第十六章 プール
1
規則正しい靴音を響かせ、僕は中庭沿いの廊下を突き進んだ。一歩ずつしっかりと地面の感触を味わいながら、これまでに集めた情報をまとめる。
神隠し事件の被害者は全員、失踪前に何らかの不信な行動や言動をとっていた。
この前の出来事や状況から考えて、それにあの五号と名乗った存在が関与しているのは間違いないはずだ。
被害者の周囲で目撃された動物の多くに付随していた、腫瘍のような物体。
恐らく五号は、寄生させた腫瘍によって肉体を操り、意識をコントロールしているのだろう。遭遇した犬が原型を留めていないほどの化け物に変化したということは、もしかしたらあの腫瘍には、宿主の肉体を好きなように変質させられる機能があるのかもしれなかった。
はあと、大きなため息が漏れる。前を歩いていた女子高生が、不審げに軽くこちらを見た。僕は何気ない表情でそれを流し、背筋を元に戻した。
授業間の短い休憩とはいえ、移動やトイレのために歩行している人間は、無数にいる。考えに夢中になっていると、誰かにぶつかってしまいそうだった。
……ダメだ。強迫観念のせいで、すれ違う誰もが腫瘍持ちであるかのように感じてしまう。
相変わらずの己のメンタルに嫌気がさす。僕は軽く頭を振り、思考を続けた。
もし自分が“神隠し”の犯人――かどうかはまだ分からないが、あの五号の立場だとすると、腫瘍をばら撒き被害者を増やしている理由は一つしか思いつかない。“外部の存在”としてではなく、“この町の住民”として、人間同士のつながりからカナラ、もしくは千花を見つけ出すこと。それが目的のはずだ。だとしたら、彼はきっと人の多いところへ重点的に出没する。町に唯一つのゲームセンターや、それこそ、この連上高校のような場所に。
食堂についたので、僕は軽く中を見渡してみた。――やはり、桂場の姿はない。もうお昼の休憩時間に彼を見ることは、いつの間にかほとんどなくなっていた。
本当に、どこ行ったんだろう。
スタイリッシュの話だけでなく、僕自身としても、このところ彼の行動に違和感を感じざる負えなくなってきている。もしこれが腫瘍の影響によるものだとしたら、完全に肉体を乗っ取られる前に何とかしなければならない。
神隠しにあった被害者の様子が急変したのは、失踪から帰ってきた後。つまり失踪前ならば、まだ寄生されていても助けられる可能性はある。そう考え、僕は必死に彼の様子を伺っているのだけれど、なかなか都合のいい場面は生まれなかった。
既に今期の体育の授業は一昨日で終了しているので、体育の時間を利用して肌を見ることも叶わない。来週からは期末試験。そしてそれが過ぎれば夏休みへ突入する。正直、残された機会はほとんどないに等しい。
僕は頭を掻くと、諦めて元来た道を引き返すことにした。
その日の夜。ちょうど、自室のベットで携帯をいじっているとき。日比野さんから一通のメールが届いた。
画面に浮かんでいる文字の羅列には、『来週末、プールに行かない?』と表記されている。
試験が始まる直前なのにもう休日の話かと呆れたものの、すぐにその誘いの有益性に気がついた。プール内ならば、桂場の腫瘍を簡単に確認することができる。
間をおかず返信を送るのはどうかとも思ったけれど、無駄に時間を浪費したくなかったので、僕はそのまま了承の意だけを短く伝えた。すると、五分も立たずに彼女からメールが帰ってきた。
どうやらこれを企画したのは矢吹さんらしく、彼女と和泉さんも一緒に行く予定らしい。いつものように、緑也やスタイリッシュも誘っているとのことだった。
桂場は日比野さんたちとそれほど仲良くはなかったけれど、前に行きたがっていたんだと適当な言い訳を作り、強引にメンバーに加えることにした。問題は彼がそれを了承するかどうかだったのだが、彼がまだ本来の性格なら、断るはずがない。
案の定、三十分後に返ってきたメールには、「いいねぃ」という単語が力強く刻まれていた。
これで、腫瘍の有無を確認することができる。
