第十五章 異形
1
ゲームセンターの中は、先ほど以上に雑然としていた。
学校帰りの小学生や中学生たちは帰宅する者も多く出始めていたが、その代わりに少し派手な格好をした高校生や大学生の姿がちらほら見られるようになった。特にコインゲームのほうの盛り上がりはかなりのもので、ときたま怒号や叫び声などが聞こえてきた。
僕は真っ先に太一を探してみたが、見える範囲に彼の姿はなかった。
先ほど腹部に見えた赤い染色と鉄の臭い。あれは、間違いなく血だ。自分の血なのか、それとも別の誰かのものなのか。少なくとも僕たちがあの道を通る直前に、彼があそこを通過したのは確かなはず。
もしあの血が彼のものなら、それを行った存在の可能性は二つある。動物か、彼らを皆殺しにした誰か。そしてもしあの血が彼のものでないのならば、虐殺の犯人は太一本人ということになる。
だが後者ならば、彼がゲームセンターに来ている理由の説明がつかない。何らかの理由があって動物を殺したとして、その痕跡を残した服を着たままわざわざこんな人目につく場所を訪れる必要はあるのだろうか。かりに着替えのためだとしても、それならもっと都合のいい場所はいくらでもある。
状況から考えて、僕は太一の腹部に付着していた血液は彼自身のものであると判断した。あの血が彼のものであるのならば、彼は何かに襲われたということだ。そして、それから逃げるために人垣に紛れ込んだ。だから彼は異常に急いでいた。慌ててこの中へ入った。
僕は指遊びをしながら、ゆっくりと通路を移動した。カードゲームのようなもので遊んでいる集団の横を抜け、あちらこちらに目を這わせる。
“神隠し”の噂によると、姿を消して帰ってきた者はおかしくなり、動物の姿がその周囲で目撃されるようになる。彼ら帰還者が“触れない男”の同類から何らかの影響を受けているとすれば、その周囲で目撃されているという動物も、“同類”と関係があるはずだ。太一は少女じゃないけれど、矢吹さんから聞いた話には例の噂と共通するものがある。もし彼が“同類”の傘下にあるとしたら、彼を襲ったのはあそこで死んでいた動物ではない。別の誰か。何かだ。
正直、太一について調べるためというよりも、その“誰か”の存在を認知することのほうが、ここに来ている理由としては大きかった。
動物たちが死んでいた場所にあった、“蟲喰い”にも似た破壊痕。“触れない男”の事故現場で見たものとまったく同じ、大きなひび割れ。
千花の推測どおり“触れない男”の死が他殺だとして、あのひび割れが関係しているのならば、太一を襲った人間はその犯人と同一人物の可能性が高い。そして十中八九、その何かは太一を追ってこの場へ来ている。
――大丈夫、だよな……。
緊張感が高まり、ごくりと唾液を飲み下した。
“触れない男”の死亡から何のアクションもないことを考えると、僕が彼に追われていたことや千花のことについては何も知らないようだが、ここで下手な真似をすれば一気に目をつけられかねない。
太一のことも一応調べる必要はあるけれど、彼の様子を伺って他者から不自然に見えれば、それだけで僕の身のほうが危険になってしまう。
室内はかなり強めに冷房が設定されているにも関わらず、背中や額から僅かに汗が滲み出る。
ずっと歩き回っているのはただの不審者なので、僕は適当な間隔でそこ等へんのゲーム機を利用した。
十分ほどだろうか。ざっと見て回ったが、太一らしき男の姿は見つけられなかった。既にここを出たのか、それともトイレにでも篭っているのか。
彼が室内にいないのならば、このままここで待っていても意味は無い。どうしようか迷っていると、突然座っていた格闘ゲーム機の画面が変わった。知らない間に、対戦モードを選択してしまったようだった。
“The 世界のおっさん バトルロワイヤル”という、わけのわからないゲームだ。ありとあらゆるジャンルの中年男性が、様々なシュチエーションで競い合うシリーズの、格闘ゲーム版だった。
座っていてゲームをやらないわけにもいかない。僕は太一の姿に気をつけながら、仕方なくキャラクターを選んだ。
野太い掛け声と共に、ネクタイを頭に巻きつけた酔っ払いの男と、革ジャンを着て葉巻をくわえたグラサンの男が、お互いの頬に平手を叩きつけ合う。
適当にやればいいと思っていたが、何度も相手に吹っ飛ばされているうちにつちついムキになってしまい、いつのまにか真剣にコマンドを打っていた。
溜まったストレスゲージを使用し、酔っ払いの必殺技を発動。わざとらしい技名のテロップが流れ、酔っ払いの口からモザイクの塊が吹き出した。それで勝負は決するかと思ったけれど、相手のグラサンはなんとか耐え切り、逆に必殺技を使用し、僕が動かしていた酔っ払いは、突然グラサンが乗ったバイクに吹き飛ばされた。威力自体は大したことはなかったけれど、一発技というよりは、継続系の技らしく、酔っ払いはピンボールのようにステージ中を跳ね飛ばされる。ほとんどハメ技のような状態で、僕はあっさりと負けてしまった。「あっははぁ、お月様がバク転してやがるぜぇ」という酔っ払いの声がスピーカーから流れる。
う~ん……。
苦笑いを浮かべて画面を見つめていると、向かいの席に座っていた誰かが立ち上がり、横を向いた。目つきの悪い白髪混じりの、少し冷たい印象を受ける端正な顔つきの少年だった。
彼はすぐにその場を離れていったのだが、偶然その背中越しに、あるものが目に入った。
非常口と書かれた木製の扉。ちょうど今まさに、太一らしき影がそこを通ったのだ。どうやら、彼はひっそりと店から出る気のようだった。
