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浄我の形(じょうがのかた)【改稿前】  作者: 砂上 巳水
虚偽不還(きょぎふげん)
23/41

第二十三章 暗転


 自分の口から溢れ出す気泡を見て、僕は我に返った。

 最初はまだ記憶の渦に飲み込まれているのかと思ったのだが、腹部に感じる強い刺激が、それを否定してくれた。じんわりと視界の隅に広がる赤い染色が、“生”を、僕の命の存在を教えてくれる。

 胸が苦しく、顔が鉄板のように熱い。記憶の渦に引き込まれた影響で頭が混乱し、どちらが上で、どちらが下なのか、まったく判断がつかなかった。

 水面を探しているうちに左手が何かに触れた。硬いコンクリートのような感触。恐らくは噴水の壁だろう。僕は迷わず“蟲喰い”をそこに放った。

 激しい崩壊音が耳に伝わり、目の前の空間が急に抜け落ちたかのように、体が前方へとすべる。水面の上を転がって噴水の中から飛び出ると、はすの花が咲いている池の前で、ようやく体を停止させた。

 腹部からせり上がってきたものを土の上に吐き出し、空気の通路を開け放つ。溢れ出た水の上には太陽の光子が乗り、宝石のように輝いていた。

 和泉さんやその他の記憶を覗き見ていたせいで、まだ思考はおぼつかなかったが、強い気持ちというものはそんな状態においても消えることはなかったらしく、僕は四肢を地面につきながらも、斜め後ろへと視線を這わせた。カナラと、“あいつ”が立っていただろう場所へ。

 だが、既にそこには誰の姿もなく、立ち並ぶ木々が不思議そうに葉を揺らしているだけだった。

 ――……くそっ……!

 記憶を見させられたということは、あそこにカナラが居たことは紛れもない事実。こんな近くにいてチャンスを逃してしまうなんてと、僕は歯がゆい気持ちになった。

 前方、噴水の目の前から、か細く咳き込む声が聞こえる。僕は必死に呼吸を整えながら、彼女の姿を見つめた。

 和泉さんは涙か水かわからないもので顔を濡らしながら、膝を立てこちらを睨みつけていた。

 彼女は手のひらで顔の水を拭うと、精一杯努力して絞り出したかのような低い声で、僕に問いかけてきた。

「今のは……――千花さんも来ていたんですか?」

 前のりになったまま、用心深く周囲に目を馳せる。しかし当然、誰の姿もそこにはなかった。

 僕はえてそれには答えず、ゆっくりと立ち上がった。服に染み込んだ水が裾から靴へ、靴から地面へと流れ落ちる。まるでミニチュアの滝のようだ。

 姿が見えない以上、カナラのことは諦めるしかない。何故こんな場所にいて、僕に“あんな記憶”を見せたのかは知らないけれど、今は和泉さんを止めることのほうが先決だ。

 流れ落ちる水が邪魔だったので、前髪ごとそれを後ろに撫で付け、一歩一歩和泉さんのほうへ近づいた。

 彼女は眉を強く眉間に寄せ、僕を見返す。

「来ないで!」

 手を前にかざすと同時に、彼女の背後から水が立ち上がり、唸りをあげる。

 僕は体が重くなっているせいで、まともに対処することができなかったのだが、どういうわけか、和泉さんの攻撃は直撃コースをまぬがれた。背後の池に着弾し、小さな水柱が立ち上る。

 外した? この距離で?

 いくら疲弊しているといっても、たかが数メートルの距離にいる獲物への攻撃を外すなんて、おかしな話だ。ましてや、彼女の現象は配管の流れに水を沿わせるだけなのに。

 大したことはない、ただのミス。ただの操作間違い。そうとらえてもよかったのだけれど、僕は今の失敗が妙に気になった。何かの引っ掛かりを感じた。

「――しつこいですよ、先輩……! いい加減にしてください」

 どこか怒ったように声を荒げる和泉さん。僕はその言葉を無視し、さらに足を一歩前に踏み出した。彼女は歯ぎしりするように、唇を結び直す。

 僕は右斜め前と左後ろの地面を見た。先ほど彼女の放った水弾が飛んできたルートだ。

 いくら配管が無数に張っているといっても、それら全てが噴水から離れる方向に流れているわけはない。威力が落ちたり、正確さがなくなったのは、僕の立っている位置が配管から遠かったため。恐らく和泉さんの現象は、同調の対象となる配管から離れれば離れるほど、その効果が薄れるのだろう。だとしたら、配管の位置を記憶すれば大きな損傷を負うことなく近づくことができる。

 ――いや、それではダメだ。

 僕は小さく頭を振った。

 例え今以上に和泉さんの攻撃を避けたり、防ぎ易くなったとしても、僕が彼女を殺せない以上、あまり意味はない。この対立を解決するためには、もっと別のアプローチが必要だ。そう、例えば、もうこれ以上彼女が現象を発生させられないような……

「近づいてどうする気なんです? 殺す勇気もないくせに……!」

 和泉さんは割れた噴水の淵に沿うように左へ移動し、二つの水を立ち上らせた。位置が変化したからか、先程よりも強い勢いの水弾だった。僕は一つ目を右に転がることでかわし、二つ目を“蟲喰い”で撃ち落とした。足元の水たまりに、大きな飛沫しぶきが生じる。

 先程までは余裕がなく圧倒されていたが、こうして冷静に見ていると、色々とほころびは見えた。

 ……三回か――。

 僕は一度だけ、親指の腹でその他の指を撫で上げた。

 今彼女が放った水弾の同調元らしき配管の位置を推測し、先ほど確認した配管と被らない位置へ横歩きで移動する。どうやら正解だったらしく、それで、明らかに彼女の攻撃の精度が落ちた。

 やぱりそうだ。配水管から二メートル以上距離をとれば、和泉さんの攻撃力は大幅に低下する。それにあの現象……。彼女の攻撃は連続で行われることはあっても、全て単発だった。高さを調整するための噴水への同調、水を直進させるための配水管への同調。そしてあの高圧攻撃に利用した停滞する水への同調。彼女はおそらく、その三つのベクトルまでしか現象の効果を影響させることができない。もしそれ以上現象を発生させることができるのならば、複数の水弾を同時に放つことも可能だったはずだ。連続攻撃が行われなかったということは、それが限界であること。それが最大攻撃回数であることを示している。

