第二十章 忘失(ぼうしつ)
1
今日の夕食は僕の番だったので、適当に野菜を切って、肉と一緒に炒める。いつもは自室に篭っている父も、珍しくリビングでテレビを観ていた。
料理酒と、みりんと醤油とごま油。にんにくなどの簡単な味付けをして、皿にのせる。少し味気ないと思ったので、昨日買った豆腐を冷蔵庫から取り出し、生姜とねぎをのせて醤油をかけ、味噌汁の横に置いた。
父は無言で料理に視線を移すと、体の向きをただし、小さく「頂きます」と呟いた。
今父が見ていたものは、世界中のあらゆる珍妙な事件を取り上げるという番組で、毎週月曜日はそれを見ることが、彼の楽しみのようだった。
二人とも無言でテレビを見続ける。引っ越してきてそれなりに日数は経ったけれど、未だに会話はあまりなかった。
僕は早く自室に戻って、あることに関する調査の続きを行いたかったのだが、箸をすばやく動かしている間に、珍しく父が話しかけてきた。
穿と、短く僕の名を呼ぶ。
妙な間があったので、僕は怪訝に思い顔を上げた。
「なに?」
父はテレビを見つめたまま、ゆっくりと口を動かした。
「学校のほうはどうなんだ?」
「別に、普通だよ。友達も何人かできたし、それなりに充実してると思うけど」
「そうか。夏休みはどうするんだ? 実家のほうの友人たちに会いに戻るのか?」
「どうだろう。今のところその予定はないけど……」
この町にカナラがいなければ、“触れない男”に遭遇しなければ、確かにそんな選択肢もあっただろうが、この状況ではとてもじゃないが都心に戻っている余裕などない。僕はいつものようにあいまいな返事をした。
「一応、メールでは連絡を取り合ってるよ。二人とも暇で死にそうみたいだったけど」
「学生時代の友人は人生の宝になるぞ。ちゃんと大切にしとけよ」
「分かってるって。そんなこと」
何だか今日は妙に饒舌だ。こういうとき、大抵父は本当に言いたいことを隠している。無駄な探りあいや言葉遊びはしたくなかったので、素直にその気持ちを押し出してみた。
「どうしたの、父さん?」
「ん、何が?」
「何か言いたいことがあるように見えるけど」
「……ちょっとな」
気まずそうに頭を掻きながら、体の向きをこちらに変える。しわの出始めた、疲れたような顔で僕を見つめた。
「お前、こっちに来てからまだ一度も“行って”ないだろ。夏休みなんだし、たまには顔を見せたらどうなんだ?」
すぐに何のことか理解し、僕は表情を強張らせた。
「お前の気持ちは理解しているつもりだけど、ずっとそのままってわけにもいかないだろ。例えわかっていなくとも、行くっていう気持ちが大切なんだぞ」
やめてくれ、そんなお決まりな説教は聞きたくない。
僕は静かに箸を置いた。
「そうだね。確かにごたごたしていて、行ってなかったなぁ」
「……お前はいつもそうやって聞こえのいい返事をしてるけど、本気でそう思ってないだろ。いいかげん、しっかり向き合え」
知ったかのような口調で話す父。その態度に、僕は少しだけ怒りを覚えた。
「分かってるよ。……わかってる」
声を僅かに荒げ、威嚇のような真似をとってしまう。父は至極当然なことを話しているだけなのに。
まだ料理はいくらか皿に残っていたが、これ以上口に運ぶ気持ちにはなれなかった。
僕は椅子から立ち上がると、食器を持って流しに向かった。
「穿、ちゃんと話を……――」
置いた食器に水を通し、そのまま自室へ歩き出す。料理担当の日は父が食器の洗浄を担当することになっているので、問題はない。
まだ何か言いたそうにこちらを見ている父の横を素通りし、僕は中扉を閉めた。
部屋に入るなりにベットに横たわり、腕で目を塞ぐ。
着替えることも忘れ、僕はただ僕はそのまま固まり続けた。
父は、――父さんは知らない。
あの日本当は何があったかも。
僕が人殺しだということも。
僕がどういう心境で日々を過ごしているか、何に苦しんでいるかも。
辛い目に合っている人は数多くいるだろうけど、いくら伝えようとしても、結局それを本気で理解できるのは本人だけだ。その感触も、痛みも、苦しみも、実際にその場にいた人間しか体験していないのだから。
あの人は何も分かっていない。
