第二十四章 殺人鬼
大量の雨が降っている。
底なし沼のように暗い空から激しく、ゆっくりと。それは僕の全身を叩きつけた。
水は僕の髪を、服を濡らし、まぶたの上に積もった。
僕が動かずにいると次の水滴がそこに合流し、頬を伝って下に流れ落ちる。その繰り返し。
何度も、何度も、何度も、何度も……――
轟音とも無音とも区別のつかない一定の音が耳を覆い尽くし、聴覚を阻害する。
雨が振ると、どうしてこうも世界は灰色になるのだろう。
赤い看板も、白い壁も、色とりどりな服装を着た通行人たちも。みな一様に灰色に染まっている。実際にはそんなことなんてないのかもしれない。横に立っている男たちはしっかりと青い制服を着込んでいるし、後ろに群がっている群衆の服装も、実に着色豊かであるはずだ。
けれど、どうしても、僕の目にはそれは灰色にしか映らなかった。
目の前の色があまりにも鮮やかだっただから。あまりにも美しく、光を放っていたから。
真紅。
いや、“純赤”とでもいうべきだろうか。
どんな絵の具を使っても表現できないような、独特な輝きを持った色の池がそこにあった。そこに広がっていた。
池の中にはだらりと伸びるか細い腕と、その“赤”に染められていくシマシマ模様の服が見える。
池を囲んでいた男たちが何かを叫び、その物体を持ち上げた。“赤”がどろりと地面の上に垂れ落ちた。
男のひとりが僕の体を押し、白っぽい箱の中に移動させようとする。遠目に見えたそこだけは、僅かに灰色が減ったように見えた。
点々、点々と、赤い玉が中央の物体からにじみ出る。白い服をきた女性が叫び、同じような格好をした男が、必死にそれの中心を押さえ込んだ。
僕はただ電車の外を流れていく風景を眺めるように、その一部始終を見送った。
『穿……?』
最後に見た光景がフラッシュバクする。
その“赤”にまみれているものが浮かべた表情を、視線を、瞳を――
いつの間にか叫んでいたらしい。
僕は二人の男にいきなり押さえつけられた。壁際に向かってきつく手を突き出し、何やら口をパクパクしているが、さっぱりわからない。聞こえない。見えない。
息が苦しくなり、目の前が霞む。
赤――
もう、それしか考えられない。何度も消そうとしても、繰り返し、繰り返し、その映像は目の前に浮き上がる。
嗚咽が漏れ、見えない何かが胸を突き刺した。深く、深く、深く――
ゆっくりと広がっていく死の輪。それを眺めながら、ようやく僕は、取り返しのつかないことをしてしまったのだと、悟ることができた。
2
「酷いことをする」
地面の上に広がったシミを見て、一ノ瀬作馬は苦い息を吐いた。
不揃いなくしゃくしゃの髪をかきあげながら、運ばれていく途中の遺体に目を向ける。
年齢は十四から十七といったところだろうか。肌のハリを見るにかなり若いはずだ。人生においてもっとも花がある時期だったろうに。それが、こんな悲惨な目にあってしまうとは。本心から残念だと思った。
「一ノ瀬刑事」
去年、うちの部に配属されたばかりの新米警官が、暗い駐車場の中を青白い顔で駆けてくる。どうせ直ぐに辞めると思っていたから、名前は覚えていなかった。
一ノ瀬はコンクリートの壁に背をつけながら、彼の冴えない顔を見つめた。
「鑑識は何だって?」
「多分、出血死だろうと。詳しいことは解剖室で調べてみないとわからないそうですが」
「出血死か……」
飛び散った血の様子や量から察するに、動脈は傷ついていないようだ。すると、害者はじわじわと自分の血液が流れ出ていくのを、死の直前まで見させられたということになる。恐ろしく悪趣味なやつだなと思った。
「かなりの数の切り傷があるみたいですが、直接の死因は刺し傷のようですね。腹部に二つほど、大きな裂傷があったそうです」
努めて機械的な口調を作ろうとしているのか、新米警官は瞬きすることなくそう言った。それが、一ノ瀬の目にはかえって初々しく見える。
「害者の情報は? 制服を着ているようだったが……」
「はい。カバンの中に学生証がありました。筒井幸美。この明社町の北東側にある、南河原高校の一年生ですね。ちょうど部活からの帰宅途中だったようです」
「家族に連絡は?」
「あっ、先ほど末松さんが行っていました。遺体確認のために、これから来てもらうそうです」
「そうか。……いやな役目をやらせちまったな」
軽く視線を落とし、一ノ瀬は手に持っていたペンを懐にしまった。
「ここはもう鑑識にまかせるぞ。俺たちは聞き込みを始めよう。誰か怪しいやつを見てるかもしれない」
はいと、新米警官は緊張した面で頷く。一ノ瀬は彼の背中を叩きながら、
「とりあえず管理官様が来るまでにできるだけ情報を集めておこう。――……こりゃあ多分、殺人班が必要になりそうだ。……“上手くことが運べば”だけど」
憎らしげに眉間のしわを刻みながら、一ノ瀬は駐車場の出口へと足を向けた。
二時間ほど聞き込みをしたのだが、よい情報は得られなかった。ずっと歩き回っていたから暑さのせいで頭がやられそうである。
一杯冷たいビールでも飲みたい気分だったが、業務中にそんな真似をするわけにもいかないため、欲望を押し殺し、一ノ瀬はパトカーの中に戻った。冷房を入れ、メモ帳をダッシュボードの上に置いた。ほんの少しだけ体を冷やすつもりだった。
避暑地の匂いを嗅ぎつけたのか、新米警官がノックをして助手席に入り込んでくる。彼は一ノ瀬の顔を横目で見ると、さも重大な報告があるというように口を開いた。
「どうした?」
面倒に思いながらも、一ノ瀬は律儀に耳を傾けた。