 僕は飛びかかってくる水をかわし続けながら、必死に解決策を模索した。まるで中間試験終盤の問題を解いているときのように頭が熱かった。

 避けつつも、悟られないように手をさりげなく地面に当て、体重を支える。なるべく自然に見えるように、うまくよろけることが大変だった。

 タイミングを間違って何度か水弾が体をかすってしまい、時間が経つごとにすり傷や打撲跡が蓄積していった。自分で行った行為の結果なのに、そんな僕の姿を見て和泉さんが悲痛そうな表情を浮かべる。

 ――殺す勇気がないのはどっちだ。

 僕は唇を強く結んだ。

「いい加減に……!」

 再度、和泉さんの背後から大きな水の柱が立ち上る。噴水に同調させているというよりは、噴水そのものが肥大化したようだ。もう一度高圧力の攻撃を行うことで、止めを刺す気つもりらしい。

 確かにあのレーザーのような攻撃ならば、僕の立ち位置がある程度配水管から離れていたところで、威力の低下は少なくて済む。現状もっとも有効な手立てだとは言えたが――

 一足遅かった。

 彼女の放った水弾は、僕に到達するよりも早く空中で霧散した。激しい何かにせき止められたかのように、爆発するがごとく勢いで水の花火を散らす。

「なっ!?」

 慌てて手前の地面に視線を下ろす和泉さん。そこは、先ほど僕が逃げ回りながら手を当てた場所だった。水が張っているせいでわかりづらいが、少し目を凝らせば、大きく土が抉れていることがわかる。

 すぐに彼女は僕が何をしたのか悟ったらしい。悔しそうに表情を歪めながら手を前に伸ばす。しかし思うように水の操作がいかず、放たれた水弾は、ホースから出た弱流のように項垂れてしまった。

 地中にある配水管の多くは、逃げ惑いながら既に破壊した。例え距離が足らず届かなかったものも、ゆがみぐらいはできたはずだ。そこをあんな強力な勢いの攻撃に同調させようとすれば、水撃作用が起きて配水管は破裂する。

 もはや彼女には人を突き飛ばす力すらも、発生させることができなくなっていた。

「――……まだ……!」

 諦めきれないといった表情で、再度水を操作する和泉さん。直接水を飛ばすことが無理だと判断したのか、生きている配水管に向かって現象を発生させようとする。波平原でやったように、僕の身体そのものを他の水の流れに同調させるつもりなのだろう。

彼女の動きを見て、僕はとある配水管の上に立った。敢えて破壊せずにおいたものだ。

「ぐっ……!」

 彼女の現象の効果が発生すると同時に、強制的に胴が傾く。自分の足などないかのように、かなりの速度で移動が始まった。ただしそれは、彼女に近づく方向だったが。

 気が動転したせいで見落としていたのだろう。和泉さんは“噴水に向かって流れる水流”に、僕の体を同調させてしまったのだ。

 一気に噴水の目の前に到達する僕の姿を見て、和泉さんの表情が恐怖に歪んだ。

 あの借金取りたちを見たときのように、怯えた表情で手を振るう和泉さん。しかし破裂したせいで空気圧を含み、勢いを無くしてしまった配水管からは、大した威力を引き出すことができなかった。

 飛んでくる水を“蟲喰い”で弾き飛ばしながら、僕は一歩一歩和泉さんに向かって歩を進めた。脇腹がずきりと痛んだが、我慢して背筋を伸ばす。

「こないで……!」

 恐怖を感じたように、和泉さんは体を震わせた。全身を水浸しにしたその姿は、寒さに凍える子犬のような印象を僕に与えてくる。

 僕は彼女の前に立つと、足を止め、静かに口を開いた。

「僕は、君を殺さない。……ただ、追い詰めるだけだ」

 和泉さんは怯えた目で僕を見上げた。

「もうこれで、君は僕に何もできない。僕も、何もできない」

 脇腹を左手で押さえながら、いつものように彼女に話しかける。

 吹き出る噴水の勢いが弱くなり、徐々にその高さを落としていく。複数の波紋が僕たちの周囲に点在し、まだら模様を作った。

 和泉さんはしばらく無言で僕の顔を見上げ続けたあと、歯がゆさそうに、唇を強く結んだ。


 


 体がずぶ濡れになっているせいか、少しだけ肌寒かった。

 僕は空を見上げた。多少雲が出てきてはいるが、まだ陽光は明るくこちらを照らしている。しばらくほっとけば、ある程度は水分を飛ばしてくれるだろう。

「和泉さん」

 膝をつけている和泉さんに視線を戻し、声を掛ける。僅かに、彼女の指が揺れた。

「君たちは、何で千花を狙うの? 五業は認識を広げることができるからって言ってたけど、それにどんな意味がある?」

 和泉さんは下を向いたまま無言を貫き通した。無理やり口を割らせるなんて真似は僕のしょうに合わない。どうしようかと悩んだところで、か細い声が響いた。

「理由なんて、ひとつしかありませんよ。 ……私はただ怖いだけです。嫌なだけなんです」

「怖い?」

 僕は言葉の意味が分からずに、聞き返した。一体彼女は何を恐れているのだろうか。

「先輩には、言ってもわかりませんよ。あなたは――あれを経験していないんだから。感じていないんだから」

 あれ? 

 彼女の過去に起きた事件のことか? それとも別の何か? 