別に、父を責めるつもりも、悲劇のヒロインぶるつもりもない。ただ、どうしても心の整理がつかないのだ。強烈な後ろめたさが、罪悪感が僕の足を繋いでいる。
まぶたの裏にあいつが、いつも夢に出てくるあいつが――“僕の顔”が浮かび上がる。
その首に腕を伸ばそうとしたのだけれど、彼は卑下するようにこちらを見下し、離れていく。
僕は大きなため息を吐き、腕をそっと横に置いた。
視界の端に光るものが見える。
何だと思って首を動かすと、それは僕の携帯だった。画面にウィンドウが出て、コンタクトの到着を知らせている。
寝っころんだまま掴み、顔の前に持ってくる。それは、姉の御奈からのメールだった。
本文には短く、「お父さんから聞いた。明日そっちに行く」とだけ書かれている。
確かに大学生も休みどきだろうが、まったく世話好きな姉だと思った。やはりこういうところは親子なのかもしれない。
幼い頃からずっと、彼女は僕にとって母親の代わりのようなものだった。父の意見には対立することができるけれど、御奈にはどうしても頭が上がらなくなってしまう。
僕は携帯の画面を消し、ため息混じりにそれを横に投げ出した。
2
幼い頃といわれて、一番最初に思い出す光景は、絵を描いている母の姿だった。
当時の家は目の前に大きな公園があり、鳥のさえずりや風の音がよく聞こえててくる場所だった。母は開け放した窓からそれらの音響を楽しみつつ、絵を描くことが好きだった。
大抵は仕事の絵ばかりだったけれど、まれに僕の好きだったアニメのキャラクターや、母がふざけて作った怪物の絵なんかも描いてくれることがあった。そういうのを真似して描き始めたのが、僕が絵に興味を持ったきっかけでもある。
仕事の売り上げはあまり宜しくないようだったが、それでも母は毎日が楽しくて仕方が無いようだった。好きなことを、自分の好きなだけできる。それが、幸せなんだといつも言っていた。
幼い頃の僕はその笑顔を見ることが好きだった。
楽しそうな、幸せそうな母の顔を見ていると、自分まで元気になるような気がしていた。
だから、年齢が進むごとに笑わなくなっていく母を見ることが、とても辛かった。悲しかった。
あの頃の母が何に苦しんでいたのかはわからない。創作関連の仕事ならば、個人にしか理解できない悩みもきっと多いだろう。
でも、それでも、僕はまた母の笑顔を見たかった。楽しそうに毎日を送って欲しかった。あの日、一緒に出かけようと誘ったのも、そんなささやかな願いを抱いたからだった。
御奈につれられて、病室の扉にノックをする。
いつもは派手とは言わないまでも、それなりに現代の若者らしい格好をしていた彼女だったけれど、今日は嫌に地味目の清潔感のある服装をしていた。車から降りてきた彼女を見たとき、それが妙にかつての母に似ていたので、僕はたまらなく嫌な気分になった。
「お母さん、入るよ?」
扉をあけ、御奈が中に踏み込む。躊躇いを憶えたけれど、ずっと廊下にいるわけにも行かないので、僕もゆっくりと足を持ち上げた。
開け放たれた窓。
風に揺れるカーテン。
差し込んでくる日差し。
鳥の、鳴き声。
短い黒髪をなびかせた母は、あの頃に戻ったかのような雰囲気で、ぼうっと外を眺めていた。
「お母さん?」
ベットの前に立った御奈が微笑みながら彼女に呼びかける。
母はゆっくりと首を回し、こちらを見つめた。
「あらあら、こんにちわ」
安らぎきったかのような声で、そうえくぼを見せる。
御奈は備え付けられていたパイプ椅子に座ると、母の手の上に自分の手を重ねた。
「何を観ていたの?」
そう、優しく質問する。母は言葉を捜しているかのように、遠慮がちに答えた。
「空を……見ていたの」
「空?」
御奈は視線を窓の先へ向けた。
「雲の動きとか、鳥の移動が面白かったから」
「お母さんは昔から空を眺めるのが好きだったよね。そういう絵もたくさん描いてたし」
「昔から……そうね、そんな気はする」
遠い目で、母は宙を見据えた。
僕は、かつて母が書いていた絵を思い出した。家の窓から見た景色。海上に浮かぶ船。高い塔のようなもの。そういえば、どの絵にも、必ず美しい空の描写があったように思える。
「穿、なに突っ立てんの。こっちに来て」