「近所の住民の証言ですが、二時間ほど前に不審な男がこの周囲をうろついていたそうです」
「どんな男だ?」
「それが、よくわからないと言ってました。それほど離れていたわけではないのに、影が以上に多くて姿が見えづらかったそうで……」
「それじゃあ、何もわからないと同じじゃねえか。何を根拠に不審な男だとか言ってるんだよ」
「はぁ、僕も言われたままお伝えしただけですので」
自分は関係ないとでもいうように、新米警官は頭を横に振った。その無責任な言動に苛立ちを覚えるも、諦めてため息を吐く。
気を紛らわすためにフロントの外に視線を向けると、ちょうど電柱に貼られていたあるものが目に入った。
手書きで書かれた下手くそな黒いコート姿の男の絵。煽り文句には“触れない男注意”という文字がある。確か、少し前に起きた連続少女失踪事件の犯人として、地元の中学生が作った妄想作品だ。結局事件は彼女たちの気まぐれな家出だったとわかり収集を迎えたはずだったが、まだ取り外していなかったらしい。暗い夜道の中街灯に照らされたそのポスターは、視線の中で不気味に揺れていた。
不恰好な“触れない男”の姿を睨みながら、一ノ瀬は目つきを改めた。
そういえば、あの時も死者が出ていたな。古瀬瑞樹だっけ? 確か死因は急性心不全。つまり、原因不明だった。遺体からは毒物によるショック反応が出ていたのに、結果的にはそういった成分はいっさい検出されなかった。明らかに大量な毒を受けて死亡していた反応だったんだけどなぁと、検視官が首をひねっていたのをよく覚えている。
「どうしたんですか? 一ノ瀬警部」
黙り込んだ一ノ瀬を不信に思ったのか、新米警官は点のような二つの眼をこちらに向けた。一ノ瀬は無言を貫こうと思ったのだが、思い直し、彼に向かって小首を傾ける。
「なあ、……――きみ。このところ妙だと思わないか」
「妙と、言いますと?」
真剣な表情で彼は一ノ瀬を見返した。
「少し前までこの明社町は、冴えないただの田舎街だった。走っている路線はひとつだけ。ちょっと奥に進めば腐海のような山々があり、海辺に出ても微妙な海岸が広がるのみ。観光地も、名産物もなにもなく、ただお偉い企業の施設がいくつか立っているだけの、なんの特徴もないつまらない街だった。それが、どうだ? ここ数が月の間、自殺者や行方不明者、事故による死者が多発している。それも、大多数は“原因不明”というおまけ付きでな。三日前だって篠又丘で中学生くらいの少女が手首を切って亡くなっていた。これは明らかに異常だ。異常な事態だ。それなのに、マスメディアはいっさい騒ごうとはせず、上の連中も気持ち悪いほどにのほほんと状況を静観している。おかしいとは思わないか」
「う~ん。そう言われるとそうかもしれないですねぇ」
何だか煮え切らない調子で新米警官は頷いた。彼の表情を見て、一ノ瀬は大きく落胆する。
同じだ。いつもと同じ。
事件について報告した上司も、被害者の親族たちも、事件現場の周囲に住んでいた者たちも、本来ならばもっと恐怖を感じても、動揺してもいはずなのに、決まってこのように楽観的な態度をとる。しかもそれは、狙ってやっているのではなく、ごく自然にそうなるのだ。こうして違和感を感じている一ノ瀬自身にすら、そういう行動をとりそうになった覚えがある。まるで見えない蜘蛛の糸に精神を拘束されているかのようだった。
怪訝そうな表情でこちらを眺めてくる新米警官から視線を外し、目を元の位置に戻した。そこでは、先ほどと同様に“触れない男”のポスターがひらひらと蠢いている。
オカルトなんてまったく信じてはいないけれど、そういうものを疑ってしまう人間の気持ちもよくわかった。今なら、幽霊がいると言われても信じてしまうかもしれない。
「何だか妙だぜ。この町は……」
冷気を感じ、全身の毛が僅かに泡立つ。
こちらを挑発するかのように前後に揺れているポスターを見て、一ノ瀬はまるで得体の知れない何かが暗闇の中に潜んでいるかのような、そんな錯覚を覚えた。
3
サバラTVは、この県だけで放送を行っているローカル放送局だ。バラエティー番組を断固として放送しないため、若者からの人気は皆無に等しかったが、製作者側の癖や感情移入が少なく淡々と事実だけを伝えるというスタイルから、一部の視聴者から根強い人気を持っていた。その人気は特に公共施設や病院など、比較的静かな場所で顕著なようで、今僕が座っているカフェでも、よくこのサバラTVにチャンネルを固定していた。
カップをテーブルの上に置き、僕は食入いるように画面を見つめた。ニュースはちょうど、先日明社町で起きた殺人事件についてピックアップを行っているところだった。
髪を短く切り揃えたアナウンサーが、まつげの長い目を真っ直ぐにこちらへ向け、悲痛そうな表情で機械的な説明を続けた。
「……――被害者の遺体には刃物で何度も切りつけられたような痕があり、警察は殺人事件として捜査を開始しました。現場の周囲では不審な黒ずくめの男の姿が目撃され、現在事件との関与が疑われています。被害にあったのは、八重田紗智さん十六歳。今年**市内の公立高校に入学したばかりの高校一年生でした。人気のない場所での殺害と逃亡の経路から、犯人は周囲の地理に詳しい人物との予想がなされています。警察は犯人が被害者の少女と近い関係にある人物であるとみて……――」
高校一年生。また、少女の被害者だ。