 推測してみたが、どれも不確かな案でしかなかった。

「あなたは――……いい人ぶって私を止めたつもりかもしれないですけど、結局何も変わらないんですよ。千花さんを手に入れられないのなら、私たちの末路はひとつだけ。どうにもならないんです」

「誰かに、脅されてるの?」

 思ったままの言葉を口に出す。

「そんなんじゃありません。ただ、怖いんですよ。あれを経験するのが、あれをまた味わうのが」

 ようやく顔を上げた和泉さんの目には、噴水の水とは違う雫が溜まっていた。これは憎しみでも怒りでもない。純粋なる恐怖の表情だ。崖っぷちに立っている人間のような、ナイフを突きつけられた被害者のような……。

 僕はこの表情を見たことがある。何度も、何度も、繰り返し……。

 

『膝を折り、倒れる男。僕は自然とそのまま、男の上に馬乗りになった。ズボンに絵の具のような鮮やかな“赤”が染み込んでいく。妙に生暖かく、気持ち悪かった。

 何が起こったのかまったく理解できない。頭の中で嵐が起きているかのようだった。

 手を震わせる僕を視界に収め、男は悔しそうに、それでいてどこか残念そうに目を細めて、ゆっくりと息を引き取った』


『母は慌てて横に逃げようとしたのだけれど、咄嗟のことで間に合わなかった。彼女の最後の力で解き飛ばされた僕は、軽傷だけで済んだものの、車の重量をもろに受けた母は、頭を強打し、意識不明の重態となった。

 広がる血。

 冷たくなってゆく体。

 死の足跡。

 その光景は、僕の意識に強烈な何かを植えつけた 』


 ――死だ。

 これは死の表情だ。

 自分の最後を悟り、それが抗えないものだと確信しているような、全てを諦めたような絶望そのもの。僕のまぶたの裏にこびりついて離れない、“彼ら”の最後の顔。それとまったく同じものを、和泉さんが浮かべている。

 喉が締め付けられ、声が出なくなる。誰かに押さえつけられているわけでもないのに、勝手に呼吸が苦しくなり、目の前が揺れ始めた。

 ダメだ、ダメだ……! 今動揺したら、無駄になる。落ち着け、落ち着くんだ。

 僕は足に力を込めてその場に踏みとどまった。水にまみれた靴が深々と土にくい込む。

 和泉さんは一瞬不審そうな表情を浮かべたが、すぐに視線をそらした。傷の痛みに苦しんでいるとでも思ってくれたのかもしれない。

 僕は軽く深呼吸をすると、しっかりと彼女に向き直った。指を動かしながら、これまでの彼女の言動を整理する。これまでの、彼女たちの行動を省みる。

 和泉さんがもう二度と経験したくないという“何か”。必死にカナラを求めるるわけ。そして、五業が言っていた「その女さえいれば、僕たちの体をまともにすることができる」という意味深な台詞。

 僕は探るように視線を向けたまま、

「――もしかして君たちは、カナラがいないと長く生きられないの?」

 和泉さんは何も言わず、アシンになった前髪の裏側にある暗い瞳で、僕の目を見返す。それが、答えを述べていた。

 そうか。そういうことか。

 “触れない男”も、五業も、和泉さんも、“生きたい”からカナラを求めていた。それが何故なのかはわからない。だけど、ここまでして必死に彼女を捕まえようとしている理由としては十分に納得できる。

 僕は彼らの姿を思い出してみた。使命感や欲望によるものというよりは、彼らは全員、切実な何かによってカナラを求めていた。必死になって、彼女の姿を探していた。もしそれが“生きる”ためだというのならば、確かに納得はいく。

 だとすれば、僕のしてきたことは……。

 僅かに後悔の念が浮かびかけたが、原因不明の死を遂げた瑞樹みずきさんや、桂場のことを思い出し、その気持ちを押しとどめた。どんな理由があろうとも、彼らに害をこうむったことは正しい真似ではない。許せることではない。そう納得しなければ、やりきれるものじゃなかった。

「……和泉さん。君は一度死んで蘇った。何でそんなことになったのか、教えてくれないかな」

 僕の問いかけに対し、和泉さんは小さく自嘲気味な笑みを浮かべた。力の篭らない腕を後ろに倒し、体重を乗せる。何だかありとあらゆる全ての物事に、絶望してるかのような表情だった。

 虚ろな目で僕を見返し、彼女は言葉をつづった。

「私たちは、“フランケンシュタインの怪物”なんですよ。先輩」

「フランケンシュタイン……?」

「あれ、知りませんか? とある天才科学者が、“理想の人間”を作り出すことに執着し、醜い怪物を生み出してしまう話です。有名だと思うんですけど……」

 当然知っている。確か、メアリー・シェリーという人物が書いた古い小説だ。これまで多くの映像化がなされてきた名作である。

 ある日、フランケンシュタインという学者が生命の心理を追い求める過程で、人工的に命を生み出す方法に着目し、自分の理想の人間を作ろうとした。彼は墓を漁って集めてきた自分好みの人体パーツを寄せ集め、無理やりひとつの人間の形を形成した。幾度もの実験の末に、その死体は目を覚まし、自我を持つようになった。だが、起き上がった存在はとても“人間”と呼べるような代物ではなかった。ツギハギだらけの顔に、歪んだ眼球。血走った目にアンバランスな骨格。人体を簡単に引きちぎれるほどの筋力。それは、まるで“怪物”だった。フランケンシュタインは自分が生み出したものに恐怖を抱き、その場から逃亡したのだが、怪物は自身の存在理由を求めて彼を追いかけた。フランケンシュタインは長い旅を得てたどり着いた怪物を拒否した。その存在を否定した。怪物はせめて一人は嫌だと懇願し、自分の伴侶を作るようにと頼んだのだが、フランケンシュタインは怪物の増殖を恐れてそれを否定した。怒り狂った怪物は、フランケンシュタインの家族を皆殺しにし、その場を去った。残されたフランケンシュタインは、狂おしいほどの憎悪を抱えながら怪物を追ったのだけれど、とうとう見つけることができずに力尽きてしまった。彼の死を知った怪物は、自分が生まれた意味について嘆きながら、ひとり北極に向かい、そこで自らに火をつけて命を終わせる。

 何とも悲しく切ない物語だ。小学生の頃図書室で読んで、センチメンタルな気持ちになった覚えがある。

「――私たちは、ある目的を持って作られました。甦えさせられました。でも、あの物語に登場する怪物のように、ツギハギだらけの体では不完全だったんです。私たちの体には無数の欠陥がある。だから、私たちには本物が必要でした。欠陥を修正するための指針が、現存する“理想の人間”が」

 それが、……カナラだっていうのか。

 脳裏に五業の台詞が再び蘇る。


『で、でも、ぼくたちは自然な存在じゃない。無理やり継ぎ合わされて、再構成されたまがい品なんだ。そ、その女が、ぼ、ぼくたちの探している人物なら、ぼくたちの体を、ぼ、ぼくたちの不均一さをまともにすることが、ことができるはずな、なんだ』

 