入り口の前で棒立ちしていた僕を御奈が呼ぶ。一気に心臓が跳ね上がったような錯覚を覚え、僕は息が苦しくなった。
情けなくも、怯えた犬のような足取りでベットに近づく。
母は僕の顔をみると、相変わらず穏やかな表情で口を開いた。
「あらあら、こんにちわ」
同じ台詞を繰り返す。
僕は何も言うことができず、目を伏せてしまった。
そんな、僕の様子など気にもとめずに、母はさらに言葉を続ける。
「今日は……あなたたちはどなた?」
ふざけているわけでも、からかっているわけでもなく、本気で分からないというように、そう質問した。
御奈は一瞬言葉に詰まったように見えたけれど、すぐに笑顔を作り直し、母に呼びかける。
「私は、佳谷間御奈。わからない? お母さん」
「御奈? 私の娘と同じ名前だわ。すごい偶然ねぇ」
母はけらけらと笑った。
「うちの子は先月六歳になったばかりなのよ。弟がようやく言葉を話せるようになってきたから、急にお姉ちゃんぶりはじめてね。ちょっと前までおねしょもしてたのに、進んで家の手伝いとかするようになって、もう可愛いのよぉ」
「そう。えらいお子さんね」
御奈は食いしばるような笑みで、そう答えた。
僕は母の顔を見つめた。
今の彼女には、あの頃のような疲れきった影は見えない。ごく自然に、楽しそうに笑っている。幼い頃僕が好きだった、あの笑顔で。
「そちらのお兄さんは?」
母は興味深そうにこちらを見た。
「……穿です。佳谷間穿」
「あらあら、私の子供も穿っていうのよ。まだ二歳なんだけど、もう言葉を話し始めてね。ていっても簡単な単語だけなんだけど……」
自慢げに、僕のことを話す母。今自分が話していることもが、目の前にいるなどとは微塵も思っていないようだった。
「あの子、私が絵を描いているとじっと見てくるのよ? 写実画に興味があるのかしら? たぶん、面白がって眺めてるだけだと思うけど……」
なおも嬉しそうに話を続ける母。
僕はそれ以上この場に留まることができなかった。
吐き気を抑え、病室から飛び出す。
閉めた扉の奥からは、まだ“僕”の自慢をしている母の声が聞こえた。
3
小学校高学年の頃。カナラと出会う少し前。
僕と母は、交通事故に巻き込まれた。
飲酒運転による、明らかな殺人未遂だった。
あの日、僕は仕事で落ち込んでいた母を元気づけたくて、一緒に隣町に出ていた。母の好きだった花の展示場が、期間限定で開催されていたからとか、そんな理由付けだったと思う。
思春期の真っ只中だった僕だけど、母の疲弊があまりに酷かったので、その日だけは、彼女に尽くした。荷物を持ち、飲み物を運び、席を取った。
母は最初は遠慮していたけれど、珍しく息子がいっちょまえに気を使ってるのを見て、面白く思ったのか、途中から素直に従ってくれるようになった。
最近は滅多に母が笑うのを見ていなかっただけに、僕は楽しそうな彼女を見ることが、嬉しかった。子供ながらに息巻いて、必死に頑張った。
帰り道、久しぶりに機嫌の良さそうな母は、今日はごちそうにしようかといった。何でも、僕が気を使ってくれた記念だとか、ふざけた理由で。
僕は肉じゃがが食べたい、と答えた。昔から母の作る肉じゃがは、かなりこだわっていておいしかったから。
母はそんないつもと変わらない料理でいいの? と不思議がっていたのだが、結局、僕の押しに負けて、それを作ることを了承した。
僕はうきうき気分で家に向かっていた。早くご飯を食べたい。とお腹を鳴らして。
道路を走っていた大型自動車がハンドルを誤り、こちらに向かって向きを変えたのは、そのときだった。
母は慌てて横に逃げようとしたのだけれど、咄嗟のことで間に合わなかった。彼女の最後の力で解き飛ばされた僕は、軽傷だけで済んだものの、車の重量をもろに受けた母は、頭を強打し、意識不明の重態となった。
広がる血。
冷たくなってゆく体。
死の足跡。
その光景は、僕の意識に強烈な“何か”を植えつけた。
何とか命だけは取り留めたものの、母は代わりに、記憶を失ってしまった。出血多量による、脳へのダメージが原因ということになっているが、本当は違う。
あれは、明らかに僕のせいだ。
あのとき僕は、恐怖に負けてとんでもないことをしてしまった。
