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浄我の形(じょうがのかた)【改稿前】  作者: 砂上 巳水
虚偽不還(きょぎふげん)
25/41

第二十五章 白い少年

【2015/10/18】

この章の内容を変更しました。

ご了承ください。



「お待たせ~」

 涼やかな声が聞こえたので、顔を上げる。視線の先には、いつものように控えめな笑みを浮かべた千花が立っていた。

 彼女は僕の向かいの席に腰を落ち着けると、タピオカブレンドのカフェオレを注文した。店員の女性が緩やかな足取りで調理室へ戻っていく。彼女の後姿を眺めつつ千花がしんみりと呟いた。

「今日はいつもよりも涼しいね」

「そうだね。雨上がりだからかな。昨日の夜に降ったみたいだけど」

「外を歩くにはちょうどいいね。……それで、穿くんが考えた方法って?」

「……まあ、当然のことなんだけど。今の僕たちの状況から考えて、“触れない男”たちに繋がる手がかりは本田克己の遺体の行き先だけだと思う。だから事件を担当していた刑事に連絡して、その行き先について聞けないかなっと思って。向こうの捜査の関係上、警察署に出向くことは不自然じゃないだろうし、被害者である僕たちになら、ある程度の情報提供も行ってくれるかなって」

「教えてくれなかったら? あの人、そういうの厳しそうだったけど」

「できるだけがんばるさ。それでも駄目だったら――他の方法を考えるしかない」

 まず取っ掛かりの方法として、僕は“触れない男”の姿を再び見たと伝えることを提案した。警察は実際にあの男に接触してはいない。皐月さん誘拐未遂のときに遭遇した僕と、実際に誘拐されかけた千花がそろって目撃情報を言えば、一之瀬刑事としてはたとえ眉唾に思っていても無視はできないはずだ。実際に彼らの仲間が連続殺人を行っているのならば、町を移動する警官が増えることは非常にやりずらいはず。少しは障害になるかなと考えてのことだった。そのついでに上手く本田克己の遺体の行き先を聞き出すことが本当の目的だ。

 ある程度話す内容を決めたあと、僕は一之瀬刑事に電話をかけた。番号は千花から教えてもらった。

 彼は最初は驚いていたが、打ち合わせたとおり、“触れない男”に似た人物を見たと証言すると、十分に興味を持ってくれたようだった。

 僕としては明日か明後日で、一之瀬刑事が暇な時間帯に会えればよかったのだが、運がいいことにちょうど午後に時間の空きがあったらしく、十八時に警察署で会うことになった。

 電話を切り、僕がその胸を伝えると、千花緊張した面で頷いた。



 とりあえず午後までは暇なので、連続殺人事件の現場でも調べようかと外をぶらつくことにした。あのままあそこでじっとしているよりは、こうして歩いていたほうが千花も昨日言いそびれた話をしやすいかと思ったのだ。適当な雑談は盛り上がるものの、なかなか本題に入らない。僕の方から聞こうかと思ったところで、あるものが目に入った。

 色鮮やかな着物に立ち並ぶ屋台。まだ昼前だというのにも関わらず、多くの人間が集まっている。祭りだ。

「そっか。そういえば今日だったね」

 はっとした表情で、千花が呟いた。

 そういえば、ここには大きなお寺があった。瑞樹さんの葬儀を行ったのも、確かここだ。

 祭りか。そういえばもう何年も行ってないな。

 一之瀬刑事との待ち合わせにはまだ何時間も猶予はある。せっかくだし、少しくらい見てみようか。

「寄っていく?」

 僕がそう聞くと、彼女はほほをほころばせながら頷いた。

「うん!」

 色とりどりの人垣や走り回る子供たちを見ていると、何だか花火の中に飛び込んでしまったようだった。普段は灰色っぽいこの町が凄く色鮮やかに見える。

「あ、ヨーヨーがある。やろうよ、あれ」

「あ、ちょっと千花」

 黒いスカートをはためかせながら、颯爽とひとつの屋台の前に移動する彼女。僕は慌ててその後を追った。

「金魚すくいも好きだけど、取った金魚って、何だか見ているとかわいそうになっちゃうからね。ヨーヨーだったら、何も遠慮することないし」

「まあ、わからなくないないけど」

「……あっ、失敗した! ほら、穿くんの番」

 塗れた糸をぷらぷらと揺らしながらこちらを振り返る。その笑顔だけを見ていると、何だか“触れない男”たちのことなんでどうでもよくなってしまいそうになった。

 僕は針のついた糸を手に取ると、それを黄色のヨーヨーにくくりつけられたワッカに向かって通そうとした。しかし何度やっても上手くいかない。

 少し強めに手を動かした途端、紙の糸はちぎれ針が下に落ちてしまった。

「あー、残念」

 クスクス笑いながら千花が僕の肩を叩く。何だか悔しくなり、ついついもう一度糸を買ってしまった。

 悪戦苦闘したものの、今度は上手く輪に引っかかりすくい上げることができた。が、手の上に置こうとした直前で糸が切れる。

「あ――」

 反射的に目を店のおじさんに向ける。彼は無言で頷き、右の手のひらをこちらに向けた。「いいよ」ということらしい。

 僕は軽くおじさんに会釈をし、それを受け取った。

 別にヨーヨーが欲しかったわけではないので、それを千花に渡す。ただ水をつめただけの水風船なのに、彼女は大事そうにそれを手の中に抱えた。

 そのまましばらくぶらぶらと二人で道を歩く。大きめなお寺の敷地を使った祭りであるため、賑わってはいたけれど、人が多すぎて歩けないといったようなことはなく、スムーズに進むことができた。

 隣を歩く彼女の横顔は、年相応の少女そのものだ。いつものように大人びた雰囲気もなく、またもや新鮮さを感じた。

「あれ、皐月ちゃん?」

 道の先を見て、千花が声を漏らす。いくつか屋台を挟んだ先、境内へと続いている階段の前に、着物を着た皐月さんとスタイリッシュが座り込んでいた。どうみてもデート中のようだ。