僕は短く息を吐き、静かに指を鳴らした。
2
翌週の試験の間には、あまり研究所に関する調査を行ったり、桂場の行動を調べている余裕はほとんどなかった。
これまで放課後はずっと“触れない男”などの脅威を乗り切るためにまい進していたから、まともに勉強している時間などなかったのだ。
淡々と筆を動かし、紙に向かい続け、帰ってからは翌日の試験に備え復習に徹する。それを五日間繰り返し、気がつけばあっという間に土曜日が来ていた。
刺すような陽射しの中、左腕の時計を確認する。高校生には不相応な高価な金属性の電波時計だったが、別に大枚をはたいて購入したというわけではない。これは母方の祖父がもう使わないからと、田舎を訪れたとき僕に譲ってくれたものだった。そんな高価そうなものはいらないと断ったのに、半ば強引に押し付けられ僕のものとなった、かわいそうな一品だ。
白金の円内にある短い針は午前九時を指している。ちょうど、予定に決められた集合時間から、十五分が経過したころだった。
「おっせーなぁ」
あくびを隠すこともなく、緑也が口を上下に広げる。階段の端に足を広げて座っているその姿は、まるで一昔前のヤンキーそのものだ。スチールウールのような彼の髪を少し弄ってパンチパーマにすれば、まさに本場さながらの不良を作れるかもしれない。
「あと七分で電車来ちまうぜ。どうすんだよ……」
「一本遅らすか?」
困ったような表情でスタイリッシュが駅のほうを振り返った。改札前に備え付けられた電光掲示板には、埃や蟲に混じって、都心とは正反対の行き先が書かれた車両の到着時刻が示してある。
「真矢ちゃん、どうしたんだろう。いつもは一番早いのに」
「楽しみにしすぎて、夜寝れなかったとか?」
あざとく小首をかしげて見せる皐月さんの呟きに、矢吹さんが答えた。
「もう、先に行っちまうか?」
「先に行こうが行かまいが、結局あっちで待つことは変わんないだろ。意味ねえよ」
にぱっと笑みを浮かべた桂場に対し、緑也がつまらなそうに文句を言った。
「――あ、来たよ」
右方向。交番の真横から駆けてくる少女の姿を捉えて、僕は静かにそう述べた。皐月さんの言うとおり、ついさっき起きたばかりなのか、その頭部には酷い寝癖が見られる。確かに日ごろ生活スタイルがしっかりしている日比野さんにしては、珍しいミスだ。
「めんご、めんご、寝坊しちゃった」
日比野さんは可愛らしく舌を出すと、たいして悪びれる様子もなく片手を上げた。
皐月さんや他の女性人たちはすかさず日比野さんに声をかけようとしたが、それを、桂場が低い声で制した。
「おし、とりあえずいくぞ。電車が来た」
3
明社町は、海に面した町である。海鮮豊かな港町と、観光客が盛んな海水浴場に左右を挟まれた、場違いな一大工業地帯だ。
隣駅の“矢裸手”は全国の海水浴場パンフレットにも載るほどの名所で、夏には毎年多くの観光客が訪れ、相当な賑わいをみせるそうだ。場所によってはシュノーケルを使った小魚の遊泳観察も楽しむことができ、幅広い年代に人気があるらしい。
僕としてはプールよりも是非そっちに行ってみたかったのだけれど、その意見は緑也たちの総反対にあい、あっさりと却下されてしまった。何でも全員、「もう飽きた」とのことだった。どうやらこの付近の住民はみな、小学校から中学生の間に好きなだけ海に入っているらしく、高校生にもなるとそこにはまったく魅力を感じなくなるとのことだった。
もともと今回のイベントは矢吹さんと和泉さんが、少し離れたところにある有名な総合プール施設を訪れてみたいと言い出したことがきっかけなので、どの道、僕のささやかな希望は抱く以前から拒否されていたのだが。
真横に広がる広大な海原がいつも以上に輝いて見える。僕はガタンゴトンと揺れる古臭い電車の中で、何だか意味も無くセンチメンタルな気分になり、ぼうっとその乱反射を視界に収め続けた。
「いや~、しかし、今日は誘ってくれてありがとうな。せっかくの休みなのに、最近どこにも出かけてなかったから、すっげぇ楽しみにしてたんだよ」