あれは……追うか? いや、でも……。
このままでは逃げられるが、かといって追えば彼にも、彼の追手にも僕の存在が露見する。そもそも僕がここに来たのは彼を襲撃した人物を特定するためで、彼自身を直接問いつめるためではない。日比野さんから聞いた噂のような現場が見られたり、万が一“触れない男”の目的にそった行動をとれば、危険対象として警戒しておく。その程度のつもりだった。
深入りはするべきじゃない。けれど、このまま見すごしては得る物も何も無い。しばらく扉を見ていたが、他にそこを通ろうとする人物はいなかった。悩んだ末に、僕は正面扉から外に出ることにした。あの非常口の位置ならば出る先はある程度限られている。そこで通行人のふりをして張っていればいいと思ったのだ。
なるべく不自然に見えないように足を速めながら、ゲームセンターの外へ出る。
裏口はここから見て、左方向に迂回した位置にあるから、その手前で待っていれば、姿を確認することができる。
僕は駐車場の中を小走りで進むと、中型のバンの影に身を潜めた。
大丈夫。まだ彼は外に出ていないはず。
店の関係者でないものが職員用通路を通って移動しようとすれば、それなりに気を使うし速度も遅くなる。
これで太一を追っているものの正体がわかるかもしれない。そう、期待した直後だった。
『――お、お前、ここ来るの二回目だよなぁ』
低い重低音。僕の耳を、見知らぬ男の囁きが射抜いた。
2
じわりと汗が染み出る。注意深く周囲に気を張っていたはずなのに、まったくその存在に気がつかなかった。
誰だ? 太一か? それとも……
前を見つめたまま相手の気配を探る。彼の荒い息使いが僕の首元の毛をゆっくりと逆立てた。
空き缶が目の前を転がり、風が唸り声を上げる。
このままこうしていても仕方が無いので、僕は覚悟を決めて静かに振り返った。かなりの危機的状況だと感じていたのだが――
「あれ……?」
眼前に広がるのは、落書きだらけの壁のみ。どこからどう見ても、ほかに人の姿は無かった。
そんな馬鹿な。確かに今声が……?
横に駐車されていた車の裏などを探して回るも、当然のごとく何も無い。地面すれすれに頭をつけて車体の下を確認すると、驚いたように涼んでいた犬が飛び出してきた。
気のせいなのか?
緊張しすぎて、幻聴がした?
考えながら元の位置に戻ろうとする。だが、僕の頭は高速である記憶を呼び起こした。
“神隠し”にあった者の周囲では、何故か動物の姿が頻繁に目撃されている。そして、言葉を話すという犬の噂。
「まさかな」と思いつつも、気持ちを抑えられなくなり、斜め後ろを見返した。
――刹那、眼球を血走らせた犬の牙が、目と鼻の先で振り下ろされる。
「う、わぁああぁあっ!?」
相手の形相が、あまりに動物離れしていた所為だろうか。僕はほとんど無意識の内に、“蟲喰い”を発生させてしまっていた。
切り傷を作りながら弾き飛ぶ狂犬。僕は自分のしてしまったことに血の気が引いて、顔を青くしたのだが、その犬は何事もなかったかのようにゆっくりと立ち上がった。
切断された筋肉の断面から、黒っぽい触手のようなものがうねうねと伸び、大気に向かって広がっている。愛らしかったはずの頭部は、先ほど見た“出目金おやじ”のように眼球が飛び出し、白目のほとんどが真っ赤に染まっていた。
それはもはや、とても犬とは呼べない“何か”だった。
『い、痛い。痛い、ぞぉおう……!』
人間のような表情で苦しみの意を唱える異形の動物。
口を開けたまま呆然としている僕を前にし、それは悶えるように体を震わせた。
こ、こいつは何なんだ。何で、言葉を話してるんだ? どうしてこんな不気味な形になってるんだ?
よくよく見ると、その悪趣味な触手は、犬の背中に乗っかった浅黒い腫瘍のようなものから伸びているようだった。心臓のように脈打ち、定期的に膨らむ。まるで、犬とは独立した一個の生命体のようですらあった。
痛い、痛いと嘆きながら、異形の化け物はこちらを強く睨みつけた。
『お、お前ぇ、やったな。やってくれたな。ぼ、ぼくに傷をつけたな』
あまりに現実離れした光景に、言葉を失う。初めて“触れない男”を見たときよりも、大きなショックが押し寄せていた。
『い、痛いぃい。こ、この傷……お前、あいつと同じか?』
あいつ? 何だ、誰のことだ?
“それ”の背面から伸びる触手たちが、一気に逆立ち上を向く。僕は咄嗟に後方へ飛びのいた。
『ああ。わ、わかったぞ。お、お前……九業をやったやつだな』
「九号……?」
『いひっ、あ、あの優男、調子に乗ってたからばちがあたったんだ。ぼ、ぼくの邪魔をするから……』
さっきから何を言ってるんだ、こいつは。
“触れない男”もそうだったが、この手の相手は自分の中で勝手に話を簡潔させる癖がある。伝える気がないのか、ただの独り言かはわからないが、こちらとしては迷惑な話だった。
唯一確かなことは、この生物が危険であるということだけだろう。動物の体。蠢く触手。そして流暢な日本語。とてもまともな生命体だとは思えない。間違いなく、“触れない男”のような常識外の何かだ。
「な、何なんだ、お前……?」
汗があごから滴り落ちる。僕は警戒心もあらわに、その化け物を見すえた。
左手を半握りにして腰の少し上へ突き出し、右手を首の前に添える。重心を乗せた左足は後方に置き、刺すように右足を地面に滑らせた。僕が中学時代にならった護身術の、もっとも基本形となる構えだ。
『ぼ、ぼくは五業。そう。た、たしか、五番目の作品。ぼくは、特別な人間』
五号? 五番目?