 思考を巡らせている僕を他所に、和泉さんは言葉を続けた。

「好きでこんな身体になったんじゃありません。でも、それでも、嫌だったんです。もう一度あの暗い瞬間を経験するのは……全ての“終わり”をもう一度味わうのは……」

 死にたくなかった。それだけが、彼女の、いや、彼らの純粋な願いだった。そのために彼らは暗躍し、情報を集め、カナラを探した。全ては“生きる”ために。“生きていたかった”から。

「おかしな話ですよね。あんなに人生に不満を持っていたのに。やりたくない塾や習い事に追われる生活も、家事や内職に勤しむだけの生活も、親やクラスメイトの顔色を伺う生活も、全部、全部嫌だった。早く終わって欲しいとすら思っていた。――それなのに、私は今、必死に生きようともがいている。こんな無様な身体になってまで」

 和泉さんは土を握り締めた。

「先輩……! もう一度人生をやり直したいと思うことの何が悪いんですか? 何がいけないんですか? 私だって、人並みの生活を送りたい。少しくらい、夢を見たっていいじゃないですか。どうせ、誰も助けてなんかくれないんだ。例え誰かの幸福を犠牲にしてでも、そうするしかないじゃないですか……!」

 訴えるように叫ぶ和泉さん。感情的で独善的な言葉だったが、どこか贖罪を求めているようにも聞こえた。

 



 いやな気分だ。

 胸の中に綿が詰まっているような錯覚を覚える。

 彼女の訴えはもっともだ。誰だって、死ぬとわかっていてそれを認められるはずがない。一度その苦しみを、絶望を味わった者たちなら、なおさらのこと。

 それは、ただ“生きたい”という純粋な願い。誰しもが持っている当たり前の感情。

 千花を渡さなければ和泉さんは死ぬ。もう一度、あの暗い世界へ帰ることになる。

 同じものを追体験したから、見たからこそよくわかる。あれは確かに、二度と味わいたくはない思い出だった。 

 僕は奥歯を噛み締めた。

 でも、けれど、だからといって千花を渡せるわけがない。そんなこと、できるわけがない。

 和泉さんの訴えは間違っていない。きっと僕が同じ立場だったのなら、同じように千花を捕まえようとするかもしれない。

 “生きる”とは所詮どこまでいっても奪い合いだ。限られた量の水を、自分という渦巻きに巻き込む作業。自分も、他人も、水でできているのは変わらず、同じようなただの“流れ”の違いでしかないのに、必死にその渦を維持しようと水を奪い合う。

 確固たる意思を持って奪うのならいい。正しいとか、間違いとかじゃなく、それは持って生まれた命という現象を維持するための、当たり前の行動だから。当然の権利だから。自らの意思で望んでそうしているのならば、敵対心はあっても文句はない。

 でも――

 僕は和泉さんの顔を見つめた。

 どうしてだろうか。僕には彼女が、本当に自分の意思で行動しているようには思えなかった。


 

 手から滴り落ちた水滴が僕の足元に波紋を作る。それは“蟲喰い”を発生させたときのように緩やかに広がり、波を立てた。

 「和泉さん」と、僕は彼女の名前を呼んだ。消沈していた彼女は、上目遣いでこちらを見上げた。

「今まで君たちの記憶を見てきて、なんとなくわかったことがある。僕たちの起こせる現象は、僕たちの深層心理に大きく影響しているみたいだ。“触れない男”……九業は、人間関係の摩擦に苦しみ死を迎えた。五業は他人とのコミュニケーションがうまくいかず、自ら死を選んだ。そして僕は、過去の事実、罪を消したくて、ずっと苦しんでいた」

「……何が言いたいんですか?」

「君がもし本当に自分の境遇を憎んでいたのなら、発生する現象もそれに準じるものになっていたと思う。けど、君の起こせる現象は違った。まるで“流れ”に沿うように、流れに従うことを喜んでいるかのように作られている。……和泉さん。君は心のどこかで追い詰められている自分を、束縛されている自分を哀れに思い、悲劇のヒロインを演じていたんじゃないのかな。その辛い環境に、苦しみに、満足を感じていた。だから、“そんな現象”を起こせるようになった」

「そんなことは……」

 和泉さんは否定しようとしたが、何か思うところがあったのか、途中で台詞をとぎらせた。

「君の記憶を見たからよくわかる。君は常に、誰かが自分を助けてくれると思っていた。どんなに不幸な状況だろうと、その状況から逃れることを恐れていた。それ以上、状況が悪化することを、何かが変わってしまうことを」

 僕は三年前のことを思いだした。あの時の自分も、彼女のように絶望し、他人に流されるままに行動していた。それ以上、自分のせいで誰かが傷つくのも、害を被るのも嫌だったから。だが、それは間違いなのだ。それでは何の解決にもならない。ただ、現状の辛さを停滞させるだけ。よりいっそう、自分の立場を悪くするだけなのだ。僕はそれを身を持って思い知っている。

「君は、千花を救える可能性から逃げているだけだ。そのほうが楽だから。苦しまなくて済むから。ただ“誰か”の言いなりになっているだけで、行動の理由を与えてもらえるから。――けど、そんなのは間違っている。それじゃあどこまで行っても何も変わらない。……和泉さん。本当に不幸から脱出するためには、誰かの助けを待つんじゃなく、自分から不幸の外に向かっていくしかないんだよ。それだけが自分を救える唯一の方法なんだ」

「……っ知ったような口を、聞かないでください。あなたに何が……!」

 和泉さんは心をざわつかせたように、そう言い返した。

「……そうだね。僕は君のことを何も知らないし、君がどんな思いでここまできたのかもわからない。だから君の行動を否定はしても、あざけるつもりなんてない。……ただ、残念には思うけれどね」

 和泉さんは黙っている。

「君が本心から千花の自由を奪いたいのなら、僕はそのたびに君を撃退する。何度でも、何度でも、何度でも。君が諦めるまで。けど、もしそれがただ誰かの言いなりになっているだけなら、違う道も考えて欲しい。本当に千花を犠牲にするしか方法はないのか。もっといい手段があるんじゃないのかって」

「あなたはっ、何も知らないからそんなことが言えるんです。私たちは死人です。本来なら、無理やり組み合わせられて、再構築された歩く残骸。そんな存在が、犠牲もなしにまともに生きていけると思いますか?」