すぐに“触れない男”たちのことが頭に浮かび、僕は嫌な気分になった。年齢、そして明社町で起きたという事実。この事件が今僕の周囲で起きていることと無関係だとは思えない。被害者の女性は全身に切り刻まれたような傷を負っていた。つまり、“拷問”されていた可能性もあるということだ。もし相手が“触れない男”たちに類する者ならば、被害者の少女はカナラと勘違いされたか、その情報を握っていると思われて殺されたのかもしれない。
僕は心苦しくなり、視線を伏せた。彼女の犠牲が僕たちの捜索に関係していると思うと、どうにもやりきれないものがある。誰かが責めているわけでもないのに、酷く罵られているような気分になった。
“触れない男”の同類。
これまで慎重に行動していた彼らが、これほどまでに雑で乱暴な真似をしたということは、向こうもそうとう追い詰められている証拠だ。和泉さんの話のとおり、彼らに残された時間はわずかしかないのだろう。なりふり構わず行動し証拠を残してくれる分、こちらとしてはありがたいことだったが、その代わりに被害者が出てしまうのは、望ましい事態とはいえない。
早く、事件を解決しないとますます犠牲者が……
焦りを押し殺すように、僕はテーブルの下で手を固く握り締めた。
そのまま渋い顔で斜め上を見続けていると、ふいにYシャツの裾を軽く引っ張られた。何だと思って顔をあげると、かなり近い場所に千花の目があった。
「穿、怖い顔しすぎ。周りから変に思われるでしょ」
「ああ、ごめん」
ついニュースに夢中になってしまった。
右を向き、体の方向を彼女の正面に合わせる。千花は短めの短パンにノースリーブの黄色いシャツと、いつもとは違って随分とラフな格好をしていた。
僕は動揺を隠すように目の下を指で掻きながら、
「それで、なんだっけ? ……“カナラ”」
「何って、服の話だよ。服の話。どうこれ? 似合ってるでしょ」
自分のシャツの一部を指でつまみ、軽く持ち上げる。思わず目が転がり落ちそうになった。
「う、うん。いいんじゃないかな。似合ってると思うよ」
「でしょ? やったー!」
天真爛漫といった調子で、ぱあっと表情を明るくする千花。普段とのギャップに、僕はしばらく彼女の顔を見つめてしまった。
「ん? どうしたの穿?」
「……何でもないよ」
「ほんと? 何か柔らかい表情をしてたけど」
「何でもないって」
千花の顔でそんな表情をされると、中身が“カナラ”だとわかってても、心が落ち着かなくなる。僕は照れを押し隠すように視線を逸らした。
「いきなり出てきて、どういうつもりなんだよ。何か目的があったんだろ?」
「目的? 特にないけど、強いて言うなら、穿と話したかったからじゃだめ? この前また話そうって言ったじゃん」
確かにそんなことを言ってはいたが……。
僕は彼女の精神年齢が非常に幼いことを思い出した。千花の中に“住んでいる”カナラは、僕の記憶にある当時のカナラそのものだ。あの頃の、無邪気で明るかった少女のまま――。
これからの行動について話し合うために、ここで千花と待ち合わせしていたのだが。
軽くため息を吐き、乗り出していた彼女を元の席に押し戻す。僕が見返すと、千花は楽しそうににこにこと笑みを浮かべていた。
「会話がしたいって言ってたね。いくつか質問してもいいかな」
「え、いいよ。なに?」
千花はリラックスするように頬杖をついた。
「前にも聞いたけど、……カナラ。君はどうして千花の中にいるの?」
「どうして? ――……う~ん、正直自分でもわからないんだよね。気がついたらこうなってて、この子の中にいたから。何か原因はあるんだろうと思うけど……」
「自分でもわからないって、そんな馬鹿な。君は人の感情を操れた。記憶を覗くことだってできた。だったら、逆に自分の記憶を押し付けることも可能だったはずだ」
「そんなこと言われても……結構無意識で起きることも多いし。怒った時とか、心の底から恐怖を感じた時とか」
「本当にわからないの?」
僕は攻めるように聞いた。これまでの苦労を思い出し、ちょっとだけキツめな言い方になる。千花は怒鳴られた子犬のような表情で、わずかだけ目を伏せた。
「知らないっていってるじゃん。しつこいなー、穿はぁ」
「じゃあ、君が追われている原因は? どういう理由で追われているかはわかってきたけれど、経緯が掴めないんだ。君はどうして、あんな連中に目をつけられるようになったの?」
「う~む。何かまたそんな質問ばっかだねぇ」
「話をしようって言ったのはカナラだよ。僕はその通りにしているだけだ」
むくれた表情で言い返すと、彼女はどこか居心地悪そうに口をもごもごと動かした。
「それは……」
何かを言いかけて、言葉を止める。
僕は辛抱強く待ってみたが、中々続きは聞けなかった。よほど言いづらいことらしい。
時間つぶしにコーヒーを一口飲み込むと、千花は静かに呟いた。
「私のお父さんが……」
「お父さん?」
耳に意識を集中しかけたところで、千花は言葉を濁した。
「ううん。やっぱり何でもない」
そこまで言いかけて、と思ったものの、千花の表情をみて言葉を押しとどめた。彼女がすごく心細そうな顔をしていたからだ。
僕は軽く人差し指と小指の腹をすり合わせた。
“このカナラ”に心当たりがあるということは、少なくとも三年前のあの頃から彼女は“触れない男“たちか、それに類する連中に目を付けられていたということになる。もしかしたら、僕の知らないところで相当な苦労をしてきたのかもしれない。僅かな同情心を抱いたところで、ふとあることに思い至った。
――ん? 三年前から追われていたということは、まさかあのときの“不審者”も……?