 視線に気がついたのか、スタイリッシュが顔を上げる。彼は一瞬ぎょっとした表情を浮かべたあとに、観念したように曖昧な笑みを浮かべた。

「あ、千花ー。おひさー」

 お気楽な調子で手を振り、腰を上げる皐月さん。僕たちはすぐに彼女たちの前へ移動した。

「二人も来てたんだね」

「まぁね。めったにないこの町の娯楽だもん。楽しまなきゃ」

 皐月さんは実にのんびりとした表情で千花に答える。僕はスタイリッシュへと顔を向けた。

「やあ」

「ああ。穿も来てたんだなぁー」

「偶然目に入ってね。そっちはやっぱり、デート?」

「まぁ、そういうことになるんかなぁ……」

 もじもじと自分の手をこすり合わせるスタイリッシュ。何だか初めて恋をした中学生のようだ。

「てか、お前もそうだろ?」

「いや、僕は……」

 デートのつもりはなかったが、傍から見れば完全にそれである。千花がどういうつもりにしろ、ここで否定しても納得はされない。僕は複雑な思いで答えた。

「まぁ、そうかな」

「ふぅ~ん。まあ、お互い今更って気がするけどなぁー」

 意味ありげな視線をこちらに向ける。

「せっかくだし、一緒にまわるー?」

 スタイリッシュの腕に手を回し、皐月さんが首を傾ける。学校では見られないいちゃつきぶりだった。

「いいよ。二人の邪魔になるもの。また今度一緒に遊ぼう」

 僕のほうを軽く向きながら、千花はそう言った。

「ええ、気にしなくてもいいのにぃ。真矢も千花もそんな遠慮しなくても……」

「日比野さんも来てるの?」

 気になったので、聞いてみた。

「え、真矢は来てないよー。昨日誘ったの。同じような理由で断られちゃったけどさぁ」

「毎日学校に行ってるらしいね。何だか忙しそうだって聞いたけど」

「――ああ。真矢、何か調べものしてるみたいなんだぁ。ほら、今連続殺人鬼がどうとか噂になってるでしょう? ……何か知り合いがその被害にあったとかで……」

 どことなく重々しい表情で皐月さんは説明した。

 連続殺人鬼とは先日ニュースで見たあの事件のことだろうか。日比野さんは調べ者が得意だ。変に深入りしなければいいのいだが……。

 相手の危険さと彼女のことを考え少し不安になった。僕の表情を読んでかスタイリッシュが声をかける。

「まあ、いつもの趣味だろうなぁ。犯人の手口がオカルトじみてるらしいんで。そんな心配することないって」

「オカルトじみてるって?」

 これは千花。

「被害者がどう見ても大型の凶器を使わなきゃできないような死に方をしていたんよ。あと、何だっけ? 現場付近で目撃された人物の輪郭が妙に影に覆われてて見えなかったとか……」

「影? 暗いところに居たってこと?」

「裏路地で目撃はされたみたいなんだけど、それでも不自然なんだって。昼間なのにまるで夜の中にいるような……、まあ、俺も日比野の受け売りなんだけどなぁ」

「ちょっと、スタイルくん。せっかくのデートであんまりそういう話はよそーよ」

 話がどんどんシリアスな方向に向かい始めたところで、皐月さんがふて腐れたようにスタイリッシュの腕を引いた。じーっと、彼の顔を見上げている。

「ああごめん。ちょっと脱線しすぎたなぁ。まあ、気になるんだったら、日比野に聞いてみ。いつもおあのプレハブにいるから」

「ああ。わかった」

 僕は明るい表情を作り、頷いた。

「さて、俺たちこのあと向こうの広場でやってる大道芸を見に行くつもりなんだけど……」

「私たちはいいかな。まだもうちょっと見て回りたいし」

「そうか。じゃあ、暇になったらまたみんなでどっか行こうか。せっかくの夏休みなんだからなぁ」

「そうだね。今度は植物園とか行ってみる?」

「ああ、北のほうにあるらしいね。面白そうだけど、蟲とか多そう」

 少し恐々とした表情で皐月さんが言った。

「じゃぁ、またなぁ」

 手を振り、階段の左方向に去っていくスタイリッシュと皐月さん。僕たちは何を言うともなく、その背を見送った。




 一通り店を観て回った後、僕たちは一休みするために丘上の本堂付近へ移動することにした。長い階段を上がるのは少しこたえたけれど、例の話をするのなら、人が少ないにこしたことはない。

 少し年季が入ってくたびれているものの、正面にあるお寺は実に立派なものだった。下の喧騒など意に介さないように、静粛な雰囲気が辺りに満ちている。

 ――ここに来るのは瑞樹さんの葬式以来か。

 あのときの様子を思い出し、僕は僅かに目を伏せた。棺桶に入った彼女の物言わぬ顔がまぶたの裏に浮かぶ。

 まるでただ寝ているだけのような、今にも起きて来そうな、彼女はそんな表情をしていた。僕の記憶には珍しい、静かな死に顔だ。

「あれ、君は……」

「あっ――」

 不意にさざ波のような心地よい声が聞こえた。黒い着物に古風な下駄。見覚えのある男が立っている。確か瑞樹さんの葬式で会った人だ。

「修玄……さん?」

「やあ、ご無沙汰だね」

 彼はちらりと千花の姿を見ると、

「デートかな? 可愛い子だね」

「いえ、違いますよ。たまたま近くを通ったら祭りがやっていたので」

「そうなの。お似合いそうなのに。――もうだいたい見て回ったかい?」

「ある程度は。修玄さんは……掃除ですか?」

 僕は彼の手の中にあるほうきを見てそう質問した。

「そうだよ。この時間は落ち葉が多くなるからね。それと、本堂にマナーの悪い人が行かないようにするための、見張りさ」

 茶目っ気のある表情で小さく歯を見せる。

「最近は物騒な事件が多いだろう? 寺のみんなは結構忙しくてね。だからこういう雑務は小坊主や僕のところに回ってくるんだ」

「お坊さんじゃないんですか?」

 不思議に思ったのか、千花が興味深そうにうかがった。

「うん。僕は居候いそうろうでね。ここで少し人生経験をつませてもらっている。――……っていうと何だかかっこよく聞こえるけど、本当は会社を首になって行き場がないから助けてもらってるだけなんだけどね。ここの住職とは前から知り合いだったから。まあ、次の就職先が見つかるまでの間だけだけどね」