向かいの席に座っていた緑也が、いつも以上に明るい表情で笑みを浮かべる。隣に座っている矢吹さんへ話しかけているようだった。
「いいっていいって。うちらも女子だけじゃ色々と面倒だからさ。海ほどじゃないけど、プールも結構変な奴多いんだよ。ナンパとか、ナンパとか、ナンパとか」
「ナンパしかいねぇじゃねえか」
緑也が僅かにずっこけるような動きをとると、面白おかしそうに矢吹さんが笑った。長いポニーテールの後ろ髪が、動きに合わせて上下する。まるでそういう形の髪飾りをつけているようだと、僕はどうでもいいことを思った。
「まあ、うちの友達には逆にそれが目当てって子も多いけどね。うちはそういうのあんま好きじゃないから……」
「えー、あたし結構好きだよー。ただで飲み物とか飲めるし」
「ああ、確かに皐月ならやってそう……」
無邪気な顔で視線を向けた皐月さんに対し、日比野さんが呆れたように言葉を続けた。もう何度もそういった場面をみているのか、表情に妙な渋みがあった。
――……何だか、和むな。
久しぶりに休日という日をまともに過ごせているような気がする。もっとも今回の遠征の目的は桂場の体に腫瘍があるかどうかを確認することなので、完全な休みとは言えないけれど。
そのまま首の向きを変え、再び窓の向こうへ目を向けようとしたところで、聞きなれた千花の声が真横から耳に飛び込んできた。
「うわぁー。こうして遠くから見ると、何かきらきら光って綺麗だね」
「だなぁ。近づけば結構汚いもんも見えてくるけど、遠くから見る海の景色は確かにいいと思うわ」
子供のように無邪気な感想を述べるスタイリッシュ。
あんまりこの二人の絡みは見たことがなかったけれど、雰囲気から察するにそれなりに会話はしていたようだった。何となく彼らの会話が気になったものの、聞き耳を立てているのは酷く不格好な気がして、僕は半ば強引に己の体を前に引き戻した。すると、ちょうど一人で暇をしていた和泉さんと目があった。僕の右となりの席で、暇そうに指遊びをしている。
電車の揺れる音が印象的に耳に入ってくる。彼女は値踏みするかのように、片方だけ延びた前髪の隙間から、僕の顔を見上げた。振動で揺らぐ窓の光が反射しているのか、その瞳は刹那的に青みを帯びて見えた。
特に話したいことはなかったのだけれど、何となく雰囲気的に何か言わないとまずいような気がして、僕はゆっくりと腰を後ろに倒し、彼女に目を向けた。
「ええと、和泉さんだっけ」
「はい」
彼女は表情を変えることなく頷いた。
「矢吹さんの高校の後輩なんだよね」
「そうです。あんま学校で会ったことはないですけど」
「いっつも一緒に遊んでるの?」
「そんなことはないですよ。普段はゲーセンで会うだけで、こういうのは今回が初めてです」
「じゃあ、僕たちと同じか」
軽く笑みを見せて、手を膝の位置へ下げる。
そのまま待ってみたけど、和泉さんは人形のように無表情で座ったままだ。あんまりよく知らぬ人間と話すことが好きではないのかもしれない。僕は間を持たせるために適当な話題を模索した。
「今日行くところって、日本でもかなり大きな遊泳施設なんだよね。確か、国内最大のウォータースライダーがあるんだっけ?」
「ああ、みたいですね。何でも二年くらい前に改築して、内部を一新したとか。私はそんなに興味ないですけど。……プール好きなんですか?」
「市民プールみたいなただ泳ぐだけのところや小学生向けの場所はそうでもないけど、今日行くあそこって、大人でも楽しめるものが沢山あるから、それなりにはわくわくしてるよ」
「そうですか」
正直に答えた僕に対し、彼女は随分と淡白な返事をした。
僕は元来、話すよりも人の話を聞くほうが得意なたちである。だから緑也のようにおしゃべりな人間のほうが個人的には好きだし、楽だ。いつもだったら無理に会話をすることはないのだが、ここで会話をやめると何だか周囲から乖離してしまうような気がして、頑張って強引に話を続けた。