だから、彼女は深く傷つき、心を閉ざしてしまった。
僕のせいで……。僕が彼女に酷い真似をしたから。
それ以後、母はずっと同じ記憶だけを懐に抱いて生きている。絵を描くことが楽しかった頃の思い出。まだ幼い御奈と僕を育てていたころの思い出。もっとも人生に充実していたころの記憶だけを持って。
それだけが、宝物であるかのように。
4
病院から出ると、御奈は苦しそうに息を吐いた。駐車場の前に設置された自販機からブラックコーヒーを二つ購入し、一つをこちらに投げる。
僕は無言でそれを受け取り、ひと口だけ飲み込んだ。苦く舌触りの悪い味が一気に口内に広がる。まるで何かの罰を受けているような気分だった。
御奈は自分の缶をあっという間に空っぽにすると、それをゴミ箱に投擲し、壁に寄りかかった。まだ車に乗る気はないらしい。
僕はちびちびとコーヒーを口に運びながら、何となく彼女の長い茶髪を見つめた。
半分ほど飲み込んだころだろうか。不意に御奈が口を開いた。僕は母のことを口に出されると思ってどきりとしたのだが、彼女はまったく関係ないことを聞いてきた。
「……どう? こっちは?」
「どうって?」
僕は視線を逸らしながら、応じた。
「いや、だから学校とか、街とかさぁ。どうなのかなぁって」
「別に、普通だよ。そっちとそんなに変わらない」
「ふぅ~ん。なんだぁ。てっきり早く戻りたいって、べそかいてるんだと思ったんだけどね」
そんなこと、考えてる余裕もなかったんだよ。
僕は心の中で文句を言った。
「み……姉さんのほうはどうなの? 花の大学生活」
「私? う~ん。特に高校の頃と気持ち的には変化はないんだけど。強いていうなら、ナンパがうざったくなったことかな」
同じ大学の学生だけではなく、サラリーマンや見知らぬ男たちまで簡単に声をかけてくるんだと、御奈は愚痴を言った。
「格好や立場が変わっただけで、私は私のままなのにね。みんな変に期待して、急に声をかけてくるんだもん。何だか、気持ち悪いよ」
「今の大学は勉強するよりも人生最後の学生生活を楽しむ場所になってるって、ニュースで言ってたよ。みんな、青春を送ることに必死なんだよ。きっと」
「あんたは何でそんなに冷めてんの」
僕の感想を聞き、御奈は吹き出すように表情を崩した。
シャツの隙間から、一瞬彼女の腕の傷が見える。鑢で削られたかのような荒らしい痕。
僕の視線に気がついたのか、御奈はさっとそれを隠した。
「最近はだいぶ薄くなってきたんだよ。もう、近くで見ないとほとんど分からないくらい」
「……そう」
気の利いた台詞を言うことができず、控えめに言葉を返す。何せ、それはカナラがいなくなって間もない頃に、僕が“蟲喰い”でつけてしまったものだから。
僕の表情がよりいっそう暗くなってしまったからか、彼女は慌てて声の調子を緩和させた。
「ちょっとぉ、あんたもいつまでも気にしてないの。昔から変にそういうところみみっちいよね。穿って」
「気にしないわけにはいかないだろ。僕がつけた傷なんだから」
「そういうのをやめろって言ってんの。毎回毎回暗い顔で見られたら、こっちのほうが気にするわ」
呆れるように、御奈は腰に手を当てた。
「お母さんだって、そういうの望んでないよ? たとえあんたが原因にしても、いまさら悩んだってどうにもならないでしょ。それより、元気な姿を見せて、早く病気を治してもらうことのほうが、先決じゃない?」
「それは……そうだけど」
僕は缶の上部を見つめた。言っていることはわかるが、そんな簡単に整理がつくわけはない。
「お父さんも心配してたよ。何だか最近穿に元気がないって」
「父さんが?」
ほとんどまともに時間を共有していないはずだけど、本当にそんなことを言ったのだろうか。僕はにわかには彼女の言葉を信じられなかった。
御奈は風にたなびく髪を押さえながら、真っ直ぐにこちらを見つめる。
「ああ見えて、穿のこと心配してるんだよ? お父さん、不器用だから上手く言葉にできないけれど。あんたが暗い顔してたら、いつまでもお父さんだって安らげないじゃん。ただでさえ、辛いはずなのに」
「……うん」
僕は子供のように頷いた。
自分のことばかり考えていたが、確かに父の心情から省みると、僕の行動はいやなものに映るだろう。彼にとっても、母は長年付き添った大切な人間なのだから。