「へぇー、そうなんですか」

「まあ、でも今のご時勢、ある程度大きな結果でも持ってないと、なかなか新しい仕事先が見つからなくてね。なかなか大変だよ」

 凄くしみじみとした調子で彼は軽く頷いた。

 風に揺らされて、数枚の葉が周囲に舞う。修玄はそれを眺めると、穏やかな瞳でこちらを見返した。

「……さて、二人の邪魔をしちゃ悪いし、僕はそろそろ向こうに行くよ。屋台を探してここまで上がってきたわけじゃないんだろう?」

「いや、僕たちは少し休憩したくて」

「そんなに照れなくてもいいよ。まあ、向こうにある本堂の敷地に入らなければ、ここはなかなか素晴らしいいこいの広場だ。好きなだけ涼んでいくといい。ただ、あんまり遅くまでいるのはダメだよ。さっきも言ったように最近は物騒な事件が多いし、祭りの時間帯がこんなに早くなったのもその影響なんだから」

「わかりました。気をつけます」

 僕は真剣に頷いた。

 修玄はそのまま回れ右をしようとしたが、急に思いとどまってこちらを振り返った。

「――そういえば、物騒で思い出したけど、影が多い場所には気をつけるんだよ。例の連続殺人鬼はそういう場所に居ることが多いらしいから」

「影?」

 どういうことか聞き返そうとしたが、既に修玄は門の向こう側へと消えていた。数枚の葉だけが、迷子ようにその場に舞った。



 寺の左方向に進むと、階下を一望できる場があった。半円を描くような手すりの前には石台があり、どうもそれが椅子の役目を果たしているようだった。

 下を覗くと、多くの人々が通りを行きかい祭りを楽しんでいる。

「みんな楽しそうだね」

 髪を耳に掛けながら千花が口を開く。白い髪留めが太陽の光に反射して一瞬きらめいた。

「そうだね。この町に着てから、これほどたくさんの人を初めて見たよ」

「私も浴衣着てくればよかったかなぁ」

「まあ、今度着てきてくれたら僕は嬉しいけどね」

「嬉しいの?」

 無垢な表情をこちらに向ける千花。

「それは、ほら、やっぱり女の子のそういう格好って、凄く可愛いと思うし」

「穿くんもそういうこと思うんだ」

 どこか意外そうにくすくす笑う。

 それっきり二人とも黙り込む。特に会話はなかったのだが、こうして二人で過ごしていると妙な心地よさがあった。千花もかなりリラックスしているように見える。

 僕の視線に気がついたのか、不思議そうに千花がこちらを見返す。僕は慌てて視線を階下に戻した。道行く人を眺めるフリをしながら、もう一度だけ彼女のほうに目を向けると、少しだけ微笑んでいるように見えた。それで余計に、僕は恥ずかしくなってしまった。

 どれだけそうしていただろうか。

 風がかすかに涼みを帯び、真下を歩いている人の数も増え始めた頃、ぼそりと、千花がつぶやいた。

「ねえ、穿くん。昨日の話、覚えてるかな?」

「……僕に嘘をついているってやつ?」

「そう」

 手すりを掴んだまま、彼女は振り返った。

「本当はもっと隠しておくつもりだったんだけどね。穿くんが“もう一人の私”を見ているなら、話しておいたほうがいいと思って」

「やっぱり、自分でも気がついてたんだね」

「それは、当然だよ。知らない間に服装が変わったり、違う場所に居たり、違和感を感じないほうがおかしいもの」

「いつから、そういうことになってるの?」

 僕は淡々とした調子で耳を傾けた。

「んー、いつからかなぁ。意識し始めたのは中学三年のときからだけど、たぶん、一番最初に起こったのは、あのときだと思う」

「あのとき?」

「私、中学一年の途中で引越したでしょ。それって、一度誘拐されかけたからなんだ」

 誘拐……。

 僕は五業との争いの最中さなかに見えた、幼い少女の記憶を思い出した。あれはやはり、千花のものだったのだ。

「知らない男たちに車の中に引き込まれそうになった瞬間気が遠くなって、気がついたら男たちは倒れていた。私が混乱したまま突っ立っていると、彼らは何かに乗り移られたみたいにふらふらと立ち上がって、そのまま車に戻っていって……たぶん、あれが最初」

「……その誘拐犯たちは、捕まったの?」

「ううん。警察の人にも協力してもらったんだけど、一向に手がかりがつかめなかった。でも、それから変な嫌がらせが相次ぐようになって、悪戯電話が増えたり、通学途中に人の視線を感じたり。私たちは引越しを決意したんだけど、その当日にまた変なことが起こったの」

 千花は心苦しそうに上を向いた。

「家でいくら待っていても、お母さんたちは帰ってこなかった。それで仕方がなく次の日に、私も新居に移動してみたの。もしかしたら向こうで待っているかもって思ったから。そしたら、どうなったと思う?」