「犠牲を作ることに恐れを抱いていたから、君はあの日以降、僕たちを襲わなかったんじゃないの? 何度もチャンスはあったのに」

「それは……」

 口ごもり、こぶしを握り締める和泉さん。少し、後悔しているように見えた。

「本当は君もわかっているんだろ。これが正しくない行動だって。自分の我を通して他人に害を与えるのは、愚者のすることだ。君がもっとも嫌っている、あの借金取りの男たちのように。君のエゴで、千花の――彼女の“自由”を奪わないで欲しい」

 彼女の姉の姿を想像し、訴えかけるように、問いかけるようにそう述べる。僕の台詞を聞いた和泉さんは、一瞬言葉を詰まらせたのちに、苦笑いのような表情を浮かべ、下を向いた。

「……そんな言い方は……ずるいですよ、先輩」

 自分がずっと追い求めていたものを引き合いに出されたのだ。彼女としてはもっとも言われたくはない言葉だっただろう。だからこそ、僕はそれを選択したのだが。

 空気が僅かに冷ややかになったせいで、少しだけ肌寒い。

 増加した白い雲が、燦々(さんさん)と輝いていた太陽の光を僅かに覆い始める。もうそろそろ子供はオヤツの時間だろう。

 お姉さんのことを、考えているのだろうか。

 もう記憶を覗くことはできないけれど、和泉さんの表情は、どこか後ろめたさに満ちているように見えた。

 彼女は差し込む光を見上げると、心細そうに呟いた。

「お日様……隠れちゃいましたね」

 小鳥の群れが頭上を通過し、西の方へと飛んでゆく。僕は黙って彼らの背中を見つめた。

 和泉さんはどこか疲れたよいうな、呆れたような表情でこちらを見返すと、小さなため息を吐いた。

「先輩って、意外とお人好しなんですね。もっと冷たい人かと思ってました」

「僕は、別にいい人間なんかじゃないよ。――ただ、そういうヤツになりたいとは思ってるけどね」

 くせ毛頭の友人を思い出し、優しく微笑む。和泉さんは寂しそうに小さな微笑みを浮かべると、擦り切れそうな声で呟いた。それは、諦めにも似た声だった。

「……なぁんだ。ちゃんと助けてくれる人も、いるんですね」




 噴水広場は、まるで戦争でもあったかのようにボロボロに朽ち果て、水浸しになっていた。

 土は抉れ配水管がむき出しになり、池にはいくつもの枝が浮かんでいる。幸いにもあまり人が立ち寄る場所ではなかったため、今のところ騒ぎになることはなかったが、配管の破損によって送水が停止したことで、それを制御している施設に異常の信号くらいは出ているはずだ。係員が駆けつける前にこの場を離れたほうがいいだろう。

 シャツの下側を絞り、水を吐き出させると、僕は噴水の前に立っている和泉さんに向き直った。視線に気がついた彼女はバツが悪そうに目を逸らすと、ぶっきらぼうに声を出した。

「……千花さんが捕まるのは時間の問題なんですよ。たった二人で、いつまでも逃げられるはずがありません。例え私が手を出さなくても限界が来るのは目に見えています」

 とりあえず僕の顔を立てて、引いてくれるということだろうか。冷たい台詞のようだったが、それは彼女なりに気遣いなのだと理解できた。

「そうだね。……わかってる」

 だから、急がなければならない。三人に見つかったのだ。もう、いつ彼らの“父親”に目を付けられてもおかしくはない。僕は神妙な顔で頷いた。

「和泉さん、せめて君たちを作ったのがどういう存在なのか、教えてくれないかな。僕にはどうしても、死者を生き返らせるなんて芸当を、信じることができないんだ」

 駄目元での質問だったのだが、和泉さんは簡単に答えてくれた。あまり秘密にするようなことでもなかったのかもしれない。

「だから、言ったじゃないですか。私たちは“フランケンシュタインの怪物”なんです。私たちを作ったのは、あれと同じ、ひとりの人間ですよ」

 ひとりの人間――。

 国家的な大組織が絡んでいるのならば、これまでのようにちまちま“彼ら”を送り込むなんて真似をせずとも、いくらでも僕たちを拘束する方法はある。それをしないのは、できないのは、相手が権力を持たない“個人”だから。和泉さんの言葉には、どことなく信ぴょう性があった。

 彼女は僕に背を向けると、聞き取れないような小さな声で、別れの言葉を述べた。

「それじゃあ、先輩。――さようなら。今日は、本当に楽しかったですよ」

 午前中のデートのことを言っているのだろうか。午後の争いなどなにごともなかったかのように、彼女は手を軽く振った。風にアシンメトリーの前髪が揺れ、彼女の整った横顔を微かに晒す。

 僕はポケットに入れていた帽子のことを思い出したのだけれど、その姿があまりにも切なげだったため、声を掛けることができなかった。指に力を込めると、涙のように帽子から水が滴った。




 複数の鳥が羽ばたき、川の上を通り過ぎていった。

 彼らは自由きままに空を駆け巡ると、もうこの近辺には飽きたとでも言うように、颯爽と西の方角へ遠のいてゆく。

 よく、鳥は自由でいいななんて言葉を聞くけれど、正直、それは大きな間違いだと思う。空には無数の外敵が存在するし、隠れる場所も何もない。一見すれば好き放題に羽を動かしているように見えて、しっかりと危険の少ない場所を選んで飛んでいる。人間の目にはわからないけれど、彼らには彼らなりのルートがあり、それを選択して移動しているのだ。

 どこを進み、どう進むか決めるのは鳥自身だけれど、そういった外的要因や状況のせいで、行ける場所は限られてしまう。しかしそれでも頑張って移動し続けるものが、新しい景色、新しい餌場を見ることができるのだろう。

 ――そんなどうでもいい感想を、僕は去りゆく鳥たちの影に抱いた。

 手に持っていた小説を鞄の上に置き、草の上に寝っ転がる。日差しがかなり気持ちよく、今すぐにでも寝てしまいそうだった。

 土手の上にいるせいで、寝ていても下の光景がよく見える。数メートル下の歩道では、こんな炎天下の中、汗一つかかずランニングしている女性がおり、そのさらに向こうでは、サッカーに勤しむ小学生たちの姿が見えた。