「プール、あんまり好きじゃないの?」
「嫌いではないですよ。ただ、これといって好きなわけでもないです。あんなの、ただの巨大なお風呂みたいなもんじゃないですか」
「お風呂とはだいぶ違うと思うけど……」
「同じですよ。決められた枠に決めらた水を入れて、決められたことをする。やる内容がちょっと違うだけです」
彼女は鼻を鳴らすように息を吐いた。
カーブに差し掛かったのか、電車が傾き全員の体が後方へと押される。和泉さんは手すりに捕まっていたからよかったのだが、僕はもろに慣性の影響を受けてしまい、千花のほうへ身を反らせた。
彼女との距離が近づき、少しどきりとしたものの、向こうがなんともなさそうに姿勢を正したので、平静を装って僕も席に座りなおした。何だか少しだけ悔しい気分になった。
構わずに和泉さんが質問を返す。
「……先輩は、泳ぐのとか好きなんですか?」
「う~ん。――どちらかといえば、好きなほうかな。水の上って、何だか空を飛んでいるような心地になれるし、潜っているとなんていうかこう、自分だけの世界みたいな感じがしない?」
「それは……――ちょっとわかるかもしれません。不思議な気分になりますよね。周りとの間に分厚い層ができたような、窓越しに外を見ているような、そんな感じになります」
これまでこういう感想を述べても、共感してくれる人間はあまりいなかったのだが、和泉さんには通じるものがあったようだ。僕は少しだけ嬉しくなり、会話を始めてからやっと、彼女の声をまともに聞けたような気がした。
「何だ、やぱりプール好きなんじゃん」
「好きじゃないですよ。これまでだってほとんど行ったことないし……」
「え、ないの?」
「まったくじゃないですよ? 昔は結構行ってました。家族三人で――ほんの子供のころの話ですけど」
どこか懐かしむように、軽く上を向く。
僕は彼女の表情が気になったのだけれど、何かを言う前に車内アナウンスが流れ、電車の動きが止まった。どこかの駅に停車したようだ。
扉が開くと同時に、待機していた客が中へ入り込んでくる。荷物の中に浮き輪や水泳用鞄などのあるから、同じ目的地なのかもしれない。急に人口密度が増加し、一気に車内の温度が上がった気がした。
和泉さんのほうを振り返ると、彼女は外に向かって目を凝らしていた。ホームの上でくつろいでいる野良猫を眺めていたようだ。
僕は一瞬五号のことを思い出したのだが、彼がここで待機しているというのは、あまりに被害妄想が過ぎるだろう。すぐに頭を振り、思考から彼らの存在を抹消した。せめてプールに着くまでは、“触れない男”たちのことから意識を外していたかった。
猫は日陰の中で眠そうにあくびをすると、自分の前足で何度か頭を掻いた。蚤でもいるのかもしれない。
扉が閉まり、再び電車が動き出す。
和泉さんはぼーっとした様子で、向かいの窓から外の景色を眺めている。
何となく同じ話題を続けられそうな雰囲気ではなかったので、僕は仕方がなく、腕を組み彼女から注意を反らした。
スタイリッシュの横に座っている桂場の様子を確認すると、先ほどの猫のように気持ち良さそうに目をつぶって寝ている。疲れているのか、口を大きく開け、涎をこぼしていた。
掲示板の表示では目的地まで、もうあと三駅。
到着すればいよいよ運命の時間だ。
もう少しだけ目的地が遠ければいいのに。
流れゆく風景を眺めながら、僕は密かにそんなことを思った。
4
「うわぁっ、すっごいー!」
目をまん丸に開き、日比野さんが高い声を上げる。
駅から外に出てるとすぐに、目的の施設が目に入った。五十メートルほど前方だろうか。横一面に広がる大きな壁と、それらと連結するように置かれたドーム状の建物が見える。
盗撮防止や方法侵入を兼ねているのか、壁のせいでここからでは中の様子を確認することは叶わないが、風に混じって若者たちの奇声が響いてきた。
目的のための手段にしか過ぎなかったはずだけど、これだけの娯楽施設を前にすれば、自然と僕のテンションも上がる。入り口に向かって広場を歩いているときは、ついつい腫瘍のことも忘れ、わくわくしてしまった。