どうやらそれは、彼の呼称をさしているようだった。
名乗った化け物は、にたにたと笑いながら身を伏せ、飛び掛る準備に入る。
五号というのが五番目という意味なら、彼が先ほど口に出した九号とは、九番目ということか?
この化け物は僕の“蟲喰い”をみて、九号をやったといった。殺したといった。ならば、その九号とはまさか――
「“触れない男”……?」
呟くと同時に、化け物が大きく跳躍した。
その小さな体のどこにこれほどの筋力が潜んでいたというのか。僕の頭よりも高い位置に浮き上がった化け物は、血管の走る腕を横なぎに振り、いっきに首元を刈り取ろうとした。
あまりに素早い動きだったので、反応が追いつかず、見事に接近を許してしまう。
だがその爪は、僕の肌に触れるより早く砕け散った。
悲鳴を上げ、苦痛の表情を浮かべる化け物。“触れない男”に襲われたときにも使用した、事前展開型“蟲喰い”だ。
強靭な筋力も、鋭い牙も、推進力を失った空中では、ただのオブジェクトでしかない。僕はそれの落下に合わせて右手を下げ、化け物の胸部めがけ“蟲喰い”を放った。
“触れない男”のように人型であれば打つのにも躊躇を覚えるが、こいつはあまりに異形すぎた。何の抵抗もなく拳は相手の腹部を突き、同時に波のような歪みと、血しぶきが飛び散る。
壁にぶち当たり、血の帯を引きながら地面へ落ちる化け物。それはぴくぴくと痙攣し、次第に動かなくなっていく。
裏口のほうに視線を向けるも、誰かが出てきた気配はない。どうやら既に太一はこの場を離れていたようだ。僕はため息を吐き、弱りきった化け物へと注意を向けた。
黒い触手のようなものをくねらせながら、化け物は力の無い目でこちらを見上げた。これ以上の行動は無理だと悟ったらしく、苦々しげに下唇を噛んでいる。
背中に形成されている黒っぽい腫瘍とそこから伸びる触手。断面から覗ける肉や皮膚のあちこちにそれは広がり、まるで別の生命体が犬に寄生しているかのようだった。
化け物は何か言おうと口を開きかけるが、思うように筋肉が動かずに途中でそれをやめる。僕が恐怖と嫌悪の入り混じった目を向けていると、苛立ったように、悔しそうに、恥ずかしそうに、こちらを睨みつけ、そのまま動かなくなった。
死んだのか?
僕は近くに落ちていた短い木の枝で、化け物の体を突いてみた。ミミズのよに暴れていた触手たちはぴたりとその蠕動運動をやめうなだれている。吹き出た血の量や、状態からはとても生命活動を維持できているようには見えない。どうやら、完全に死んでいるようだった。
小枝を投げ捨て、汗を拭う。
遅れてやってきた心臓の鼓動をゆっくりと落ち着かせ、息を吐いた。
“触れない男”はまだ人間の形状を保っていたから、その存在にも納得がいった。受け止めることができた。僕がもともと、妙な現象を起こせる人間を知っていたからということもある。
でも、これは、この生き物は、理解の許容範囲をゆうに超えてしまっている。完全にSF世界の存在だ。
複数の記憶。
人知を超えた現象を起こせる体。
そして、この化け物。
一体、僕らが相手にしているのは何なんだ。千花は、カナラは、何に追われているというんだ?
横たわる化け物の遺体を、僕はただただ、唖然と見つめ続けた。
3
翌日の朝礼前。僕は教育棟の屋上に千花を呼び出し、昨日の一部始終を説明した。
太一が襲われていたかもしれないと考えたこと。
太一を追ったこと。
そして、謎の化け物に襲撃されたこと。
千花は無言で一部始終を聞いた後、静かに腕を組んだ。何かを考えているようだ。
僅かな間をあけ、僕は探るように質問した。
「その化け物の記憶を覗くってこと、できないかな。一応死体はゲーセンの裏に埋めてきたから、取り出そうと思えばすぐに取り出せる。もし見れたら、だいぶ手がかりになるんだけど……」
「――う~ん。無理だと思う。前にも言ったけど、私の意志で起こせる現象じゃないし、それに死んだものの記憶は見れないよ。電気信号が停止しているんだから」
「そっか。……まあ、そうだよね」
まるで死体に慣れているかのような千花の物言いに気づきつつも、僕は構わずにそう答えた。彼女の言動に不信な点があるのは、今に始まったことではない。
中庭を歩行する者たちが多くなってきたので、下から見られないようにプレハブ側へ移動する。そんな僕の動きを見て、千花も腰を地面に落ち着けた。同時にふわりと甘い香りが鼻をくすぐる。
彼女は髪を耳に掛けると、横目で僕の顔を見上げた。
「でも、進展はあったんじゃないかな。少なくともその化け物のおかげで、“神隠し”の話に出てくる“動物”っていうキーワードの意味は、分かったよね」
「まあね。どういう現象かはまだ断定できないけれど、あの“五号”と名乗った存在は、動物の体を乗っ取って変質させられるみたいだった。目撃情報が正しいのなら、複数の動物がそういう存在と化してしまって、この町の中をうろついていることになる。恐らくは、カナラか君を探すために」
そういうと、千花は困ったように横を向いた。
「……“触れない男”みたいに、あからさまに怪しい人が見張っているなら警戒もできるけれど、動物っていうのは、すごく怖いね。いつどこで監視されているか、わからないもの」
「確かにね。猫や犬なんてどこにでもいるし、どこにでも潜り込むことができる。……でも、気をつけるべきのは動物だけじゃないよ」
「どういうこと?」
驚いたように千花は片眉を上げた。