 何も言わず、僕は彼女の言葉を待った。

「二人とも元気にそこで生活していたの。いつもと同じように夫婦睦むつまじく。私は何よと思って家の扉をノックした。一人娘をほうっておいて、どういうつもりなのか問いつめたかった。けどね。私の顔を見たあの人たちは、『どちら様ですか?』って言ったの。冗談でも嫌がらせでもなく、本当に始めて見る相手に対するように」

「……まさか、記憶が?」

「うん。お母さんも、お父さんも、私のことを綺麗さっぱり忘れていた。どれだけ私が訴えても、頭のおかしい子のようにこっちを見てきた。私は泣きながら引越し前の家に戻った。けど、そこにももう居場所はなかった」

 家には不動産屋の差し押さえが入り、それでも残ろうとすると、数日前に自分を誘拐しようとした男たちが姿を見せたのだと、千花は説明した。

「私は逃げた。必死になって逃げ続けた。行く場所も何もないから、乞食のように振舞って道路で寝ることもしょっちゅうだった。危ないと思うときも何度かあったけれど、その時に意識が遠くなって、気がついたら違う場所にいた。今になって思えば、あのときも彼女が出てきてくれたんだろうね。だから私は捕まらずに済んだ」

「じゃあ、君は今までずっと逃げ続けてきたの? その怪しい男たちから」

「うん。そう。蓮見なんて苗字も、お父さんが再婚したって話も全部でたらめ。本当は、私はただ逃げてきただけ。あの怪しい男たちから、もう一人の自分から」

「千花……」

 身内に存在を否定される痛みはよくわかる。愛する家族にその存在を否定されるのは、信じられないほどの苦しみだ。僕は、僕の過失によって母を壊し、彼女の記憶を奪った。けど千花は、彼女は何も悪くはない。何もしていないのに両親からその存在を否定され、意味もわからず謎の男たちから今日まで逃げ続けてきた。それは想像を絶する絶望だろう。

 話を考察するに、彼女の両親の記憶を奪ったのはカナラしかありえない。それがどっちのカナラなのかはわからないけれど、残酷な真似をするといきどおりを感じた。

「千花。君は何でこの町に来たの? 逃げようと思えばいつでも逃げれたはずなのに、何でこの明社町に残ってるの?」

「何でって、ここまで町を監視されて、急に姿をくらます人がいれば怪しまれると思うよ? ……町にきたのは……ただの偶然。まさかここで穿くんに再開して、こんな事件に巻き込まれるなんて思ってもみなかったけど」

 ごく自然な調子でうそぶく千花。僕にはその言葉が真実だとは思えなかった。 彼女がこの町に居て、僕に再会して、そして、カナラまで姿を見せた。これが偶然なんてありえるわけがない。

「僕は君のもう一人の人格に心当たりがある。彼女は“カナラ”だ。それも、僕と別れる前の幼い頃の」

「それって、“触れない男”たちが私だと勘違いしてるって人だよね」

「そう。五業の話によれば、彼らはカナラの起こせる現象に興味をもって、その身体を狙っていた。ずっと追いかけていた。たぶん、三年前のあいつも。だからもしかしたら、君に起こっている異常も、怪しい男たちから追われていた理由も、彼女が関係していたのかもしれない」

「……そっか。じゃあ、やっぱり完全な勘違いってわけじゃなかったんだね」

 どこか寂しそうに千花は目を伏せた。両手をお腹の前で組み握り締める。

 その表情があまりにも寂しそうだったので、僕は思わず彼女の手を取った。

「え、せ、穿くん? どうしたのかな?」

 キョトンとした表情のまま、一瞬にして顔を赤くする千花。僕はかまわずに手に力を込めた。

「千花。何で君の中にカナラがいるのかはわからない。けど、それが原因で追われているのなら、カナラさえ見つければ元に戻れる可能性は高い。君も君の両親も。確かに簡単なことじゃないけど、僕たちはもう三度あいつらから逃げ延びた。これからだってきっとできるはずさ。だから千花、諦めないで彼女を探せば……」

「穿くん、い、痛い」

 そこでようやく自分が彼女の手を握り締めていたことに気がつく。僕は慌てて手を離した。

「ご、ごめん」

 千花は片手を胸の前に持ち上げたまま、僅かに上気した表情でこちらを見上げた。

「大丈夫だよ、穿くん。別に落ち込んだわけじゃないよ。今まで私は自分が何で追われているのかも、何もわからなかった。ただ、逃げ続けることしかできなかった。でも、この町で穿くんに再会したおかげで、前に進むことができた。本当の私を知っているあなたに会うことで、大きく慰められた。だから、たとえどんなことがあっても諦めたりはしない。諦めなかったおかげで、こうして生きているし、穿くんに会えたんだから」

 まっすぐにこちらを見つめる彼女。僕はその瞳から目が離せなくなった。太陽のようなカナラの視線とは違う、はかないけれど、その中に強い芯の通った瞳。思えば、僕はずっと昔からその瞳に――

 頭に痛みが走る。

 急に脳の中で火花が散ったような気がした。

「せん、君?」

「ああ、何でもないよ」

 僕は前頭部を撫でながら丘の下に視線を戻した。気のせいか先ほどよりも僅かに人が増えたような気がする。

「また今後、ちゃんと時間があるときに来たいね」

 風に揺れた前髪を掻き揚げながら千花が微笑む。光が反射して、彼女の髪そのものが黄金色になったかのように見えた。

「ああ。そうだね」

 僕は心の波を押し殺すように、そう答えた。





 一之瀬刑事から電話が入ったのは、十七時半に差し掛かった頃だった。

 どうも車が故障してしまったらしい。この時間帯ではもう一時間に一本くらいしかバスがなく、特に今日は戻る必要もないから別のところで会わないかというお誘いだった。

 僕は別にどこでもよかったのだが、家に呼ぶのは色々と問題が生じるし、行きなれたカフェを知られるのもなんとなく嫌だったので、北区にある文化センターを利用することにした。緑也の知り合いが瑞樹さんをみたとかいうカフェが、あそこにはある。