血の塗れた男の顔と、カナラの泣き顔を思い出す。
確かにあの男には妙な点が多かった。年齢も素性も一切不明で、結局どこの誰か分からずに事件は終息を迎えた。遺体は専門の業者に回収されたらしいけれど、もし、彼が“触れない男”たちと同類だったとすれば、辻褄が合うような気もする。
……まさか、な。
僕は殺したときの感触がフラッシュバックしそうになったので、固く右手を握り締めた。
「ねえ、穿。今度は私から質問してもいい?」
「いいけど、なに?」
「大したことじゃないよ。簡単な質問」
彼女は両手を組み、その上に顎を乗せた。
「穿はその“蟲喰い”現象が起きるようになって、どう思った? 辛い? 苦しい?」
いきなり何だ?
僕は彼女の真意がわからず曖昧な表情を浮かべた。
「……最初はただひたすら怖かったよ。何度も他人を傷つけそうになったし、実際に姉さんの腕を裂いてしまった。人をひとり殺した現象なんだ。苦しまない方がおかしい」
「……そう」
千花は申し訳なさそうに視線を伏せた。僕はそんな彼女の顔を横目で見ながら、
「――でも、正直今はありがたいとも思ってる。この現象が起こせるおかげで、僕は千花を、桂場やみんなを守ることができた。そういう面ではちょっと感謝もしているんだ」
「あんなに危険な現象なのに?」
「うん。三年前にあの不審者を殺してしまったときは、何度も自分を呪ったし、絶望した。僕はその罪を抱えきれなくて、壊れそうにもなった。もしこの現象がそのときのみの出来事だったのなら、ここまで苦しむこともなかったのかもしれない。けど、この現象が残り続けたおかげで、僕は自分の罪を、自分が犯した事実を、常に意識することができた。警察にも、誰にも咎められなかった罪だけれど、この現象だけが僕を責めて続けた。ある意味、それが逆に僕にとって救いだったのかもしれない。自分の罪を忘れずに、自分が人殺しだということを認識したまま生きることができたから」
「……ふ~ん。その“蟲喰い”が穿にとっての贖罪になっているわけか。皮肉なもんだね」
どこか影のある表情で、千花は微笑んだ。
「だったら、穿やこの子の存在が私にとっても贖罪になるのかな」
「カナラにとって?」
言葉の意味がわからず、僕は聞き返した。
「例えばの話だよ。穿の真似をしてみただけ。……――何か、そろそろ眠くなってきた」
そう言って、千花はゆっくりと立ち上がった。
「え、ちょっと、カナラ……」
まだ聞きたいことは山ほどある。僕は彼女をこの場に止めようとしたのだが、体が思うように動かなかった。この前の時と同じだ。また彼女に暗示をかけられたのかもしれない。
「穿。罪の意識を持ち続けることは大事だと思うけれど。あんまり想い続けると、それは枷というよりもあなたのアイディンティティになってしまう。あんまり、深みにハマりすぎないでね」
一瞬、カナラの表情が千花の表情と重なったような気がした。
彼女はもう一度だけ小さく微笑むと、くるりと回れ右をして、出口のほうに向かっていく。僕は黙って、その背中を見送った。
4
「深みにはまるなか。……そんなことを言ってもなぁ……」
パソコンの前に座りながら、僕は柔らかに自分の頭を掻いた。
千花の言葉の真意はなんとなく理解できるが、急に後悔するなと言われても無理な話だ。母が事故に遭ってからの僕の人生は、後悔と懺悔を送る日々でしかなかった。
どうにかして彼女を救えないか。どうにかして罪を償えないか。どうにかして、あの事実を巻き返すことはできないのか。
いつ、どこで、どんなときも、そればかり考えていた。心の底では無理だとわかっているはずなのに、必死に何かを探していた。
習慣にも等しいその感情を消すことなど、今更できるわけがない。それだけが僕が生きている理由で、望みだったのだから。