 何もしていなくても疲れる状況なのに、よくもまあ体力がつきないものだ。あれが若さというものだろうか。まあ、僕だってまだ十代なのだが。

 こっつ、という音が耳元でなり、優しい花の香りが舞い上がる。視線を左に向けると、ちょうど千花が腰を下ろすところだった。今日は白いワンピースのような、妙に清楚な服装をしている。慣れない彼女の姿に、僕はちょっとだけどきりとしてしまった。

「いい天気だね。何だか気持ちまで明るくなる気がする」

 彼女は一生懸命に走っている小学生たちを眺め、微笑ましそうにそう言った。

「後ろの道路さえなければもっといいんだけど」

 軽く背後を振り返りながら、僕は苦笑いを浮かべた。そこだけがもったいないと思っていた。

 千花は背後、土手の下にある道路を見返すと、困ったように僕の顔を見た。

「そんなに頻繁に車が通るわけでもないし、別にいいと思うけどなぁ。穿くん、意外と神経質?」

「そんなことないと思うけど……」

 自分ではそう思っているのだが、千花に言われると妙に気になってしまう。ただ軽く言われただけの言葉だが、そういうところが神経質ということになるのだろうか。僕は僅かに考え込んでしまった。

「はい。これ、冷たいよ?」

 微笑みながら、千花が僕の首元に缶ジュースを置いた。肌に触れているわけではないのに、冷たい冷気が血管を萎縮させる。道路側に設置された自販機で買ってきてくれたようだった。

「ありがとう」

 僕は起き上がると、礼を言ってそれを喉に流し込んだ。キンキンに冷えた炭酸が口の中でスパークを起こし、実に心地良い。

「それで、穿くんは何でこんなところで寝ていたの?」

「太陽が気持ちよかったからね。ちょっと早めにきたから、最初は本を読んでいたんだけど、読み終わっちゃったからさ。向こうの日陰の方に行こっか?」

 僕は眼下にある屋根付きのベンチに視線を向けた。

「ん、別にいいよ。私も日差しは好きだし、最近昼間はあんまり外に出なかったから、ちょっと日光浴もしたいんだ」

「あんまり当たりすぎると、日焼けするよ」

「大丈夫、クリーム塗ってきたから」

 何故か自慢げに千花は鼻を鳴らした。

 僕はジュースをちびちびと飲みながら、そのままぼうっと下の景色を眺め続けた。

 ここは比較的北区よりの場所だから、何匹かセミもいるようだ。遠くの木からつがいを求める声が、幾重にも鳴り響いていた。東京ではただひたすら五月蝿うるさいと思っていたセミだけれど、こうして久しぶりに聞くと、心地よく思えるから不思議である。別にホームシックになっているつもりはないんだけれど。

 どれだけそうしていたのだろうか。しばらくして千花が、囁くように質問した。

 「――……それで、和泉さんは、今後どうするつもりなの?」

 僕は前を向いたまま、

「とりあえず、直接僕たちに絡むことはないと思う。彼女には僕たちが捕まるのは時間の問題だと思っている節がある。たぶん、僕たちの残された時間のことを配慮して、一時的に手を引いてくれたんだろうね」

「それって、直接手は下さないだけってこと? 協力してくれるわけじゃないんだよね」

「あくまで、一時的に手を引いてくれただけだよ。僕たちの情報を漏らすことはないと思うけど、助けになることもないと思う」

「……そっか」

 何かを考えるように、千花は頬杖をついた。僕がちろりと横目でみると、柔らかそうな頬が大きく歪んでいた。

「じゃあ、一応和泉さんや“神隠し”の問題はひとまずこれで解決したことになるのかな」

「そういうことになるね」

 僕は片膝の前に両手を回しながら、彼女の顔を見つめた。

「五業や和泉さんの話を信じるのなら、僕たちを追っているのは大規模な組織ってわけじゃない。少数の、それもヘタをしたら数人の集団ってことになる。彼らが例の研究所とどんな関わりを持っているのかはわからないけれど、ローカルな集団なら、まだなんとかなるかもしれない」

「なんとかなる?」

「これまでのことから考えると、少なくとも彼らは隠密にことを運ぼうとしている。だから敢えて、証拠の残りにくい、“怪物”たちを使って君を捕まえようとした。彼らは“死人”だから、もし何らかの理由で捕まっても身元が割れることがない。――でも、彼らを“作った人間”なら話は別だ。本当に死者を生き返らせているのかどうかは知らないけど、他人の遺体を奪い、勝手に弄り回しているのは明らかに違法なはず。それをなんとか立証できれば……」

「でも、献体契約という名目上集めた遺体なら、それも難しいんじゃないかなぁ。医療行為って割り切れば、いくらでも言い逃れができるんじゃぁ」

「それが、本当に医療行為に使われていたんだったらね」

 僕は一口だけ缶の中身を飲み込んだ。

「“作った人間”が捕まり、その上で“触れない男”たちの遺体を検証すれば、それが明らかに通常の治療によってもたらされた存在じゃないことがわかるはず。例え“現象”や彼らの特異性を証明できなくとも、“作った人間”と国に関わりがないのなら、それだけで傷害罪や殺人未遂に立証される可能性が高い。“触れない男”の呼称が九業というのなら、少なくともそういった被害者は九人以上存在していたんだろう。そんな数の違法手術を行ったんだ。一度牢獄に入れば、きっと二度と外には出てこれないと思う」

「そんなに上手くいくとは思えないけど……」

 何だか不審そうに、千花は目を細めた。

 勿論、僕もそんなに思い通りにことが運ぶとは思ってはいない。けれど、行動の指針としては悪くないはずだ。得体のしれない存在から狙われていれば、ただ必死に逃げるしか道がないけれど、相手の正体さえ掴むことができれば、戦いようはある。少なくとも、これ以上状況が悪化することは防げる。

「どっち道、今の僕たちにできることはそれぐらいしかないよ。こっちは僕と君しかいないんだ。無理に動いて悟られれば、それだけで取り返しのつかないことになる。流石に“触れない男”みたいのが何人も同時にかかってきたら、僕だってどうしようもないからね。切羽詰っているのはわかるけれど、だからこそ慎重に行動するにこしたことはない」

「……わかった。じゃあ、とり合えず、例の研究所について調べるのを、また続けるってことでいいのかな?」

「とりあえずはそうだね。まあ、二、三気になることがないわけでもないけれど」

 僕は五業たちを殺した“誰か”の存在と、緑也の知人が目撃したという色白の男のことを思い浮かべた。瑞樹さんが死んだ日に一緒に行動していたという謎の人物だ。確証はないけれど、その人物は間違いなくこの事件に関わっている気がした。