切符を購入し中に入ると、千花たちとはすぐに別れ着替えることにした。
ガラス張りのロビーを右に進み、更衣室へと入る。中は暑苦しい裸の男たちでごった返していたが、何とか空いているロッカーを見つけ、そこに陣取った。
問題は……ここからだ。
緑也とスタイリッシュはさっさと着替え始め、荷物を整理している。早くプールのほうへ行きたくて仕方がないようだった。
僕は右隣の男性に肘が当たらないように注意しつつも、桂場に並んでゆっくりと着替えを始めた。
別に桂場の裸体などまったく見たくはないけれど、腫瘍の有無を確認するためには、どうしてもよく目を光らせなければならない。
服を脱ぎ、水着を履きつつ、何気なく彼の様子を観察する。
腹から胸部にかけて伸びたもじゃもじゃな毛。平均的な高校生よりも大きな体。そして何故か自慢げな、その笑み。
注意深く探ってみたが、彼の体に腫瘍のようなものは見られなかった。僕は複雑な感情を抱いたまま、胸を撫で下ろした。
あのとき、確かに妙な圧迫感と別人のような雰囲気がしていたけれど、あれは気のせいだったのだろうか。よく行動を共にしているといっても、まだ出会ってから一ヶ月くらいだ。僕の知らない面も当然あるとは思うけれど。
どこか、腑に落ちない。
僕は疑惑を消しきることができず、首を僅かに傾けた。
「どうした? 行かんのか」
そんな僕を怪訝そうに見返し、桂場がロッカーを閉めた。無駄に力が入っているのか大きな音が鳴る。そういう大雑把なところも、彼らしいといえば彼らしい。
「ああ、いくよ」
僕は頷き、ゴーグルを首にかけた。
更衣室の出口付近は、やはり多くの人が出入りするからか、それなりに人が集まっていた。
ここのプール施設は水場の付近を何本もの木で囲って、オアシス的な雰囲気を作り出しているのだが、その合間合間にはパラソルや椅子などが定間隔で設置されている。
僕たちは適当なパラソルの下に移動し、女性陣の到着を待った。
桂場は颯爽と椅子に寝っころがり、自由を満喫し、スタイリッシュはいつの間に買ったのか、水色のドリンクを飲んでいる。そんなに水分を取るとまたお腹を壊すぞと思ったものの、言っても無駄そうなので口には出さなかった。
正直まだ疑いの気持ちは残っているけれど、とりあえず桂場の体に腫瘍があるかどうかは確認できたのだ。せっかくの休日なので、あとは十分にこの機会を楽しもうと思った。
暇つぶしにストレッチし、体の筋を伸ばしていると、緑也が物珍しそうにこちらを見てきた。
「穿、お前意外と筋肉あるな。ちょっとびっくりしたわ」
「暇なときに鍛えてるからね。まだ帰宅部だから、家に帰ってもそんなにやることないし」
本当は、三年前にカナラがいなくなってから、またああいった場面に遭遇したときのために鍛え続けていただけだ。護身術と同じ、いざというときのための備えだった。
「何だよ、てっきりもやしっ子だと思ってたのに、腹筋バキバキじゃねえか。くっそ~」
「緑也だって十分鍛えてるみたいじゃんか。そんな変わんないよ」
「そうか? でも、お前のほうが何かちょっと引き締まってる気がするぞ?」
そう言って片目を細める。
まじまじと見られ何だか居心地が悪くなり、僕はストレッチするのをやめてしまった。
「あんたら、男同士でなに互いの体見つめあってんの?」
左方向、女性用更衣室の入り口から声が届いた。振り返ると、矢吹さんを先頭に女性陣が全員揃っていた。彼女たちはタイル張りの床をぺたぺたと歩き、僕たちのパラソルの前で静かに止まった。
ポニーテルを解いた矢吹さんは印象ががらりと変わり、かなり大人っぽい女性のように見えた。勿論その派手な水着のせいもあるのだろうが、まるで別人のようだったので、僕は少し驚いた。
もう移動しても良かったのだけれど、何となく、視線はそのまま固定された。
高校生離れしたスタイルの良さと際どい水着姿の皐月さん。
清楚な白とピンクのビキニを纏った千花。