「あの“神隠し”の話……もしかしたら、体を乗っ取られているのは動物だけじゃないのかもしれない。行方不明になって戻ってきた数人の女の子、彼女たちの様子がおかしくなっていたっていうのは、同じように操られていたからじゃないのかな。その、五号みたいなやつに」
「人間も? ……確かにそう考えれば説明はつくけど……」
「犬の背中にあった黒っぽい腫瘍。もしかしたら、あれが取り付いたものの肉体を変異させ、操る媒体となっているのかもしれない。日比野さんが集めた“神隠し”の情報の中にも、動物の多くがそういった腫瘍を抱えているという話があったし。それら全てが“五号”のせいなのか、それともそれぞれ別々の存在なのかはわからないけれど」
指を動かしながら、そう独自の解釈を説明する。
千花は神妙な顔で話を聞くと、人差し指でこめかみを押さえながら、こちらを向いた。
「でもそれって逆に考えれば、腫瘍の有無で操られているか、そうでないかが分かるってことだよね」
「分かるかもしれないけれど、それで判断するのはかなり難しいんじゃない? 服の下とかにある場合も多いだろうし」
「うん。でも、気をつけないよりは気をつけたほうがいいと思うんだ。万が一腫瘍があれば、用心できるでしょ?」
こめかみから指を外し、千花は体育座りのような格好をとった。
「まあ、やらないよりはましだと思うけど」
苦い顔でそれに頷く。
彼女の言うとおり、現状では五号に対する策は皆無である。相手がどこにいるかわからない以上、用心することでしか、対抗する手段がない。
だがそれは、あくまで操られた動物に関しての話だ。身を守る上での心構えであって、こちらから攻める分には、まだ手がかりはある。
短い朝の時間を利用し、僕と千花は今後の行動について話し合った。
その結果、五号への手がかりである太一については、千花が調べることとなった。どうも太一がゲーセンを訪れていたのは、あれが初めてというわけではないらしく、これまでに何度も姿が目撃されているそうだった。そこで、同じく頻繁にあそこを訪れている矢吹さんを利用し、彼について調べようと考えたのだ。矢吹さんと一緒なら、千花が急にゲーセンに行くようになっても違和感はないし、ただ交流ができただけだと予想することができる。その上で、同じ女性である千花のほうが矢吹さんも接しやすいので、スムーズに情報収集ができるからとのことだった。
僕は一度は反対したのだけれど、最終的には千花に押し切られる形で納得してしまった。
「本当に大丈夫? もし何かあったら……」
「大丈夫だって、こう見えても私、身を隠すの上手いんだよ?」
僅かに首を傾け、自身ありげに僕を見る千花。仕方なしにそれを許容した。
「じゃあ、僕はどうすればいい。千花が太一のことを探っている間、何もしていないわけにはいかないと思うけど」
「穿くんは、研究所について調べて欲しいんだ。例の“触れない男”の遺体を引き取ったという、人物について」
ああ、そんな話もあったな。
化け物のショックが強すぎて忘れていたが、確かにそれも重要な手がかりだ。いやむしろ、こちらのほうが核心に迫っている調査といっても過言ではない。
同じことを二人で探っていても、時間の無駄だ。僕は千花の考えに納得し、立ち上がった。
「わかった。じゃあ、こっちはこっちで調べておくよ。何かわかったら、連絡して」
「うん。なるべく慎重に行動するつもりだけど、穿くんも気をつけてね」
千花は腰を上げると、申し訳無さそうにそう言った。
階段に向かって歩いている途中、急に千花が片足を後ろに上げ、ぴょんぴょん飛び始めた。
何だと思ってみていると、どうやら靴下がずれてしまったようだった。必死に指で引っ張りながら、位置を合わせようとしている。
普段は冷静で真面目な千花だったけれど、時々ああやって間の抜けた行動を行うことがある。僕は何だか彼女のその行為に愛嬌を感じてしまい、小さく笑みを浮かべた。
目ざとくそれに気がついた千花が、むっとしたようにこちらを振り返る。
「あー、笑ったな。人が困ってるときに……穿くんて、私のこと見てちょくちょくそうやって笑ってるよね」
「だって、何か動きがおかしかったから」
「好きでやってるわけじゃないもの。そういうとき、目を逸らすのが大人の対応ってやつでしょう?」
「僕はまだ花の高校生だからね。そんな対応はできないよ」
何食わぬ顔で返答すると、千花はふて腐れたようにそっぽを向いた。
「都合のいいときだけ子供のふりして……」
ぐいっと靴下を引っ張り、足を地面につける。勢いよく引っ張りすぎたようで、そのままバランスを崩して倒れそうになった。「きゃぁっ」という悲鳴が聞こえる。
咄嗟に手を差し伸べ腕を支えると、千花は悔しさと恥ずかしさが入り混じったような表情を浮かべ、下を向いた。
「……ありがと」
短く礼を述べながら、さっと靴下を直し、一歩分距離をとる。
そんな彼女に態度に、僕は小さな笑みを作ってしまった。再び千花がむっとしたような表情を浮かべるも、構わずにクスクス笑い続ける。
日比野さんと話すときも、皐月さんと話すときも、僕は常に相手の気持ちや言葉を気にしてしまって、気を使うことが多かった。でも、千花と一緒にいるときだけは、不思議なことにそんな遠慮をしたことがない。何故かはわからないけど、彼女と一緒にいると凄く落ち着くのだ。まるで昔から知っていたかのような、慣れ親しんだ相手といるような、そんな気分になる。