「気になること?」

「……大したことじゃないよ。別に」

 僕は缶の中身を最後まで飲みきると、それを横の草むらの上に置いた。今はまだ、彼女には説明する必要はない。余計な不安を煽っても意味はないから。

「……前から思っていたけど、穿くんって凄いね。普通こんな状況だったらもっと慌てるか怖がっていると思うけど」

「まあ、慣れてきたっていうのも大きいけど……一年ちょい前に、ひどい事件に関わったことがあるからさ。――それに、怖がってないわけじゃないよ。怖いからこそ失敗したくないんだ。失敗したら、それで終わりだから」

 失敗すれば千花を失う事になる。苦しませることになる。それだけは、なんとしても避けなければならない。彼女のためにも、“僕”のためにも。

 強い風邪が吹き、空き缶が倒れる。僕が拾おうとすると、千花がそれを押しとどめた。

「捨ててくる」

「僕が行くよ。一本もらったし」

「別にいいよ。ついでにトイレに行きたかったから」

 彼女は倒れた空き缶を拾うと、そのまま、とことこ土手の下に降りていった。

 何だか申し訳なかったが、行ってしまった以上、仕方がない。今度おごり返せばいいだろう。

 僕はゆっくりと体を後ろに倒し、頭上に目を向けた。

 雲一つない、絵の具を塗りたくったような真っ青な空だった。

 その何もなさに喚起されるように、僕は昨日の出来事を思い出した。和泉さんと一緒に飛び込んだ、水中。そこで見た人影……。

 ……あれは、何だったんだろう。あのとき見た“記憶”は――


 暗い、真っ黒な廃墟の中。ひとり泣きべそをかきながらうずくまる“僕”。視界に映る指肢や服装から判断するに、女性の身体のようだったけれど、和泉さんよりも背は高く、どういうわけが、体中に傷跡があった。“僕”は全てに絶望し、傷つき、そのまま寝てしまおうかと思っていたのだが、誰かの気配を感じて顔を上げた。入口のほう、闇のもっとも深い場所に、誰かが立っているようだった。影の形から考えるに、自分とそう変わらない大きさの少年らしい。“僕”は立ち上がろうとしたのだが、思うように身体に力が入らず、諦めてそのままその場に座り込んだ。“誰か”は僕に近づくと、棒読みのような笑い声を僅かに漏らした。酷く感情のない声だった。彼はしばらく“僕”の様子を確認したのち、ゆっくりと腕を伸ばした。“僕”には既に抵抗できるほどの気力はなく、何も考えずに彼の動きを見つめていた。視界に映るのは、彼の手だけだ。白い、雪のような肌。少年であることは間違いないはずなのに、それは、まるで少女のように綺麗な手だった。


「穿くんー」

 丘の下から千花が声をあげる。僕が首だけをあげて覗き込むと、彼女の足元に何やら黒い塊がまとわりついていた。

 何だ、あれ?

 まじまじと目を凝らしてみると、それが子犬であるとわかった。嬉しそうに尻尾を振りながら、千花の足に前足を乗せている。――甲斐犬 (かいけん)だろうか。

「野良犬?」

「そうみたい。なんかすっごい勢いで走ってきた」

 そういえば、こっちに来てから野良犬は初めて見た。あまり数がいないのだろうか。確かに餌場は少なそうだが……。

 笑っている千花を見て、何だか僕まで楽しくなった。元々、動物は大好きだ。僕の祖父は秋田に住んでいるのだが、家と裏山の間には、いつも大量の猫が遊びに来ており、祖父を訪れるたびに猫たちとじゃれて遊んでいた。最近はあまり訪れる機会も減ってきたから、ちょっぴり寂しいと思っていたほどである。

 僕は千花のところに降りようと思ったのだが、それであの犬が逃げてしまっても悪いと思い、少しだけ様子を見ることにした。走り回る子犬とそれに反応している千花の姿を眺めつつ、小さくあくびをする。

 と、ちょうどそのとき、強い風が吹いた。枯葉が飛び上がり、流れに乗って遠ざかっていく。鞄の上に置いていた本のページがパラパラと逆さにされたようにめくり上がった。

 中に挟んでいた枝折しおりが飛ばされそうになったので、僕は慌てて本の上に手を当てた。“枯毒の村”という表紙が、指の隙間から目に入る。読み終わったのはいいが、めんどくさがって仕舞うのを忘れていた。

 鞄のチャックを開け、それを収納しようとしたところで、僕はふと、小説の内容を思い出した。

 旅人を捕まえ奴隷として扱う村で生まれ育った少女は、偶然捕まった少年にいっしょに逃げようと迫られる。そこまではよかったのだが、結末にどうしても納得することができなかった。

 僕は少女と少年が協力して村から脱出して、ハッピーエンドを迎える様を期待していたのだが、少女は最後の最後で、少年の手を振りほどいた。自分はやはりここに残ると、この場所でしか生きられないからと、少年は必死に説得するも、少女は一向に頷こうとはしない。そうこうしているうちに追手が迫り始め、少年は泣く泣く少女を手放し、村から飛び出した。去りゆく少年の姿を、少女は寂しそうに、どこか満足げにに見つめつづける。

 何とも微妙な終わりだ。散々苦労して引っ張って、結局そんなオチかと、正直がっかりした。感情移入してストーリーにのめり込んでいた身としては、どうしても落胆を隠すことはできない。まぁ、それが作者の意図したことではあるのだろうけれど……。

 そっと鞄の底に本を仕舞い、チャックを閉める。千花にくっついていた子犬は、通りすがりの散歩の犬に向かって、唸り声をあげていた。あれではまだしばらく出て行かない方がよさそうだ。

 何気なく視線を川のほうに向けると、白く丸いものが反射して見えた。月だ。こんな時間にまでまだ見えるとは珍しい。

 僕はやんわりと浮かんでいる月に視線を集中させた。実際はとんでもない距離で離れているはずなのに、こうしてみるとすごく近いように感じられる。まるで蜃気楼を眺めているかのような感じだ。

 子犬の雄叫びと千花の困った声を聞きながら、しばしの休息を楽しむように、僕はぼうっと月を眺め続けた。

 


 5

 

「月……か」

 空を見上げながら、夏帆は呟いた。

 そういえば、あの時も月が出ていた。普通朝や昼間に見えることは少ないのに、ここ数日はよく目に付く。

 雲が少ないからだろうか。それとも、距離が近くなっているから?