メールをチェックすると、前の高校でよくつるんでいた阿久津と奥根から、夏休みの間くらい帰ってこいよという催促がきていた。が、今はそんな場合ではないため、軽く言い訳を述べて返事を返す。奥根は色々と考えてくれそうだったが、阿久津はきっと僕のそっけない態度に怒るだろうなと思った。
文字を打ちながらも、今日の千花の顔が再び頭に浮かんだ。その顔を振り切るように、頭を横に振る。
僕は人殺しなんだ。実際にこの手であの男を殺し、心臓を吹き飛ばした。例えそんなつもりはなくても、“蟲喰い”なんて現象を知らなかったにしても、“殺した”ことは事実なんだ。誰にも責められなくたって、誰にも咎められなくたって、その罪は償わなければならない。そうでなければ、僕には生きていく資格がない。前に、進めない。
カナラの言いたいことはわかるけれど、他の方法を選択するつもりはなかった。今までずっと自分を否定することで、自分を責め続けることで、不在だった罪の執行者の代理を演じていたのだから。
僕は指の動きを止めた。
……やめよう。今はそんなことを考えている場合じゃない。悩むのは、自分の苦しみに向き合うのは、全てが片付いたあとでいい。今僕にとって大事なのは、千花を、カナラを守ることだ。そのためにもまだ“蟲喰い”は必要だし、余計なことを考えて万が一現象が発生しなくなっては大変なことになる。“蟲喰い”は、これは僕の罪の証明だ。これは僕を刺し続けるための楔なのだから。
僕は逃げるように、パソコンに向き直った。
プールで和泉さんに襲われてから、彼女の正体を突き止めるまでの間も、僕は並行して例の研究所に関する調査を進めていた。
和泉さんの話によると、研究所自体と彼女らの肉体改造に関わりはないらしい。つまり、“触れない男”たちの作者は、献体契約によって運び込まれた遺体を個人的に弄くり、改造したことになる。
普通に考えて、一度医療機関に輸送された遺体を個人が勝手に利用することはほぼありえないだろう。じっくりと人体改造を行うためにはそれなりに時間を要するだろうし、献体として利用される危険のある研究所の中では難しい。だから考えられるとすれば、遺体を個人の研究室へ移動させることだが、遺体が感染症にかかっていたなどとごまかして運び出すにしても、それを手引きするための協力者が複数必要になる。一人ならごまかせても、それが九人以上となると流石に不審に思われるはずだ。五業や和泉さんは研究所が自分たちとは無関係だと話していたが、ある程度はグルでないと、遺体を盗めるはずがない。
今更過去の話を追っても証拠や手がかりが残っているとは考え難い。今もっともその事実にたどり着ける可能性があるとすれば、それは“触れない男”――本田克己の遺体だ。数週間前になくなったばかりの彼の死体は、千花が警察から聞いた話によれば、何者かに回収されたらしい。それが誰の指示に寄るものか、調べることがもっとも核心に近づくことのできる方法のような気がする。
僕は焼死体を見たときと、瑞樹さんが行方不明になったときに会った刑事のことを思い出した。一之瀬とかいう、かなり強面の中年男性だ。いきなり警察に言っても重要な話をしてくれるとは思えないし、探りを入れるには何か餌をちらつかせるしかない。そして、それを行える対象は今のところあの刑事だけだ。
さて、どうしたものかと悩んでいると、ベッドの上に放っていた端末から着信音が鳴り響いた。
重い腰を上げ端末を手に取る。千花からの呼び出しだ。最近は深夜の連絡にも大分慣れてきたから、特に気負うことなく電話に出た。
「はい。もしもし」
ベッドに腰を下ろしながら、足を組む。
「あ、穿くん? 夜遅くにごめんね」
「いいよ。どうしたの?」
「その……今日、私……どうだった?」
どうだった? 何が? 服装のことか?