千花は恥ずかしさと照れが入り混じったような様子で僕から離れると、無言で階段への扉を開けた。
薄々気がついていたが、僕は千花に特別な感情を抱きつつあるらしい。今までこんなことはなかったから、正直自分でも困惑しているけれど、この気持ちは恐らくそういうことなのだろう。
階段を下りていく彼女の小さな背を眺めつつ、僕は表情を改めた。
――でも、だからこそ、僕はその気持ちを抑えなければならなかった。
それが、本当に僕自身が抱いている感情かどうか分からなかったから。
彼女はカナラの記憶を持ち、カナラと同じ現象を起こせる。
精神に介入し、覗き、操作し、誘導するあの現象を。
信じたいけれど、彼女には不信な点が多すぎる。妙な行動が多々見られる。
何を隠しているかは知らないけれど、それが明らかになるまで、無条件で信用することはできなかった。
いや、それももしかしたら、言い訳に過ぎないのかもしれない。本気で調べようと思えば、いつでもできた。探りようはあった。
僕は怖いんだ。彼女の姿が消えてしまうことが、急にいなくなってしまうことが。かつて、自分のせいでいなくなってしまった彼女のように。
自分のせいで、壊れてしまったあの人のように。
先を歩く千花の横顔は凄く綺麗で、温かみがあったけれど、これ以上近づけばそれを消してしまうような気がして、僕は少しだけ、足を遅めた。
4
放課後、何か情報はないかと屋上のオカルト研究部へ向かおうとした途中、ばったりと、廊下で緑也に出くわした。いつもはほとんど最後までクラスに残っているはずの彼が、こんなに早く帰宅するなんて珍しい。僕の視線に気がつくと、緑也は間が悪そうに表情を改めた。
「どこ行くの? 早いね」
「まあ、ちょっとな」
どこか煮え切らない調子で息を吐く。そのまま見ていると、彼は周囲に人の気配がないことを確認し、静かに耳打ちしてきた。
「実はな。……遺体が発見される数時間前に、瑞樹を見たって人が何人かいたんだよ」
「え、瑞樹さんを?」
僕は驚いて、思わず声を大きくしてしまった。
「ああ。あいつの母さんの友達……俺も何度か会ったことがあるんだけど、その人たちが文化センターの中にあるカフェでお茶してるときに、向かい側を通ったそうなんだ」
「本当なの?」
「さあな。昨日そのうちの一人に聞いてみたけど、一いまいち要領を得なくてさ。見知らぬ男子生徒と一緒に歩いてたっていうのはわかったんだけど」
見知らぬ男子生徒?
そういえば、日々野さんも同じような話をしていなかったか? 誰かと一緒にいたと。同じ年くらいの少年と歩いていたと。
男子生徒と断言しているということは、学生服を着ていたのだろうか。だったら、どこの学校かはわかるはず。僕はすかさず考えたことを口に出した。
「制服は? 外見については聞いてない?」
だが、緑也の返事は煮え切らないものだった。
「それがな、なぜかそこら辺の記憶が不明瞭なんだよ。とにかく高校生らしいっていうのは記憶してるみたいなんだけど、顔と姿がうろ覚えなんだと」
何だそれ?
つい最近の出来事をそんなすぐに忘れるものだろうか。おかしな話だと、僕は思った。
「そのひとだけじゃ信憑性が薄いから、一応、他の人にも聞いておこうと思ってさ。……なんだか、納得できないことも多かったからな」
どこか言い訳するように、緑也は頭を掻く。僕は彼の心情を察し、あまりここに引き止めている場合ではないと、判断した。
「そっか。じゃあ、もし新しい情報が手に入ったら教えてよ。僕も気になってたから」
「ああ。悪いな。――あとでちゃんと伝えるよ」
軽くはにかみながら、緑也は片手を上げる。それが、別れの合図のようだった。
彼の姿が完全に曲がり角の向こうへ消えてから、僕は今聞いたことについて、考えてみた。
瑞樹さんの失踪と死亡。最終的な死因としては、急性心不全という病名が挙げられていたけれど、それに納得している者は少なかった。彼女の両親も、緑也も、僕も。
警察は彼女の状態をショック死と呼んだ。全身の血液が一気に毒へと変化したような、死に方だと。
ありえないような異常な空論。けれど、カナラや“触れない男”といった人外の者たちを目にした僕にとって、それは、今となってはありえないことではなくなっていた。
もしかしたら彼女は、カナラと勘違いされたのかもしれない。それで拘束後に部外者だと露見して、情報を守るために殺された。“触れない男”や“五号”のような異質な何かに。
摩擦を操るという“触れない男”には、あんな殺し方はできないけれど、“五号”にはどうなのだろう。他者に寄生し、その肉体を変質させることのできる彼ならば、血液を毒化させることも容易なのではないだろうか。日比野さんも緑也も、動物については何も言っていなかったが、それは意識してなかったというだけで、実際は周囲に存在していたということもありうる。
僕はその可能性について一考しかけたが、流石にそれはないだろうと、自分を納得させた。
そもそも、瑞樹さんと“神隠し”の犠牲者たちとでは、失踪の方法も仕方もまったく異なる。彼女が自分の意思で姿を消したにしても、別の理由からだとしても、それはやはり“神隠し”とは違う要因によるものだ。そうでないと説明のつかないことが多い。
行動を共にしていたという少年の話も気がかりではあったが、有益な手がかりもないため、今はどうしようもない。それよりも、まずは“神隠し”の話のほうが心配だ。実際に五号という存在を目にしてしまった以上、早急に対策を練らなければならない。