スカートのついた可愛らしい水色の水着を着た和泉さん。
ショートパンツのようなものを履いた日比野さん。
普段あまり目にしない彼女たちの姿に、何だか少しだけ恥ずかしさを憶える。年甲斐もなく、どきどきしてしまったのだ。
「おお、来たか。何だよ。意外とみんな似合ってんじゃん」
微妙な間が空いたあとに、緑也がそう声をかけた。彼も僕と同じような感想を抱いていたのかもしれない。
「で、どこ行く?」
両手を腰に当て周囲を見回し、日比野さんが楽しそうにそう聞いた。
「まずは流れるプールっしょ。一周するのに一~二十分はかかるらしいぜ」
「一周八百メートルだっけ? でも、あそこ今の時間だと凄い込んでそうだよ」
「ジャンプ台行こうぜ、ジャンプ台」
椅子の上で上半身だけ起こした桂場が、にぱっとした笑みを向けながらそう言った。
「いきなりジャンプ台はやだよ。ちょっと水に慣れたい」
「そうか。わりい、わりい」
困ったように表情を曇らせた千花を見て、桂場は慌てて己の提案を打ち消した。
「じゃあー、あれは? 波のプール。あんまり泳がなくてもいーし、密集具合も低いからいいと思うよー?」
と、これは皐月さん。何だか彼女だけはここに来なれているように見えた。
誰もそれ以上意見を言わない。スタイリッシュと和泉さんにいたっては、どこでもいいから早くこの炎天下から逃れたいように見えた。二人とも表情が年老いた老人のようだ。
「そだな。じゃあ、とりあえずそこにするか」
手を叩かんばかりの勢いで言い切る緑也。みなそれぞれの行きたいところは後で回ることにして、皐月さんの提案どおり、とりあえず僕たちは“波のプール”に移動することにした。
5
波のプールは皐月さんの進言どおり、他の設備に比べて遊泳客の姿が少なかった。
もっともそれは“他の設備よりも”というだけの話であり、一般的なプールとしては十分過ぎるほどの人で溢れかえっていたのだが。
縁に座り、足だけを水中に入れてみると、予想したよりもかなり冷たかった。外が暑すぎるという理由もあるのだろうが、それにしてもこれは意外だ。
こういう場合経験則から言えば、徐々に水に入ればかえって冷たさを感じ、慣れるまで時間がかかってしまう。僕は準備体操をさっさと終わらせると、全身に駆け巡る悪寒に耐え、一気に頭まで水中に沈めた。
途端に視界が濁り、周囲の喧騒が消失する。体が見えない何かに支えられているかのように軽くなって、全身が水に包まれているという感触を、十分に受け止めた。
ああー。気持ちいい。久しぶりに水の中に入った。
最後にプールに入ったのは、いつだっただろうか。去年は行っていないはずだから、二年前か? そういえば都心に残してきた友人たちと一緒に遊んだ覚えがある。あの時は一人が無茶振りを連発して、無呼吸でどこまでいけるかとか、素もぐりでどこまで進めるかとか、今考えると自分にも周りにも危険な真似を何度も行っていた気がする。我ながらアホなことをしていたなと思うけれど、若さゆえの過ちとして、心に刻んでおこう。
水面から顔を出し、他の面子を確認する。女性陣たちはキャアキャアいいながらまだ足だけをプールに入れはしゃいでいた。桂場と緑也は僕と同様に既に全身をつかり、水に慣れたようだけれど、スタイリッシュだけは女の子たちと同じように、水の冷たさに慄いている。
早く入ればいいのに。
僕がそんなことを思っていると、緑也が子供のような笑顔で肩を叩いた。
「なあ、この波の中、誰が一番速く奥まで行けるか勝負しようぜ、勝負」
「勝負?」
僕はプールの奥を見てみた。三十メートルほど先の噴出口、網に覆われたそこからは、定期的に大量の水が押し出されている。あれが浅い地面を通過することで波になるという仕組みのようだったが、見る限り、その水量はかなりのものだ。速さがどうこう以前に、辿り着ける気がしなかった。
「お、いいね。やるかぁ?」
そんな緑也の提案に、桂場が満面の笑みで乗っかった。自信があるのか、指の骨をぽきぽき鳴らし、劇画チックな表情で噴出口を見つめている。