「すぐにどうにかしろとはいわないけど、ちゃんと周りを見て考えてね。いつまでもこのままってわけには行かないんだから」
父さんとは違い、御奈は、僕の“蟲喰い”のことも、母の事故の真相のことも知っている。だから、僕は素直に応じるしかなかった。
たとえそれが、どれほど難しい真似だとしても。
どれほど、不可能な行為だとしても。
言葉としては、真摯に返すほかない。
缶のコーヒーが空になり、ようやく手が軽くなる。僕が缶を捨てるのを確認すると、御奈は目の前に止めてあった自分の車の扉を開けた。
遅れて後部座席に座り、シートベルトを巻きつける。顔を前に向けると、バックミラーごしに御奈と目があった。
「今日は泊まってくの?」
間を取り繕うように、僕は尋ねた。すぐに御奈は回答する。
「いや、帰るよ。あんたとお父さん、お母さんの顔を見に来ただけだし」
「せっかくだから泊まっていけばいいのに。わざわざこんなところまで来たんだから」
「年頃の乙女には、色々と用事があるの。まだおこちゃまのあんたには分からないかもしれないけれどね」
「何だよ、それ」
何だか馬鹿にされたような気がして、僕は眉を寄せた。
「ま、何かあったら気軽に連絡しなよ。可愛い弟のためなら、いつだって飛んできてあげるから」
「……うん」
遠慮がちに微笑み、そっと目を窓のほうに置く。それで、御奈は満足したように視線を離した。
5
僕を家に送った後、御奈は言葉の通り東京に戻った。
てっきり何だかんだだらだらしているうちに、泊まることになるだろうと予想していたので、拍子抜けだった。まだ父さんともほとんど会話していないというのに。
ベットの上でくつろぎながら、頭を掻く。
もしかしたら、御奈は無理してこちらに来てくれたのだろうか。大学の試験は高校とは違い、一ヶ月近くかかるという話を聞いたことがある。わざわざこちらに来るということで、もう試験は終わったものだと思い込んでいたけれど、よくよく考えれば時期的に明らかに多忙な日だったはずだ。高校生の僕だって期末試験が終わってまだ数日しか経っていないのだから。
ただでさえ、彼女は生活費を工面するために毎日バイトに追われている。たとえ試験がない日だとしても、勉強やアルバイトに時間を当てたかったはずだ。そんな中わざわざ僕のためだけに来てくれるなんて、やはり彼女はそうとうなお人よしなんだと思った。
申し訳なさと心苦しさを覚え、僕はやるせない気持ちになった。
寝っころがったまま、何をするともなく天井を見つめる。半透明なカーテンの隙間から日の光が入り、部屋の中を入れたての紅茶のような色が満たした。
白い輝きへと転じかけている暁の刻と比べて、これから闇へと染まりかけているか細い光。燃やしきった命を飲み込まれかけているような、脆弱な灯。
何となくその姿がカナラと重なり、僕は頭を振り払うように身を起こした。
ずっと呆けていたらますます暗い気持ちになってしまう。プールの件について考えようと思ったけれど、あんまり乗り気になれなかった。
たまには気分を一新するために、テレビや漫画でも見るかと立ち上がったところで、足元に転がっている白い紙を見つけた。僕が思いつきで絵を描くための、スケッチノートだ。最近掃除を怠けていたから、何かの拍子に一部がちぎれて飛び出してしまったらしい。
僕はその紙とノートを拾い上げ、ぱらぱらと何となく視線を巡らせた。
窓とその前に置かれた椅子や、姉の似顔絵。暇つぶしに想像して描いた架空の生物の絵など、懐かしいものがいくつも目に入る。それらを見ているうちに、何だか久しぶりにペンを動かしたくなり、気がつけば、僕は鉛筆をとって、必死に何かを描きこんでいた。下敷き代わりに膝の上に乗せたノートから、かつかつという小さな鉛筆のぶつかる音が鳴る。
動いている己の手を見て、始めて自分が絵を描いているんだと認識した。まだ輪郭だけだったけれど、僕はどうやら、この部屋から見える海と空を、窓越しに覗いているような絵を描いているようだった。
空は、母の絵の特徴。
無意識でもそれに順ずるものを描こうとするなんて、我ながら影響されているなと思った。