僕は千花が何を言っているのかわからなかった。
「その、何か変なこととか、してなかった?」
そこまで聞いて、ようやく思いたる。やはり彼女にはカナラの人格が出ているときの記憶がないようだ。適当に濁してもよかったが、このまま話を伸ばしてもいいことはない。千花としても、知っていたほうがいだろう。僕は正直に説明することにした。
「千花。実は、そのことについて話したいことがあるんだ」
「え、なに?」
「君はこれまでに記憶が飛んだりとか、気がついたら違う場所にいたとか、そういうことってない?」
いきなり本題に入った僕の言葉に、千花を声をとぎらせた。
ちょっとの間の跡に、探るような声が届く。
「……あるって言ったら、どうなの?」
「実は――……前々から言おうと思っていたんだけど、僕はたまに、“君”じゃない千花を目にしているんだ。別人格といってもいいかな。今日の昼も、この前のカフェでも、僕が会っていたのは“彼女”だった。信じられない話かもしれないけれど……」
「……いや、そんなことないよ」
短く、それでいて重々しく、千花は答えた。
「実は、私も穿くんに前々から言おうと思っていたことがあるんだ」
「――……うん」
僕は反射的に頷いた。
「私、穿くんに嘘をついてるの」
「嘘?」
「うん。私の……家族のことと、記憶のこと」
「どんな、嘘?」
僕は千花の隣に住んでいた、あの恰幅のいい主婦のことを思いだした。続いて、五業との争いのときに垣間見た少女の記憶が蘇る。
「話が長くなるから、電話だとちょっと……。明日って、会えるかなぁ?」
「大丈夫だけど……」
「じゃあ、十一時にいつものカフェの前でお願い」
「……わかった。じゃあ、その時間にいくよ。ちょっと思いついたことがあるんだけど、それも明日話そうか」
「思いついたこと?」
「“触れない男”たちの黒幕を探す方法」
「ふ~ん。何か妙案でも浮かんだのかな?」
「別に妙案でも何でもないんだけど……まあとにかく明日話すよ。今日は遅いし」
「そっか。わかった。期待しておきましょう」
本気なのか聞き流しているのか、軽い感じの声が受話器から響いた。僕は少し微笑みながら、
「……じゃあ、もう切るね。お休み千花」
「――あ、まって穿くん」
「ん? どうしたの?」
下げかけた手を耳元に戻し、彼女の鈴のような音色を待つ。しかし、呼び止めたにも関わらず千花は黙っていた。
「……千花?」
「ごめん。やっぱりなんでもない。お休み、穿くん」
一瞬、千花の遠慮がちな笑みが頭の中に浮かんだ。
僕は何か言おうとしたのだが、口を開けたところでそれを押し留めた。今何を聞いても恐らく千花は答えてはくれないだろう。
「あ、うん。……お休み」
僕はなんとなく釈然としない気持ちを抱きながらも、そっと端末を机の上に置いた。
5
出勤していく父を見送り、二人分の食器をそくさくと片付ける。千花との待ち合わせは十五時だったけれど、このまま家にいてもやることはなかったため、少し早めに出ることにした。下駄箱の前にある鏡で跳ね上がった後ろ髪を整え、扉を開ける。すると、ほとんど同時に左方向からも同じような音が響いた。
強い太陽の光に目が負けそうになりながらも、なんとか映像を捉える。塀越しに、制服を着た緑也が立っていた。肩にスポーツバックのようなものを掛けている。僕が軽く頷くと、緑也はほんの少しだけ手を上げた。
「――よう」
と、短く声を投げてくる。
「いまから部活? 遅いね」
「ん? ああ」
眠そうにあくびを浮かべながら、彼は路上をこちらに向かって歩いてきた。僕は鍵をかけ戸締りを確認してから、彼に向き直った。
「朝一番は体操部が使ってたからな。俺たちはこれからが練習」
「そっか。運動部ってそうなってるんだっけ」
「穿はどっか行くの? 早いじゃん」
「ちょっと調べ物があってさ」
「何? オカ研の活動?」
「似たようなものかな」
あながち間違いでもないような気がしたので、そう答えておいた。
「お前も日比野もよくやるな。特に大会とかそういう盛り上がるもんもないのに、毎日毎日学校に行って……まあ、それが楽しんだろうけどさ」
どうやら緑也は、僕が日比野さんの指示で行動していると思ったらしい。
せっかくの夏休みだというのに、学校に行ってるのか。一体何をしているのだろう。
僕はちょっと彼女のことが気になった。
「緑也はどっか遊びにいったりとかしないの?」
「無理無理、そんな時間なんかねえよ。運動部にとって夏は勝負の時期なんだぜ。みんな大会の真っ最中だからな。この前のプール以降は、どこにもいけてないって」
「そっか。じゃあ、桂場やスタイリッシュも忙しんだろうね」
「だろうな。たまに顔を合わせるけど、いつも死にそうな表情で飲み物を流し込んでるよ」
ペットボトルをがぶ飲みしているスタイリッシュを想像し、僕はまたお腹を壊さなければいいがと思った。
自転車に乗ったサラリーマンが真横を通過してゆく。緑也は道の端に寄ってそれを避けると、鞄を肩にかけ直した。
「じゃ、俺もう行くぜ。掃除しないといけないから」
「あ、ちょっと待って」
この前のことを思い出し、呼び止める。緑也は尋ねるような目でこちらを振り返った。
「そういえば、どうだった? あの話」
「あの話って?」
「……その、知り合いのおばさんたちが瑞樹さんを目撃したとかいう……」
「は? 何それ? 何の話?」
緑也は目をまん丸と見開き、僕の顔を見つめた。
「いや――、この前言ってただろ。お母さんの知り合いが文化センター内で瑞樹さんを見てたって、君もかなり真剣そうに聞き込みをしているように見えたけど」
「俺がぁ? いつ?」
心底不思議そうに緑也は首を傾けた。その表情に僕は違和感を覚える。
「なんか勘違いしてんじゃないの? 穿」
「そんなことは、ないと思うけど」
確かに二週間以上前の話だったが、彼がそう言っていたことは事実だ。記憶力には自信がある。あのときの緑也は確かに瑞樹さんの目撃者がいると言った。そして、その人たちから情報を集めると言った。あんなにも真剣な表情で、悲痛そうな顔で。それが“勘違い”だったなんて思えるはずがない。
まさか……。
一瞬、カナラの姿が脳裏に浮かぶ。あの海沿いの灯台の下で、小さく笑みをこぼしながらこちらを見ていた彼女の姿が。
「おっ、やべ。時間ない。またな、穿! 今度暇になったら遊ぼうぜ」
緑也は自分の腕時計に目を通すと、そのまま慌てて走り出した。片足が泥水を吹き飛ばし、しまったというように表情を曇らせる。だが、今更家に戻る気にもなれなかったのか、そのまま黒っぽいシミをズボンにつけたまま、彼の姿は遠のいていった。
何だか、狐に包まれたような気分だった。
6
激しい物音を耳にし、井上梨里子は目を覚ました。
かなり間近で響いたらしく、急に目覚まし時計が鳴り出したときのように、心臓が早鐘を打つ。
何だと思い音源を探そうとしたのだが、なかなかそれを見つけることができなかった。目を凝らすと、異物感のようなものをまぶたの上に感じた。単に暗闇の中にいるだけではなく、何かが目を覆っているようだ。
え、なに? 何が……?