これでは、僕もやらないとまずそうだ。結果は見えていたが、まあこうしてふざけるのも悪くないと思い、彼らに従うことにした。
「万が一着けないってこともあるかもしれないから、一応チェックしてもらうか。――なあ、ちょっと泳ぐから、誰が一番遠くまで行けたか見ててくれよ」
最後の台詞は、日比野さんたちに向けたものだ。緑也は両腕をぐるぐると回すと、それをそのまま胸の前で交差させ、突撃の構えを作った。
彼に習い、僕と桂場も準備を行う。
「おーい、合図してくれ!」
緑也の声でこちらの意図を察した皐月さんが、面白そうにカウントを開始した。いつの間にか矢吹さんまでそれに加わり、声をはもらせている。
3、2、1、の掛け声で、僕たちは一気に水中にもぐりこみ、壁を蹴った。
始めの内は波の動きと押し寄せる水量に苦労し、まったく進むことができなかった。足をばたつかせても、手をこいでもこいでもただ体力を浪費するだけでしかない。僕は思い切って深く体を沈ませた。地面ぎりぎりまで潜れば係員の注意が飛んできそうだったので、適度な深度を位置し、前進する。感覚的には少しだけ楽になったように思えたが、実際の推力としては恐らくほとんど変化はないだろう。
息が続かなくなったところを境に、僕は顔を出して泳ぐのを止めた。
途端、波に体が持ち上げられ、一気にプールの端に向かって移動する。自然運動に任せて前を見ると、数メートルほど先でちょうど緑也が顔を出したところだった。彼は僕の姿を見つけると、したり顔で片腕を突き上げた。
「よっしゃ、俺の勝ちー!」
そのまま何かを言おうとするか、波に押されて一端水の中に沈む。器官に入ったのか、少しむせているようだった。
「緑也、前。桂場のほうが遠くにいるよ」
「え、まじ?」
桂場は、僕と緑也が浮かんでいる位置よりもかなり前、噴射口から数メートルのところまで移動していた。確かに彼は体格もよく、一番体力もありそうだったが、あの大きな波の中そこまでいけるとは驚きだ。日比野さんたちの確認をとるまでもなく、勝者は彼だった。
プール端の縁に腰を落ち着け、僕たちは一息ついた。緑也は悔しそうな笑みを桂場に向けた。
「ちくしょうー、何だよ。意外とやるじゃん、お前。でっかいから重くてあんま進めないと思ったのに」
「まあ、毎年海には行ってたからな。ビーチで遊ぶことが多い連中と違って、一人黙々と波に挑み続けた成果がでたんだろう。――どうやぁ?」
最後の台詞に合わせ、彼は両目を大きく見開いた。その表情につられ、僕たちは思わず笑ってしまった。
千花たちもようやく水に慣れたのか、波の上にぷかぷかと浮いて、流れを楽しんでいる。他の客の中には巨大な浮き袋を持参し、それに乗っているものもいたけれど、あいにく僕たちにそんな持ち合わせはない。
一通り流されて遊んだあとは、もうこの場所にも飽きてしまい、次の設備へ移動することとなった。
水から上がろうとすると、先に縁に手をついた桂場の大きな背が見えた。やはり、どこにも腫瘍のようなものの姿は見られない。
僕は小さく息を吐いた。
何だかんだいっても、緑也たちと遊ぶのは楽しかった。転校してからというもの、まともに友人たちと行動する時間がほとんどなかったので、みなで遊べることが、一緒にイベントをこなせることが、たまらなく嬉しかった。
こうしていると、“触れない男”に追われていたことや、千花のことを不信に思っていたことが、全て夢だったかのようにも思える。
事態が何も進展していないことはわかっている。でも、それでも、今日一日だけは、僕もただの高校生として、まともに過ごしたいと思った。
「穿くん、早く行こっ」
先に上がっていた千花が、遠慮がちに微笑みながらそう声を投げる。僕は腕を伸ばし、彼女の足元の地面へ手を置いた。
充足した休日を思う存分満喫しよう。そう、思っていた。そう、願っていたのだが。
僕のささやかな希望は、このあと、――あっさりと打ち砕かれることになるのだった。