 ちょうど北区にいたということもあり、僕たちはそのまま徒歩で文化センターまで移動した。ずっとあの菱形の建造物が見えていたからすぐに着けると思ったのだが、意外と時間がかかり、文化センターの前に到着したのは待ち合わせ時間の直前だった。

「やっとついたー」

 建物の前にある広場に足を踏み入れた途端、千花が小さく笑みを浮かべた。額にはいくつもの雫が浮かんでいる。

「意外と時間がかかったね。もっと近いと思っていたんだけど」

 そう答えながら、僕は周囲を見渡した。

 広場と道路の境目には奇妙なオブジェクトがいくつも並び、まるでイギリスにあるストーンヘンジのようだった。景観を良くするためだろうか。道路や広場の周囲には、桜の木々が並んでいる。

 僕の視線を追いながら、千花は後ろに手を組んだ。

「明社町には高い建物が少ないからね。結構遠くでも近くに見えちゃんだよ。今度来るときは自転車で来よう?」

「そうだね。そのほうがいいかも」

 もっともな意見だと思い、僕は頷いた。こんな炎天下の中、毎回へとへとになりながらここまで来る根性はない。

「あそこが入口みたいだね」

 自転車から降り、正面にあるガラス張りの入口を指差す千花。ひし形状のオブジェクトのちょうど真下に位置しているそこは、何だか宇宙船の入口のようにも見えた。

「じゃあ、行こうか」

「うん」

 入口をくぐり抜けロビーのような場所に出ると、そこはかなりの広さだった。休憩用の椅子や待合席のようなもの、マーライオンの偽者まで置いてあった。

 僕たちはロビーの中央にあったエスカレータに乗って上に向かった。吹き抜けになっているから、こうしてエスカレータに乗っているだけで屋内の全体を把握することができた。

「穿くん。あのひし形のところって、展望台になっているんだって」

「展望台?」

 いつの間にとってきたのだろう。千花は手に持ったパンフレットを読みながら視線を上に向ける。

「面白そうだね。時間があったら、あとで行ってみようか」

「そうだね。ついでに行ってみようよ」

 千花は緊張を押し隠すように笑みを浮かべた。

 三階ほど上がった頃だろうか。上にCalmeという看板が見えた。一之瀬刑事と約束している例のカフェだ。

 僕たちは緊張した面持ちで渡り廊下に出ると、お互いの顔を見合わせてからカフェの中に入った。

 店内に人はほとんどおらず、どことなく空気がからからしていた。奥のほうを見ると、しわくちゃのシャツを着た中年の男性が、一人で端末を弄っている。僕たちはなるべく自然な動きでそこに向かい、彼の前に立った。

「お疲れ様です」

「おお、来たか。まあ座ってくれ」

 一之瀬刑事はまるで自分の子供に接するようにフランクな笑みを浮かべ、手を向かいの席にうながした。座り際に彼の顔を見ると、薄っすらと伸びたひげが剣のようにぴんと張っていた。

 一之瀬は僕たちの顔を見比べると、端末を懐にしまった。

「悪いなぁ。前々から走行距離がまずいとは思っていたんだけどね。ここにきて急に調子が悪くなって。ま、君たちにとってはここのほうがリラックスできるだろ」

「ありがとうございます。わざわざすいません。急な申し出をしてしまって」

 僕は小さくお辞儀をした。

「それで、不審者の話だっけ?」

「はい。昼にもお話しましたが……先日、蓮上高校の付近で怪しい人影を見かけたんです」

「どんな人影?」

「全身黒づくめの服を着ていて、何だか“触れない男”にそっくりに見えました」

「はっきり見たの?」

 一之瀬は千花のほうに顔を向けた。

「はい。佳谷間くんと一緒に見かけたんですけど、確かにあの人でした」

「でもねえ、奴の死はもう確認されたでしょう。君も自分の目で見たと思うんだが」

「私もおかしいとは思います。でも、あれは間違いありません」

「ふ~ん」

 怪訝そうな表情で一之瀬は自分のあごを触った。こちらの話の真偽について、考えているのかもしれない。だがそれは別に構わない。疑われるのは当然のことだ。話の主軸さえそちらに持っていくことができれば、それでいい。

 僕は彼の目を見つめながら質問した。

「“触れない男”は確かに死んでいたんですよね」

「当然だ。こちらの検死官によって完全に死亡しているのが確認された。あれで生きていたら、ファンタジーだよ」

「遺体はどうなったんですか。あの人には身元引受人がいないと聞いたんですが」

「んん? ああ。最初は確かにどこの誰かもわからなかったんだが、途中で該当する人物が見つかってね」

「該当する人物? どんな人ですか?」

「そこまでは話す必要はないだろう」

「僕たちは被害者なんです。相手の名前や所属くらい、知っておく必要があります」

 少し押すようにそう言うと、一之瀬はため息を吐いた。

「確かにそういわれるとそうなんだが……。まあ、仕方がない」

 なにやら意味ありげな表情を浮かべたあとに、ゆっくりと口を開ける。

稲生いのうという男だ。もと県議員の一人息子でね。一度窃盗の容疑で拘束された際に指紋を取られたみたいなんだ。すぐに元議員に連絡を取り、DNA検査をしてみたんだがね。ぴったりと一致した。元議員にはそのまま引き取ってもらおうと思ったんだが……」

 ――DNAが一致? そんな馬鹿な。

 “触れない男”が本田克己であることは間違いない。僕が見た記憶は本物だった。あの記憶が嘘のはずはない。

 男が提供したDNAか、男自身が偽者なのだろうか。

 考えを巡らせていると、一之瀬は言葉を続けた。

「どうも稲生の息子、忠志ただしだったか? やつは生前に献体契約をしていたらしくてね。親御さんももう勘当扱いにしていいた息子だったから、それを快く了承し、特例としてすぐにサービス業者に引き渡すことになったそうだ」