状況がよく理解できない。自分がどこにいて、何をしているのかもまったくわからなかった。
立ち上がろうとしてみたのだが、思うように足が動かず太ももだけが前後に揺れる。足だけではなく、それは左右の腕でも同様だった。縛られているらしい。
嘘でしょ。なによこれ、なんなの……!?
必死にもがいてみたのだが、どう頑張っても拘束は外れない。そのうち自分の手足のほうが痛くなってきたので、諦めて体の力を抜いた。
どうなってるの? あれ? あたし家に帰るところだったはずだよね?
こうなった経緯も、こうなった理由も、一切記憶にない。ただ酷く後頭部が傷んだ。微かに暖かい液体のようなものが伝わっているのがわかる。
うそっ――……怖い、怖い、怖い、怖い……!
何が何だかわからないが、このままここでこうしているのは非常にまずい気がした。本能が逃げろと叫んでいる。
そういえば、最近不審者や変質者がよく出るなんて話を聞いていたけれど、まさか、自分はそういうやつに捕まってしまったのだろうか。
考えたくないのに、勝手に頭がそんな予想を立てる。
今度は渾身の力を込めて足と腕を伸ばそうとした。感触から察するに、自分の体を拘束しているのは紐のようだから、運がよければ緩んでくれるかもしれない。
一気に力を入れた途端、左右の親指に激痛が走った。皮膚を引き裂かれるような痛みだった。
なにこれ、指同士を結んでるの? 何で……?
激しくのけぞったせいで大きく横に倒れる。強い痛みと共に、木材同士がぶつかるような音が響いた。自分が縛り付けられている椅子が、床に当たった音らしい。
腕に力を込めると、指に激痛が走ったため、梨里子は何もすることができなくなり、そのままうな垂れた。
自分の呼吸音だけが耳に木霊する。次第にそれは荒く速度を増していった。
しばらくそのままじっとしていると、ふいに誰かが息を吐くような音が聞こえた。それもかなり近い距離からだ。思わず体がビクンと反応し、指の痛みに悶絶する。
耳障りのいい足音が鳴り響き、それが目の前で止まった。
「なんだ。もう御終いか」
それはかなり渋い声に関わらず、どこか少年のような口調だった。
梨里子は何か言い返そうとしたのだが、口の中に詰められている何かのせいで、思うように言葉が形をなさなかった。
「ダメだよ、お前。もっと頑張れよ。つまんないじゃん、俺がさぁ。なぁー」
男がしゃがんだ気配がした。
「つまんねぇ。つまんねぇ。つまんねぇー」
ぐるぐると激しく眼球が振動する。男は梨里子の頭を両手で掴み、左右に揺らしているようだった。
なにこの人……ちょっ、やだ、や、やめて……!?