とりあえず瑞樹さんのことは緑也に任せることにして、僕は自身の目的のために、階段へと足を伸ばした。
プレハブの中では、なにやら難しい顔をした日比野さんがパソコンの画面を見つめていた。部活動のためという理由で特別に持込を許可された、彼女の個人ノートPCだ。
「何してるの?」
「あ、穿くん」
初めてこちらに気がついたとでもいうように、顔を上げる。僕は適当なところに鞄を下ろし、いつもの席へと腰を落ち着けた。
珍しく椅子に座っていた日比野さんは、軽く微笑みながら前髪を整えた。
「情報収拾だよ、情報収集。登録してある各SNSや、掲示板の確認をしてたの」
「掲示板?」
「そっ。あたし、顔が広いからね。明社町内のいくつかの学校の、裏サイトやローカルグループなんかに招待されてんだけど。そういうところって、情報の行き来が激しいし眉唾な話も多く飛び交うから、オカ研としてはかなり有益な情報源になんのよ」
「へぇ~……すごいなぁ」
なるほど……“触れない男”の目撃情報をあれほど正確に把握できてたのも、そういうわけか。確かにこの町で何かを調べるには有益な方法かもしれない。
交友関係が広く高い積極性を持つ日比野さんならではの方法だと思った。
「それで、何か分かったの?」
聞いているのは勿論、“神隠し”についてだ。
「んー、今のところ特に何も新しいネタはないかな。昨日の動物大量死については少し騒がれてたけど、分かってることはほとんどないし……」
「そういえば、前にも動物が死んでいたって言ってたよね。あれって、どういうこと?」
「ああ、昨日の話? 気になる?」
日比野さんは口角を僅かに上げ、椅子を後ろに引いた。
「別に大した話じゃないよ。大体一ヶ月くらい前、“触れない男”の噂が広まりだしたころ、北区の家数件から、犬の姿が消えたの。飼い主は一生懸命探したんだけど見つからなくて、数日後に道路の脇で亡骸が発見されたんだ。なんでも、野犬に襲われたって話だった。損傷が酷くてね。あちこち喰い散らかされてたらしいよ」
また、一ヶ月前か。
やはり、カナラか千花と関係がある出来事なのだろうか。
僕は幾分、体が重くなったような錯覚を覚えた。
「……何だか“神隠し”の話に似てるね」
「そう? うんー……どうなんだろう。関係がありそうって言えばありそうだけど」
日比野さんは真剣な表情で、あごに手を当てた。その手のことを考えるのが楽しくて仕方がないと言った様子だ。
そのまま体重を椅子の後ろにかけ、足をぷらぷらと前後に揺らす。
「ほんとのところ、よくわかってないのよ。不審者や頭のおかしな奴がやったって言う人もいれば、殺人マリーのせいだっていう人もいるし。野犬っていうのも、適当に警察が考えたいいわけかもしれない」
「殺人マリー?」
どこかで聞いたような単語だ。
僕がそう聞き返すと、日比野さんは一瞬きょとんとしたような表情を浮かべた。
「……そっか。穿くん、転校生だったんだっけ。ここじゃ結構有名な話なんだけど」
何だか煮え切らない態度で、アンバランスな笑みを浮かべる。
ノートパソコンの画面を倒し、スリープモードにすると、日比野さんはごく自然な動きで机の上に腰を乗せた。やっぱり椅子に座るのはあまり好きじゃないのだろうか。僕は抱いていた疑惑を確信にかえつつあった。
なまめかしく腰をひねり腕で体重を支えながら、彼女はゆっくりと言葉を綴った。
「――いいよ、話してあげる。数年前にこの町で実際に起こった、殺人事件の話を」
5
それは、相当に残酷な事件だったらしい。
計三人の被害者は全員、体内の臓器をいくつか抜き取られた状態で発見された。
彼らの傷口には抜きとられた臓器と同じサイズの布袋が埋め込まれており、そこには臓器の名前と、犯人のものと思われるイニシャルが描かれていたそうだ。
警察の必死の捜査の結果、被害者には共通の条件があることがわかり、四人目の犠牲者が出る前に犯人は逮捕された。
それで事件は収拾するかに思われたのだけれど、その日から、おかしな出来事が頻繁に発生するようになった。
被害者の遺族や、生き残った四人目の被害者の周囲で、拘留されているはずの男の姿が頻繁に目撃されたらしいのだ。
勿論、男は牢を出てはおらず、警察はトラウマによる妄想だと判断し、遺族たちにメンタルケアを進めた。
しかし、いくら通院が続いても、彼らの状態は悪化するばかりで一向に事態はよくならない。そればかりか、とうとう重度の思い込みに陥った被害者の一部が、半ば通り魔的に他の市民を襲うようになってしまった。
彼は犯人とその娘の“マリー”という人物が自分を殺そうとしている、常に命を狙っていると言っていたそうだ。勿論警察もそういう名前の人物がいないか調査を試みたのだが、該当者は一人も存在しなかった。
結局、その被害者の男性は自殺し、事態は不幸な結末を迎えたのだけれど、マリーの噂はそれ以後、頻繁に聞こえるようになった。
数人の少年たちを病院送りにしただの、とある女子高生の顔の皮を剥いだだの、街中の動物を殺して回ってるだの、信じるに足らない胡散臭い話ばかりだったのだが、どういうわけか、それは学生たちの間で爆発的に広まり、ブームになった。
寝ている間にマリーに引っかかれ、朝起きたら足に大きな傷ができていた。
仲のよかった有人が、マリーにそそのかされて急に殴りかかってきた。
一人で歩いていたら、後ろからマリーがこっちを食い入るように見つめていたなど、ありとあらゆる現象がマリーと呼ばれる人物のせいになった。
