の男たちからお金を受け取った深見は、その足で研究所の火葬場まで移動し、どこの誰かもわからない男の死体を燃やした。
まさかこんな方法をとるとは思いもしていなかったので、ばれてしまわないかという不安感と、見知らぬ人間を焼いているという恐怖で心が押しつぶされそうになった。
たった一度。これさえ乗り越えればあとは全てが上手くいく。そう思っていたのだけれど、現実はそれほど甘くはなかった。
稲生は息子のときの取引をネタに、それからも数度、遺体の偽装を指示してきた。当然、深見は抗議したのだけれど、例の遺体すり替えに稲生が関わっていたという証拠は何もない。警察内での手続きは全て終わっている。結局、犯人として挙げられるのは自分だけだと諭され、深見はしかたがなくいいなりになった。高校生、中学生くらいの少女たちに、変なできもののついた男たち。奇妙な遺体ばかり回収させられた。
見知らぬ遺体をすり替えるたびに、深見の講座には莫大な金が入ったが、それが増えていくと同時に、自分の中で何かが削れていくような錯覚を覚えた。三人目の遺体を運んだときには既に、指示を出す相手は稲生ではなくなっていた。どうやら彼も脅されていただけらしく、それ以降は無機質な合成音声が、直接細かな命令をしてくるようになった。
毎度毎度献体契約の遺体を火葬すれば、研究所に怪しまれる。すぐに自分の所業が公になると深見は思っていたのだが、電話の主はその願いをあっさりと否定した。
どういうわけか、赤崎から明社町にかけての葬儀場が、ことごとく休業し始めたのだ。その間にも遺体は出続けるから、政府の指示で自然と研究所の火葬設備が利用されるようになり、深見はどうどうと遺体を運べるようになった。
最初のころは葬儀にも正式な住職が参加していたものの、そのうち代理として修玄と名乗る男が姿を見せるようになった。彼は電話の主と古い知り合いらしく、遺体が発見された場合は大抵彼が“有益”な遺体かどうか選別し、すり替える手はずになっていた。
家に帰り、娘の目をまともに見れなくなったころ、深見は自分が深い蟻塚にどっぷりとはまってしまったのだと、今更ながらに悟った。
千花の手が離れると、僕は脳内に反芻された光景の衝撃に、動揺した。
相手の手口の陰湿さもそうだが、何より驚いたのは深見の記憶に“修玄”が出てきたことだった。それも、“触れない男”たちの黒幕とかなり近い存在として。
「まさか、あの人が……?」
思わず声に出る。
親しみを持っていただけに、ショックは大きかった。
「ねえ穿。この人どうするの?」
力のない表情を浮かべている深見を指して、“カナラ”が能天気に聞く。僕が答えずに入ると、彼女は面倒くさそうに再度僕の名前を呼んだ。
「穿ってば」
僕ははっとし、指示を出した。
「僕たちがここに来た記憶を消して。普通に家事をしていたことにするんだ」
「はいはい。りょーかーい」
千花が彼女の目を見つめると、深見はふらふらとした様子で回れ右を始めた。そのまま、僕たちなど存在していないかのように、奥へ戻っていく。火をつけっぱなしだったのか、少し焦げ臭い臭いが漂っていた。
目的は達成した。まずはここから離れなくてはならない。
「行こう。“カナラ”」
僕は彼女の肩を叩き、すぐに家の敷地から出た。少し歩いたところで、路地から中学生くらいの少女が姿を見せる。僕たちとすれ違ったあと、彼女は自然な動きで深見の家に入っていった。
「ありがとう“カナラ”。ちょっと千花に代わってもらえる?」
「ええ、もう終わり? つまんないの」
「ごめん。大事な話があるんだ」
しぶしぶといった感じで意識の奥に引っ込む“カナラ”。力の抜けた表情が一気に引き締まったものに変わり、僕は千花の意識が戻ったことを読み取った。
「――うーん。穿くん……?」
頭がはっきりしていないのか、眠気眼でこちらを見上げる千花。子供のように手の裏でまぶたを掻いている。
彼女の視線が定まるまで我慢して、僕は“聞き込み”の結果を伝えた。
「修玄さんだ」
「え、なに?」
「深見さんは利用されただけだった。修玄さんが“触れない男”たちの協力者なんだ」
「修玄って、あのお寺の人? この前会った……」
「そう」
僕は頷いた。
「あの人が?」
信じられないのだろうか。千花は疑わしげに僕の顔を覗いた。
「“カナラ”が記憶を読んだから間違いないよ。修玄さんが手引きして、“触れない男”たちの遺体を特定してた。かなり黒幕に近い人間なんだと思う」
そんな……じゃあこの前のお寺の裏での話、もし聞かれてたら……」
「周囲に人の気配はなかったから大丈夫だとは思うけど、油断はできない。調べるなら、早めに動かないと」
僕がそう言うと、千花は神妙な表情で頷いた。
「そんなに長い時間入れ替わってないから、もう一度くらいなら“カナラ”も出てこれると思う。すぐにお寺に行こう」
「ああ。そうだね」
もし修玄があのときの会話を盗み聞きしていたら、もしくは僕たちに不信感を抱き、個人情報を探っていたとしたら、既に“カナラ”の関係者の候補として疑いを抱かれているかもしれない。そうなる前に先手を打たなければ。
幸い今のところ、妙な視線やおかしな出来事はない。何かが起きる前に、“カナラ”の現象で黒幕の情報を引き出し、彼の記憶を改ざんしたほうがいいだろう。
僕はすぐにでもお寺に向かおうとしたのだが、――そのタイミングでどこかから着信音が鳴り出した。千花が首を振る。意識を集中させるために電源を切っていたのだろう。僕はポケットから端末を取り出した。
緑也やスタイリッシュたちだろうか。今は遊んでいる場合ではないのだが……。
画面には日比野真矢と表示されている。一瞬迷った後に、通話モードを起動した。
「日比野さん?」
しかし彼女は答えない。妙な息切れ音だけが聞こえる。
「日比野さん? どうしたの?」
「――せ、……せん、くん」
何やら様子がおかしい。僕は違和感を抱いた。端末を耳に当て直して意識を集中する。
「どうしたの? ちょっと聞こえずらい……――」
「――助けて……!」
まるで風が止まったかのように、はっきりとその単語が耳を突き抜けた。
「追われてるの。あたし、連続殺人鬼のこと調べてて……」
――まさか。
一瞬にして全身の神経がざわつく。酷く、嫌な予感がした。
「日比野さん、今どこに――」
「下田病院の、近く。穿くん聞いて。あいつ何かおかしいの。お願い、千花に……――」
何か鈍い音が響く。そして、大きなものが倒れる音。
「日比野さん? ……日比野さん?」
何度呼びかけても返事はない。奇妙な口笛の音だけが雑音混じりに届いた。
「どうしたの?」
不思議そうに千花がこちらを向く。だが、答えることができずに僕はその場に立ち尽くした。
小さくうめく声。そして近づいてくる口笛の音。
次の瞬間、耳を劈くような女性の悲鳴が聞こえた。
痛い、痛い、痛い。
と、泣き叫ぶ声。それはまるで定期的に苦痛を与えられているかのように、断続的に流れた。