勝手に涙が溢れてくる。それは目を塞いでいる布を湿らせ、頬の上を流れ落ちた。
急にあごを持ち上げられると、顔の表面に苦い息を感じた。男が間近からこちらの様子を観察しているらしい。かなり長いあいだその状態が続き、梨里子は恐怖と気持ち悪さで吐きそうになった。
「弱っちい女だな」
ぼそりと、耳元でそんな言葉が響く。その声の冷たさに、思わず背筋がぞっとした。
男は梨里子の椅子を元のように立て直すと、歌うように呟いた。
「さぁ、“会話”の時間だぜ。お嬢ちゃん」
手を振ると、床の上に赤い点々が広がった。
既に動かなくなった少女の体から漏れ出し、付着したものだ。
四業は少しの間うっとりとそれを眺めると、懐から取り出したハンカチで己の手を拭き、端末を取り出した。無機質な部屋の中にしばらく自分の息遣いだけが響き、妙な征服感を感じる。数度のコールのあとに、相手が通信に出た。
「――よぉ。俺だよ、俺。ああ、そうそう。今、ちょうど三人目をやったところ」
自慢げに言うと、相手の男は気分を悪くしたようだった。
「はいはいはい。うるせえな。女を探せっていったのはあんただぞ。これが俺のやりかたなんだよ。相手は俺のお仲間を“七人”も殺してるんだ。あ、一業だけは違うんだっけか? ――まいいや。普通ならとっとと街から離れればいいはずなのにさぁ。それって、移動できない理由があるってことだろう? 。こうして殺し続けていれば、やつらも俺に注目して、何かのアクションを起こしてくるって」
自信満々に言ったのだが、相手の反応はいいものではなかった。むしろ、酷く呆れているように思える。
「わかった。わかったって。心配すんな。五番から九番が頑張ったおかげである程度の目星はついてんだ。だからこうして北と南で、三業と手分けして探してんだろぅ? 久しぶりの外なんだ。少しくらい趣味に没頭したっていいじゃんかよ」
精一杯譲歩してみたつもりだったのだが、“父親”の回答は淡白なものだった。四業の趣味になど、まったく興味はないらしい。まあ、それが当たり前の反応だとは思うが。
靴の先で血の線を引き、少し前に流行ったアメリカンアニメのキャラクターの顔を描く。我ながらよくできているなと思った。
「心配すんなって。やることはやる。せっかくのチャンスなんだ。俺だって命がかかってるからな」
そう答えたところで、この質素な部屋の外に誰かの気配を感じた。かすかだが、服の擦れる音が耳に届く。
扉のほうに視線を向けると、窓越しに二人の男の影が見えた。はっとして窓の外も確認してみたが、一台のパトカーが止まっている。
「あー。ちょっとミスったみたいだ。拉致るところ見られてたんかなぁ。一旦切るぜ」
端末の画面を叩き、乱暴にズボンの後ろポケットに差し込む。紺色の服をまとった男たちが中に入って来たのは、それと同時だった。
「な、何だこれは……!? お、お前何をしてるんだ」
若い警察官が、足元に転がっている井上梨里子の死体を見て、顔を真っ青にする。もうひとりの警官も同様だった。
「何って、決まってるでしょうよ。俺、大好きなんだ――」
ポケットから手を出しながら、警官たちに向かって歩き出す。
「“人殺し”」
「こ、こいつ……!」
ニタニタと笑みを作り、警官の顔を舐めるように見上げる。先頭に立っていた警官が慌てて警棒を取り出した。
「止まれ! 動くな」
何か叫んでいるが、構わずに大きく一歩をすり出す。警官は歯を噛み締めながら腕を振り上げた。
「このっ、動くなと――」
振り下ろされた警棒の先に指をちょんと当てる。すると、まるで壁にでもぶつかったように、警官の腕は大きく後方へと弾きとんだ。
続けて軽く爪を相手の腕に押し当て、横一文字に引いた。指の跡に追従するように、真っ赤な線がそこから吹き出した。
「いっ――な、ナイフか!?」
ばーか。そんなもの持ってねえよ。今は。
慌てて後ろに下がった警官たちを湿っぽい目で見返す。彼らの目が、表情が、動きが、面白くて仕方が無かった。
自分の血に驚いている警官の後ろから、もうひとりの警官が迫ってきたのを見て、四業は前に“現象”を発生させた。その途端、掴みかかろうとしていた警官の動きが暴風雨の中にでもいるように、一気に遅くなる。
だ、ダメだ。もう我慢できない。
緩やかに近づこうとしている警官の頭部を鷲掴みにし、強く握り締める。最初は手を振り払おうとしていた警官だったが、頭を押さえつける力があまりに強かったためか、次第に悲鳴をあげて暴れるようになった。
その様子を見て、もうひとりの警官も思わず棒立ちになる。彼の横の壁に、突き出た金属の板のようなものが見えた。建設中のアパートだから、まだしっかりと内装が出来ていないようだ。
「んじゃ」
四業は壁に向かってダッシュすると、一気に警官の頭部を鉄パイプに向かって叩きつけた。瞬間、穴が開くのでもなく、男の頭部はこの世から木っ端微塵に姿を消した。
「うわぁあああ、うわぁああああぁああ!?」
残ったもう一人が気でも狂ったように絶叫をあげる。そんなに騒がれては人目につくから、やめて欲しかった。
水の音が響き、警官の足元に生暖かそうな液体が広がる。
四業は小さく冷笑を浮かべると、放心しかけている男に向かって、問答無用で腕を突き出した。
雨が、血のシャワーがざわざわと身体に降り注ぐ。
少し暖かくて、ヌルりとしていて、まるで今自分が殺した連中と一体化したような、奇妙な高揚感があった。
知らないうちに口笛を吹いていたらしく、妙なメロディーが聞こえた。自分でも知らない曲だった。適当に作ったらしい。
ああ~、最高だ。この感じ最高だっ……!
強烈な興奮が押し寄せてくる。絶頂にも似た気分だった。
こんな快楽をまた味わうことが出来るなんて、例の少女に感謝しなければなるまい。彼女とその協力者たちが自分の七人の“兄弟”を皆殺しにしなければ、こうして外に出れることはなかった。あの狭い場所から開放されることはなかったのだから。
会いたいなぁ。どんな女なのか、どんな奴なのか、どんな泣き顔をするのか、早く見てみたいなぁ。
自分の“父親”をここまで夢中にさせる少女なのだ。きっと普通の女とか桁違いに面白いに違いあるまい。
再び、勝手に口笛が漏れ出す。やはりそれは聞いたことがないメロディーで、自分でも不思議だった。
その音色は鎮魂歌のように粛々と、血まみれの空間を満たし続けた。