「その、サービス業者というのは?」

「南の、大町のほうにある研究所だよ。そこが提供しているサービスだ。近くの医療系大学と提携して、その学術発展のために役立ってもらうんだと」

「へえ、そんな研究所があったんですね。知らなかったな。……じゃあ、遺体は研究所が持っていったんですね」

「正確には、研究所は仲介をしているだけだ。遺体の一時的な保存と収集。提供してもらった遺体は、そのまま各医療大学へ回すことも多いらしい」

「じゃあ稲生忠志の遺体もどこかの病院に運ばれたんですか」

 ごく普通に聞いたつもりだったけれど、その瞬間、一之瀬の瞳から強い力を感じた。肌の下をえぐるような、強引に滑り込もうとしているような異様なプレッシャー。

 僕は彼の剣幕に心臓を止めそうになったのだけれど、すぐに相手の視線は消えた。

「……いや、やつの遺体は火葬されたよ。調査の結果、遺体にとある症状が見られた。――拒絶反応だ」

「拒絶反応?」

 千花が僅かに身を乗り出して聞いた。

「臓器移植なんかでたまに起きる慣性拒絶反応さ。それも放っておいた時期が長かったせいか、感染症まで併発していた」

 臓器移植……?

 一瞬、和泉さんが口に出した“フランケンシュタイン”という言葉が頭をぎる。

「もともと事故死したせいで保存が困難な遺体だったこともあってな。サービス業者のほうからは遺体の返却が提案されたんだが、稲生はそれを拒否し、結果的に研究所で火葬を行うことになった。俺は立ち会わなかったが、ちゃんと寺の住職も呼んで、供養をおこなったらしい」

「そうなんですか」

 僕は頷いて見せた。顔を下に下げながら、今の話について必死にまとめる。

 どうやら千花が聞いた影響力のある人物というのは、稲生という元議員のようだ。確かにそんな地位にいた人間の息子が、誘拐未遂を行った犯人だとは知られたくないだろう。辻妻は合っている。合っているが、どうにも納得がいかない。

 指紋……DNA……それに、臓器移植による拒絶反応? 駄目だ。ぜんぜんわからない。もっと情報がいる。

 僕は机の下で指遊びを続けながら、一之瀬の顔を見上げた。

「火葬は研究所の中で行ったんですか? そういう設備があるんでしょうか?」

「仮にも人体の研究を行っている場所だからな。存在は否定しないが――」

 そこで一之瀬は腰を後ろに引いた。

「……随分と“触れない男”の遺体に興味があるんだな。確か君たちは情報提供をしにきたはずだったと思ったんだが」

 その言葉の鋭さに息がとまる。口調も表情も穏やかだったが、有無を言わさぬ何かがあった。

 これ以上続ければ明らかに不審に思われるだろう。だがそうなると、身分を偽造している千花がまずい状況になってしまう。もし警察内に“触れない男”たちの協力者がいれば、それだけでアウトだ。

 非常に悔しいが、仕方がなくそこで引き下がることにした。

「すいません。あまり普段関わらない話だったのでちょっと気になってしまって」

「まあ、普通の高校生はめったにこんな事件には関わらないからな。気持ちはわからなくもないが、下手に探偵ごっこをすると痛い目を見るのは君だぞ」

「はい。すいません」

 再び誤ると、それで一之瀬は満足したようだった。表情を崩し、先ほどまでと同じように笑顔を浮かべる。

 もうこちらの思惑通りにはいかなくなったので、適当に千花と打ち合わせた通りの話を伝え、きりのいいところで話を終わらせた。一之瀬は終始真面目そうな表情で聞いてくれていたが、どことなく表情に得体の知れない深みがあった。



4


 カフェを出ると、勝手にため息が漏れた。

 想像していた以上に気を使ったらしい。どっと疲れが押し寄せてくる。

「大丈夫だったかな。ちょっと不審に思われてそうだったけど」

 苦笑いを浮かべながら千花がこちらを向く。僕は手すりに腕を乗せながらそれに応じた。

「少しは変に思われたかもしれないけど、その程度だと思うよ。一之瀬刑事からすれば、僕たちが嘘をつく理由もメリットも存在しないはずだし」

「だったらいいんだけど。これで目をつけられるようになったら、少し面倒だね」

「……千花。君、戸籍とかはどうなってるの? 蓮見っていうのは偽名なんだろ」

「そうだけど、引越しとか住民票には問題なかったから、たぶん私が知らない間に“もう一人”が何かしてくれたんだと思う」

「そっか。じゃあそっちの心配はないね」

 書類的な面で疑われることはなさそうだ。いくら怪しまれても、まさか尾行や張り込みまでされるようなことはないだろう。たとえされたとしても、それはそれで護衛がついたと思えば悪いことではない。特に千花にとっては。

「穿くん。これからどうする?」

「稲生という男について調べても何も出てこないと思う。実在する人だとは思うけど、たぶん肩書きを利用されただけだろうね」

「お寺の人が供養を行ったって言ってたよね。実際に火葬をしたところとか、見てるんじゃないかなぁ」

「見てるだろうけど、そんなの簡単にごまかせるよ。遺体を偽造すればいだけなんだし」

 僕がそう言うと、千花は黙ってうな垂れた。

 他の客が厚そうにカフェを目指して歩いてくる。ここでこうしてういては邪魔だろう。とりあえず一旦落ち着ける場所に行こうかとエスカレータのほうに向かおうとしたのだが、千花が申し訳なさそうにそれを止めた。