殺人事件のインパクトとその後の被害者たちの異様な結末のせいもあいまって、殺人鬼の娘、マリーの噂は消えることなく語り継がれ、半ば都市伝説のようなものと化してしまい、今もずっとお遊びのように利用されているそうだ。
まるで、有名なこっくりさんや花子さんのように。
それが、殺人マリーという話の概要だった。
一通りの説明を終えると、日比野さんは疲れたように息を吐いた。いつもは楽しそうにオカルトの話をする彼女だったけれど、今回だけは妙に表情に影があった。
「何だか普通の都市伝説とは違って、妙に生々しいからさぁ。あんま、好きじゃないんだ。この話」
「……その、犯人はどうなったの?」
「今も服役中だよ。ただ、裁判で死刑宣告がされたらしくてね。十年以内には実行される予定なんだって」
「……そっか」
僕は静かに手を机の上に置いた。
今の話を聞いた限り、この噂は今回の事件とは関係はなさそうだ。じわじわと突然話が浮き出てくる一般的な都市伝説とは違い、妙な強引さを感じる。まるで誰かが故意にそういう噂を流し、広めたような感じを受けた。
勿論、ただの気のせいかもしれないけれど。
鞄の中のペットボトルを取ろうと思ったのだが、既に中身はないことを思い出し、心の中で舌を打った。
日比野さんは机の上に置いていた水筒を空け、ごくごくとそれを喉に流し込んだ。僕の恨めしそうな視線をさらりと流し、下唇を軽く舐める。
水筒を置くと、彼女は満足したように言葉を続けた。
「まぁでも、この話は今回の出来事とは関係ないっしょ。マリーが動物を殺したって言うのも、ただ話を盛り上げたいための適当な台詞だと思う。野犬がどうのこうのっていうのは、ほんとかどうか知らんけど。……神隠しについて本気で調べるのなら、注目するべきは動物のほうじゃなくて、むしろ人間のほうじゃない?」
「人間のほう?」
まさか、太一のことを言っているのか?
彼女の勘の鋭さを感じ、僕はどきりとした。
「神隠しにあって戻ってきた子は、みんな様子がおかしくなる。そういわれてるけど、それってほんとなのかなぁ」
「ほんとうって?」
「神隠しに遇ったからおかしくなったんじゃなくて、“おかしくなったから神隠しにあった”っていう、線も考えられない?」
「おかしくなったから、神隠しにあった……?」
「そっ。だって、失踪者は全員、居なくなる“前”に、妙な声を聞いたり、顔を見たりしてたんだよ」
その言葉を聞き、僕はなるほどと思った。
確かに日比野さんから聞いた話や、調べた情報ではそうだった。いなくなった少女たちはその誰もが、失踪前から妙な話を訴えている。誰かに見られている。誰かの声がすると。
――順序が逆。
この事実にどういう意味があるのかはわからない。でも、何か重要なことに気がつけたような、そんな気がした。
「もしあたしのこの推測があっているなら、神隠しに遭いそうな人は、事前に兆候があるってことになるよね。あからさまな変化はなくとも、少し様子が変だとか、普段とは違う言動を取っているとか。穿くんの周囲にそんな人いない?」
探りを入れるような視線をこちらに向ける。
僕は適当にここ最近の記憶を漁ってみた。
様子が変、普段と違うか……。あ、そういえばスタイリッシュが桂場の様子がおかしいっていってたけれど……あれは多分関係ないだろうな。声や視線の話なんて、桂場はいっさいしていないし。
緑也は瑞樹さんのことを調べているだけだし、千花は――もともとあやしことばかりだけど、彼女は連中の目的だから影響下にあって失踪しないはずがないからな……。
「特にいないかな。って、そう言う人がいたら、僕より日々野さんのほうがすぐに気がつくんじゃない?」
「そんなことないよ。あたし、交友関係は広いけど、全部に深いってわけじゃないから。だから、こうして聞いてるわけだし」
どこか意味深な言い方を、彼女はした。
何か意図が隠れていそうだったが、僕にはそれがよく汲み取れない。結局なんだかんだ話を濁され、よくわからない新しい都市伝説の調査協力を頼まれそうになったので、適当な言い訳をいってプレハブから出た。
既に外は夕焼けが沈み、真っ黒な幕が大地に下りてきたかのようだった。頬をなでるぬるい風が、妙に気持ち悪く感じられる。
まだ部活動は続いているのか、中庭や校舎の中にはちらほらと人の姿も見られた。弾かれるボールの音と、土の摩擦音が、木霊のように中庭にも届く。野球部は今日もそうとう熱心な活動を行っているらしい。
僕はそのまま帰宅しようと思ったのだが、視線を斜め下、校外のほうに向けたところで、意外な人物の姿を見つけた。普段はまっさきに校庭に向かい、汗の濁流を生み出しているはずの桂場が、住宅街のわき道で屈みこんでいる。彼の家は逆方向だったはずだけれど、一体あそこで何をしているのだろう。何となく気になった僕は、その場所へ行ってみることにした。
6
「たしか、このあたりだったはずだけど」
二階建ての建物に挟まれた、小さな通路。付近の住民ですらほとんど使わないような、狭く汚い道。帰宅途中の学生が通るには、酷く奇妙なルートだ。
雑草の上に足を乗せ数歩進むと、なにやら黒っぽい塊のようなものが土の上に落ちていた。最初はゴミ袋かと思ったのだが、目の前まできたところで、それが動物の死体だとわかった。背中に大きな傷のある、灰色の猫だ。まだ死んでからそれほど時間は経っていないらしく、広がっている血は、鮮やかな赤色だった。