 しばし考えてみたがちょうど良い答えは出てこない。ずっと見ていたら首が痛くなってきたので、一旦、視線を下ろすことにした。

 眼下に広がるのは小さな町並み。それほど高い丘にいるわけではないはずなのに、三階以上の建物が少ないせいで、周囲を気持ちいいほどに一望することができる。それはまるで、床に散らばったレゴブロックのようだった。

「……何もない街」

 来た時も思ったが、こうして上から見るとよくわかる。この明社町にあるのは住宅街と工場と、小さな海だけ。北に行けば海水浴場はあるものの、少し南に降りれば畑しかないど田舎。住民たちは何故こんなところに住んでいるのか、甚だ疑問だった。

 彼らも自分のように囚われているのだろうか。“故郷“という安らぎに、生まれ育った街という形骸に。

 緑也先輩はそれがいいんだって言ってたけど、正直、夏帆にはその気持ちがよくわからなかった。

確かに、空気は綺麗だし、静かで落ち着くといえば、落ち着くけれど……どうしても寂しいという気持ちが拭えない。

 しばらく道という道に視線を這わせてみても、歩いている人は数人だけ。よく地方から都会に出てきた人は、人が多すぎて落ち着かない、街がうるさすぎるというけれど、逆に夏帆にとってこの明杜町は、無音にも等しい場所だった。

 静かな場所にいると、どうしてもあの光景を思い出す。激しく叩かれる扉の音。ひとり黙々と、永遠とも思えるような時間手を動かし続けていたこと。もう、二度と味わいたくない経験だ。

 お姉ちゃんは、美帆はどうしているだろうか。

 “この体”になってからしばらくして探してみたけれど、一向に消息を掴むことはできなかった。家は既に売り払われ、近所のひとたちも誰ひとり消息を知らなかった。もし、あの借金取りたちにいいように利用されていると思うと……罪悪感を隠すことができない。

 夏帆は穿の放った言葉を思い出した。彼のいうとおり、確かに自分は逃げることを諦めていた。誰かが助けてくれると願っていた。だが、それだけではない。

 夏帆は借金地獄に陥ってから、自分が必要とされることに喜びを感じていた。家族としっかりと本心で話せるようになったことに、安堵していたのだ。だから、自分から戦おうとはしなかった。まだ子子供だからと言い訳して。お姉ちゃんの影に隠れて。それが、あんな結末を呼び寄せてしまった。

 自分が死んだことで、お姉ちゃんたちは多大なる苦労を強いられたはずだ。ただでさえひどい有様だったのに、よりいっそう深い絶望に追いやられてしまったはずだ。

 だから、何としても彼女たちを助けたかった。行方を知りたかった。今の自分になら、彼女たちを守ることができるから。そのために、まだ“生きて”いたかった。

 穿たちがいずれ捕まることは明白だった。自分の“親”はそう甘い人間ではない。確かに大きな組織の庇護にあるわけでも、国と関わりを持っているわけでもないが、あの人には強大な人脈と地位がある。利用しようと思えば利用できないものはないし、手に入れようとすれば、入らないものはない。だから彼はここまで自由に死体を手に入れることもできたし、それを弄りまわして隠すこともできた。大人と、子供というだけで、それだけで立場の差は歴然なのだ。この社会は地位のあるものが優位に動けるようにできているのだから。

 彼らが捕まることに、罪悪感を覚えないわけではない。だが、そうしなければ自分は生きていくことができない。お姉ちゃんを救うことができない。当たり前のことだが、何かを得るには何かを犠牲にする必要がある。家族を救うために、夏帆は他の全てを切り捨てる覚悟を決めたのだから。

 遠くの方に白い船が見えた。緩やかな波の上を、のんびりとした動きで移動している。それは進んでいるように見えて、止まっているようにも見えた。

 夏帆は小さくため息を吐いた。

 いくら直接手を下さないことにしても、まったく探す素振りを見せなかったら、他の連中に怪しまれる。どこに目があるのかわからないのだ。少なくとも、ゲームセンターでの聞き込みは続けたほうがいいだろう。また、先輩たちに会ってしまう可能性が高いことは、ちょっぴり不安ではあるけれど。

 立ち上がり、ショートパンツの後ろについたホコリを叩いて落とす。下の道路に繋がっている階段に向かおうとしたのだが、

 じゃりっと、背後から足音が響いた。

 それまでまったく物音はなかったはずなのに、急に背後に人の気配を感じる。何だか嫌な予感がした。

 恐る恐る振り返り、木々の前に立っている人物の姿を視界に収める。それは、完全に予想外の人物だった。

「――えっ……何で……!?」

 “やあ、――六業かほ

 相手は静かに笑みをこぼすと、ゆっくりと腕を前に伸ばした。夏帆は飛び退いて逃げようとしたのだが、既に遅かったようで、腹部に相手の手のひらの熱を感じた。

 皮膚から。肉から。骨へ。徐々に何かが変化していく。自分の血が、体が、全て自分の身を害する何かに変質してしまったような感触だった。

 鉄の味が胃と肺に充満し、口の中に熱い液体が逆流してくる。

 目、鼻、耳――ありとあらゆる穴から赤いものが垂れ、それは夏帆の命を蝕んだ。

 そうか。……じゃあ、やっぱり九業や五業たちは……

 穿先輩があんな惨たらしい殺しをしたことに疑問は感じていたが、それが間違いではなかったと悟る。

 街に入った七人のうち、五人は“既に死亡”している。恐らくこの人が、それをやったのだ。穿先輩やその他の人たちをたくみに利用して、自分たちを欺くために……。

 視界が暗くなり、音も遠くなってきた。これは、“あの感覚”だ。全ての終わり。全ての終着点。命の最終形態。

「ごめん、お姉ちゃん。……私、また……」

 懺悔の言葉を述べようとするも、喉が上手く動かない。結局言葉を絞り出すより早く、夏帆の意識はそこで、完全にブラック・アウトを迎えた。

 



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