「あ、ごめん穿くん。ちょっと先いってて」

 彼女の視線の先にはトイレがあった。そういえば昼過ぎからずっとそういう場所には近づいていない。

「じゃあ、下で」

 僕は小さく頷き、そのままエスカレータの前へと移動する。

 手すり越しに下を覗くと、先に下りていった一之瀬刑事の背中が見えた。ちょうど出口から外に出るところのようだった。

 “触れない男”たちへの手がかりはあの人しかいない。なんとかして情報を引き出さなければいけないのだが、あの警戒した様子ではどんなに上手い言い訳を考えても話してくれそうになかった。

 消えた背中の残像を追いながら小さくため息を吐く。

 正直に言えば、確実に手がかりを掴める方法はもうひとつある。彼らの仲間を捕まえればいいのだ。

 正直僕は和泉さんからの情報提供にかなりの期待をしていたのだが、彼女はこの前の争いから姿を消してしまった。恐らくは仲間から疑いを掛けられるのを避けるためだろう。彼女から話を聞けない以上、あとはもう次の襲撃者を捕縛するしかない。もし次の襲撃者が例の連続殺人鬼なら、何とかして彼を捕まえればいい。ただ、何の損害も受けずにそれを実行できるかが大きな問題だった。

 触れない男と五業を殺した何者かの存在。それが不気味に僕のやわらかい部分を突っついている。

「――ん?」

 手すりを離し、エスカレータに足を乗せようとしたところで、ふいに何かの視線のようなものを感じた。

 本来、視線を感じるという現象は自分がその人物を見ているときにしか生じない。無意識に視界に入っていく人物の中に、たまたまこちらを向く目があった場合、それを自分の目が逆に捉えてしまうことで、初めてそれを視線だと認識する。

 だが、今僕は確かに前を向いていた。まったく視界の外にある場所だったに関わらず、確かにそれを感じた。まるで呼び止められるように、肩を叩かれたかのように、ごく自然に何かの気配を察知したのだ。

 探すまでもなく、それが後方からのものであるとわかった。斜め上、軽い屋内庭園のようになっている場所。そこに一人の少女が立っていた。

 少し赤みのかかった長い髪の毛に、冷たく全てを透き通すような威厳のある眼。服装はだいぶ大人びたものを着ていたが、間違いない。“彼女”だ。

「カナラ……!」

 とっさに、僕は呟いていた。

 彼女は悲しそうな表情でこちらを見つめると、くるりと背を向ける。

 幻覚じゃない。本物の彼女だ……!

 僕は慌てて走り出した。逆サイドに回りこみ上昇するほうのエスカレータを駆け上がる。あっという間に二階ほど上り、彼女がいる階へと躍り出た。

 やはり緑也の件は彼女がやったんだ。彼女が記憶を消した。

 通路を走り先ほどみた屋内庭園の前に移動する。だがそこに、彼女の姿はなかった。ただ無数の花と植物が人口土の上に植え込まれている。

 すぐに周囲に眼を馳せたが、どこにも人の気配はなかった。

 幻じゃない。幻なもんか。記憶や人の精神を操れる彼女のことだ。きっと自分の姿を相手の脳に認識させないようにすることだって可能なはずだろう。

「カナラ!」

 強く呼びかける。だが返事はない。

 どうして出てきてくれないんだ……!

 僕は下唇を強く噛んだ。彼女に対する不満と小さな怒りが溢れていた。

 君が、君が全ての原因なんだ。君のせいで僕はおかしくなり、千花はわけもわからず怪しい連中に追われるようになった。それなのに、そうやって遠くから見るだけで話そうとはしないのか。一体君は何がしたいんだ。

 文句が心の中で滝のように溢れてくる。僕は苛立ちを発散させるように小さく手すりを叩いた。

 

 しばらくその場に立っていると、ポケットの中で端末が振動した。僕はため息を吐きながらそれを取り出し、耳に当てた。

 すぐに千花の軽やかな声が染み込んでくる。

「あ、穿くん。どこにいるの?」

「ごめん。ちょっと僕もトイレに行きたくて。男子トイレは四階にしかなくてさ」

「じゃあ、外で待ってるね」

「ああ。すぐにそっちに行くよ」

 端末をしまい、手すりから腕をどかす。

 カナラに僕と会話する意思がない以上、このままここでこうしていてもしかたがない。

 深呼吸をすると、重い足を前に動かした。

 屋内庭園から通路に戻り、エスカレータのほうに向かう。すると、正面から真面目そうな少年が歩いてきた。手には本のようなものを持っている。図書館にでも行っていたのだろう。特に気にせず、僕は彼の横を素通りしようとしたのだが――

「“本体”を追わずとも、お前は既に分身を持っているだろ。彼女を使え」

 すれ違いざまにそんな声が聞こえた。

 なんだ? と思い振り返った瞬間、そこに真面目そうな少年はいなかった。――ただ、代わりに一人の少年が立っていた。真っ白な肌をした。美しい顔立ちの少年が。

 日比野さんの言葉が頭に過ぎる。瑞樹さんと一緒にいたという人物の話。それに、五業との争いのさなかに見えたあの腕。

「君は――」

 声を出そうとした途端、視界から彼の姿が掻き消えた。まるでいきなり絵の具で塗りつぶされたかのように強引にその存在が見えなくなる。

「えっ?」

 思わず周囲を見渡す。だが、確かに誰も居ない。カナラも、真面目そうな少年も、白い少年も。

 ――どうなってるんだ?