窓から侵蝕してくる紅茶色は、先ほどよりもその範囲を縮小している。僕は完全に太陽が沈みきる前にその光景をとどめておこうと、かなり荒く全体像の線を引いた。
初めて訪れたときも思ったが、ここから見える夕日は、物凄く絵になる。僕の実力でこの美しさを表現できるかは怪しかったけれど、とにかく本能の赴くままに手を動かし続けた。
徐々に暗くなっていく視界の中、絵の形がしっかりしていくにつれて、脳裏に母の記憶が流れた。
僕が真似て描いた絵を見て、褒めてくれたこと。
決して技術を教えることなく、僕の感性のままに描かせてくれたこと。
御奈とふざけていたときに謝って、完成間際の絵を台無しにしてしまったこと。
幼い頃の短い間の出来事なのに、鉛筆の動きに合わせ、どんどん思い出があふれ出てくる。
いつしかオレンジ色の光は姿を消し、外は完全に闇に包まれていた。何も覗けない、漆黒の海だけが、存在感をそこに残している。
僕は鉛筆を置き、紙を机の上に置いた。家の外見に合わせて購入された、レトロな木製の学習机。どことなくそれは、母が使っていたものに似ていた。
もう、僕が焦がれた景色は真っ黒に染め上げられている。これでは、絵の続きを描くことなんてできはしない。
腰を床につけたまま、塗りつぶされたような海と空に目を通す。ずっと見つめていれば少しは遠くまで見えるようになるかもしれないと思ったけれど、まったく意味はなかった。
カナラに会った当初、僕がその不思議な現象を体験してまず最初に思ったことは、“これ”を使えば、母を助けられるのでは? という希望だった。意識や記憶を操る彼女の“何か”なら、傷つき磨耗した母の精神を癒せるはず。そう羨望したのだ。
僕はカナラにその旨を伝えた。懇願した。
母を助けてくれと、元に戻してくれと。
カナラは最初しぶりを見せていたけれど、僕の必死の懇願もあって、最後は願いを聞き入れてくれた。あの他人嫌いだった彼女が母の病室まで移動し、実際にその目で見てくれたのだ。
しかし、僕の期待とは裏腹に、彼女は現象を使うことを拒否した。これでは意味がないと、直しても無駄だと。
どういうことか理解できず、僕は彼女を責めた。直してくれと、叫んだ。
それでも、カナラは手を出さなかった。出そうとしなかった。
結局、彼女はその次の日に、例の男に襲撃され、姿を消した。僕は母を助けられなかった喪失感と、人を殺してしまった恐怖で、頭がおかしくなりそうになった。気がどうにかなってしまいそうだった。
報いがあればまだましだった。けれど、警察も、父も、当時はそれを認めようとはせずに、僕は可愛そうな被害者としてのレッテルを貼られた。それが、僕にとってそれだけ苦痛であるかも知らないで。
懺悔することも、罪を償うこともできない。ただ“蟲喰い”という現象だけを引き継ぎ、僕は生きてきた。まるで呪いのように、絶えず誰かを傷つけてしまう恐怖と戦いながら。
携帯の画面が光り、メールの到着を知らせる。暗闇の中にその光だけが点滅した。
無造作に手に取り、中を覗く。千花からのメールだった。
僕は立ち上がり、部屋の電気をつけた。そのまま、のろのろした足取りでベットの上に腰を下ろす。
内容は、予想通りのものだった。
「……やっぱり、か」
感じていた違和感の正体。
正直、違って欲しいと願っていた。
そうでなければと、祈った。
けれど現実はいつも残酷だ。冷酷で無情なものなのだ。それは、十分過ぎるほどこれまでの人生で理解している。
何が大切かを考える。
僕は、母を壊し、見知らぬ誰かを殺し、カナラを助けられなかった。これ以上、親しい誰かを見殺しにするなんて、ごめんだった。
――穿。
つい最近、灯台下の公園で見た、カナラの悲しそうな顔を思い出す。あれが本物か幻かは分からなかったけれど、その表情は死ぬ直前の母の顔に、酷く似ているように見えた。
もう、絶対に大切な人を失いたくはない。例えそのために、何をしないといけなくなっても。
明かりにつれられて、蟲が部屋の中に入ろうと旋回している。僕は手を伸ばしかけたけど、思いとどまり、そっと、窓を閉めた。蟲は何度かガラスに接近したが、侵入できないと悟ったのか、しばらくして、闇の中へと姿を消した。