また動物の死体か。
この前の惨状を思い起こし、嫌な気分になる。かなり深く肉を抉られているようで、死体のまわりには不自然な荒れ方をした土が広がっていた。
桂場はこれを見ていたのか? でも何で……。こんなところ、入り込まないと猫の死体があるなんてわからないのに。
疑問に思いじっと死体を眺めていたところで、なぜかその光景に強既視感を憶えた。死体の傷口には無数の細かい穴が空いており、スポンジのようになっている。一瞬“蟲喰い”のことが頭をよぎったけれど、あれが生み出す空間は肉眼で捉えきれるような大きさではないため、すぐに違うと考え直す。
そうだ。これはあのときゲームセンターで……。
駐車場の奥。建物の裏口付近。そこで襲い掛かってきた、あの化け物の肉体にも見られた損傷痕だ。細く長い何かが、内部を這いずり回っていたような、蠢いていたような、そういうインスピレーションが浮かび上がる。
「五号……か?」
誰に言うともなく、僕はそう呟いた。
この傷は腫瘍が抜け出た痕? じゃあ、桂場は……――
嫌な予感が走る。
あれは生物の体に寄生し、操り、肉体を化け物へと変化させてしまう悪魔の生物だ。この死体にないということは、他の体へ移動した可能性が高い。そしてその対象としてもっともありうるのは、つい先ほどここにいた桂場寛だ。
僕は立ち上がり、道の先を見た。彼の姿は見えないが、経過時間から考えてそれほど遠くにいっているはずはない。もしこの猫に入っていた腫瘍が桂場に寄生しようとしているのなら、すぐにでも阻止する必要がある。
緊張感を高め、走り出そうとした直後、僕は妙な感触を足の裏から感じ、思わず踏みとどまった。視線を下に下ろすと、ゴムのようにぐにぐにした物体が、靴の裏から覗いている。一見すると根っこの生えた生レバーのようだ。
足を横へずらし、よく観察してみたところ、すぐにそれがあの腫瘍であると理解できた。生命活動は停止しているらしく、干物のようにしおれている。
死体から抜け出て他の得物を探したけれど、その前に力尽きたといったところか。何にしても大事には至らなかったようだ。僕は安心感から、小さく肺をしぼませた。
桂場はただ動物の死体があったから、怪訝に思い眺めていただけなのだろう。なぜこんな道を利用したのかは知らないけれど。
僕は道から腫瘍をどかそうと足を伸ばしたのだが――ちょうどそのとき、どこからか話し声のようなものが聞こえた。どうやら建物と建物の間にある私用通路からのようだ。
僕はこっそりと足を進め、壁に背を押し当てる形で片目をそこに覗かせた。設置されている配電盤の影から、大きな手がはみ出ている。あれは桂場のものだろうか。
「――……駄目だ。と、取り込むまえにに、し、死んだ。ぼ、ぼくの部分がやられていたから、あ、あれはどうしうようもない」
「あ、あれはなんて?」
不自然なほど枯れ細った声が、そう質問した。
「お、女の居場所が、ある程度し、絞り込めたらしい。や、やっぱり、あちら側だった」
「わかった。つ、伝えておく。お、お前も準備をしてて、おけけ」
「まだ、使える時間は長くない。もう少しな、なじまないと……」
女? 居場所? 何を言っている?
桂場らしくない話し方と、言動に戸惑いを覚える。それはまるで、この前目にした五号のような口調だった。
もっとよく聞こうと、首を伸ばしかけたところで、急に会話が止まった。あたりが突然静寂に包まれる。
まさか、ばれた……?
僕が焦りを募らせた瞬間、右側の塀から中年女性の顔が飛び出した。掃除中だったのか、箒の柄のようなものが、半分ほど見えている。
「あれ? 話し声が聞こえたんだけど、気のせいかなぁ……?」
どうやら、会話をしていた二人は彼女の気配を察知して、この場を離れたらしい。
女性は怪訝そうに首をかしげて、さっさと元の作業に戻っていく。
彼女が覗いていた位置には、鳥の羽のようなものが、ひらひらと舞っていた。
僕は息をつき、その場に座り込んだ。胸の中で、太鼓が鳴っている気分だった。
姿は見えなかったが、今の声は間違いなく桂場のものだ。普段の彼からは想像もできないほど、異様な空気と圧迫感を含んだ声だった。
一体誰と話していたんだ。豪胆な桂場がこそこそと話をしているのもおかしいし、見つかりそうになって逃げるなんて、らしくない。それに、あんな狭い変な場所、二人も人間が入れそうには見えなかったけれど。
姿の見えない人物との会話。どこからか聞こえる奇妙な声。
疑問に引きずられるように、僕は自然と日々野さんの話を思い出した。様子がおかしくなった少女と、その付近で目撃されるという、動物の噂を。
土の上に伸びている腫瘍の残骸と、その右方向に転がっている猫の死体を眺める。
あの甲高い枯れ細った声は人間のものとは思えなかった。それに昨日僕が殺した五号のような口調――
まさか桂場が……? いや、でも……
桂場は少女ではない。ガタイのいい大男だ。だが、太一の例もあるし、確かに最近奇妙な行動はよく見られた。
行動と、動物の存在。噂話の内容とは微妙にずれもあるけれど、それでも符合している点は多い。
そうだ。生物に寄生できるのならば、もっとも効率がいい方法は、得物のいる可能性がある場所に、もぐりこませることじゃないか。それこそ、生徒として――。
まだ、断定はできない。できないけれど、どこか心の中で、僕は桂場が寄生されているかもしれないという疑惑を、強く感じ始めていた。