 何がなんだかわからなかった。いつから僕はこんな幻覚を見るようになったというのだろうか。確かに過去の経験から悪夢を見ることは多々あったけれど、こんなことはこれまでになかった。

 たらりと、一滴の汗がほほを流れ落ちる。

 柑橘系の甘い香りだけが、かすかにその場へ漂っていた。




「やっぱり一之瀬刑事から情報を聞き出すしかないよね」

 翌日の昼間。白い壁に覆われた僕と父さんの新居で、千花は困ったようにそう言った。手持ち無沙汰なのか、指でペンを回している。

 僕は椅子をテーブルに引き付けながら、

「そうだね。サービス業者に町内の別の遺族のフリをして問い合わせれば、稲生忠志の遺体を運んだ担当者はある程度絞り込めそうだけど、それじゃあ相手に警戒心を抱かせてしまう。名前がわかったところで直接会うわけにもいかないし。一之瀬刑事から情報を引き出すだけなら、リスクは少ないからね」

「……何かあの人をその気にさせられる手がかりがあるといいんだけど。サービス業者の不正の証拠とか」

 その証拠を掴むためにこそ、一之瀬刑事の助けが必要なのだが。

 僕は指遊びをしつつ、窓の外を眺めた。数匹のトンボが風とじゃれるように踊っていた。僕の様子を見て、千花がつまらなそうにこちらを向く。

「ちょっとお手洗いいってくる」

「ああ」

 テーブルの上においていたカップを手に取り、二口ほど口に含む。店員が分量を間違えたのか、いつも以上に苦い味がした。


 席に戻ってきた千花は開口一番にぶっとんだ台詞を吐き出した。

「ねえねえ、穿。私考えたんだけど、一之瀬刑事を襲わせるっていうのはどうかなぁ?」

「えっ? 何言ってるの?」

「だってさぁ。一番の障害はあの人が私たちの状況を理解できないってところにあるでしょ? だったら一度“触れない男”たちの仲間に襲わせて、“変な現象”を見せてから説明すれば、協力的になってくれるんじゃない?」

「それは、可能性がなくはないだろうけど……。でも、もし一之瀬刑事に何かあったら? そんなに上手く襲撃の現場に居合わせて、しかもあの人を守りつつ襲撃者を撃退するなんて真似、かなり難易度が高い行動だと思うけど」

「それを何とかするのが穿の仕事じゃん。大丈夫だって、今まで三回も彼らを撃退したんだから」

「そうはいっても全部ぎりぎりだたし、一歩間違えばいつ死んでてもおかしくは……」

「何とかなるよ。私も協力するもん」

 ちょっとまて。何か変だ。千花らしくない。

 にこにことこちらを見つめている千花を見て、僕はすぐに歯車が噛み合った。

「……カナラ?」

「あ、わかった?」

 悪びれる素振りもなく、彼女は舌をちろりと覗かせる。僕はあごに手を置きながら、彼女を見返した。

「どういうつもりなんだよ。急に出てきて……。珍しいじゃないか。積極的にこんな話をするなんて」

「だって、穿ってそういう話するのが好きなんでしょ。いつもすぐに私の話を切り上げるし」

「おしゃべりは嫌いじゃないけど、そういう場合じゃないからね。優先順位が違うだけだよ」

「わかってるよ。だから、真面目な話をしてるんじゃん」

 胸を張るように、千花は背を後ろに倒した。

 参った。彼女が出てくると話が前に進まなくなる。どうせ質問には答えてくれないのだ。正直いって、今彼女と会話することは時間の無駄でしかなかった。

「ちょっと、今私のこと邪険に思ったでしょ」

「思ってないよ」

「嘘つきー。私わかるんだからね。そういうの」

「カンニング反対」

 彼女の起こせる“現象”のことを思い出し、僕は面倒くさそうに呟いた。

「ああ~、またそうやってふて腐れる。いいもん。せっかく面白いこと教えてあげようと思ったのに」

「面白いこと?」

「教えないよー。穿は私と話したくないみたいだからね」

「悪かったよ。ごめんって」

 そう言うと、千花は鼻をかすかに鳴らした。タピオカジュースを飲み込みながら、こちらを振り返る。

「――昨日の文化センター。たぶん、“私”中にいたよ」

「それは、本物のカナラがってこと」

「そうだよ。あの文化センター、何だか入ったときから変な感じがしてたんだけどね。空気違うっていうか、重いっていうか、そこらじゅうに“私”の気配があったの」

 千花はコップをテーブルの上に置いた。力が強かったのか、大きめの音が鳴る。僕は家財にひびが入らないか不安になった。

「ちょっと意味がわからないんだけど」

「私だってわからないもん。そうだったとしか言えないんだから。とにかく妙な場所で、どこにいても“私”に見られている感じがした。まるで頭の中に入られているときみたいに」

 そこらじゅうというのは、あの文化センター全域を指しているのだろうか。いくらカナラが強力な現象を起こせる存在だとしても、それほど広範囲の空間に常に影響を与えられるはずがない。

「吹き抜けになってる場所だったから。上からだったら下のほとんどの通路を見れたからね。そのせいじゃないかな」

「そういう感じじゃなかったんだけど」

 まったく腑に落ちないといった様子で、千花はコップを握り締めた。

 本物のカナラ。

 千花の中にいる“もう一人”が感じたのなら、それは確かだろう。やはり、昨日のあれは幻ではなかった。彼女は確かにあそこにいた。あそこで僕を見ていた。

 そこまで考えて、僕はあの白い少年の姿を思い出した。


『“本体”を追わずとも、お前は既に分身を持っているだろ。彼女を使え』


 あれは、カナラのことを言っていたのだろうか。昨日は気がつかなかったが、今思えばそんな気がする。

 本体があの場にいたカナラだとすれば、分身とは今僕の目の前にいる“この子”のこと? 彼は何を言いたかったんだ?

 そもそも僕たちは彼女を探しにあそこに行ったわけではない。一之瀬刑事が指定したからこそ、訪れたのだ。だから使えといっても一体何に使えと言うのか……――

 その瞬間、ぴんときた。

 彼が何者で、何故あんなことを話したのかはわからない。けど、その言葉から、僕はあることを思いついた。

「――そうだ。何で今まで気がつかなかったんだ。カナラ……!」

「なに?」

「君に手伝って欲しいことがあるんだ」

 僅かに高揚した気分で、僕はそう言った。





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